第1回
文才は皆無です。
楽しんで頂ければ幸いであります。
週末の大型商業施設は大勢の人々が訪れる。そのために人目を避けたい時、または聞かれたくない話しをする時には好都合な場所である。しかし、それと同時に監視する側にとっても身を隠すちょうどいい場所でもある。
眼鏡をかけた華奢な体型の男は大型商業施設のちょうど中心にある噴水の近くで演奏している吹奏学部の学生たちを見ていた。学生たちはたまに音を外しながらも演奏を続け、彼らの保護者と思われる人々が写真を撮っている。男はその光景を見て自分の学生時代を思い出していたが、コーヒーを持って来た同僚がそれを止めた。
「コーヒーです」眼鏡をかけた男の部下、野村 信一が言った。野村は20代後半の長身の男で、柔道をやっていたのでがっしりした体型である。
「ありがと」野村の上司、西野 史晃が野村からコーヒーを受け取って答えた。「それより何で拳銃携帯命令が出なかったんだ?」
「分かりません。今回のマルタイが丸腰で来ると思っているからじゃないですか?」
「その甘い考えのせいで小木が入院したのに…」
その時、右耳に差し込んでいたイヤフォンから声が聞こえてきた。西野と野村は周囲に目を配りながらイヤフォンから聞こえてくる声に集中した。
「マルタイ到着。北口から噴水の方へ向かっている。服装は茶色のジャケット、前は開けてある、ダークブルーのシャツ、黒のジーンズだ。」
対象者を見つけたのは野村だった。彼は西野の腕を手の甲で軽く叩き、袖の内側に取り付けてあるマイクに向かって「マルタイ確認」と言った。西野も対象者を見つけ、噴水付近に怪しい人物がいないかを探し始めた。
「西野さん、チームを集めますか?」野村が聞いた。
「支局長に確認を取った方がいい。それにまだ本人と確定していない。広瀬にマルタイの写真を撮らせて照会してからの方が無難だろう…」
「分かりました。僕は支局長に連絡しますので、西野さんは広瀬さんに連絡をお願いします。」
野村が携帯電話を取り出して支局長に連絡している間に、西野は無線で広瀬にマルタイの写真を撮るように指示を出す。演奏している我が子の姿を撮っている保護者の中にいた広瀬という中年の男はマルタイを発見すると写真を撮り、それを支部にいる分析官に転送した。
待ち伏せされている事も知らずに男は仲間がいる噴水の方に歩いて行った。男は爆弾テロを繰り返して日本のあらゆる捜査機関に追われる身となり、逃走中に3人の警察官を殺害している。彼がテロリストになった理由はある人物との出会いだった。その人物は彼にあらゆる技術を教え、それと同時にある思想を植え付けた。そして、植え付けられたその思想が武田 衛という男をテロリストにした。
今日、彼がここに来たのはいつも資金から武器とあらゆる支援を提供してくれる人物に会うためであった。待ち合わせの場所に着く所で携帯電話が鳴り、すぐ武田は電話に出た。
「着いたぞ。何所だ?」
「中止にしましょう。捜査官がウロウロしている…」受話口から女の声が聞こえてきた。
武田は平静を装って周囲に目を配り、こちらを見ている人物がいないか確認した。しかし、人が多く過ぎて見つける事ができなかった。
「中止は困る。それより捜査官は何人だ?」
「私が確認した所では8人。2時の方向に2人、9時の方向に2人、あとは各出入口に1人ずつ配置している。取引は後で行うことにしましょう。まずはここから逃げ出す事が最優先。」
「なら、何故俺が来る前に電話をしなかった?」
「あなたのお陰で私は奴らの顔を知る事ができた。後であなたにも奴らの顔写真を送る。安心して。逃げるための手助けはするから。」
「どうやって?」
「まぁ、見ていなさい…」
女はそう言うと電話を切り、武田は心の中で悪態をつきながら携帯電話を上着のポケットに入れた。
支局長から西野たちに連絡が来た。現場にいる男はマルタイに間違いないとの事であった。また、支局長は応援をそちらに送ったとも告げた。連絡を受けた西野たちは武田を取り囲むためにゆっくり視界の隅に対象者を入れて歩き始めた。
