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オレンジの残像、忘れていた音

作者: 幾乃 葉

「……本当に、この進路でいいの? あなたの成績なら、もっといい大学に行けるのに……」

 残念そうに言う言葉は、百パーセント、私のため?

 学校の業績のためかな、と一瞬でも考えてしまう私は、最後まで『一般の』社会にとっては不適合なのだろう。

 ──この世は、経歴がすべて。良い大学に行くことが、良い将来に繋がる。

 日本人の身に染みついている固定観念。正直、聞くだけで不快になってしまう。

 でも、もういいのだ。

「いいんです。やりたいことが、見つかりました」

 先生の、未練がましそうな表情を振りはらうように、私はゆっくりと微笑んだ。

 ──オレンジのあの日、私は、失くしたものを見つけた。

 もう、手放さない。

 それを想うと、頬が緩んでしまうくらい、愛おしくて。


    *


 ポーン……

 夕日が照らす音楽室に、ピアノの音が響いた。

 ──鍵盤は重力だけで弾くの。余計な力はいらないわ。

 昔、ピアノを教えてくれた先生の声は、柔らかいアルトだった。無条件に、安心をくれるような。

 脳深くに眠る記憶を呼び覚まそうと、十指を鍵盤にのせる。立ったまま。

 私に、この椅子に座る資格はもう無いから。


 音楽が好きだった。

 ピアノも、歌うことも好きだった。小さいころからピアノのレッスンに通っていた。学校で暇を見つけるたび、友達と歌を歌っていた。

 でも、年齢がひとつ増えるたび、少しずつ忙しくなっていった。時間が、失われていった。

 そうして削られていく時間の犠牲になったのは、ピアノのレッスンだった。レッスンをやめても、しばらくの間は自分で弾くこともあった、けれど。

 いつしかそれも短くなっていった。

 良い高校に行くのがすべて、と、勉強に浸食されていった時間たち。休み時間に歌うことも、とうの昔に途絶えていた。

 そして卒業式の合唱を最後に、集団で歌うこともなくなった。

 晴れて合格した高校の芸術教科は、書道を選択した。音楽も考えたが、音楽は定期テストがあったから 選ばなかった。──目先の利益に、囚われた

 こうして私は、音楽を手放した。


 鍵盤に置かれた指が、いつまでたっても動き出してくれないことが、何よりの証拠だった。

 ふ、と笑って、鍵盤から指を離す。そして一本だけ、黒鍵に指をおろした。

 ファのシャープ。私の、好きだった音。

 音の余韻が消えて、腕をおろす。肩口に切りそろえられた髪が、一緒になって揺れた。

 ――せめて、音楽を選んでいたら。何かが違っていたかもしれないのに。

 音楽が、今もまだ、好きなのに。

 渦巻く感情が唇を震わせて、音にならない音を紡ぐ。

 西日が染めた、オレンジの音楽室。ピアノと椅子の間にすべりこんだ私の視界に映るのは、オレンジに染められた白鍵と、白く長い指。

『あなたの指は、ピアニストが皆、羨むわ』

 柔らかいアルトが今も耳に残っている。

 ──これほど、諦められていなかったのだ。音楽を。

 オレンジがかった象牙色の鍵盤に、夕日を映した雫が、一滴落ちた。

    *

 放課後のがらんとした教室で、机を挟んで先生と向かい合う。

 視線を感じながらも、スカートのひだをぎゅっと握ってうつむいたまま、一言も話さなかった。

「まだ、決まらない?」

 沈黙に耐えかねたように、先生が口を開く。

「はい。

 ……やりたいことが、わからなくて」

 それだけ答えて、また黙りこくる。

「それなら今は上を目指しておけば大丈夫よ。あなたの成績なら、今のところ難関大も合格圏内なんだから」

 慌ててなだめるように、それが『安心させる言葉』だと信じて疑わないように、向かいに座る人は言った。

 この人は、本当に先生? こんなこと、普通の先生なら言うわけがないのに。

 媚びているのか、と思いあたったところで、軽い吐き気がした。

 ──何のために大人になりたいのか、わからなくなったのは、いつからだったのだろう。


 はい、と返事をしたのは、本当に私の声?


