第10回
薄暗い拘束室に入ると黒田は額に大きな絆創膏をつけ、鼻と左頬に小さな切り傷を持つ男と向き合った。その男は真向かいに座る書類挟みを持った童顔の男を睨み付けたが、黒田は動じなかった。男の両手足は手錠で固定されており、武装した警備員二人が部屋の外で非常事態に備えて待機している。
“まだ威勢がいいじゃないか。”書類挟みを開きながら黒田は思った。“西野ももう少し強く殴って置けばよかったのにな…”
「誰だアンタ?弁護士か?」黒田の前に座る顎に無精髭を持つ男が口を開いた。男は黒田が拘束室に入る前に会った刑事よりも質の良いスーツを着ていたので、ネズミ取りの支局長を弁護士と勘違いした。
「私は黒田です。残念ながらあなたの弁護士ではありません。それより、あなたは熊谷さんで間違いないですか?」
「弁護士じゃないなら話すことは何もない。さっきの刑事にもそう言った。」男は黒田から視線を背けて部屋から出て行けと顎をしゃくる。
“困ったもんだ…”ネズミ取りの北海道支局長は机の上に広げた書類挟みに目を移す。
黒田が尋問している男は今亡き武田が西野を始末するために隠れ家H24に送った男の一人である。もう一人のスキンヘッドの男は西野と格闘した末に新村に射殺された。西野と新村がH24から離れた後、警察が訪れて気を失っていた熊谷を保護し、それを知った黒田が北海道警察で働いている友人に働きかけて彼の真向かいに座っている男をネズミ取りに引き渡してもらった。
「熊谷さん、私は下手な弁護士よりもあなたに良い提案を出せます。」黒田は書類から男の方に視線を戻す。しかし、男の視線は黒田ではなくて壁へ向けられている。
「書類上、あなたは“まだ”逮捕されていません。」支局長が話しを続ける。「だから、弁護士を待つ必要性もないし―」
「それならどうして俺はここに拘束されてるんだ?」熊谷が視線を背けたまま尋ねる。
「あなたが私たちの管理している建物に不法に侵入したからですよ。私はどのようにしてあなたとあなたのお友達があの建物に押し入ったのかを知りたんです。そのことさえ教えてもらえれば、あなたを解放することができます。」
「嘘くさいな。」男が吐き捨てるように言った。
「信用してもらえない場合は仕方がありません。」黒田は書類挟みを折りたたんで椅子から立ち上がった。熊谷は横目で黒田を観察しながら、童顔の男の提案を考えた。
“もし、この男の話しが本当なら服役せずに済む。あんな所にはもう戻りたくない。だが、もし、嘘であればまたあそこに戻ることになる…”
黒田がドアを開けて拘束室を後にしようとする姿を見て熊谷は決心した。
「待て!」
男の声を聞いて黒田が振り返る。
「話したら俺を解放するんだな?」熊谷の声は小さく、自信がないように聞こえた。
「私はそう言いましたが…」
「話しがある。」
黒田は拘束室のドアを閉めて室内に戻ると椅子に腰かける。
「どうぞ。お話し―」
「約束しろ。話し終えたら俺を解放すると。」
「約束しましょう。」支局長は再び書類挟みを開く。
熊谷は唾を飲み込むと語り始める。「4ケ月ほど前に武田に仕事をしないかと誘われたのが始まりだ。その時は特に忙しくなかったから引き受けることにした…アンタの建物に行った理由は西野って男を始末するためだ。」
「しかし、どうやって西野を知り、あの建物に辿り着いたんですか?」と黒田が尋ねる。
「武田が数枚の写真を持ってきた。その中にいたのが西野だ。武田は公安がアイツの仕事の邪魔しようとしていることを知って消そうとしたのさ。建物には西野の車を尾行したら辿り着けた。」喋り終えると熊谷は下唇を舐めた。
“写真?”
「どこでその公安の写真を武田は手に入れたか知ってますか?」黒田は敢えて熊谷が使った『公安』という言葉を使って自分が所属している組織の名前は使わなかった。
「武田の雇い主だと思う。それ以外に考えられない。武田は俺みたいな鉄砲玉みたいな奴しか集めていなかった。パソコンとかの仕事は全部アイツ一人でやってたし。」
“雇い主…”この単語を聞いて黒田の脳裏に浮かんだのは野村の顔であった。彼の部下は武田の背後に何者かがいると考えていた。
「その雇い主について何か知っていますか?」
「会ったことも見たこともねぇよ。でも、そいつが女だってことは知ってる。武田がいつも雇い主との会話の後に『あのアマ!』とか言ってた。」
“どうやら野村の推理は当たっていたようだな…”
突然、拘束室のドアを開いて小野田が飛び込んできた。
「黒田さん、至急聞いてもらいことがあります。」肩で息をしながら小野田が言う。
「熊谷さん、ちょっと失礼します。」
そう言い残して、黒田と小野田は拘束室を後にする。
「何があった?」北海道支局長が早足で分析官たちがいる場所に向かいながら聞いた。
「新村が隠れ家07で拘束されていたテロリストに拉致され、西野さんたちが彼女の行方を追っています。」黒田の後を追いながら小野田が応える。
黒田は小野田に一瞥を向ける。「どうやって?」
「わかりません。とにかく、隠れ家周辺で活動している捜査官たちに新村とテロリストを探すように連絡を入れて置きました。」
二人が忙しなく働いている分析官たちがいる場所に着いた。黒田は小野田の話しが終わったと思い、深呼吸して職員に新村の救出について伝えようとすると小野田が再び話し始めた。
「まだ問題があります。」
北海道支局長は部下に顔を向ける。
「武田の隠れ家で捜索している捜査官連絡があり、西野さんたち捜査官たちの顔写真と解体された捜査官の死体を発見しました…」小野田は死体について触れた時に俯いた。
これを聞いた黒田の顔から血の気が引けた。“解体だと?!”
