一章 ― 1
やっと女の子が出ます!カワイイヤッター!
怒髪天を衝く天空神の癇癪たるや天変地異も斯くや。
降りしきる雨は清流を運ぶ穏やかな大河を、泥砂を巻き上げ進む荒ぶる濁流へと豹変させ、吹き荒れた風の凄まじさは根元からへし折れた大樹の凄惨さが雄弁に物語る。
だがついに空から分厚い雨雲が東の空に昇った太陽によって駆逐されると、陽光が闇に沈む深き森を照らす。しかしそれでも深き森の『深き』と言う所以を崩すには至らない。
この森を象徴する大樹は高さにして五〇メートル、直径一〇メートルを下るものは無く、それこそがこの森を常しえの宵の国として日の当たらぬ陰湿なものたらしめている。なにせこの大樹が枝葉を広げれば地上に居る者が光をあまねく拝することは困難となり、そのあまりの大きさに太陽は聳え立つ大樹の隙間から木漏れ日のカーテンを張り光を届けるものの、湿気が産んだ青みを帯びた霧が森の深淵を覗くことを阻む。
なるほど鬱蒼と言う言葉以外この深き森を表す言葉を人は見つけることは出来ないだろう。だがこんな魔境であっても命の営みは尋常の森と同じく感じることが出来る。
その寿命を迎えて久しいのだろう、緑一色の苔に覆われた倒木は、かつて在りし日は天をも穿つ大樹であったことを伺わせる。だが今やその身を大地に横たわらせ涅槃し朽ちるに任せ、根・幹・枝、そして葉の一枚までをも昆虫や蚯蚓、微生物と言った生き物が今日を生きる貴重な糧として供している。また切り株として僅かに残る大樹の陰には、いずれ新たな大樹となろう芽が小さいながらも堂々たる佇まいで大地に根を張り佇立する。この芽もまた、この大樹が倒れねば、大樹の陰で日の目を見ることなく枯れ果てたであろう命の一つである。
大自然の恵みを享受するのは草木や昆虫だけではない。大樹の芽の脇をそそくさと通り過ぎ、倒木をよじ登り自慢の前歯で樹皮をはがし腐った幹を貫き、その中で惰眠を貪る丸々と太った蚯蚓を鼠は小さな両手で掴みながら胃袋へと収めた。すると今度は後背への注意を疎かにした鼠を突如舞い降りた影があっと言う間に宙にへと攫う。鋭い足指で鷲づかみにされ、次の瞬間には大烏の胃袋へ収まることとなる鼠であったが、今際の際に見た景色は普段見ることの出来ない絶景であったことだろう。しかし樹上へ連れ去られた鼠は大烏によって一口で食べられてしまったことから察するに、真に鼠が今際の際に見た景色は大烏の胃壁であったかもしれない。
草木を食べる草食昆虫が肉食昆虫に食べられ、肉食昆虫は小型の哺乳類や鳥に捕食され、それらを絶対的捕食者たる肉食獣や猛禽類が食らい、生者必滅の理に従い死ぬと大地へ還り草木の養分となり果てる。
善と悪。人が決め、人と人との間でのみ解釈される概念では決して計ることの出来ない自然がここには息づいている。生きるために殺し、食べ、殺され、その死が他の生き物を生かす。これほどまでに単純で、これほどまでに明瞭さに満ちた理論は他に存在しない。数億年の命の営みによって導き出された完璧なる理論を前に、高々数百年の間に人間がこじつけた空虚で浅はかな論法は真っ向から打ち砕かれる。
よって、次なる獲物を求めて翼を広げた大烏が音も無く飛来する矢によって、たちどころに頸を射抜かれ絶命するのもまた単純かつ明瞭さに満ちた理論が完璧であることの証左である。
一矢の下に大烏を仕留めた狩人が、昨夜の雨が産んだ朝靄のカーテンを押しのけ現れた。
湿気を受けても艶と滑らかさを失なうことのない、まるで夜をそのまま湛えたような美しい長髪。そしてその黒い髪とコントラストを引き立てる磁器のような白さを湛えた肌。その美貌は噂に違うことなく美しい妙齢のエルフがそこには居た。
その美貌とは裏腹にエルフはたった今仕留めた大烏の足を押さえ、憂いを帯びた目と深窓の麗人のよう容姿からは想像出来ない慣れた手つきで手際よく血抜きを行うと、羽を毟られ鳥肌を浮かべる肉袋を腰にぶら下げ再び歩き出した。その後姿は何かを探しさ迷っているように感じられた。
彼女のブーツは泥が何層も重なり固まっていたことから、かなり長い時間歩き続けていることは確かだった。だが、時折立ち止まり地べたに膝をつき地面を触れたり、腰元ほどの高さの木の葉を念入りに観察しては再び歩き出すと言うことを何度も繰り返している。その不可解な様を意味ある行為に当てはめるならば、その様は間違いなく追跡のそれだ。
