第3回
支局長の黒田は西野から不審人物を拘束したとの報告を受け、この人物が武田衛に繋がることを望んだ。とにかく、この情報は彼を安心させた。手がかりというものはできるだけ早く探さなければならず、少しでも遅れれば大惨事を見逃すかもしれない。
一安心していた黒田の部屋に二人の職員が入ってきた。一人は細身の男性、小野田良平。もう一人はふくよかな体形の女性、奥村由乃。
「どうした?」二人を見て黒田が尋ねる。
「モービル2との通信が途絶えました」小野田が先に口を開いた。
「どういうことだ?」黒田の眉間に皺が寄る。「モービル2は西野たちと行動を共にしていたはずだが…」
「そうです。しかし、全く連絡がつかないのです。GPSも試しましたが反応がありません」男性分析官がモービル2との交信記録文章を黒田の机に置く。
「衛星写真で確認は?」
「しましたが、どうやら木の陰に停車していたらしく確認できませんでした。」
「現地にモービル1を送って調べさせろ。おそらくサボっているのだろう…」
“きっとそうであるに違いない”そうであって欲しいと黒田は思った。
次に黒田は奥村の方を見る。彼女は突然支局長が自分の方を向いたのでたじろいだが、すぐに平静を取り戻した。
「野村さんの件です。」
奥村の声は非常に小さくて聞き取りにくかった。それでも黒田は何も言わずに耳を彼女の声に傾けた。途中で大きな声で言えと言ったとしても、効果はないと判断したからである。
「黒田さんにお話しがあるそうです。」
“どうせ、まだ暴れているのだろう…”
医療班の手当を受けて意識を取り戻した野村は上司の西野に話しがあると言って暴れ回り、警備員二人に怪我を負わせた。警備員からこの報せを受けた黒田は野村に手錠をつけるように指示して放置していた。
「しばらく拘束しておこう。彼については西野に任せるつもりだ。」
「しかし、黒田さんにどうしても聞いて欲しいことがあると言っていますが…」
「分かった。後で警備室に電話して拘束室に繋いでもらう。」
小野田は部屋を出ようとしたが、奥村はその場から動かなかった。パソコンに目を向けようとしていた黒田は奥村を見た。
「まだ何かあるのか?」
「約5分前に小田菜月さんが拉致されました。」
聞き覚えのある名前だと黒田は思った。しかし、思い出せない。
「誰だ?」
「小田完治議員の娘です。」
“そうだ。あの生意気な小娘だ…”
「奥村、それは警察の仕事になるはずだ。もし何かあれば東京から連絡が来る。一応、議員の家族の名前を通信傍受リストに加えておこう。何かあれば警察に恩が売れるだろう…」
「分かりました。」
「他に何かあるかな?」
「いえ、ありません。」
二人が黒田のオフィスから立ち去ろうとした時に奥村が振り向いた。まだ何かあるだろうと、黒田はパソコンに戻らずに彼らを見送ろうとしていたため、すぐに奥村の動きに反応できた。
「やっぱりあるのか?」黒田が尋ねる。
「全国で起こったニュースで、重要だと思われるものをピックアップして支局長のパソコンに送信しておきました。」
「ありがとう。」
奥村は軽くお辞儀をするとドアを開けて待っていた小野田の方に歩いて行った。彼らがオフィスから出て行き、作業に戻る姿を確認すると黒田はパソコンに戻り、局員たちが送ってくる情報に目を通し始めた。
小田完治議員の娘誘拐に関する情報は瞬く間に世間に知れ渡った。小田の事務所に集まるSPと警察官を見た報道関係者たちは議員に何かあったのかと警察関係者に尋ね、一人の刑事が口を滑らせて議員の娘が誘拐されたと言ってしまったのが事の発端であった。
これによって小田は選挙対策よりも娘の救出の方に集中せざるを得ない状態となった。しかし、彼にとって選挙は大した問題ではない。彼は選挙運動をしなくても勝てる自信があった。議員にはいつでもなれるが、娘の救出は今しかできない。
官邸もこの事件に注目していた。現在の小川政権は支持率が24%となっており、数字を気にする現政権は今回の選挙前に内閣改造を行なったが、数字が上がることはなかった。そこで小川の所属する与党、民政党は選挙後に党首を変える方針を取ることにした。いくら支持率が低くても、野党が今回の選挙で与党になる可能性が半分もないからである。持病持ちの小川もこの方針には賛成した。
