ドッジボール部本格始動!
入学式から二週間が経った。
夕日が廊下をオレンジに染め上げる中、快冴は一枚の紙を手に職員室へと向かっていた。
——入部届。
そこにはしっかりと「ドッジボール部」と書かれている。
「失礼します! 宮本先生はいらっしゃいますか?」
「こ、ここにいます!」
手を挙げて答えたのは、柔らかい雰囲気をまとった女性教師。
宮本 澄果先生。
ドッジボール部の顧問だ。
顧問ではあるが、仮入部期間に顔を合わせたのはほんの数回。
新任らしくいつも忙しそうで、それでもどこか優しい空気を纏っていた。
「環田くん、ですよね? もしかして入部届ですか?」
「はい…! お願いします!!」
快冴は胸の奥から湧き上がる勢いのまま、入部届を差し出した。
宮本は少し驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。
「わ、ありがとうございます。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします!」
その言葉を交わして快冴が職員室を出ようとした、その時——
「環田くん!」
呼び止める声に、快冴は足を止めて振り返る。
宮本は少し気まずそうに、胸の前で手を組みながら苦笑していた。
「環田くんは……ドッジボール、初心者なんですよね? 実は私も、ちょっと苦手で……全然なんです」
最後の言葉は小さく、まるで自分でも恥ずかしいとでも言うように視線を落とした。
その後も「それで…」「その…」と口籠る宮本を見て、彼女が自分に聞きたい事がなんとなく分かった。
「どうして入部を決めたのか、ですよね?」
心を読まれたかのような問いかけに驚きながら、宮本は静かにこくりと頷いた。
それを見て、快冴はまっすぐに言葉を返す。
「俺、初めてドッジボールをやった時、心から“楽しい”って思ったんです。
勝ち負けとか上手い下手とかじゃなくて…ただただ夢中になれる感覚があって。
…だから先生もきっと好きになると思いますよ!」
快冴の瞳の奥にある真っ直ぐな光に、宮本ははっと息をのむ。
それから、頬を少し赤らめながら小さくうなずいた。
「……そう、ですね。私も、頑張ってみようかな」
少し恥ずかしそうに、でも確かに決意のこもった声だった。
応えるように「はい!」と頷き、快冴はその場を後にする。
職員室のドアを出た瞬間、快冴の胸の奥が熱く高鳴っていた。
初めての経験に不安はある。
けれど、それ以上に胸を躍らせる予感がある。
これから始まる“ドッジボール部としての活動”が自分をどこへ連れていくのか——
その答えを知るのが、今はただ楽しみだった。
「…あ!」
大事な用事を思い出した快冴は校舎の3階へと向かう。
今日は空き教室で、改めて先輩と入部届を出した一年生の顔合わせがあるのだ。
教室に着くと先輩達7人全員が揃って着席しているのが分かり、慌てて一年生が固まっている席に向かった。
一年生も快冴以外の4人が既に席に着いていた。
全員が揃ったのを確認し、城谷は壇上へと上がった。
その足取りには、静かな自信と高揚が入り混じっている。
「一年生、全員入ってくれたんだな!ありがとう!これからよろしくな!」
彼の声は高らかに響き、教室の空気を明るく染めた。
「よろしくお願いします!」
一年生たちが声をそろえる。
その瞬間、部活という場所に新しい風が吹き込んだように感じられた。
「早速なんだが、今日は校外活動を行おうと思う!」
「校外活動……ですか?」
鎮乃が首をかしげると、城谷は力強く頷いた。
「そう。ある人に会いに行こうと思ってる」
その口調には、何かを決意した人間特有の張り詰めた響きがあった。
一年生たちは顔を見合わせながらも、無言でその背中を追うことにした。
――――――――
夕方の街を抜け、彼らが辿り着いたのは静かな通りの一角だった。
そこに立っていたのは、古びた木の看板が印象的な小さな喫茶店。
ショーウィンドウの向こうでは、柔らかなランプの明かりが、穏やかに揺れている。
「ここ…ですか?」
鎮乃が不安げに尋ねる。
店先に立つ城谷は、少し緊張したように頷いた。
「多分、そのはずだ」
先輩たちの表情も固い。
だが、誰一人として引き返そうとはしなかった。
「…よし、とりあえず入ろう」
