チャンネルを回せば 後編
今回のこの選挙は英三の圧勝であった。
これにより英三が民主自民党の総裁となり、同時に第百代 内閣総理大臣となった。
その後は即座に党三役を決定し、更に慌ただしく組閣に入っていった。
今の英三に休む暇などない。
自分が創り上げた内閣、この未知なる船で日本中、いや世界中を旅していくことになるだろう。
自然界で起こるような大きな荒波は避けながら、穏やかな世論の波で旅していくことが重要となっていく。
そんなに上手くはいかないだろうが……
最初に襲いかかる波は一体、どのような波なのだろうか?
その波を割って進むことが出来るのだろうか、それとも荒波に船全体が覆われてしまうことになるのだろうか。
初めに英三が直面した波は、原子力発電の問題であった。
英三は原発賛成派の一人として知られている。
野党やマスコミは、今の内閣で原発の全面再開を強行突破するのではないかと、連日のように騒いでいた。
脱炭素を目的とした化石燃料からの脱却が招いてしまったもの、それは結果的に燃料の高騰、それにより連鎖的な電気料金の値上げによる家計の圧迫、そこに追い打ちをかけるように食料品の値上げラッシュが続いていた。
英三としては動かすことが可能である、全ての原発を稼働させて、この危機をいち早く脱出したいとの考えだった。
原発であればそれが可能なのだが、抵抗勢力は多かった。
東日本大震災の際、福島の原発が震災の影響を受け、未だ復興へのゴールは見えていない状況だったからだ。
これほどまでにも危険性の高い原発を動かしても良いものなのだろうか?
という議論が繰り返されてきた。
英三の考えは原発を稼働してこの難局を乗り切る、この考えに揺るぎはなかった。
英三は東町経済産業大臣を総理官邸に呼び出し、原発稼働に向けた話し合いをおこなった。
総理の意見は絶大で、その出た意見を実現することが大臣の手腕となる。
特に東町大臣は保身が強い大臣、総理の意見を大事にする大臣の一人だ。
東町大臣は原発稼働を実現するために、国会審議で必要となる資料作るよう指示を出して、必ず可決できるだけの根回しと、決して怠ることのない準備をしていった。
東町大臣は大臣室に戻ると直ぐに、資源エネルギー庁の穂坂長官を呼び出し、現時点での原発状況の説明を求め、実質的に原発を稼働することが可能なのか確認した。
「原発自体を動かすということであれば、災害を受けた福島の原発以外の稼働は可能ですが……そこには民意という高い壁と野党を納得させなければなりません」
「わかってはいるが、総理の強い要望なのだ。何とか福島以外の全機稼働を実現させようではないか」
「出来るだけのことはやってみます」
「原発の調査委員とも上手くやってくれ」
この翌日から英三は、囲み取材に対して「電気料金の高騰を何とかしなければいけない」「国ができる最大限の取り組みを考えています」と原発稼働を匂わせる発言が目立つようになった。
それもそのはずだ、酷い電力会社ともなると三ヶ月毎に三割ずつ電気料金を上げていたのだ。
去年の同じ月との対比では、約五割から八割増しているという驚きの料金設定になっていた。
国民からは日々、悲鳴のような声が聞こえていた。
「総理大臣としては、一刻も早く手を打たなければならない。しかし原発を稼働するにあたっては、民意を納得させなければ実現するのは難しいだろう。国民に対し説得するのではなく、何とか納得してもらうには、一体どのような案が良いのだろうか」
英三は悩んだ、連日、閣僚や役人と懇談を重ねてきたが、これという良案は出てこなかった。
「この日本という国の特徴を活かした、何か良いアイデアはないものだろうか……日本といえば山、島国、海、海! そうか! これを活かそう」
英三は一つの案に辿り着いた。
「これだ、これを五年後までに十分な整備をおこない、五年後には原発全機停止すると約束すれば、国民は納得してくれるに違いない。国民には、今は致し方ない緊急措置だと分かってもらい、国は将来のことや国民の安全を考えているということが伝われば良いのだ」
英三は党三役と経産大臣を総理官邸に集めて、英三の案を皆んなに伝えた。
「それなら国民は納得してくれるでしょう」
英三のアイデアとは、いったいどんな案だったのだろうか……
それは洋上風力発電の大量設置だった。
日本は海に囲まれた、実は資源豊富な国であると考えたのだ。
もちろん風力発電に必要な風車の開発や設置などは、洋上風力発電に関わる事業に対して国が全面的に協力することを約束するつもりだった。
「党内には明日、私の方から説明いたします」
「頼んだぞ」
党の三役が党内に号令をかけ、東町大臣が説明していくことで話は纏まった。
翌日、衆参の民主自由党員が党会館に集まり、原発稼働に対する理解を求めたのと、洋上風力発電開発を積極的に後押ししていくという説明がなされた。
党員の中には原発を稼働することに強く反対する者もおり、説明会は一時大荒れとなる場面もあった。
そこは洋上風力発電と並行しておこない、五年後には稼働していた原発全機を停止させ、洋上風力発電に完全移行することを約束した。
数日後、国会に提出されたこの案は、野党が議長に詰め寄り国会が一時中断するというハプニングはあったものの、英三と民主自由党は半ば強引ともいえるやり方で原発稼働に関する案を可決させたのだった。
この直後に英三は、洋上風力発電の開発をおこなっている若しくは、高い技術を持っているという業者をピックアップするよう指示を出した。
洋上風力発電の開発をおこなっている会社は二十二社存在していたのだが、その中でも一歩二歩抜け出ていると思われる企業を六社に絞った。
この六社には経産省の職員が出向いて、国が急ピッチで進めていく洋上風力発電の内容と規模を説明し、事業への参加を呼びかけた。
最終的に何社で対応していけば五年で計画を達成することが出来るのかを計算し、入札により業者を選定することになった。
その有力企業の中でも、更に一歩先に進む企業があった。
それはイーグルテクノロジーという会社だ。
その会社の社長は春元と言い、英三とゴルフに行ったり旅行をしたりするような仲で、古くから親しくしている友人であった。
英三は一ヶ月前この友人に「まだ内々の話ではあるが、国は近々大きな事業を手掛けることになる。それは洋上風力発電事業だから、春ちゃん(春元社長)の会社も今から準備して置いてね。必ず主力で、春ちゃんのところを使うから」と談合とも思えるような話をしていた。
英三は友人である春元社長に恩恵が渡るように、極秘で進められていた国の一大事業を事前に伝えてしまっていた。
「英ちゃん、ありがとうね」
そして入札が始まる頃、イーグルテクノロジーはかなり抜け出た立場でその日を迎えていた。
後々これが問題にならなければ良いのだが……
もちろん英三は、この肝いりの事業と原発稼働に力を入れてはいたのだが、総理大臣としての仕事はこれだけではない。
日本は少子高齢化の問題が大きくのし掛かり、それと連動するかのように年金の問題があった。
それに円高がもたらした景気低迷とインフレ、その影響を受けた企業の倒産が相次いで起こっていた。
そのため税収は落ち込み、予算が全く足りないという事態となり、日本の政治は大きな岐路に立たされていた。
ここは英三の手腕が試される場になるだろう。
英三はどのような策で乗り切るのだろうか。
実はこれといった策は無かったのだ……これには頭を抱え悩んでいた。
英三は総理官邸に幹事長を呼び、一緒に対策を考えた。
円安に関しては財務省が何度か為替介入をおこなったこと、それとアメリカの中央銀行が利上げを抑えてきたこともあり、ある程度の円安は解消しつつあった。
「円安の問題は何とかなりそうだな」
「はい。ただ企業の連鎖倒産を抑え込まなければいけません」
「連鎖倒産か……この財政の状態では手助けなどできない。ある程度の倒産は仕方がないと割り切るべきだ。世論の関心を考えるなら、少子高齢化と年金問題の改善に力を入れるべきだろう」
「どのような案で、どこから財源を確保しましょう? 増税も視野に入れますか?」
「いや、今回の増税はない。国債を大量に発行するというのはダメか?」
「増税するよりは良いとは思います」
「そうだな、一年後に衆議院選挙を控えていることを考えれば、その選択の方が良いだろう。増税案は選挙が終わってからにしよう」
「そうですね。国債を大量発行するのであれば、いずれ財源の確保が必要になります。後はいつやるかということだけです」
「選挙後には最低でも二%は消費税を上げたい。それまではオフレコということで他言は禁止する」
「わかりました」
国債で国家予算を賄うという財政案が国会に提出された。
その国債を発行することで得た収入は、現在マイナスになっている財政分に充てるのと、年金と少子高齢化問題に使うと説明をした。
少子高齢化問題に対しては具体的な案として、十八歳以下の子供が居る全ての家庭に、一人あたり年間で十万円の支給するというものだった。
野党からは「未来の者に借金を背負わせるな」や、「これは衆議院選挙に向けたバラまきだ」などのヤジが飛び交っていた。
後々この法案も英三と政府、そして民主自由党の強行採決で可決してした。
