第5回
先行するのは西野と広瀬。二人は公園を出ると二手に分かれ、広瀬は真っ直ぐアパートへ、西野は遠まわりしてアパートに近づく。先行の二人が動いている間に新村は広瀬が用意してくれた化粧道具で崩れた化粧を直し、仕事帰りのOLに見えるように黒いビジネスバッグを持って準備を整える。
若松が車の外でタバコを吸いながら周囲を警戒していると新村が車から降りてきた。化粧によって彼女の顔色は良く見えたが、未だに目は沈んでいる。
「大丈夫か?」新村を見た若松が心配になって尋ねた。
「大丈夫です。西野さんたちは?」
「もう出たよ。次は俺たちの番だ。」
「カップルの設定ですか?」
「いや、別々でコンビニに入る。お前が先行だ。俺は少し遅れてからここを出る。」
「できれば公園の出口まで一緒に行動できませんか?」
当初、西野は長時間コンビニで行動するには二手に分かれた方がいいと考えていた。一人が
立ち読み客を装い、もう一人が商品を確認する振りをする。前者は男性、後者は女性との役割が合うと西野は思っている。新村の心理状態を気遣う若松は二人同時にコンビニへ入るべきだと主張したが、同僚捜査官はそれを一蹴して広瀬と共に公園を後にした。
若松が公園の出口を見る。車通りが多く、たまに通行人も見える。コンビニまでの距離は約450メートル。
「それはできない。」
新村の目に涙が溜まっているのが見えた。
“襲撃を受けて混乱している新人に捜査の続行を強制するほうが狂っている。”
「車に乗れ!」若松が運転席に乗り込む。
状況が上手く飲み込めなかった新村は混乱した。
「乗れ!」
若松は運転席から手を伸ばして助手席のドアを開け、新人捜査官が乗り込むと車を走らせた。
「どこに行くんですか?」目に溜まった涙をハンカチで拭いながら新村が尋ねる。
「コンビニの駐車場でも監視はできるだろう。それに守谷つう野郎が車かバイクでも使って逃げた場合はすぐに追跡できる。」咄嗟に浮かんだ理由を言いながら若松は自分が正しいと思った。
“西野も間違いを犯す。アイツのやり方通りで行けば、車などを使われて逃走される。スカウトされたから何だつうんだ。俺とアイツの違いなんて何もない!”
途中で若松は移動中の広瀬を追い抜いたが、彼は広瀬の姿に気付けなかった。一方の広瀬は若松に気が付いた。
“俺を追い抜いてどうするんだよ…”
広瀬は若松と新村が乗った銀色の乗用車を確認した。それは駐車場の隅、レジカウンター側に停めてあった。彼らを確認しても広瀬はすぐに視線をコンビニに移して店内に入る。一通り店内を確認したが、明らかに不審人物と思われる人物はいなかった。店には眼鏡をかけた背の高い店員一人と雑誌のコーナーに若いカップルが一組、アルコールコーナーに子供連れの中年男性しかいない。
雑誌コーナーを眺めるふりをして斜め向かいにある5階建てのアパートの周囲に目を配る。誰もいない。
“西野が来るまで数分あるだろう。”
適当に雑誌を取ると広瀬はページを捲りながら外の様子を伺う。雑誌を戻した時にアパートの入口に近づく西野を見つけた。焦ることなく広瀬はゆっくりと歩き出し、背中にやる気の無い店員の「ありがとうございました」という声を受けて店を後にする。若松たちの方を見ずに小走りで道路を渡った広瀬はアパートに入って行く西野の横に付いた。
「どうしてアイツらが駐車場にいるんだ?」西野が広瀬に尋ねる。
「お前の指示じゃなかったのか?」
「車を使えとは言っていない。それに二人で行動しろとも…車で行動するにしても、最低でもあの付近の民家の前に停めるだろう…」
「俺に言われてもね~」広瀬がアパートのドアを開ける。
西野を先頭にドアを抜けて2階に着くと、西野は住所が書かれたメモ用紙を取り出して広瀬に見せた。205号室。
彼らの近くにある部屋が202号室であった。二人はドアの番号を追いながら移動して目的の部屋を見つけるとインターフォンを押した。少しの間があった後にドアが少し開いて女性の顔が見えた。
「どなたですか?」女性が尋ねってきた。
「警察です。少し聞きたいことがありまして…」西野は銀行でも使った偽の警察手帳を見せる。
女性の容姿は今どきの女の子といった感じであった。茶髪、薄めの化粧、紺色のワンピース。一見、真面目そうに見える。
「何でしょうか?明日、仕事があるので早く寝ないといけないんです。」
“部屋を間違えたか?それとも、メモが間違っているのか?”
