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まもなく陽が落ちた。
ウィネの家、いや、屋敷は、ウィネが自分を拾った通りをまっすぐ行った先にあった。いつも馬車に追い抜かれることがなかったのは、ウィネの帰り道がもともと自分のとは違っているからなのだろう。今回たまたま封鎖で回り道をして、偶然ウィネの帰り道に入り込んだ。
思ったよりは大きくなかった。少なくとも、嫌味な感じの大きさではなかった。飾り気もそれほどではない。石造りの白い直方体を切り出して作ったような大人しい感じの二階建ての家で、恐らく敷地に含まれるのであろう周囲には、柵の代わりの高い植え込みの他、スギがこぎれいに植えられている。
入り口は通りに面してはおらず、馬車は屋敷を回りこむように小道に入った。裏庭にあたるのであろう、自分の住んでいる家くらいの広さはある空間に、陽がないせいで色の分からない花の植えられた花壇があり、馬小屋があった。
入り口に続く石造りの階段の目の前で馬車が止まり、最初にキスクが降りた。続いて、キスクが下から手を差し伸べ、それに支えられて、ありがとう、と言葉を添えてウィネが降りる。
喘息は多少は良くなっていた。少なくとも、傍から見て大丈夫そうに見せることが出来るくらいは。
「トリン」
降りようとすると、キスクが手を差し出した。ウィネに対して差し出したのと同じように。
「……ん」
手を添えられ、降りた。ふらついたりすることはなかった。
「トリンさん、調子はどうですの?」
ウィネが微笑んで尋ねた。
「……大分よくなった」
「そうですか。それは良かったですわ。でも、折角ですから、少し休んでいって下さいね」
「あ、ああ」
「帰りはキスクに送らせますわ」
ウィネが視線をキスクに向けると、キスクは、分かった、というように軽く首肯した。いかにも通じ合った感じだった。キスクは、自分はウィネの使用人だと言ったが、それ以上のことは言わなかった。どのくらいの間その立場にいるのかも、どのような仕事をしているのかも。
「トリン、歩けるか?」
その言葉は、昔も聞いた事のある言葉だった。身長差がなければ肩を貸したりも出来るだろうに、自分とキスクでは目線が肩の高さにしかならないくらいの身長差があり、肩を貸すにはいささか不自然すぎた。
だから、実際に歩けない時は、キスクにおぶってもらったこともあった。
「……い、いいよ」
よく考えれば、歩けるか、の答えにはなっていなかったが、短く答えて、ウィネの後に早足で続いた。
連れて来られたのは屋敷の一角にある小さな部屋で、小さいと言っても、うちの台所――一番広い部屋くらいはあった。その部屋には大きな窓があって、窓際に、陶器の器の中に植えられた植物が置いてあった。赤い、三人くらいが座れそうなソファーが二つあって、その間に木製のしゃれた形のテーブルがあって、壁際に読む気も起きないような厚くて難しそうな本が整理されて入っている本棚があった。
それだけだった。自分から見ればこれだけの広さの部屋に、それだけのものしかなかった。
それでも、やはり嫌味という感じではない。要するに、いくら自分が『金持ちだからって……』とケチをつけようとしてもつけられないような、ちょうどいい場所だった。ようするに、センスがいいのだろう。
そこに座っていてください、とだけ言い残し、ウィネもキスクもどこかに行ってしまった。部屋の中に一人だけ。どうすればいいのか分からなかった。まあ、休むために来たのだから、休んでいればいいのだろうが。
仕方なく本棚の本を取り出しては戻し、取り出しては戻し、と不毛に時間を潰していると、ようやくウィネが戻ってきた。
「あら、面白い本がありました?」
「……どれもこれも、難しすぎて分かんない。あたしみたいのが読む本じゃないよ」
あったのは、ストランドの歴史を記したらしいもの、地理的特徴をまとめたらしいもの、といかにも『知的な』人間が読みそうな小難しいものばかりだった。これに関してはケチがつけられた。
「そうですわよね」
一瞬、馬鹿にされたのかと思った。だが、違った。
「私も、とても読みません。こんな面白くない本を応接間に置くのはやめましょう、といつも訴えているのですけど、お母様、お父様が聞いてくれなくて」
