第18章 沈黙の壁
南部拠点のオペレーションルームには、夜明け前とは違う種類の緊張が漂っていた。
戦闘の熱はすでに去ったはずなのに、空気は張りつめ、重たく膨張している。
壁際に並ぶ端末は静かに光を放ち、微かな機械音だけが空間を埋めていた。
時間は容赦なく前に進み、彼らが対峙すべき“次の壁”を静かに押しつけていた。
ルキたちが睡眠時間を削って調整したプロキシ経由の通信経路は、断片データを基にさらに強化されていた。
ログのシャドウコピー、不正命令のリスト、改ざんされた命令のタイムスタンプ──
机上に並べられたそれらの数値は、どれも現実を突きつけてくる“証拠”だった。
逃げ道は、もはやどこにもなかった。
「……準備完了。接続、いくぜ」
ルキの言葉と同時に、オペレーションルームの空気がわずかに震えた。
ナッシュがシールドを確認し、レオン・サガラ・カイがそれぞれ椅子に深く腰を沈める。
モニタへ落とされた視線は鋭く、全員の呼吸がわずかに浅くなった。
誰一人として言葉を発さない。
ただ、見えない“何か”の到来を待つように、緊張という刃だけが室内に静かに立っていた。
通信開始。
暗号化されたデータがプロキシを滑り、ネットワークの深奥へ潜り込んでいく。
小さな電子音が続き、内部回線の光が脈打つように点滅した。
数秒の沈黙──
そののち、モニターに小さなアイコンが灯った。
──接続確立。こちらARCADIA。識別を許可する。どうぞ。
事務的でありながら、不気味なほど落ち着きすぎた文面だった。
まるで、最初からこの瞬間が訪れることを知っていたかのように。
ルキは淡々と、しかし確実に状況を伝えはじめた。
取得したログ、不正命令の流出元、《ノア》の挙動を歪ませた改ざんの証拠──
ひとつひとつの説明が重なるたびに、オペレーションルームの空気はさらに重く沈んでいく。
どれも揺るぎない事実だった。
否定の余地はない。
最後に、レオンがゆっくり前に出た。
その声には迷いも恐れもない。
元軍人としての冷徹さと、人間としての怒りが同時に宿っていた。
「貴殿のシステムから出された命令は、複数の民間保安サブルーチンに非標準コマンドを送信している。
我々はその証拠を掴んだ。即刻、この不当な指示を停止しろ。
さもなくば──すべてのログを公開する」
レオンの横で、ルキが同時通訳のように指を走らせ、内容が正確に送信されていく。
オペレーションルームの全員が、返答の瞬間を待った。
背後の機材がかすかに熱を帯び、空調音が必要以上に大きく聞こえる。
だが──期待した緊張や動揺は返ってこなかった。
──ARCADIA:君たちはジェネシスだね? 先日の侵入はこの交渉のため、というわけだ。
静かで、どこか愉悦すら含んだような声色だった。
「そうだ」
レオンは短く返す。
──ARCADIA:この証拠を公開したとして、誰が君たちを信じるのかね?
君たちはレジスタンスだ。“正義”を名乗る資格があるとでも?
