『【ASMR】絶対に音を立ててはいけない儀式で配信してみた結果www』
夏のホラー作品です。
よろしくお願いいたします。
「……はい、というわけでね。今月の家賃、見事に飛ばしました!!」
暗闇の中で、俺は自分の膝を軽く叩いた。
手応えのある乾いた音が、六畳一間の狭い室内に虚しく響く。
築四十年の木造安アパート。家賃は破格の月三万二千円。
エアコンからはたまに『ガガガ』と壊れたジューサーみたいな異音が聞こえるし、壁は薄すぎて隣の部屋の住人が観ているバラエティ番組の笑い声まで丸聞こえという、控えめに言っても劣悪な環境だ。
だが、今の俺にはその三万二千円すら払えない。
俺はヤマト。二十四歳、フリーター。
世間的には『夢を追いかける若者』なんて綺麗な言葉で形容されることもあるかもしれないが、実態はただの底辺動画配信者だ。
一応、オカルト系YouTuberという肩書を名乗ってはいるものの、チャンネル登録者数はなんと奇跡の「二百十二人」。勿論、収益化など出来る筈もなく、利益は零。当然、食っていけるはずもない。
「はぁー……笑えねぇ」
深々と溜息をつくと、俺は作業机の上に鎮座する『それ』に視線を落とした。
黒い金属製の台座の上に載った、人間の耳の形を模したシリコン製の物体。
そう、ASMR配信などでよく使われる超高感度立体音響マイク——通称、バイノーラルマイクだ。
音フェチ動画や耳かき動画で一世を風靡したこの機材。俺は一ヶ月前、一発逆転のバズを狙って、消費者金融から借金までして三万円で買い叩いた。
『これさえあれば、オカルト×ASMRという新ジャンルで天下が取れる!』
そんな甘い幻想を抱いていた時期が俺にもありました。
結果は惨敗。チャンネル登録者は十人も増えず、残ったのは毎月やってくる借金の返済と、大家からの容赦ない家賃督促状だけだった。
今日中に大家のババアに「来月には絶対払います!」と土下座混じりの電話を入れなければ、来週にはこの部屋を追い出される。ホームレス確定だ。
「マジで後がない。本当に後がないんだよ……!」
頭を抱えて頭髪を掻きむしる。
だが、そんな極限状態の俺に、昨夜、ネットの海を漂流していた際、女神――あるいは悪魔――が微笑んだ。
それは、大手掲示板のオカルト板の最深部、検索エンジンにも引っかからないような捨てスレッドにひっそりと書き込まれていた、ある『都市伝説』だった。
スレッドのタイトルは——【閲覧注意】『無音参拝』の儀式について【絶対に試すな】。
内容を要約するとこうだ。
昔、ある地方で執り行われていたとされる秘術の一種。
特定の準備を整えた上で、暗闇の中で『それ』を呼び出し、決められた手順を踏む。
そして最後に行われるのが、十五分間の『無音参拝』。
その十五分間、絶対に一切の音を立てずに耐え切ることができれば、どんな願い事でも一つだけ叶うという。
「……借金返済、一発逆転、チャンネル登録者数一万人超え。どれでも叶うってわけだ」
普通なら「はいはい、よくある釣りね」と吹き出して終わるところだ。
だが、そのスレッドの書き込みの最後には、俺の目を惹きつけて離さない決定的な一行が添えられていた。
『追記:この儀式は、音がすべてのトリガーとなる。故に、高音質の集音機材を用いて行うと、奴の存在をより鮮明に感知できる。ただし——一度でも音を立てて存在を知らせてしまえば、身の終わりと思え』
音。集音機材。
それってつまり、このバイノーラルマイクのことじゃないか?
