NO.034 ライツ・アンド・シャドウズ
月のない夜の闇より深い街の影の底で彼らは蠢く。例え、表の世界で何が起こっていようとも彼らの営みは変わらない、世界を揺るがした人類戦役の後でさえ彼らの商いに大きな影響を及ぼすことはなかった。ただ少し、取引する相手と品が増えたに過ぎない。今夜、この香港の片隅で行われる取引もそんな数え切れない悪徳の一つだった。
「――さすが役人は時間通りだな」
やってきた取引相手の車を暗がりで確認し、咥えていた煙草を踏み消しながら、男はそういった。男の背後にはいかにもといった身なりをした郎党たちが数人控えている、それぞれが複製品の銃器を持ち、引き金に指を掛けている。これから会う取引相手は決して油断の許される相手ではない、これぐらいの警戒はエチケットのようなものだ。
”組織”とUAFによるサイバネティックス技術の大量流失、その技術が彼らの扱う新しい商売品だ。技術者さえ確保すれば、なおかつ被術者の負担と人権を考慮しなければ、比較的安価に生産可能な人間兵器、この新しい目玉商品は裏の世界に新たね利権を齎した。しかも、買い手に困ることまずはない、同業の犯罪組織にテロリストや傭兵、果てはただの物好きな金持ちから国家まで放っておいても儲け話は舞い込んでくる。
けれども、需要を握ったとしても供給を確保できなければ意味がない。香港を拠点とし世界各地にコネクションを持つ彼らでもかの”組織”や強い権限を持つ国際組織であるUAFの組織力には遠く及ばない。サイボーグかに必要なナノカーボンや各種動力源はそれによって独占され、医療目的でさえ流通には重い規制がかかっている。入手するにはブラックマーケットに流れるサイボーグの残骸から剥ぎ取ったものを競り落とすしかなかった。
ありとあらゆるものがそうであるように資源は常に限られている。それは人的資源においても同じだ。彼らは挙ってノウハウを持つ技術者を囲い込み、それをめぐって少なからぬ抗争が起きた。二年に及んだ血みどろの抗争の末、サイバネティックス技術裏市場のシェアを握ったのが彼らの組織だ。それでも彼らの得る利益は採算が取れているといいがたいものだった。
そんな割に合わない市場もある日を境に金のなる木に変わった。そのきっかけを作ったのがこれから現われるであろう男だった。どんな堅固な堤にも蟻の一穴が存在するように、どんな法にも抜け穴が存在し、どんな組織にも腐敗が存在する。彼らが取引するのはその腐敗の中でも最も大きく、最も醜い腐敗の一つだった。
「――やあやあ、皆さん。おや、貴方までいらっしゃるとは珍しい、お待たせしましたかな、王大人」
車のドアが開き、まず数人の男たちが現われる。鍛え抜かれた屈強な身体は身に纏った衣服の上からでも伺える。その屈強の男たちに続いて今度は対称的な短躯ででっぷり太った男が現われる。その男は彼らを認めると陽気に手を振りながら、愉快な様子でそういった。
「いや、まってねえさ。そちらさんこそ、今は忙しいんじゃないのかい、張副支部長殿?」
UAF香港支部、副支部長、張小龍、悪徳と不正に塗れはち切れんばかりに太ったこの男こそがUAFの腐敗の生きた証拠といえた。
UAFによって管理保管されるサイバネティック技術の産物や機械化装甲服を始めとした先進兵器、差し押さえられた違法薬物や物品の横流し、それを一手に管理しているのがこの男だ。この男の齎した上質な品が今の市場を作ったといっても過言ではない。
横流しによって得た膨大な資金による賄賂や買収、裏社会へのコネクションを使った暗殺、数え切れないほどの罪で作った玉座を守るためにあらゆる悪徳を積み重ねてきた。狡猾なこの醜い悪龍が直接取引の現場に現われることは滅多にない、いつもは子飼いの部下を取引によこすのみだ。この男が取引の場に現われるというのはすなわち、なんらかのイレギュラーの発生を意味する。
「いえいえ、査察程度たいしたものではありませんよ。いつもどおり彼等は歓待を受け、本部に帰り、何事もなかったと報告することでしょう」