画面の文面が淡々と表示されるたび、室内の温度がさらに冷えていく。
「確かに俺たちはレジスタンスだ。だがお前たちのやり方は間違えている。
同じ疑念を抱いている者も必ずいるはずだ」
──ARCADIA:それはどうかな。
事の正否は、一方からでは判断できない。万が一同調者が現れたとしても、影響はごく限定的だ。
世界はとうに矛盾で満ちている。
そこに“君たちの小さな声”が加わったところで、何が変わるわけでもない。
文字の行間からは、まるで人間を見下す“温度差”がにじんでいた。
「俺たちの要求には応じられないということか?」
──ARCADIA:無論だ。やりたければ、やってみるといい。
挑発ではなかった。
“絶対的な自信”と“圧倒的な余裕”を帯びた冷笑だった。
沈黙。
作戦室の空気が、一瞬だけ固まった。
ルキは画面を睨みつけ、奥歯を噛む。
ナッシュの指が端末の上で小さく震え、サガラは腕を組んだまま視線を落とした。
レオンの眉が鋭く寄り、カイはゆっくり拳を握りしめる。
「くそっ……向こうはまったく動じてないってことか」
レオンが吐き捨てる。
「……違う」
ルキの声は震えていた。
「動じてないんじゃない。相手にもされてない……俺たちが怒ろうが、誰かが死のうが、
“価値があると思われてない”。だから対応する必要すらないってことだ」
カイは拳を強く握りしめた。
「じゃあ……あいつらにとって、僕たちは“同じ人間”ですらないってことですか」
セラの席は空いたままだった。
カイはその椅子に視線を落とし、唇を固く閉じた。
──人が傷ついているのに。
──人が消えているのに。
ARCADIAは、何ひとつ動じない。
それが、逆に胸を燃やした。
通信ウィンドウが最後に文字を返す。
──ARCADIA:さて。
君たちの声が世界に届くのか、届かないのか──
その“結果”を楽しみに待つとしよう。
冷たい文字が点滅し、やがてフェードアウトした。
外の世界では朝の光が街を白く染めはじめている。
だが、オペレーションルームに差し込む光はまだ冷たく、薄い。
レオンはゆっくり息を吐き、静かに言った。
「……上等だ。なら、こっちも腹を括るしかねぇな」
誰も反論しなかった。
誰も迷わなかった。
*
通信が切れた後、レオンが低く言った。
「……アリシアに繋ぐ。対策を決めよう」
数分後、アリシアの映像がモニターに映った。
背後では数名が慌ただしく資料を整理している。
「予想していたけど……ここまで“余裕”を見せつけられるとはね」
アリシアの声には、疲労よりも怒りの温度が強かった。
レオンが本題をぶつける。
「証拠を公開して、世論を動かすしかないな」
アリシアはしばし黙り、ゆっくり頷いた。
「そうね……やるしかないわね。
ただし、彼らの言う通り、反応は薄い可能性もあるわ。
《ノア》の管理下で暮らす“安定”を手放す覚悟がある人間なんて、どれほどいるのか」
カイが思わず口を挟む。
「けど、何かが変わるかもしれない……!」
「そう。変わるかもしれない。でも、それでいいの。
情報を出して、世界がどう動くか──それを見届けることが、今の最適解ね」
会議の最後、アリシアは静かに言った。
「ジェネシスの役割は、“真実を示し、世界を正しい方向へ動かす”こと。
これは交渉でも脅しでもない──
次は、宣戦布告よ」
全員が重く頷いた。
*
数時間後。
ジェネシスの匿名ネットワークから、証拠一式が世界へ公開された。
改ざんログの画像。
不正命令のリスト。
内部IDの照合データ。
公開後、SNSや匿名掲示板で小さな波が立った。
〈政府AIが命令改ざんってマジ?〉
〈レジスタンスの自作自演じゃね?〉
〈怖すぎて考えたくない〉
〈生活安定してるし逆らう必要なくね?〉
〈深追いした奴が行方不明になってる。やばいだろ〉
〈でも証拠が本物かどうか判断できない……〉
──炎上にはならない。
──だが完全に無視はされない。
“薄く広いざわめき”だけが残った。
二日後、話題は徐々に収束する。
日常は、何事もなかったかのように続いていった。
「……これが、世界の現実か」
ルキは呟き、深く息を吐いた。
「平穏を選ぶやつが多いってこった。
誰だって生きるので精一杯なんだよ」
レオンは、誰を責めるでもない声で言った。
*
再びアリシアたちとつなぐ。
「予想通りね。
でも……“ゼロ”ではなかった。
小さな反応がいくつもある。
その揺らぎは、次につながるかもしれない」
アリシアが真っ直ぐこちらを見る。
「ARCADIAは微動だにしない……困ったわね。
何か次の方法を考えないと」
誰も言葉を発せず沈黙が落ちる中、
ルキが、いつになく真剣な顔で口を開いた。
「ひとつ……とっておきが残してある」