「……これだ」
暗闇の中で、俺の口角が自然と吊り上がっていくのが分かった。
ただの都市伝説検証動画じゃない。
『絶対に音を立ててはいけない儀式』を、超高音質ASMRで生配信する。
このスリル。このリアル感。
たとえ怪異なんてものが存在しなかったとしても、企画として間違いなくバズる。深夜のノリと絶望感が、俺の冷静な判断力を完璧に麻痺させていた。
「よし……やるぞ。今夜、俺のオカルト系配信者としての運命を変えてやる」
時刻は午後十一時十五分。
俺は急いで準備に取りかかった。
儀式に必要なアイテムは驚くほどシンプルだった。
一、無音参拝を行うための締め切った部屋――安アパートの俺の部屋で十分だ――を用意する。
二、一本の線香と、マッチ。
三、お椀に入れた、日本酒。
四、そして、時間を刻むためのタイマー。
机の上にバイノーラルマイクをセットし、その左右にスマホとノートPCを配置する。スマホは配信のカメラ兼コメント確認用。PCは配信用ソフトの操作用だ。
「ふぅ……ふぅ……」
心臓が嫌な高鳴りを見せ始める。ただの企画だ、ただのパフォーマンスだ。そう自分に言い聞かせるが、手先がかすかに震えていた。
十一時四十五分。
俺はYouTubeの配信管理画面を開き、新規配信のタイトルを入力する。
『【ASMR】絶対に音を立ててはいけない儀式で配信してみた結果www【イヤホン推奨】』
サムネイルには、黒背景に赤文字でデカデカと「※閲覧注意」「心霊現象」の文字を躍らせた。我ながら底辺YouTubeらしい、完璧な釣りサムネだ。
配信開始ボタンを押す。
『配信中』の赤文字が点灯した。
最初は同接「0」。当然だ。うちのチャンネルにそんな即効性はない。
だが、Twitterに「今からヤバい儀式生配信します!リンクはこちら!」とポストし、オカルト系のまとめ掲示板に宣伝URLを貼り付けると、少しずつ、パラパラと数字が増え始めた。
同接:1……3……8……12。
「よし、二桁いった……!」
俺はマイクに向かって、ASMR特有の『ささやき声』で話しかけた。
バイノーラルマイクは優秀だ。俺の吐息混じりの声が、左右のチャンネルにリアルに振り分けられていく。
「……えー、皆さんこんばんは。ヤマトです。夜遅くに集まってくれてありがとうございます」
コメント欄が、ゆっくりと動き始める。
『うお、ASMRかよ』
『ヤマト兄貴オス!今日なにするの?』
『タイトルw 釣る気満々で草』
『イヤホン着けた。声近くてキモいww』
「ふふ、キモいは余計だろ。……実はね、今夜はマジでヤバい企画を持ってきました。今から、ネットの深層で見つけた『無音参拝』っていう都市伝説の儀式をやります」
俺は画面に向かって、準備した線香とマッチ、日本酒の入った小さなお椀を見せた。
「ルールは至ってシンプル。このバイノーラルマイクの前で儀式を開始したら、そこから十五分間、【絶対に一切の音を立ててはいけない】。もし音を立てずに耐え切れたら、どんな願いも叶うらしいです」
コメント欄のテンポが少し早くなる。
『はいはいデマデマ』
『またそういうオカルト企画か』
『音立てたらどうなるの?』
「音を立てたら……まあ、噂によると『音の主』にどこかへ連れ去られるらしいです。……まあ、俺としては今月の家賃三万二千円がどこからか降ってくればそれで万々歳なんですけどね」
俺は冗談めかして笑ってみせた。
コメント欄も『家賃www』『切実すぎて草』『投げ銭してやろうか?』といった、温かい、あるいは馬鹿にした空気に包まれている。
同接数はいつの間にか「二十五人」まで増えていた。俺のチャンネルとしては、これでも過去最高のロケットスタートだ。いける。この企画は当たる。
「それじゃあ……そろそろ時間なんで、始めたいと思います。あ、視聴者の皆さんはぜひ【イヤホンかヘッドホン】で聴いてください。マイクが拾う微小な音まで完璧に届くんで、臨場感がヤバいと思います」
俺は部屋の蛍光灯の紐を引っ張った。
カチッ、という硬い音が響き、部屋が一瞬で深い闇に包まれる。
PCとスマホの画面から漏れる青白い光だけが、暗闇の中で俺の顔と、バイノーラルマイクの異様なシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……それじゃあ、儀式を始めます」