「ボックス(4人で対象者を取り囲んで保護または逮捕する方法)で行く。三須は俺と一緒に後ろに回り込む。野村と根岸はマルタイの前を頼む」西野がハンカチで額の汗を拭う振りをしながら袖の内側に隠したマイクに向かって言う。
「了解。」
彼らはゆっくりと武田を取り囲むために配置につき、支局長からの合図を待った。
支局長の黒田 寿志は支局にいて広瀬が送って来る映像と施設の監視カメラの映像を見て、いつゴーサインを出すか迷っていた。
「配置についた。いつでも行ける…」西野が言った。
「待て!もうすぐで応援が着く。」
黒田は応援が来るまで西野たちを抑えて置く必要があった。彼らが所属している部署は公にされていないため、下手に彼らが動くと世間に広く知られる恐れがある。そのため黒田は応援が来るまで待機してもらいたかった。
「下手すれば逃げられるぞ!」西野は我を忘れてマイクを口元に近づけていた。
「察しろ!これ以上――」
突然、火災報知機の警報音が施設内に鳴り響き、その場にいた人々の動きが一瞬止まって静かになると次に「火事だー!!」と男の怒号が聞こえてきた。男の声は警報音より効果があった。女性の悲鳴と子供の泣き声が施設一杯に広がり、人々は出口を目指して走り出した。
西野はその場に圧倒されたがすぐ対象者の方に目を戻した。しかし、そこにいた対象者は消えていた。
「マルタイが消えた!」西野が周りの騒音に負けないようにマイクを口に近付けて叫んだ。
「民間人が邪魔でこちらも確認できません!」野村も西野と同じようにマイクに向かって叫ぶ。他の2人の捜査官も同じであった。
「いったい何をしている!?」黒田が怒鳴った。「モニターで確認しろ。追え!」
人々が逃げ惑う中で西野は奇妙な人物を目にした。その男は他の人々と違って走らずに歩いて北口に向かっている。服装は対象者に似ていたが、その男は青い帽子を被っている。西野がその男を見つめていると男が西野の方を振り返り、西野と目が合った。男は帽子を目深に被って真っ直ぐ前を見て歩き始める。
「マルタイを見つけた!」
西野はマイクに向かってそう言うと対象者の方に向かって走り出した。
「何所です?」と野村。
「何所にいる?」と黒田も訊いた。
しかし、その声は西野に届いていなかった。西野の右耳に差し込まれていたイヤフォンは、西野が走り出した時に取れてしまったのだ。
武田は西野と目が合ったと同時に歩調を早めて北口から外に出た。そして、タクシーに乗ろうとしたが人が多すぎて捉まえる事ができなかった。後ろを振り返ると北口から先程目が合った男が飛び出してきた。
“クソ!追ってきたか…”
武田は荷物を降ろし終えて発進しようとしている軽トラックを見つけて荷台に飛び込んだ。運転していた中年の男は何事かと、運転席と助手席の間にある小窓から荷台の方を見た。
「運転しろ!」
荷台には拳銃を持った大柄の男がおり、中年の男は言われた通りに車を発進させた。それを見た西野は黒田を恨んだ。
“拳銃を携帯している相手にどう戦えと…”
しかし、西野に考えている時間など無かった。彼は階段から飛び降りて停車していたタクシーの上に降り、運転手に荷台に男が乗っている軽トラックを追ってくれと頼んだ。
「お客さん、ちゃんと乗ってください!」運転手がタクシーの上に乗っている西野に言った。
「俺の事はいいから早く出せ!」
タクシーの運転手は酷い剣幕で怒鳴りつけてくる男の指示に従ってタクシーを発進させ、西野はベルトに取り付けてある特殊警棒を取り出してタクシーの天井にしがみついた。
軽トラックの荷台に乗っているテロリストは銃身の短いリボルバーを運転手の方に向けて追手を確認した。後ろにはタクシーがいて、その上には眼鏡をかけた男が天井にしがみついて運転手に向かって何か叫んでいる。西野が乗っているタクシーと軽トラックの距離は11m程だった。
“しぶとい奴だ…それにしても奇妙な奴だ。しかし、何故タクシーの上に?”