民政党としては新しい党首に小田完治を就任させたかった。彼らの良い持ち駒は彼しかいない、というのが主な理由であった。他の党首を希望する議員は有権者からの支持を集められるようなタイプではなかった。つまり、ここで小田完治が、おそらくこれから犯人が表明すると思われる要求を退け、娘を無事に救出したという功績を残せば、小田完治の国民の印象は良くなる。そして、強い父親像を得た彼が民政党党首になれば与党の支持率はうなぎ登りになる、と民政党の幹部は考えている。
官邸の南会議室では、官房長官と国家公安委員長、内閣安全保障室長、ネズミ捕りの局長が小田完治の娘を救うための議論を行なっていた。議論と言っても全て結論が決まっていたも同然であったが、官房長官と国家公安委員長はこれを望んでいた。二人は全てをネズミ捕りに押し付けようと考えていた。
「やはり、ここは情報収集に長けているネズミ捕りに任せるべきだ。」肥えた体型の国家公安委員長である西條がネズミ捕り本部の局長、杉本を一瞥して言った。
それを聞いた官房長官は首を縦に振って同意を示した。
“あれほど毛嫌いしていた私たちをこの時ばかりは使おうとしているのか…”杉本は二人の冷たい視線を受けながら思った。
「しかし、我々の仕事はテロリストの追跡と逮捕であります。誘拐犯の捜索は警察でもできると思われます。それにこのような公となっている事件の捜査に我々を使うのは如何なものかと思います。」
「それでは君は議員の娘が死んでもいいと思っているのか?」官房長官の吉村が尋ねた。
“論理が飛躍している。それにアンタたちが大事にしたいのは議員の娘ではなく、議員本人のイメージなはずだ。”
「私は議員の娘が死んでもいいとは言っていません。」
「似たようなものだ。君の話しを聞いていると、私まで君のような冷徹な男になってしまいそうだよ。」
“こういうのは無視だ。私を怒らせてネズミ捕りを使わせようと―いや、コイツらにそこまでの知恵があるとは思えない。”
「いずれにしても、この件には我々は関与できません。もし、我々が捜査を開始して公にでもなったら―」
「そうなったら仕方がないだろう。それに既に北海道では漁船の爆発もあったじゃないか」内閣安全保障室長の村上が初めて口を開いた。
「北海道で起こった出来事に関しては全てアリバイを作って隠蔽しました。これ以上、何か起きれば隠蔽できません。」
「だから、公になったら公表すればいいじゃないか!」官房長官が声を張り上げた。
「公表すれば情報を開示しなければならなくなります。そうなれば、野党のみならず、マスコミからも追求を受けます。」
「大丈夫だ。何とかなるさ…」国家公安委員長が腕時計を覗き込みながら言う。
この時、杉本はふとSATのことを思い出した。SATは主にハイジャック事件や重要施設占拠などのテロ事件を解決するために作られた組織であるが、ネズミ捕りの創設と同時にSATも捜査能力を持った方が良いと判断され、現在のSAT隊員は捜査能力も持っている。杉本はネズミ捕りの代役として彼らを使うべきだと思った。それにSATとネズミ取りは行動を共にすることもあるので、何かあれば互いに情報の共有もできる。
「ネズミ捕りの代わりにSATを使うのはどうでしょうか?」
この杉本の発言に対して先に反応したのは国家公安委員長であった。SATを使うとなれば、彼の仕事になるため眉間に皺を寄せた。一方、内閣安全保障室長は顔色こそ変えなかったが、杉本の案は受け入れるべきだと考えた。
“確かに下手にネズミ捕りが公表されれば、野党は国会を潰してでも追求してくるだろう。それは私の地位を脅かす…楽天主義な西條の意見を無視すべきだ。だが、ここで西條を敵に回すのは良くない。後で適当な話しを作らなければならない。”
「いい案だと思う。それにSATの訓練は何度も見ているから彼らの実績も分かる。だが、彼らも一応極秘なものだ。」内閣安全保障室長の村上はあえて曖昧な発言をした。
「極秘だった、が正しいと思われます。最近ではテレビドラマでもSATの名前を聞きます。ここはSATに捜査権を与えるのはどうでしょうか?」と杉本。
杉本の提案をどうしても受け入れられない国家公安委員長はまだ眉間に皺を寄せている。
