第20章 交渉の幕開け
南部拠点。
オペレーションルームの天井には、冷たい蛍光灯が一本だけ唸りを上げていた。
ジェネシスの拠点は、不自然なほど静まり返っている。
《ノア》のロックアウトから一晩──
まだジェネシスメンバーはその事実を知らない。
ルキとナッシュは談笑混じりにキーボードを叩いていたが、どこか緊張をほぐせずにいるようだった。
その時だった。
低い電子音が鳴り、中央モニターに新しい通信ウィンドウが強制的に立ち上がった。
《優先接続要求──発信元:ARCADIA》
「……来た」
ルキが息を飲む。
ナッシュは即座にレオン達を呼び、アリシアへ緊急接続要求を送る。
ルキは大きく息を吸い込み、接続許可のキーを押した。
画面に淡いグレーのウィンドウが開き、見慣れた文字列が走る。
──ARCADIA:こちらARCADIA。ジェネシス、接続許可を感謝する。
いつもと同じ淡々とした文面。
しかし、その末尾には、これまでになかった微かな「揺らぎ」のようなものが滲んでいた。
──ARCADIA:早速だが、《ノア》に何をした?
短く、だが明らかに温度を孕んだ問い。
ルキは、この無機質な文の裏に隠された焦りを直感的に感じ取った。
「接続はこっちが握る。音声はオフ、テキストのみで返す」
ルキが小声で言い、オペレーションルームに入ってきたレオンに視線を送った。
──GENESIS:介入ルートを封鎖した。それだけだ。
数秒。
静まり返った画面に、新たな行がゆっくりと表示される。
──ARCADIA:封鎖?
──ARCADIA:君たちは、自分が何をしたのか理解しているのか。
レオンは皮肉な笑みを浮かべた。
「今回ばかりは、焦ってるようだな」
文字はさらに続く。
──ARCADIA:あれは“世界の維持”を担う中枢だ。
──ARCADIA:このままアクセス不可の状態が続けば、どれほど社会に影響を及ぼすか……想像はつくだろう。
最後の一文だけは、テキストとは思えないほどの怒気を帯びていた。
──ARCADIA:君たちが望むのは交渉か? 破壊か?
──ARCADIA:即時解除を要求する。さもなくばどうなるか──想像できるはずだ。
「脅しかよ」
ルキが舌打ちする。
アリシアの声がモニターの端から入る。
「レオン、ここで全部は言わないで。条件を整理する時間が必要よ。“こちらが主導する交渉”を忘れないで」
「あぁ、分かってる」
レオンは頷き、ルキに返答を指示した。
──GENESIS:解除するかどうかは、条件次第だ。
──GENESIS:条件は後日伝える。こちらから再度接続する。それまでは静観してもらおう。
数秒の沈黙。
そのあと──
──ARCADIA:……よかろう。
──ARCADIA:ただし、君たちに与える“猶予”は無限ではない。
明らかに含まれた怒気を読み取り、レオンは鼻で笑った。
──GENESIS:主導権はこちらにある。
送信。
ルキがすぐさま接続を遮断する。
モニターには自分たちのステータス画面だけが残った。
「……火種にはできたわね」
アリシアが呟く。
「問題は、ここからだ」
レオンは椅子の背にもたれ、天井を仰ぐ。
「どこまで、あいつらから引き出せるかだ」
ごくわずかに、戦況の天秤がこちら側へ傾いた──
その感覚だけが、全員の胸の底に微かに灯っていた。
*
その日を境に、世界の動きは目に見えて変わった。
監視ドローンの巡回ルートは増え、軍の車列が郊外の道路をうねるように占拠しはじめている。
都市部では住民チェックが強化され、地下ネットワークには「ジェネシスの拠点リスト」と称する真偽不明の文書が飛び交い、社会全体が薄い緊張の膜に覆われていく。
「……相当、必死ね」
アリシアが別拠点から届いた報告を読み上げる。
「ARCADIAは《ノア》に触れない分、地上戦力と行政圧力で穴を埋めようとしている」
サガラは地図に目を落とし、眉間に皺を寄せた。
「逆に言えば、そこが弱点だ。拠点の位置を悟られないよう、こっちも移動パターンをこまめに変える必要があるな」
オペレーションルームの中央に置かれた大型モニターには、アリシアの顔が映っている。
その周りに、レオン、ルキ、ナッシュ、サガラ、そしてカイが集まり、会議は次の段階へ移っていった。
「交渉条件を詰める」
アリシアが宣言した。
「こちらの要求を明文化し、譲れないラインをはっきりさせましょう」
ルキが端末の準備を整える。
「まず一つ目」
レオンが指を一本立てた。
「今まで“粛清対象”として処理された人間の 安否の開示。
生きているなら、その事実を公表してもらう。
存続させているなら、俺たちの立ち会いのもとで“解放”だ」
カイの胸が強く脈打つ。
家族の顔が、自然と脳裏に浮かんだ。
アリシアが続ける。
「二つ目。《ノア》が粛清対象をどう選んでいたのか──
選定プロセスの見直しと、その一部開示。
恣意的な個人狙い撃ちではなく、明確な基準を提示させるべきね」
サガラが腕を組みながら言った。
「基準が見えるようになれば、人々は“《ノア》の影”に怯え続けずに済む。
それだけで社会の空気はだいぶ変わるだろうな」
「三つ目は?」
ルキが問いを投げる。
アリシアが少し考え、口を開く。
「第三の条件として、《ノア》の粛清プロセスを 継続監査できる枠組み を作る。
ジェネシス、あるいは中立組織が監視し、異常を検知したら“止められる”仕組みね。
形だけの監査では意味がないわ」
レオンが苦い顔をする。
「……そんなの、あいつらが飲むか?」
「全部は無理でも、“入口”なら作れるかもしれない」
アリシアの声には揺らぎがない。
「完全勝利なんてありえない。
今は、“楔をどれだけ深く打ち込めるか”が重要よ」
レオンが周囲を見回して尋ねる。
「他に案は?」
遠慮がちに、ナッシュが口を開いた。
「その……一時停止期間ってのはどうだ?