「お客さん、もう1回言ってください!」運転手が窓を開けて叫んだ。
「軽く、軽トラにぶつかってくれ!軽く、だ!」西野は向かい風によって上手く話せなかったが、何とか運転手に伝わるように言った。
「壊れますよ!」
「修理代は後で払う!いいから早くしろ!」
タクシーの運転手は渋々アクセルを踏み込んで軽トラックとの距離を縮める。
それを見た武田は軽トラックの中年の運転手に加速するように言ったが、運転手はトラックを走らせる事で精一杯だった。武田が悪態をついた時、タクシーが軽トラックのバンパーに軽くぶつかってテロリストはバランスを崩して尻餅をついてしまった。
対象者が荷台の中で転んだのを見た西野は軽トラックの荷台に飛び込んだ。そして、間を置かずに武田に近付く。テロリストは西野の姿を見るとリボルバーを西野に向けたが、対象者を追う男はリボルバーを左手で掴み、右拳でテロリストの顔面を殴った。西野は間合いが遠ければ特殊警棒を伸ばして使おうとしたが、軽トラックの荷台では警棒を伸ばす必要が無く、伸ばせば逆に不利になる事をタクシーの上で考えていた。
顔に拳を叩き込まれた武田は怯まずに西野の左脚を蹴り飛ばし、西野を荷台の上に転ばせて銃床で殴りかかる。が、西野は武田の攻撃を防いで特殊警棒の柄をテロリストの胸に叩き込み、すかさず肘打ちを入れた。対象者はこれ以上西野に攻撃させないために突進し、西野は転んで背中を強打した。
武田は銃を西野の腹部に押し付けて引き金に指をかけるが、西野はテロリストの手首を抑えて銃口を道路の方に逸らして自分の上に乗っている男の胸部を何度も殴り、前屈みになった所で顔を殴って相手を押し返した。押し返された武田は軽トラックのヘッドに背中と頭を打ったが、素早く銃を敵の方に向ける。西野は特殊警棒を伸ばすと、警棒でテロリストの拳銃を弾き飛ばして拘束しようとしたが、テロリストは全力の蹴りを西野の腹部に叩き込んだ。その蹴りによって西野はバランスを崩し、平地であれば体勢を立て替えられたかもしれないが、場所は走行中の車の荷台であったために彼は荷台から落ちてしまった。
“しまった…!!”
この時、西野は死を予期した。が、それはあまりにも早過ぎた。彼は自分を追っていたタクシーのフロンドガラスの上に着地し、フロントガラスの真ん中に穴を開けてしまった。運転手は西野が飛んできた事とガラスが割れた事に衝撃を受け、本当に弁償してもらえるのか心配になった。運転手は反射的にブレーキを踏み込み、慣性によって西野は道路に投げ出された。
「大丈夫ですか?」
運転手がタクシーから降りて道路でうつ伏せになって倒れている西野の所に走った。西野は立ち上がって軽トラックの方を見たが、テロリストが乗った軽トラックの姿は既に消えていた。
現場はまだ混乱していた。西野はタクシーの運転手に警察に修理代を請求するように言い、彼は後で黒田に事情を説明して警察に話しをつけてもらおうと考えていた。彼らはマスコミが来る前に現場を去り、車内から支局に電話を掛けた。
「黒田だ。報告を頼む。」
カーナビゲーションのモニターに短髪の幼い顔をした男が映し出された。
「西野だ。テロリストを逃がしてしまった…」
「この日のために準備をしてきたのに、全部台無しだぞ。」
「1つ言わせてもらう。人手が足りなさ過ぎた。もっといてよかったはずだ。それに応援が遅すぎる。近くで待機していてもよかったはずだ。」
「過ぎたことはどうしようも無い。これから衛星を使っての捜索と施設内の監視カメラを使って武田の協力者の存在を確認する。お前たちはすぐに支局に戻って来い。」
5週間後に選挙を控えている小田 完治は支援者たちの挨拶回りをし、午後の街頭演説会に備えて事務所で昼食を食べていた。昼食は事務所の近くにある定食屋の天丼であり、彼はよく事務所近くの飲食店などを利用して店に出向く事もあった。
そのため近所の人々からの評判は高く、常に当選していた。しかし、これだけでは選挙に勝つ事はできない。彼は人の良さを持って人々の信頼を勝ち取り、その裏で彼の秘書たちが上手く金をばら撒いて不利な情報や批判的な意見を持つ人々を黙らせてきた。