「その捜査官は誰だ?」と黒田。
「菅井さんです。」
解体と聞いて恐怖を抱いていた黒田は言葉にできない憤りを感じた。菅井は黒田が北海道警察からスカウトした優秀な警察官であり、彼は菅井の家族とも親交があった。
「誰が菅井を殺したか分かるか?」
「おそらく武田かと…」小野田は自信なく言った。
“クソ野郎が…”
「菅井さんの家族には―」
「私から言う。お前は仕事に戻れ。」
「わかりました。」小野田は黒田の口調の変化に違和感を抱いたが、黙って自分の仕事場に戻った。
黒田は早足で彼のオフィスに戻ると愛用している青いマグカップにコーヒーを注ぎながら、菅井の死についてどのように彼の家族に説明すべきかを考え始めた。コーヒーを口へ運ぼうとした時、黒田は自分の手が震えていることに気が付いた。
“クソッタレ…”
西野が消えたことに気付いたのは広瀬であった。黒田に連絡する用事のあった捜査官は西野に渡した自分の携帯電話を返してもらおうと周囲に目を配って西野を探したが、先ほどまでいた場所に彼の同僚の姿はなかった。中年の捜査官は西野の名前を呼んで探し回ったもののなかなか見つからない。
“どこに行ったんだ?”
捜査官仲間に聞き回り、一人の捜査官がSATのバンの付近で西野を見たと言った。広瀬は急いでSATのバンを探し出し、そこで西野を見つけた。西野は短機関銃を持ち、また左脇には小さな鞄を抱えていた。
「西野!」広瀬が西野の背中に向かって叫んだ。西野は広瀬に視線を送ったが、足を止めずに付近に停車してあった乗用車に銃と鞄を放り込んだ。
「おい!どこに行くつもりだ!?」
「新村を救い出す。」静かに西野が応える。
「救うって。アイツがどこにいるかも分からないのにどうする気だ!?」
「さっきお前が俺に渡した電話は支部からじゃない。守谷からだった…」車に放り込んだ鞄から銃弾が込められた弾倉を取り出して西野は言った。「話しがあるから俺一人で来いと…それより気付かなかったのか?あれが守谷だったと…」
広瀬は西野の目を見ることができなかった。確かに守谷の声に気が付けなかったことは広瀬の不注意であり、もし彼が電話をかけてきたのがテロリストだと気付けていれば、西野に電話を回す前に逆探知の準備ができたかもしれない。
「すまん…てっきり支部からだと思っていた。迂闊だった…」
西野は何も言わずに拳銃に弾倉を叩き込み、銃を腰のホルスターに収めて車に乗り込もうとした。それを見た広瀬は慌てて西野がドアを閉める前に手でドアを抑える。
「あれは俺の不注意だった。自覚している…」
「もういい。それより守谷より先に着いて場所の下見をしないと―」
「それは罠だ!アイツはお前と新村を殺す気だ!!」
広瀬の大声に動じずに西野は車のエンジンをかける。「分かってるさ。でも、行かないと…」
「ダメだ!ここにはSATもいる。彼らに応援を要請しよう。」広瀬はどうにかして西野を引き留めようと頭の中浮かんだ言葉を吐き出し続ける。「きっと向こうも応援を連れてくる。お前一人じゃ新村は守れない!」
西野は広瀬の主張が正しいことは知っているが、もし、応援を連れて行った守谷がそれに気付いた場合のことを考えた。きっと、守谷は新村を殺すだろう。
「SATの狙撃手をお前の近くに配置して、他の部隊。少人数、少なくとも6人を5メートルほど離れ場所に置いてお前の合図と同時に展開すれば問題ないはずだ!」広瀬は即興の案を適当に言った。「一人じゃ無理だ。応援が必要だ!頼む、西野!お前まで死ぬことはない!!」
「殺されに行くわけじゃない。守谷を殺して、新村を助ける…」西野は広瀬を見ずに言う。「でも、応援はあった方が心強いのは確かだ…しかし、本当に守谷に気付かれずに配置できるか?」
「バカなことを言うな。俺たちはそのための訓練を何年も受け来たじゃないか。大丈夫。新村は必ず救い出せる。」
「だといいが…」広瀬の励ましを聞いても西野の表情は浮かなかった。
「時間が無い。SATを呼んで早く守谷との待ち合わせ場所に急ごう。」そう言うと広瀬はSATを探しに走りだし、西野は同僚の後を目で追いながら車のドアを閉めた。
“すまん、広瀬。お前や他のSATを巻き込みたくないんだ…”