「こう長引いては困る。悪いが杉本君は退席してもらえないか?もし、ネズミ捕りに頼むことになれば連絡する」内閣安全保障室長がドアを指差した。
“議論の好きな方々だ…まぁ、国家安全保障局長の顔色を見た限り、この仕事はSATのものになるな…”と思いながら杉本は会議室から退室した。
「西條…ここはSATを使った方がいい。」杉本の退室を確認した村上は西條が文句を言う前に椅子から立ち上がった。
「何故だ?」西條の声には怒気が籠っている。
“相変わらずバカな喋り方だ。”会議室の窓から外の景色を見ながら村上は思った。
官房長官は二人の会話をただ見守っている。
「もし、この事件でネズミ捕りを使えば野党は国会で追求を始めるだろう。そうなれば、小田を首相にする前に我々は政権の座から落ちるかもしれない。」
「しかし…もし、SATが行動して失敗すれば私の名前に汚点が残る…」
「では、こういうのはどうだろうか?」村上は顔を西條へ向け、国家公安委員長を見ると彼の方へ歩き出した。「警察が全力で小田の娘を救出する。そのためにはSATの出動も辞さないとメディアに伝えるよう小田に連絡する。」
「メディアに伝えてどうする気だ?」と西條。
「彼らにSATのことを伝えれば、SATは活動しやすくなる。問題はそのSATをどうのようにして使うかだ。」
「つまり?」
「もし、休暇中のSAT隊員が仲間を助けるために捜査を、一個人が捜査をしていたとしたらどうだろうか?」
「それは民間人による捜査であって、SATによる捜査ではない」官房長官が間に入った。
「その通り。SATにも働いてもらうが、捜査のメインは休暇中のSAT隊員にやってもらう。もし、小田の娘の救出に失敗すれば、その隊員に責任を押し付けることができる。成功した場合は何も無い。ただ、彼に賞賛が送られるだけだ。いずれにしても我々に大きな傷はできない。」
「確かにそうだ。しかし、休暇中のSAT隊員がいるのか?」
「一人知っている。捨て駒にするのはもったいない男だが、我々の明るい未来のためだ。」
「それでその男は誰なんだ?」
「これから資料を取り寄せる。おそらく君も知っているはずだ。もちろん、君もね」村上は吉村官房長官の方を見た。
「有名人なのか?」と官房長官。
「あぁ、我々の業界ではね…」
当初、支局に男を連れて行こうと思っていたが、武田の居場所をできるだけ早く特定したい西野は銀行の付近にある隠れ家に向かった。この件について西野は黒田に報告しなかったが、尋問後に男を支局に送っても問題が無いと考えていた。
西野は銀行から2キロ程離れた場所にある住宅街に向い、そこで屋根が平になっている白い2階建ての一軒家を見つけ、そこの車庫のシャッターを持っていたリモコンで開けるとその中に車を入れた。シャッターを閉めると西野は後部座席の足場に押し込んでおいた男を引きずり下ろした。男の両手と両足はプラスチック手錠で縛られ、頭に被せられている黒い布袋が彼の視界を奪っている。
一方、新村は男の私物を入れた鞄を背負い、一人で男を運ぼうとしている西野に近づいた。新村が左腕、西野が右腕を掴んで男を家の中に運び込む。家の中は普通の民家と変わらず、必要最低限の家具が置かれている。
二人の捜査官は防音設備を備えた部屋に行き、部屋にあった椅子に男を座らせた。この部屋にはシングルサイズのベッドと3つの引き出しを備えた机、読書灯、小型テレビ、数冊の文庫本が入った小さな本棚がある。西野は机の引き出しから長さ2メートル程のロープを取り出し、男を椅子に固定すると新村の腕を引っ張って部屋の外に出てドアを勢い良く閉めた。
突然の西野の行動に困惑した新村であったが、これを尋問の一部だと思って何も言わなかった。リビングに来ると西野は立ち止まって新村の方を向く。
「尋問は俺がやる。お前は2階にあるモニター室で待っていろ」西野はリビングのソファに向かって歩き出した。
「どうしてですか?」上司を目で追いながら新村が尋ねる。
「お前はまだ尋問の仕方を知らないだろ。」ソファに深々と腰掛けて西野が言う。
「実習は全部受けました。私はもう訓練生ではありません。」新村は真剣な眼差しで西野を見つめた。
新村の目を見て西野は自分の若い頃を思い出した。彼自身だけのことだけではない。彼が今まで見てきた多くの新人たちのことも思い出した。
