第21章 揺らぎの起点
隔離室の蛍光灯は、変わらず白い光をにじませていた。
窓のない小部屋に満ちるその淡い光は、時間の流れさえ止めてしまったかのようだ。
アヤは簡素なベッドに腰掛け、膝の上で組んだ指を静かに見つめていた。
何度も組んではほどいてきた指先が、かすかに緊張を語っている。
控えめなノック音が響く。
「アヤさん、入ってもいいですか」
その声を聞いた瞬間、アヤは表情をわずかに緩めた。
胸の奥に張りつめていた糸が、ほんの少しだけ和らぐ。
「……どうぞ」
扉が静かに開き、カイが遠慮がちに入ってくる。
昨日より落ち着いて見えるが、その瞳の奥には、覚悟と緊張が複雑に揺れていた。
アヤはその気配を読み取り、先に口を開く。
「何か、動きがあったのね?」
カイは一度大きく息を吸い、まっすぐ彼女の視線を受け止めた。
「はい。《ノア》へのアクセスを封鎖しました」
アヤの眉がぴくりと動く。
驚きの色がよぎり、それと同時に、胸の奥に冷たいものが落ちていく。
「封鎖?……どういうこと?」
「この前の潜入作戦でルキが仕掛けていたトラップが発動したんです。
その結果、《ノア》へアクセスするためのログインIDが全て使えなくなりました」
一拍置いて、カイは続けた。
「それで今、ARCADIAと交渉に入っています」
アヤは息をのみ、無意識に口元へ手を添えた。
《ノア》に触れられない状態が、政府側にどれほどの圧力になるか──
現場にいた彼女だからこそ、理解していた。
「政府は……どう反応しているの?」
「こちらから条件を提示しました。
粛清対象となった人たちの安否の開示……
もし生きているなら、解放すること。
それを ARCADIA に伝えて、今は“持ち帰り検討中”です」
アヤの瞳が揺れ、小さく光を宿す。
それは希望に似ていて、しかし簡単には信じきれない、不安の色も混ざっていた。
「解放……本当に?」
「まだ政府側がどう動くか分かりません。でも、向こうは交渉の席に着かざるを得ない状況です。
《ノア》に触れない限り、彼らは世界を動かせませんから」
アヤはそっとまぶたを伏せ、ゆっくり息を吐いた。
胸の奥で、固く閉ざされていた何かがわずかにほぐれる。
「……私の家族も無事かしら……」
カイは即座に、迷いなく頷いた。
「アヤさんの家族も、確認対象に入れるよう伝えます」
その言葉に、アヤの表情がわずかに柔らかくなる。
「カイ君……ありがとう」
カイは控えめな笑みを浮かべ、深く会釈して部屋を出ていく。
扉が静かに閉まり、再び白い光だけが室内に広がった。
アヤは膝の上で組んだ自分の手を見つめる。
胸の奥に芽生えた小さな感情──
それが希望なのか、恐れなのか、あるいはそのどちらでもないのか。
彼女はまだ、その答えを見つけられずにいた。
*
その頃──
医療室。
機械の駆動音が規則正しく響き、天井のメディカルライトが白い光を柔らかく落としていた。
ベッドに横たわるセラの指が、ゆっくりと、小さく震えた。
そのわずかな動きを見逃さず、側にいた医療班の隊員が声を上げる。
「セラさん! セラさん、聞こえますか?」
セラのまつげが震え、呼吸が浅く吸い込まれる。
「……ここ……は……?」
「南部拠点の医療室です! もう安全ですよ!」
「……南部拠点……無事……戻れた……のね……」
「はい! レオンさんに連絡します!」
医療班はすぐに内線を鳴らした。
「レオンさん! セラさんの意識が戻りました!」
『……本当か?』
短い沈黙のあと、レオンの低い声が返ってきた。
その声音には抑えきれない安堵が混ざっていた。
レオンは一緒にいたルキに目を向ける。
「セラが……意識を取り戻したそうだ。行くぞ」
「マジ?!……良かった」
「あいつはタフだ。戻ってきてくれると信じてた」
レオンの言葉は短く、重く、そして率直だった。
信頼する部下を失いたくないという、まっすぐな想い。
ふたりは早歩きで医療室へ向かう。
扉を開けると、セラがゆっくりと瞼を震わせていた。
レオンはベッドの脇へ立ち、穏やかだがしっかりとした声で呼びかける。
「セラ。俺だ、レオンだ。聞こえるか?」
セラの視線が揺れながら上を向き、徐々に焦点を結んでいく。
「……レオン……?」
「あぁ。無事だ。戻ってきたんだ」
ルキもセラの顔を見て、ほっと息をついた。
「セラさん、マジで良かった……! 本当にごめん。あのとき俺が……」
セラは弱々しく首を横に振った。
「……気にしないで……みんな……無事……?」
レオンがきっぱりと答える。
「誰も欠けていない。お前も含めてな。作戦は成功だ」
その言葉に、セラの目がわずかに強さを取り戻した。
「……そう……よかった……すぐ……戻る……」
レオンはすぐ眉をひそめる。
「焦るな。今のお前の仕事は休むことだ。それが命令だ」
厳しいが温かい、上官としての声。
セラは短く息を吐き、抵抗せずに従った。
「……了解……ありがとう……」
レオンは、ようやく表情を少し緩めた。
「よく帰ってきた。……おかえり、セラ」
セラは目を閉じ、安堵と悔しさが入り混じったような小さな吐息を漏らした。
その胸には、まだ戦いに戻る意思が確かに宿っていた。
*
数日後。
ようやく、ARCADIAからの優先接続要求が届いた。
──ARCADIA:こちらARCADIA。ジェネシス、接続許可を感謝する。
──ARCADIA:早速だが……結論が出た。
オペレーションルームには、いつになく重い空気が満ちていた。
モニターの前にはレオンとルキ、背後にはカイとサガラ達。
別画面にはアリシアの姿も映っている。
──ARCADIA:第一の条件について。
“粛清対象”とされた市民のうち、自然死・事故死などを除いた案件については……
生存が確認されている者が多数存在する。
カイの心臓が跳ねた。
──ARCADIA:これらを“収容措置対象”として再分類し、段階的解放の方向で調整する用意がある。
ただし、社会構造への影響を鑑み、即時全解放ではなく、数段階のフェーズを設けたい。
──GENESIS:……“段階的”とは具体的に?