俺はマッチを擦った。
シュッ——ガチッ。
小さな火花が散り、橙色の炎が暗闇を照らす。
線香の先に火を移すと、一本の細い煙が立ち上り、特有の香木と甘い灰の匂いが六畳間に広がった。
お椀の酒に、線香の灰をひと落ち分、落とす。
ポチョン……。
バイノーラルマイクが、静寂を切り裂く水滴の音を、恐ろしいほどの解像度で拾い上げた。まるで耳元で直接水滴を垂らされたかのような錯覚。
「……準備完了です。これより、十五分間の『無音参拝』を開始します。俺はこれ以降、喋りません。指一本動かしません。……皆さんも、どうか静かに見守っていてください」
俺はスマホのタイマーを「15:00」にセットし、スタートボタンを押した。
そして——部屋から、一切の言葉が消えた。
カウントダウンが始まる。
14:59……
14:58……
静寂。
ただひたすらに、重苦しい静寂。
(……ふぅ、あとは十五分間、じっとしてればいいだけだな)
俺は心の中でそう呟き、暗闇の中で密かに勝利を確信していた。
これを機に多くの登録者を確保できると夢を見ていた。
14:12……
13:58……
画面上のタイマーが、静かに数字を削っていく。
部屋の中は、完全なる暗闇と静寂に包まれていた。
あるのは、PCとスマホの画面が放つ青白い光と、線香の先にぽつりと灯る赤暗い火種だけだ。
(……余裕だな)
俺は心の中でそっと息をついた。
喋ることも、体を動かすことも禁止。一見すると退屈な企画に見えるかもしれないが、バイノーラルマイクの集音性能は凄まじい。
《スゥ……ハァ……》
俺の呼吸音が、まるで聴き手の耳元で直接吐息を吹きかけているかのように鮮明にマイクに拾われている。
さらには、衣類が皮膚と擦れる微かな音、ごくりと唾液を呑み込む喉の動き……そういった、普段なら人間が意識すらしない生理的な生活音が、立体音響として配信に乗っているのだ。
スマホの画面を見ると、コメント欄がゆっくりとスクロールしていた。
『息遣いASMRたすかる』
『なんか音質良すぎてゾクゾクするわ』
『てかヤマト、全然動かないの凄くね?w』
『これマジで15分耐えたら投げ銭するわ』
同接数は「四十二人」まで跳ね上がっていた。
俺の目論見通りだ。ノイズのない完全な静寂と、超高音質マイクがもたらす臨場感。視聴者たちは、画面の向こうで固唾をのんで俺の「無音」を見守っている。
このまま何事もなく十五分が過ぎれば、企画としては大成功。
明日には「底辺YouTuberがやったASMR儀式がシュールすぎて草」みたいなまとめ記事が作られて、チャンネル登録者数も一気に増えるはずだ。
そう思っていた。
タイマーの表示が【11:45】を指し示した、まさにその瞬間までは。
《……ズ、……ズズ……》
(……ん?)
俺は暗闇の中で、ほんの少しだけ眉をひそめた。
マイクの『左側』から、かすかな音が聴こえた気がしたのだ。
それは、乾いた畳の上に、湿った衣服を擦り付けるような……不快で小さな引きずり音。
(隣の部屋か……?)
一瞬、そう考えた。
ここは築四十年のボロアパートだ。壁の薄さは紙一枚と言ってもいい。隣の住人が夜中に布団を畳み直したか、あるいは何か物を動かした音が壁を伝ってきただけだろう。
そう自分に言い聞かせ、俺は身動ぎ一つせずに正面を見つめ続けた。
しかし——
『ん? 今なんか音しなかった?』
『左から「ズズッ」て聴こえたぞ』
『隣の部屋の音じゃね?』
『いや待って、イヤホンで聴いてるんだけど、部屋の中っぽくない?』
コメント欄が、わずかにザワつき始めた。
視聴者たちも、あの音を拾っていたのだ。バイノーラルマイクの性能が良すぎるせいで、壁の向こうの微小な音まで拾ってしまったらしい。
(頼むぜ大家さん、壁の補修くらいしておいてくれよ……)
心の中で苦笑いを浮かべ、俺は意識して呼吸を浅くした。
これ以上、自分の呼吸音でマイクを汚さないように。儀式のルールである「無音」を保つために。
だが、恐怖は予期せぬ拍子で、静かに、確実にその爪を立て始めていた。
10:05……
09:42……
タイマーが十切りを迎えた頃。
今度は、はっきりと聴こえた。
《……ペタ……》
静寂を切り裂く、湿り気を帯びた音。
《……ペタ……ペタ……》
(……は?)