「……あ、そうなんだ」
また、調子を崩された。面白くない、と少し思いつつ、ソファに戻る。
「紹介しますわ」
猫背でソファに座ったトリンの目の前で、ウィネが背後の、シンプルな模様の彫刻が施された木製の扉を示した。
「私の両親です」
何故こんなことになっているのだろう、と思った。
自分の座っていない方のソファにウィネが座り、その両脇にウィネの両親が座っている。若くはないが、人の良さそうな人達だ。母親の方が少し太っていて、父親の方は平均的な体格。二人とも金髪で、白い肌だった。
そして、自分の左手にキスクが座っている。
高そうなグラスに注がれた水が、自分のために用意されていた。喉を潤せということなのだろうが、こんな風に囲まれては飲むにもあまりに飲みづらい。
「トリンさん、というのだったかね」
父親の方が口を開いた。
「私はシーズ=ミディム。ウィネの父親だ。よろしく。こっちは妻のスーラ」
愛想のいい微笑みを浮かべて、二人が頭を下げる。
「どうも。トリン=ラザルです」
仏頂面のまま、名乗りだけを返す。それでも、愛想のいい笑みは消えない。
(……やたらと人がいいのは遺伝かね)
そんなことを思いながら、グラスに口をつける。かすかにレモンの香りがした。それに一瞬驚き、驚きを隠すために、さらにグラスを傾ける。
「トリンさんは、ウィネと同じ神子候補なのだそうだね」
傾けたグラスの向こうで、シーズが口を開いた。
「ウィネに聞けば、優秀な候補の一人なのだとか。今日まで残っているそうじゃないか」
(……いや)
言葉を聞き流しながら、
(ウィネに比べると、なんか偉そうな物言いだな)
ウィネはそんなことを思った。少々金持ち臭いというか、何というか。
「お宅のウィネさんの方が優秀ですよ」
「いやいや、そんなことは」
トリンの感情のない言葉に、シーズは嬉しそうに笑った。
「そうそう」
母親の方――スーラだったか――が、代わって口を開いた。
「さっき、ドームの近くで予言があったそうね。大丈夫だった?」
「はい。通り道から二つずれた通りでしたから」
答えたのはキスク。
「乗合馬車の事故の予言だったそうです」
「そう」
安心したようにスーラが微笑む。
「何もなくて良かったわ――神子の試験の最中に予言に助けられるなんて、面白いわね」
別に面白くはなかった。だが、神子と予言、その間に関係があることは確かだ。むしろ、絶対の因果関係があると言うことも出来る。
ドームから与えられる、未来を予知する情報。それが予言。そして、本来ドームの中に住む『神族』でない身ながらドームに入ることを許される、言わば予言の媒介人となるのが、神子の役割だ。
その制度が始まったのがいつなのかは伝えられていない。毎年この時期になると、神子の試験なるものの開催がドームから告げられ、ファーサル中から集まった神子の候補者たちが、ドームの与える試験を受け、ふるいにかけられ、そして最終的に残った一人が神子に選ばれる。神子はドームに迎えられ、そこで三年間予言をドーム外の人々に与える仕事に従事した後、新たな神族としてドームで暮らす権利を得る――らしい。
神子の他にドームに入ることを許された人はおらず、また仕事を終えた神子の中にもドームの外に出てきたものがいないため、真実なのかどうかは正直なところ疑わしい、と思う。ただ、この国のどこでもそれは真実として受け入れられているし、否定する根拠もないが。
神子の試験を受ける資格があるのが、学校を出て四年以上を経過した――つまり、満十六歳以上の、かつ特定の仕事に従事していない――白いチョーカーの――女子。ついでに、清らかな魂の器を持つ、言い方を変えれば、男を知らない、という条件もある。
成人の儀――仕事を決め、チョーカーを染める、法の上では子供と大人の境目となる儀式――を受けるのが、一番遅くて満十七歳になる日だから、歳をごまかしたりしなければ事実上チャンスは一回だ。国中から集まる百、多いときでは二百数十人の神子候補の中で頂点に立ち、一度きりのチャンスを掴んだ一人だけが、神族としてドームの中に迎え入れられる権利を得る。予言を与え、国を導くというある種の英雄として讃えられる。
要するに、神様の下さるありがたい未来予知が予言で、それを伝えるのが神子ということだ。
