第10章 裏切りの影
レイナは、薄暗いデータラボの一角で、モニターの明かりだけが灯る作業デスクに向かう男に歩み寄った。
白衣を羽織った男──ジェームスは、彼女の気配に気づいて振り向く。
「ひさしぶりね。元気そうで何よりだわ」
レイナがやや微笑むと、ジェームスは驚いたように目を瞬かせ、椅子をくるりと回転させてこちらを向いた。
「レイナ? 今日は急にどうしたんだい?」
彼の表情には、懐かしさと警戒心が入り混じっていた。
「えぇ。ちょっとお願いがあって」
「僕にできることなら」
ジェームスは口元をほぐし、腕を組みながら真剣な目で彼女を見つめる。
レイナは内ポケットから小さな紙片を取り出し、そっと机の上に置いた。
「このIPアドレスなんだけど、あるシステムに不正アクセスしてるらしくて。調査してくれないかしら?」
「ふーん、あるシステムに……不正アクセス、ねぇ」
ジェームスは紙を手に取り、目を細めながら内容を読み取った。
彼の指先が無意識に机をトントンと叩く。
「最近、活動が活発なジェネシスってレジスタンス、知ってる?」
「──あぁ、名前は聞いたことあるね」
椅子の背もたれに体を預け、ジェームスは天井を見上げて息をつく。
「ひょっとしたら彼らにつながる情報かもしれないの。これが通信ログよ」
レイナは記録媒体を差し出す。ジェームスはそれを受け取り、眉をしかめながら静かに眺めた。
「なるほど……仕事の合間にちょっと調査してみるよ。IPアドレスからどこまで分かるかは保証できないけど……」
「忙しいところ、ごめんなさい」
「君がここに来たってことは、それだけ重要なんだろう?」
ジェームスの声には、少しだけ懐かしさと信頼の色がにじんでいた。
*
そのころ、アヤは資料室で古い端末の画面に向かっていた。
静まり返った空間の中、彼女の指が慎重にキーボードを叩く。
検索窓に入力された名前──「ユウナ・ハルトマン」「ルツ・トーマス」。
(……もう、記録上からも消されてる……)
情報端末には「該当なし」の無機質な文字だけが表示されていた。
絶望の中で掴んだ一筋の手がかり。それは、ルツとかつて同じチームで働いていた「レイナ・グリム」という女性。
検索すると、政府の元職員としての情報が多数ヒットした。
住所と連絡先も残っていた。息子と二人で暮らしているらしい。
(……電話では危険かも。直接会いに行こう)
アヤは住所をメモし、資料室を後にした。
夕方の住宅街を歩き、30分ほど経っただろうか。
(……ここね。留守みたい。少し待たせてもらおう)
さらに30分程過ぎたころ、黒のジャケットを羽織った長身の女性が向こうから歩いてくる。
──レイナ・グリム。
アヤは息を呑み、その名を呼んだ。
「……すみません!レイナ・グリムさんですか?」
「あなたは?」
レイナは警戒の色をにじませながら静かに答える。
「突然ごめんなさい。私、アヤ・レインと言います」
「どういう用件かしら?」
「お話を伺いたくて……電話では話しづらい内容なので、直接お邪魔しました」
「……あまり時間はないんだけど……」
「ルツさん……ご存じですよね?」
その名前を聞いた瞬間、レイナの目に動揺が走る。
「……真実を追っていただけなのに……あんなことに……」
アヤは静かに続けた。
「私も、真実を知りたくてここに来ました。あなたなら…ご存じなんじゃないかと思って……」
レイナは目を伏せる。その瞳がわずかに揺れる。
「……さあ、どうかしら。何も知らない方が、幸せに生きられるってこともあるわ」
「えぇ、わかってます。でも……最近の状況、どうしても納得いかないんです。私の友人も……」
沈黙ののち、レイナは少し表情を緩めた。
「……そう。訳ありみたいね」
そして、小さく息を吐きながら言った。
「……分かったわ。ここで立ち話も何だし、入りなさい」
部屋の奥、カーテン越しに差し込む柔らかな陽光が、静かな午後を包み込むように照らしていた。
その光は、ソファに並んで座る二人の頬を優しく撫でていた。
奥の部屋では、小学生低学年ほどの男の子が、床に這いつくばるようにして真剣な表情で車のおもちゃを並べていた。
整列された車たちは、彼なりの秩序に従っているようで、何度も位置を確認するその仕草からは集中の熱が感じられた。
「お子さん、可愛いですね」
アヤが微笑みながら声をかけると、レイナはふと目を細め、視線を息子に向けた。
「えぇ、一番可愛い頃かもね」
その瞳には、やわらかな光と、母としての深い愛情が浮かんでいた。
「私の宝物よ」
「素敵ですね」
アヤは、目の前の彼女の表情にどこか切なさを感じながらも、穏やかにうなずいた。
「で、用件はなんだったかしら?」
レイナはふと現実に戻るようにアヤに向き直り、柔らかく微笑みつつも声に少しだけ鋭さを込めた。
「あ、すみません。あまり時間ないんでしたね……」
アヤは慌てて姿勢を正し、声を落ち着けながら切り出す。
「先日──」
アヤはユウナやルツの言葉を伝え、今の自分の想いをまっすぐに語った。
一方のレイナも、警戒心を完全には解かぬまま、それでも誠実に受け答えをしてくれる。
話が進む中、アヤがふと口にした。
「──そういえば……とあるジェネシスメンバーと出会いました。まだ若い少年でしたが、彼は……」