俺の背筋に、冷たい氷を直接押し当てられたかのような戦慄が走る。
音は、壁の向こうからではない。
『俺の部屋の、玄関の方』から聴こえた。
この部屋の玄関ドアは、鍵もしっかり締めている。それに、ドアが開く『ガチャリ』という音なんて一回も聞こえていない。
なのに——玄関のたたきから、六畳間の畳の上へと、何かが足を踏み入れてきたかのような足音が、確実に部屋の中に響いたのだ。
《……ペタ……ツ……ペタ……》
足音は一つではない。裸足で濡れた床を歩くような不快な音と、重い何かを引きずる音がセットになっている。
ゆっくりと。だが確実に、入口から俺の座っている作業机の方へと近づいてきていた。
コメント欄の速度が、一気に加速する。
『おいおいおいおい』
『今の絶対アパートの音じゃないだろ!!!』
『え、マジで何??誰か入ってきた???』
『ヤマト!!後ろ!!後ろ見ろって!!』
『ギャグだろ!?演出だろこれ!?』
『ヤバいヤバい、左耳から足音めっちゃ近づいてくるんだけど!!』
同接数は一気に「八十人」を突破していた。
だが、今の俺にはそんな数字を喜ぶ余裕なんて微塵もなかった。
全身の毛穴という毛穴が開き、ドッと冷や汗が噴き出す。
心臓が、まるで肋骨を内側から叩き破らんばかりの勢いで暴れ始めた。
《トックン……トックン……トックン……》
(嘘だろ……マイクが……!)
最悪なことに、俺の激しい心臓の鼓動音すら、高性能なバイノーラルマイクは逃さずに拾い上げていた。
マイクを通して、俺の恐怖が、俺の動悸が、配信を観ている何百人もの視聴者にリアルタイムで伝わっていく。
(動くな……動くな俺……! 音を立てるな……!!)
俺は歯を食いしばり、必死で体に力を入れた。
これは都市伝説だ。ただの集団催眠か、あるいは隣の音の聞き間違いだ。
ここで声を出したり、振り向いて椅子を鳴らしたりしたら、それこそが「敗北」になる。
「音を立ててはならない」
儀式のルールが、頭の中で警鐘のように鳴り響く。
だが、怪異は俺の理屈など意にも介さなかった。
《……ペタ……》
音が、止まった。
どこで?
俺の、すぐ『左隣』でだ。
距離にして、わずか数十センチ。
バイノーラルマイクの左耳用マイクの、目と鼻の先。
スマホの画面から漏れる青白い光が、作業机の上をぼんやりと照らしている。
俺は正面を向いたまま、目線だけをゆっくりと左へ動かした。
そこには——何もいない。
はずだった。
しかし、空間が歪んでいた。
何もないはずの暗闇の中に、黒い「澱み」のようなものが存在していた。
そして、その「澱み」から、凍りつくような冷気と、ドブ川のような生臭い腐敗臭が、俺の頬を撫でるように漂ってきたのだ。
《……スゥ……》
マイクが拾った。
俺の呼吸音ではない。
俺の左隣に立ちすくむ『何か』が、深く、長く、息を吸い込む音を。
『ひえっ……』
『なんか吸った!? なんか息吸ったぞ今!!』
『音音音!! マイクに吐息入ってる!!』
『ヤマト逃げろ!! マジで逃げろって!!』
『これヤバい奴だ通報しろ!!!』
コメント欄は完全に阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
同接数は「百二十人」を超え、コメントが画面を埋め尽くす勢いで流れていく。バズっている。間違いなく、俺の人生で最大のバズだ。
だが、俺の心には一切の歓喜はなかった。
あるのは、死の予感だけだ。
左隣にいる『何か』が、じっと俺を見下ろしているのが分かる。
視線を感じる。顔がないはずなのに、冷酷な眼差しが俺の側面を焼き切るように注がれている。
タイマーの表示を見る。
【05:12】
あと、五分。
たったの五分間、音を立てずに耐え切れば、俺の勝ちだ。願いが叶う。家賃も払える。一発逆転だ。
(耐えろ……耐えろヤマト……息を殺せ……心臓を止めろ……!)