「守谷という男性を探しているんです」西野は回りくどいことを言わずにストレートに尋ねた。
女性の顔に変化が無い。目も西野たちの方に向けられており、手足にも何の反応もなかった。
「知りません。そんな人。その人、何かしたんですか?」
“やはり、間違いか…”
「この近所でストーカーの被害にあった女性がおりまして、守谷という男がそのストーカーじゃないかと―」
女性の部屋の奥から物音が聞こえた。
「誰かいるんですか?」西野は先ほどまで続けていた言葉を切って尋ねる。
「はい。ケンちゃん、いや、彼氏がいます」咄嗟に交際相手のあだ名を口に出した女性は頬を紅潮させた。
「会えますかね?その彼に?」
「ちょっと待ってください。」女性は後ろを振り向いて「ケンちゃーん」と叫んだ。しかし、反応が無かった。「すみません。ちょっと待ってください。」
そう言って女性が室内に入って行くと、室内の様子を見ることができた。最初に部屋の突き当りにある窓が見えた。窓から視線を移動させようとした時に男の姿を確認した。だが、男は西野たちの方ではなく窓の方を向いている。
「西野、あれはひょっとすると…」広瀬が男の動きを見て言う。
男は窓を開けると外へ飛び降りた。それを見た女性は交際相手の名前を叫びながら窓の方に走る。広瀬が西野の方を見ようとした時、彼の相方は窓に向かって走り出した。
「若いね~」
広瀬は無線機を取り出すと階段に向かって走り出した。
窓から外を見ていた女性を押しのけて西野が外を見る。彼は白い乗用車を踏み台としてアパートの塀を越えようとしている男を見つけた。窓の真下を見ると赤いSUVがあった。
“あれがあったから飛べたのか…”
「ケンちゃんはどうして窓から飛び降りたんですか?」女性が西野の腕を掴んだ。
「後で説明しますよ。」
西野は女性の手を振り払って窓から飛び降りた。SUVの上に着地した彼は素早くその真向かいにあった白い乗用車の上を駆け上がってアパートの塀を乗り越える。そして、細い路地を走る男の姿を見つけた。距離は約7メートル。西野は男に追いつくために走り出す。その途中で無線機を取り出すと仲間に指示を出す。
「マルタイはアパートの東塀を乗り越えて路地を逃走中!」
駐車場に回っていた広瀬はため息をつくと、若松たちと合流しようとコンビニに向かった。若松と新村が乗った車は信号待ちによってできた車列によって動けなかった。
「車列が消えたらこっちに来い!」広瀬は車を諦めて走って西野の援護に向かうことにした。
「了解」若松は内心の苛立ちを表に出さないように返事した。
“どうしてこんな時に渋滞に遭うんだ?!”