“彼らも彼女のような目を持っていた…彼女も彼らと同じく、正義感が強くて度胸があるのだろう。”
西野の口元が微かに緩んだが、新村はその変化に気付けなかった。
「お願いします」新村が頭を深々と下げた。
“こういうタイプの奴らには生き延びて欲しい。生きて、幸せな家庭を気付いて欲しい…”
「ダメだ」西野は断言した。
“お前のようなタイプは良い捜査官になれる素質はあるが、”
「お前はまだ現場を知らない。」
「それを現場で訓練するのではないのですか?」新村は食い下がった。
“その通りだが、今回の相手は『普通』ではない…”
「新人は俺の言うことを聞けばいい。逆らうなら支局に帰れ。」
新村の耳が真っ赤に染まっていき、きつく握り拳を作るのが見えた。
“これでは尋問はできない。感情を表に出しすぎている。若い時の俺もこうだった…”
「わかりました。」
そう言って新村は2階に向かった。部下の後ろ姿を見送って、男のいる部屋へ行こうとすると西野の左腿に軽い振動が訪れた。西野はジーンズから携帯電話を取り出して電話に出る。電話は黒田からであった。支局長からの電話と言うことは、モービル2が支局に到着して異変に気付いたのだろうと西野は思った。
「西野か?」
「そうだ。連絡しようと思って―」
「モービル2の所在地を知っているか?」
黒田の問いは西野の思考を停止させた。
「おい!聞こえているのか?」
受話口から聞こえてくる黒田の声で西野は我に戻る。
「知らない。モービル2に何かあったのか?」捜査官は仲間のことが心配になってきた。
「そうか…今どこにいる?」
「H24だ。銀行で拘束した男をここで尋問しようと思っていた所だ。それより―」
「新村も一緒か?」黒田は西野を無視して問いかける。
「そうだ。何が起きている?」
「分からない。しかし、嫌な予感がする…」と黒田は率直に思っていることを言った。
「確かに。今回は何かが変だ。」
「モービル2の件は私がなんとかする。お前は新村と引き続き武田を追ってくれ。今の場所で尋問を始めろ。移動する際は連絡しろ。」
「分かった。」
西野は黒田が受話器を置く前に電話を切り、男がいる部屋に向かって歩き出す。
“モービル2は拉致されたのか?武田に?別のテログループに?クソッ!どうなっているんだ!”
部屋に入ると西野は男の背後に回り込み、男が被っている布袋を剥ぎ取った。男の表情を見ることができなかったが、男が目を瞬かせていることは容易に想像できた。
「武田衛はどこだ?お前は何故、銀行にいた?何が目的だ?」西野は男の真後ろに立って言った。
「女の子の方じゃないのか…」男は頭をガクンと下ろした。
「武田はどこだ?」
「あの子と交代してくれたら話すよ。」
西野は男の前に回り込んで男を見下ろす。男は笑みを浮かべて西野を見つめ返す。
「アンタの名前を思い出したよ!」急に男の顔に笑顔が広がった。
“古典的なハッタリだ。コイツはただの―”
「西野!西野史晃!そうだろ?公安のお兄さんよ~」
顔色一つさえ変えなかったが、西野は内心激しく動揺していた。
“どこで俺の名前を?ということは俺の家族、いや、捜査官―モービル2はコイツの仕業か?”
できるだけ早く家族や黒田に連絡を取りたかったが、今それを行ってしまえばこの会話の主導権を男に握られる可能性がある。尋問で重要なことは、会話を相手にリードされないようにすることだ。
「そうだ。武田はどこだ?」西野は真っ直ぐ男の目を見つめながら尋ねた。
男は西野が何の反応も示さなかったため、記憶した10数名の捜査官の顔写真を思い出そうとした。
“反応が無い。俺の記憶違いか?確かにこの野郎は西野だったはず…普通は動揺するだろう…”テロリストは西野の同様に気付けず、逆に動揺していた。
“コイツはさっきから俺を公安と言っている。つまり、ネズミ捕りを知らないということだ。そうなると、コイツは道警のファイルから俺を見つけたのか?いや、山のようにあるファイルから俺の名前を見つけるのはほとんど不可能だ。”
「野村信一さんか?」男が問いかけてきた。効果の有無を考えずにテロリストは適当に浮かんだ名前を言った。
“どうやらコイツはネズミ捕りのメンバーを知っているようだ。しかし、どうやって?データベースに侵入したのか?”
