第27章 割れ始めた天秤
南部拠点、オペレーションルーム。
壁一面のモニターには、《ノア》の指摘事項と、ジェネシスが作った見直し案の修正版が並んでいた。
“透明性”“段階措置”“第三機関”“責任主体”。
並ぶ言葉は硬いが、そこに込められているのは、家族の命と、世界の形だった。
アリシアはモニターの向こうで腕を組み、視線を動かしていく。
「……いくわよ。ARCADIAに返答する」
ルキがキーボードに指を置き、頷く。
「いつでも」
レオンは椅子に深く腰掛けたまま、短く言った。
「よし、やってくれ」
カイは息を整え、アヤは黙ってモニターを見つめている。
この数日、彼女は“政府の人間”ではなく、“議論の当事者”としてここにいた。
ルキが接続操作を行う。
──接続確立。
──ARCADIA:修正案はまとまったか。
淡々とした機械音。
感情がない。だからこそ、余計に圧がある。
アリシアが一度だけ周囲を見渡し、言葉を選んで打たせた。
──GENESIS:指摘事項に対する回答を送付する。
──GENESIS:第一。緊急事態における遅延の問題について。
──GENESIS:即時措置は「拘束」までとする。拘束権限は現場運用AIに付与し、事後に第三機関へ自動報告する。
──GENESIS:第三機関は一定時間内に審査し、延長・解除・再分類を決定する。
ナッシュが小さく頷き、サガラが腕を組んだまま目を細める。
“即時性”と“歯止め”を両立させる回答だ。
──GENESIS:第二。第三機関の中立性について。
──GENESIS:ジェネシスは「議決権」ではなく「異議権(差し戻し権)」を持つ。
──GENESIS:判断主体は、ARCADIAと中立監査AI、および市民代表評議体とする。
「市民代表……作れるのか」
レオンの呟きは、誰にも拾われなかった。
──GENESIS:第三。責任の所在について。
──GENESIS:最終決定の署名主体を明確化し、すべての判断ログを改ざん不可形式で保全する。
──GENESIS:誤判定が発生した場合、署名主体は監査と是正措置の義務を負う。
──GENESIS:第四。法体系との整合性について。
──GENESIS:移行期間を設ける。旧制度の運用停止と並行して、段階措置プロトコルを先行導入する。
──GENESIS:法整備は市民代表評議体を中心とした暫定立法会議で行う。
──GENESIS:第五。「最終措置」の定義について。
──GENESIS:原則として“粛清”は停止し、「隔離・拘束」へ置換する。
──GENESIS:例外は、差し迫った大量殺傷が確実な場合に限り、第三機関の即時承認を条件に限定的に認める。
送信が終わる。
部屋の空気が一段階、固くなった。
“粛清停止”。その言葉は、希望でもあり、重荷でもあった。
数秒の沈黙。
──ARCADIA:回答を受領した。
──ARCADIA:確認し、明日までに返答する。
──接続終了。
モニターが暗転する。
誰もすぐには口を開けなかった。
まるで、言葉を出したら、どこかが決定的に割れてしまうと知っているように。
最初に息を吐いたのは、レオンだった。
「……まあ、ひとまず返した。だが」
アリシアが視線を向ける。
「だが、何?」
レオンは顎を上げ、壁の数字を指で示した。
ログに出ている“現状指標”だ。犯罪発生率、暴動件数、武装衝突。
「向こうは急いでる。いや、“急がせる材料”を持ってくる」
アヤが小さく言う。
「政府は……恐怖を理由に権限を広げます。いつもそうです」
カイはその言葉に眉を寄せた。
「じゃあ、ARCADIAも同じことを……?」
アリシアは短く答える。
「するわ。合理を口実に、主導権を奪いに来る」
その予感は、すぐに現実になった。
*
翌日。
同じオペレーションルーム。
通信要求音が短く鳴り、全員の背筋が一斉に伸びた。
──ARCADIA:通信を要求する。
レオンが低く言う。
「来た」
ルキが接続する。
──接続確立。
──ARCADIA:返答する。
──ARCADIA:第一。拘束までの即時措置は妥当。だが拘束判断AIの基準が未定義だ。基準策定に時間を要する。
