第9回
病院から娘が車に轢かれて危篤状態にあると知らせを受けた老夫婦は急いで車に乗り込むとその病院へ向かった。病院までは約600メートルで遠くはない。二人を乗せた車が一時停止した時、ショートヘアーの若い女性が車の前に現れた。その女性は何か叫んでいたが、老夫婦は何と言っているのか分からなかった。女性は運転席の方に周り、運転席にいた老人は恐る恐る窓を開ける。
「助けてください!」女性が叫んだ。この時、老人は女性が泣いていることに気付いた。
「あなた、助けてあげましょう。」助手席にいた老人の妻が言う。
妻を見た後に老人は再びショートヘアーの女性を見た。ふと彼は自分の娘と助けを求める女性の姿を重ねた。
「乗りなさい。」老人は後部座席を指差して言った。女性は礼をして後部座席のドアを開けて乗り込む。車を走らせる前に老人が助手席の妻を見ると、彼女はやさしく微笑んでいた。
何かが砕けるような音が聞こえると同時に老人の目の前が真っ赤に染まり、柔らかい何かが顔に降りかかった。後部座席から悲鳴が起こる。状況が理解できない老人は何もできなかった。突然、助手席のドアが開いて見知らぬ男が顔を覗かせた。
「少し汚してしまったな…」そう言うと男は老人の頭に銃弾を撃ち込んだ。男は次に後部座席で叫んでいる新村に銃を向ける。「少し黙ってくれないかな?まだ殺さないから。」守谷は運転席と助手席を占領していた老夫婦を外に押し出す。
「止まれー!!」叫び声が夜の住宅街に響く。守谷が振り返ると銃を持った捜査官が二人いた。
「早いじゃないか。」守谷は捜査官たちに向けて発砲しながら助手席に乗り込む。すると、後部座席にいた新村が守谷の首に腕を巻きつけた。
“小賢しい真似を…”守谷は新村の髪を引っ張り、激痛に耐えられなかった新人捜査官の腕から力が抜ける。テロリストは素早く首に巻き付いていた腕を振りほどくと新村に銃口を向けた。
「頭を吹き飛ばされたくなかったら大人しくしてろ。」
午後から胸にまとわりつく違和感に西野は嫌悪感を抱いていた。大型商業店における武田の追跡時から彼は自身でも理解できない違和感を抱いていたが、それを表に出さないようにできるだけ努力した。しかし、隠れ家H07での出来事は西野の自制心を壊そうとしている。西野は制限速度を無視し、走る車を次々に追い越しながらH07に向かって走っている。広瀬は西野の異変に気付いていたが、彼は新村の件が済むまで口を噤むことにした。
着信音が車内に響き、広瀬が素早く電話に出る。
「広瀬だ。現状は?」
「テロリストが新人を連れて車で逃走しました。」
「確かなのか?」
「はい。この目でそれを見ました。」
捜査官からの報告を聞いて広瀬の頭に血が上った。「何故、助けなかった!」
「テロリストが発砲してきたので…」
「撃ち返せ、バカヤロウ!」
「しかし…」
「車のナンバーは?」
「すみません。写真を撮ろうと思ったんですが、電池が切れていて…」
広瀬は呆れて何も言えなかった。「車種は?」
「グレーのカローラだったと思います。」
“全く役に立たない情報ばかりだな…”
「他に何か手がかりになるようなことはないのか?」
「えーと…」
これ以上何も得るものがないと考えた広瀬は一方的に電話を切って西野を見た。
「手がかりは?」西野が言う。
「ほぼゼロだ。強いて言えば、グレーのカローラか?」
「黒田に増援を送るように連絡してくれ。何としてあの野郎を捕まえるんだ!」
二人を乗せた車が交差点に入ろうとした時、猛スピードでグレーのカローラがSUVの前を通り過ぎた。それを見るなり西野は急ハンドルを切ってカローラを追い始める。
「ハンドルを頼む」そう言うなり西野はホルスターから銃を抜き取り、広瀬は急いでハンドルを握って数十メートル先を走るカローラに目を戻す。西野は残弾数を確認するとアクセルを踏みながら身を窓から乗り出し、カローラの右後輪に標準を合わせて発砲した。