車列が動き出し、若松はアクセルを踏み込んだ。勢い良くアクセルを踏んだため、彼の車は前にいた車にぶつかった。男を追うことが最優先と考えた若松は後退し、その車を追い越して走り去った。被害にあった車の助手席にいた女性は車のナンバーを携帯電話のカメラで撮影しようとしたが、写真機能が作動する前にその車は走り去った。
男が曲がり角を右に曲がった。西野と男の距離はまだ縮まっていない。西野が曲がり角に達した時に自転車が飛び出てきて、危うく衝突するところであった。自転車の男が「危ねぇじゃねぇか!」と叫んでいたが、捜査官はそれを無視して再び走り出す。
二人は人通りが多い場所を走っている。男は振り返って後方を見た。逃走している男は追跡者との距離を測りたかったが、それが裏目に出た。男は歩行中のスーツ姿の男にぶつかって転んでしまった。急いで立ち上がって走り出そうとすると、スーツ姿の男に片足を掴まれた。
「こら~ぶつかっておいて、謝らないのか~」赤ら顔のスーツ姿の男が言う。
男は右拳でスーツ姿の男の顔面を殴り、追跡者との距離を確認しようとすると西野の拳が男の胸に叩き込まれた。男は素早く反撃に出たが、西野はそれを防ぐ。この瞬間、西野はスキンヘッドの男のことを思い出した。捜査官は男の左肩を両手で掴むと何度も何度も右膝蹴りを男の腹部に入れた。あの時の恐怖が全身を包み、それを取り除こうと彼は男を蹴り続けた。そうすることで恐怖が消えると思った。
この西野の行動は多くの野次馬を惹きつけた。皮肉にもそのお陰で広瀬と若松は仲間の位置を特定できた。西野は無我夢中で男を蹴り、男が力尽きて倒れかかってきても蹴り続けた。突然、背後から西野は引っ張られ、蹴り飛ばされていた男は床に崩れ落ちた。
「落ち着け!」広瀬が叫んだ。
その声で西野は我に戻って周囲を見た。多くの人々が彼を向いている。
「ひとまずここから出るぞ!」
広瀬は倒れた男を担いで路肩で待機していた若松の車に追跡対象者を放り込み、西野は仲間を追って車に乗り込んだ。それを確認した若松は車を走らせる。
「大丈夫か?」広瀬が気を失っている男の手をプラスチックの手錠で縛りながら西野に尋ねる。
「大丈夫だ。少しやり過ぎただけだ…」
「それならいいが…」
西野は誰にも気付かれていないと思っていたが、広瀬は西野の手が震えていることに気づいていた。
“黒田に連絡しなければならないな…西野と新村はもう使い物にならないと…”
~~
監視は対テロ対策として重要な仕事であると同時に最も退屈な仕事であると西野は思っていた。彼は乗用車の運転席に座り、後部座席には一眼レフカメラを持った細身の男が座っている。男は車から200メートル程離れた場所にある家をカメラ越しに監視しており、家のドアが開く度に男はシャッターを切っていた。
「常連さんばっかりだな…」男がカメラから顔を離す。「しかも、男ばっかり。たまには美人を撮りたんもんだよ。そう思わないか、新人くん?」
「そうですね。」運転席にいた西野は話しを全く聞いていなかったので適当に返事を返した。
「素っ気ないね~。まぁ、構わないけど。」
「斉藤さんはどれくらいここで働いているんですか?」対象者が住む家から目を離さず西野が言う。
「半年くらいかな?俺たちのグループは最近できたもんだからな。」細身の斉藤は再びカメラに顔を近づける。「そう言えば、君のファイルを読ませてもらったよ。」
西野は対象者の家から目を離し、ルームミラー越しに後部座席を見る。鏡に男は映っていないが、反射的に西野は視線を移動させた。
「興味深いファイルだったよ。」
西野は何も言わずに鏡越しに後部座席を見ている。
「1年間の潜入捜査とは驚いたよ。でも、個人的にはその後の話しに興味があるんだ」斉藤がカメラから顔を離し、ルームミラーに彼の顔が映った。「君には交際相手がいたね?」
西野は首を縦に振った。この時、彼の脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。
「しかし、潜入捜査のため別れるしか道がなかった…悲しい話しだ。それに、その交際相手は君が潜入捜査中に死んでしまった…」
斉藤の話しは西野に届いていなかった。西野は脳裏に浮かんだ女性のことを考えていた。