西野は守谷が待つ場所へと車を発進させた。
“最近は便利になったものだ…”心の中でそう呟きながら木下は本間に指示されたとおりにデジタルカメラを三脚に置き、カメラの映像がノートパソコンに表示されているかどうかを確認した。“数十年前まではリアルタイムで処刑する映像なんて流せなかったが、今では簡単に流せる。しかも、世界中に…”
本間の顧客は小田完治の娘をインターネット中継で殺害することを依頼してきた。彼女はその理由について尋ねなかったが、内心、顧客が世界中に自分の残虐行為を広めたいというのが理由だろうと推測していた。処刑までまだ2時間ある。本間は次の計画を行うために予め用意しておいた場所へ向かう準備を終え、数人の部下を現在いる場所に置いて次の場所に向かおうとしている。木下は小田菜月の処刑を行う者の一人であり、本間の代わりに処刑の指揮を執ることになった。
「準備はできたのかしら?」本間がノートパソコンと睨み合っている部下に言った。
「もう少しです。」木下が本間を見て応えた。
「あの男、佐藤とかいうのは来たの?」
「いえ、まだです。」
「もし来たらあの銃は私の部屋にあるから。それと…堀内だけど…」
「彼は公安の一人を拉致したらしいです。なんでも他の公安を誘き出すのに捕まえたそうですが…」木下は仲間から連絡が無かったかどうか携帯電話を取り出して確認して言った。
「まぁ、彼はそこそこできる男だから問題ないでしょう。最後に伊藤はまだ帰って来ないの?」
「おそらくまだ死体を埋める穴でも掘っているんじゃないでしょうか?」
「一体何時間かけるのかしら。ただの穴掘りだけに…彼に連絡して早く戻ってくるように言ってちょうだい。私はもうここを出るから処刑後にまた会いましょう。」
“どうしてこうもアイツは自分勝手なんだ!!”黒田と電話で話しながら広瀬は思った。
「携帯のGPSを使って西野の居場所を掴め。もし、テロリストが現れたら全員拘束しろ。」黒田が強い口調で言った。これは西野の自分勝手な行動と菅井や他の捜査官を失って頭に血が上ったために黒田は怒気を込めて言ったが、広瀬は自分の不注意に上司が怒っているものだと思った。
「できる限りのことはする。」
「必ず捕まえろ。今回のテロは少し違う。規模が大きい…」
「どういうことだ?」SAT隊員5名が乗っているバンに乗り込みながら尋ねる。
「H24の襲撃者の一人を尋問したが、どうやら武田は氷山の一角のようだ。その男は首謀者が女だと言っている。まだ確信は得られていないがな。」
「守谷を捕まえて詳細を聞き出すしかないな。もし、あの男がその女について知っていればだが…」
「何か知っているはずだ。そうでないと困る。」
「分かった。これから西野の後を追う。また連絡する。」
「連絡を待っている。」
話しを終えると広瀬は電話を切り、隣に座っていたSAT隊員からノートパソコンをもらって画面の地図で点滅している赤い点に注目した。
“西野…どうしてお前はそう死に急ごうとするんだ?”
男は苛々しながら最後の煙草に火を付けた。彼は木に背を預けて穴を掘っている中肉中背の男を見守っている。穴を掘っている男の近くには2体の死体が転がっており、2体とも男の友人であった。彼らは朝暘高校第一グランドから少し離れた林の中にいる。
数時間前に小田菜月の拉致を見事に果たした3人の若者は朝暘高校の第一グラウンドへ報酬を取りにやってきた。待ち合わせ場所にいた顎髭を生やした男は3人を見るなり前髪をしきりにいじっていた男と細身の男の頭を撃ち、残った中肉中背の男にショベルを渡して死体を埋める穴を掘るように命じた。
「いつまで掘ってんだよ!」顎髭を生やした男が中肉中背の男に向かって怒鳴った。怒鳴られた男はすすり泣きながら穴を掘り続けている。掘り終われば殺されると知っている男は誰かが助けに来てくれることを願いながら時間をかけて穴を掘っていた。
「早くしないと撃つぞ!こっちは予定が詰まってんだ!!」ベルトに挟めていた銃を取り出して顎髭の男が中肉中背の男に近づく。銃に気が付いた全身汗まみれの男は穴掘りの速度を上げた。「やればできるじゃねぇか。」銃を元の位置に戻して男は腕時計で時間を確認する。
“それよりもう一人は何所だ?”
