伯爵夫人がゴボウで素振りをしている
レイゼン・ヴァンスは辺境の地を治める伯爵である。
黒い髪に青い瞳をした若き伯爵は、その際立った美貌と冷たい雰囲気と分け隔てない塩対応から、社交界ではちょっとした有名人だった。
恋人も婚約者も持たず、浮ついた噂の一切ない彼であったが、最近、ついに妻を迎えたと言う。家格その他諸々が釣り合い派閥的にも面倒がない、という理由で以て、顔も知らない相手と結婚したらしい。
レイゼンの美貌に見惚れていた女性たちは「推しが結婚してしまった」と複雑な心境になり、レイゼンの冷たさを知る男性たちは「奥さんができて丸くなるといいなあ」と期待した。
結婚して、半月。
レイゼンは結婚式の日の以来、未だ妻と言葉を交わしていなかった。
ただいま彼がいるのは邸宅ではなく城塞。執務中の彼の前に立っているのは、妻ではなく部下である。
レイゼンが治める地は国境に近く、ゆえに防衛のための城塞と兵士が置かれていた。
とは言っても隣国との仲は良いため、専ら国境兵団が相手にするのは、険しい山脈からこちらに降りてきて人を襲う魔獣である。
新婚の幸せオーラ皆無の冷たい表情で淡々と書類に目を通すレイゼンに、部下が声をかけた。
「団長。魔獣騒ぎも収まりましたし、やっと家に帰れますね」
兵団の長を兼任するレイゼンは、部下たちから「団長」と呼ばれている。
なお、それは公的な呼称であり、敬愛する団長に対して部下たちが思い思いに付けた異名は、「鬼」「冷血」「永久凍土」「予算案が通ったら奇跡」「製氷機」「眼光で人を殺せる」etcである。ちなみに目の前の部下は以前、レイゼンにうっかり製氷機呼びを聞かれて魔法で氷漬けにされたことがある。和気藹々とした職場である。
「新婚だってのに仕事詰めなんて災難でしたね、団長!」
部下の言葉に、レイゼンは書類から顔を上げた。
「新婚?」
ここのところ城塞に籠り、魔獣の群れ討伐の指揮を執っていた彼は、やっと自分が新婚であることを思い出したのであった。
久しぶりの自宅に向かいながら、レイゼンは妻のことを考える。
妻のフィナは十九歳。レイゼンよりも七つ年下である。相手の家とこちらの家の利害が一致したので結婚した。黒い髪に黒い瞳をしていたことは、きちんと思い出せる。だが顔は若干おぼろげだ。なぜなら結婚式で初めて顔を合わせて以来、半月も言葉を交わしていない。当然ながら初夜も共にしていない。なんなら手すら握っていない。
新婚の妻を半月放置しただけでもだいぶ失礼だが、再会して妻と分からなかったら失礼を極めている。愛のない結婚だったが、礼儀は必要だ。貴族の結婚は義務、すなわち仕事であり、仕事は責任を持って全うすべし、というのがレイゼンの考え方である。さすがに一目見れば妻と分かるとは思うが、万が一に備えて、レイゼンは記憶にあるフィナの姿を辿っておく。
フィナと初めて出会ったのは、結婚式当日だった。
晴れの舞台と華やかな純白の衣裳にそぐわない、ひどく蒼褪めた顔をしている彼女に、レイゼンは声を掛けた。
「体調が優れないのか」
「……すみません、その、生理痛で……」
生理痛の経験がないレイゼンだが、フィナの様子から只事ではないと察した。
「その生理痛というのは、どれほどの痛みなのだろうか」
「ええと、殿方に分かるように喩えますと……。口から入って来たヤツメウナギが腸内で散々暴れた挙げ句に肛門からこんにちはした痛み、でしょうか……」
「……。……。そうか……」
殿方に分かるように喩えてくれた結果が、大半の殿方および人類が経験したことがないであろう悲惨な例だったが、凄まじく痛いということは伝わったレイゼンは神妙に頷いた。
