2.
ファーサルは、北ジラントと南ジラントの二つの川の間の扇状地に建設された国家であり、外国との交わりのほとんどない、歴史的に自給自足で自己完結した国として存在してきた、文献を信じるのならば五百年程の歴史を持つ国である。
『ドーム』の東方に位置するストランドはファーサルの中でも最も都会と言える地区であり、ドームの東に接し、五、六キロメートル四方に広がっている。
トリンが現在住んでいる家は、ストランドのほぼ中心部に位置していた。通りを真っ直ぐ歩いてさえ行けば、やがて見えてくる靴屋を左に曲がるだけでたどり着く。
距離としては二キロ半程度か。早足の自分にしてみれば、三十分はかからない距離だ。
だが、遠い。
遠かった。自分にとっては。
誰もが当たり前のように歩いていくような距離でも。
試験の時から続いている頭痛がうっとうしかった。試験の時はいつも緊張のせいだか分からないが頭痛に見舞われる。今日はいつもなお悪かった。恐らくは、試験の内容のせいだ。今日の試験は、椅子に座って眠らされるという、いつにも増してよく分からないものだった。眠っている間に何かされたらしいが、それが何なのか見当もつかない。
一つ乾いた咳をすると、頭に痛みが響いた。唾を飲み込むが、どうも咽喉に違和感がある。
(……来た、か)
まずいな、と自分に言い聞かせるように呟いて、トリンは少し歩くスピードを落とした。砂をはらむ風のない屋内に早く入りたいものだが、まだ家は遠い。唇を軽く噛んで、前を見つめなおす。と、
行く手の道が封鎖されていた。
まだ人通りの少なくない通り。それを端から端まで塞いで、持ち運びの出来る低い木の冊が並べられ、その手前、柵を囲むようにランプが配置され、外側に何人かの人間が立っている。全員が同じような灰色の動きやすい制服を着ている。そして首には、金属製ではないようだが銀色の光沢のあるチョーカー。その材質を、トリンは知らない。
封鎖の理由は、疑いようもなかった。それは、この国に住むものなら誰でもそうだろう。通行人たちは大して困った素振りも見せず、横道に入ったり、封鎖の解除を待つように道の脇に腰を下ろしたりと、それを受け入れている。
(よりによって、こんな時に……)
だが、トリンにとってそれは障害物だった。溜め息をつき、封鎖によって囲まれた、何もない空間を睨む。
だが、そうしたところで何も変わることはないということも分かりきったことではあった。トリンはかすかに舌打ちし、銀色のチョーカーの男の一人に尋ねる。
「予言?」
短く尋ねられた男は、ああ、と肯いた。
「今から十分後に、乗合馬車と通行人との衝突事故が予言された。予言の回避が確認されるまで、ここを封鎖している」
トリンが小さくため息をつくと、若い男はトリンを軽く睨んだ。
「封鎖が、不満なのか? 急いでいるのかい?」
「まぁね」
トリンが不機嫌を隠さずに言うと、男は子供を諭すように続けた。
「そうか。だが、これは事故を避けるために行なわなければならないものなんだ。予言では、この事故が起こってしまった場合、六人もの死者が出るということだ。それを防ぐために、封鎖をしなければいけないんだ。分かるね?」
「それくらい分かってる……子供扱い、しないで」
不満そうな態度を崩さない少女の様子に、男は脅すように付け加えた。
「もしかしたら、事故が起こったら死ぬのは君かも知れないんだよ」
「かもね」
やはり、トリンは動じなかった。男の不快を露わにした視線を正面から受け止め、
「この封鎖、どんな範囲なの? 回り道できる?」
やはり短い言葉で尋ね返す。
「あ……ああ、こっちの二つ向こうの広い通りまで行けば、封鎖を回りこめるよ」
「分かった。ありがとう」
言いながら、既にトリンは示された方に歩き始めていた。
「……何だ、あの生意気なちびは」
男の洩らした呟きが、
「…………」
目と耳は人一倍いいトリンには聞こえていたが、トリンは無視して歩き続けた。
すれ違う人と自分の背の高さを比べて、ちょっとため息をついた。
未だに、学校の生徒と間違われる事さえある。
もう、十六になった。神子として立候補できる年になった。
やっと。
あまり外出が好きなほうでないトリンにとっては、いつもの通りから二つ横に外れた通りは既に未知の場所だった。
いつもの大通りと比べて、道はそれほど狭くないが、人はやや少ない。道も、多少なり暗い。
トリンはまた乾いた咳を一つし、唾を飲み込んだ。咽喉の違和感は大きくなっている。咽喉の中を埃が舞っているような気持ち悪さがある。
