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序章Ⅱ

「瞳を閉じているのと変わらない」


 この夜闇を形容するにこれほど適した言葉は無いだろう。ボロ布の如く薄汚れた風体の男は継ぎ接ぎだらけの薄汚れた外套(マント)をはためかせ、暗闇から唐突に現れ林立する木々の合間をすり抜け、降りしきる雨でぬかるむ汚泥の上を腕に抱きとめたエルフ少女と共に駆ける。雷鳴と雨音の隙間に滑り込むように聞こえる獣の咆哮が徐々に、そして確実に彼我(ひが)の距離を縮めつつあるからだ。


 男の腕の中で意識を失い続けている可憐なエルフの少女。ここがもし漆黒が支配する森ではなく月光下に開かれた舞踏会の会場であり、男が絶世の美男子であれば、さながらそれは御伽噺(おとぎなばし)の中から飛び出してきたような光景となりえるのだが、男の風体は伸び生やされ手入れされていない髭と髪から山賊や浮浪者の類の他にその容姿を説明出来なかった。だが時折吐き捨てるように(こぼ)れる怨嗟(えんさ)声色(こわいろ)から、男がまだ年若い青年であることを指し示していた。しかし死を司る神を前にして老若男女は区別足りえない。その死神に加担するのか風は雨を運び青年から体温を奪っていく。青年はこの世の悪意を全身に受けているように感じ、腕に抱きとめた少女をより一層強く抱く。


 男はともすれば倒れそうになる身体を叱咤(しった)しなお走る。男がここで歩みを止めれば、刻一刻と容赦なく上昇を続ける断頭台の刃が、己の命だけではなく抱きとめている少女をも殺めるのだと言い聞かせながら。


 しかしどんなに奮起したとしても、体を舐めるように纏わりつく不快な湿気、肌を刺す木々の葉の痛み、軋みをあげる木々と風鳴り、その全てが青年には恐ろしかった。まるで地獄へと緩やかに傾斜していく坂を全力で疾駆(しっく)しているかのようにしか感じられなかったのだ。


 刻一刻と迫りくる恐怖を前に、青年は次の瞬間には身体をずたずたに引き裂かれ野晒しのまま死に朽ち果てるのではないかと言う想像を巡らせては強引にそれを振り払う。だがそれも事ここに至り現実のものとして再現されることを覚悟しなければならなくなってしまった。もうすぐそこまで響いている荒々しい獣の咆哮から逃れることが不可能であると分かってしまったからだ。


 青年は大きく息を呑むと意を決して立ち止まる。


 もはや逃げおおせることが出来ない。であるならばと、抱きとめた少女を地に横たわらせ、少女を庇うように腰元に下げた短刀を抜き放ち構えた。刃渡りにして四〇センチ、うっすらと反り返る片刃の刀身が、暗雲の隙間から僅かに顔をのぞかせる月光に彩られ闇夜の中でうっすらと光る。


 それと時を同じくして木々の合間から幾つかの光点浮かび上がる。その数は三つや四つでは足りない。光の数を数える度に青年の顔には怒りややるせなさ、そして諦めにも似た表情がわずかに伺えた。そして光点が徐々に大きくなるにつれ闇と影の境界線に紛れたシルエットが浮かび上がり、青年に対する死刑宣告が下された。


 青年は今一度再び大きく息を呑むことを強いられた。十頭ほどの狼の群れが獰猛な犬歯をちらつかせながら、うなり声をあげ木々の合間から現れたからだ。青年は何度となく大きく息を呑み、泣き叫びたくなる心に鍵を掛けた。


 青年の肺腑は酸素を求め吐息も大きくなる。心臓に至っては身体に酸素を送るためか、あるいは身体を強張らせている緊張からか、どちらにせよ胸郭を内側から破裂させてしまいそうなまでに早鐘を打っている。双肩は呼吸を整える為に上下し、短刀を持つ手は武者震いか、はたまた唯の恐怖からか、いずれにせよ後者であることを否定出来ないほど震えている。


 対する狼はうなり声を上げ犬歯を剥き出しに威嚇するが、その実、数の利を生かし冷静に青年を包囲すると各個が与えられた役割を完遂するべく、群れのボスの号令の下に突撃できる準備を終えていた。


 その差たるや、この世は往々にして狩られるものと、狩るものによって回り続けていることを一枚絵として示しているようだった。だがその威容を前に(すく)み怯えることを誰が責められようか。しかしその一瞬の怯みこそが命取りであり、獰猛な森の狩人にとって非力な人間の命を奪うことなどその一瞬の隙で十分であった。

 

 しまった、などと口を動かす暇も無く真後ろから感じる殺気。それに合わせ僅かに青年の耳が捉えた踏み折れる木の枝の音。するどい直感が青年を突き動かした。半ば反射的に振り返るとそこには研ぎ澄まされたナイフのような牙と、天地が裂けんばかりに開かれ青年の命を刈り取らんとする狼の口が広がっていた。