「警察の話しでは彼女は君を失った数か月後に投身自殺を図ったと…」細身の男は西野の顔を見ず、再びカメラに顔を近づける。「それに彼女は君の子供を授かっていたそうじゃないか…」
「違う話しをしませんか?」西野が怒気を込めながら言う。
「もう少しだけ話させてくれよ。すぐに終わるから」対象者の家からサングラスをかけた小太りの男が出てきたので斉藤がカメラのシャッターを切った。「君の交際相手が亡くなった後、彼女の上司が失踪しているんだよ。奇妙な話しだと思わないか?」
運転席にいる西野は斉藤の方へ首を回す。「偶然じゃないですか?」
「かもしれない。でも、もし、君の交際相手の死と彼女の上司の失踪が繋がっていたら面白いと思わないかい?誰かがその上司を殺したのかもしれない」斉藤は言い終えると口元を緩めた。しかし、カメラが彼の顔を隠していたので西野はそれに気づけなかった。「俺が君ならその君の仇を討ってくれた人に会って感謝の言葉を送ると思うな。」
「過去は過去です。元交際手のことなんて忘れていました。今の彼女で手一杯なので…」そう言って西野は顔を対象者の家へ戻す。
「クールだね。俺は嫌いじゃないよ~」
西野は嘘をついた。斉藤も彼の嘘に気付いていたが、これ以上の追及は無意味だと諦めた。西野の頭の中にはまだ亡くなった交際相手の顔が浮かんでいる。忘れようとする度に彼女と過ごした日々が彼の思考を支配する。
~~
女は時間を確認するとノートパソコンのディスプレイを見た。そこに表示されているのは無料ウェブ掲示板であり、そこには「客人が22時に向かう」と書かれている。
“あと5分。”
椅子から立ち上がって女は部屋の中を歩き出した。彼女は待つのが苦手である。全てを自分のコントロール下に置かないと気が済まない。
“計画は上手く進んでいる。それなのに…”
彼女は再びパソコンのディスプレイを見た。
“『客人が22時に向かう』。こんなのは計画に無かった!あの人は私を信用していない?私はちゃんと仕事をしている!武田が足を引っ張っているだけ!”
武田のことを思い出すだけで腹が立った。
“頼んだ仕事もできない。公安を一人捕まえたらしいが、どうせ有益な情報などアイツらは引き出せない…こちらに引き渡すように言っておけば良かった。アイツのしていることは公安に手掛かりを渡すようなもの…”
誰かがドアをノックした。
「どなた?」女は反射的にベルトに着けていたナイフを抜き取ってドアに近づく。
「木下です。客人がお見えになりました。」
「入ってきなさい。」部下の声を聞いた女は油断せずにナイフを持った手を後ろに回した。
ドアが開くと背の高い男と小柄の中年男が入ってきた。
“この男が客人?”
「あなたが本間さんですか?」中年男が尋ねた。
「そうです。」
女は男の身なりを見た。中年のサラリーマン、特に目立った特徴が無い男、というのが彼女の第一印象であった。前頭部が禿げ上がり、服装もくたびれた濃緑の上着と白いシャツに紺色のスラックス。
“これなら武田の方が使えそうだわ。”
「あなたの名前を聞かせてもらえるかしら?」
「佐藤です。」男は無表情で応えた。「突然ですが、お願い事をしてもいいですかね?」
「構いませんよ」女は近くにあった机に座る。
「その前に右手を見せてもらえますかね?」
“目は良いようね。”
本間はナイフを机に置いて右手を男に見せて両腕を組む。それを確認すると男は本間から離れて壁にもたれかかる。
「てっきり銃だと思っていましたよ。お願い事ですが、私の商売道具についてです。」
「商売道具ですか?」
女は男の話しが飲み込めなかった。掲示板には中年男が来ることしか書かれていない。
「彼から何も聞いてないのですか?」本間の表情を読み取って中年男が言う。
「何も聞いていないです。」
「そうでしたか…すみませんでした。計画が狂い始めているそうですね?」
「はい」会話の主導権が中年男の方に移りつつあることへの苛立ちを抑えながら本間が言った。
“この男は私を殺すために送られてきたのだろうか?だとしたら、ナイフを机に置いたのは間違いだった。投げるにしても時間がかかる…机の裏側に銃を隠しているが、それを取るだけの余裕があるだろうか?”