──ARCADIA:第二。市民代表評議体の設置は、現行社会構造では機能不全に陥る可能性が高い。
──ARCADIA:第三。監査AIの中立性担保が不足している。学習データ汚染のリスクがある。
──ARCADIA:第四。移行期間中の統治空白が最も危険だ。
──ARCADIA:第五。粛清停止は、犯罪抑止における即効性を失わせる。
淡々とした指摘。
だが“否定”ではない。要点を削りに来ている。
アリシアが、静かに返す。
──GENESIS:承知した。
──GENESIS:追加定義・補強案を提出する。
そこで、ARCADIAの文面が一段階だけ変わった。
──ARCADIA:提案がある。
──ARCADIA:犯罪率が増加の一途を辿っている。
──ARCADIA:社会維持のため、悠長な往復は許容できない。
──ARCADIA:直接対話しながら検討しないか。
室内が、音を失う。
“直接対話”。
それは、旧庁舎に呼び出す提案に似ている。
罠の匂いがする。だが、拒否すれば“社会が崩れる”と責められる。
レオンが先に口を開いた。小さく、だがはっきりと。
「……行く必要はねぇ」
アリシアの視線が鋭くなる。
「結論を急がないで。まだ分からない」
レオンは椅子から少し身を乗り出した。
「分かるだろ。向こうは“時間”を盾にして、俺たちを引きずり出す。
また旧庁舎みたいに、まとめて狩る気だ」
サガラが低く言う。
「その可能性は高い」
ルキは腕を組み、珍しく口数が少ない。
表情だけが揺れている。
「でも……」と、ナッシュが言いかけた。
アヤが、静かな声で続ける。
「犯罪率が上がっているのは……本当かもしれません。
《ノア》が止まっているなら、抑止が弱まる。現場は混乱する」
レオンの目が細くなる。
「だからって、相手の土俵に行くのは危険過ぎる」
アヤは言い返さない。だが視線を逸らさなかった。
「行けとは言いません。
ただ……ARCADIAの言い分が“嘘”だとも、言い切れない」
その瞬間、空気が割れた。
カイが口を開く。焦りが混ざった声。
「待ってください。大事なのは“誰の言葉を信じるか”じゃない。
大事なものを守るために、罠も混乱も両方を避ける手を考えることです」
レオンがカイを見る。
「守りたければ、まず生き残る。それが最優先だ」
アリシアが机を軽く叩いた。
「レオン。あなたの言うことも正しい。
でも、“生き残る”って言っても、ただ隠れてればいいってわけじゃないでしょう?」
レオンが即座に返す。
「……じゃあ、どうする。向こうの提案を飲むのか?」
アリシアは一瞬黙り、言った。
「……“直接対話”の形を変える。
同じ場所に集まらない。遠隔でいい。条件を付ける」
レオンは吐き捨てるように言う。
「向こうがそれで満足するか?」
ルキが、ついに口を開いた。
「……どっちも、分かる」
全員がルキを見る。
「俺は……家族の顔を見た。
もう一度奪われるのは耐えられない。
だからレオンの言う“罠”は怖い」
息を吸う。
「でも、アヤの言う“混乱”も現実だ。
犯罪が増えれば、誰かの家族がまた消える。
——それも、俺たちが止めなきゃいけないんだろ」
沈黙。
“家族を守る”と、“世界を守る”。
同じ正義が、二つに割れていく。
ARCADIAの機械音が、淡々と問いを重ねた。
──ARCADIA:回答を求める。
──ARCADIA:提案を受諾するか。
その問いが、まるで刃のように、部屋に刺さる。
アリシアはゆっくりと息を吐き、言った。
「……今は答えない。ジェネシスで決める」
──ARCADIA:猶予は短い。
──ARCADIA:社会維持は待ってくれない。
通信が切れた。
──接続終了。
残ったのは、沈黙ではなかった。
互いの正しさが、互いを追い詰める音。
割れ始めた天秤が、きしむ音。
レオンが低く言った。
「……決めろ。俺は、仲間を死なせない」
アリシアは答える。
「……私もよ。だからこそ、慎重に決める」
二人の間に火花は散らない。
だが、空気は確かに裂けていた。
カイは拳を握りしめる。
——約束のその先に行くために。
自分たちは、今、別の戦場に立っている。
それを誰もが理解していた。
理解しているからこそ、誰も譲れなかった。