戦場では部下が弱音を上げれば「足手纏いになるなら死ね」と温かな激励を飛ばすレイゼンであるが、さすがに口から入って来たヤツメウナギが腸内で散々暴れた挙げ句に肛門からこんにちはした痛みに耐える人間を叱咤するほど、鬼畜ではなかった。まして彼女は兵士ではなく新妻であり、ここは戦場ではなく式場である。
「お前はもう休め。先に家に送らせる」
「えっ。いえ、でも……挨拶とか、挨拶とか、挨拶とか、社交的なあれこれが……」
「諸々のことはこちらに任せておけばいい」
こうしてフィナは主役でありながら結婚式を途中で辞し、一足先にレイゼンの邸宅に送られたのだった。
その日、遅れて邸宅に戻ったレイゼンは、ベッドでぐったりとしているフィナに用件だけを手短に話し、部屋を出た。この時に交わされた「何か要るものはあるか」「こんにゃく湿布と湯たんぽとナツメ茶が欲しいです」が、レイゼンの記憶にある、妻と交わした最後の会話である。
その後、「女性の生理というものは一週間くらい続くものである」ということを、ヴァンス家に仕えて四十年のベテラン執事に聞いたレイゼンは、一週間はフィナに近寄らないことに決めた。ヤツメウナギ的痛みに苦しんでいる時に、親しくもない夫に周りをうろうろされても、気を遣って疲れるだけだろうと思ったからである。
レイゼンは使用人たちに、妻を手厚く遇するように、特に体調が回復するまではこんにゃく湿布と湯たんぽとナツメ茶を切らさないように、と命じると、邸宅を出た。一週間は仕事場に籠ることにしたのだ。
そしてそろそろ家に帰ろうかというところで、魔獣が群れをなして人里に現れるという騒動が起こり、その処理に奔走していたら半月が経っていたのだった。
邸宅に着いたレイゼンは、執事に妻の所在を訊ねた。レイゼンが特に連絡せずともいつでも出迎えの準備を万全にしている執事は、やっと仕事場から帰ってきた主人の第一声に、すかさず「奥様は庭にいらっしゃいます」と答えた。
庭に出ているということは、もう体調はいいのだろう。フィナは小柄で、なんだか病弱そうな令嬢だった。静かに庭の花でも眺めているのだろうか。
そう考えながら庭に向かったレイゼンは、理解しがたい光景を目の当たりにした。
「せい! せい! せい!」
妻が、ゴボウで素振りをしていた。
「せい! せい! せい!」
伯爵夫人に相応しい高貴なドレスを着た妻が、真顔でゴボウを素振りしていた。
「せい!」
ちなみにゴボウを振り切ったあとに「せい!」と言っているので、いまいち掛け声の意味がない。そして戦闘経験のあるレイゼンから見たら、というか誰から見ても、その剣(?)速は大変遅かった。彼女が素振りに慣れていないことは明らかである。
「せい!」
しかし気合だけは立派である。庭の木陰で元気に素振りを続ける己の妻に、レイゼンは数十秒、立ち尽くした。いつでも瞬時に物事を判断する彼が、数十秒も意識を停滞させることは珍しい。困惑の度合いが知れよう。
「せい!」
レイゼンはハッと意識を取り戻し、ゴボウを振り続けるフィナのそばへ歩み寄った。
「……何をしている」
「えっ」
声を掛けられたフィナは素振りを止め、きょとんとした顔でレイゼンを見上げた。すぐそばに彼が来ていることに、たった今気が付いたようだ。素晴らしい集中力である。
「おかえりなさいませ、レイゼン様」
ゴボウを持った両手を丁寧に揃え、伯爵夫人然とした完璧な所作で頭を下げるフィナ。その何事もなかったかのような様子に、レイゼンは内心で戸惑いつつも、彼のデフォルトである冷たい表情は崩さず、「何をしていると聞いた」と繰り返す。
「えっと……御覧の通り、素振りです」
いや素振りをしているのは御覧になれば分かるけども、いや伯爵夫人が素振りをしている時点でおかしいのだけども、まずはなぜゴボウなんだと問いたい。