大きく鼻から息を吸い込むと、ひゅう、という掠れた音が漏れた。喘鳴、という奴だった。喘息の特徴的な症状の一つである。
(封鎖が開くのを――待ってれば良かったかな)
足を止めずに、そんなことを考える。この喘息という奴は、冷え込んだ中を歩いたりすると症状が出やすい。それに、予定が狂ったり慣れない所を歩いたりして、身体が無意識に緊張している時もだ――そう、今なんかは、最悪だ。
咽喉の違和感を極力意識しないようにしながら、しかし立ち止まりはせずに、闇の中に足を踏み出し続けた。今さら戻るのは嫌だった。
(……ち)
だが、喘息の症状の悪化は思ったよりも早かった。息苦しさは増し、周期的な胸を突き刺すような鈍い痛みは、歩くのを止めろと警告しているようでもある。乾いた咳を繰り返しながら、次第に歩く速度は落ちていった。
(っくしょう……)
ついに歩き続けることを諦め、トリンは足を止めた。そろそろ封鎖を回りこめただろうか――歩き続けるのに精一杯で、どのくらい歩いたのかよく分からなかった。
道の端に座り込み、ランプを自分の横に置くと、ベルトに通した茶色のポーチを開けた。常に持ち歩いている、喘息の粉薬と水の入った小瓶。
蝋の染み込んだ紙で包まれた粉薬を慣れた様子で口の中に流し込み、小瓶の水で飲み込む。慣れても嫌いには変わりない粉薬に、トリンは、うえっ、と苦そうに舌を出した。
一つため息をつき、道に面した家の軒下に座り込む。薬が効いてくるまでにしばらくかかる。その間に動くと効果が薄れてしまうため、しばらくは動けない。
――動けない。ただ、歩いてきただけなのに。
どうして、これしきのことで歩けなくなってしまうのだろうか。
どうして、こんなにも苦しいのだろうか。
どうして、自分はこんな身体なのだろうか。
どこか他の他人ではなくて、どうして、自分が?
他人が苦しんで欲しいわけではない。だがそれでも、他人を嫉妬せずにいられない。うらやまずにいられない。
(――むかつく――)
寄りかかっているのはどうやら酒場か何からしく、客達の楽しそうな話し声が外にまで流れていた。何かの楽器の演奏も聞こえる。歌も。
トリンは歌が好きだった。出来ることなら口ずさむくらいのことはしたかったが、薬を効かせるためにはあまり咽喉を使うわけにはいかない。
(むかつく――けど、薬が効いてくるまでの暇つぶしにはなるかな)
歌うことすら出来ない――その事実にもう一度ため息をついて、トリンは本格的に軒下に座り込むと、曲に耳を傾けた。
その時だった。
「あっ!」
突然の子供っぽい高い声が、歌をかき消した。
通り過ぎたのは、馬車だった。二頭立ての、大きな幌馬車。それこそ旅でも出来そうな、大した代物だ。
「すいません、停めて下さい!」
聞きなれたというわけでもないが、よく覚えている少女の声に、御者が手綱を引き、馬車はトリンを通り過ぎて少し行った所で止まる。
砂埃が派手に舞った。トリンは顔をしかめ、服の襟を持ち上げて口を覆う。しかし、顔をしかめたのは、砂埃に対してだけではなかった。
「トリンさん、ですよね? 大丈夫ですか!」
少しあって、その馬車から顔を出したのは、案の定。
「ウィネ」
先ほど別れたばかりの白い少女の名を、トリンは感謝と悔しさを半分ずつ混ぜたような声で呟いた。
止まった馬車の中では、なにやら会話が交わされていた。驚いたような男の声が、自分の名を呼んだのが聞こえた。全てを聞くには少し遠すぎたが、何を話しているかを聞いたところで何も出来はしない。歩く事すらままならないのだから。
程なく、馬車から別の人間が降りた。男。自分の名を呼んだ人間だろうか。背は高いが、がっしりしているというわけではない。服はそれなりにいいものらしく、センス良く青っぽくまとめている。年はウィネや自分と同じくらいだろう。ウィネの兄弟だろうか。
その男が、こちらに向かって走ってきて、そして――
「トリン!」
突然に、名を呼んだ。
「へ?」
トリンは思わず、掠れた声でそう洩らした。意味が分からず、思わず男を見つめた。やはり、男に見覚えはない。もともと付き合いのある人間さえ、そう多くない。ましてや金持ちの知り合いなど、ウィネくらいのものだ。
「トリン、大丈夫か?」
男はあくまで自分の名を呼び、道にしゃがみ込む自分のすぐそばに膝をついた。
「まだ、喘息は悪いんだな……」
その言葉に、瞬間的に、選択肢にすら入っていなかった可能性が頭の中に浮かんだ。
その男が馴れ馴れしくも自分の背中をさする時には、既に可能性は確信に変わっていた。
それは、声に出すと信じられないくらいに懐かしい音だった。
「キスク?」
2.