「名前にこだわるな。何か意味があるのか?」
“これも違うのか!クソッ!”
西野は男の視線が左に動くのを見た。
「おい。どうした?」
“コイツは何かを思い出そうとしているようだ。”
この時、西野は銀行で会った遠藤という男との会話を思い出した。遠藤が保険会社の男について話している時、『守谷』という名前を言っていた。
“試してみるか…”
男は白いバンをパチンコ店の立体駐車場に入れ、左サイドミラーに白い2本の縦線が入った紺色の乗用車を見つけると後部座席にいる仲間に車から降りるように言った。それを聞いてハンマーで軽く掌を叩いていた男はバンが停車するなり降りて乗用車へ向かった。
運転手は再びバンを走らせる。バンを降りた男は上着のポケットから車の鍵を取り出し、乗用車に乗り込むとエンジンをかけて駐車スペースから離れた。そこへ一周して戻ってきた白いバンが頭から入った。紺の乗用車は後退して白いバンの後ろに着くと、運転手が降りてきてトランクを開ける。白いバンからエンジン音が消えると、運転席のドアとスライドドアが開いて20代半ばくらいの男が二人降りてきた。
「手伝えよ!」スライドドアから降りてきた細身の男が大声で言った。
「大声出すな!誰かに聞かれたどうするんだよ。」白いバンの運転手が男の横に来て言う。「もうすぐで大金が手に入るんだ。」
「分かってるさ。」
細身の男は後部座席から手足を縛られ、さらに頭に麻袋を被せられた小田菜月を引きずり下ろそうとした。
「待て!」バンの運転手が叫んだ。
突然の大声に驚いた細身の男は菜月から手を離して仲間の方を見た。
「まだ、やってるのかよ。早くここからずらかろうぜ。」乗用車のトランクの側で待っている別の男が言った。
「分かってるよ。それいうなら手伝え。」と運転手が小田菜月の脚を掴んで言う。
「俺は頭脳派だから、肉体仕事はしないのさ。」トランクを開けて待っている男が自分の髪をいじりながら言う。
運転手は鼻で笑いながら、細身の男に小田菜月の腕を持つように指示する。渋々ながら男は菜月の腕を掴み、二人は気を失っている彼女をトランクに押し込んだ。
「バンに道具が残っているから、それを回収したら終わりだ。石井、お前やってこい。」運転手が細身の男に言った。
「何で俺が?」
「理由なんて無いよ。早く行って来い。」
石井という男はバンに戻って後部座席に散らかっていた道具を集めて鞄に押し込むと、乗用車で待機している仲間の所に走った。
官邸からの電話は小田完治を困惑させた。電話の内容は、できるだけ早く記者会見を開いて以下の言葉、「娘を必ず取り戻す」、「犯人には決して屈しない」、「娘を救出するためならSATへの要請も辞さない」を会見で使えというものであった。
また、官邸は北海道警察が捜査本部を作って小田よりも記者会見を早く開くので、SATを使うと表現を出しても問題は無いとも言った。もし、小田個人がSATを使うと記者会見で言えば、野党から「国家権力の乱用」と言われかねない。
小田は秘書に記者会見用の文章を書くように指示したが、彼は官邸が娘の救出に興味を持っていることに不安を抱いていた。
“官邸は早く事件を終わらせて選挙に集中しろと間接的に言っているのだろうか?だから、SATの名前を?それとも何か別の狙いでもあるのか?”