撃たれていることに気付いた守谷は振り返って西野たちが乗るSUVを確認すると、運転席にいる新村の頭に銃を押し付けた。涙によって目が真っ赤に腫れ上がっている彼女はただ車を運転することしかできない。
「加速しろ!曲がり角を見つけたらどっちでも構わんから曲がれ。下手なことをすれば頭を吹き飛ばすぞ!」テロリストは後部座席に移動し、窓から腕だけ出してSUVに向けて数発撃った。
銃弾が飛んできても西野は怯まずに右後輪に向けて何度も発砲したが、銃弾はタイヤに当たらずホイールやバンパーに命中するだけでその内に銃弾の底が尽いた。一度西野は運転席に戻って予備弾倉のホルスターに手を伸ばしたものの、そこにはもう予備弾倉は無かった。
「銃を貸せ!」西野が前方の車を目で追っている広瀬に言う。広瀬は黙ってホルスターから自分の銃を抜いて西野に渡す。
「大事に使えよ。俺も予備弾倉は持ってない。」
「分かってる!」
西野は再び窓から身を乗り出して銃を構え、今回は慎重に照星をタイヤに合わせる。そして、カローラから銃声が消えたと同時に西野は二度引き金を引いた。一発目はホイールに命中したが、二発目はタイヤに命中した。これによってカローラの速度が落ち、西野たちとの距離が数メートルに迫った。
「クソッ!加速しろ!!」守谷が銃を新村の頭に押し付ける。
「む、無理です!タイヤがパンク―」
「うるせぇ!早く何とかしろ!!」
カローラが交差点に差し掛かると、守谷は後部座席から手を伸ばしてハンドルを握って右に回す。乗用車は大きな弧を描いて右に曲がり、その際に左バンパーを電柱にぶつけた。
テロリストの動きを見た西野は急いで運転席に戻ると右急ハンドルを切り、彼と広瀬が乗るSUVは守谷と新村が乗るカローラの背後に付いた。
“もう少しだ。あとちょっとだ…”西野が心の中で呟いた。そして、守谷も同じことを思っていた。
乗用車が再び交差点に差し掛かろうとしている。西野は再び運転席から身を乗り出しカローラに向けて発砲しようとした時、広瀬が突然叫び声を上げて西野を車内に引きずり戻した。何事かと西野が広瀬を見ると、黒いバンが対テロ捜査官二人を乗せたSUVに向かってくるのが見えた。西野はSUVの速度を上げようとしたが時すでに遅く、黒いバンはSUVの左後部に突撃した。二人の捜査官を乗せたSUVはバランスを崩し、180度回転してガードレールに激突、その後、停止した。黒いバンの運転手はそれをサイドミラーで確認すると、守谷を迎えに行くために急いだ。
誘拐犯からの電話を待ってもう4時間は経とうとしている。窓の付近とドアにいるSPは視界の隅に警護対象を入れて、できるだけ議員に顔を向けないようにしていた。誘拐犯からの電話の後、SPの班長が小田完治に移動するよう説得を試みるも失敗に終わり、彼の家族だけ緊急用に用意して置いたホテルへ送った。SPは議員の家族がホテルに移動することを知れば、議員もホテルに移動するかもしれないと期待を抱いていた。しかし、小田は事務所に留まると言って動こうとしなかった。二人のSPの視界の隅で椅子に座っている小田完治は瞬き一つせずに数分前に刑事が持ってきた資料に目を通している。その資料には懐かしい友人たちとその家族の写真が添付されており、その他に彼らの略歴などが書かれていた。
“何か見落としている物があるはずだ…”小田完治は何度も何度も資料を読み返し、気になる箇所があると下線を引いたり、単語に丸を付けたりした。窓の付近にいたSPは小田が狂い始めたのではないかと不安になって、何度か視線を議員の方に送った。
“誘拐犯は「やっと思いだしてくれましたか~」と言った。つまり、彼らと今回の事件に何らかの繋がりがあるはずだ。いや、ある。”