果たして、この結果に世論は、どんな反応を示すのだろうか。
意外にも国民からの反応は良かったのだ。
それは厳しい財政の中、政府が税金を上げるという選択をしなかったからだ。
借金はしたのだが、国民に新たな負担をかけてはいなかった。
このままの流れが続いていけば、次の衆議院選挙に勝利することは間違いないだろう。
結果的に英三は国民からも支持を受けたことになる。
英三は思っていた「この世界の生活、悪くない」と……
案の定、衆議院選挙は民主自由党の圧勝であった。
「内閣総理大臣に仙玉英三氏を指名することで異議はありませんか?」
「異議なし」
「第百一代内閣総理大臣に仙玉英三氏が指名されました」
英三の第二次内閣が誕生した。
次の内閣総理大臣にも任命された英三は、野党からバラまきとヤジを受けたあのお金が効いたのだろうか? それとも増税に踏み切らなかったことが良かったのだろうか? もしかしたら洋上風力発電事業の評価なのかもしれない。
どちらにしても英三率いる民主自由党は、国民から高評価を受けたということに間違いはなかった。
順調な船出を果たした第二次仙玉内閣、しかし先送りにしていた痛い問題にも今後は手を付けていかなくてはならない。
その本丸が増税だ。
このことを隠した状態で選挙には勝利したのだが、これをいつ表に出すか、それが問題だった。
それを打ち出すことになれば、大荒れになることは間違いないだろう。
表では子育て支援の十万円が高評価を維持している、洋上風力発電事業は計画よりも早く順調に進んでいた。
しかし裏では借金が大きく膨らんでいるのだ。
「増税は一年後、それも消費税を上げる」
「何パーセントのアップになるのでしょうか?」
「消費税は一律、十二パーセントにする。軽減税率は廃止とするから、食料品などに関しては実質、四パーセントの上昇になるだろう」
「今の財政からいって、致し方がないことでしょうね」
「この法案を何とか一年で固めていこう。もちろん世論の反発はあるだろうが、それにも屈しない強い心で挑んでくれ。くれぐれも今は、野党には勘ぐられないように」
「分かりました」
英三は隠し続けてきた本丸に手をつけ始めた。
囲みと言われる記者会見でも、増税のことは一切口に出さなかった。
しかし今回発表された貿易収支で、日本は過去最大の貿易赤字を計上してしまっていた。
この貿易赤字の数値は政府として痛いことではあったが、むしろこのタイミングでの貿易赤字の発表は、英三にとっては追い風とも言えるかもしれない。
この貿易赤字の数値自身、英三が総理大臣になる前のことが大半で、菅部前総理大臣が政権を握っていた時期のことなのだから、英三に直接関係する話ではなかった。
大きく見れば、英三は同じ政党で官房長官をやっていた訳なのだから、何も関係がないとは言い切れないのだが、英三としては逃れることが出来る内容ではあった。
この貿易赤字による財政の穴埋めには、増税やむなしと訴えていくことになるのだろう。
それまでは、国が後押しをして企業に力をつけてもらい、そこから企業の賃金上昇に繋げて日本の経済を回していくことが大事だと考えていた。
現に国が強く後押し進めている洋上風力発電開発に携わっている会社は、企業のレベルアップが図られていた。
特に英三の友人が経営する会社、イーグルテクノロジーの株価は、国主導で洋上風力発電事業がおこなわれる前の株価と比べ、約四倍にまで上昇していた。
そこから生まれたものは雇用の拡大、賃金の上昇、イーグルテクノロジーはそれを難なく達成している。
イーグルテクノロジーの春元社長と英三は、開発が始まった今でも、一緒に食事やゴルフに行っていた。
それは以前と変わらず、お忍びのような形ではあったのだが。
しかし野党はこれを癒着とみて、虎視耽々と与党を追求するきっかけを狙っていた。
その後も仙玉内閣は安定した政権が保たれていた。
第二次仙玉内閣が動き出してから支持率が下がることはなく、七十パーセント代という高い水準を維持し続けていた。
面白くないのが野党、国民からの支持を何とかして取り付けなければと躍起だった。
やり方は二パターンあるだろう、良い発信をしていき政党の支持率を上げていくのか、民主自由党の穴を付いて相手の支持率を下げていくのか、そのどちらかだ。
総理とイーグルテクノロジーの関係性、癒着の事実を見つけることができれば、仙玉政権を崩壊させ民主自民党を与党から野党に落とすことは可能であるかも知れない。
その後もイーグルテクノロジーは確実に生産性を上げ、会社は更に大きくなっていった。
「英ちゃんのおかげだよ、ありがとう」
「なに言っているの、春ちゃんとこの製品が元々優秀で、他と比べてもずば抜けて良い商品だったからだよ。私はその優秀な製品を推薦しただけだから」
「英ちゃん、これ受け取ってくれ」
「何だ?」
「これはお世話になってるお礼だよ」
「春ちゃん、これはいけないよ。私は受け取れない」
「じゃあ、英ちゃんの奥様へのプレゼントと言うことで、直接、奥様に渡しておきますね」
「ありがとう。これからも春ちゃんとこの製品を世界に宣伝していくからね」
洋上風力発電事業に携わる大元の業者は三社、その中にイーグルテクノロジーが入っているのだが、その三社の中でも納品数が一番多く、その割合は五割にまで達していた。
国もイーグルテクノロジー推しであると言うことが伺える。
この内容に食い込んで来たのが、国民主義党だ。
「洋上風力発電事業の進み具合はどうですか? 約束している五年で完成させ、原発全ての停止できそうですか? 総理お応えください」
「今のところは順調に進んでおります。ですから五年後の停止には問題ないかと思います」
「そうですか。この洋上風力発電事業の受注を請け負っている業者は全部で三社ありますが、一社だけずば抜けて受注している会社がありますが、何ていう会社かご存知ですか?」
「全体的な進行具合については把握しておりますが、一社一社の受注数までは把握しておりません」
「ほぉ、そうですか。イーグルテクノロジーという会社ですが、総理はこの会社の社長と親密な関係であるということではないでしょうか? 総理はこの方とどんな関係なのでしょうか?」
「偶然にも、古くからの友人であります」
「総理、その友人に便宜を図ってはいないでしょうか?」
「一切ありません」
「友人に受注が多くいくように、国から圧力は掛けたりはしていませんか?」
「致しておりません」
「他の二社よりも早く、総理から有力な情報を流したりはしていませんか?」
「そういった事も、一切ございません」
「見返りなんか貰ったりしていませんか?」
「一切ございません」
「そうですか……総理がその会社の社長と、食事やゴルフをされている事実を私共は確認しております。そのような場で、洋上風力発電の話にならないとは考えにくいのですが、総理どうですか?」
「私は事実を申しているだけです。一切ありません」
英三は何とか逃れることができたのだが、この討論がきっかけで、世間から疑惑の目が向けられるようになってしまった。
それは顕著に支持率の低下へと表れていった。
「総理マズいですよ、内閣の支持率が五十パーセントを切りました」
慌てる幹事長に英三は「一時のものだ、気にするな」と一蹴した。
しかし幹事長は話を続けた「この後は、消費増税の話も出てくるのですよ。その話が出れば、更に支持率は下がるはずです。今、これ以上、支持率の低下を招くことがあれば、この内閣は到底保ちませんよ」
「分かっている! 今後は行動に気をつける」
「総理、本当に何もございませんよね?」
「当たり前だろ!」
この後も洋上風力発電事業の癒着に関する件は、国会で野党から追求され続けた。
野党連合はこの不祥事案件に付け込み、仙玉内閣を崩壊させ、民主自由党から政権を奪還するため動き続けた。
そして英三は、日々追求の矢を放たれ続けた。
野党連合に対する答弁にも心底疲れ、一週間で体重が五キロも落ちてしまった。
それは誰の目からも見て取れるほどだった。
野党はあともう一息と言わんばかりに英三を攻め続け、追い詰めていった。
「おいヤバいぞ、このままだと仙玉内閣はもたないよ。それどころか与党を維持することも危ないレベルになるかも知れないぞ。だってこの後に出すのは消費税の増税案の提出だぞ。そうなれば確実に二十パーセントを切る支持率になってしまう。ヤケになって解散なんてしようものなら、今の情勢からしても、民主自民党が野党に転落することもあり得るぞ」
そんな声が党内のあちらこちらから聞こえて来るようになっていた。
「総理、こんな状況で消費税の増税案を出すのは無謀です。今回この増税案は表に出さず、このまま先送りしましょう」
「ダメだ、日本の財政は火の車だ。この状況を乗り切るには増税以外に方法はないだろう。これを今やらないと大変なことになってしまう。公約している洋上風力発電の振興や原発依存からの脱却、これにも多額のお金が動いている、その後の財源はどうしていくと言うのだ? また大量に国債を発行して未来に借金を回すというのか? そんなことは出来ないだろう」
「しかし総理、今は余りにもタイミングが悪すぎます」
「それも分かるが……やらない訳にはいかないのだ」