小田のやり方は「悪い政治家」がやることだと思われるだろうが、実際は小田のような人物が選挙で勝って議員となる。不純な理由から政治家になる人もいるが、小田はオウム真理教による地下鉄サリン事件を目にしてから、この国を守らなければならないという考えを持って何度も対テロ組織の創設を議会に訴えていた。それでも国家の代表たちは、それを拒絶して私腹を肥やす事だけに目を向けていた。
政治家としての素質を持っていた小田は日本の“お友達”に働きかけ、またどっち着かずの議員を仲間に引き入れてある機関を創った。その機関は警察から独立した機関であり、官邸の命令を受けて動く捜査機関であった。この機関は法人という形で存在しており、名称は『日本交通保安協会』である。この官邸の直属の捜査機関の実態を知る人物は少なく、この機関を拘束する法律は存在していないため、小田はこの対テロ機関を警察の組織に組み込んで新たな法律を作成し、法的な根拠を持つ対テロ機関を確立しようと考えていた。しかし、そうこうしている内に衆議院の任期が来たので地元に帰って選挙運動をしていた。
「街頭演説会にマスコミが注目している池内 進が来ます」小太りで頭が薄くなった秘書が手帳を確認しながら言った。
「あの若造か~、それよりお前は飯を食べないのか?」小田が空になった丼を机の上に置いた。
「妻にダイエットしろと言われているので…」
「メタボリックなんとかのせいか?気にすることはないだろう。」
「そうしたいのですが、妻がうるさいですから…」
「君子さんらしいじゃないか」小田は笑いながらソファに深く腰掛ける。「それはそうと、娘の様子は?」議員が声のトーンを落として尋ねた。
「変わった様子はありません。娘さんは交際相手と楽しく買い物をしています。」
「息子は?」
「相変わらずです。いつものアイドルを追いかけています。」
「くれぐれも選挙の邪魔にならないように頼む。特に息子には注意してくれ…」
「わかっています。」
武田衛は軽トラックの運転手にマンションの地下駐車場に入るよう指示し、駐車させると荷台から降りて運転手を引きずり降ろした。禿頭の運転手は声を震わせながら「誰にも言わないから逃がしてくれ!」と言った。テロリストは表情一つ変えずに運転手の頭と顎を掴んで力一杯捻って首の骨を折ると、死体を軽トラックの下に押し込んだ。
“しばらくは見つからないだろう…”
西野の追跡から逃れた男はここに来る途中で携帯電話を捨てたので、新しい電話が必要であった。地上に出ると携帯電話の画面に目を奪われた茶髪の制服を着た青年を見つけた。学生が武田の横を通り過ぎようとした時、テロリストは周囲を確認し、人がいない事を確認すると青年の頭を掴んで電柱に1度叩きつけると、上着を掴んで地下駐車場の方へ放り投げた。電柱に頭を打った青年はよろけながら駐車場の入口で倒れ、間を置かずに武田は青年の所に歩み寄ると学生の腹部を蹴り飛ばし、咽ている高校生の茶髪と制服の襟を掴んで地下駐車場の中に入って行った。
黒いSUVが4階建ての建物前で停車し、ここで西野と野村は降りた。彼らが所属している『日本交通保安協会』の支局は下車した場所から500m以上離れた場所にある。支局の近くで降りなかったのは尾行を確認するためであった。下車した後も西野と野村は二手に分かれて尾行の有無を確認した。尾行者がいない事を確かめた2人は下車した場所で合流し、近くで待機していた仲間の車に乗り込んで支局に向かう。もちろん、車を使った尾行確認も行なった。
支局の外観はありふれた3階建ての建物で入口の上に日本交通保安協会と書かれた看板がある。中に入ると右手に受付があり、そこを通り過ぎるとドアが並ぶ長い廊下が続いて突き当たりを左に曲がるとエレベーター、右に曲がると階段がある。
西野は受付嬢に右手を挙げて挨拶すると、野村とエレベーターに乗り込んだ。エレベーターに乗ってドアを閉めると西野がポケットから白いカードを取り出し、フロアボタンが並ぶ下にあるカードスロットにカードを押し込んでB1のボタンを押した。エレベーターは下に向かって動き出し、数十秒後にエレベーターは停止したがそこはB1ではなくB3であった。
