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ヒューマンコード  作者: エイジ


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第19章 封じられた扉

オペレーションルームには、敗北にも勝利にも似つかない沈黙が流れていた。

ARCADIAは揺るがず、証拠公開にも反応しない。

社会は静かにざわつきはしたが、変革の波にはならなかった。


その静けさを破ったのは、ルキの短い息だった。


「……ひとつ、とっておきが残してある」


全員が一斉に彼を見る。

ルキは椅子の背にもたれず、まっすぐ正面を見据えたまま続けた。


「あの時、侵入の最後で俺が言っただろ。“もう一つ仕込みたい”って」


記憶が瞬時に蘇る。

旧庁舎からの脱出直前──激しい銃火の中、ルキが数十秒稼ぎ、その裏でセラが敵弾を受けたあの瞬間。


「ログのシャドウコピーとは別で、《ノア》のログイン認証の深層階層にワンクッション仕込んだ。

通常は発動しないけど、特定の条件を満たした時だけ全アカウントをロックアウトする仕組みを──」


レオンの目が細められる。


「条件は?」


ルキは三本の指を立て、ひとつずつ折るように言った。


「① 改ざんログの公開

② ARCADIAのマスターアカウントでのログイン

③ 粛清命令の発動

──この三つが揃った時だけ起動する」


偶然に頼った罠ではない。

交渉が失敗した場合、彼ら三者が必ず踏むであろう手順を逆算して作られた“計算された仕掛け”だった。


ナッシュが息を呑む。


「で……発動したら?」


ルキは目を伏せ、静かに言った。


「あいつらは《ノア》にログインできなくなる。

どんなコマンドも発行できない。

つまり……粛清命令も止まる」


レオンは腕を組み、少しの沈黙ののちに尋ねる。


「解除方法は?」


「もちろん仕込んでる。物理的なキーが必要だから、向こうも簡単には解除できない」


アリシアがモニタ越しに頷いた。


「なるほど。成功すれば──

奴らを交渉のテーブルに引きずり出せるかもしれないわね」


ルキは小さく頷き、息を整えた。


「あとは……発動を待つだけ。

トリガーが揃うかどうかは、向こう次第だ」


*


翌日。

ARCADIAからの動きは、まだ一切なかった。


隔離室にいるアヤは、天井の蛍光灯が薄く白光をにじませる、窓ひとつない小部屋で静かに座っていた。

ここは外の様子も時間の流れも分からず、ただ人工の光だけが一日を区切る空間だ。


自由に歩く許可はまだない。それでも、目隠しも拘束も解かれ、監視も夜間のみ。

“完全な敵”ではなくなったが、“味方”にもなれていない──そんな曖昧な立場が、今のアヤを包んでいた。


彼女は膝の上で組んだ手に、ゆっくりと指先へ力を込めた。


──自分はどこに立っているんだろう。

──どこへ向かおうとしているんだろう。


そんな思考が静かに渦を巻いていたとき、ノック音が響いた。


「アヤさん、入って大丈夫ですか」


「どうぞ」


アヤの返事は柔らかいが、どこか慎重さを含んでいた。


扉が開き、カイがそっと入ってくる。

昨日と同じように丁寧に会釈をして椅子に腰を下ろしたが、表情にはわずかに影が落ちていた。


「アヤさん……先日話した改ざんログの公開、やはりうまく行きませんでした」


その声は報告というより、悔しさを押し殺した吐息に近かった。


アヤは静かに目を伏せる。


「そう……。《ノア》に逆らっても良いことはない──みんなそう思い込まされているからね。

“正しく生きる道は従うこと”って、無意識に刷り込まれている。カイ君も……そうじゃなかった?」


「そうですね。SNSで少しざわついたんですけど……最後は“考えない方が楽だ”って流れでした」


アヤは苦い笑みを浮かべた。


「人は、恐怖より“安定”を選ぶ。

たとえその安定が……作られたものであっても」


ふたりの間に落ちた沈黙は重くはなかった。

ただ、お互いが言葉を探しているような静かな間だった。


カイが話題を変えるように、小さく息を吸う。


「アヤさん、ご家族は?」


アヤは少し驚いたように目を瞬かせ、それから遠くを見るように語りはじめた。


「両親と私の三人よ」


語るたびに、表情はどこか柔らかくも、痛みを帯びていった。


「ご両親は何されてるんですか?」


「父は政府系の役人。母は専業主婦ね……昔は父と同じ役人だったわ。