「総理……」
英三の増税への気持ちは変わることはなかった。
この翌日、英三は国会で消費税の増税案を口にした。
野党からはどよめきのような声が上がった。
そして嫌味のような、こんな声も……
「総理はこのタイミングで増税案を出してきた、あなたは偉い」
「これで仙玉内閣は沈没だな」
「総理はヤケになって、民主自由党と共に自爆するつもりなのか?」
「あとは解散に持ち込むだけだな」
増税に対する国民の反発は予想以上のものだった。
各テレビ局が調査した仙玉内閣の支持率は、ついに十二パーセントにまで落ち込んだ。
野党の狙いは、国民から評判の悪い消費増税をこのまま民主自由党政権で可決させ、そのあと総理の収賄疑惑の追求を国会でおこない、そして解散を煽り、総選挙で大勝して政権交代を果たすという考えだった。
この消費税増税案が表に出たことで仙玉内閣に注目が集まり、結果的に英三に対する収賄疑惑の追求にも一層の注目が集まることになってしまった。
英三は周囲からの反対を押し切り、消費税の増税を国会で決議した。
予想通り支持率は更に降下して一桁代になり、野党の追求は更に激しさを増していった。
「総理、あなたは疑惑のコンビニだ。一つの場所にあらゆる物が揃っている。総理はイーグルテクノロジーからお金を貰っていたのですか? お答えください」
「何度も申し上げるように、そのようなお金は一切頂いておりません」
「そうですか……それは奥様も一緒ですか?」
「はい」
「では、マスコミが報道している、奥様の口座に毎月三百万円もの大金が振り込まれていたというあの報道、あれは嘘だと言うことですか?」
「はい」
「そういうことであれば、マスコミを訴えられたらどうですか?」
「国会が落ち着いてから考えたいと思います」
「マスコミの調べでは奥様の誕生日、プレゼントとしてイーグルテクノロジー社の社長が、直々に自宅まで行って、奥様に直接現金を手渡したそうです。それからは毎月振込がおこなわれていたと報道がありましたがねぇ……まぁ、いいでしょう。真実は判明していくでしょうから。私は日本民意党で、現在は野党です。もし私が、洋上風力発電事業をおこなっている本丸の与党であれば、この財政難の状況であれば、これからも続いていく洋上風力発電事業の予算の見直しを手掛けますが、もっとコストを下げることは出来ないのでしょうか? もっと開発する企業の数を増やして、工期を短くすることでコストは下がるのではないでしょうか? もっと低いコストで、もっと良い工事をおこなう業者はないだろうか? そういうことに着手して実行していくと思いますが、総理にそのような考えはお有りですか?」
「私もいろいろ考え、何とかしてコストを下げ、必要としている予算に少しでも回していくことが出来ないものかと調査をしておりますが、安全上と耐久性の理由で、今はギリギリのラインでおこなわれていると理解しております」
「そうですか。それでは現在まで、実際にかかった費用の開示をお願い致します。それを基に我々が、そこに無駄はなかったのか見てみますよ」
「開示に関しては、検討いたします」
「検討ではなくて、直ぐにやってくださいよ! 報道されているような事実が一切ないと言うのであれば、開示は直ぐに出来ることではありませんか?」
「だから検討いたします」
「総理とは会話が成り立ちませんね。国民はこのやり取りを見ていますよ。全ての疑惑を解消してみせてくださいよ。もう一度聞きます、洋上風力発電事業の経費の開示をお願いいたします」
「持ち帰り、検討いたします」
「いつまでに?」
「一ヶ月以内で」
「遅い! もっと早くしてください」
「努力します」
開示に関しての返答は避けた形となった。
英三は総理官邸に戻ると直ぐに、経済産業大臣を呼び出し、洋上風力発電事業に掛かった経費全てを報告するよう支持を出した。
そして自分の奥さんには、イーグルテクノロジーの春元社長からの振り込みの有無を確認した。
「言わないでと言われていたから……毎月、三百万円の振り込みがあります」
衝撃的だった……しかし、社長がシークレットにしている情報が、何故外に漏れているのだろうか?
もしかして春ちゃんが、俺を陥れようとしているのか?
そんなことは考えにくい……それでは内部告発か?
そうかも知れない、春ちゃんから社長の座を奪おうとしている者、それを経理とグルになっておこなっているとしたら可能だ。
英三は早く春ちゃんに伝えなければと思うが、今の状況で連絡を取ることは危険と判断し、別の方法を考えることにした。
とにかくこの事は最後まで、しらを切り通そうと心に誓う英三だった。
翌日も国会が開かれ、英三には野党からの厳しい質問が投げかけられていた。
さすがの英三も心底疲れ果て、普通のことでも判断をつけることが出来ないレベルにまで追い詰められていた。
そんな状態で英三は、ある驚きの行動に出てしまう。
それはイーグルテクノロジーの春元社長に電話をしてしまったのだ。
その電話があった時間に春ちゃんは秘書と打ち合わせ中で、その電話を社長室で秘書が部屋に居る状態で対応していた。
社長は秘書に対し絶対的な信頼を持っているからと、秘書を離席させずに英三との会話を続けた。
「英ちゃん大丈夫か? 声が沈んでいるが」
秘書は電話の相手が総理だと直ぐに感づいた。
「春ちゃん頼む、妻に振り込んでいることは誰にも言わないで欲しい」
「そんなの言われなくてもわかっているよ、大丈夫だ」
「今は近くに誰も居ないのか?」
「あぁ、社長室で秘書と打ち合わせしていたので、秘書が横に居るだけだよ」
「春ちゃん大丈夫か? 会社の者から狙われたりはしてないか? 社内の情報が外に漏れているということはないのか? 横に居る秘書は大丈夫なのか?」
「英ちゃんは心配性だな、そんなことは絶対に無いよ」
「それならいいけど……」
「ここに居る秘書は信頼できるし、会社だって英ちゃんのお陰で上手くいっている。こんな状態で会社に不満を持つ人間なんて誰一人いないよ」
「わかった、安心したよ。お互い気をつけて行動していこう」
「そうだね」
英三は少しでも安心したかったのだろう。
それが危険だと承知していても……
英三が責められ続けた国会が、ようやく閉会した。
英三の体重は最終的に十キロも減ってしまった。
週刊誌では連日のように、英三の収賄容疑の記事が紙面を賑わせていた。
そして何故か、ある情報が記事となり、それが世間に知れ渡るようになってしまった。
それはイーグルテクノロジーの内部会計を記したと思われる帳簿が載った記事であった。
毎月三百万円の振り込みが記載されている帳簿や、春元社長が裏金として会社の金をプールしているイーグルテクノロジーの裏帳簿や、それらが最終的には帳簿から消し去られ、修正がなされていた脱税とも受け取れる帳簿も掲載されていたのだ。
「社長! 大変なことになっています」
「何だこれは!」
「これはマズいですよ」
「何でこんな極秘情報が載っているのだ?」
「わかりませんが、おそらく内部告発ではないでしょうか」
「そう言えば英ちゃんが言っていた……会社の者に狙われてはいないかって……」
「社長、どうしましょう」
「おい! 直ぐに経理の木村を呼べ!」
春元社長は週刊誌を持って社長室に入って来た営業部長の鈴木に、木村を連れて来るよう指示を出した。
そしてふてぶてしい顔をした経理の責任者である木村がやって来た。
「おい、これはどういうことだ!」
「知りませんよ、私にもわかりません」
「そんなことはないだろう、これはお前が管理している帳簿だろう」
「だから社長には注意していたじゃないですか、こんな不正はダメだと」
「お前、誰かに売ったな!」
「知りません、職場に戻ります」
「クソ……」
春元はこの件がきっかけで逮捕、そして社長の座から退いた。
次期社長に就任したのは、経理責任者それに秘書と仲の良かった佐藤取締役だった。
これは佐藤が企んだクーデターであったことは間違いないだろう。
新たにイーグルテクノロジー社の社長に就任した佐藤は、あの事件以来、日本で参入することが許されなくなった洋上風力発電事業を、海外に拠点を置くことを発表した。
そして英三は、更に追い詰められていた。
総理の座は辞任に追い込まれ、民主自由党は国民からの信頼が失墜してしまい、野党に転落してしまった。
全ては英三が招いた事だ。
全責任が英三に伸し掛かり、そして英三は世間から狙われるような存在になってしまった。
毎日のように、右翼団体の大きな黒い街宣車が自宅前に横付けされ、朝から夕方まで大きな音楽と声で威嚇していた。
英三はそんな日々の中、自殺まで考えるようになっていた。
「もうダメだ……今度こそは良い人生を送ることが出来ると思ったのに。俺はこの人生でも失敗したのか?」
英三は無意識のうちに、あの昭和のテレビを探していた。
「帰ろう、元の世界に帰ろう。ここにこのまま居たら、殺されてしまう」
「あなた、何をしているの?」
英三の妻が話しかけてきた。
「古いテレビ、家にあっただろう」
「そんな物、今必要ないでしょう」
「それよりあなた、警察が来たわよ」
「何でだ! 春ちゃん、俺を売ったのか! ちくしょう、早くテレビを探さなければ、俺の人生はここで終わってしまう」