小田は既に4度は目を通した一人目の友人の資料を顔の近くまで引き寄せて一字一字を目で追う。紺田智、53歳、会社員。2009年8月4日の7時13分頃に駅のホームに飛び降りて死亡。自殺。その数日後、紺田氏の家族(妻と息子二人)の死体が自宅で見つかる。死因は練炭による一酸化中毒。紺田氏の自殺が原因であると思われる。
二人目。森本成幸、54歳、国家公務員。2009年8月4日の7時頃、自宅アパートの屋上から飛び降り自殺。その5日後、近所の川で森本氏の妻と娘の水死体が発見される。
「菊池か…」小田が呟いた。「菊池の子供だ…」議員は椅子から立ち上がって部屋から飛び出した。二人のSPは急いで小田の後を追う。
「菊池だ!菊池信弘だ!!」小田が刑事たちの部屋に入るなり叫んだ。「あいつの子供が仕返しに来たんだ!」
部屋にいた細身の男性刑事が小田の横に移動して椅子に座るように勧め、その間に現場責任者である刑事が小田のところにやってきた。
「菊池信弘とは誰ですか?」現場責任者である禿頭の刑事が尋ねる。
「元京都大学の法学部教授だ。2年前の…」小田はここで言葉を詰まらせた。彼は適切な言葉を考えていた。「2年前の事件で死亡している。彼の息子はその事件に私が関与していると思い込んでいるに違いない!」
「どのような事件だったんですか?」と刑事。
「彼は…とある政府施設を…攻撃しようとしていた…」
「なるほど。」刑事は訝しみながら言う。「こちらで調べてみます。菊池信弘さんでしたよね?」
「そうだ。」
刑事はその名前をメモ帳に書き込むと部下にそれを手渡した。
「早く見つけてくれ。娘の命が―」
「分かっています。」そう言い残して刑事は議員の前から立ち去った。彼はこれ以上小田の叫び声を聞くつもりがなく、それに小田が所属している政党が好きではなかった。
小田が振り返ると二人のSPが待機していた。議員と目が合った途端にSPは目を逸らそうとしたが、その前に小田が立ち上がって一人のSPに近付いた。
「頼みがある。私の家族を守ってくれ。アイツはきっと先に私の家族を殺すつもりだ。」
「最善を尽くします。」SPの一人が応えた。彼はすぐに携帯電話で議員の家族を警護しているSPに連絡し、警護を強化するように要請した。
狐のように細長い目をした男がバタフライナイフを取り出し、器用に振り回して刃を出した。
「バトルクリーク・ブローを思い出すね~」中島が男のナイフを見て言った。
細長い目の男は中島の言葉を気にせず腰の位置でナイフを構えると、だぶだぶの服を着た中島に向かって突進した。男と中島の距離は2メートル弱だったので二人の距離はすぐに縮まり、細長い目の男はナイフを持った右手を素早く突き出す。中島は男が手を動かす少し前に体を横にして右側面を男に見せると右拳を顔の前に運び、ナイフが突き出されると同時に彼は右拳を水平に振った。ナイフの刃は中島の腹部から数センチ離れた場所を通り、中島が放った拳は吸い込まれるように男の鼻に直撃した。細長い目の男の鼻はこの一撃によって砕けて血が噴き出した。中島の攻撃はまだ終わっていない。右拳を振った際の遠心力を利用して左手に逆手で持っていた金属バットを肘で固定しながら、それを水平に振って男の喉にぶつけると勢い良く振りかぶって細長い目の男を床に叩きつけた。
この攻撃の最中に中島はソファーに腰かけていた金髪の金沢とその交際相手、未だに股間を抑えて床で丸くなっている大柄の男を確認した。周りの安全を確認するとSAT隊員は振り返って背後を確認する。小さく口を開けて中島を見る宮崎と刑事と同じく驚いている青白い顔をした男しかいない。中島の視線を感じると青白い顔をした男は寄りかかっていた壁から離れて刃渡りの短いナイフを取り出した。