「なぜゴボウを持っている」
「ダイコンは振るに重く、ニンジンは剣として長さが足りず、ネギは軽すぎて頼りなかったからです」
いやそうではないのだけれど、数ある野菜の中からゴボウをピックアップした理由を訊いたのではないのだけれど、今の問い方に対し、妻の回答は間違っているわけではない。己の言い方が悪かったのだとレイゼンは反省し、慎重に言葉を選んだ。
「……なぜ、野菜で、素振りをしている」
「素振りを始めるにあたり、練習用の木剣を持ってみたのですが、お恥ずかしながら重くて振ることができず……。したがって、長さと太さと重さが丁度いいゴボウで代用することにした次第です」
「木剣の代わりだったのか……」
とりあえずゴボウを持っている理由は分かったので、根源的な問題に切り込むことにした。
「なぜ素振りを始めようと思ったのだ」
無表情で淡々と問いかけるレイゼンに対し、同じく無表情で粛々と回答をしていたフィナが、初めて言葉に詰まり、ぽっと頬を染めた。
その変化に目を見開くレイゼンの前で、フィナは恥ずかしそうに、こう言った。
「……レイゼン様を、お守りできるようになりたくて」
それは、レイゼンの人生が劇的に変わった瞬間だった。
彼は、ゴボウを握ってはにかむ妻に、恋をしたのである。
翌朝。朝食の席。夫婦が食卓に揃うのは初めてである。
昨日、レイゼンは妻に恋をした。しかし恋をしたという自覚はなかった。
なんだか体調不良に陥った気がしたレイゼンは、ゴボウを握る妻のもとを呆然自失状態で辞すと、ひとまず入浴し、軽食を取り、早々に就寝した。ぶっ通して仕事をしていたから疲れていたのだろうと、フィナも使用人たちもそれを怪訝に思うことはなかった。
確かにレイゼンは疲れていた。そして仕事による疲れは、たっぷりの睡眠によりすっかり回復した。問題は、妻を前にすると、やはり謎の体調不良が始まることであった。
「……」
新婚夫婦の記念すべき初めての朝食だが、会話がない。
淡々と挨拶の言葉を交わして以降、朝の爽やかな陽射しが射し込む食堂に降りる沈黙。レイゼンもフィナも、お互いに無表情。およそ新婚夫婦の甘酸っぱさとは程遠い空気に、使用人たちはハラハラした。
「……」
向かいの席でサラダを食べるフィナを、レイゼンはじっと見つめていた。あまりに見つめられ続けるので、熱心にサラダを咀嚼していたフィナもやっとその視線に気が付き、食事の手を止めた。フィナは静かな声で問い掛ける。
「レイゼン様。私の顔に何か御用でしょうか」
「いや。何もない」
「そうですか」
夫婦の会話は一瞬で終わった。新婚夫婦の会話としては致命的な短さである。離婚手前の夫婦のそれである。素っ気ない態度のレイゼンに、使用人たちは「旦那様もう少し朗らかに!」と心で念じたが、当のレイゼンはそれどころではなかった。
今レイゼンの胸に去来している思いを言語化するならば、「もぐもぐしている妻が可愛い」である。だがレイゼンの辞書に「もぐもぐしている妻が可愛い」というフレーズは載っていなかったので、レイゼンはこの気持ちが何なのだか自分で分からない。とにかくいつもの冷たい無表情のまま、熱心にフィナを見つめ続けるのみである。
ただごとではないレイゼンの様子に、さらに使用人たちはハラハラした。熱視線を送られる当のフィナは、「夫が何もないと言ったのだから何もないのだろう」と素直に受け取って、再び朝食に集中し始めた。すぐさまサラダに意識を戻したフィナに、使用人たちは「奥様もう少しだけ話題を広げて!」と祈ったが、フィナはサラダの次の獲物を定めることに忙しかった。
