第17章 揺れる夜明け
南部拠点に戻ったとき、空気は一瞬だけふっと軽くなった。
張りつめていた深夜の緊張が、金属板の隙間から抜け落ちるように和らいでいく。
簡素な食堂には、疲れ切った顔ぶれがぽつりぽつりと集まり、椅子に腰を落とすたび、硬かった肩がやっと沈んでいった。
誰も大声を出さない。
それでも──テーブル越しに交わされる小さな笑顔や、息をつく仕草だけで、
「あぁ、生きて帰ってきたんだ」
その実感が胸の奥にじんわりと満ちていく。
燃え尽きたような倦怠と、確かに勝ち取った一歩。
その両方が、静かに空間に漂っていた。
「よく生きて帰ってきたな」
サガラが柔らかく言う。
その声に反応するように、テーブルのあちこちで缶をぶつける乾いた音が重なった。祝杯というには控えめだが、今の彼らに必要なのは“この静かな呼吸”だけだった。
ルキは仲間に肩を叩かれて苦笑する。
「死ぬかと思ったぜ……」と軽口を叩きながらも、その指先はかすかに震えていた。
ナッシュは腕まくりをして機材の点検を続けている。
“終わったことより、次に備える”──そんな背中だった。
レオンは医療スペースでセラの容体の最終報告を受けていた。
セラは意識不明の重体。だが、命はつながった。
その一言に、レオンはほんの一瞬だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
「……そうか。ありがとう」
その声は小さく、胸の奥に溜まっていた緊張をそっと解き放つ響きを帯びていた。
*
寝室の隣にある小さな部屋──そこに、目隠しと手錠をされたアヤが静かに座っていた。
薄暗いランプの光が彼女の影を細く揺らしている。
ティアナが少し離れた椅子に座り、静かに見張っていた。
南部拠点に戻るまでの道中、アヤを連れて行くかは激しく揉めた。
「拠点まで連れて行って、本当に大丈夫なのか?」
ルキはレオンに詰め寄った。声には不安と苛立ちが混じっていた。
レオンはすぐに答えず、目を伏せて考え込んだ。
情報の扱い、裏切りのリスク、拠点の安全性――
考えるべき要素は多すぎた。
一方のアヤも迷っていた。
処理班の自分がレジスタンスに同行するなど、本来ありえない選択だ。
その迷いを断ち切ったのは、カイの静かな言葉だった。
「戻っても……粛清されるだけですよ。
生きたいなら、こっちに来た方がいい」
その声には、軍の中では決して聞くことのなかった“人の温度”があった。
さらに話すうち、旧庁舎の情報をレオン達に渡したのがアヤだったことが分かる。
それが決定打となった。
「よし、連れて帰る。ただし──拘束は必要だ」
処理班の装備をすべて外し、目隠しと手錠をつけたまま連行する、という条件付きだった。
アヤは抵抗することもなく黙って座っていたが、唇は細かく震え、押し殺した動揺が呼吸に滲んでいた。
見張りのティアナの目を避けるように、小さく俯いたまま、アヤは心の中で何度も何度も問い返していた。
──私は、正しい選択をしたのだろうか。
──あの場で命令に背いてまで、彼らを助けた意味はあったのだろうか。
暗闇の裏側で、封じ込めていた記憶が次々と浮かび上がる。
レイナが最後に見せたあの表情、ユウナと任務の合間に交わした他愛もない会話、そして──
両親と過ごした温かい夕食の記憶。
思い出が胸に刺さるように蘇り、アヤはゆっくりと歯を噛みしめた。
気づかぬうちに、一粒の涙が頬を伝って落ちた。
しばらくして、控えめなノックが部屋の静けさを破った。
ティアナがちらりと扉に目を向ける。入ってきたのはカイだった。
「ティアナさん。代わります」
「了解。頼んだよ」
軽く肩を回しながら、ティアナは部屋を後にした。
扉が閉まると、ふたたび静寂が戻る。
カイは椅子に腰を下ろし、言葉を選ぶようにしばらく黙ったままアヤの方を見つめていた。
「……どうして、あの時撃たなかったんですか?」
アヤの肩がわずかに震えたが、答えはない。
カイは続けた。
「僕たちを殲滅しろって命令、出てたんですよね?」
長い沈黙のあと、アヤはかすれた声で言った。
「あなた……殺されたかったの?」
「そういう意味じゃ……」
「なら、それでいいのよ。
私も……殺したくなかったの」
吐き出された言葉は、胸の底からこぼれたように弱く、真っ直ぐだった。
カイは何と言えばいいか分からず唇を噛む。
アヤがゆっくり続けた。
「……最近の《ノア》の粛清命令、おかしいと思ってたの。
あなた、カイ君よね? 家族も粛清対象だった……」
「知ってるんですか?」
「ええ。あの日、私もあなたの家に配置されたの」
カイの呼吸が止まった。
「……僕の家族は、どこに?」
「……ごめん。私にも分からないの。
搬送後の追跡は不要って……それだけ」
二人のあいだに重い沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、アヤは自分の胸に積もったものを押し出すように呟いた。
「あなたも……レイナさんも、ユウナも……
どうして粛清対象なんかにされるの……?