この機関は表向き日本の交通機関に関しての仕事をしているため、査察が入ってもいいようにレジェンド(ソ連の諜報機関KGB用語で意味は「作り話」)を用意している。実際の仕事は地下や近所にある建物で行っており、地下では主に支局長や分析官が常駐してテロリストの監視や捜査官の派遣を行う。近所にある建物とは印刷会社やクリーニング屋、旅行会社などの事である。これらの会社にも分析官はいるが、大半が捜査官である。捜査官は家族にも自分が対テロ組織に所属しているとは言えないので、家族にも話せるような仕事を与えられて支局から連絡があればすぐ現場に出る。西野は旅行会社に勤めている事になっている。
エレベーターを出るとまず壁に取り付けられている大きなスクリーンが目に入り、スクリーンの下に並んでいる複数のパソコンと睨み合っている分析官たちが見える。作業している分析官たちの右手にはガラス張りの部屋が3つあり、その中には円形テーブルとそれを囲む形で椅子が並んでいる。左手にもガラス張りの部屋があったがそこは支局長のオフィスであり、中では支局長の黒田が4人の部下と何か話していた。西野と野村は早足で黒田のオフィスに入った。2人を見た黒田は先にオフィスにいた部下を追い出して西野たちに椅子に座るように手で示し、捜査官たちは机の椅子の前に置かれている椅子に腰かけた。
「この動画を見たか?」黒田がパソコンのディスプレイを西野たちの方に向けた。
パソコンのディスプレイには動画投稿サイトYou Tubeが表示されており、そこには軽トラックの上で取っ組み合いを行っている西野と武田の動画も表示されていた。
「西野、この騒ぎのせいで我々の存在が世に知られるかもしれないぞ…」
「俺は適切な処置を取った。それにこうなった原因は火災報知機が鳴った事と人員の不足だ!出入り口に2人配置していてもよかった。」
「いや、配置していても逃げられていたさ…あの混乱だ。その中でも武田を見つけて追跡できた君はお見事だよ。」
「嫌味にしか聞こえないな。それで何か手掛かりは?」
西野が尋ねると黒田はキーボードを叩いてパソコンのディスプレイに新しいウィンドウを表示させ、ウィンドウの中には顎に髭を蓄えた長髪の男の写真があった。
「この男は?」野村が黒田のオフィスで初めて口を開いた。
「安藤 康幸。偶然か分からないが、コイツは武田が来る5時間前から施設内にいた。武田が施設に来たのは安藤に会うためであったと考えている。」
「行方は掴めているのか?」と西野。
「もちろん。今、モービル・チーム(車などを使って対象者を尾行するチーム)が安藤を尾行している。」
「では、すぐ俺たちも―」
「ダメだ!」黒田は椅子から立ち上がろうとした2人の捜査官を呼び止めた。「お前たちは広瀬と大村が来るまで待機していろ。尾行はモービル・チームが行う。お前たちは突入時に現地に向かう。」
「突入はSATにやらせた方がいいのでは?」野村が一度上げた腰を再び椅子に置く。
「SATは既に要請してある。あとは君たちと突入時に合流させるだけだ。」
「という事は、武器の携帯命令を出すのか?」西野は椅子から立ち上がって尋ねた。
「仕方がないだろう。しかし、拳銃だけだ。短機関銃などの携帯は許可しない。」
「十分だ。」
そう言って西野は黒田のオフィスを出て武器庫に向かい、野村は急いで西野の後を追った。
SPが付いた事で小田完治の子供たちは不機嫌になっていた。息子の遼は特にそう感じていた。自分より背が高く屈強な男たちに囲まれているのはあまり心地よい状況とは言えず、できれば綺麗な女性に囲まれていたいと思っていた。彼は常に好きなアイドルに投資して両親を悩ませ、そんな兄を妹は見ないようにしている。
小田遼は父親が寄こしたボディーガードにエスコートされてSUVに乗り込んだ。SUVの中では母親が父の第2秘書である桐原と一緒に待っていた。SUVの内装は普通とは違って後部座席は向き合う形で4人まで乗れる。
「母さん、これはどういう事だい?」車のドアが閉まると同時に遼は言った。
「実は私も何も知らないの。突然、SPが婦人会に来たのよ。」
「桐原は何が起きているか知っているの?」
「事情は事務所に着いてから話します。」
「何だよ!汚職か?女か?」議員の息子が秘書を怒鳴りつけた。