──ARCADIA:まずは、君たちジェネシスと直接関係する対象から優先的に。
君たちが“見たいと思う者”をリストアップすることを許可する。
その者たちについては、最優先で状態を開示し、解放プロセスを進める。
カイの喉が、乾いた。
──ARCADIA:第二・第三の条件……粛清プロセスの見直しと監査枠組みについては、前向きに検討する。
だが、実装には時間がかかる。
《ノア》の設計を一部変更する必要があるため、段階を踏んでしか進められない。
──ARCADIA:第四の条件、新規粛清命令の凍結については……
“当面の間”、現在進行中の案件を除き、新規指定を凍結することを約束しよう。
レオンがアリシアへ視線を向ける。
アリシアは、ほんのわずかに頷いた。
──GENESIS:……つまり、“一定範囲で”こちらの条件を飲むつもりはある、という理解でいい?
──ARCADIA:そう受け取って構わない。
現状、《ノア》へのアクセス権限が封じられている以上、こちらも譲歩を考えざるを得ない。
無用な対立は望まない。
むしろ、君たちの“視点”を取り入れることで、システムを改善できる可能性もあると判断している。
その文面は一見すると理性的で、妥当な回答に見えた。
だが、画面の前に立つ全員の胸中には、言いようのない“嫌な感覚”が静かに広がっていた。
アリシアが小さく息を吸う。
──GENESIS:解放プロセスに入る前に、条件がある。
──ARCADIA:聞こう。
──GENESIS:対象者の生存を、こちらの目で確認する。
最低限、映像で直接の会話をさせてほしい。
偽物でないこと、編集された映像でないことを確かめたい。
短い沈黙。
──ARCADIA:合理的な要求だ。
こちらとしても、“信頼構築”のステップを踏むべきだと考えている。
ビデオ通話のセッションを用意しよう。
君たちの“最優先リスト”から選ばれた者たちと、直接対話する機会を与える。
カイの胸の奥で、希望と不安が同時にきしんだ。
──ARCADIA:その上で──
いずれ、直接会って話し合う場を設けたい。
その一文に、レオンの目が細くなる。
──GENESIS:直接?
──ARCADIA:そう。《ノア》の中枢構造に手を入れるためには、
一定以上のセキュリティレベルを持つ環境で接続する必要がある。
現在、その条件を満たすのは……旧庁舎の一部セクションだけだ。
画面の端に、「旧庁舎」の簡易マップが表示される。
──ARCADIA:そこで、最小人数の代表者同士で対話を行いたい。
ジェネシスからは数名の代表を。こちらも人間の代表者を出す。
“この世界の在り方”を正面から話し合う場を設けるべきだ。
──ARCADIA:そちらの要求を“実装可能な形”へ落とし込むためにもね。
レオンの背後でサガラがわずかに身じろぎする。
旧庁舎──つい最近まで命懸けで潜入した場所。
そこへ再び呼び戻そうとしているのだ。
「……どう見る?」
レオンが小声で問う。
アリシアは数秒黙し、冷静に答えた。
「罠の可能性は高い。けど、“会わずに進める”こともできない。
旧庁舎の構造は頭に入っているし、こちらの準備次第で“逆に利用する”道もあるわ」
ルキは画面を見つめながら呟く。
「あいつら、本気で《ノア》に触れない。
今のままじゃ長くもたないはずだ。
だからこそ、“交渉の場”を繕ってでも呼び出したいんだろう」
──GENESIS:まずは、ビデオ通話だ。
対象者のリストを送る。
その後で、直接会談の是非を判断する。
──ARCADIA:了解した。
君たちのリストを待つ。
そして──この膠着状態を終わらせるための“一歩”を踏み出そう。
通信は静かに切れた。
オペレーションルームに、重たい沈黙が戻る。
レオンは椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
「……やるしかねぇな」
カイは拳を握りしめる。
頭の中では、ただひとつの願いだけが渦を巻いていた。
──お父さん、お母さん、リオ、本当に生きているのか。
アリシアは一度だけ、ゆっくりと息を吐いた。
全員の視線が自然と彼女に集まる。
「みんな、ここまでは“交渉”よ。
相手をテーブルに座らせて、条件を引き出した段階」
少し間を置き、言葉を続ける。
「でも次からは違う。
向こうは“譲歩”の顔をしながら、こちらを引きずり出そうとしている。
つまり――ここから先は、交渉じゃない」
アリシアの声が、低くなる。
「私たちが賭けるのは、“正しさ”じゃない。
誰が生き残るか、よ。
これは……生き残るための局面に入った、ってこと」
誰も、否定しなかった。
その沈黙は、同意ではなく――覚悟だった。