応接室のソファに腰掛けて官邸の狙いについて考えていると、妻と息子が秘書の桐原と共に部屋に入ってきた。
「あなた、どうなっているの?」小田完治の妻、恵子が金切り声を上げた。
「そうだ!説明してくれよ!」妻に続いて息子が大声を張り上げる。
「二人とも落ち着くんだ。叫んでも菜月は帰ってこない。」完治は立ち上がって二人に座るように促した。
恵子は大人しく座ったが、息子の遼は座ろうとしない。
「座るんだ。」議員は息子の肩に手を置いた。
遼は渋々ソファに腰掛け、完治は二人の向かい側にあるソファに座って妻と息子を見る。
「どうなっているのか説明してください!」妻が先に口を開いた。
「正直な所、まだ何も分かっていない。ただ、菜月が何者かに誘拐されたということだけだ。」完治は正直に答えた。実際に彼は現状を全く理解できていなかった。
「誘拐だったら、身代金を要求してくるんじゃないの!父さんは有名人だから」遼が父の方を見て言う。
「だとしたら、犯人は我々に電話してくるはずだ。」
「心当たりは無いんですか?」と恵子。
“心当たり…”ふと完治は思った。
「そうだよ。父さんを殺したいほど憎んでいる奴とかさ!」
“殺したいほど…”
「そんな人がいるわけ無いでしょ!」恵子が遼の膝を軽く叩いた。
「分からないだろう!政治家なんて汚い奴らが多いんだから!」
“確かに政治家は狙われやすい。特に私のように対テロ関連の法案を出す人間は批判を受けやすい。しかし、批判しかしない人々は誘拐などしない。いや、できない。となると、身代金か…”
「どうなんだい、父さん?」議員の息子は母から父の方へ顔を向けた。
「私を憎んでいる人か…」
“いる。二人。いや、今は一人か…警察に言っておけば良かった。”
「さぁ、事務所に脅迫状を送ってくる者はいるが、実際に私やお前たちに襲いかかろうとする輩はいない。」
その時、第二秘書の五十嵐 明が応接室に飛び込んできた。
「警察の記者会見が始まりました。」
テレビの近くにいた桐原はテレビの電源を入れ、全員がテレビの画面に集中した。だが、小田完治は記者会見よりも、息子の言葉で思い出した二人の男の方が気がかりであった。
“一人は死んだ。もう一人は行方不明。もう一人も死んでいるのかもしれない…いずれにしても、警察に伝えておこう。”
目が覚めた菅井は両脇を二人の男に抱えられて薄暗い廊下を進んでいることに気が付いた。また、彼は自分が裸でいることにも気付いた。彼の両脇を抱えている男たちはがっしりと菅井の腕を掴んで彼を引き摺っている。菅井の顔が下を向いていたため、男たちは彼が目覚めたことに気付いていない。
“どうにかして逃げなければ…”
男たちが立ち止まり、菅井の左脇を抱えていた男がドアノブに手を伸ばした。
“今だ!”
菅井は自分の脚で立つと、両手を上げて拳を男たちの鼻に叩きつけた。反射的に男たちは手を鼻の方に持っていこうとしたが、反撃が先だと判断して拳を作った。しかし、判断が遅すぎた。彼らが反撃に出ようとした時、菅井は左にいる男の膝裏を蹴り飛ばし、次に右にいる男の脇腹を殴った。間を置かずに片膝を付いている男に一撃を加えようとした時、背後から伸びてきた手が菅井の髪を掴んで後ろに引っ張り、バランスを崩した菅井は地面に倒れた。
「威勢のいい奴だ。」菅井を地面に倒した男は捜査官の腹部に片膝を置き、膝に体重をかけた。
腹部を圧迫された菅井は呻き声を上げ、膝を腹部から退けようと抵抗したがビクともしなかった。抵抗しながらも菅井は男の顔を確認した。その男は彼に道を尋ねてきたサラリーマンであり、この時になって捜査官は男が武田衛であることに気が付いた。武田が道を尋ねてきた時に彼だと気付けなかった自分に腹が立ったが、彼にはどうすることもできなかった。
「そう焦るな。聞きたいことが沢山あるんだ…」
「くたば―」
武田は膝に全体重をかけて菅井の言葉を遮り、捜査官は呻き声を上げて痛みに耐えた。
「本当に威勢のいい奴だ。もう少し運動してから話しをしよう。」
テロリストは左手を菅井の胸に置くと体重をかけて起き上がり、今までのやり取りを見ていた二人の部下の方を見る。
「できるだけ丁寧に頼むぞ。」
男たちは首を縦に振ると、咽て横になっている菅井を取り囲む。武田は部下たちの仕事を見届けることなくその場を去った。
「守谷…」西野が静かに言った。