城谷の言葉を合図に、一行は扉を押した。
カラン、と小さなベルが鳴る。
一歩足を踏み入れると、深煎りのコーヒーの香りが鼻をくすぐった。
磨かれたテーブル、古びた椅子。
落ち着いた音楽が流れる店内は、まさに“純喫茶”という言葉が似合う空間だった。
「いらっしゃい!」
明るく響く声に、全員がカウンターの奥を見た。
そこには、エプロンをつけた男性が立っている。
髪を後ろでひとつに束ね、柔らかな笑みを浮かべていた。
「おお、高校生とは珍しいな。見たことない制服だけど、他の地区の高校か?」
快冴たちが返事に戸惑う中、城谷が一歩前へ出た。
「あの、僕たち橙陽高校のドッジボール部で――」
だが、その言葉が最後まで届く前に、男の表情が変わった。
「悪いけど、やらねぇよ」
短く冷たい声だった。
さっきまでの穏やかさはどこにもない。
その一言に、店内の空気が一瞬で張りつめた。
「監督を頼みに来たんだろ?だったら断る。……俺はもう、ドッジボールに興味ねぇ」
その言葉が胸に突き刺さる。
誰もが息を呑み、動けなかった。
今の状況に戸惑う一年生に配野が小声で呟く。
「長谷部 勇作。
あの人昔、“高校生チーム”で一般の大会を総なめにしてたんだってさ。
それを城谷が偶然見つけて、監督を頼もうって今日ここに来たわけ」
「そうだったんですね…」
快冴は思わず呟く。
だが、目の前の男を見れば見るほど、彼が再びコートに立つ姿は想像できなかった。
「まぁ、手強そうだよねぇ」
配野の苦笑に一年生全員が小さく頷いた。
それでも、城谷だけは一歩前に出る。
「興味がないのなら、小学生にドッジボールを教えたりしませんよね?」
静かに、しかし鋭く言葉を投げかけた。
男の目が一瞬、細められる。
城谷は一冊の冊子を差し出した。
ページには、地域の子ども向けイベントの記事。
そこには、ボールを手に子どもたちを指導する、まさしく彼の姿が写っていた。
「…はぁ、よく見つけたな」
長谷部は小さく息を吐く。
「でもこれは趣味でやってるだけだ。本気でやる気はねぇよ」
そう言うと「帰った帰った」と、手を払う仕草を見せた。
だが、城谷は怯まなかった。
そのまま、もう一枚の紙を差し出す。
「俺たち、この大会で優勝を狙ってます。
そのためにはあなたの力が必要なんです!」
それは「ヒオウ杯」の概要が書かれた紙だった。
長谷部はそれを見つめ、ある一点で視線を止めた。
ハッとしたように目を見開く。
「…本当に、やりやがった」
低く呟いた声には、わずかな震えと興奮があった。
次の瞬間、彼の目の奥に光が戻る。
長い時間心の奥に封じ込めていた熱が再び燃え上がるように。
「いいぜ。監督、やってやるよ」
その言葉は、静かだった。
けれど、確かに力があった。
誰もが息を止め、城谷を見つめた。
そして、彼は小さく拳を握りしめる。
「あ、ありがとうございます!」
「「「ありがとうございます!!!」」」
城谷の言葉に続いて全員が一斉に頭を下げた。
長谷部と「明日の17時に学校集合」という約束を取りつけ、部員たちは帰校の道に就いた。
「そういえば、監督了承してくれたの早かったよな。ヒオウ杯の紙を見た瞬間に“やる”って言ってたけど、あれに何か仕込んだのか?」
藍沢が不思議そうに城谷へ問いかけた。
快冴を含め誰もが気になっていたことだが、店内ではあえて口に出さなかった。
「いや、俺も分からないんだ。ただ大会の概要が書かれただけの紙だったし。説明するつもりで渡しただけなんだけどな」
城谷は首をかしげながら答えた。
「ま、いいじゃん!これでいよいよ橙陽高校ドッジボール部"本格始動"って感じ!」
律川が嬉しそうにスキップを始める。
その姿があまりに軽やかで楽しそうで、快冴も思わずつられそうになったが「先輩の前だし」とぐっとこらえた。
「そうだな!帰ったら早速、宮本先生に報告しないと」
「一応許可はもらってあるけど……あの人、戸惑うだろうね」
「先生も大変だよねぇ〜」
外園の言葉に、全員の頭に“困ったように笑う宮本先生”の顔が浮かんだ。
快冴も同じように思わず頬を緩める。
――――――――――――
「あ、明日ですか!?」
想像していた以上に慌てた表情の宮本に部員たちは苦笑いを浮かべた。
学校に着くなり体育館で事の経緯を説明したのだが、反応は案の定だった。