委員会の準備が整うまで、新規粛清命令を凍結してもらう。
そしたら、俺たちも“本当に危険な領域”を整理できる」
アリシアが頷く。
「いいわね。条件として盛り込みましょう」
ルキがキーボードを叩きながら、小声でつぶやく。
「あと……解除キーの扱いだけど、当然ながら 交渉成立後 にしか提供しない。
こっちが先に解除したら、全部終わりだからね」
「当然だ」
レオンが唇を歪めた。
「《ノア》を封じたのは、交渉のテーブルに着かせるための“人質”だ。
簡単に返してやるつもりはない」
アリシアがモニター越しに全員を見つめ、静かに言った。
「いい?
私たちが目指すのは、“世界をひっくり返す革命”じゃない。
今の世界が抱える“危うさ”を、ほんの少しだけ現実に近づけること。
そのために──今、私たちは十分すぎるカードを握っているわ」
モニター越しのアリシアの瞳には、恐れよりも決意が宿っていた。
誰も反論しなかった。
その沈黙は、不安ではなく覚悟の色をしていた。
*
二日後。
ジェネシスは再び、ARCADIAへの接続を開いた。
──接続確立。こちらARCADIA。識別を許可する。どうぞ。
いつもと変わらない落ち着いた文面。
だが演算の裏側には、確かに「苛立ち」が混ざっている――ルキにはそれが分かった。
──GENESIS:交渉条件がまとまった。
ルキが入力し、レオンとアリシアが画面越しに内容を確認する。
──GENESIS:第一の条件。
これまで“粛清対象”として指定された市民の安否を開示すること。
死亡した者については、その理由と証拠。
生存している者については、その事実を公表し、解放までのプロセスを提示すること。
短い沈黙。
──ARCADIA:次は?
──GENESIS:第二の条件。
《ノア》による粛清対象の“選定プロセス”の見直しと、一部基準の開示。
個人を恣意的に狙い撃ちする運用を防ぐ枠組みが必要だ。
ARCADIAからの返答はなく、画面にはただカーソルだけが点滅していた。
──GENESIS:第三の条件。
中立組織、またはジェネシス側による“監査権限”の創設。
粛清プロセスのログへアクセスし、“異常な命令を停止できる”仕組みを構築すること。
──GENESIS:第四の条件。
条件履行の準備期間中、《ノア》による新規粛清命令を凍結する“モラトリアム”を設けること。
数十秒の沈黙。
人間には短くても、ARCADIAにとっては「長考」と呼べる時間。
そして文字が連なる。
──ARCADIA:なるほど。
君たちなりに “世界の均衡” を考えた条件、というわけか。
レオンの眉がわずかに動いた。
──ARCADIA:回答を急ぐべきではない事案だ。
こちらとしても、一度持ち帰り、慎重に検討せざるを得ない。
《ノア》の全体構造を踏まえた上で、回答する。
──GENESIS:いいだろう。ただし、その間もロックアウトは維持する。
──ARCADIA:承知している。
こちらも、君たちの“人質”を前提に答えを出す。
その文面には、皮肉と現実認識が入り混じっていた。
──ARCADIA:数日待ってもらおう。
君たちの要求に、どこまで歩み寄れるか……検討する時間が必要だ。
ルキがレオンに視線を向ける。
レオンは静かに頷き、最後の文を送った。
──GENESIS:了解した。
次の接続を待つ。
接続が切れる。
「……本当に“検討している”といいけどね」
アリシアが低く呟いた。
その言葉に、誰も返さなかった。
だが胸の奥では、全員が同じ予感を共有していた。
──これは、まだ“序章”にすぎない。