男は4人を始末するように本間から指示を受けており、既に2人は殺し、1人は穴を掘っている。最後の一人は女で10分前には待ち合わせ場所に来る予定になっていた。
“逃げられたか?いや、必ず金を取りに来るはずだ…”
野村と小木は顎髭の男が銃を持っていることを確認すると銃を取り出し、木の陰に隠れながら前進して距離を縮めた。野村は小木が銃を携帯していたことに驚いたが、素早く現状に対応する方が先だと思考を切り替えた。捜査官二人は状況を完璧に理解できていなかったが、穴を掘っている若者を救う必要があると判断した。距離が縮まるに連れて心拍数が上がり、それと同時に銃把を握る手が少し震えていることに二人とも気付いていたが、できるだけ冷静になろうと努力した。
顎髭の男との距離は約15メートル。野村は木の陰で足を止め、男の仲間が近くにいないか周囲に目を配り、また耳を澄ました。
“どうやらアイツは1人のようだ。”若い捜査官は足元に注意を払いながら次の木の陰に移った。小木も野村と同じように移動する。確実に捜査官たちと顎髭の男の距離は縮まっている。
野村が次の陰へと移動しようとした時、枝が折れる音が静寂を破った。彼は飛び上がりそうになるほど驚き、素早く木の陰に身を隠した。
「誰だ!?」顎髭の男が叫んだ。これを聞いて野村は枝を踏んだのが小木だと知った。先輩捜査官は男の様子に気を取られていたために足元に落ちていた枝に気付かずに踏んでしまったのだ。捜査官たちは無言のまま木の陰に身を潜めていた。
「そこにいるのは分かってんだ!出てこい!!」男は銃を取り出して小木がいる場所に向かって歩き出す。その時、突如悲鳴が林に鳴り響いた。穴を掘っていた中肉中背の男はこれが好機だと思って叫びながら走り出したのだ。しかし、その叫び声は銃声によってぴたりと止んだ。花火のようなパンという音が周囲に鳴り響き、その後に野村と小木は鈍い重い何かが落ちた音を聞いた。
“クソッタレがッ!!”野村は木の陰から飛び出して顎髭の男に標準を合わせる。この時、捜査官は地面に横たわっている中肉中背の男を見た。
「警察だ!銃を捨てろ!!」若い捜査官が怒鳴った。
野村の声を聞くと顎髭の男は振り返り、捜査官の姿を見るなり発砲した。銃弾は野村に命中せず、若い捜査官の足元付近に飛んだ。野村は応射しながら近くの身を隠せるほどの太さがある木まで移動する。後輩の動きを知った小木は応援するために顎髭の男の脚に標準を合わせて引き金を引く。彼らの目的は男を殺すことではなく、捕まえて尋問することである。
敵が二人いることを知った男は走りながら二方向からの銃撃を避けられる遮蔽物を探す。男を追いながら撃っている内に野村の銃は弾倉の銃弾を全て食い尽くし、野村は目で顎髭の男を追いながら急いで空弾倉を銃から弾き出して予備弾倉を叩き込む。小木は銃弾を節約するために男が走り出すと同時に銃を構えながら走り出す。男はちょうど身を隠せる木を見つけると陰に身を潜め、敵の様子を伺った。そこは少し丘になっており、野村と小木の動きが良く見えた。
野村は木を遮蔽物にしながら前進しているために撃つのは難しかったが、それとは対照的に銃を構えながら前進している小木は絶好の獲物であった。男は小木に銃口を向けて三度引き金を引いたが、銃弾は運良く小木の頭上を通り過ぎた。中年の捜査官は驚いてバランスを崩して転び、その際に銃を落とした。先輩捜査官の異変に気付いた野村は急いで顎髭の男が隠れている木に向けて弾倉が空になるまで引き金を引いた。この弾幕に驚いた男は小木から野村に注意を移し、その間に小木は走って近くにあった木の陰に飛び込んだ。野村の銃の遊底が後退して弾倉が空であること示した。野村は遮蔽物に戻って最後の予備弾倉を銃に叩き込む。
“どうにかしてアイツとの距離を縮めないといけない…”
現場責任者である刑事の根田は数十分前に届けられた菊池信弘に関する書類に目を通していた。根田は真向かいに座る小田完治の視線を邪魔に思っていたが、何も言わずにできるだけ早く書類を読み終えようと努力した。刑事の手元には4枚の書類しかなく、議員が言った内容はどこにも書かれていない。
「あなたが言っていた事件はこの書類に書かれていません。」顔を小田へ向けて根田が言う。
「事件は未だに機密扱いになっているからかもしれない…」期待していた言葉を得ることができなかった小田は刑事から視線を逸らした。機密という言葉を耳にして根田は憤慨したが、顔には出さなかった。
「議員、人違いではないんですか?」
「いや、菊池に違いない!」
刑事は再び書類を見る。そこには丸眼鏡をかけた初老男性の顔写真と略歴が書かれている。
“誰かに罪を擦り付けて楽になろうとしているのか?”根田は思った。
「もしよければ、差し付けない程度でもいいですから、その機密について教えてもらえませんか?これは議員の娘さんを救うためです。」禿げ頭の刑事が柔らかな物腰で言った。
「菊池の息子は探しているのか?」小田は刑事の頼みを無視して尋ねた。