その神子の試験も、今年は明日が最後の試験だった。残っているのは五人。その中に、自分が居る。そしてウィネも。
「ところで、トリンさん」
一方的なおしゃべりがしばらく続き、そして話が移った。
「神子という職業に、特別な思い入れはおありになるのかな?」
それが本題だと分かった。シーズの雰囲気が変わったように思えた。
「お父様。トリンさんも、思い入れがあるからこそ、神子候補になっているのでしょう」
「ああ、そうだな」
ウィネが茶化すように言ったが、シーズは受け流すように答えた。
「そうでしょう、トリンさん?」
「…………」
ウィネはトリンに声を掛けたが、意図的に沈黙を返した。そうか、こんなことがあるのか――トリンはシーズを正面から見つめ返したまま、冷静に考えていた。シーズの意図が口ぶりから分かった。
となると、ウィネも、最初からそのつもりで自分を拾ったのだろうか。シーズの意図を理解していないような態度は、演技なのだろうか。
「思い入れがあれば、どうするつもりですか」
トリンはシーズを睨みつけた。
「買い取る、というんですか。神子の権利を」
残った五人の中の一人である、自分から。ウィネを神子にするために。あるいは確率を上げるために。
「……何の話ですの?」
ウィネは眉をひそめた。演技というよりも、ただ性格が天然なだけであるように思えた。実際のところがどうかは知らないが。
「……そういう風に言われると、聞こえが良くないが」
「聞こえが、ね」
トリンは誰にも聞こえない声で呟いた。そして、小さく鼻で笑った。
「ウィネは、人一倍神子になりたがっている。昔からずっと、神子になりたいと言っていたんだ。だが、どんなに強く願っても、チャンスは一度しかない」
トリンは沈黙したまま、続きを促した。静かな怒りを押し殺しながら。金持ちが皆、こういうことを考えて生きているのは知っていた。ウィネがどうやら加担していたらしいというのは、少し意外だったが。
「だとしたら、少しでもそのチャンスを広げてやりたいと思うのが、親の正直な心だ」
「お父様!」
ウィネがそう叫んだのは、正にトリンが、お断りだ、というような意味のことを言おうとした瞬間だった。
「…………」
軽蔑の文句を言いざま立ち上がろうとしていたトリンは、それをウィネに遮られた形になった。本人は、そんな意図などなかっただろうが。
「トリンさんに対して失礼です!」
「……ウィネ?」
驚いたような声を返したのは、自分ではなくシーズの方だった。困ったような表情。ウィネは、シーズが話を持ちかけることを知らなかったのだろうか。
「神子になることを強く願っているのは、トリンさんも変わりありません! だからこそ、今日の日まで試験を通過してきているのです! それを金銭で買収するなど、卑怯者のやることではありませんか!」
ウィネは純粋に怒っていた。口調の強さからそれが分かった。
「だがウィネ、私はお前が、自分で選んだ神子という道へ進むことを何よりも望んで……」
「それはトリンさんの両親とて同じはずです。いくらお父様でも、トリンさんを不平等な立場に追いやるようなことはして欲しくはありません」
言葉に、キスクが僅かに反応したのが分かった。キスクは、『トリンさんの両親』がこの世に生きてはいないことを知っている。
「悪いけど」
シーズはウィネに睨まれ、明らかに困惑していた。話を打ち切るには、今が好機だろう。
「金をちらつかされても、試験を下りる気はないね。話が済んだなら、そろそろ帰らせてもらう」
返事を待つようなことはせず、トリンは席を立った。
「トリンさん!」
ウィネが呼び止めた、が、振り返らなかった。シーズは何も言ってこない。
「邪魔した」
振り返らずにそう残し、部屋を出た。入り口までの道は常に覚えておくようにしている。他人の手を借りなくても帰れるように。
廊下を抜けて広い玄関に出る。屋敷の門をくぐって――気付いたのは、その時だった。
(…………)
用意周到にしようと思ってはいるのに、こういうドジをする時がたまにある。自分の間抜けさに腹が立った。腹が立ったよりも呆れたというほうが適当だろうか。
(あの部屋に、戻るのか……?)
ため息をつき、振り返る――と、
そこに、キスクが立っていた。
「忘れもんだぜ」
トリンが部屋に忘れてきた、ランプを持って。