ニンジンジュースを味わうことに全力を注ぐフィナを眺めるレイゼンの胸に去来した新たな思いは、「ごくごくしている妻が可愛い」だと推察される。しかしレイゼンにその自覚はない。何かを愛でるという感覚に慣れないレイゼンは、「妻を目の前にすると不可解な気持ちになる。妻をよく観察し、原因を知らねばならない」と結論付けた。つまり黙ってフィナを見つめ続けた。
穏やかな昼下がり。仕事が一段落したレイゼンは、すぐに庭に向かった。断じて一刻も早く妻の姿が見たいとかそういうのではない。この不可解な精神状態の原因を探るために必要な行動である。
庭が近づくにつれ、「せい!」という妻の掛け声が聞こえてきて、レイゼンはなんだか喜ばしい気持ちになった。案の定、フィナは新鮮なゴボウで素振りをしていた。
「フィナ」
呼び掛けると、フィナは素振りを止め、「おかえりなさいませ、レイゼン様」と、淑女らしい美しい所作で頭を下げた。妻のつむじが可愛い。違う。つむじを見に来たのではない。ちゃんと用件があってここに来たのだ。
「フィナ」
「はい」
「……。フィナ」
「はい」
どうやって妻と会話を始めればいいのか分からないレイゼンは、意味もなく名前を繰り返し呼んでしまった。律儀に返事をする妻が可愛い。違う。用件を話すのだ。
「私を守るために、素振りを始めたと言ったな」
「……。はい」
物静かな表情だったフィナが、また頬を赤くして、恥ずかしそうに俯いた。大変だ。とても可愛い。レイゼンは強靭な理性で己を律し、「妻が可愛い」に全てを持って行かれそうな意識を懸命に軌道修正する。
「私はお前に守られるほど弱くはない」
軌道修正した結果、突き放すような言葉が出てしまった。しかもちょっと色々な感情を堪えたせいで、だいぶ冷たい声音になってしまった。妻を傷つけたのではあるまいかと多大な不安に駆られたレイゼンであったが、フィナは特に顔色も変えず、「存じております」と返した。
「レイゼン様は氷の魔法を使われると聞きました」
物静かな調子を崩さずに続けられた言葉に、レイゼンは妻を傷つけなかったらしいことに対する安堵半分、急な話題の転換に対する困惑半分の気持ちで、「ああ」と応じる。
「氷の魔法は、使い過ぎると動けなくなるのだと聞きました」
「ああ」
魔法は大変便利だが、使い手に相応の負荷がある。炎を使う部下は、魔法を酷使すると体温が上がり過ぎて熱中症になる。岩を使う部下は、固いものを扱う反動か無性にシフォンケーキが食べたくなると語った。雷を使う部下は、力量を超える放電をした際、髪がチリチリになり最終的にアフロになった。魔法の反動は侮れない。
かくいうレイゼンも、氷の魔法を使い続けると手足がかじかむ。それでも魔法を使い続けると、身体に霜が降り始め、身体の動きが著しく遅くなる。まだ経験はないが、その状態でなお魔法を使えば、やがて自身が氷漬けになるのだろう。
「レイゼン様をお待ちしていたこの半月、レイゼン様は魔獣と戦っているのだと聞きました。それで……たくさん戦って、凍って動けなくなったレイゼン様を想像してしまって……。レイゼン様が大変強い方であることは存じております。けれど、想像してしまうと、もう、居ても立ってもいられなくなりました」
フィナはそこで言葉を区切り、きりりとした表情で、凛々しくゴボウを構えた。
「ゆえに、レイゼン様が動けなくなった際には、妻であるわたくしがいつでも助けに行けるよう、武力を身に着けんと思い至った次第です。わたくしには魔法の才はないので、せめて剣技を磨こうと」
「……」
レイゼンは凄まじく険しい表情になった。無表情でさえ冷酷な雰囲気が漂う彼が眉間にしわを寄せると、研ぎ澄まされた氷柱のような鋭さがあった。子供なら泣き、部下なら平伏し、野生動物なら逃げ出したであろう、そんな圧があった。