英三は慌てて二階に駆け上がり、寝室にあるクローゼットを勢いよく開けた。
「あった!」
英三が見つけたテレビはコンセントが刺さったままだった。
素早くスイッチを引っ張り、画面が映ると同時に右の拳を突き上げ、英三は画面の中へと吸い込まれて行った。
今回も既のところで逃げ切り、元の世界へと戻ることができた。
警察は英三を逮捕するため、家の中に入って来ていた。
英三が総理として暮らした世界の妻は、犯人隠避の罪で逮捕された。
ただ、このことを英三は知らない。
九.チャンネル七の世界
これまでのチャンネルで散々な目に合った英三は、もっと楽に、もっと簡単に、苦労などすることなく、良い生活を送ることができないかと考えるようになっていた。
顔が良すぎてもダメ、誰よりも強く好き放題ができてもダメ、偉くなっても、金持ちに生まれてもダメ、実は普通の幸せすら地獄だった。
家柄が良すぎると苦労が多いこともわかった、強い動物にも苦労と危機感ある弱肉強食の世界、国民の頂点である総理大臣などは、自身の身が持たない過酷な世界であった。
どれも二度と経験をしたくない世界だった。
どの世界からも無事に戻って来ることができたから良ったのだが、もし帰ってくることができなければ、一生刑務所の中で過ごすか、死刑になっていたかもしれない。
自分の生まれた人生ではないのに、そんな目に合うのは御免だ。
元の世界には、もう二度と帰って来たくなくなるような素晴らしい世界に行ってみたいものだと、英三には懲りない一面もあった。
あの昭和のテレビに目を向ける、実はこのテレビ、不思議なところが沢山あった。
チャンネルは壊れているのだろうか、七チャンネルまでしか表示はなかった。
英三は悩んでいた、最後のチャンネル七に回すべきかどうかを……最後のチャンネルまで良いことなど無いような気がしていたから怖かった。
英三はテレビの真正面に座り、テレビに話しかけてみた。
「六チャンネルまでは辛い人生だった。もう、あのような人生は二度と御免だ。どうせ最後も、きっと辛い人生が用意されているのだろう? ただ、もし、もしもだぞ、ここまで色々な人生を頑張って来たのだから、最後はおめでとうゴールですよというような意味で、チャンネル七は特別に良いご褒美が設定されていることはないのか? どうなんだ?」
テレビのチャンネルは六を指したままで画面は砂嵐、当たり前なのだが英三が話しかけてもテレビから反応はない。
砂嵐を見つめながら考える英三、やがてその砂嵐はゆっくり渦を巻きはじめてた。
「何だ? 何か起こるのか?」
砂嵐はどんどん激しく渦を巻き、その渦の中からタイトルらしきものが回転しながら現れてきた。
『次回! ビッグチャンスが現れる! 乞うご期待』
「なんじゃこりゃ? どうせ期待はずれになるんじゃないの。でも、ビッグチャンスって何だろう」
英三はこのタイトルに乗るか乗らないか、悩みに悩んだ。
「どうせ最後のチャンネル、テレビの誘いに乗ってやるか。ダメならまた、元の世界に戻って来れば良いのだから」
英三は腹を括り、最後のチャンネルに挑むことにした。
「どれどれ、次はどんなタイトルが現れるのかな」
英三はテレビのチャンネルを七の位置まで回した。
画面はただの砂嵐から、赤と白の渦巻きに変わりタイトルが現れた。
「次は何だ?」
『高額宝くじ当選! 英三、最後の死闘!』
「いくら最後のチャンネルだからといって、初代ウルトラマンとゼットンの闘いを真似したような大げさなタイトルなんか出すなよ。でも宝くじの高額当選か、それは悪くないな。よし行ってみるか」
英三はお決まりのポーズをとり、画面の中へと吸い込まれ、向こうの世界ではまた顔から落ちた。
毎回このオチはいるのか?
英三が次にやって来たこの世界は、自分が元々住んでいた世界とあまり変わらないような景色だった。
「俺はこの世界で大金を掴むことになるのか何だか楽しみだ。大金が入ったら先ず最初に何を買うかな……そもそも大金っていくらだ? そうだ、宝くじ、先ずは宝くじを買うところからだな。さて、どんな宝くじを買うかな」
英三はひとまず街中を歩き、当たりそうな宝くじ売り場を探してみた。
するとショッピングモールに併設されている宝くじ売り場を発見した。
「今は年末ジャンボが売っているじゃないか! 少し肌寒いと思っていたら、今は冬なんだな。ジャンボの一等は……おう! 前後賞合わせて十億円か。十億もあれば一生楽して暮らせそうだな」
英三はニヤニヤした顔で宝くじ売り場を見つめ、頭の中で十億の想像を膨らませていた。
そして宝くじ売り場に向けて一歩足を踏み出した瞬間、英三の足は止まり、ニ歩目は出て来なかった。
「待てよ、俺は宝くじに、必ず当たるのだよな。だったら十億なんていうチンケな額ではなく、もっと、もっとビックな宝くじの方が良くないだろうか。そうだ! アメリカの宝くじだったら、百億は超えるのじゃないか」
更に欲が出た英三、ポケットからスマホを取り出し、アメリカの宝くじを検索した。
「あるじゃないか、百億どころじゃない、もっとビックなのがあるじゃないか。最高三千億までいく宝くじがある! 最近は当たりが出ていないようだな……えっ、今は積り積もってマックスの三千億じゃないか! これだ、これを買うことにしょう」
英三はアメリカのビッグな宝くじをネットで購入した。
この宝くじの当選が判明するのは一週間後だ。
「何だよ! 全然かすりもしないじゃないか」
英三が買った宝くじは当たらなかったようだ。
もしかしたら英三は、余りにも欲を出し過ぎたのかもしれない。
このままでは、この世界に来た意味がないと、慌てて締め切り間近の一等前後賞合わせて十億円の年末宝くじを売り場に買いに行った。
今日は十二月二十三日、この年末ジャンボ宝くじの販売最終日だったが、何とかギリギリセーフで購入することができそうだ。
英三の財布には三千八百円が入っているが、それで年末ジャンボ宝くじの連番を十枚購入した。
この宝くじの抽選は十二月三十一日に行われる。
どうやらこの世界の英三は、職を持たない無職のようで、今は失業保険の支給してもらい暮らしているらしい。
もちろん車は持っておらず、ボロいワンルームのアパートで一人暮らしだ。
この暮らしから、何としてでも脱出しなければと藻掻がいていたようだ。
今度こそは高額宝くじに当選し、この貧乏生活から脱出して、億万長者となることを夢見ていた。
宝くじを購入してから三日後、英三はとても奇妙な夢を見てしまった。
その夢とは……
当然ながら、この世界の英三には友達はいない。
働いてもいないので職場の仲間などもいない。
それなのに夢の中では、沢山の仲間と楽しそうに働き、皆で共同生活をしていた。
普段は心を許せる人間など誰一人いないのだが、この夢では何でも話せる仲間が沢山いた。
一日の仕事を終え、皆で食事を楽しみ、そして充分くつろいだ後なのだろうか、皆は寝るために建物の上へ上へと移動し始めていた。
共同生活をしている建物は四階が大広間になっていて、そこで皆と一緒に寝ることになっているようだ。
その部屋は電気が点いてとても明るいのだが、それなのに何だかとても暗く感じ、気持ちが悪い空気が流れているような気がした。
周りに居る大勢の人達は何も感じていないのだろうか、それとも鈍感なのだろうか、皆んな笑顔で楽しそうに話をしていた。
堪りかねた英三が隣に居た中年の男にポツリと呟いた。
「この部屋、大勢で居るから大丈夫だけど、もし一人だったら、何だかここで寝るのは不気味な感じがしませんか?」
「お前、何を言っているの? この部屋、お前一人だよ」
「えっ!」英三はその言葉に背筋が凍った。
そして大勢いたはずの人達は目の前から一瞬で消え、そして電気も消え、真っ暗な部屋に英三が一人になっていた。
そして英三が居た部屋は、床も壁もボロボロの部屋に変わった。
「うわぁーー」
割れた窓からは、こちらをジッと見つめる、うす緑に光る男がいた。
「何だここは!」
そこで目が覚めた。
英三は、強く記憶に残った夢を回想し「あの夢はいったい、何だったのだ?」という疑問と、恐怖だけが残っていた。
そんな不思議な事はあったのだが、五日後に訪れるだろう幸せに向け、気持ちを切り替えていくことにした……あんな夢は、単なる夢だということにして。
この日は普通のテレビで放送されていた、松坂桃李が主演の『昨日の夢』を観て、更に背筋が凍った。
その二日後、深夜二時に目が覚めた英三は、アパートの窓が一定の周期でガタガタと揺らされるような音を恐怖を感じながら聞いていた。
英三はその恐怖から逃れるかのように布団に潜り込み、いつの間にか眠りについていた。
この日からの三日間は、アパートに残っていた米を炊いて、おかずはカップラーメンを一日一個という侘びしい生活、後は何も変わらず時間だけが過ぎていった。
そして、いよいよ宝くじ抽選の日がやって来た。
息を呑みながらテレビの前を占拠、食い入るように抽選会の様子を見つめ、いよいよ一等の抽選がおこなわれた。
英三は宝くじを床に並べて準備万端、この年末ジャンボ宝くじに当選するという自信はあるのだが、確信とまではいかず頭の中では時折不安がよぎっていた。
一等は八一組、一二八三八七番!