その瞬間、レイナの目が一瞬だけ鋭くなった。
「あなた、ジェネシスのメンバーに会ったの?」
「……はい。名前は伏せますけど……彼らはただ、正しいことを求めてるだけに見えました」
レイナはしばらく黙ってアヤを見つめていたが、やがてそっとポケットから何かを取り出した。
「私の連絡先よ。こっちは一般公開されていないし、通信も秘匿されていて安全。……また、情報交換しましょう」
予定があるというレイナに見送られ、アヤはその場を後にした。
*
数日後、再びデータラボ。
レイナは静かにモニターを見つめていた。
その隣で、ジェームスがレポートを手渡す。
「調べてみたけど……アクセス元、どうも旧政府庁舎の地下らしい」
「旧政府庁舎?もう使われてないはずじゃなかった?」
レイナが眉をひそめると、ジェームスは肩をすくめて苦笑する。
「そうなんだよね。でも、まだ何かの組織が使ってるんじゃないかな。セキュリティの痕跡もそれっぽかった」
「そう、ジェネシスじゃなさそうね……」
「そうだね。不正アクセスっていうより、どこかの政府組織関係の設定ミスとか、申請漏れの可能性もある。ほら、レポートはデータも渡しておくよ」
彼が差し出したデータチップを受け取ると、レイナはしばらく無言で見つめた。
「ありがとう。不正アクセスではなく、政府組織関係のものらしい……その方向で報告してみるわ」
立ち上がりかけた彼女に、ジェームスが真剣な声で呼び止める。
「レイナ、気をつけなよ。最近、空気が変わってきてる。
ジェネシスだっけ? 殲滅に向けて、政府が本気で動いてるって噂だ。君みたいな立場の人間が狙われる可能性も……」
その言葉に、レイナの手がわずかに震えた。
「ええ、分かってる。ありがとう」
彼女はふと手の動きを止め、ジェームスの目を見た。
その瞳に浮かぶのは、純粋な心配と警告。
それが伝わると、レイナはわずかに微笑んで応えた。
ラボの静寂に、デバイスの小さな動作音だけが響いていた。
*
帰路の途中──
冷たい風がビルの隙間を吹き抜ける中、レイナは静かに歩いていた。
人気のない路地に足を踏み入れた瞬間、背後に気配を感じた。
「レイナ・グリムだな。動くな」
低く冷たい声とともに、闇の中から複数の影が現れる。
黒ずくめの処理班が、音もなく彼女を包囲していた。
「なっ……!?」
背筋に冷たいものが走る。咄嗟に身をひねって抵抗しようとしたが、鋼のような腕に押さえつけられ、あっという間に拘束具が手首を締めつけた。
「レイナ・グリム、連行する。容疑は『不正アクセス』だ」
無機質な声だけが、虚しく夜空に響いた。
*
数時間後──
薄暗い尋問室。
冷たい蛍光灯が天井でちらつき、金属製の椅子に縛りつけられたレイナは、顔を上げる気力もなく肩を震わせていた。
目の前に立つのは、鋭い目つきの男。
黒のスーツに身を包み、表情には一片の感情もない。
「何を嗅ぎまわっている?」
その低い声が、静寂を切り裂いた。
「私は……何も……」
かすれた声で答えるレイナ。乾いた唇が震え、喉が詰まる。
「ジェネシスと内通しているな?」
さらに詰め寄る声。レイナは目を逸らすが、顔には動揺が浮かんでいた。
「……」
「嘘をついても無駄だ。証拠は掴んでいる。
こういう手は使いたくないんだが……子どもは元気にしてるか?」
その言葉に、彼女の心臓が凍りついた。
一瞬で血の気が引き、全身が固まる。
「……やめて……! あの子には関係ない……!」
震える声。目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
男は無言のまま、小さなチップを懐から取り出し、机の上に置いた。
「どちらに従うのが得策か、賢いあなたなら分かるだろう?
これをジェネシスに渡せ。これがあなたが調査した結果だ。
怪しい行動をとれば、どうなるか分かるな?
……幸せは……いつまでも続くとは限らない……」
乾いた音とともに、机に転がるチップ。
レイナの目がそれを捉えたまま、しばらく動かなかった。
──どうする?
心の中で、何度も葛藤が渦巻く。
あの子の笑顔。平穏な日常。すべてが脅かされる。
やがて、彼女は震える手をゆっくりと伸ばし、チップに指をかけた。
翌日。
レオンたちの元に、レイナから秘匿通信が届いた。
そこには、調査結果として──重要な接触ルート、敵施設の弱点、新たなIDコードが記されていた。
*
そして数日後。
政府発表のニュースが、街の端末に静かに流れる。
「元政府情報官レイナ・グリム、反逆罪により処刑」
その報に、アヤの胸が締め付けられる。
子どものことには一切触れられていなかったが──無事である可能性は低い。
(こんなやり方……間違ってる)
(こんな世界……変えなきゃいけない)
彼女の中で、“政府への忠誠”は静かに崩れ去った。
──数日前の夜、アヤの端末に届いた短いメッセージ。
「私に何かあったら、私の家のポストを見て」
アヤはすぐにレイナの家を訪れた。
ポストには封筒が入っていた。中には、メモと小さなデータチップ。
差出人の名はどこにも書かれていなかったが──
そこに記されたのは、政府中枢へとつながる重要な情報だった。
アヤは、静かに息を吸い込む。
その胸の奥には、確かな決意が芽生えつつあった。