「あなたは私が後始末に来た人間だと思っている…」男は視界の隅に入れていた女の部下が銃に手をかけるのを見た。「しかし、私の役割はただの軌道修正です。」
“軌道修正?”
「それは私でもできます。」
「あなたができないから私がここにいるんですよ。」
男の歯に着せぬ言い方は本間を苛立たせた。
「彼はあなたのことを高く評価しています。私もあなたの仕事振りを評価しています。しかし、武田という男の扱い方が上手くない。」
“痛い所を突いてくる…”
「あの男はあなたにとってお荷物です。」男が話し続ける。「余計なことばかりして、さらにあなたの命も狙っている。武田の功績といえば―まぁ、これはいらない話でした。とにかく、私はあなたの計画全体に関わるつもりは無いです。私の仕事は武田の監視です。」
「何故、監視が必要なんです?」
「下手なことを、あの男に死なれては困るのですよ。まだ…」
「意味が分かりませんが…」
「あなたは今の計画を武田抜きで進めればいいのです。それと公安狩りを止めて下さい。これ以上、彼らの注意を引きたくないので…」
「しかし!私は彼のためになると思って―」
「それが裏目に出ている。良い結果も生みましたがね…」男は口元を緩めた。「話しを戻しましょう。私の商売道具ですが、拳銃です。」
「どのような?」
“何故、私たちに拳銃を手に入れるように頼む?自分でもできるだろうに…”
「9mm口径の拳銃なら何でもいいです。用意ができたら連絡を下さい。私はこれから武田に会いに行きます。」
「では、彼の住所を―」
本間が携帯電話を取り出そうとした時、男はそれを手で制した。
「必要ないです。もう知っているので…」
中年男はドアに向かって歩き出したが、足を止めて本間を見る。
「今度から銃は机の下ではなく、肌に身に着けた方がいいですよ。」
そう言い残して男は部屋から去り、それを確認すると本間は部下に部屋から出て行くように告げた。部下が退室すると女は顔を真っ赤にして机の脚を蹴り飛ばした。
警備員に尋問室の鍵を開けてもらうと黒田は室内に入った。黒田に気が付いた野村は椅子から立ち上がろうとしたが、黒田は留まるように手で制した。
「座っていて構わない」北海道支局長はドアの横に立ち、座っている若い捜査官を見下ろす。「西野の件だが―」
「何かあったんですか?」野村が身を乗り出して尋ねた。
“何がって…”黒田は不思議に思った。
「お前の話しは西野のことだろ?」確認のために黒田が言う。
「違います。」
「じゃ、お前の話しは何だ?ここから出して欲しいのか?」
“しかし、それだったら電話でも済む。まぁ、電話といっても警備員を通してだが…”
「出たいですが、その前に聞きたいことがあります。」
「何だ?」黒田は腕を組んで野村の話しに耳を傾けることにした。
「武田についてです。」
上司の目つきが変わったことに野村は気が付いた。
“あの様子からすると、まだ武田は捕まっていないみたいだな…”と野村は確信した。もし、武田が捕まっていれば野村はこの話しを止めようと思っていた。
「誰の情報提供者が武田の情報を送ってきたのでしょうか?」
黒田はため息をつき、期待すべきではなかったと落胆した。
「小木だよ。小木の情報提供者だ。彼は常に良い情報を持ってくる。事実、武田はあの大型商業施設に現れた。逃がしてしまったが…」