もちろんレイゼンは怒っているわけではない。「妻がこんなに自分のことを心配してくれていた」という事実を知ったことで押し寄せた万感の思いに耐えているだけである。
だが、そんなレイゼンの内なる戦いを知らないフィナは、険しい顔で黙る夫の姿に、しょんぼりと眉を下げた。この状態のレイゼンを前に「怯える」ではなく「しょんぼり」になるフィナは、なかなか埒外な肝の据わり方をしている女性なのだが、本人にその自覚はない。ただいま彼女は、「差し出がましいことをしてしまった」という反省でいっぱいなのである。
「申し訳ございません。これは、レイゼン様を侮るような行いでした。もう二度と、ゴボウは握りません」
「っ、フィナ」
しゅんと萎れた様子で、ゴボウを構える腕を降ろしたフィナに、レイゼンは慌てて声を掛けた。ゴボウを握る妻の手を、そっと両手で包んだ。フィナが顔を上げる。
「違うんだ。怒っているわけではない。その。嬉しいと思っている」
フィナは不思議そうにレイゼンを見上げたまま、「レイゼン様は今、嬉しい顔なのですか」と言った。
「ああ。これは嬉しい顔だ。君の心遣いが嬉しい」
頷くレイゼンに、フィナの口元が微かに綻んだ。フィナ的には満面の笑みであるが、一般的には辛うじて微笑といったところである。だが、レイゼンにはしっかりと、それは満面の笑みに見えた。妻の笑顔にレイゼンの顔はますます険しくなり、それを「嬉しい顔」だと教えられたフィナは、ますます笑顔を輝かせた。
***
結婚式当日、フィナは憂鬱だった。
顔も知らない相手との結婚が決まったことは、貴族の家に生まれた身として覚悟していたことだったので、問題ではない。顔合わせすらなく両家の当主間で全てが決まり結婚式が初対面、というのには些か驚いたけれど、そういう例もあると聞き、そういうこともあるのかと受け入れた。だからそれも問題ではない。
フィナの憂鬱の原因は、生理痛である。大変辛い。花嫁衣裳は薄い。冷える。純白の生地を汚してしまう可能性も心配だ。早く帰って横になりたい。
だが、まさか花嫁が結婚式を早退するわけにはいかない。妻は夫に尽くすものだと教えられた。夫を煩わせる存在であってはいけないのだ。
耐えるしかないのだという絶望的な気持ちで立っていたフィナは、初めて会った夫から信じられない言葉を聞く。「お前はもう休め。先に家に送らせる」と。
その後、遠慮をする気力もないフィナが思うままに口にした要望を、夫になったばかりのレイゼンはすぐに聞き入れた。温かいベッドの中で、フィナは夫のことを考えながら眠りに就いた。あの人は世界で一番優しい人に違いない。
それから半月、夫は家に帰って来なかった。魔獣の群れが現れて大変なのだと執事から聞いた。フィナは夫のことを考える。夫が死んでしまう姿をうっかり想像してしまって、大変な気持ちになった。氷の彫像となり砕け散り最終的にかき氷になっていく様を思い描いてしまい、しばらく打ちひしがれた。
己の想像力で受けたダメージから立ち直ったフィナは、しっかりしよう、と思った。夫を守りたいと思った。そのために、強い人間にならねば。
フィナは自分のひ弱さを理解していたので、まずは強靭な肉体を手に入れようと考えた。どうすればいいか執事に訊ねてみたら、「健康の基本は食事でございます」と返ってきた。フィナは全力で食事をすることに決めた。元来食の細いフィナであったが、その日からは意識してたくさん食べるようになった。
夫のことを考えると、フィナは頑張るぞという気持ちになる。力こぶを作ってみる。作れない。武力だ。自分には圧倒的に武力が足りない。とりあえず素振りをしようと思った。