秘書は青年への怒りを抑え、「違います。これだけは言い切れます。しかし、詳しい事はまだ言えません。」
「重大な事なのですか?選挙に関する事ですか?」議員夫人が尋ねる。
「いや…選挙に関する事ではありません。」
「じゃ、何だよ!」遼が再び怒鳴った。
「詳細は議員から直接聞いてください。」
「くだらない話しに付き合っている暇は俺に無い。降ろせ!」
小田遼は走行中の車のドアを開けようと手を伸ばした。桐原はその手を掴んで、遼の目を睨みつける。
“この小僧に俺のキャリアを潰される訳にはいかない…”
「いいですか?これは真面目な話しです。お願いします。まず、事務所まで一緒に来てください。」
議員の息子は桐原の手を振り払ってポケットに手を突っ込んだ。
「ありがとうございます。」
そう言って桐原は自分の席に戻った。
この時、彼らを乗せたSUVがモービル2とすれ違った事に気が付いた者はいなかった。そして、モービル2に代わって安藤を尾行していたモービル1はテロリストが港に入って行く事を確認し、それを西野たちが待機する支局に伝えた。
武器庫から西野はSIGのP229と予備弾倉2つを取ってそれらを専用のホルスターに入れて支局長から許可を受けた事を武器庫の管理人に告げて武器庫を後にした。西野の後を追った野村はグロックのG-22を選んだ。
メインフロアに戻ると黒田が急いでこっちに来いと手招きし、西野と野村は小走りで黒田の所で行った。
「動きがあったのか?」西野が訊く。
「モービル1から連絡があり、安藤が港に入って動かなくなった。」
「じゃ、今から現場に行かせてもらうぞ。」
「今度こそ頼むぞ。あと派手に暴れるなよ!」黒田が念を押して言った。
「分かっている!」
西野と野村はエレベーターに乗り込んで地上で待っているSUVに向かって走り出した。
モービル1が安藤の車を監視していると車から安藤が降りて煙草を吸い始めた。
“待っていろ、このクソ野郎。すぐに捕まえてやるからな!”
運転手の大多和は安藤の動きをずっと監視していた。後部座席にいる池田はこちらを監視している人物や怪しい人物がいないか確認している。そこに黒田から連絡が来た。
「そちらに2人の捜査官とSATを派遣した。君たちには彼らの援護をして欲しい。君らの車に小型の無線機がちょうど2台あったはずだ。それの設定をして彼らに渡してくれ。」
「しかし、こちらにも監視という仕事が―」
「安心しろ。モービル2もそちらに回した。監視は彼らに任せて君たちは無線機の設定を頼む。」
「了解。」
長い間、煙草を吸えなかったためにテロリストは車のボンネットに座って数時間ぶりの煙草を味わっている。そのため普段なら気付いたはずの監視にも気付かなかった。2本目の煙草に手を伸ばした時に電話が鳴った。
「どうした、相棒?」安藤は煙草から手を離して電話に出た。
「船で待っている。」
電話が切れた。安藤康幸は煙草に火を付けて船の方へ歩き出す。
無線機の準備をしていた大多和は移動する安藤を見てすぐ黒田に電話した。
「マルタイが移動中!モービル2は何所に?」
「モービル2は釣り具を持ってマルタイに接近している。」
「了解」大多和は安心したが、安藤からは目を離さなかった。「例の2名とSATはいつ頃到着ですか?」
「5分後だ。」
船に乗り込むと安藤は船首にいる長身の見張りに向かって右手を軽く挙げて挨拶をしたが、船首の見張りは周囲を警戒していたので彼を無視した。無視されたことに苛立ちながら安藤は武器が置かれている操舵室に入り、地下に繋がる階段を下りた。地下にはテーブルと椅子が1つしかない。テーブルの上には地図と数枚の写真、まだ手がつけられていないペットボトルの水がある。
「この船はどうする気だ?」安藤は1つしか無い椅子に座って尋ねた。
「放置する。その前に荷物を車に運ぶ」部屋の隅で壁に貼り付けていた写真を外していた武田は左手に持っていた写真の束をテーブルの上に置いた。
「もったいない。考えてみろ。日本の警察はアホだ。この船には気づかないよ。」
「わからん。」
この時、武田の脳裏に西野の姿が横切った。
“あの男はしぶとかった。本当に警察か?”