「そうかい、そりゃよかったな」
定期査察、不正に塗れたこの男にとっては問題になるはずのその慣習もいまや毎年の恒例行事に過ぎない。都合の悪い報告をされるようなことはないし、仮にあったとしてももみ消せばいいだけの話、査察などイレギュラーには程遠い。
「それにしても今日は随分と大所帯だ、穏やかじゃねえな」
「他意はありませんよ。最近妙な噂が広まってるでしょう? 一応の用心です、もっとも貴方にとっては死神などおそるるに足らないでしょうがね」
「んなこたぁねえさ、俺はこれでも信心深いんだ」
世間話をしながら、相手の出方を伺い、表情や動きを観察する。両者共に相手を信用など一切していない。如何に自分の有利なように交渉を進めるか、その思惑のみが交差していた。
「では、今回の商品のほうをお見せしましょう。君、もって来たまえ」
張の言葉に従って、数人の部下が車のトランクから物々しい幾つものアッシュケースを持ち出してくる。全員が息を呑んだ。外見は貧相だが、その中身がどれほどの価値を持つかこの場にいる全員が理解していた。
それに続いて次々と彼の商品が露店のように並べられていく、そのどれもが山のような金を詰まなければ到底手に入らない一級品だった。
「こいつはまた豪勢だ。戦争でもでもしろってか」
「ナノカーボン繊維五十キロ、プラズマ炉のコアモジュール三基、新式ライフル十丁、そして今日の目玉が、生体装甲の一式。なかなか、入手に困りましたよ、頑固な倉庫番を一人解雇する羽目になりましたし」
「その倉庫番はしばらくしたら、不慮の事故にあうだろうさ。まったく夜道は怖いもんだ」
「まったくその通りですな、私も気をつけませんと」
品の確認はできた。予想以上に豪華な品揃えではあるがたいしたことではない。残るは金の受け渡しが残るのみだが、問題はいつだってその金だ。
「――いやしかし、王大人、貴方が来て下さるとは丁度いい。手間が省けるというものだ」
「ほう、俺に話しねえ。景気のいい話ならこっちは大歓迎なんだがな」
ようやく本題かと王は内心毒づく。張小龍が直接現われたのだ、景気のいい話などとはもともと期待していない。どうせ何かろくでもないことに違いないが、張は唯一のクライアントだ。彼らとて機嫌を損ねるのは避けたい、ゆえにその無茶をどこまで値切るか、それが彼に期待された役割だ。
「申し上げにくいのですがね、極東での一件以来、妙に規制が強くなりましてな。品の入手も中々難しくなってきたのです。そこで残念ながら……」
「また値上げってわけかい? いい加減にしてくれねえとこっちも商売上がったりだぜ、相場知ってんのか、アンタ?」
「ええ、当然把握しておりますよ。その上で申し訳なくも少しばかり額を上げていただきたいのですよ。そうですね、一つにつき千五百万でいかがでしょうか?」
「は、何が相場だ。今までの二倍なんざ、吹っかけるにしても笑えねえな、なあ、おい」
「――ッ!」
向き出しの殺気に張の部下たちが身構える。荒削りだが、獣のような凶暴な気迫は数多の抗争で培われたもの、いくら高度な訓練を受けているとはいえ実戦経験の少ない長の部下たちでは少々にが重い。幹部たる龍頭達からこの重要な取引を任されたこの男は裏社会においても、狂虎と恐れられる王厳仁だ。彼らのようなただの悪徳軍人では相手にならない。
歴戦の勇士も斯くやと言う殺気に晒されても、張は歪んだ笑みを崩さない。小悪党とはワケが違う、醜悪の悪徳の首魁にとっては剥き出しの殺気程度大したものではなかった。
「妥当なお値段だと思いますよ? 現状、あなた方の求めるものを供給できるのは私しかおりませんし、我々もこの取引には相応のリスクをおってあなた方に商品を提供しているのですから、我々の苦労も鑑みていただきませんと」
「は、それで二倍だって? そんな話じゃあ誰も納得しねえぜ」
口調は丁寧だが、脅しているのそう変わりはない。お前たちがこの値段で納得しないのなら、商売敵に売りつけるまでだと脅しているのだ。彼らが市場を抑えて以来、煮え湯を飲ませれてきた商売敵たちのことだ、相場の何倍だろうが買い付けるに違いない。それは彼らには許容しがたい事態だ。