狩りを行う上で自然の中に残された僅かな獲物の痕跡を探す術、それがトラッキングである。だが代表的な足跡の追跡は雨水によって不可能ならしめられている。よって彼女に残された探索方法は木々に残された僅かな形跡を探す他無い。事実として彼女はそれらから幾つかの人為的な痕跡を発見し追跡に成功している。明らかに何者かによって踏み折られた木の芽、手で掴まれたように不自然に折れる木の枝、まるで道しるべとして刃物で傷つけられた木の幹、そして何よりも明確な手がかりを発見する。
「見つけた……」
真新しいと思われる深紅の血で化粧した葉が見つけると黒髪のエルフはすかさず指笛を吹く。
「なにか見つかりましたか?」
するとほどなくして後ろから、白磁の肌と美貌は同じくしながらも、その黄金の髪をエルフに語り継がれし神々の教えの一つ「勝気な娘の髪はよく伸ばし、両側頭部で纏める髪型とせよ」との教えを守り、左記の髪型としているエルフが現れた。
黒髪のエルフが振り返ることなく血のついた葉を見せ付けると金髪のエルフは思わず息を呑んだ。
「血……そんな……リウィア姉さん、まさかそんなことって……」
その表情に悲しみと絶望の影が瞬く間に差し込む。大きな葉一面に飛び散る血は致命傷を意味していた。それが獣の血であればどんなに良かったことだろう。だがその葉はそれら獣が届く高さには無い。
黒髪のエルフ、リウィアと呼ばれた彼女はすっくと立ち上がると同時に歩き出した。
「ユリア、前をお願い。この先にあの子が居るかもしれない」
「……わかりました」
金髪のエルフ、ユリアは震える手で後ろ背の矢筒から一本の矢を弓に番え、痕跡を消さないよう注意深くリウィアを先導する。だが頭の中は先ほどの血塗れの葉が最悪の事態を想起させ、その恐れが全身に伝播してしまっている。それを、すぐ後ろを歩くリウィアは見逃さなかった。
「ユリア」
振り向いたユリアの顔を柔らかい何かが包み込む。今だけは姉の豊満な胸に比べ謙虚な己のそれに屈辱を抱く余裕など無かった。優しく背を撫でる姉の手と甘い香りと仄かな温かさが全身の緊張を解きほぐしていく。穏やかな慈愛に包まれ彼女の震えは何時しか収まっていた。
「安心して。きっと無事よ」
「……はい!」
必ず探し出す。その決意を元に二人は歩き出したが直ぐに不可解な出来事と遭遇する。点々と軌跡を残す深紅の血痕を追うと一本の大樹へと繋がっていたのだ。事実、その大樹にもべっとり赤々とした血が、背中を寄りかからせたとみられる形で残されている。しかし、リウィアは顎に手を当て怪訝な表情を浮かべる。
『たしかあの子の背は私の肩までしか無かったはず。でも大樹に残された血痕は私の身の丈より大きくなければ残すことは出来ない……』
そして何よりも如実に残された血塗れの手の跡。自らの手を翳すリウィアのそれより明らかに一回り大きい。
得られた痕跡は疑問の芽に水をやるだけであった。だがこの森に残された人為的な痕跡はこれしかない。分の悪い賭けだとしてもその賭けに乗るほか無い。
既知外の存在を心の端に感じながらも、点々と続く血の痕跡を慎重に辿る二人は、ほどなくして血痕がぽっかりと洞の空いた大樹の前で途切れていることを知った。
洞の中は暗く全貌が掴みにくいが、大樹の直径は一〇メートルほどあるのだ。中に人が居てもなんらおかしくはないし、負ったであろう傷は痕跡として残された血の量からして予断を許すものではない。
ユリアは急ぎ腰元に吊り下げられたカンテラを外し、ポーチから油の入った小瓶を取り出しカンテラへ注ぎ、火打石で火を灯し洞へと足を踏み入れる。すると五メートルほどいったところで呆気ないほど早く横たわる影を見とめた。そしてそれは彼女たちが探し求める存在であった。
「アリア!?だいじょ……!?」
思わず駆け寄った彼女がカンテラを落とさなかったことは賞賛に値する。洞の中で横たわるエルフの少女、アリアの可憐な容姿と比較し、そのそばで力なく壁に背もたれる長髪と髭の青年は地獄や幽霊船から出張してきた死体の類にしか見えない。にもかかわらず驚く妹を尻目にリウィアは動じることなく冷静に青年の体を調べ始めた。