「最近の若者は暴力的だね~」中島が男に歩み寄りながら呟く。
中島との距離が縮まると青白い顔の男は奇声を上げながらナイフを振り回し始めた。
“助けないと!!”宮崎は右手に持っていた催涙スプレーを取り出す。刑事がそれを使う前に中島は左手に持っていた金属バットを男に向かって投げつけた。 バットを投げつけると同時にSAT隊員は男との距離を縮める。ナイフを振り回していた男であったが、自分に投げつけられたバットを見た途端に手を止めて防御の姿勢に入った。金属バットが男の右腕に当たった直後、中島はナイフを持った男の右手首を掴んで右掌底を男の顔面に叩き込み、さらに彼は男の頭を壁に叩きつけた。この一撃で男は気を失い、糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。
“どいつもこいつも使えねぇな…”ソファーに腰かけていた金沢はため息をついた。“あんなおっさん相手に…”
「ちょっと聞きたいことがあるだけなんだけど、いいかな?」中島が上着の袖口をいじりながら言う。「暴力は嫌いだし…」
「いいけどよ~」金髪の男はソファーから立ち上がるとダウンジャケットを脱いだ。「仲間やられて、そうすんなり『はい』とは言えねぇだろうよ。」
「そう言われてもこっちから始めたわけじゃ―」
「うっせぇぞ!!」金沢が突然怒鳴り、彼の交際相手と宮崎は驚いて身を少し引いた。
「そんなこと言われたってね~オイラは暴力が嫌いなんだよ。」中島は両手を肩の高さまで上げて、戦う意思が無いことを示した。
「もう遅せぇよ、おっさん。俺が本当の強さっていうのを見せてやるよ…」
弾倉を抜くと佐藤はそれを上着のポケットに入れ、ライフルは布で包んだ。準備は至って単純であったが、それでも問題はある。中年男は彼と行動を共にしている本間のグループが邪魔で仕方がないと考えている。一人での仕事を好むこの男にとって問題はそれくらいであった。
佐藤は布に包まれたライフルを部屋の天井裏に押し込み、弾倉は黒いビニール袋に入れ、部屋にあった椅子の下にガムテープで貼り付けた。あとは待つだけであった。その時、中年男は上着の内ポケットから振動を感じ、部屋を後にしながら携帯電話を取り出して電話に出る。
「頼んだものが手に入ったんですか?」電話に出るなり佐藤が尋ねた。
「はい。」受話口から男の声が聞こえてきた。本間から電話と思っていた中年男は憤慨した。
“部下に電話をさせるとは…”
「本間さんはどこにいるんですか?いたら変わってもらいたいですな。」
「彼女は今手が離せないので…」
「そうですか。」そう言うと佐藤は電話を切ってエレベーターに乗り込む。
“無礼な奴らだ。”
エレベーターが1階に着く直前に彼の携帯電話が再び振動し、中年男はサブディスプレイを見て同じ番号からの着信だと確認するとエレベーターから降りるまで電話に出なかった。
“こちらにもプライドというものがあってね…”佐藤は渋々電話に出ると一言も発せずに相手が話し始めるのを待った。
「もしもし?」受話口から本間の声が聞こえた。
「本間さんですか?」佐藤は出口に向かいながら尋ねる。「お忙しいと聞いていましたが…」中年男は女が答える前に皮肉を付け加えた。
「申し訳ありません。あれは部下の勘違いです。」本間は佐藤の態度が気に食わず、内心腹立っていたが、平静を装って言った。「あなたが言っていた物が手に入りました。いつでも取りにいらしてください。」
「それはありがとうございます。」
「しかし…」佐藤が電話を切ろうとした時に本間が話し始めた。「もう、あなたの出番は無いと思いますよ。」
「どういうことですか?」間を置かずに佐藤が言う。
“また、くだらないことをしようとしているのか?”