「久しぶりだな、トリン」
キスクの声は、驚きのためだろう、興奮した様子だった。無論、それはトリンも同じだ。
こちらに来てからは、会うどころか噂を聞いた事もなかった。
「どうして……」
「どうしてこんな場所に居るのか、ってか? こっちこそ聞きたいさ――だがともかく、そ
の喘息をどうにかするのが先だ」
滑らかで、どこか歌を思わせるような科白運びは、農村地区のレルマーに居た頃と変わらない。服装は、向こうに居た頃とはずいぶん変わったが。だが確かに、思い出してみれば目の前の男の顔は紛れも無くキスク=ルルドのもので、今来ている青系の服も、むしろ似合っている。
「薬は持ってるのか? 昔はいつも携帯していたろう――」
「もう、飲んだ」
自分の言葉はキスクと比較して短く、時にはそのために意思の疎通に失敗することもある。だが、
「そうか。じゃあ……そうだ、家はどこだ? 方向が同じなら、近くまで馬車で送っていくよ」
キスクはそれだけで分かったようだった。通じるのだ、キスクには。
「お前……」
掠れた声で尋ねようとしたのは、キスクが何故ここに居るのかという、ごく当たり前のことだった。それを聞かずに、どこについていくわけにもいかない。
「喋らなくていい」
キスクの声が、その問いを遮った。遮られなくとも、息苦しさでちゃんと尋ねることは出来なかっただろう。それを、遮った。
「ウィネ……さん、のことは知ってるんだろう? 俺は今、そこで雇われてる。詳しく知りたいなら、後で話そう。ともかく、馬車に乗れよ」
トリンは、思わず苦笑した。どうしてこいつは昔から、こんな風に話す前に何が言いたいかを理解できるんだろう。
そして、馬車に乗ることを選んだ。
もっと警戒をすべきなのだろう。それは分かっていた。それでも、そちらを選んだ。
「立てるか? 肩を貸すよ」
「自分で平気」
短く答え、立ち上がった。息はまだ苦しかったが、極力、人の手を借りないというのは、負けず嫌いの自分の昔からのポリシーだった。
キスクが使用人なのであれば、雇い主はウィネ、あるいはそ家族なのだろう。
ストランドには、いわゆる金持ちの連中が、人口の比率にして二百五十人に一人くらい居る。古い時代に、何やら特別な立場だったとか特別なことをしたとかの理由で、自分達とはレベルの一つ違う金銭感覚を持った連中だ。
ウィネ、正確にはウィネの一族も、いわゆる金持ちだった。家を見たりしたわけではないが、迎えのためだけに馬車一台を動かせるのだから、恐らくは相当なものなのだろう。かと言って自分にそんな財産が仮にあったとしても何に使えばいいのか分からないというのが正直なところだから、それほどうらやましいとは思わないが。
それはともかく、馬車の所有者はキスクではなくウィネの一族なのだから、いくら自分がこのような状態だからとは言え、勝手な判断で自分のような普通の人間を馬車に乗せることは出来ないだろう。
それでもウィネに断る前に馬車に乗せるという方向に話を持っていったというのは、ウィネが断ることはないと思っての事なのだろうか。
「分かりました。ひとまず、屋敷までトリンさんを乗せさせていただきましょう」
自分も、あのウィネならば、断りはしないだろうと思った。そして実際、ウィネは断らず、自分を馬車に招き入れた。幌に入る時は、自ら手まで引いて。
「薬などはお持ちですの、トリンさん?」
「常備薬をもう飲んだとの事です」
自分を除けば三人の人間が居た。ウィネにキスク、それと御者。キスクは付き人といったところだろうか。当然のように自分を馬車に招き入れた二人に対し、御者はやや不信そうな目をこちらに向けていたが、何も言いはしなかった。