「……死んでる?」
おっかなびっくりそれを肩越しに見守るユリアが呟く。全身血まみれで衣服も引き裂かれている青年の現状を見て、生きているのか死んでいるのか万人に判断させれば、万人が死んでいると答えるだろう。だがリウィアは躊躇無く青年の胸に耳を押し当て瞳を閉じ耳を澄ます。多種族の聴力を圧倒的に優越するエルフの聴力が弱々しくも必死に生きようとする命の鼓動が聞き取った。
「生きてるわ。どうやら眠ってるみたい。あなたはアリアの様子を見て」
「わ、わかりました」
血のついた右耳を拭きながらユリアに指示を出すとリウィアは満身創痍の青年の体を丹念に調べ始めた。それで分かったことは、青年の胸は弱々しくもたしかに上下しているものの、その体に負った傷は凄惨を極めていることであった。
「ひどい傷……」
最早傷を負っていない場所など無いのだろうか、皮膚を裂き肉まで届く四条の引っかき傷や、骨が露出するまで穴の開いた噛み傷。それを負ったときの痛みと苦しみは尋常のものではないだろう。幸いにして首より上に目立った傷は無いがリウィアは理解した。青年は何時死んでもおかしくない状態であると言うことを。
「あぁ、よかった……姉さん、アリアには傷一つないです!」
対するアリアはどう言うことだろうか、気を失い衣服を含め体中には血こそついているが青年の体が衣服ごと引き裂かれているのに対し、傷はおろかほつれ一つ見受けられなかった。
ユリアはその事実を深く考えることなく単純に安堵し、今まで体を戒めていた緊張からようやく解放されたのだが、もう一つの問題は依然としてすぐそばで転がっていた。
「その人間、どうしますか」
ユリアは答えを待つことなく矢を番えた、その間わずか正味二秒ほど。何百、何千と行われた所作に迷いは無い。銀色の鏃は青年の心臓を狙う。
人間を含めた多種族とエルフの関係は、その間に絶望的な溝が茫漠なまでに広がっている。まして地に伏す二人を見つけた場所は彼女たちの村にほど近いのだ。安住の地を荒らされることの多いエルフが、招かざる客人たる人間が村の近くに存在していると言う事実に神経質な態度を取ることを誰が責められようか。当然それに同意すると思われた彼女の姉は矢を引き絞るユリアの手を優しく抑え制止し、事実を淡々と紡ぎ出すように言った。
「この傷ならどんなに持っても夕暮れまでには死んでしまうわ。だから貴女の弓を血に塗れさせることは無いの」
銀色の鏃と正対してもなお全く動ずることのない人間の青年の始末は、時間が解決してくれる。それは忌むべき人間が日暮れ前に勝手に死に、その躯を大小様々な生き物により糧とされることを意味した。そうであるならと他ならぬ姉に諭されユリアは弓を下ろした。
「なら帰りましょう。アリアも見つかったことですし」
「そうねユリア、貴女はアリアを背負ってね。私はこっちの彼を背負うから」
「わかりま……はぁ!?つ、連れて帰るんですか!?」
この森に住むエルフであるがゆえに、この森が織り成す自然の迷宮の複雑怪奇さは誰よりも理解している。だからようやく帰れるのだと意気揚々とし始めたユリアは姉が言った前半の言葉に同意することは問題ない。だが続けて放たれた後半の言葉は許容ならざるものであったのだろう、彼女の言葉は非難めいている。
「今ある薬草だけじゃ足りないしここでは本格的な手当ては出来ないわ」
薬師としての心得があるリウィアはポーチから血止めの薬草を取り出し口に放る。舌を刺す苦味を意に介さず咀嚼しながら、動物の胃袋で出来た水筒から清潔な水を惜しげもなく注ぎ患部を洗う。そして綺麗になった脇腹の患部に柔らかくなった薬草を吐き出し包帯で挟み圧迫する。雪のように純白を湛えていた包帯が見る見るうちに血色に滲んでいく。やはり先ほどの予想の通り長くは持ちそうに無い。手持ちの包帯と薬草が限られる現状、この青年の命を永らえさせるには早く村に連れて行く必要があった。
「こいつは人間なんですよ!?連れ帰ったら長様に怒られますよ!?」
エルフならば当然の心理として姉の行為と発言を咎めるユリア。だがそれを意に介すこともない姉の青年を癒す手は止まらない。
「ここに放置する訳にもいかないでしょ。それに急がないと本当に死んでしまうわ」