ドアの方を向いていた男の目が西野の方に向き、それを確認した西野は男が餌に食いついたことを確信した。
「お前もアイツを探しているんだろう?」西野は男の後ろに回る。
男は一言も喋らない。
“餌には食いついた。問題はどこまでハッタリが通用するかだ。”
「俺もアイツを探している。」
西野は男の前に来ると机に腰掛けて男を見つめ、男も西野を見つめ返した。しかし、男の目は数分前のものとは違った。明らかに動揺している。度々視線を逸らし、軽く顎を引いている。
「それとも、お前はアイツのボディーガードか?だから、俺を襲ったのか?」
男は何も言わない。
「図星のようだな。職場にボディーガードとはいい身分になったものだ。お前はいくら貰ってるんだ?」
大きな変化が男の顔に現れた。耳が赤くなり、目つきが鋭くなった。
“表情が顔に出やすい奴だ。会話の主導権を握られて怒っているのか?いや、もしそうだとしたら、新村と同じ素人だ。図星にしては奇妙な反応だ。今分かっていることは、奴が怒っているということだ。もう少し掘り下げるか…”
「お金の話くらいいいじゃないか。私たちは君の雇い主の倍は出す。いっそ、私たちの所でボディーガードの仕事を―」
「俺はボディーガードじゃねぇ!!」男が怒鳴り声を上げた。
“待ってました!”西野は内心喜んでいたが、顔にそれを出すことはなかった。
「となると、何だ?仲間か?」間を置かずに西野が尋ねる。
「俺は奴を殺しに行ったんだよ!」
“もう、小細工はいらないな…いや、守谷という男の居場所を聞き出す必要がある。”
「しかし、銀行にはいなかった。女の家にはもう行ったのか?」と西野。
「銀行の後に行こうと思っていた。普通は自宅の後に職場に行くだろ!」
“運が良かった。それにコイツは相当のバカだ。”
「お前、記憶力はいい方か?」
西野の唐突な質問に男は混乱したが、すぐに頭を切り替えた。
「いや。普通だ…」
「それは良かった。」
男の顔には困惑の色が浮かんでいた。だが、その色は西野の持っていたハンカチが男の鼻と口を塞いだ数秒後に消えた。男は多少抵抗したが、すぐに意識を失って頭を垂れた。
“たまには薬品を使うのもいいかもしれない。”
西野は部屋を出ると新村がいる2階に向かい、部下を見つけると男の私物を入れた鞄を掴んで中身をベッドの上にぶちまけた。男の私物は携帯電話とガム、特殊警棒、財布、腕時計、サングラスであった。
「何で眠らせたんですか?」私物を物色している西野の背後に来て新村が言った。
「時間の節約だ。」そう言うと、西野は新村に男の携帯電話を手渡した。 「メモ帳、または未送信メールを確認しろ。住所らしきものが書かれていたら知らせてくれ。」
「何を探しているのか教えて下さい。」
「守谷の女の住所だ。」財布の中身を確認しながら西野が言う。
「銀行に問い合わせれば…」
「光洋銀行は職員の交際者に関する情報も持っているのか?」
「いや、それは…」
「見つけだぞ。」
西野の手に四つに折られた紙片があり、その紙には3つの住所が書かれている。
「おそらく、コイツはあの居眠りしている男よりも武田に関する情報を持っているだろう。」
「どうしてそう思うんですか?」
「ここで俺とアイツのやり取りを見ていただろう?アイツはただの外注、下請けだ。情報は大して持っていない。だから、危ない仕事を任せられたのさ。」
「危ない仕事?」
「昼過ぎの銀行にプロを送るなんてことを本物はしない。殺るなら帰り道や標的の自宅だ。それにアイツの手口は素人だ。それに暗殺者っていうのは基本、捨て駒だ。そういう奴らは情報を持っていないことが多い。大半の首謀者という奴らは下請けを使う。沢山の下請けを。自分の身元が割れないようにするためだ。授業はこのくらいにして、守谷の女の家に行こう。」
「分かりました。」
携帯電話の着信音が車内に鳴り響いた。助手席にいるスキンヘッドの男は標的から目を逸らさずに電話に出た。
「見つけたか?」受話口から武田衛の低い声が聞こえてきた。
「はい。」
「予定通り。静かに頼むよ。」
「わかりました。」
男は電話を切ると座席の下から鞄を取り出し、その中から消音器付きの拳銃を取って運転席にいる無精髭を生やした仲間に渡した。スキンヘッドの男も同じ消音器付きの銃を取ると遊底を引き、薬室に初弾を送り込んだ。
「仕事の時間だ。」
スキンヘッドの男がそう言うと、二人は車を降りて西野たちがいるH24に向かった。