    *

 オレンジの名残を残して夕日は地平線の向こうに消えた。東の空は、早くも薄闇に包まれている。

 ──帰ろう。

 そう思って、顔を上げたときだった。

 廊下を歩く音が聞こえた。そしてそれは、徐々に近づいてきた。

 もし、咎められたら。ここにいていいような、都合のいい理由なんて持っていない。

 体が強ばるのがわかった。一拍置いて、ドアが開く。

「……あれ、先客?」

 そこに立っていたのは髪の長い女子生徒だった。大人びた、淑やかな雰囲気を身に纏っていた。

 にこりと笑って彼女は近づいてきた。

「どうかした? 二年生みたいだけど……」

 緑の学年章とスリッパ。それは、彼女が三年生だということを表す。

「いえ、なんでもないです。ただ……」

 呟いた声は尻すぼみに消えていく。

 ──逃げてきた、なんて恥ずかしくて言えない。

 うつむいた私と、ふたが開いたままのピアノを交互に見て、彼女は口を開いた。

「あなたは、音楽が好き?」

 優しい声で問いかけをされた。

 私は少し躊躇って、うなずいた。この先輩は、迷いなく音楽を好きって言える人なんだろうな、と思いながら。

 それなら、と嬉しそうにワントーン高くなった声で、彼女は言った。

「合唱部に入らない?」

 予想もしなかった言葉に、私はただ、目を見開くばかりだった。

「私、合唱部の前の部長だったの。でも、今の代の子たち、人数少なくて心配だから、引退はしたけど、今でも世話焼いちゃって」

 だから、よかったらどうかと思ったんだけど、と彼女は照れくさそうに笑った。纏う雰囲気に、年齢相応の甘酸っぱさがわずかに混ざる。

 私の表情が訝しげだったのだろうか、「でも、」と彼女は付け加えた。

「あの子たち、元気があってすごく良い子たちなの。それは私が保証する」

 そう言った彼女の微笑みは、幼子を見守る母親のような、慈しみをたたえたものだった。同性の私でさえ、思わず見入ってしまいそうになるくらいに。

 そして彼女はグランドピアノに軽くもたれ、形のよい眉をわずかに下げて、

「何か悩んでいるの?」

 と尋ねた。

 ──なんで、知って。一瞬びくっとするが、考えてみれば当然のこと。部外者が音楽室に来ることは滅多にない。

 話そうかどうか悩んだが、この人なら、ちゃんと聞いてくれそうな気がした。

「進路が決まらないんです。やりたいことがなくて。

 ……昔、ピアノやってて、音楽がすごい好きだったんです。歌を歌うのも好きでした。でも、やめてしまったんです。音楽の道に進むわけでもないからって」

 そこで一旦言葉を切る。ゆっくり息を吸って、私は、誰にも話したことのない思いを吐露した。

「でも、私ができることはなんだろう、って考えたとき、真っ先に出てきたのは、やっぱり音楽だったんです」

 進学校なら、普通はありえないような選択。

 誰も認めてくれないだろうからと、このまま閉じこめようとしていた望み。

 言葉にした途端、その気持ちが心を占拠した。──ああ、私は、やっぱり音楽を捨てきれなかったんだ。

 諦めたくない。この想いは、もう二度と手放したくない。

 けれど。誰も肯定してくれなかったら。

「……っ、ぅ……」

 顔を覆った手の隙間から嗚咽が漏れる。

 だめだ、涙が、抑えられない。

 ひく、と喉が引きつったとき、ぬくもりが頭にのった。そして、往復する感覚。

 おそるおそる、手をまぶたの上からどけると、彼女が、あの優しい笑顔で、私の頭をゆっくり撫でていた。

「諦めなくていいの。

 誰にも、あなたの望みを絶つことはできない」

 目を閉じて、歌うように彼女は言った。

 大丈夫、