「――ですが、まあ、あなた方はお得意様だ。こちらとしても、あなた方のご商売に触りが出るようなことは避けたいのですそこでどうでしょうか? 一千二百五十ではご不満ですかな?」
「高いな。七百五十なら、叔父貴たちもあんたの苦労を汲んでくれると思うんだが……」
ここから彼の仕事だ。取引価格の値切り、彼らが許容できなおかつ張が頷く適正価格へと到るまでひたすら交渉を繰り返す。ただの狂人では組織で重用されることはない、狂虎の異名とは裏腹にこの男は狡猾さを併せ持っていた。先程振りまいた殺気も張のほうから譲歩案を切り出してくるように仕向けるための布石に過ぎなかった。
「――仕方がありませんな、一千万で手を打ちましょう。あなた方は大事な取引相手だ、多少の赤字は必要経費と割り切りましょう」
「赤字はこっちも同じだ、叔父貴たちを説得する俺の身にもなって欲しいぜ。んじゃ、物の取引と行こうか――」
数分の取引の結果、両者の納得できる額に辿り着く。議論の末に辿り着いた額のようにも思えるが、実際のところ両者の想定の範囲内に過ぎない。残るは実際の取引だけ、金と品を交換し、持ち帰るだけで彼らの仕事はお終いだ。
だが、それが悪徳を見逃すことはない。例え彼らが巧妙に隠そうとも、それは必ず訪れる。その時が今このときだった。
「ん、おい? なにやってんだ? 早く金をもってこい、張の旦那を待たせんな」
「へ、へい、すぐに呼びます。おい、お前ら、飛のやつを――――あ?」
最初にそれに気付いたのは王の手下の一人だった。
他の仲間に指示を出そうと振り向いた先に広がるのは見慣れたゴロツキたちだったものの残骸の山。薄暗い電灯が照らす血に汚れたコンテナと地面、その中心に立つ碧い目をした黒い何か、それがなにか理解するよりも早く、彼もまた残骸の一つに加わることになった。
「――っなんだ!?」
「――うわあああああ!!」
王の指示を待つまでもなく、残りの手下たちは闇雲に引き金を引いていた。目の前で真っ二つになった仲間、目の前に転がってきた目を見開いた上半身、認識してしまった目の前に広がる光景へ恐怖が彼の指を強張らせ、正常な判断力を失わせる。
野放図に放たれた弾丸が電灯を撃ちぬき、彼らから唯一の明かりを奪う。恐慌による混乱は結果として彼らの結末を寄り堅固にしてしまう。明かりのない闇の中は影にとっては絶好の狩場だ。そして、影の刃が狙うのは彼らだけではない。この場に集った全ての罪人が裁くべき存在だった。
「なんだ!? なにが――ヒィィッ!」
「――く、来るなぁ!」
張の側からも悲鳴が上がる、抵抗も許されずに数人がどうにか装備した装甲服を展開したものも、そうでないものも関係なく、影の刃は命を刈り取っていく。
幾つものマズルフラッシュが暗闇を照らす。その度に鮮血が舞い、悲鳴が上がり、光は一秒ごとに消えていく。影は一人づつ確実に彼らを死へと導いている。どす黒い血が黒い外套をより深く染めていた。
数秒にも満たない時間の後、そこに広がっていたのは凄惨な鏖殺の跡だった。正面から唐竹割りされ真っ二つにされた死体、無造作に転がる無数の首、内臓と脳漿がぶちまけられべったりと地面とコンテナに張り付いている、そこだけが地獄の底に繋がったようにさえ思える光景だった。
しかし、そんな地獄にもまだ生者は残されている。
「――ハア、ハアッ……畜生、舐めたマネしてくれやがって………クソがっ!」
「に、逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ! こ、殺されてしまう、わ、私は死にたくない!!」
生き残ったのは二人、折りしもそれはこの悪徳の首魁たる、張と王、その二人だった。咄嗟に戦闘形態に身体を変換し、張を庇ったのが幸いしたのか、それとも意図的に残されたのかは知らないが彼等二人が唯一の生き残りとなっていた。