「荷物と言っても爆弾が数キロに、短機関銃が1挺。しかも、予備弾倉なし。あ、あとは拳銃が2挺か…」
安藤は大した荷物ではないと考えている。彼はまた武田を支援してくれる魔法使いのような人物が武器を大量に送ってくれると思っているからだ。一方の武田はできるだけ、自分に命令してくる女からの援助を断ろうと考えていた。彼は自力で日本に変革をもたらしたいと願っている。
「贅沢は言っていられん」武田はボストンバッグを安藤に投げ渡し、「それに地図や写真を入れろ。証拠を残すな。」
小田完治夫人と息子、秘書を乗せたSUVは事務所の裏口に停車した。裏口で待機していた4人のSPの内、2人は素早くSUVの所に走って1人が周辺警戒を、もう1人がドアを開けて警護対象が降りるのを確認すると裏口まで誘導した。裏口のドアを開けると小田完治が電話で話していて、家族の姿を見ると 「ちょっと待ってくれ」と手で合図した。息子の遼は壁にもたれて携帯電話をいじりだし、夫人は心配そうに夫を見つめていた。議員は携帯電話をポケットに入れて息子の方を向いた。
「よく来てくれたな…」
「話って何?」息子がふてくされながら言った。
「大事な話しがある。年のせいもあるだろうが、一番は時代の流れについて行けないのが要因だろう…」
「何がいいたいのさ?」
「結論を言おう、お前に私のアドバイザーになってもらいたい。」
その場にいたSP以外驚いた。以前から議員は自分の息子をお荷物と考えており、一度海外に留学させて向こうで適当に暮らしてもらおうと妻や秘書に溢していた。そのような経緯があった事からこの小田完治の発言は周囲の人間を驚かせた。この父の発言には息子も驚いていたが、それと同時に父に認められた事が嬉しかった。
「アドバイザー?何をするのさ?」遼は平静を保ちながら父に尋ねた。
「ただお前の考えを私に言ってくれればいい。私はお前と同じ世代の考え方を知りたい。そのためにはお前が必要だ。」
「だったら菜月でもいいじゃないか!」素直でない議員の息子は妹を話しの引き合いに出した。
「あの子はダメだ。あの子はお前に劣っている…今まで言ったことがなかったが、私はお前には特別な才能があると思っている。嫌なら構わないが、是非ともお前にやって欲しい…」
小田遼は両手をポケットに入れて考える振りをした。
「選挙が終わるまでならいいよ。それ以上はやらない…」
議員は口元を緩めると息子の肩に片手を置き、「ありがとう。それで十分だ。早速、話したいことがある」。
西野たちを乗せたSUVがモービル1と合流した。彼らを待っていた大多和と彼のパートナーである池田は、西野たちに用意しておいた無線機を渡した。無線機は耳栓と同じくらいの大きさで黒く、スピーカーとマイクが一緒になっているタイプであった。これは西野たちが大型商業施設で武田を拘束する際に使用していた無線機とは異なり、通信範囲が狭くてジャミング(通信妨害)を受けやすいとされているが、近年はその対策案が出されている。
「SATは?」西野が大多和に尋ねる。
「狙撃チーム2名をコンテナの上に配置、残りの4人をここから50メートル離れたコンテナの陰に配置しています。」
「よし…SATチーム聞こえるか?」西野がホルスターから銃を抜き取った。
「もちろん、いつでも行ける。」
「狙撃チーム、状況報告を頼む」次に西野は狙撃チームの確認をとる。
「モービル1の付近に中型漁船。船首と船尾に見張りが一人ずつ。中の様子は不明。以上です」と船首にいる見張りをスコープで捕えた狙撃手が報告する。
「見張りを同時に倒せるか?」
「一人では無理です。」
「観測手は?」西野がSATの狙撃手の言葉を遮る。
「私はライフルを持っていません。私の装備は短機関銃と拳銃だけです」狙撃手に代わって観測手が答えた。
「わかった…」そう言うと西野はSUVのトランクを開けて長い鞄を取り出した。
「どうする気ですか?」野村が西野の隣にやってきて尋ねた。
「確かお前、俺より射撃が上手いよな?」
突然の質問に野村は何も答えられなかった。
「野村より俺の方が上手いですよ」大多和が話しに割り込んで来た。
それを聞いた西野はレミントン M‐700を大多和に渡した。
「ボルト・アクションは使ったことがあるだろ?弾は10発しかないから大事に使えよ。」
「わかりました。」
「船を見下ろせる位置に着け。位置に着いたら連絡しろ。」