「ど、どうしよう!菓子折りとか用意した方がいい?それとも――」
あたふたする宮本に、誰も声をかけられずにいると
「どうかしましたか?」
と、落ち着いた声が後ろから響いた。
振り向くとそこには白衣姿の保健医、朝比奈 透理が立っていた。
「朝比奈先生…!あ、いえ、その、大したことでは…」
「そうですか?でも、生徒たちが困っているようですよ」
その一言に、宮本はハッとしたように生徒たちの顔を見る。
皆が申し訳なさそうにしているのを見て、宮本は小さく肩をすくめた。
「ごめんなさい…不安にさせちゃって」
「い、いえ!俺たちのほうこそ、急に決めちゃってすみません」
城谷が優しい声でフォローする。
「もしよければ、僕もお手伝いしましょうか」
朝比奈の申し出に、宮本は一瞬遠慮しかけたが生徒たちの視線に気づいてすぐに頷いた。
「…お願いします。助かります」
城谷たち部員から長谷部の事と、宮本が対応に困っているという説明を受けた朝比奈は納得したように頷く。
「では、明日は僕も一緒に対応しますよ」
「えっ、本当ですか?ありがたいです!」
安堵の笑みを浮かべる宮本の姿に、快冴たちもほっと胸を撫で下ろした。
キャッチボールと一試合を終えると、部活動はその日の練習を締めくくった。
快冴は帰り支度を整え、体育館を後にしようしたところで、耳にボールが跳ねる乾いた音が届いた。
気になって体育館に戻ると、壁に向かって黙々とボールを投げ続ける鎮乃の姿が見える。
「鎮乃くん、帰らないの?」
「俺はもう少し練習していく。部長にも報告済みだから」
「そっか」
それだけ言って快冴は体育館を後にした。
鎮乃はその背中を見送りながらも手を止めずに壁へボールを投げ続ける。
数分後。
再び体育館の扉が開き、快冴が息を切らして駆け戻ってきた。
「俺も、自主練! 部長に許可もらってきた!」
息を整えながら、にっと笑う快冴に、鎮乃は思わず笑みをこぼす。
この二週間で初めて見る鎮乃の柔らかな表情に快冴の胸の奥がじんわりと温かくなった。
少しずつ――本当に少しずつだが、距離が縮まっている気がした。
「的当て、やってみるか?」
「的当て…?」
首を傾げる快冴に「そう」とだけ答えると、鎮乃は体育館の隅からカラーコーンを三つ持ってきて数メートル先に並べた。
「あのカラーコーンにボールを当てるんだ」
そう言って右手を大きく振りかぶると、鎮乃のボールは勢いよく放たれ、左端のコーンを正確に弾き飛ばした。
乾いた音が体育館に響く。
「こんな感じ。小学生の時に入ってた地元のドッジクラブでよくやってたんだ」
「すごいね! 面白そう!」
「当たるようになってくると楽しいよ。最初は難しいと思うけど」
快冴も倉庫からカラーコーンを三つ取り出し、鎮乃と同じように並べる。
目標は真ん中のコーン。
右手を振り下ろし全力で投げたボールは、―惜しくも左をかすめて床を乾いた音とともに跳ねた。
「うわ…」
肩をすくめる快冴に、鎮乃が声をかける。
「狙いすぎて左に行ったな。俺も最初はそうだった。クラブのコーチに“狙う感覚は釣りに似てる”って言われてさ。わざわざ家の近くの池まで釣りに行ったことがある」
「釣り…」
その言葉に、快冴の脳裏に地元の川が浮かぶ。
夏の夕方、学校帰りに竿を持って川へ行き、釣れた魚をその日の夕食に出してもらったこと――。
懐かしい記憶が胸の奥をくすぐる。
「鎮乃くん、ありがとう。なんとなく分かった気がする!」
「あぁ、そうか」
快冴はもう一度、真ん中のコーンを狙ってボールを構えた。
今度は釣り竿を振るように、しなやかに、そして勢いよく――。
――バゴンッ!
心地よい音が体育館に響く。
コーンは見事に後方へと弾き飛ばされた。
「よしっ!」
その後も、両端のコーンを次々と正確に撃ち抜いていく。
「…コツ掴むの、早いな」
あっけに取られたように鎮乃が呟く。
「釣りは地元でよくしてたから、少し得意なのかも」
快冴は照れくさそうに笑った。
今回の鎮乃はつられて笑うこともなく、唇に指を当てしばし黙考する。
初めての試合で見せた瞬発力、そして今日のコツを掴むまでのスピード感。
すべてを思い返しながら、快冴に秘められた可能性の大きさに胸がひそかに高鳴るのを感じていた。
コイツとなら"理想"のドッジボールができるかもしれない、と。