「はい。やっています。おそらくすぐに見つかるでしょう。くどいようで申し訳ありませんが、事件について教えてもらえませんか?」辛抱強く刑事が尋ねた。
「わかった…」小田は語り始める前にお茶を飲んだ。「あれは2年前のことだ…大学の同級生だった菊池が私をレストランに呼び出し、クーデターの計画をしていると打ち明けてきた。私は協力する振りをして警察と内調(内閣情報調査室)に要注意人物として菊池を見張るように要請した。」再び小田はお茶を飲む。「菊池は自衛隊基地を攻撃して武器を奪おうと考えていた。しかし、そのクーデター計画は警察が送った潜入捜査官によって阻止された…菊池は自衛隊基地内で死んでいる…彼と一緒に行動していた若者たちも死んだ…事件後、私は菊池の家族をマスコミから守ろうとしたが遅すぎた。彼らは既にどこか遠くに行っていた…おそらく、菊池は家族に逃げるように伝えたのかもしれない。」
「議員と菊池さんの関係はわかりましたが、何故菊池さんの家族があなたに復讐する理由がわかりません。」
「感づいたのかもしれない。私が警察にクーデター計画を伝え、菊池を死に追いやったと…」
小木は緊張から軽い呼吸困難に陥った。転んだ際に銃を失い、銃弾が頭上を通り過ぎたという災難が続いたこと、また、以前被弾した時のことを思い出したために起こったことであった。先輩捜査官がそのような状況にあることを知らない野村は次の攻撃のために呼吸を整えていた。
“おそらく俺が撃ち始めれば小木さんが応援してくれるはずだ。男の注意が小木さんの方に移った時がチャンスだ…”
呼吸を整えた野村は木の陰から飛び出すと発砲しながら前進する。彼は次の遮蔽物まで移動するまでに応援がくることを期待していたが、それが訪れる前に彼は次の遮蔽物に辿り着いてしまった。
“どうなってるんだ?小木さん、まさか…いや、走って木の陰に入るのを見た。弾切れか?それとも被弾して動けないのか?クソッ!無線機を持ってくるべきだった!!”
若い捜査官は弾倉を抜いて残弾を確認する。6発。
“これは厳しいな…”弾倉を銃に叩き戻して野村は思った。“しかし、やるしかない!!”
野村は再び遮蔽物から出ると発砲しながら前進し始める。今回は顎髭の男の脚を狙いながらの発砲であり、ただの弾幕ではなかった。男も野村の姿を確認すると発砲を開始する。次の遮蔽物に辿り着く直前に男の銃弾が野村の左肩をかすり、野村は左肩に訪れた激痛に耐えながら遮蔽物に飛び込んだ。銃を見ると遊底が後退して弾切れと野村に伝えていた。
“ここまでか…”
しばらくの間、静寂が続いた。顎髭の男はこの静寂が敵の弾切れを意味していると理解した。
「どうやら弾切れらしいな!」男が木の陰から出てきて叫んだ。彼はすぐ遮蔽物に隠れることができるように備えていたが、何も起こらなかった。「これから一人ずつ殺す。」男が野村の方に向かって歩き始める。
若い捜査官は男の足音が近づくのを聞いた。野村はまだ接近戦に持ち込む機会があると考えて備える。足音が近づく度に野村の心拍数は上がった。対銃に関する接近術を習っていた野村であったが、訓練と実戦は全く違う。相手は殺すつもりで来ている。足音の大きさから男との距離は3メートル程度だと野村は推測した。チャンスは一度しかない。
「あの~」
野村、小木、そして、顎髭の男は低い男の声を聞いた。顎髭の男はその声が自分の背後から聞こえてきたため、驚いて銃を構えながら振り返る。その途中で彼の背後にいた男が両腕でテロリストの腕を抑えて動きを止めた。襲撃者は左手で顎髭の男の銃を持った手首を掴み、間を置かずテロリストの顔面に右掌底を叩き込む。顎髭の男が怯むと襲撃者は右手で銃身を掴んで反時計回りに回す。これによって銃口がテロリストへ向き、驚いたテロリストに再び隙ができた。襲撃者は隙を逃さずに顎髭の男から銃をもぎ取ると、銃を金槌のように水平に振る。テロリストは銃底で顎を殴られ、それが脳震盪を誘発して顎髭の男はその場に崩れ落ちた。
ネズミ取りの捜査官たちは何が起こっているのか理解できず、ただ少し離れた場所から聞こえてくる鈍い、何かがぶつかりあう音に耳を傾けることしかできなかった。
襲撃者はテロリストから銃を奪うと遊底を引き、この際に薬室に収められていた銃弾が飛び出して地面に落ちた。
「出てきてくれない?」襲撃者が野村の隠れている場所に銃口を向けて言った。
木の陰に隠れていた野村はどうすべきか悩んでいた。
“味方か?いや、テロリストの仲間かもしれない…”
悩んだ結果、野村は後退していた銃の遊底を元の位置に戻して遮蔽物から飛び出し、襲撃者に銃口を向けた。相手にまだ銃弾が残っているように見せるための無駄な抵抗であった。
「お友達にも出てきてもらいたい!」襲撃者が叫んだ。彼の銃はまだ野村に向けられている。小木は両手を高く上げて木の陰から出てきた。
「弾切れなのは分かってるから銃を下してもらいたい。」男は野村に向けていた銃口を地面に向ける。若い捜査官は警戒しながら銃を下し、それを見た襲撃者は笑みを野村に送った。