「大丈夫よ。──私も同じだから」

 え、と思わず顔を上げると、鮮やかな夕焼けが映りこんだ、深みのある鳶色の瞳が、穏やかに微笑んでいた。

「……それは、どういう、」

 意味ですか、と訊きたかったのに、嗚咽がしぶとく邪魔をする。

 しかし彼女は、言わんとすることをくみ取ってくれた。

「同じなの。私も音楽が好きで、すごく悩んだ。

 ……でもね、」

 知ってる? というように、彼女は悪戯っぽく言った。

「その道を進むのは、結局は自分なの。ほかの誰がどう言おうと関係ないわ」

 あたりまえのことだけど、と彼女は笑いながら言った。

 ────違う。

 私にとっては、あたりまえじゃなかった。気づいたら抜け落ちていた。

 否定されるのが怖くて、心を主張できなかった。

 そっか。そうだよ。

 自分を選んでいいんだ。

 いつの間にか涙は引っ込んでいて、そう思ったときにはすでに彼女に尋ねていた。

「先輩は、大学、どこにするんですか」

 あるいは、大学じゃなくて。どういう進路があるのかを知りたかった。

「──音大の声楽科。実は推薦でもう決まってるの」

 でなければ、この大事な時期にこんな余裕でいられないわ、と彼女は答えた。

 音楽大学、声楽科。

 それを忘れないように、私は心の中で繰り返していると、彼女が口を開いた。

「ところで、さっきの話、どう? 合唱部、入ってみる気ない?」

 そうだ、その話から始まったんだ、と思った。……なら。

「……入りたい、です」

 ちゃんと言おうとしたのに、それでも語尾が震えた。

 私の答えに、彼女は、ぱあっと表情を明るくした。

「本当? 嬉しい!」

 彼女は迷わず私の手をとって──なめらかで温かい手だった──きゅっと握り、

「これからよろしくね」

 とにっこり笑った。

 よろしくお願いします、と言うだけで、もう歌いたくてたまらなくなる。

 私、こんなに我慢していたのかな、と内心で苦笑していると、パタパタと廊下を走る足音が聞こえてきた。

 ガラッとドアが開いて、

「先輩遅くなってすいません! 面談が延びました!

 と、そちらは……?」

「新しい部員よ。それと、こちらは合唱部の今の部長」

 開口一番、合唱部らしいよく通る声で言ったのは、ポニーテールを揺らす同学年の少女だった。

 え、え? と驚く現部長を、彼女が落ちつかせる。

「とりあえず事情は、あとで話すわ。今はそれよりも言うことがあるでしょ?」

 彼女に言われ、はい! と返事をし、現部長は私のほうを向いた。

 燃えるような西の空と、何もかもが柔らかいオレンジに染まった音楽室。二人の部長は、髪に橙のリングを抱いて、口を開いた。

 ──私はきっと、この光景を絶対に忘れない。


 合唱部へ、ようこそ。


    *


 数ヶ月経った今も、あの日のことは鮮明に覚えている。

 懐かしく思い返していると、先生が口を開いた。

「……そう。あまり例がないから私も詳しくはないけど、わかったわ。頑張ってね」

 その言葉に頭を下げる。最後に『第一志望:××音大・音楽部・声楽科』と書いた、志望大学の調査書を提出して、面談が終わった。

 教室を出るときに振り返って見た、机の上に置かれた紙は、淡いオレンジに染まり始めていた。

 失礼しました、と言ってドアを開けた途端、歌声が耳に飛び込んできた。

 ──もう、練習が始まってる。

 ドアを閉めて、私はすぐに廊下を駆けだした。自然と、頬に笑みが浮かぶ。

 早く、早く、あの空間へ、私も。


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