俺は両拳を強く握り締め、爪が掌に食い込む痛みで恐怖を紛らわせようとした。
しかし、その時。
『何か』が、俺の耳元に向かって、ゆっくりと顔を寄せてくる気配がした。
バイノーラルマイクの左チャンネルから、ねっとりとした、不快極まりない喉鳴りの音が響き渡る。
《……あ、あ……あ……み……け……》
歪んだ女のような、老人のような、人ならざるものの「声」。
その瞬間、俺の脳裏で、何かがぶちりと弾け飛んだ。
【04:45】
《……あ、あ……あ……》
耳元で響く、濡れた喉を鳴らすような不気味な音。
バイノーラルマイクの左チャンネルを埋め尽くすその「声」は、イヤホン越しに聴いている視聴者だけでなく、マイクのすぐ隣に座る俺の脳髄を直接揺らしていた。
(息が……吸えない……)
俺は肺の中の空気をすべて吐き出した状態で、完全に呼吸を停止させていた。
肺が熱い。肋骨の内側から焼きちぎられるような痛みが走る。
だが、一度でも『スゥ』と息を吸い込めば、その摩擦音がマイクに拾われ、背後の『それ』に自分の存在を確定させてしまう。
喉の奥がヒクヒクと痙攣する。
酸素を求める身体の防衛本能が、俺の意思を無視して悲鳴を上げていた。
スマホの画面に目をやると、コメント欄は見たこともない速度で滝のように流れ落ちていた。
同接数:【四百二十五人】
底辺配信者だった俺のチャンネルに、四百人を超える人間が集まっている。
普段なら踊り上がって喜ぶ光景だ。だが、今のコメント欄に並んでいるのは、野次馬の歓声などではなく、純粋な『悲鳴』と『恐怖』だけだった。
『おいマジでヤバいって!!』
『画面の左端、なんか黒いモヤか影みたいなの映ってない!?』
『ヤマトの顔色真っ青だぞ!? 息してなくね!?』
『音!! 音立てたらアカン!! 息止めろヤマト!!』
『誰か警察呼べ!! いや警察でどうにかなるのかこれ!?』
『イヤホン外した……マジで無理、生理的に怖すぎる』
画面の向こうの視聴者たちも気づいている。
これは演出でも、仕込みのドッキリでもない。
本物の『何か』が、俺の六畳間に降臨しているのだと。
《……ペタ……》
音。
『それ』が、さらに一歩、俺へと近づいた。
今度は左隣ではない。
俺の『真後ろ』だ。
首筋に、氷水のように冷たい風が吹きかかってくる。
いや、風ではない。それは『それ』の吐息だった。ドブ川の臭いと、線香の灰の匂いが混ざり合った不快な気配が、俺の首筋から頭皮へと這い上がってくる。
《……スゥ……ハァ……》
バイノーラルマイクが、左右均等に『それ』の重い呼吸を拾い上げる。
まるで読者や視聴者の頭上から、巨大な怪異が覆いかぶさっているかのような圧倒的な立体感。
(頼む……消えてくれ……どこかへ行ってくれ……!)
俺は心の中で懇願しながら、強く目を閉じた。
タイマーの数字は——【03:10】。
あと三分。
たった百八十秒耐え切れば、俺の勝ちだ。
どんな願いも叶う。借金も消える。この地獄から抜け出せる。
だが、極限状態の俺の身体は、すでに限界を迎えていた。
《トックン……! トックン……! トックン……!》
激しさを増す心臓の鼓動。
バイノーラルマイクの超高感度センサーは、俺の胸の跳ね起きる音すら、部屋中に響く太鼓の音のように拾い上げてしまう。
『心音拾われてる!!』
『ヤマト落ち着け!! 心臓の音まで聞こえてるぞ!!』
『やばいやばいやばい』
『後ろの影、背伸ばしてないか……!?』
画面上のコメントが叫ぶ。
そう、『それ』は俺の心音に反応していた。
真後ろに立つ影が、ぬうっと身を乗り出し、俺の頭上から覗き込んでいる気配がする。
視界の端に、青白いスマホの光に照らし出された『何か』が映り込んだ。
それは、人間の形をしていない。
落ち窪んだ目と、裂けたような口だけが存在する、ボロ布のような黒い質感。
それが俺の頭のすぐ上まで顔を近づけ、じっと俺を見下ろしている。
(死ぬ……! 音を立てたら、殺される……!!)