「何言い出してるんですか!放置すべきです!もしこの人間が村で悪さをしたらどうするんですか!」
「その時はその時で改めて殺せばいいでしょ。手負いの人間に私たちエルフが劣るとでも?」
リウィアの最後の言葉は随分と不遜であったが事実である。エルフの複合弓を引くことの出来る種族はオークやギガースと言った膂力に優れた体躯を持つ種族以外に存在しない。その弦の強靭さゆえに尋常の弓と比べエルフ弓の圧倒的に優位は揺るがせないのだ。そのエルフが死に掛けの徒手空拳の人間に劣るなど万に一つも無いのだ。だがそれでもユリアの表情は怪訝であった。
「見て」
死に体の人間一人に右往左往させられる妹にリウィアはため息交じりに青年を指差した。
「それからアリアの身体を見なさい」
短い言葉であったが姉の言いたいことは理解出来た。尤も、理解出来るが承服は出来なかった。
「この人間がアリアを狼から守ったっていいたいんですか!?だからってこの人間が悪人じゃないって証拠にはならないでしょう!」
「ならこの人間がアリアを誘拐したと?」
「どう考えてもそれしかないです!実際に村から誘拐された同族は数知れないんですから!」
語気を強めるユリアのその言葉はエルフと人間の間に横たわる暗い歴史の証であった。
「でも彼は奴隷商には見えないわ。それにいくら奴隷商が強欲で傲慢だといっても、自分の命を投げ出してまで商品を守るかしら。むしろ自分の命が大事なら商品を置いて狼の餌にして逃げるはずでしょ。だからこの場合、彼はアリアを守って必死に歩き通しここで力尽きたって考えるほうが自然だと思うわ」
「私が言ってるのは余所者を村に入れることがどれほど危険なことか……って!無視しないで下さいよ!」
口を動かしながらも的確な応急処置を終えたリウィアは食って掛かる妹を尻目に青年を背負い歩き出した。対するユリアも急いでカンテラの火を消し、そばで横たわるアリアを背負い追いすがる。
「長様に怒られても私知らないですからね」
「心配しなくても長様には、貴女は精一杯私を止めたって言ってあげるから心配しないで」
「私の身なんかはともかく、人間なんか連れ帰ったら姉さんに類がどんな目にあうかを言ってるんです!」
「心配してくれるのね。でも私が自分の一生をどう使おうと勝手でしょ?」
「そういう問題じゃ!」
「……それに、家族に類が及ぶなんてことはないもの」
「姉さん……」
その言葉はリウィアとユリア、この二人が血を別けた姉妹でないことを意味した。それでもユリアがあくまで人間を村へと連れ帰ろうとするリウィアを止めるのは、人間憎しの感情のみで行っていると言うより、血は繋がらずとも本当の姉として慕うリウィアが、人間を村へと連れ帰ることで、村中から非難を浴びることを危惧しているからであった。
「もー!」
自分の言葉を一顧だにしない姉に、ユリアは華奢とは言え人一人を背に乗せながらも、器用に非難の地団駄を踏み叫んだ。その叫びは姉に対する非難と言うより、姉を言い負かすことの出来ない自分の貧弱な語彙に対する歯がゆさや、もどかしさに起因しているようだった。
「もういいですよ私は止めましたからね!ったく……」
こうなった姉の意思は梃子でも動かすことが出来ないことを一二〇年の付き合いでユリアはよく知っていた。そんな諦観し憎まれ口を叩く妹を尻目にあっけらかんとした口調でリウィアは言った。
「見てユリア。彼の髪、私と同じ色をしているわ」
「はいはい、そうですねぇ。……まさかその人間が黒髪だから助けるんじゃ」
「さぁ、どうかしら」
「黒い髪なんて人間の間じゃ珍しくもないでしょうに……」
「そうね。少なくとも人間の間ではね……」
「い、いや、決してそう言う意味で言ったんじゃないんです!わ、私は好きですよ黒い髪!特に姉さんの髪は真っ黒で烏の羽みたいで!」
「烏みたい、ね……。煌びやかな羽を持つ森の鳥の中でも浮いた存在……まるで村での私ね……」
「いや、で、ですから、烏って言うのは言葉のあやで!」
「………………」
「うぅ……姉さぁん…………」
「……ふふふ、冗談よ」
「え…………あ!また私をからかったんですね!」
帰路に着く二人のエルフの掛け合いは徐々に小さくなり、その姿は森の中に消えていった。