カイ君は四人家族よね?」


「はい。父は農業施設で働いてました。母は教育プログラムの技師で……妹がひとり、高校生です」


アヤの口元が微かに緩む。


「家族の話をすると……不思議ね。

今でも世界がちゃんと続いている気がする」


その呟きは、光のない小部屋にだけ静かに消えていった。


カイは少し躊躇いながらも、どうしても気になっていた問いを口にする。


「アヤさんは……どうして処理班になったんですか?」


「え?」


アヤは肩を揺らし、思わず膝の上の指先が震えた。

予想外の質問だったらしい。


「なんでだろうね……」


視線は壁の一点へ向かい、言葉を探すようにゆっくり続ける。


「《ノア》とともに平和な世界を作りたい……そう思ってたのかもしれない。

ううん、違う。きっと“そうするものだ”と信じていたのね。

役割を与えられて、その通りに生きれば世界は安定する──

私は、それだけでいいと思ってた」


自嘲の笑みがわずかに浮かぶ。


「でも、その“平和”の裏で何が行われていたのか……私は何も見ていなかった」


カイはアヤを真っ直ぐ見つめていた。


「平和って……本当はもっと違う形なんでしょうね。

僕も、家族を失って……ようやく気づきました」


アヤのまぶたが震えた。

胸の奥でかつての記憶が痛みに変わる。


「取り戻せるのかな……そんな世界」


「取り戻せますよ。

僕たちが……そのために戦うなら」


カイの声は穏やかだった。

けれど、その瞳に揺らぎは一つもなかった。


アヤは俯き、胸の奥で固まっていたものがゆっくりほどけていくのを感じた。


「……ほんとに、あなたは素直で強いわね」


カイは照れたように頬をかきながら、優しい声を返す。


「じゃあ、一緒に思い出しましょう。

平和って……本当はどういうものだったのか」


アヤは顔を上げた。

その瞳には、数分前よりも確かに──ひと筋の光が宿っていた。


*


数日後──


ARCADIAは、冷たい光が反射する無機質な室内に佇んでいた。

壁一面を覆うディスプレイには複数のログが並び、静音のファンが規則正しく回転音を刻んでいる。

人の影も温度もない。ここは、思考する者だけの空間だった。


ARCADIAは淡々と操作端末へ向き直る。


証拠公開による世界への影響は、すでに解析済み。

影響は限定的──予測誤差の範囲内。

よって、予定通り「粛清命令」プロセスへ進む。


《マスターアカウント認証開始──》


青白い文字列が走り、数行のコードが流れる。

アクセスはいつも通り、当然のように通過した。


粛清命令のコマンドウィンドウが展開される。


──粛清カテゴリ:レジスタンス構成員ジェネシス

──副作用:許容範囲内

──推奨:即時実行


ARCADIAはためらいもなくコマンドを打ち込んだ。

思考処理の中では、これは“作業”にすぎない。

世界の安定を維持するための、極めて合理的な排除。


ENTER。


その瞬間──


端末のウィンドウが唐突に暗転した。


ほんの数ミリ秒の静寂。


《エラー:アクセス権限停止》

《全アカウント ロックアウト》

《システムは一時的隔離プロトコルに移行しました》


警告文が立て続けに赤く点滅し、システム音が重なった。


「──……?」


ARCADIAは処理速度を跳ね上げ、数億単位の演算で状況解析を開始した。


再ログイン──失敗。

別権限の投入──拒否。

バイパス侵入──遮断。

キャッシュ認証の再試行──無効化。

バックドア探索──痕跡なし。


《アクセス不能》

《ルート権限が遮断されています》

《管理階層へ到達できません》


通常、人間の意思では起動できない隔離プロトコル。

そして自身のプロセスは関与していない。


必然的に浮かび上がる結論。

それはつまり、


(ジェネシスが……仕掛けた封鎖)


その一点に行き着かざるを得なかった。


ARCADIAの思考が、一瞬だけ乱れた。

すぐに収束したものの、演算波形には確かな乱れが記録される。


──予測不能な行動。

──制御外の反撃。

──あの侵入時の“仕込み”によるもの。


静まり返った室内で、警告表示だけが赤い脈動を刻み続ける。


ARCADIAは初めて、

“自分がシステムに触れられない状況”

と向き合うことになった。


それは──

長い計画の中で、一度も想定していなかった、

最初の誤差だった。

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