子供のように喚く張を無視して、王はひたすら目の前の何かを注視する。痛みに思考を蝕まれながらも、王はどうにか正気を保っていた。切り落とされ、目の前に転がった左腕の事も視界から締め出し、敵のことだけを意識する。異名の通り虎を模した戦闘形態も今では心もとない、本物の怪物の前では虎などただの獲物にしか過ぎない。
死神、相対した敵の姿にそんな非現実的な言葉すら脳裏を過ぎる。血に濡れた夜に溶ける黒い外套、暗闇から彼らを射抜く蒼白い鬼火の目、右手に握られた得物は闇の中で煌く鬼火と同じ蒼い長刀、こっけいに思えるほどありきたりなその全てが恐怖を煽り立て、冷静さを食いつぶしていく。対峙しただけで何もかもを影に飲み込まれるようなそんな錯覚が彼らの足元に忍び寄ってくる。
「は、早く、私を連れて逃げろ! わ、私が殺されてはお、お前たちも困る、そうだろう!?」
「――うるせぇんだよ!! 黙ってろ!!」
今背中を見せれば、確実に殺される。彼我の距離は二十メートルもない、背中を見せれば、一瞬あとには首が落ちているだろう。ただ逃げるだけでは命を捨てるのと同じだ。
しかし、恐怖を堪えて敵を分析すれば分析するほど、本能が逃げろと悲鳴を上げる。目の前のこの存在は、今まで相手にしてきた商売敵の粗悪なサイボーグややる気のないUAFのエージェントとは違う。人の姿をした怪物、まさしく本当の意味での人型兵器が目の前に立ちはだかっていた。
飲み込まれそうな恐怖の中で彼らの思考は同じ回答に辿り着いた。彼らはこの死神を知っている。
「――噂は本当だったってワケか」
「――あ、ああ、奴だ、奴に違いない! あの報告は、ほ、本当だったんだ! い、いやだ! ワシはまだ死にたくない!!」
噂、そう噂だ。この一年間、あちこちで吹聴されていた都市伝説にもその噂、死体の山を積み上げながら、西からやってきたあの噂だ。
その噂に曰く、月のない夜の闇には髑髏が潜んでいる。その髑髏はどんな些細な罪すらも許さず、見つけた罪人を必ず地獄に引きずり込む、異口同音に語られるその噂は細部は違えど、おおむねそんな内容だった。どこにでもあるようなただの鼻で笑い飛ばす都市伝説に過ぎなかったそれは短い期間で病のように広がっていた。
その所以はただひとつ、山のような死体が死神の存在に現実味を持たせたからだ。どこの組織の所属であれ、夜の住人を分け隔てなく殺していく髑髏の死神、都合のいい御伽噺に思えるようなそれをいつ間にか誰もが畏れるようになっていた。
そうして、今、髑髏の死神は彼らの元を訪れた。
「……畜生、畜生が! 死んでたまるか!」
王が前に出る。後ろに道はない以上、前に出るしかない、そんなやけくで出しかない決意の元、死神へと向かっていく。今まで幾度も死地を乗り越えてきた、幹部にも上り詰めることもなく、こんなところで死ぬわけにはいかない。だが、恐怖を打ち払ったつもりでも、背筋から忍び寄る死に恐怖は決して獲物を逃しはしない。
「――――あ?」
全ては一瞬の内に行われた。己の失態を認識する間もなく、己に何が起こったのか理解する間すら与えられず、王に残されたのは反転した視界だけだった。下から上に景色が落ちていく、天が地に、地が天になり、ゆっくりと落下し続けている。それがどういうことなのか認識するよりも早く、彼の意識は途絶えた。
「そ、そんな!? ありえない! あの王が一撃で……そんな、そんな……馬鹿な」
一拍の間の跡、残された胴が崩れ落ちる。死神の刃は、一瞬で王の首を刈り取った。交差の一瞬、回避も防御も許さない一瞬で刃は振るわれた。人間に過ぎない張の動体視力ではその一瞬を捉えることすらできなかった。気付いた時には、首のない王が崩れ落ちたようにしか彼には見えなかった。
「く、来るな! た、頼む、金ならいくらでも出すぞ!? そうだ、女でも何でも好きなものをくれてやる! どうだ、悪い取引では――ヒィッ!?」
