Missing link
松型駆逐艦は太平洋戦争における日本海軍のワークホースである。
その事に誰も異論は無いだろう。
定説としては、戦争準備を行うにおいて退役、種別変更となる二等駆逐艦の後継として計画され、船団護衛や占領地警備を目的に整備したとされている。
ただ、昔からこの定説に対する異論、疑問が多く寄せられたのも事実であった。
その根拠として、同時期に計画された占守型海防艦との大きな差異が挙げられている。
占守型海防艦は日本海軍らしい曲線を多用した船型をしており、後の択捉型もそれを踏襲している。
まだこの時期には戦時急造という意識がなかったためだと思われるが、そんな時期に、なぜか松型駆逐艦だけは戦時急造を意識した平面を多用し、キールにも簡易な板型を採用している。
松型駆逐艦の建造実績を見た後、海防艦も松型駆逐艦に準じた船型へ変更されるが、その完成は1944(昭和19)年であった。
実験的に少数を建造したのならともかく、30隻からなる建造計画にその様な実験的要素を採用するのは、誰が見ても些か時期がおかしいと思うはずだ。しかし、事実として松型駆逐艦はそうなのである。
さらに、戦時体制への移行を理由に後期建造10隻は建造が一時延期されている。
この事は海軍行政のチグハグさとして有名だ。
松型駆逐艦に関しては不思議な話が他にも存在し、そもそも松には建造した形跡が見られないと云われている。
実際にはどこかで建造しているはずだが、少なくとも、1940(昭和15)年4月に松竹梅を揃って就役させたにも関わらず、建造実績と照らし合わせると一隻建造していない事になるという謎があると指摘する研究者が居る。
その人物が著した『駆逐艦「松」の軌跡』では、後に松型駆逐艦の一隻となる所属不明艦が突如として北方海域に現れ、操業していた漁船団に発見されたとしている。
それが1930(昭和5)年ないし1931(昭和6)年の事とする。
海軍は知らせを受けて海域へ艦艇を派遣し、所属不明の艦艇を発見、呼びかけにも応じず甲板に人の気配がない事から接舷、艦内を捜索すると至る所に日本語が書かれているのを発見した。
この時、艦名も判明しているはずだが、著者はその事には触れていない。
こうして、海軍に発見された所属不明艦が自国の艦艇の可能性が高い事から、遭難した艦艇が居ないかを調べたが、その様な事実は無い事が分かり、まずは調査のため港へと曳航された。
所属不明艦は100メートル足らずの駆逐艦であり、特に誰も目に止めることはなかった様である。
だが、事態は所属不明艦の調査にやって来た者たちが騒ぎ出した事で急展開を見せる。
まず、搭載している備砲が八九式12.7センチ高角砲であったのだが、この砲の完成はちょうど発見されたころ、或いはそれ以後であった。
つまり、まだそこに量産された砲など存在しないはずのものが、艦に装備されていたのである。
それに驚かない者などいないだろう。
また、まだ開発計画すらなかった九四式25ミリ機銃が多数装備されており、非常に興味を集める事になった。
九四式25ミリ機銃は、機銃の構造や照準器の構造から仏ホチキス社の25ミリ機関砲を違法コピーしたと言われる事があるが、日本海軍がこの時期にホチキス25ミリ機関砲をどこかから入手した形跡もなく、ホチキス社に対して資料照会したという記録もなく、構造の酷似は偶然の一致と言うのが一般的な見解であるが、件の著者は二つはルーツを同じくするモノであり、「松」は異なる世界線、いわゆるパラレルワールドからやって来たのだと説いている。
そうしなければ、まだ実際の砲が艦艇に搭載されていない1930(昭和5)年或いは翌年に、この二つが存在したとするには無理があるのは事実である。
さらに調査する中で、電測装置や水測装置の搭載にも注目が集まった。
電測装置は当初、その必要性に疑問を持たれており、注目されたのは、主に水測装置であった。
その場では水測装置の構造などは詳しく分からなかったが、後に分解調査を行ってみると聴音装置にロッシェル塩が使用されている事が判明し、俄かに注目を集める事になり、これが九六式水中聴音機の開発に繋がったのだと著者は云う。
同じく音波探信儀についても調査が行われたが、当時としては非常に高度で複雑な構造をしており、すぐさま実用化に向けた開発とはならず、1938(昭和13)年にようやく九八式探信儀として制式化された。
確かに、海軍が水中聴音機や探信儀の研究、調査を行う中で、1931(昭和6)年頃、突如として国内で独自の開発計画が立ち上がっているのは確かであり、著者はその根拠をパラレルワールドから来た「松」に求める事ができるのだという。
ロッシェル塩を使う水中聴音機の開発は、国内でのワイン製造を俄かに増やした事でも分かるように、単に一装置の開発に留まらない大きな影響を与えているため、その急な政策の奨励に超常的な理由を見出したくなるのは理解が出来る。