「宮崎くん、もう大丈夫だよ!」男が野村と小木から目を離さずに叫ぶ。すると、大木の陰からスーツ姿の男がだぶだぶの服を着た襲撃者の横に並んだ。
「アンタ誰なんだ?」野村が男に尋ねる。
「休暇中の警察官とその相棒だよ。」中島が宮崎に一瞥を送って応えた。
「道具は全て揃ったかな?」佐藤が電話に出ると男が尋ねた。
「あとは本間に用意させた小物を取るだけです。こちらにはもう到着したのでしょうか?」尾行の確認を終えてコンビニエンスストアの駐車場で一休みしていた佐藤が言う。彼はこれから本間の場所に行って頼んでいた拳銃を取りに行こうとしている。
「つい数分前に到着したよ。私のところのチームは準備万端だ。あとはあの男の合図を待つだけだ。」
「連絡は取っていないんですか?」
「取ろうとしたが、彼の仕事の邪魔をしたくなくてね…それにもしかするとあの男を救い出さなければならなくなるかもしれない。」電話の男は声を低くして言った。「まだ分からないが…」
「そうなった場合、どちらを優先させるべきでしょうか?」
「現在のところ小田だろう。あの男の救出は私でできる。何か起きた場合はこちらから改めて連絡する。では、あとで合流しよう。」
そう言い終えると男は電話を切った。
“あと4時間か…”佐藤はそう呟きながらエンジンをかけて本間がいる場所へと車を走らせた。
SAT隊員がスコープ越しに西野の姿を確認するとヘッドセットのマイクを二度軽く叩いた。この合図を聞いた広瀬は一安心した。いくらGPSの精度が向上しているとはいえ、稀に実際の位置と位置情報に誤差が出ることもある。
「今のところ動きはありません。」SATの狙撃手が報告する。人手が足りないために彼は一人で観測手の役割も行わなければならなかった。西野がいる場所から20メートル程離れた場所にある4階建ての建物の屋上で狙撃手はスコープの倍率を下げて周囲の状況も伺った。異常なし。
その頃、広瀬は耳栓のような形の無線機を右耳に差し込み、通信のテストを始める。バンの中で待機している5人のSAT隊員も広瀬と同じ無線機を耳に差し込む。彼らの作戦は至って単純であり、狙撃手の合図と同時に10メートル先にいる西野と合流してテロリストを逮捕するというものである。
「支部、聞こえるか?」広瀬がMP-5短機関銃に弾倉を押し込みながら尋ねた。
「聞こえますよ。」支部で働いている小野田が応える。「西野さんは見つかりましたか?」
「狙撃手が見つけた。あとは合図を待つだけだ。」
「できるだけのサポートをします。」
「頼む。」
「ネズミ取りさんでしたか!」野村が仕方なく自分の身元を明かすと中島が笑いながら言った。「これは申し訳ない。」
野村も小木も混乱した。“何でコイツ、俺たちのこと知ってんだ?”
「この間の合同訓練はなかなか楽しかったですね。」中島は顎髭の男から取り上げた銃を野村に渡す。
「すみませんが、SATの方ですか?」小木が恐る恐る尋ねる。彼は中島がテロリストの仲間ではないかとまだ疑っていた。
「あ、自己紹介がまだでしたね。中島です。」
この名前を耳にして小木は鳥肌が立った。何も知らない野村は銃をベルトに挟めて真横にある大木の下で気を失っている顎髭の男に視線を送る。
「中島って…あの中島一真?」小木の声は緊張で震えていた。
「そうだけども…オイラって北海道では有名人なのかな?」
その場にいた宮崎と野村は二人の会話の意味が理解できなかった。
「それより、ネズミ取りさんはこの男に何の用があるのかな?」気を失っているテロリストを指差してSAT隊員が尋ねる。この質問は野村と宮崎の頭に浮かんでいた疑問を吹き飛ばした。
「テロリストの武田衛という男の手掛かりを追っている内にこの男と遭遇したんです。中島さんは?」と野村。
「議員の娘さんの誘拐事件の捜査をしていたら、ここに詳しいことを知る人物がいると『やさしいお兄さんたち』に教えてもらったのさ…ね?宮崎くん。」横にいた刑事に顔を向けて中島が同意を求めた。
「は…い。はい。そうです。」宮崎は最初躊躇ったが、すぐに同意を示した。
“『やさしいお兄さんたち』か…”刑事はここに駆けつける前の出来事を思い出した。金髪の不良が一撃で崩れ落ち、異変に気付いた不良仲間4人が駆けつけてきたが2分足らずで全員倒された。中島が質問すると金髪の金沢は悲鳴を上げて逃げようとしていたが、すぐに捕まって今いる場所にいけば誘拐の実行犯たちに会えると白状した。
「何か関連性があるんですかね?」野村が宮崎を見て尋ねる。若い捜査官は宮崎もSATの一人だと思った。
「まだ分かりません。それにこういうのは初めてでして…」
「この人に聞く方が早いんじゃない?」中島はしゃがんで顎髭の男の顔を覗き込んだ。
「そうですね。」野村はベルトに挟めていた銃を取り出してテロリストに向ける。小木は黙ってその場を見つめていた。
“中島一真。あの有名なSAT隊員が何でこんな僻地に?”