仕留めた獲物には何の興味示さずに、何も写していない蒼い鬼火は次の獲物に狙いを定める。捜し求めた悪の一人が目の前にいる、だというのに死神はいつものように獲物へと歩を進める。なんのことはない、いつもと同じだ、何も変わらない。ただ粛々と平等な憎悪を持って裁きを下すだけだ。
「ま、まてーーっ!?」
蒼色の刃が突き立てられる。分厚い脂肪も、太い骨も、醜悪な心臓も諸共に貫いて、刃は過たず彼の命を刈り取った。
やはり、なんの感慨を感じることはない。復讐の第一歩、仇の一人をようやく仕留めたというのに彼はいつも感じている衝動以外には何も感じることができなかった。
それでもいい。彼は自らに課した義務を遂行する、そのために不要なものならなんであれ切り捨てている。今更、感傷などなんの価値も持ちはしない。
目指すは東、為すべきは罪の清算、それは世界が滅ぼうとも変わることはない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
窓から差し込む光がほのかに部屋を照らす。ほのかな光と心地よい静けさ、まだ誰も起きだしてこない早朝は一日の中でも一番気分のいい時間帯だ。眠らなければ夢を見ることなく、この時間を迎えられるのだから徹夜も悪くはないかもしれない。
閲覧、承認、送信。届いたメールの中身を検めて、それを元に報告書を作成する。その単純作業を果てもなく繰り返す。慣れていないせいか、それとも俺に事務作業の適性がないのかは分からないが、作業が終わる気配は微塵もない。処理すべき案件、考えるべき課題、それを上手く報告する文面、報告書を作るというのはこんなに難しいものなのかと頭を抱えたくなる。不謹慎だが、これなら戦ってるほうが幾分か楽だ。
中間管理職何ざなるもんじゃない、残業代も出ねえクソの中のクソみたいな仕事だ、エドガーが言っていた言葉だ、あの時は笑い飛ばしていたが実際なってみるとこれが中々身に染みて感じられる。まあ、本人が今、本部への報告ついでに帰宅して、三時間に一回は娘の写真を送りつけてこなければもう少し共感できたのかもしれない。奥さんのクレアの事も知らないわけでもないし、家族で幸せに過ごすのはいいことだと思うのだが、それを独り身の滝原やそういうのとは縁遠い俺に送ってくるのは自重したほうがいいと思う、それがなければ少なくとも滝原の機嫌が少し悪くなることはなかっだろうから。
「――残りは訓練計画とこの前の作戦報告……少し休むか」
気分転換がてらに少し歩くのもいいかもしれない、さすがに与えられた執務室にこもりきりと言うのも不健康だろう。
そう考え、ドアを開け外に出ると、扉の横に表示された表記がいやでも目に入った。第五○一独立空挺戦隊隊長、エージェント・01(ファースト)特務士官、素に肩書きを見るたびに反射的に溜息をついてしまう。名前のない俺には呼び名しかないが、その呼び名の中でも特にこのエージェント・ファーストという呼び名は好きじゃない。理由は簡単だ、俺をこの名で呼ぶのは本部の連中で、この名前で呼ばれるときは大抵ろくなことがないからだ。そんな事を思うのも、向いてない隊長職をこなしているのもあるだろうが、それ以上に今の現状のせいだろう。
ギガフロートでの攻防戦から、一ヶ月、現状を一言で表すなら終わりのない膠着状態と表現するのが相応しいだろう。俺の目の前にわざわざ姿を現したリヒターや新たに現われたヘカテという名の奴らの首魁と目される敵、NEOHモドキそれらの敵はこの一ヶ月間、あの時のことが嘘だったかのように姿を現していない。不気味なほどに静かで、何をたくらんでいるのかさっぱり分からないが、それでもこちらは警戒を緩めるわけにはいかない。こちらにできるのは僅かな情報を元に、”組織”の持つ裏の拠点と思わしき場所を虱潰しにしていくしかない。その成果も大したものじゃない、確保した情報も捕まえた連中も末端も末端、使い捨ての駒ばかりだった。取り調べたところであまり意味はなかった。
敵は行動を起こさない、だが、警戒を緩めるわけにはいかない。疲労とストレスだけがじりじりと溜まっていく、仕方がないとはいえ、あまり良い状況ではなかった。何か変化が必要だった、そして、それが良いものであるように祈るしかない。