「その情報提供者に会えますか?」
「小木に聞け。アイツが運営者だ。話しはこれで終わりか?出るぞ。」支局長の黒田がドアノブに手をかけた。
「でも、小木さんは入院中では?」野村が急いで黒田に尋ねる。
「昨日退院したよ。自宅に行けば会えるだろう。」
ドアを開けた時、ある疑問が黒田の脳裏を過ぎった。
“何でコイツは尋問室に俺を呼んだ?密室で?俺を殴り倒すつもりだったのか?いや、ならいくらでもタイミングはあった…”
黒田は廊下に一度出たが、すぐに尋問室に戻った。ドアの前にいた警備員はその動きを不審に思ったが、すぐ左耳に差し込んだイヤフォンから流れている音楽に耳を傾けた。
「まだ、言いたいことがあるんだろう?」黒田は椅子に座った。
「少し気になることがあります。」
「何だ?」
「武田は囮ではありませんか?」
「どうしてそう思う?何か理由があるはずだ」黒田は内心面白い話だと思った。
「あの男の行動です。カメラの多い大型商業施設に現れて騒ぎを起こしたり、漁船を爆破させたりする行動はあまりにも…奇妙です。」
「大型商業施設の火災報知機については子供のいたずらとされている。武田は運が良かったのかもしれない」黒田が腕を組む。「それに漁船は追い込まれたから爆破したんだろう。」
“確かに派手だった。誰かの手引きを受けて派手な行動を取っていたのか?しかし、何のために?何か計画でも―推測なんて俺らしくない。”
「お前は武田が何者かの指示に従って動いていると考えているのか?そして、それに小木の情報提供者も絡んでいるとでも言いたいのか?」
「そうです。陰謀論みたいな話しですが、彼に指示を出している男が何か別の事件を起こそうとしているのかもしれません。」
「その陰謀論が真実ならどうする?」
「事件が起きる前に武田に指示を出している奴を見つけ出さないといけません。」
“今まで思いもしなかった方法だ。試してみるか…”
「もし、お前の推測が間違っていた場合、お前にその責任が取れるか?」椅子から立ち上がりながら黒田が尋ねた。彼は野村の反応を伺った。野村が視線を逸らしたり、固唾を飲んだりすれば、彼をデスクワークに回そうと黒田は考えた。しかし、野村の視線は真っ直ぐ黒田の目を見ていた。
「行動には責任が付き物です。」
“コイツの教育係に西野を押し付けたのが悪かったな…”そう思いながら、黒田はドアを開ける。彼を見た警備員は急いでイヤフォンを外してポケットに入れた。
「もう帰っていいよ」黒田が警備員に言う。「野村くんはこれから現場に出るそうだ。」
椅子に座っていた野村は立ち上がると尋問室から出て黒田の後を追う。
「捜査官は出せない。だから、小木と組め。どうせ、アイツの情報提供者に会わなければならないんだろう?」左にいる野村を見て黒田が言った。
「はい。」
「装備を整えてからだぞ。」
「と、いうことは…」
「言わなくても分かるだろう?」
黒田の許可を得た野村は武器庫に向かうために黒田と逆の方向に走り出した。黒田が分析官たちのいる場所に着くと奥村が近づいてきた。
「どうした?」歩きながら黒田が尋ねる。
「野村さんはどうなったんでしょうか?」
支局長は止まって奥村を見た。「現場に向かったよ。」
それを聞いた奥村の顔に笑顔が浮び、黒田は無視して再び歩き始めた。
“職場恋愛は仕事に影響を与えかねない…早めに手を打つべきか?”