SAT隊員はテロリストの頬を軽く何度か叩き、顎髭の男が目覚めて勢い良く起き上がった。彼の前には銃を構えた野村と笑顔を浮かべている中島がいる。
「何故、俺を殺さない?」テロリストは抵抗することを諦めて誰となく問いかけた。
「どうやって殺そうか悩んでいたからかな?」中島が男の肩を軽く叩いて立ち上がる。
顎髭の男は内心怯えていたが、それを表に出さないよう目の前にいる野村の銃に意識を集中させた。彼にとって一番の脅威は銃であり、中島ではない。
「俺を殺してみろ。そうすれば俺の仲間がお前たちの家族や友人を―」
「そういう文句は聞き飽きてるよ~。」テロリストの横に移動してしゃがんだ中島が男の右頬を叩いて話しを遮る。SAT隊員の態度が気に食わなかった。宮崎、野村、そして、小木はこのような場面に慣れてないために動揺していた。
“この中島って人、SATには思えない…”野村はテロリストと話している中島を見て思った。
「議員の娘さんがどこにいるか知ってる?」と中島。
「お前らの目的はあのガキを見つけることか?」テロリストが鼻で笑って言った。「良いことを教えてやるよ。約1時間後にあの女は殺される。」
宮崎とネズミ取りの捜査官は正直、男の言葉に焦った。“あまり時間がない…”
「なるほど…」中島の口調は特に変わっていない。「ということは居場所を知ってるんだね?」
“この男、かなり鈍いな…”顎髭の男は中島の表情を見て思った。
「ヒントを出してや―」
「ゲームは好きじゃないんだ。」テロリストが話し始めると、中島が男の右頬を再び叩いた。「どこにいるのさ?」
宮崎は気付けなかったが、野村と小木は中島の雰囲気が少し変わったことに気付いた。テロリストも同様に異変に感づいた。
「ダム、朝里ダムの近くにある赤屋根の、2階建ての建物にいる。」男はSAT隊員の顔色を窺いながら言う。
「具体的じゃないけど、まぁ、ありがとう。」中島は笑みを男に送り、テロリストはこれに憤りを覚えた。
“舐めやがって!!”
「どうせ、お前らじゃ間に合わないだろう!諦めるん―」
顎髭の男の態度が気に食わなかった野村はテロリストを殴って気絶させようと一歩踏み出したが、その前に中島が男の顔面を殴って気絶させた。テロリストは仰向けになって地面に倒れる。
「口数の多い男は女の子にモテないよ。」そう言って中島が立ち上がる。「宮崎くん。なんとかダムってここから近い?」SAT隊員が刑事の方を向く。
「30分または35分くらいだと思います。」宮崎は頭に地図を思い浮かべ言った。
「ネズミ取りさんで、どれくらい応援を呼べますかね?少なくとも6人くらいは欲しい。」中島が近くにいた小木に尋ねた。尋ね終わるとSAT隊員は気を失っているテロリストの両手を男が着ていたジャケットを使って縛り、その時に拳銃の予備弾倉1つ、ナイフ、そして、携帯電話を見つけた。
「連絡しないと分からない。」
「それでは連絡して、どれくらいの人数を出せるか聞いてみてください。ネズミ取りさんの捜査官でもSATでもいいし。あと、そのチームの展開に必要な時間も。もし、30分以上かかるのであれば、オイラたちで議員の娘を救わないといけないので…というよりも、手伝ってもらえますかね?」
野村と小木は中島の案は自殺行為だと思った。“あまりにも危険がありすぎる。”そう考えながらも野村は反射的に二つ返事で承諾した。
「はい。」
一瞬ではあったが、広瀬とSAT隊員たちの無線機に雑音が入った。彼らは狙撃手からの合図かと思って耳を澄ませ、太腿の上に置いていたMP-5SD短機関銃を胸の位置まで上げる。しかし、あの雑音の後は何も起こらなかったので捜査官と特殊部隊員たちは銃を元の位置に戻した。
守谷が指定した場所は住宅街にある高級マンションの駐車場であり、その駐車場はVの字に建っているマンションの中にある。高級マンションとはいいながら駐車している車はそこまで高価なものはなく、大半が日本車であった。西野が立っているのは駐車所の出入り口から3メートル程離れた場所であり、彼の近くには青いSUVが駐車してある。彼がこの場所にいる理由はSUVが遮蔽物にしやすく、また、その車の下にSATのバンから拝借してきた短機関銃とその予備弾倉を入れた鞄を置いているからである。念のために腰のホルスターにはUSPが収められているが、MP-5は守谷がどの程度の仲間を連れてくるのか予想できないための保険であった。
西野は腕時計に視線を送る。約束の時間から7分は経っている。
“何所にいるんだ?”