「マジか! 当たった! 一等、一等が当たった! 前後賞合わせて十億円。やったーー、俺は億万長者だ!」
あの古い昭和のテレビのお陰で、最後のチャンネルは、英三を幸せにしたのだった。
英三は、まさかの大逆転劇を成し遂げたのであった。
「最後まで信じて良かった」
だが、ここから現金に換金ができるまでには、あと六日もの日数がかかる。
それまでは現金を手にすることができない。
だからこの貧乏生活は、もうしばらくは続くことになる。
「ここを何とか耐えるしかない。俺は十億を手にする男なのだから」
一月六日、ようやく換金できる日がやって来た。
英三が向かった先はみずほ銀行。
銀行までの道のりは、当選が確定した三十一日からずっと予行練習を兼ねて毎日歩いていた。
だから道は絶対に間違えることなどない。
むしろ帰り道に、強盗などに襲われないかということが心配で、毎日予行練習を兼ね歩いていたのだ。
経路の選定としては、交番のあるの場所をピッアップして、なるべく交番の前を通るようにしていた。
みずほ銀行では入念に本人確認がおこなわれ、その後大金が入った時の注意点が説明された。
銀行からは大型定期預金や大口投資のお願いをされたのだが、英三は全て断り、新たに口座開設したみずほ銀行の普通預金通帳に全額入金してもらった。
「さぁ何を買おうか、俺は何でも買えるぞ。先ずはマンションと車だな」
英三は年末にテレビで頻繁に宣伝されていた、駅前の一等地に新築されたマンションを狙っていた。
「マンションは最上階を購入しよう」
英三はテレビで宣伝をおこなっていたゴージャス不動産を訪れ、最上階の部屋がまだ空いているか確認をした。
「良かった、まだ空いているのですね。その部屋はいくらですか?」
「一億です」
「わかりました、買います」
営業マンは「えっ?」という顔をした。
それはそうだろう、英三の身なりといえば、擦れて薄くなったジャージを着て訪れていたのだから、営業マンからしてみればバカにしてるとしか思えなかったのだろう。
「一億ですよ? お支払いはどのようにされる予定でしょうか?」
「現金一括で!」
「お客様、大丈夫ですか?」
英三は自慢気に、さっき作ったばかりの通帳を営業マンに見せた。
「わかりました! ありがとうございます」
英三は最初に、住む場所を手に入れた。
次は車屋へ向かった……それもフェラーリの店。
フェラーリを売ってる店に擦れたジャージで来店すれば、営業マンどころか店員誰一人も寄って来ない。
見物に来ただけの貧乏人扱いで、あいつに付いても無駄だと判断されたのだろう。
英三は店内をぐるりと回り、飛び抜けてカッコが良かった、イタリアンレッドのフェラーリSF90ストラダーレに釘付けになってしまった。
「すみません、これ、おいくらですか?」
店員は全員「はぁ?」という顔、それが全てを物語っていた。
「あのーーこれ買いますので値段教えてください」
その言葉を聞いて営業マン数名が、お前が行けよと擦り付け合い、全員が英三を敬遠しているようだった。
一歩足を踏み出したのは一番若い営業マン、先輩には逆らえなかったようだ。
「このフェラーリの値段でしょうか?」
「はい、いくらですか?」
「こちら税込みで八千万円になります」
「本当に!」
ほらやっぱりだ、金など無いくせに、お前なんかに付き合ってられないよという顔の営業マン。
「何だ、思っていたよりも安い。一億はするのかと思っていた。これ買います、現金で」
マジかよ! といった顔の営業マン、奥の先輩営業マンも当然同じ顔だった。
「今ね、駅前のマンションも購入してきた、現金で。その足で来たのだけど、このフェラーリが気に入ったから買います」
「あ、ありがとうございます。では早速ですが、奥の方で手続きしてもよろしいでしょうか?」
「大丈夫だよ」
英三はマンションに続き、高級外車も手に入れた。
その足でブランドショップで買い物をして、ファッション品だけでも一千万円の買い物をし、財布以外の全ての商品は、新しいマンションに配達してもらうことにした。
「まだまだ金はあるぞ」
英三の買い物はその後も続き、新しい電化製品一式に高級家具も買い揃え、購入した財布以外の品物は全て、今日購入したマンションに配達してもらうことにした。
英三はどの店に行っても自らで自慢するように、いろんな人に通帳を見せびらかしていた。
新生活に向けた一通りの買い物が終わると辺りは暗くなり、時間は夕方の五時を過ぎていた。
今日は何も食べていないことに気づいた。
「買い物することに夢中になりすぎていた、腹減ったな」
思い出したように急に腹が減ってきた英三は、何を食べようかと高級な飲食店が並ぶ街を歩いていた。
宝くじの当選金を手にするまでは、白いご飯にカップラーメンが英三の三食という、実に侘びしい食事だった。
だけど今日からの英三は違う、お金はたんまり持っているのだから。
今日は高級な食べ物を腹一杯食べてやるという、変なモードになっていた。
見つけたお店は、どこからどう見ても高級だろうという寿司屋、英三は擦れたジャージでこの店に入った。
「いらっしゃい、ませ」
「一人ですが大丈夫ですか?」
「大丈夫ですが……」
英三は出迎えた女性店員から、上から下まで繰り返し見られた。
「お客様、大丈夫ですか?」
「何のことですか?」
「寿司屋の中でも、少しお高めになっておりますが」
「お金? お金ならありますよ」
「わかりました」
カウンター席に案内されるが、中で働く板さんも、英三の姿を見て一瞬フリーズしてしまった。
「大丈夫か?」
そう言いたかったのだろう。
英三を案内した女性店員は、直ぐ厨房に向かい、板さんにお金は問題がないことを確認したお客様だと説明した。
俄に信じられない板さんだったが、仕方がないと諦め半分だった。
「こちらはお通しです。後は注文が御座いましたら仰ってください」
「それでは、生ビールと刺身、板さんのおすすめを切ってください」
「あぁ、わかりました」
英三は刺身をつまみにビール一杯と冷酒を一合飲んだ。
カウンターには綺麗にネタが並べられた平のケースがあり、どのネタも光り輝き美味しそうに見えた。
今日のおしながきと書かれた一枚の紙が英三の座る席に置かれている。
本マグロの大トロの握りが一貫で三千五百円、中トロで二千八百円、ウニが一貫で千九百円、どの握りも高値で提供されていた。
中々の店である。
「握って貰えますか。甘鯛にスズキ、それと赤貝とボタン海老にカンパチをお願いします」
「わかりました」
刺身も最高だったが、次に出てきた寿司は絶品だった。
「美味しい! 板さん最高です」
「あ、ありがとう御座います」
板さんの心境は複雑だった、本当にこの男は金を持っているのか、そんな不安を抱えながらの対応だったからだ。
「次はウニと、この本マグロの食べ比べをお願いします」
本マグロの食べ比べは三貫盛りで七千円と、一貫ずつ頼むよりはリーズナブルな料金設定となってはいるが、流石に三貫で七千円は高価だ。
「上手い! どれも美味しかったけど、その中でも中トロが一番。板さん、中トロを三貫握ってください」
その後も空腹を満たすために注文を重ねていった。
「あーー満足。お会計お願いします」
英三に手渡された請求額は八万八千円、高価なネタばかり豪勢に食べ、そして飲んだ。
「あんなに美味しいのに、意外に安かった。また寄らせて貰います」
英三は先ほど買ったばかりのエルメスの財布から九万円を取り出した。
財布もエルメスと高価なのだが、中身を見た店員が「あっ!」驚くほど一万円札が入っていた。
推定だが財布に入っていたお金は二百万円、店員は入り口で英三を疑ってしまったことを反省した。
翌日、英三は不動産屋と引っ越し屋に電話をした。
いよいよ新居である新築のマンションに移る準備がはじまった。
引っ越しに関しては全ておまかせ、三十万円掛けて荷物を移動することにした。
そして英三の高級マンションでの生活がはじまった。
快適な生活には何の不満も無い、リッチな暮らしぶりだった。
食事は三食全てが外食、そして夕食の三日に一回は、あの高級寿司屋で舌鼓を打っていた。
ただその生活も少しずつ変化が起こりはじめていた。
それは英三がマンションに引っ越してから一ヶ月が過ぎた頃からだった。
ある日、エントランスから英三の部屋を呼び出すチャイムが鳴った。
「来客なんて珍しいな。はい、仙玉です」
「こちら生まれつき臓器に病気を持つ子供達を支援しております『鶴の団体』と申します。寄付のお願いに参りました」
「すみませんが、協力はできません。お引き取りください」
「貴方様は宝くじで十億円を手に入れられたとお聞きしました。どうかご寄付にご協力お願いします」
「宝くじなんて当たっていません。お引き取りください!」