「使える駒が手に入りました。彼が全て終わらせてくれますよ。」
「堀内のことですか?」と中年男。
「彼ではありませんが、彼が指揮を執ることになるでしょう。ですから、あなたはもうこの仕事から下がった方がいいでしょう。」
「分かりました。」佐藤は苛立ちながら携帯電話を一方的に切ると車に乗り込んだ。
“ここまで侮辱されるとは…”彼は携帯電話をポケットに戻そうとしたが、途中でそれを止めた。“確認を取ろう。もしかすると、既に次のプランに移っているかもしれない。”
佐藤は携帯電話に登録されていた番号の一つに電話をかけ、相手はすぐ電話に出た。
「そっちに向かっている最中なんだが…」男が電話に出るなり言った。
「ということは、そちらの仕事は終わったんですか?」
「いや、まだだ。だが、すぐに終わるだろう。それより、何の用だ?」男が尋ねる。
「あの方に電話しようと思ったのですが、あなたの方が適任だと思ったので…」
「要件は?」男が怒気を込めながら言った。
「本間が堀内を使って仕事を終わらせようとしています。ゆえに私は無用だと…」
「無視しろ。どうせ、俺の部下があの女の後片付けをする。アンタはあの男だけに集中しろ。あとは俺と彼でなんとかする。それでいいか?」
「はい。やはり、あなたに電話して良かった。それでは私の仕事が終わり次第また電話します。」
「よろしく頼む。」
救急隊員がペンライトの明かりを追うように西野に尋ね、彼は言われたとおりに左右に眼球をゆっくり動く明かりを追う。
「俺に問題はない。」
「皆そう言いますけど、たまに問題が見つかることもあるんです。」救急隊員はペンライトを胸ポケットに収めると西野の両目を覗き込んだ。「異常は見られませんが、何かあったらすぐに病院に行ってください。」
「そうする。ありがとう。」
そう言い残して西野は応援に来た捜査官たちの所に急いだ。広瀬は既に彼らと話しており、西野が来るのを待っていた。一通りの検査を終えた西野が仲間と合流すると広瀬が西野に携帯電話を渡す。
「支部からだ。」
「何の用だ?」と西野。
「状況報告だろう。支部は通常運転さ…」
「いつも通りだな…」西野は携帯を受け取ると仲間の輪から離れて電話に出る。彼は小野田か奥村の声を期待していたが、西野を待っていたのは予期していなかった相手であった。
「冷静になって欲しい。」男が言った。「君の大切な部下のためにも…」
「誰だ?」
「君に蹴られたお腹がまだ痛むよ。」守谷はわざと情けない声を出して言った。
「お前ッ…!!」
「さっきは危なかった…もう少しで捕まるところだった。それより君と話しがしたい。」
西野は振り返って広瀬を見つけると手を振った。しかし、広瀬は同僚たちに状況説明とテロリストの特徴を教えていたので、西野に気付いていなかった。
「一応、逆探知しようなんて思わないで欲しい。振ってる手を下してくれ。」
“見られている?”捜査官は手を下すと頭を動かさずに視線を動かして周囲を伺う。
「話しの通じる人で良かった。それじゃ話しの続きをしよう。今から言う住所に来て欲しい。」
「新村はどこだ?」
「そのことで話しがあるんだ。住所は―」守谷が西野に住所を告げ、西野はそれをメモ帳に書き留める。
「1時間後にそこで会おう。二人きりだ。もし、約束を破ったら君の部下も仲間も全員消えてもらう。分かってもらえたかな?それでは待ってる。」
「おい!」
西野が新村に関することを聞き出そうとしたが、守谷は一方的に電話を切った。
野村は小木の情報提供者の携帯電話から女性の名前を一つ発見した。名前は荻原由香で26歳のフリーター。野村はこの女性が情報提供者の交際相手だと想定するとネズミ取り本部にこの女性について調べるように要請した。荻原はトリーマーを目指すために朝は短期大学に通い、夜は自宅から近いレストランで働いている。これを知った野村と小木はそのレストランに向かっている。一方、小木は警察に隣の部屋から異臭が漂うと通報し、後始末を警察に任せることにした。