そして電測装置についてなのだが、実際に稼働させてみたところ、対空レーダーである一号電探は小型機を30キロ彼方で探知した。編隊であれば100キロ近い距離でも探知できると分かり、俄にその性能に驚かされたと云う。
対水上電探である二号電探は、水平線視界内の物にしか反応しないとあまり芳しい評価をしない者が多かったが、雨や霧などの条件下においても目標を発見出来る事に興味を示す者も居た。
確かにこの頃、東北帝国大学では八木博士が指向性アンテナを、岡部博士がマグネトロンに関する論文発表を行っており、海軍がその有用性に気付いていち早く研究を始めた事は有名な話である。
しかし、実際の海軍の動向を見ると、研究開発こそ迅速に手を付けているものの、その採用はなかなか進まなかった事はよく知られている。
一般的には日本の電子科学基盤の未熟さや歩留まりの悪さによる性能の不安定さに起因すると説明される事が多いが、利用するものが電波か音波かの違いはあるが、音波探信儀も真空管やブラウン管を用いた装置に変わりはなく、少なくとも九八式音波探信儀から2年も電探の実用化が遅れた理由とはならない。
本当の原因は、地上設置ですら「誘導波を出して敵を引き寄せるのは利敵行為」と言って反対する者が見られたほど敬遠され、艦艇への搭載は松型駆逐艦まで実現しなかったという、海軍の電波に対する考え方に起因するものであった。
それがなぜ、松型駆逐艦には搭載されたのか。
欧米が艦艇にレーダーを搭載した情報を得た海軍は、自国も搭載したという実績が欲しかった。
そう考えるのが一番辻褄が合うのは、件の著者に限らない見解だろう。
ではなぜ、松型駆逐艦だったのか?
一般的には、二戦級艦艇なので失敗しても構わなかったという考えがなされているが、著者はそもそも「松」にはじめから搭載されていた装置を外洋で性能試験したかったからと考察している。
当然たが、聴音機や電探などの取り扱い、整備に関する書類も所属不明艦には残されており、航海日誌もあっただろうと云う。
であれば、航海日誌に運用実績に関する記述も見られたはずであり、海軍はいかに運用するかを知っていた事になる。
あとはそれら記述を実証すればよかった。
実際、松型駆逐艦は戦時中よく船団護衛を行っており、航海日誌にその際の運用の記述があったなら、先ずは書かれている運用法が正しいかを検証するのは当然と言える。
松型駆逐艦にはこうした話が余りにも多いと著者は云う。
船体は普通鋼が使用され、まるで資材不足や建造期間短縮が急がれた戦争後期の切迫感すら感じさせる。
もちろん、普通鋼で建造された事で資材不足や建造期間の問題に悩まされない艦であった事は確かではあるが、他の艦艇、分野において戦前からこれほど先を見越した計画は他に無く、松型駆逐艦のみあまりに唐突感を感じるのは否めない。
さらにその構造も、日本艦艇としてはじめてシフト配置が採用されているが、妙に手馴れているのである。
まるで見てきたように迷いなく、実験や実証なく採用している様に見受けられる。
艦橋も、他の艦艇が電探を採用するに当たり、増設改修で徐々に配置を探っているのに対し、はじめから配置が定まり、あるべき形に艦橋が設計されていた。
設計の妙などと云われているが、著者はそう思っていないらしい。
こうして、1940(昭和15)年4月に新たに建造した2隻と共に、装備を復旧した「松」を加えた3隻が海軍の列に加わったと、著者は云うのである。
果たして事実がどうであったかは分からないが、日本海軍としては最多の63隻もの同型、改型が存在するのは事実であり、その量産性は戦時急造や資材入手性を予め考慮したコンセプトから来ているのは間違いない。
さらに、対空対水上対潜に必要な装備を満遍なく備えていたのも大きな要素であっただろう。
しかし、この様な先進的な発想から生まれたであろう松型駆逐艦だが、その整備すら、戦時体制移行を理由に後期建造艦の一時延期が決まるなど、まるで有効性が理解されず、ガ島を巡る戦いで戦力がすり減り、それまでの豪華で強力な艦艇よりも、簡便で量産性に富む艦艇を求める考えに変わるまで、計画に反映される事はなかった。
こうして見ると、松型駆逐艦には日本海軍の艦艇開発史におけるミッシングリンクが見え隠れしている。
開発思想しかり、搭載する装備しかり。
特に見過ごされているのが八九式12.7センチ高角砲かも知れないと、著者は云う。
多くの艦艇に連装の1型が採用される中、単装の2型は松型駆逐艦まで長らく採用される事がなかったのである。
まるで単装砲は松型駆逐艦の為に開発したかのように。
著者は云う、そもそも松型駆逐艦が世に出る10年前、そこに「松」が現れたから、単装砲が在ったのだと。
まさか、そんな筈はないと思うのだが、読者諸兄は如何お考えだろうか。