俺は歯が砕け散るほどの力で噛み締め、両手で膝を強く掴んだ。
指先が激しく震える。全身から吹き出す冷や汗が、顎からポタポタと床に垂れ落ちそうになる。
その一滴の落涙すら、この静寂の中では致命的な『音』になり得るのだ。
【02:00】
あと二分。
視界が明滅し始める。酸素欠乏による眩暈だ。
頭の中で「キーーーン」という耳鳴りが響く。
いける。耐えられる。あと二分なら、気絶する直前で逃げ切れる——!
そう確信した、まさにその時だった。
安アパートの『不条理』が、絶望的なタイミングで襲いかかってきた。
《ピピピピ! ピピピピ! ピピピピ!》
静寂を、切り裂いた。
薄い壁の向こう——隣の部屋から響き渡ったのは、電子音だった。
隣の住人がセットしていたのであろう、夜勤用か何かの目覚まし時計のアラーム音。
(——え?)
俺の思考が凍りついた。
俺自身は音を立てていない。
だが、この築四十年の木造アパートにおいて、隣の部屋の目覚まし音は、まるでこの六畳間の中で鳴っているかと錯覚するほど鮮明に響く。
当然、バイノーラルマイクはその甲高い電子音を、余すことなく拾い上げた。
《ピピピピ! ピピピピ!》
「あ——」
俺の喉から、漏れてはならない小さな声が溢れた。
驚きと絶望による、不可抗力の漏れ声。
その瞬間。
真後ろにいた『それ』の呼吸が、ぴたりと止まった。
部屋の中の全空気が、一瞬で固まる。
目覚まし時計の音すら、遠くへ吹き飛んでいくような絶対的な恐怖。
コメント欄が、狂ったような速度で埋め尽くされる。
『あ』
『嘘だろ』
『鳴った……音鳴った……』
『隣の部屋かよふざけんな!!!!』
『ヤマトーーー!!!!』
『逃げろ!!!! 走れヤマトーーーーー!!!!』
タイマーの表示は——【01:15】。
だが、もう遅かった。
真後ろの『それ』が、ゆっくりと、耳元に顔を寄せてきた。
そして、バイノーラルマイクの右と左、両方のマイク孔に直接触れるほどの至近距離で、喜びを抑えきれないような、凄惨な声でささやいたのだ。
《……お、と……た……て、た…………?》
「ひ、あ、ああああああああっ!!!?」
俺の理性が、完全に崩壊した。
俺は椅子を蹴り飛ばして立ち上がろうとした。
だが、立ち上がった瞬間、俺の足首に、凍りつくように冷たい『手』のようなものが巻き付いた。
《ギシッ……! ガタタッ……!!》
盛大に鳴り響く、部屋の木床の軋み音。
「うわああああああああっ!! 助けて! 助け——」
俺の悲鳴は、最後まで紡がれることはなかった。
首筋に、冷たい指がめり込んでくる。
視界がぐにゃりと歪み、カメラのセットされたスマホとバイノーラルマイクが、激しい音を立てて畳の上に転がり落ちた。
《ドガッ……! ガシャアン……!!》
画面が激しく揺れ、斜めになった状態で静止する。
カメラが映し出したのは、天井の汚れた木目と——
スマホのすぐ隣に転がったバイノーラルマイクに、黒い湿った『何か』がズリズリと這い寄っていく光景だった。
《メキッ……ゴキッ……!》
バイノーラルマイクの超高感度センサーが、人間の身体ではありえない角度に骨が折れ曲がる乾いた音を、余すことなく拾い上げた。
「が、げっ……ぇ!」
俺の口から、どす黒いものが一気に吐き出される。
足首を掴み、首筋に食い込んでいた冷たい感触が、一瞬にして全身を凍りつかせていく。
肺の中の空気がすべて奪われ、視界の端から真っ黒な闇が猛烈な勢いで侵食してきた。