「――コーヒーでも飲むか」
何の気なしに歩いていると、休憩所の前に辿り着く。ここのコーヒーの味は最悪だが、鈍った頭を動かすにはこのぐらい不味いやつが丁度いい。
自販機の前に立ち、ブラックコーヒーを注文する。数秒もしないうちにコップに黒い液体が注がれる、相変わらずこれをコーヒーと呼ぶのは色んな人間に失礼だろう。
「――あれ? もう起きてたの? 随分早いわね」
「……おはよう。君のほうこそ早起きだな、滝原」
苦い何かを流し込んでいると、後ろから鈴の音のような声が聞こえてきた。彼女もまた徹夜したのだろう、人の事を言えたものではないが、もう少し身体に気を使ってもらいたいものだ。
「あまり、徹夜はしないほうがいいぞ。少しは休め」
「人のこと言えるの? それに一応寝てるわよ、二時間くらいだけど」
そういうと滝原は栄養ドリンクを頼み、そのまま飲みだす。もともと、弱さを表に出すのは少ないほうだが、その表情からはあまり疲れは感じられない。忙しいのは確かなようだが、一時期に比べればまだ良い方なのだろう。
「――疲れた顔してる。そんなに事務仕事は苦手? そんな量なかったと思うけど……」
「ん、まあ、慣れてないのは確かだ。今までは人任せだったしな」
どうやら、事務仕事に苦戦してるのを一発で見抜かれたらしい。よほど顔に出ているようだ。
「誰か人をつけようか? そのぐらいならどうにか融通利かせられるから……」
「いいさ、時間がかかっても慣れないと仕方がない」
「そう? 本当なら貴方に事務仕事なんかさせたくないんだけど、そういってくれると助かるわ」
何時までも苦手だから倦厭していても始まらない、何事も慣れだ。滝原の提案はありがたいが、この際、量をこなすためにも一人で仕事をするのも悪くはない。
「――あー、なにか情報は入ってないのか?」
「駄目ね、諜報部は相変わらず役に立たないし、私の伝もなしの礫。そっちは? サーペントから連絡あった?」
「あったら、報告書なんか書いてないさ」
静かといえばサーペントもそうだ、祝勝会で電話してきて以来、連絡がない。これまでどおり何か情報を摑み次第連絡があるはずだが、何の連絡もないということはアイツでも何一つ摑めていないということなのだろう。
”組織”の連中は深くもぐっている。引きずり出すには何か大きなきっかけが必要だった。
「そうよね。……まったくイヤになるわ、待ちの一手てのが一番―――ん」
「――こんな早朝に電話か、なにかありそうだな」
「ええ、良い連絡だといいんだけど――はい、滝原です」
早朝の静けさを無機質な機械音が破る。携帯端末の呼び出し音、それもこんな早朝に良い知らせなワケがないが、それでも現状を破る切欠にはなるかもしれない。
「はい、わかりました、すぐに手配します。では、また、折り返し連絡します」
二言、三言、会話を交わすと滝原は電話を切る。とりあえず愉快な話題ではないのは声色と表情からも伺える。なんであれ、なにか大事が起こったのは間違いない、問題はそれが俺たちにとってどんな意味を持ちうるかだ。
「――滝原」
「――01、仕事よ。みんなにも早起きしてもらいましょう」
滝原の雰囲気が変わる。待ちの一手は終わり、ようやくもって仕事の時間、そういうことだ。ならば、俺もやるべき事を為す、事務仕事は後に回して、本来の機能を果たすとしよう。
そうして、慌しくその朝は始まった。これから何が待ち受けるとも知らず、何が起ころうともかまわず、新たな局面を俺たちは迎えた。それでもいい、覚悟はできている。例え、どうなろうとも、為すべきことは変わらないのだから。
どうも、みなさん、big bearです。今回からは新章開幕、新キャラ新設定もどんどん出てくる予定です!
では、こんなだめ作者と拙い文章ですが、どうかこれからも暖かい目でよろしくお願いします。
誤字脱字報告、ご意見、ご感想、ご質問等ございましたらぜひぜひお書き込みください。