第二話 目を腫らした君
停学処分となり、家での謹慎を経て自主退学の手続きをするため、俺は再び学校へと足を運んでいた。
あれからも本当のことは誰にも話していない。
今更信じてもらえないというのもそうだが、何よりそれで涼音に危害か及ぶのが怖かった。
下手に刺激をするとどうなるか分からない以上、安易な行動は取れなかったのだ。
今日でここともお別れか……。
久々の校舎に懐かしさを覚えながら、ガラス越しに景色を眺めていると、ふとすれ違った人物に目が行く。
あれは……飯田?
どうしてここに、俺と入れ違いで不登校から戻ったのか?
それにしては目つきは異様に鋭く、ぶつぶつとひとりでに呟く様子には、ただならぬ違和感を感じざるを得なかった。
嫌な気配に背筋はざわざわとする。
その予感は当たり、数秒後には悲鳴の声が校舎に響いた。
「誰かっ先生、先生呼べって!」
教室からは、一心不乱に逃げ出す生徒らが雪崩のように押し寄せ、少し遅れて出てきた飯田の片手には包丁が握られていた。
赤く染まったそれは、既に誰かが被害に合ったことを示している。
怒りを発したような唸りは、肌に刺さるような恐怖を植え付け、その場にいた全員の体の主導権を奪った。
やがて憎悪に満ちた視線は、たまたま近くに居合わせた一人の女子生徒に狙いを定めた。
「涼音っ!」
はっとして、心臓の鼓動が激しく高まる。
「お前もどうせ心の底では俺を馬鹿にしてたんだろ! そうだっ絶対そうだ、許せない許せない許せない!」
殺気の塊が涼音に降り掛かろうとした瞬間、ある言葉が鮮明に脳裏を駆け巡った。
『私は信じてる。どんな時でも私は隆道の味方だから──』
気付けば身体が動きだし、涼音を庇って突き飛ばしていた。
「……隆道? 隆道っ、隆道っ返事をして!」
頭がぼんやりしている。
「あっぁ……ぁ……血がっ血が……そんな……嘘……。嫌だっ嫌だ嫌だ嫌だ、ねえ起きてっ起きてよ隆道!」
声が聞こえるような気がするが、はっきりとは分からない。
感情も感覚もなく、視界にはうっすらと霧がかかっている。
ふわりと溢れ出す日々に引き込まれ始めると、ある記憶の場面にたどり着く。
「なにこれ?」
枝葉の隙間から差し込む眩しい光が遮られので見上げると、興味津々に覗き込む幼き涼音がそこにいた。
「うわぁっ!」
驚きで飛び上がると同時に、俺は手元にあったスケッチブックを慌てて隠した。
見られた……っ!
馬鹿にされることに怯え、閉ざした瞼に逃げ込んだ。
「これ隆道くんが描いたの? ──綺麗、本物みたい」
「…………え?」
予想もしなかった答えに、思考が停止した。
初めての経験だった。
「私も描いてくれない?」
言われるがままだった。
「……! ありがとうっ、大切にするね」
ぱっと顔を輝かせ、大事そうに抱える涼音に、いつの間にか俺も微笑んでいた。
認められた気がした。
何もかもが新鮮だった。
自分らしく生きることを教えてくれたあの日から、気持ちは今も変わっていない。
照らしてくれた笑顔も、涼音の温もりが俺をここまで導いてくれたことも。
今の自分がいるのは涼音のおかげ。
だから恩を返さないとって強く思ったんだ。
「隆……道……隆道っ隆道っ!」
俺を呼ぶ声が聞こえる。
感情は酷くほつれ、今にも泣き出しそうな涼音の顔が視界に映る。
「よかった……涼音が無事で」
安堵で顔が穏やかになる。
痛いはずなのに、不思議と落ち着いていた。
「酷いこと……言って、ごめん。ずっと……謝りたかった。それと、俺を庇ってくれた時……本当は嬉しかった、ありがとう。それだけは伝えたくて」
だんだんと、意識がかすんでくる。
「涼音。俺はお前と……幼馴染みでいられて良かった」
「隆道……っ」
後悔はしていない。
だって、こんなにも満たされているんだから。
涼音の輪郭が薄くなっていき、深い深い闇の底に包まれた。
爽やかな風に頬を撫でられ、眼を開ける。
意識は起きているのに、痺れていて身体が言うことを聞かない。
ずいぶんと長く眠っていたようだ。
「ここは、どこだ? そっか……俺、刺されて……」
ふくらんだカーテンの向こうには、澄んだ青空が冴え渡っている。
「隆道……?」
ゆっくりと振り返ると、疲れたような青白い顔で、髪をボサボサにした涼音の姿があった。
「……何で……私を庇ったの? 後少しズレてたら死んじゃってたかもしれないんだよ……っ」
「何でって、それは……涼音が危ないって、助けないとって思って」
「…………隆道が一人で抱え込んでいたのに、それなのに私、何も知らなくて。……気付いてあげられなくて、ごめんなさいっ」
どうやら、飯田を通して一連の事件が明るみになったようだ。
「涼音……痛っ!」