20台の車は収まるであろうレストランの駐車場は深夜であるために車が3台しかなかった。駐輪場には3台の自転車と1台のスクーターしかない。レストランの出入り口に近いところに野村は車を停めて外に出た。小木は右手でベルトに挟めてある拳銃を抑えながら車から降りる。彼としては銃が落ちないようにしたことであったが、野村からは小木が腰に問題を持っているように見えた。
「大丈夫ですか?」レストランのドアを開けながら野村が尋ねる。
「何が?」部下の質問の意図が理解できなかったので小木は腰から手を離して尋ね返した。二人がレストランに入ると自動的にインターホンが鳴り、奥の方から「いらしゃいませ」という声が聞こえてきた。それと同時にメニューを持ったウェイトレスが小走りで二人の方に走ってくるのが見えた。
「腰ですよ。まだ痛むんですか?」野村が言う。
「問題ないよ。かなり前の傷だし。」
「小木さんが腰を抑えていたので、まだ傷が痛むのかと思ったんです。」
“そういうことか。コイツから見れば腰を擦っているように見えたのか。”
「大丈夫だ。まだ、そんなに衰えてないって。」
二人が話しをしている間にメニューを持ったウェイトレスがやってきて野村と小木を空席へ案内しようとした。しかし、野村はそれを遮って上着の内ポケットからネズミ取りの捜査官用に作られた偽の警察手帳を取り出してウェイトレスに見せる。
「警察です。荻原由香さんとお話しをしたいのですが、こちらにいらっしゃいますか?」野村が笑顔を浮かべて言った。
「荻原さんはもう仕事を終わって、今着替えている最中だと思います。」20代前半に見える小柄のウェイトレスが応えた。
「申し訳ありませんが、呼んできてきれませんか?」
「ちょっと待ってって。」
ウェイトレスはメニューを持ってキッチンの方に走って行く。
「あの子、可愛いな。」小木が小声で隣にいる部下に言う。
「そうですか?僕はもうちょっとぽっちゃりした方が―」
「お前はそっち系だったな。忘れてたよ。」小木は野村の話しを遮った。「それより、これからどうするつもりだ?」
「軽く話しをしようと思ってます。」無表情で野村が応える。
「お話しね~」
小柄のウェイトレスが茶髪で彼女より少し背の高い女性と共に野村と小木のところに戻ってきた。
「荻原由香さんですか?」野村が茶髪の女性に問いかける。
「そうですけど何か?」荻原は野村と小木を見ずに答えた。彼女は少しサイズの大きな黒いパーカーと細めのジーンズを身に纏っている。
“今どきの子だな”と小木は思った。
「梶原さんのことで少し聞きたいことがあるんです。」荻原の態度を気にせずに野村は話しを続ける。小木の情報提供者の名前を聞いた途端に茶髪の女は野村に視線を向けた。小柄のウェイトレスの視線を感じながら野村は荻原の反応を見て何か知っていると確信した。
「彼の死体が自宅で見つかりまして、他殺の線で捜査しています。梶原さんの携帯電話からあなたの連絡先が見つかったので、何かご存じないかと?」
「知らない。」間を置かずに荻原が吐き捨てるように言った。
「どのようなことでも構いません。ここ最近、彼に―」
「知らねぇって言ってんだろ!」茶髪の女はそう叫ぶと二人の捜査官を押しのけてレストランから飛び出した。だが、野村は荻原の腕を掴んで彼女の動きを止める。「離せよ!」荻原が黄色い声を上げた。
「やましいことが何もなかったら、なんでそんなに向きになるんだ?」小木が野村に代わって茶髪の荻原に問いかけた。
「そっちが威圧するからだろ!」