黒田と話し終えた後に笑顔を浮かべて机に戻ってきた奥村を見た小野田は驚いた。常に奥村は黒田と話した後は俯いて机に戻ってくる。
「何かあったの?」と小野田が聞く。
「野村さんが尋問室から出て現場に向かったらしいの!」奥村の声は明るかった。
「武田の捜査に?」
「それ以外に何があるの?」
「だって、あの人はトラブルメーカーだから、無関係な捜査に回されたと思ったのさ。」
「そんなことない!」普段は大人しい奥村が大声を上げた。その声は個室にいた黒田の耳に届き、彼は何事かとパソコンのディスプレイから頭を上げた。
「野村さんは西野さんと違ってトラブルメーカーじゃないもん!」
「トラブルか?」黒田が部屋から顔を出して尋ねる。
「いいえ、問題ありません。」小野田は事が大きくならないように嘘をついた。
「できるだけ小さい声で話してくれ。心臓に良くない」そう言い残して黒田は自室に戻る。
「言い過ぎたよ。ゴメン!」
小野田が謝っても奥村は無視して作業を再開し、居心地の悪さを残しながら小野田も作業に戻った。
内閣安全保障室長が帰宅すると、数年前に妻が購入した焦げ茶色のミニチュアダックスフンドが出迎えてくれた。ミックと名付けられたこの犬は妻よりも内閣安全保障室長に懐いている。大学生の息子は部屋に引きこもり、最近は全く顔も合わせていない。妻は婦人会への参加、または若い男と遊んでいるので家に帰ることが少ない。ミックにすれば、村上だけが唯一触れ合える大切な存在であった。内閣安全保障室長もできるだけミックと仲良くしようと努力しているが、幼い頃飼っていた愛犬を失ったトラウマがあるために動物と触れ合う時はいつもぎこちなかった。
「ご飯は食べたか?」村上は飼い犬の隣に座って靴を脱ぎながら尋ねた。ミニチュアダックスフンドは村上の顔を見ながら舌を出して尻尾を振っている。
「ちょっと待ってろよ。すぐにあげるからな。」スリッパを履いて廊下を歩きながら村上はミックと共にリビングに入った。リビングにはミックの餌と飲み水、玩具がある。昔は全て村上の妻が用意していたが、今は村上がミックの物を用意している。餌の袋を持ち上げると固定電話が鳴った。時刻は23時。
“こんな時間に誰だ?”村上はミック専用の皿に餌を注ぐ。袋を元の位置に戻すと彼は固定電話のディスプレイを見た。知らない番号だった。
“出るべきか?もしかすると妻かもしれない。”内閣安全保障室長は受話器を持ち上げた。
「村上か?」受話口から吉村官房長官の声が聞こえてきた。
“こんな時間にアイツは何を考えている?”
「何の用だ?」苛立ちを隠しながら村上が聞く。
「不機嫌そうだな。まぁ、自宅なんてそんなものだ。お前も愛人の一人や二人作って羽目を外すべきだ。」
「そうかもしれないな…」
村上という男は幼い頃から父親に「女性は自分を破滅に追いやる」と教え込まれていたので愛人を作ろうと思ったことはなかった。また、彼の母親が不倫相手と蒸発したこともその原因の一つとなっている。
「そんな話しをするために電話をかけてきたのか?」
「違う。君は西條と違って話しが分かる人だ。そうだろ?」官房長官の話し方はまるで人を小馬鹿にしているような口調であり、それは村上を苛立たせた。
“頭が良いと思い込んでいるバカほど救いようがない。”村上はスピーカーフォンのボタンを押して受話器を電話の隣に置く。
「だとしたら何だ?」
「保険の話しをしよう。」
「保険?」
「そうだ。我々は杉本の提案からSATを使うことに決めたが、これだけ十分ではない。そう思わないか?」官房長官の声のトーンが低くなった。この男は真剣な話しをする時に声のトーンを低くする。村上はそれに気付いてスピーカーフォンを止めて受話器を持ち上げた。
「そもそも私は中島という男が信用できないんだよ、村上。それに私はアイツが嫌いだ。だから…そろそろ、彼に…消えてもらおうと思う。永遠に…」
この発言に村上は驚いた。正直、内閣安全保障室長は中島を殺そうとまでは考えていなかった。彼は中島がSATを辞めざる負えなくなれば、新しい就職先を与えるつもりであった。村上はあのSAT隊員の実力を間近で見たことがあるので、どれほど彼が優秀であるか知っている。