スマホのカメラは、斜めに倒れ込んだまま、六畳間の天井と、転がったバイノーラルマイクを間近で映し出している。
コメント欄の速度は、もはやスクロールというレベルを超え、文字が雪崩のように暴れ狂っていた。
『え? え? なにこれ』
『待って、今の音マジでヤバくないか!?』
『ヤベェ音しなかった!? おい誰か警察!!』
『画面真っ暗なんだけど!! ヤマト!? 生きてる!?』
『待て待て待て、マイクに映ってるの足……? 足じゃねえよこれ……!』
『うわあああああああ消せ消せ消せ!!』
四百人を超える視聴者たちが、パニックと恐怖の底で叫び続けている。
だが、もう誰も助けには来られない。ここは人目につかない築四十年のボロアパートの、誰にも干渉されない底辺の部屋なのだから。
意識が途切れる直前。
マイクのすぐ近くで、ねっとりと湿った声が響いた。
《……ああ……あ……》
それは俺の耳元であり、同時に、画面の向こうでヘッドホンをつけている何百人もの耳元で直接囁かれたかのようにクリアに響いた。
《……あ……あ……ああ……》
最後に聴こえたのは、漏れ出るような微かな喉鳴りと——
【ブツッ……!】
電流が遮断されるような荒々しいノイズ音とともに、生配信の画面は真っ暗に暗転した。
◎ ◎
それから、数ヶ月が過ぎた。
オカルト界隈では、ある一つの『ネット都市伝説』が密かな話題になっていた。
——『絶対に音を立ててはいけない『無音参拝』生配信。あれはガチの事故動画で、最後に映った配信者は行方不明になった』
とある夜。
画面の青白い光に照らされた、別のどこかの部屋。
そこで、一人の若い男がスマホの画面を凝視していた。彼は、最近鳴かず飛ばすの底辺配信者だ。
「……ふーん。これか、あの消された配信のまとめスレッド……」
男は興味本位で、掲示板の深層に貼られたリンクをクリックした。
そこには、あの夜、ヤマトが最後に遺した配信の「違法アップロードアーカイブ」が残されていた。
再生ボタンを押す。
画面には、暗闇の中でバイノーラルマイクに向かって不気味な笑みを浮かべる男の姿と、恐怖の絶叫が収められていた。
「うわ、マジかよ……これ。途中からガチでヤバい声聞こえるじゃん……」
男は薄気味悪さを覚えながらも、どこかで見下すような、冷やかすような笑みを浮かべる。
ホラーエンタメとしてのフェイクか、それともヤラセの演出か。彼にはそれが気になって仕方がなかった。
だが、動画の終盤、マイクが拾った「あの音」が響いた瞬間、男の背筋に冷たいものが走った。
「っ……!」
画面が暗転し、動画が終わる。
静まり返った自室の中で、男は荒くなった自分の呼吸音だけを耳にした。
けれど、彼の頭から離れないのは、恐怖ではない。
別の、もっと強烈な感情だった。
——これ、手順さえ間違えなきゃ、めちゃくちゃバズるんじゃね?
同接数ゼロの自分のチャンネルと、今見た動画の再生回数を脳内で天秤にかける。
借金はない。けれど、このまま埋もれていく人生もごめんだ。
「……ちょっと、面白そうじゃん」
男はにやりと口角を吊り上げると、アマゾンのショッピングカートを開いた。
検索窓に指を這わせ、こう入力する。
——『バイノーラルマイク 高感度』
注文ボタンをタップする。
画面がカチリと軽い音を立て、注文完了の通知がポップアップした。
——ピピッ。
その音は、静かな部屋の中で、あまりにもクリアに、そして不気味に響き渡った。
――新しい参拝者が、今、静かに扉を開ける。
読了ありがとうございます。