誰も、悪いことなんてしてないのに……」
家族の記憶を抱えたまま、数えきれない矛盾の中で押しつぶされそうになっている。
アヤの声は震え、涙がこぼれた。
カイはゆっくり立ち上がり、彼女の前に歩み寄る。
そして、そっと目隠しを外し、手錠も外した。
迷いと疲労が滲むアヤの瞳。
カイはその瞳をまっすぐ受け止めた。
「あなたは……僕たちを助けてくれた。
だから今度は、僕たちがあなたを助ける番です」
ほんの少し息を吸って、言葉を置く。
「僕たちと一緒に戦いましょう。アヤさん」
アヤは驚いたように彼を見つめた。
その瞳の奥で、一つの決意が揺れ始めていた。
*
翌朝。
南部拠点のオペレーションルームには、夜の熱がまだ残っていた。
モニターの光が薄暗い空間を照らし、紙コップに残った冷えたコーヒーの匂いがわずかに漂う。
疲労した顔、寝不足の目。
それでも──誰もその場を離れようとはしなかった。
「……接続するぞ」
ナッシュが静かに告げ、通信回線を開く。
数秒のノイズののち、アリシアの顔がモニターに映し出された。
彼女はほとんど眠っていないのだろう。
それでも姿勢は凛とし、背後には別拠点の喧騒が薄く聞こえる。
「レオン、サガラ……みんな。戻ってきてくれて、本当に良かった」
その一言に、レオンの表情がわずかに和らぐ。
「状況を報告して。細部はあとで文書化するから、まずは概要を」
レオンは短く頷き、淡々と語り始めた。
旧庁舎の地下深部で、ログの複製とプロキシの構築に成功したこと。
《ARCADIA》の応答ヘッダを確保し、通信経路を完全に掴んだこと。
退避中に処理班と交戦になり、セラが重傷を負ったこと。
そして──アヤを連れ帰ったこと。
その最後の報告に、アリシアの視線が鋭くなる。
「……政府側の指揮官を連れ帰った、のね?」
「あぁ」
レオンが短く応える。
「彼女は上からの殲滅命令に逆らって、俺たちの捕獲指示を出した。結果、自分が粛清対象になって……カイが助け出した。
逃走中に俺たちを攻撃しようとはしなかったし……今のところは拘束してるってのもあるが
怪しい行動もとっていない」
ルキがモニターに身体を乗り出す。
「それに……旧庁舎の情報を渡したのは彼女だぜ、アリシアさん。オレたちが中に入れたのは、彼女の裏切りのおかげだ」
アリシアは目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……なるほど。
彼女の処遇については、慎重に判断する必要がありそうね。今は拘束を続けなさい。
彼女が“どちら側の未来”を選ぶのか、これからよ」
抑えた声に、重い判断の負荷が滲む。
アリシアは視線を切り替え、ルキを指名した。
「通信経路は──本当に《ARCADIA》へ通じているのね?」
ルキは端末を持ち上げ、画面に複数の確認ログを映す。
「あぁ、それは間違いない。応答は生きてる。
ログの改ざん履歴、不正命令のリストも揃った。
今日のうちに接触を試すことはできるぜ」
その言葉に、アリシアの瞳がわずかに光った。
「……ようやく、“敵の心臓”に手が届くわけね」
レオンが腕を組む。
「ただ、交渉になるかは分からねぇ。
この手の相手は、脅しじゃ動かねぇ可能性が高い」
アリシアはモニター越しに全員を見渡した。
「覚悟して臨んで。
《ARCADIA》は旧庁舎で書類を処理するだけの組織じゃない。
《ノア》の根幹、政治の根幹、人類の“価値そのもの”を左右できる存在よ」
空気がわずかに震えた。
通信が切れ、モニターが闇に戻る。
しばらく誰も口を開かなかった。
そして──
「さぁ、やるか」
レオンが低く呟いた。
その声は静かだったが、部屋の全員の胸に火を灯すような熱を持っていた。