「彼も駒の一つだ。駒はいつでも補充できる。しかし、我々のような特別な人材はそのようなことができない」村上が何も言わないので吉村は話し続ける。「君も分かっているだろ?中島は小田を殺すかもしれない。なにせ、小田のせいで中島は部下を失った。弟のように可愛がっていた部下を…」
「それは分からない。」
「可能性はある。私は中島に全てを壊されないように、また、それが起きた場合の保険を作ろうと言っているのだ。」
「どのような?」村上が聞く。
「取り敢えず対中島用に元SAT隊員と…」官房長官は言葉を詰まらせた。「何と言えばいいのかねぇ~彼は…掃除屋かね?そういう人を雇った。」
“殺し屋と言いたいのか?そんなものが日本にいるのか?騙されているに違いない…”
「保険というのは中島のことか?」
「いや、中島はその一部だ。保険は別にある。」
“この男は何を考えている?”村上は電話を受けた時から不安を抱いていたが、それがこのような形で来るとは思っていなかった。
「何だ?」
「向田を党首にすることだ。」
「向田を?」
「彼は小田の代わりに総裁になるべきだ。」
“保身に走っているな…”
向田雄馬は吉村と村上が所属している斎藤派のメンバーであり、斎藤派は民政党最大派閥の池田派に次ぐ影響力がある。向田は以前の総裁戦に出たことがあるために顔は知られている。また、マスメディアは小太りで髪を丁寧に七三に分けた50代半ばの向田を高く評価していた。結果的に池田派の小川太一が総裁となったが、向田は持病持ちの小川はすぐに辞めるだろうと考えていた。それを見抜いていた小川は持病を持ちながらも何とか任期を収め、異例なことではあるが選挙後に総裁を変える提案をした。全ては自分の花道を作るためである。選挙に勝利した数週間後に小川は病気を理由に辞職し、同じ派閥の小田完治を据えるというのが小川太一と池田派が作ったシナリオであった。
「彼を総裁にしてどうする?」吉村の狙いを知りながらも村上は尋ねた。
「言わなくても分かるだろう?アイツを総裁にして池田派を壊すのさ。池田派はもう時代遅れだ。アイツらが総裁に据えようとしている小田もバカな奴だ。そろそろ時代に合った政治を行うべきだ。そのためには掃除が必要だ。政治はクリーンでなければいけないだろ?」
“やはり、そういうことか…”
「もうシナリオはできている。悪いが小田完治には舞台から消えてもらいたい。池田派最初の犠牲者は彼だ。」
「彼の娘はどうする?」
受話口から官房長官の笑い声が聞こえてきた。「そんなことはどうでもいい!」
“杉本に言ったことを忘れらしいな。”村上は数時間前に行われた官房長官とネズミ捕り局長の会話を思い出した。
「いいか?重要なことは向田を総裁にすることだ。小田の家族がどうなろうが、私には関係ない。今までこれを思いつかなかった自分が間抜けに思えるよ。」吉村のクスクス笑う声が聞こえてきた。
“最初から小田の娘を救う気なんてない。吉村はどうにかして向田を総裁にして有利な立場を得ようとしている。”
「せめて中島を始末することは中止にできないものかな?彼は優秀な―」
「諦めるんだ。もう既に私の雇った二人は動いている。どうして、あの男に肩入れする?お前はあの男を捨て駒にすべきだと言っただろう?」
「しかし、消す必要はないだろう…」
「あの男は駒だ。いや、ゴミだ。ゴミは役に立たない。」
受話口から吉村官房長官の名前を呼ぶ女の声が聞こえた。
「これから私はお楽しみの時間なんだ。じゃ、村上、続きは明日にしよう。」
相手が電話を切る前に村上は受話器を元の位置に戻した。足元を見るとミックが彼を見上げていた。彼を見る飼い犬の目は輝いている。
“昔は日本を変えようと思っていたが、今では派閥に振り回されているばかりだ…”内閣安全保障室長はしゃがんでミックの頭を撫でようとしたが、昔飼っていた秋田犬のことを思い出すとその手を膝に置いた。
「ミック、私は何がしたいんだろう?」