「そうですか……では、また来ます」
「何だあいつら……でも何故、俺が宝くじに当たった事を知っているのだ?」
それはそうだろう、十億と印字された真新しい通帳を見せびらかし、色んな所で高級品を買いあさっていれば誰でもわかるはずだ。
自分自身で僕は宝くじに当たったぞと広めているようなものだった。
ピンポーン、また誰か来たようだ。
「ゴールドを購入しませんか? ゴールドは嘘をつきません、それに価値が下がることがありません。この機会に全てのお金をゴールドに変えてみませんか?」
英三のマンションを訪れる訪問者はこれだけで終わらなかった……次から次へと呼び鈴は鳴り続け、何人もの人がやって来たのだ。
「今、ベトナムが投資先として熱いのをご存知でしょうか? この機会に、熱いベトナムに不動産投資してみませんか?」
「ここだけの話ですが、儲かる良い話があるのですが……」
「ワシら、政治結社の極右会の者ですが、寄付をお願いします」
「すみませんが、全てお断りさせてもらっています」
「あんた、自分だけが幸せになろう思ったら大間違いやで! ワシら知っとるんぞ、あんたが宝くじで十億円当たったことを! 明日からここに、大きなバス廻してやるわ」
「大きなバス? それは何ですか……」
「ワシらんとこの、大きな、大きな黒いバスじゃ。そして毎日、一日中ここで街宣活動してやるからよ! お前、右翼を舐めとんなよ」
翌日の朝八時、右翼の街宣車がマンションに横付けされ、その車は夜の八時まで大きな音を鳴らし続けた。
流石にそれが連日続けば、いよいよマンションの住人からも苦情が出はじめる。
「俺はただ、宝くじに当たっただけなのに……何にも悪いことなんてしていないじゃないか。宝くじに当たってお金持ちになり裕福になったのに、何にも良いことなんてないじゃないか」
英三は別の場所で仮住まいする決断をする。
そのため安価ではあるが、もう一部屋マンションを購入することにした。
安いとは言っても三千万円、余分な出費が掛かってしまったと嘆いていた。
その頃、納車までに時間が掛かっていた、フェラーリの納車予定日がやって来た。
当初の届け先は駅前のマンションだったが、英三は電話で届け先の変更をおこない、仮住まいのマンションに届けてもらった。
幸いにも英三が住む仮住まいには、右翼団体や強引な勧誘は誰一人として来ていなかった。
「このまま俺のことなんて忘れ去られたら良いのに」
そして英三の元に真っ赤なフェラーリがやって来た。
英三はこのフェラーリを停めて置くスペースとして、仮住まいの近くに特殊なガレージを借りていた。
納車されたばかりのピカピカなフェラーリを見て英三は思った、暫らくはこいつと旅にでも出ようかなと。
英三の運気を変えるためにも、それは良いことだと思う。
行き先は何処が良いのだろうか?
英三が悩んで決めた先は、静岡県の熱海だった。
熱海に行って絶景見ながら温泉を楽しみ、のんびり過ごすことが出来たら最高だと考えていた。
お金だってまだ七億円残っている。
その金で別荘の一つでも購入して、熱海を満喫しながら過ごすことが出来たらそれで十分であった。
最初に購入した新築のマンションと、後で買ったサブのマンション、どちらとも家具付きの状態で不動産屋に売却を依頼し、あの昭和のテレビと私物の小物類や洋服は引っ越し屋に梱包まで依頼して移動させることにした。
引っ越し屋が移動した荷物は、熱海にある貸倉庫を借りて保管することにした。
英三は自身の住居を購入するまでは、温泉付きの高級ホテルで優雅に過ごすことに決めていた。
善は急げと海外旅行用の大きなスーツケースを一つ購入し、そのスーツケースに当面の衣類を雑に詰め込んだ。
「もし足りない物があれば現地で購入すれば良い。とりあえず出発だ!」
英三は熱海に向け愛車フェラーリを走らせた。
イタリアンレッドのフェラーリは、そのかっこよさと迫力から注目を浴び、英三は長い道のりをフェラーリと共に爆走して目的地である熱海の地に入った。
熱海に着くとギャル達の熱い視線と、黄色い歓声が英三を出迎えた。
まるで英三が熱海にやって来ることを事前に知っていたかのような盛況ぶりだった。
「キャーー、キャーーというこの歓声は、あの昭和のテレビのチャンネル一で体験したアイドルだったとき以来のことだな。あの時は流石に逃げ出してしまったのが久しぶりに聞くと、これはこれで悪くないものだ。でも一体どうしたのだろう? このフェラーリのせいなのか?」
最近、熱海を訪れる客に変化があるとは聞いていた。
それは熱海を訪れる年齢層だ、熱海は若者から大人気の地に変化を遂げていたのだ。
そこにたまたま、英三のカッコ良いフェラーリが通ったため、騒ぎが大きくなっただけだと考えていた。
しかし英三が宿泊を予約していたホテルの周辺でも同じように女性が待っていて、そこでも黄色い歓声が上がっていた。
「この熱海でも、俺が宝くじが当たったという情報が漏れているのだろうか。そうだとしたら、熱海もマズいぞ」
「英三さーーん、キャーー」
「何でだ! 俺の名前を知っているのだ?」
英三はこの騒ぎを避けるかのように、急いでホテルの駐車場へ入った。
そして駐車場からホテルのフロントに電話をして、一般客が居ない裏口から入ることができないか交渉してみた。
「分かりました、スーパースターともなれば大変ですね。ご協力いたします」
「えっ? スーパースター? 俺が……」
そんな世界には行ったことがあるが、ここは宝くじが当たる世界で全く別の世界の出来事、英三はこの不思議な現象に首を傾げるばかりだった。
英三はホテルの従業員三人に守られるように裏口に案内され、チェックインの手続き無しで、そのまま客室に入った。
「仙玉様ありがとうございます。ここでチェックインのお手続きをさせて頂いても宜しいでょうか?」
「大丈夫です。しかし、この騒ぎは何ですか?」
「あなた様のことを知らない人はいません。誰もが知るスーパースターなのですから。それを出待ちされているファンの方々です」
「スーパースター、ね……」
「はい。こちらのお部屋は室内に、プライベートで使用ができる露天風呂が付いております。御食事はこちらで部屋までお持ちいたします。奥が和室になっておりますので、御食事はこちらでゆっくりどうぞ」
「素晴らしいお部屋ですね。ゆっくりさせていただきます」
「ひと時の安らぎのお手伝いができるよう、最高のサービスで対応いたします」
「ありがとう」
この部屋に入った英三は先ず最初に、備え付けられていた露天風呂に入った。
「最高! 目の前には海が広がる綺麗な景色。住むところが決まるまでは、この贅沢を存分に堪能してやるぞ」
英三はこの部屋からパソコンを利用して、新居を探すことにしていたが、今は金に困ってないこともあり、暫らくはこの生活も悪くないと新居探しには力が入らなかった。
生活用品としては、服以外の物は必要がなさそうだし、あの昭和のテレビを含めた荷物は、貸し倉庫に預けてあるので何も困ることはなかった。
それに、この最高の生活であれば、再びあの昭和のテレビを使うことはないだろうとも考えていた。
相変わらず外には英三のファンがホテルを取り囲むように出待ちをおこない、常に熱い視線と声援を送り続けていた。
このファン達のお陰で英三が泊まってる周辺のホテルや旅館は、ファン達が多く利用していることから、熱海には一定の恩恵をもたらしていた。
空澄み渡る晴天となった日、英三はタクシーを貸し切って熱海の町に出掛けた。
目的は観光と洋服や装飾品の買い物、常にファンの視線と歓声が付き纏う観光ではあったが、英三としては久しぶりの外出となった。
しかし熱い視線の中に、何故か、怪しい視線も感じていた。
その怪しい視線の方向を見た英三、その視線はヤクザ二人からのものだった。
「あっ! あれは確か……佐田沼組の川本と竜成組の九条の舎弟、相原じゃないのか? 何故この世界に奴らが居るのだ」
英三は一瞬焦ったのだが、二人とは距離が離れていたこともあり、直ぐタクシーに飛び乗り難を逃れることができた。
しかし、この世界に居るはずのない者を見たということは、英三の目の錯覚だったのか、それとも単に人違いなのか、もし本物であるとすれば、かなり疑問が残ることになる。
それよりも英三は、奴ら二人に狙われているのではないのかという恐怖心で背筋が凍った。
英三はタクシーの運転手に、ホテルに戻るよう依頼し、また暫らくはホテルに引きこもることにした。
あれから一ヶ月の時が流れた……
英三はまだ住む所も決めず、相変わらずホテルでの暮らしを満喫していた。
あの二人を見て恐怖を感じてからは、外に出ることをずっと控えていた。
しかしあの二人が英三が泊まるホテルに現れることはなかった。