ポロポロと涙を流す涼音に寄り添おうとすると、腹部にズキズキと鈍い感覚が走った。
「きっとバチが当たったんだ。脅されていたとはいえ、俺は本当のことを知っておきながら見て見ぬふりをした。涼音と天秤にかけて見捨てたんだ、俺は」
「それならっ……私だって隆道にたくさん酷いこと言った、無視もしたし冷たい態度を取ったりもしたっ……追い込んだっ、苦しめたっ! 今もあの時の感触が、声が、光景が頭から離れないのっ……! 私がっ、私が隆道を殺しかけたのっ、助かったのは運が良かっただけ。私は私が許せないの…………私にも、罰は必要でしょ?」
口を結び全身を小刻みに震わせ、ベッドのシーツを握る涼音の顔は、大粒の涙と鼻水で溢れている。
良心が痛んで耐えられないのだろう。
「涼音を恨んだことなんて一回もない。むしろ俺のせいで涼音を巻き込むことになったんだから、こっちが謝らないといけないくらいだ。涼音は何も悪くない。だからそう自分を責めるな」
「…………どうして恨みの一言も言ってくれないの……? 私に優しくしないでっ、そんな資格……私にはないのに」
「俺さ……涼音に初めて絵を褒められた時、救われたんだ。涼音にとっては些細なことかもしれないけど、俺にとってはその一言で凄く凄く救われたんだ。困った時は一緒になって悩んでくれて、嬉しいことがあると自分のことのように喜んでくれる。俺は、そんな涼音が好きなんだ。……また俺の隣にいて欲しい、これからもずっと。それじゃ……ダメか?」
「っ……!」
顔を間近にする俺と涼音。
「あー恥ずかしいっ! 言っちゃった、言っちゃったよ俺! ……だからさ、そんな顔するな。涙なんて涼音らしくない、優しい目で笑うお前がいいんだ」
そう涙を指で拭ってやると、涙を滲ませたまま涼音は俺を見つめた。
手を絡めれば温もりを感じ、俺が微かに笑みを見せると、涼音も顔を見合わせて笑った。
「本当に? こんな私でもいいの?」
「ああ、そんな涼音だからいいんだ」
「ズルいよ……そんなの。でも……ありがとう」
そう言った涼音は歯を出してニッとし、一面に屈託のない笑顔を浮かべていた。
一連の事件の、魁斗達の逮捕及び、少年院への送致で幕を閉じた。
飯田の件以外にも余罪が多かったようで、配信活動の方でも冤罪による被害があったそうだ。
事件の反響は大きく、ニュースでは連日報道され、ネットでの知名度が逆に仇となり世間を大きく騒がせた。
記者会見では、過去に校長先生と担任の先生が隠蔽を図っていた事実が発覚し、深々と頭を下げる姿が印象的だった。
魁斗達の余罪の中には複数人による性的な暴行もあった。
事態に向き合おうとせずに開き直った家族と、被害者家族との間で言い争いが起き、報復による傷害事件が起きたことも。
また、魁斗達とその家族は結末は悲惨であった。
周囲の迫害によって不登校はもちろん、家庭崩壊する家や、非難の声に耐えきれず自殺をした者までおり、皆引っ越しを余儀無くされた。
俺たちの近況といえば、最近涼音が料理を始めた。
「どう……?」
「うまっ、ご飯何杯でもいけるって。おかわりってあるか?」
「……口に合ったようで何より」
ふっと口角を上げ、涼音は安堵の色を浮かばせる。
「あーお腹いっぱい。涼音の料理は本当に美味しいな。やっぱり才能あるって、冗談抜きで料理人になった方がいいんじゃないか? ほんと、毎日食べたいくらいだ」
「大袈裟……特別なことはしてないのに、そんなに褒めたって何も出てこないけど。けど……その、ありがとう」
涼音は耳の端を赤く染めると、照れくさそうに肩をすくめた。
「さすがに毎日って訳にはいかないけど、たまにで良ければまた作ってあげる。料理の練習にもなるし……」
幸い、後遺症は残らなかった。
リハビリが終わった後も涼音はこうして世話を続けてくれている。
あれから涼音は片時も離れることなく傍にいて、むしろ前よりも一緒にいる時間が増えた気さえする。
しかし、気掛かりなことが一つ。
「痛っ……あちゃー指切っちゃったか」
紙に触れ、指の先からヒリヒリと赤い液体が滲み出る。
「っ……!」
「涼音?」
「…………何でもない。それよりじっとしてて、今手当てするから」
「いや、いいよこれくらい。放っておいても勝手に──」
「駄目。いいからじっとしてて」
心配してくれるのは嬉しいが、たまに過保護だと感じることがあるのだ。
時折、傍にいないと安心できない、また失ってしまうのが怖いのだととも漏らすことがある。
涼音もまた、心に深い傷を抱えているのだろう。
元通りにいかなかったことの方が大半で、いつかは乗り越えなければならない課題も残っているが、それでも今の俺はとっても幸せ者だと思う。