「してないよ。」小木はベルトに挟めてある銃の様子を手で確認しながら言う。
彼らが口論していると背の高い長髪の男がレストランに入ってきた。小柄のウェイトレスは反射的に応対しようとした。その男は野村を睨み付けている。
「タケシ!」荻原が長身の男を見て叫んだ。「こいつら警察なんだけど、すごいしつこいんだよ!」
男は交際相手の腕を掴んでいる野村を睨み付けながら距離を縮める。それを見た小木は一歩下がったが、野村は動じずに近づいてくる長身の男を見る。
「由香から離れろ。」低い声で男が言った。男は野村とほぼ同じ身長であるが、体格は男の方が大きかった。灰色の上下スエット姿なので男の正確な体型は確認できなかったが、肥満ではないだろうと野村は推測した。
「彼女とはどのような関係ですか?こちらは聞き込みの最中なんです。」野村は冷静に対応した。
「任意だろうが!」突然、男が怒鳴った。長身の男は野村が驚いて引き下がると思ったが、相手は顔色変えずに視線を男の顔に置いている。
「任意ですけども、法的に彼女を署まで同行させることもできますよ。重要な証人になりえるので…」
「うるせぇ!任意は任意だ!!」男は荻原の腕を引っ張り、野村は大人しく彼女の腕から手を離す。長身の男は荻原と共に外に出た。
小木が二人の後ろ姿を追っていると、野村も外に落ち着いた歩調で出て行く。
“どうする気だ?”小木は急いで野村の後を追う。
「ちょっと待ってください!」野村が黒いミニワンボックス車に向かって歩くカップルの背中に向かって言った。荻原は一瞥を野村に向けたが、彼女の交際相手は真っ直ぐ前を見て歩き続ける。
「ちょっと!」
野村がもう一度叫ぶと長身の男が振り返り、捜査官の方に向かって大股で近づく。二人の距離が縮まると長身の男が拳を振り上げて野村に殴り掛かった。男の動きはボクシングのフックに似ていたが、スピードはそこまで早くなかった。捜査官は男の攻撃を左腕で防ぐと、その腕を男の右腕に絡みつかせて固定し、右拳を長身の男の顔面に叩きこんだ。野村は間を置かずに右肘を男のこめかみに打ち込み、この二打を受けた後に荻原の交際相手は地面に崩れ落ちた。
何事もなかったかのように捜査官は立ち尽くしている荻原に向かって歩を進める。小木は周囲に目を配って目撃者がいないか確認した。もしも誰かがこの状況を見れば警察に通報するかもしれない。荻原は殺されると思い、その場に座り込んだ。野村は彼女の前まで来ると右手を彼女に差し伸べる。
「梶原さんについて何か知っていることがあれば教えて欲しい。」野村の口調は穏やかであった。
「わ、私は、ただアイツの携帯電話の電話帳から番号を抜き取れと言われただけだよ!」荻原は差し伸べられた野村の手を無視して言う。「そうしたら、10万くれるって…」
「誰が頼んだ?」小木が野村の隣に来て尋ねた。
「知らないおっさんだよ。これからお金をもらいに行く約束してる。」
「そのおっさんの特徴と金の受け取り場所を詳しく話してくれないかな?」野村は小木が話し始める前に言った。小木は気が付かなかったが、荻原は野村の口元が一瞬緩むのを見た。
“な、何で笑ってんの?”
「30代くらいの背はアンタと同じくらいだった。」小木を指差して荻原が言う。「場所は朝陽高校の第一グラウンドの倉庫前。」
「男の目的は分かるか?」と小木。
「知るわけないじゃん!」
「小木さん、ここはもう十分です。金の受け渡し場所に行った方が確実かと…」小木よりも4つ年下の捜査官が小声で先輩捜査官に囁いた。
「だが!」小木は食い下がったが、部下の顔を見て考えを変えた。野村は黙ってネズミ取りから支給された車の方へ歩を向ける。
“何だアイツの表情は?”野村の後姿を見て小木は思った。“何でアイツ笑ってんだ?”