 青年が咄嗟に首を守るために突き出した左手が生死を分けた。だがその代償はあまりに大きかったことを次の瞬間知ることとなる。狼の顎は既に青年を正確に捉えており、青年には最早逃れようがなかったのだ。


 剣山のように並び立つ犬歯が青年の左腕の肉を容赦なく切り裂き(えぐ)る。青年の表情が一気に苦痛に歪むと同時に何匹かの狼が我こそがと青年に襲い掛かる。ある狼は足に、ある狼は脇腹に食らいつき、身体のあちこちで狼が激痛の震源地として爪牙を振るい暴れ回る。

 

 身を切る痛みと恐怖から右手の刃を使うのでなく半ば反射的に左手を振るい狼を引き剥がそうとするが、狼たちは決して放さぬと青年の腕を噛み砕き、肉をえぐるように頭を上下左右に振る。されど青年には痛みに悲鳴を上げる暇は無い。


 雷鳴に紛れ甲高い悲鳴が森に響くのと青年の短刀が夜闇に紛れて煌いたのは全く同時であった。


 逆手に持ち替えた短刀が、傍らで力なく倒れる少女に踊りかかろうとした狼の首を貫いた。青年は迷わない。全体重をかけこのまま一気に刺し穿つ。苦痛に悲鳴を上げ悶える番が狼に回ってきたのだ。


 頚椎と神経を切断し一撃の下に狼を絶命させても青年の刃はまだ止まらない。脇腹へ食い下がる狼の耳を一撃で削ぎ落とし蹴散らすと、短刀が今度は前腕に食らいつく狼の喉下へ吸い込まれる。


 くぐもった声で悲鳴を上げた狼の喉元から、突き立てられた短刀が勢いよく引き抜かれると深紅の血が我先にと短刀の後を追うように流れ出る。血の泡を吹き狼の顎の力が弱まるのを感じたが、なおも短刀を振るう青年の手は止まらない。短刀はまるで血を欲する吸血鬼のように狼から滴る血を求め再び喉元へ飛び込む。それと同時に再び狼が苦痛に満ちた悲鳴を上げる。


 短刀が虚空と狼の喉元を幾たびか往復した結果、獰猛な森の狩人は(あぎと)による戒めから青年を解放するや力なく倒れ、一、二度弱々しく胸を上下させると何時しか物言わぬ躯となると同時に、この場に漂う空気は一変する。


 溺れるほど血を被り短刀を構える青年の震えは完全に止まっていた。


 さしもの狼も二体の仲間が絶命したことで初めてこの狩りが容易ならざるものであることに気がついた。狼たちは強かに打算する。狼の脳裏には、今ここでこの人間たちを殺め胃袋に収めたとしても、群れの半数が殺されては敵わない。手傷は負わせたのであればあとは消耗するのを待つのみと狩りの常套が浮かび上がっていた。狩人は狡猾にして冷静であるのだ。狼たちは一旦青年から距離をとり威嚇しながらも一匹、また一匹と夜闇の中へ溶け入った。


 狼が逃げ去ってもなお青年は短刀を虚空に向け続けた。体を伝う雨が体中から流れ落ちる血を洗い(そそ)ぐが、血は留まることを知らない。それからはたして何分たったことか。鈍痛を響かせる全身が正常な時間の判断を鈍らせていたが、ここでようやく青年は短刀を下ろした。


 青年と横たわる少女は束の間とは言え一命を取り留めたのだ。だが狼二頭を殺すことは並大抵のことではなかった。その代償は全身に負った傷が物語っている。最も痛々しい前腕の傷は皮膚を貫き肉を断ち切る狼の鋭利な歯によって穿たれ歯型が残されている。脇腹も同様で、背中もまた身に付けた服ごと爪牙によって引き裂かれている。


 膝をついて息を切らす満身創痍となった青年とは対照的に、傍らに横たわる少女の胸は穏やかに上下している。念には念をと体を調べるが、青年とも狼とも分からぬ返り血を幾らか浴びているだけで体に異常がないことに安堵すると、青年は晴も根も尽き果ててしまいその場に座り込み全く動けなくなってしまった。


 青年の持ち合わせた道具では、止め処なく流れ出る血を止める術も無く、傷口からあふれ出る血が蝋燭から滴り落ちる蝋を思わせ、暗く寒く孤独が支配する密林の中で頼れる者も無くたった一人で彷徨う恐怖と絶望を青年に味合わせた。

 

 思わず神を呪うように見上げた夜空は無慈悲にも青年を突き放すように雨粒を叩きつけ拒絶する。


「死にたくない」


 青年の背中を容赦なく打つ雨はまだ止む気配を見せない。

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