「多少なり揺れますけれど、大丈夫ですの?」
馬車の右側面に寄りかかった自分に、ウィネが尋ねた。勿体ないくらいの気遣いだった。無言のまま、首肯で返す。
それを許可の合図としたかのように、馬車がゆっくりと動き出した。歩くより多少速い程度。それほど速くはない。いかにも、優雅な乗り物といった感じだ。
「それと……失礼になるかも知れませんが、トリンさんのご自宅というのは、どちらに? 近くまで送るにしても、場所が分からなくては……」
こちらは、答えにくい質問だった。靴屋の角を曲がるようになったのは神子の試験が始まってからだから、記憶力の悪さもあって靴屋の名前はよく覚えていない。息苦しさもあり、説明するのは正直に言えば億劫だった。
「地図があります」
どう答えるべきか、それを考える間もなく、キスクが助け舟を出した。馬車に備え付けらしい荷物袋の中から、ストランドのほぼ全域を含めた一メートル四方程度の地図が取り出された。
「トリン、家はどこにあるんだ?」
家の場所はそうかからずに分かった。だが、すぐには答えなかった。億劫だのとは別に、自分の家を簡単に他人に教えることに対しては、抵抗があった。
「ドームはここ、試験のあった場所はここです」
逡巡を、地図を読めていないと思ったのか、ウィネが地図を指差した。境界線が巨大な弧を描いている巨大な建造物がドームであることは疑いようもなかったし、自分の使っている通りの名くらいは分かっていた。
「そして、私の家は、ここに」
指が通りに沿って動き、ある一点を指した。動作に不自然さがないのを見ても、嘘というわけではなさそうだ。他人、それも金持ちでもない人間に自分の住処を教えることに抵抗はないらしい。
つくづく、変な奴だ。ただのお人良しと言ってしまえばそれまでなのかも知れないが、どうもこちらのペースを狂わせる。
「ここ」
地図の一点を指差した。地図の端の方だった。
「あたしの家だ」
こうして見ると、あまり近くはない。この速さなら、ウィネの家から十分弱はかかるだろうか。
「方向は同じですけど……近くはありませんわね」
トリンの指した場所を注視し、ウィネは考えるように腕を組んだ。
「サンド。先にトリンさんを家まで送って差し上げることは出来ませんの?」
それには、トリンが驚かされた。
「そんな事……」
「残念ながら」
トリンを遮って、サンドと呼ばれた御者が低い声を返した。
「時間通りに帰らないと、旦那様、奥様が心配なさいます」
さすがに、もともとそれは難しいと分かっていたのか、ウィネは再び黙った。
「では」
口を開いたのは、キスクだった。
「ウィネ様の屋敷に戻られた後に、私がトリンを送っていきましょう。喘息が治まるまで、少しの間家で休ませてやってもいいでしょう」
キスクは、先程からずっとだが、静かな微笑を浮かべている。いかにも、立派な使用人という感じだった。
「……キスクは、トリンさんと面識があるのですよね?」
「はい」
キスクの微笑を見つめ、ウィネは今度はトリンに尋ねた。
「トリンさんは、それで構いませんか?」
「……屋敷に、入れるのですか?」
トリンが答えるより前に、サンドがわずかな不満を含めて呟くように言った。
「ええ。構いませんでしょう?」
「……はい」
「トリンさんも、いいですか?」
トリンは首肯を返した。ここまでしてもらえるとは思わなかった。が、感謝は表情に出さない。相変わらず仏頂面で、トリンは馬車の端に寄りかかっていた。
そんな自分が嫌になる。