大多和は狙撃銃を持って急いで船を見下ろせる場所に走る。
「次は俺たちの番だ」西野は野村と池田にサイレンサーを渡した。「できるだけ静かに終わらせる。第一目標は武田と安藤の確保だ。」
野村と池田はサイレンサーを銃に装着しながら頷く。
「位置に着いた。」
耳に差し込んでいたイヤフォンから太田和の声が聞こえてきた。すると、西野は大きく息を吐いた。彼は常に命令出す時、時間に余裕があると思わるときはいつも、大きく息を吐く癖があった。
「よし。太田和は船尾、SATの狙撃手は船首を狙え。俺が合図を出したら撃て。次にSATの地上班は陸から我々の援護を頼む。サブマシンガンの有効射的まで前進して待機。他の者は俺に続け。」
西野は銃を両手で持ち、銃口を下に向けて近くのコンテナに移動する。彼の後に野村と池田が続く。彼らも西野と同じ構えで移動している。
彼らが近くのコンテナに着くとSATから「位置に着いた。いつでも動ける」と連絡が来た。西野はその場で待機するように再び伝え、コンテナとの距離を調べた。目算で15メートル。走るには遠い。西野はできるだけ船に接近してから見張りを排除したかったが、船の周囲に遮蔽物がなかった。
「狙撃班、準備はできているか?」コンテナに背を預け、銃から弾倉を抜いて弾数を数えて静かに押戻し、薬室に銃弾があるか確認した。西野の横で控えていた捜査官たちも同じことをした。
「いつでも撃てます」と大多和。
「こちらもいつでも撃てます」SATの狙撃手も太田和と同じ返事をした。
「よし。撃て!」
そう言うと西野はコンテナから飛び出し、中型漁船の船尾目掛けて走り出した。彼の後ろで待機していた野村と池田も走り出す。
船尾にいた見張りが西野たちに気づき、上着の下に隠していた短機関銃を取り出したが、西野の合図を受けた大多和が男の胸を撃ち抜いた。一方、船首の見張りは頭を吹き飛ばされ、彼は撃たれたことに気づかずに死亡した。
船首、船尾の見張りが排除されたことを確認した西野は船尾に飛び込んだ。すると、操舵室から拳銃を持った安藤が現れた。西野は素早く銃口を安藤に向け、左手にある操舵室の壁に移動しながら二度引き金を引く。また、安藤の出現を見た野村もテロリストに銃口を向けて二度引き金を引いた。西野の銃弾は安藤の胸と腹部に命中し、野村の銃弾は安藤の左腕と左脇腹に命中した。テロリストは呻きながら床に崩れ落ちた。
壁に沿って西野が操舵室に向うと、野村が船尾に飛び乗って西野の背後に付く。池田は船尾の付近で姿勢を低くして待機している。
操舵室の扉に着くと西野は野村に注意するようにハンドシグナルを出し、さらにカウントを始めた。西野の左手の三本指が野村の視界に入った。指が二本になった時、西野の足元に何かが転がってきた。西野はそれが手榴弾かと思ったが、細長い形状からフラッシュバン(スタン・グレネード)またはスモーク・グレネードと推測した。いずれにしても二人の脅威となるものである。西野はそれを蹴り飛ばそうとしたが、彼が蹴る前にプシュッという音がして細長い物体から黄色い煙が吹き出してきた。
すかさず西野はそれを蹴り飛ばしたが、それは船首にあった網に引っかかって勢い良く煙を吐き出している。再び同じ物が西野の足元に転がり込み、不運なことに船尾に向かって転がった。あっという間に煙が船を包み込み、船を見張っていた狙撃手たちも、近くで待機していたSATも混乱した。船の傍で待機していた池田は煙にむせて煙から逃げた。
一方の西野たちも煙に視界を奪われた上にむせたが、武田を逃すまいと操舵室に突入した。すると、ガスマスクをした武田が現れて西野を突き飛ばし、突き飛ばされた西野は背後にした野村にぶつかって床に倒れた。
武田は船尾の方へ向かって走り、船から飛び降りた。途中でむせこんでいた池田を見つけ、「敵は少ない方がいい」と考えたテロリストは、膝をついてむせている捜査官の後頭部を銃で撃ち抜いた。
煙に包まれている船に目を奪われていた大多和とSATは池田が殺害されたことに気づけなかった。
床に倒れていた西野は煙の中で点滅する赤い複数の点を見つけた。目を凝らし、それが何かを見極めようとした時、それが爆弾であることが分かった。彼は急いで操舵室から出ると、煙によって方向感覚を失った野村の左腕を掴み、さらに背中を押して海に飛び込んだ。彼らが海に落下したと同時に船が爆発した。