「本当に奴らだったのか? 単なる見間違いなのかも知れない。もうそろそろ外に出てみるか。車から降りなければ危ないことは無いだろう。そうだフェラーリと共に、熱海以外の静岡の地を探索してみるか」
英三はホテルのフロントに連絡を取り、熱海以外の場所で車から降りることなく満喫できる場所がないか問い合わせてみた。
「静岡県の裾野市にある富士サファリパークはどうでしょうか? あそこであれば車から降りることなく園を回ることができますが、タクシーの手配をいたしましょうか?」
「大丈夫です、ありがとう。今日は自分の車で出掛けて来ます」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
久しぶりに愛車フェラーリのエンジンをかけ、心地良いエンジンのサウンドと共に裾野市にある富士サファリパークを目指して走り出した。
ホテルの駐車場からフェラーリに乗って外に出ると、今まで聞いたことのないような黄色い歓声が響き渡り、同時に英三を一目見ようと熱い視線が注がれていた。
その中に、あの二人の視線はなかった。
「やはり俺の勘違いだったか」
英三のフェラーリは目立ち過ぎる、英三が運転していると知らない人からも熱い視線を受けていた。
熱海からサファリパークまでの移動時間は約一時間、英三は疲れることもなくサファリパークに無事到着することができた。
英三のファンだろうと思われる車が数台、フェラーリの後を追いかけて来ていた。
英三のフェラーリは富士サファリパーク到着後、特別ゲートに案内されそのまま入場することができた。
サファリパークに向かう道中、英三が宿泊するホテルから電話があり、園に特別ゲートの開放をお願いしてある旨の連絡を受けていた。
英三に対するホテルからのはからいだった。
英三の思惑通り車から降りることなく、サファリパーク内に入ることができた。
園に入れば、英三の車を護衛する園の車が前後に付くこともホテルから聞いていた。
「ありがたいな」
スーパースターに対するビップ対応だと言えよう。
色んな動物をリアルに見ることができ、久しぶりの外の時間を大興奮で満喫した英三であった。
「うわーー何だ!」
一頭のライオンが英三の車目掛けて突進してきた。
そして英三の車の近くまで来て唸り声を上げた。
「英三! 殺してやる!」
「あっ、お前は、ビッグボス」
「俺の縄張りに何度入り込めば気が済むのだ? 俺の妻も殺しやがって、今日こそは絶対にお前を殺してやる」
「俺は今、違う世界に居るのだから関係ないだろう。あれは俺がライオンだった時のことじゃないか」
「何をごちゃごちゃ言っているのだ。殺す!」
ビッグボスが英三の車に飛びかかって来た。
前後に居た職員は大慌てで、棒を使いライオンを車から離そうとした。
「こんなことは初めてだ!」
ビッグボスは意地でも離れない、職員はビッグボスに麻酔銃を撃ち難を逃れた。
「大変申し訳ございません。しかし、このようなことは初めてでございます。いつもは群れを大事にしている優しいライオンなのですが……車の方は弁償させて頂きます」
「いいえ大丈夫です。少しキズが付いた程度ですから」
「申し訳ございませんでした」
「ちなみにあのライオンの名前を聞いてもいいですか?」
「ビッグボスです」
やはり錯覚ではなさそうだ。
もしかしたら今いるこの世界は、全てのチャンネルと繋がっているのかも知れない、英三はそう思ったとたん身体から汗が止まらなくなっていた。
「仙玉様、仙玉様、大丈夫ですか? どうかされましたか?」
「あっ、いいえ、大丈夫です」
「あのライオンの名前に何かありましたか?」
「大丈夫です。久しぶりの外出で少し疲れが出ただけです」
「そうですか、少し休んでいかれますか? こちらでホテルをご用意できますが」
「ありがとうございます。しかし今日は熱海に帰ります。また寄らせて頂きます」
「そうですか、お気をつけて」
英三は震える手をハンドルに押し付け、フェラーリを熱海まで走らせて行った。
英三はこれまでに六つの世界を経験し、今は最後のチャンネル、七つ目の世界に来ている。
英三の震える手が意味するものは、恐怖であった。
周りを見ればチャンネル一の世界で経験したモテモテの現状が再現されている。
熱海で買い物に出れば、チャンネル二で英三が対立してきたヤクザが睨んでいた。
動物園に行けば、チャンネル五で野生のライオンとして過ごした最大のライバルであるビッグボスに襲いかかられた。
チャンネル三、チャンネル四、それにチャンネル六の世界の者とは、まだ出会っていない。
今後出会っていくことになるのだろうか?
それは一体、どういう出会いになるのだろうか?
英三の震えは、その恐怖からの震えだった。
もしかしたらビッグボスがサファリパークから逃げ出し、泊まっているホテルまで襲いに来るのではないだろうか、英三はそんな心配から精神的に病んでしまいそうな状態になってしまった。
「仙玉様、おかえりなさいませ」
何とか無事にホテルに戻ることができた英三、相変わらずホテル周辺にはファンが多数取り囲んで英三に歓声を上げていた。
ホテルの部屋に戻った英三は、備え付けされている露天風呂に入り、今日の疲れを癒やしていた。
「プルルル、プルルル」
「はい仙玉です」
「フロントです。今、仙玉様の元妻だと仰っしゃる方がフロントにお見えですが、如何いたしましょうか?」
「元妻だと……私は一度も結婚をしたことがありませんが……あっ! その人、右の目の下に少し大きめのホクロがありますか?」
「はい、ございます」
「わかりました、直ぐに行きます」
英三の心境は複雑であった、別の世界で暮らしていた者が、本当にこの世界に来ているのか、それを自分の目で確かめてみたいという気持ちになっていた。
本音は、本物であるならば会いたくないという気持ち、そんな両方の気持ちが交差していた。
英三は浴衣姿で一階のロビーまで行った。
「仙玉ですが」
「はぁ、知っていますよ」
「やっぱり瑞穂なのか?」
「当たり前じゃないの、何を言っているの。それよりさ、あんたに離婚の慰謝料貰ってないのを思い出したので、それを貰いに来ました。一千万で示談にしてやるから早くよこしな」
「バカなことを言うな、離婚を言い出したのはお前の方からだろう。慰謝料なんて払う必要はない。それに何だよ、俺の名前で多額の借金をしていたじゃないか。俺はあの借金返済に苦しんだのだぞ」
「あんた、宝くじに当たったらしいじゃないか」
「知らないよ、それに瑞穂はこの世界の人間じゃないだろう! 早く元の世界に帰れ!」
そして英三はホテルのスタッフに、瑞穂を外に出すように指示した。
連れ出される際に瑞穂は「あんたは何もわかっていない」と捨て台詞を吐いて行った。
翌日も英三の元に訪問者が現れた。
「あのーー仙玉様、フロントにワイルドキャッシングの方とビックリファイナンスの方がお見えになっておりますが、如何いたしましょうか?」
「こちらからは用事がないので、お引き取りしてもらって下さい」
「承知いたしました」
英三は頭を抱えた、なぜ別世界の者達が次々この世界に現れてくるのだろうか、頭がパニック状態になってしまった。
「落ち着け、落ち着け、所詮この世界も俺が本当に住んでいる世界ではないのだから、いざとなれば又、あの昭和のテレビの中に入って逃げ出せばいい。しかし、熱海は危険になってきた。少し場所を変えて様子を見てみよう」
英三は少しの間、熱海から離れる決意をする。
そして滞在先に選んだ場所は、熱海から少し南に移動した場所、伊東市だった。
ここも静岡では有名な温泉地で、暫らくはこの地にあるホテルで身を隠すことにした。
宿泊している熱海のホテルから紹介を受けたホテルを、予約までしてもらった。
そのホテルまでの移動手段は、今まで滞在していた熱海のホテルのはからいで、ホテルの取締役が自家用車を使い極秘で移動してくれることになった。
英三が伊東市に移動した後は、フェラーリを扱うディーラーが熱海のホテルの駐車場までフェラーリを引き取りに来て、あのビッグボスにつけられた傷の修理をしてくれることになっていた。
ホテルを取り巻くファンや、英三が体験してきた異世界の者達から身を隠すため、伊東市にあるホテルに向かい出発した。
伊東での滞在期間は敢えて決めず、そしてこれまで宿泊していた熱海のホテルは、そのまま継続して部屋を借り続け、表向きには居留守状態を取ることにした。
伊東で宿泊するホテルも超豪華な部屋を予約してもらい、もちろん部屋には自分だけの露天風呂が設置されていた。
「暫らくは伊東の湯で身体を癒すことにするか」
英三が伊東市に移動をしていることを知っているのはごく僅かの者だけ、変装さえすれば少しぐらい外に出ても大丈夫だろうと考えていた。
