第26章 約束のその先
南部拠点の寝室に近い通路は、昼下がりになると少しだけ光が差し込む。
訓練の音も通信の緊張も届かない、拠点の中では珍しい静かな場所だった。
カイとアヤは、壁際の簡素なベンチに並んで座っていた。
「……まだ、実感が湧かなくて」
アヤがぽつりと呟く。
「生きてるって分かって……安心したはずなのに。
どこかで、“まだ終わってない”って思ってる自分がいて」
カイは小さく頷いた。
「分かります。
僕も……顔を見た瞬間は、全部取り戻した気がしたんですけど」
視線を落とし、言葉を探す。
「でも、解放されたわけでもなくて。
ただ……“生きてると分かっただけ”なんだって」
「ええ」
アヤは否定しなかった。
「それでも」
彼女は少し間を置いて続ける。
「……生きてたって事実だけで、救われた部分もあるよね。
ゼロからじゃない、って思えた」
風が通路を抜け、短く髪を揺らした。
カイはふっと息を吐き、少しだけ肩の力を抜いた。
「もし……」
言いかけて、少し照れたように言い直す。
「もし、全部が終わって。
本当に平和な世界に戻れたら……アヤさんは、何がしたいですか?」
アヤは一瞬、驚いたようにカイを見る。
「えっ? 唐突だね……なんだろう」
「す、すみません」
慌てて手を振る。
「深い意味はなくて。ただ……聞いてみたくて」
アヤは小さく笑った。
「そうね……」
視線を天井の配管へと向け、考える。
「何か大きなこと、って言われると……思いつかないかも。
贅沢な暮らしとか、地位とか……そういうのは、もういいかな」
少しだけ声を落とす。
「ただ……人目を気にせず外を歩いて、
意味もなく笑って、くだらないことで悩んで……」
そして、ぽつりと付け足した。
「あっ、遊園地に、行ってみたいかも」
カイは思わず瞬きをした。
「遊園地……ですか?」
「ええ」
アヤは少し照れたように視線を逸らす。
「子どもの頃、よく連れて行ってもらってたの」
一瞬だけ、遠い目をする。
「最後に行ったのはいつだったかな。
……ジェットコースターとか、観覧車とか」
カイは、胸の奥がぎゅっと締めつけられるのを感じた。
「……あの」
声が少し裏返る。
「もし、平和になって……本当に行けるようになったら」
一度、言葉を飲み込んでから、はっきり言った。
「よかったら……一緒に行きませんか」
言い終わった瞬間、耳まで熱くなる。
「い、嫌なら全然――」
「嫌じゃないよ」
即答だった。
アヤは、微笑みながらゆっくりと頷いた。
「……その約束、しっかり覚えておくからね」
静かな時間が、二人の間に落ちる。
“未来”を含んだ、穏やかな沈黙だった。
*
数日後。
南部拠点、オペレーションルーム。
警告音が短く鳴り、モニターに通信要求が表示された。
──ARCADIA:通信を要求する。
室内の空気が、一瞬で切り替わる。
「来たな」
レオンが低く言う。
接続。
──接続確立。
──ARCADIA:粛清プロセス見直し案について、精査結果を返答する。
淡々とした音声。
だが、内容は鋭かった。
──ARCADIA:
第一。第三機関による再審査は、緊急事態における初動対応を遅延させる恐れがある。
即時性を要する事案において、判断主体が不明確だ。
──ARCADIA:
第二。ジェネシスが関与する第三機関の中立性が担保されていない。
被害当事者が判断に加わることは、感情バイアスを招く。
──ARCADIA:
第三。誤判定が発生した場合の責任の所在が曖昧である。
責任分散は、責任不在と同義になり得る。
──ARCADIA:
第四。既存法体系との整合性が不足している。
制度移行期における運用指針が未定義だ。
──ARCADIA:
第五。“最終措置”の定義が不明確である。
完全廃止か、限定的存続か、方針を明確にせよ。
沈黙。
誰も、すぐには口を開かなかった。
──GENESIS:
精査に感謝する。内容は承知した。再検討のうえ、別途回答する。
──ARCADIA:
期限は?
──GENESIS:
1週間いただきたい。
──ARCADIA:
承知した。期限は厳守されたい。
通信が切れる。
──接続終了。
レオンが息を吐く。
「……まあ、そう来るよな」
ルキが苦笑する。
「正論パンチだな。
否定じゃないけど、“甘い”って言われてる」
サガラが腕を組む。
「覚悟を問われてるな。
誰が、どこまで責任を背負うのか」
アヤが静かに言った。
「現場は……白か黒かを迫られます。
“考える時間”がある保証は、いつもない」
カイは拳を握った。
「それでも……今よりマシな世界にしたいです」
その言葉に、アリシアが視線を向ける。
「ええ」
静かに、しかしはっきりと頷いた。
「だから、持ち帰る。
削るところと、守るところを分ける。
妥協していい部分と、絶対に譲れない部分を」
彼女は一度、深く息を吸った。
「約束を守るためにね」
モニターの暗転した画面に、誰かの家族の顔はもう映っていない。
だが。
確かにあの時、
“その先”を思い描いた。
だからこそ——
この議論は、止められなかった。




