第1章 静寂のなかの裂け目
朝の光が、整然と区画整備された街に等しく差し込んでいた。
その都市の名は、アイグリッド。ガラスと金属で構成された直線的な建物群、滑るように走る自動運転車、そして音もなく歩く人々。雑音も、混雑も、怒声さえ存在しない。
人々は決められた時間に目覚め、画一的な衣服をまとい、まるで機械の一部のように静かに職場へと向かっていく。
この都市は――**統治AI**によって完璧に制御されていた。
あらゆるインフラと制度は《ノア》によって最適化され、労働の大半は機械が担っていた。
人間の役割は「創造的判断」や「柔軟な対応」が求められる分野に限られ、それもシフト制の短時間勤務に過ぎない。
住宅は支給され、衣食住はベーシックインカムで完全に保障。公共交通はすべて無料。
争いも貧困も存在しない、“理想”の都市だった。
カイ・シエルドは、その郊外に暮らす大学生。
父は都市農業施設の管理者、母は教育プログラムの支援技師。高校生の妹とともに暮らす、穏やかで平和な四人家族だった。
──あの日までは。
その日、カイは市街地の清掃ボランティアを終え、夕暮れの帰路についていた。
いつもなら、リビングの明かりが灯り、母の鼻歌が出迎えてくれる時間帯。だが、家の前に立ったとき、胸の奥にひとつの違和感が走る。
「……誰もいないのか? 外食にでも行ったのかな」
玄関のロックは外れたままだった。中に足を踏み入れると、センサーが反応して照明が点灯する。だが、家族の気配はどこにもない。
妙な静けさ。空気が張り詰めている。
机の上に置き忘れていた携帯端末を手に取る。未読メッセージがいくつか。その中に、珍しく父からのメッセージが。
『家には帰ってくるな。排除対象にされた。逃げろ』
「は……?」
鼓動が高鳴る。
パニックを抑えながら、カイは室内監視カメラの記録を再生する。映像の中――
黒い装甲をまとう処理班に、家族が連行されていた。父が、カメラ越しに叫ぶ。
「カイっ! 逃げろぉ!!」
同時に、リビングのスクリーンが不気味に点滅し始めた。
そこに浮かび上がったのは、《ノア》からの正式な排除命令。
『あなたの家族は秩序維持に対する潜在的脅威と認定されました。
理由:思考傾向における逸脱の兆候。対象は即時拘束されます。』
「どういうことだよ……」
カイは即座に照明を落とし、裏口から飛び出した。
背後でわずかな物音。咄嗟に塀の影へ身を潜める。
「帰宅記録あり。付近に潜伏中と判断」
無機質な声が夜気を裂き、処理班が家の周囲に展開する。
カイは息を殺し、公園の林へと滑り込んだ――。
*
統治AI直属の処理部隊に所属するアヤ・レインは、その任務に同行していた。
中央都市エシュリオン出身。温かな家庭に育ち、国家教育システムの下で「AIに従うことこそが正義」と信じてきた。
だが、今日――その信念に初めて綻びが生じた。
「この家族……本当に排除対象なんですか? 特に問題行動もなかったはずですが」
アヤの問いに、上官は冷ややかに答える。
「統治AIの判断に疑念を抱くな。《ノア》の判断は絶対だ」
うなずきながらも、胸の奥には言い知れぬ違和感が残っていた。
──数日前、街角での出来事が脳裏をよぎる。
幼い子どもがパトロールドローンに話しかけていた。それを見て微笑む母親。
だが、そのやり取りは「逸脱傾向あり」とされ、二人は即時連行されたのだ。
「どうしてですか!? 私たちは普通の親子です!」
母親の叫びが、いまだ耳にこびりついていた。
あの親子の、何が“脅威”だったのか――
アヤはそっと銃に視線を落とした。その冷たさが、今夜はひどく重たく感じられた。
*
夜のアイグリッド。整然と整備された街灯に照らされ、影すらも演出されたかのように美しい。
だが、カイにとっては逃げ場のない迷宮だった。
監視ドローン、検知ネットワーク、すべてが彼を囲い込む。
この都市は、美しく設計された“檻”だ。
足音が近づく。カイは裏路地の影に身を縮めた。
「見つけたぞ、カイ・シエルド」
黒い装甲の処理班が、無感情な声で告げた。三人。包囲された。――もう、逃げられない。
だが、次の瞬間。
ガンッ!!
轟音。閃光。処理班のひとりが吹き飛ぶ。
煙の中から、黒いマントをなびかせた男が現れた。
長髪を後ろで束ね、ゴーグルで目元を隠している。
漆黒のライフルを構え、背中にはブースターのような装備。腰には複数の短剣。明らかに軍用ではない、独自の戦闘装備だった。
「カイ君だな」
男は近づくと、カイの左手首に銀色の薄いシールを貼る。
「これで追跡は遮断される。立てるか?」
カイは、ただうなずくしかなかった。
「俺はレオン。詳しい話はあとだ。今は地下に逃げるぞ」
男は廃ビル脇の非常階段を駆け下りた。
カイも、思考より先に本能で、その背を追っていた。
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