「せい!」
夫のことを考えると、ゴボウを握る手に力が漲った。
それは間違いなく恋だったのだけれど、フィナにその自覚はなかった。
***
血液が過冷却水でできているんじゃないかと専ら囁かれているあの団長が、新妻にぞっこんめろめろであるらしいという噂は、瞬く間に部下たちに広まった。
兵団の中でも我こそはという英傑が数名、妻と過ごすレイゼンの様子をこっそり見に行くことになった。レイゼンの邸宅に赴き、執事に事情を話すと、忍び足で庭を案内された。なぜか庭の物陰には使用人たちも集まっており、部下たちはそこで信じられない光景を目にすることになる。
伯爵夫人が、ゴボウで素振りをしていた。
その時点でちょっと意味が分からないのだけれど、さらに部下たちを驚愕させたのは、あのレイゼンが柔らかな声で、ひどく優しい所作で、素振りの指導をしていることだった。
「柄の握り方は、こう。拳一つ分、空けるんだ」
「はい。……なるほど、持ちやすくなりました」
「次に、足。どこの世界に両足をぴったり揃えて振る剣がある。足はこうだ」
「はい。確かに広げた方が安定します」
「そして、掛け声はいらない。剣は無言で振れ。斬りかかる前にわざわざ相手に教える必要はない」
「はい。無言でズバアアッと斬りかかるようにします。一刀両断を目指します」
「ズバアアッとはいかなくていい。そしてわざわざ真っ二つにしなくてもいい。剣先で首を掻き切るだけで十分に殺せる。その方が体力の消耗も少なく、刃こぼれしにくい。実践では『目の前の敵を屠ること』に加え、『戦い続けること』も大事だ。戦闘継続力を落とさないために、最小の労力で致命傷を与えることを意識するんだ」
「なるほど……蒙を啓かれた思いです」
真剣な眼差しで己のゴボウの切っ先(?)を見つめていたフィナは、ふっと、傍らのレイゼンに視線を移した。
「……ご指導、ありがとうございます。レイゼン様の教えは、その、とても、分かりやすいです」
静かな表情は崩さないが、ほんのりと頬を染めて、恥ずかしそうに礼を口にするフィナ。レイゼンも無表情ながら頬を赤くし、慌ててサッと目を伏せて「別に指導くらい構わない」と素っ気なく返す。
見ているこっちが照れてしまうような甘酸っぱい雰囲気を醸す二人の姿に、隠れて見ている使用人たちは拳を握る。いい感じです旦那様。素敵です奥様。同じく隠れて見ている部下たちは涙を流す。人並みに照れる心があったんですね団長。あの鬼に人間らしさをありがとう奥さん。
「首の他に狙うべき箇所はあるでしょうか」
「目だな。致命傷にはならないが、視覚を奪えば二撃目で仕留めやすい」
使用人たちも部下たちも感動することに忙しいので、レイゼンの指導が血生臭くなっていくことにも、フィナがそれを淡々と受け入れていることにも突っ込まない。
「せい!」
レイゼンに見守られながら、フィナは元気にゴボウを振り降ろす。その剣速は、とても遅い。フィナがレイゼンを守れるような凄腕の剣士になれるのは夢のまた夢、一介の兵士程度の腕になることにさえ、ものすごく膨大な時間が必要だろう。
そして、そんなことは一向に構わないとレイゼンは思う。彼は素振りをする妻を、生涯、見守りたいのだ。
「せい! ……あっ、掛け声を出してしまいました。申し訳ありません」
「構わない。フィナの声は非常に愛らしいからむしろ掛け声を出すことで相手が動きを止める効果が見込める可能性にさっき思い至ったところだ。むしろ積極的に出していくべきかもしれない。さすがはフィナだ。君の才能が眩しい」
「レイゼン様……」
褒めちぎられて照れ照れとゴボウを振るフィナと、優しい眼差しを彼女に向けるレイゼンの姿は、仲睦まじい夫婦そのものだったという。