そう思っていると着信音が駐車所に響き、捜査官は急いで電話に出る。
「守谷か?」
「遅くなって申し訳ない。待ったかい?」守谷の声は明るく、西野はこれに苛立った。
「新村は何所だ?」
「そう焦るなよ…」
「俺はお前が言った通りにここに一人で来たじゃないか!」
受話口から笑い声が聞こえてきた。
「何が可笑しい!?守谷、早く出て―」
「俺の名前は守谷じゃないんだ。」守谷と名乗っていた男が西野の話しを遮る。「本当の名前は堀内っていうんだよ。守谷と名乗っていたのはお客さんからの要望だよ。俺のお客さんはアンタに会いたいらしい。」
“守谷?”西野は守谷という男に全く心当たりはない。
「銀行に勤務していた同姓同名さんを使ってアンタを誘き出したけど、武田のせいで俺まで守谷という人の役を演じる破目になった。まぁ、結果的に成功したからいいけど~」
「そんなことどうでもいい!新村は―」
西野がいる駐車場の出入り口に1台の白いバンが停車し、後部座席のスライドドアが開いた。車内には猿轡を噛まされ、両手両足を縛られて頭に銃を突きつけられている男がいる。銃を持っている男は西野の位置から確認することができなかった。
「そうそう。さっき、俺が笑った理由はアンタの演技力に魅了されたからだよ。」と堀内。
「演技力?それより、あのバンの中にいる男は誰だ?」
「君の仲間だよ。」
捜査官は全く堀内が言っていることが理解できなかった。
「彼は今俺がいる場所で狙撃銃を構えていたよ。SATかな?それにしてもいいスコープを使っているじゃないか。夜だけどアンタの表情が良く見えるよ!」スコープ越しに西野を見ながら堀内が言う。「あと、ここから数メートル離れた場所にも不自然に駐車してあるバンも君の仲間だろ?」
“広瀬か!!”西野は首を動かさずに堀内を探すために視線を周囲に配る。
「約束を破ったらどうなるか忠告しておいたよね、西野さん?」
唾を吐くような音が聞こえると同時にバンの中で拘束されていたSATの狙撃手の頭から血が噴き出し、狙撃手がバンの中で倒れる。突然のことに西野は絶句し、バンの中で息絶えたSAT隊員を見つめることしかできなかった。
「これは余興だよ。」受話口から聞こえて来る堀内の声はプレゼントをもらう子供のように浮き浮きしている。
テロリストのバンに動きがあった。SAT隊員を処刑した男が死体をバンの外に押し出し、それが終わると男はバンの奥に戻る。西野は広瀬たちを殺しに行くのかと思ったが、バンの男は猿轡を噛まされた新村を連れて再び西野の前に現れた。バンの男は銃口を新村の頭に押し付けて西野に顔を向ける。
“新村!”西野は腰のホルスターに銃を伸ばそうとしたが、すぐにその考えを捨てた。“落ち着け…”
「約束は覚えてるよね、西野さん?」堀内がわざと西野の冷静さを失わせるために言った。そして、これはテロリストが予期した通りの効果を生んだ。
西野は自然な仕草で右手に持っていた携帯電話を左手に持ち替え、それを左耳に押し当てる。彼がしようとしていることには適切なタイミングと動作が求められる。
「聞いてるの?西野さん?」
“今だ!”堀内が問いかけると同時に西野は腰のホルスターから銃を抜き取り、新村に銃口を押し付けている男に銃の照星を合わせる。捜査官が引き金にかけた指に力を入れようとした時、背後から金属の擦れる音が聞こえてきた。ここで西野は指の力を抜いた。この金属に聞き覚えがあったからだ。肩口から背後を確認するとMAC-10短機関銃を持った2人の男がいる。
「良い動きだね~!!」堀内の耳障りな声が聞こえてきた。「でも、下手なことはしない方がいいよ。もし、勇敢なことをすれば俺とアンタの背後にいる仲間が全員殺しちゃうからさ…」
「何が目的だ?俺はお前の言った通りに―」
「アンタは俺の言った通りのことができなかったじゃないか!」テロリストが口を挿んだ。「言った通りにしてれば、アンタのカワイイ部下を解放していたかもしれない…」
絶望感しか西野にはなかった。ここまで堀内が準備をしているとは想定しておらず、すぐに新村を救い出せると思っていた。
「目的は何だ?」西野は再び尋ねた。彼の声は弱く、テロリストは捜査官の反応を見て優越感を味わった。
「重要な話しの前にゲームをしよう。」西野の顔にスコープの十字を合わせて堀内が言う。「アンタは約束を破ったからアンタとアンタの仲間を殺すべきなんだろうけど、俺はそこまで悪い人間ではない。アンタに選択肢を与えるよ。」
西野は期待せずに耳を傾けた。彼はまだ銃を新村に銃を押し付けいる男の顔に向けている。
「アンタのカワイイ部下か、バンで待機している仲間。どっちか救いたい方を選ぶんだ。」
「選べるはずがないだろう!」西野が怒鳴る。
「まぁ、制限時間内に決めてよ。時間切れの場合は皆殺しになるから…」
「お前ッ!!」
「5秒前…」堀内は西野を無視してカウントを始めた。