伊東も景色は最高で、いろいろ観光地もある。
海とのコントラストが素敵な景色に、沢山の草花、放し飼いされた数々の動物に触れ合える動物園、沢山のステンドガラス集まるランプミュージアム、イルミネーションが素晴らしい公園、それらが一堂に集まる場所、伊東市にあるシャボテン公園。
英三は二週間もの間、毎日シャボテン公園グループの施設を訪れ、伊東の素晴らしさを満喫していた。
「静岡の素晴らしさは熱海だけじゃない! ここも最高じゃないか」
お忍びで訪れた英三の伊東の旅は、周りに気づかれることなく遂行することができていた。
英三は特にお気に入りの場所があった、それは色んなステンドガラスを用いて作成されたティファニーのランプが豊富に展示されている『ニューヨークランプミュージアム&フラワーガーデン』この地に心を奪われていたのだった。
そして英三は今日も、この地を訪れていた。
「ここはいつ来ても癒される。目も心も食も最高」
カフェで昼食、今日はバターチキンカレーを味わっていた。
そのカフェに車椅子の男がやって来た。
その男の周りには人がいないことから、どうやらこの車椅子の男は一人でここを訪れているようだ。
ただ車椅子の男は、花もランプも素敵な景色も、勿論カフェも似合わないような風貌で、厳つい顔と鋭い目をした男だった。
男との距離が徐々に縮まり五メートルに迫った頃……
「えっ! 輝希か?」
ヤクザだった世界で、英三の舎弟だった輝希に似ていた。
輝希は、英三が半グレに襲われ瀕死の状態となった時、英三と一緒にクラブで飲んでいた二人の内の一人である。
その時、輝希も巻き添えとなり、その怪我の影響で下半身には麻痺が残り、一生車椅子の生活となってしまった。
「一体どうなっているのだ? 何故、奴がこの世界に居るのだ? そして俺に何か用事でもあるのか? そうだとしても、何故、俺がここに居ることを知っているのだ?」
動揺する英三に向かって輝希はどんどん距離を詰めて来る、それも真っ直ぐこちらを見たまま……
英三までの距離僅か二メートル、鋭い目で英三を睨みながら車椅子を進ませている。
英三はその姿に圧倒され、身動きを取ることができない。
そして遂に、英三の目の前までやって来た。
「兄貴、お久しぶりです」
「あ、あぁ、元気だったか?」
「ご覧の通りです。兄貴のお陰で不自由な身体のままですよ。それよりも兄貴、こんな身体になった舎弟を置いて自分だけ逃げて、悠々自適な生活とは如何なものかと思いますがね」
「逃げた訳じゃない。警察に追われ仕方がなかったのだ、本当だ信じてくれ。輝希のことはずっと心配していた、本当だ」
「そうですか、俺のことが心配でしたか」
「何も言わずに突然いなくなったのは申し訳なかった」
「申し訳ないと思ってくれるのですね、じゃあ話しは早い。あの時、兄貴のゴタゴタに巻き込まれて、こんな身体になってしまったのですから、それなりの慰謝料を頂かないと割に合いませんわ。それに、突然いなくなったことで、ワシは精神的にやられてしまい鬱病にもなりました。その後は組も潰されてしまい、ワシらは野に放たれた野良犬ですわ。それも大怪我を負って、生きることさえ必死になった野良犬。ワシ、兄貴に尽くしましたよね? 世の中じゃあ、歳を取ったら年金、職を失えば失業手当、それなりの補償がされていますが、兄貴はワシのこと補償してくれますよね? もちろん兄貴から、そうですよね?」
「わかったよ、いくら払えばいい?」
「一億」
「一億! そんなには払えない。一千万、一千万でどうだ?」
「舐めたこと言わないでくださいよ。兄貴、大怪我したいですか? あなたを狙っているのはワシだけじゃありませんよ。あなたも見たでしょう? 佐田沼組の川本と竜成組の相原を。ワシは二人と組んでいます。共通の敵をぶっ潰すために、わかりますか? お互い恨みの先が共通ってことですよ。ワシは一億で手を引きます。無理なら、あの二人に兄貴の居場所を教えます。そして二人に襲わせましょうか? それとも……」
輝希は胸元に忍ばせた拳銃を英三に見せた。
本物か?
「おい! ここで俺を撃ったら、次は輝希が狙われてしまうぞ。そんなことくらい、輝希だってわかるだろう? わかった、わかったよ、お金は用意するから、あの二人に俺の居場所は言わないでくれ。ただ、少しだけ時間をくれないか。お金を用意するのには時間が掛かる。一週間、一週間だけ待ってくれ。一週間後に、またこの場所で会うというのはどうだ? 」
「わかりました。でも兄貴、また逃げたりしないでくださいね」
「わかった」
英三はホテルに戻り頭を抱えていた。
この世界に何故、他の世界の者達が集まり、俺を探しているのだろうか?
これまで六つの世界を経験してきたが、俺は六つの世界全てから最後は逃げ帰って来ている。
人の目から逃れるためだったり、逮捕を免れるため、借金を踏み倒したり、そして殺されかけたこともあった。
そう、全ての世界から逃げてきた。
「あっ! タイトル『高額宝くじ当選! 英三、最後の死闘!』。最後の死闘って……俺が死ぬということなのか?」
英三はこんな世界からは一刻も早く逃げ出さなければ殺されてしまうと思った。
「あのテレビはどこだ? どこにあるのだ!」
英三は一瞬パニックに陥った。
「落ち着け、ゆっくり考えろ……そうだ、引っ越し屋に熱海まで移動してもらいレンタルスペースに預けてあるのだ。場所はどこだ? 引っ越し屋に聞くしかない。そして引っ越し屋にお願いして、レンタルスペースからホテルまであの昭和のテレビを移動してもらおう」
英三は急いで引っ越し屋に電話をした。
「すみません、今は個人情報保護の関係で、引っ越し後のお客様情報は全て削除しております。申し訳ございませんが、こちらではわかり兼ねます」
英三は熱海のホテルに引っ越しした時の書類が残っているはずだと、熱海のホテルに電話を掛け、部屋の中を探してもらうことにした。
しかし、ホテルから受けた電話の内容は「書類はありませんでした。ただ、一つ情報があります。これは当ホテルの清掃員が記憶していることなのですが、仙玉様から纏めて置いてある紙類を処分して欲しい言われたみたいですが、お心当たりはございませんか?」
英三はハッとした。
色んな領収書や契約書、その他紙類をバッグに入れていたのだが、余りにも雑に入っていたのでホテルの部屋のテーブルにそれらを全部出して、掃除に来た清掃員に捨てて欲しいと依頼していたのだった。
英三はそれを思い出し「わかりました、ありがとうございました」英三の頭の中は真っ白になってしまった。
契約しているレンタルスペースも、一年間の契約を結んでおり、料金も全額支払い済み。
手配してもらった不動産屋の名前も覚えていない、だから契約が切れ不動産会社から連絡が来るまではどうすることもできない。
あの昭和のテレビを探す手立てはなくなってしまった。
英三に残された選択は、レンタルスペースの契約が切れるまでここで無事に暮らし、契約更新の有無の電話があれば場所が分かるので、それからテレビを探し元の世界に戻るか、それとも覚悟を決めて一生この世界で生き抜いていくか、この二つの選択しかなさそうだ。
英三はこの修羅場を乗り切るため、先ずは輝希に渡すお金の準備をはじめた。
しかし用意するのは要求された一億ではなく、一千万だけ用意することにした。
輝希への言い訳としては、こんな場所に全額持ってくるのは危険と判断し一千万だけを持参、残りは指定口座に振り込むと約束するものだった。
ヤクザが銀行口座など持っていないことを承知の上で。
輝希は他人名義の銀行口座を借りるしかないはず、英三と会う当日に貸してもらえる口座が見つからなければ、更に時間を稼ぐことができる。
万に一つヤクザから足を洗っていて、銀行口座を持っているとしたら、それはそれで振り込みを約束するしかないだろう。
待ち合わせ当日、輝希は既に待ち合わせ場所に来ていた。
「待たせたな」
「ヤケに軽そうな鞄に見えるが、その中に一億が入っているのか?」
英三はあらかじめ考えておいた言い訳を輝希に話した。
「テメェーー、舐めているのか!」
そう言って上着の内ポケットに手を入れた。
「まぁ、待て! 落ち着け。お前だって一億も入った鞄をここから持っていくのは大変だろうし、危険なことだということぐらいわかるだろう。金を払う気がないという訳じゃないから、ほら、ここに一千万は持って来た。残りは必ず振り込むから信じてくれ」
「残りは振り込むと? 都合の良いこと言いやがって」
「本当だ、信じてくれ。それより銀行口座はあるか?」
「あぁ、持っているが、だいぶ使っていない。結婚していた時に作った、前の姓のものだが」
「それで大丈夫だ。その口座を教えてくれ、残りを振り込むから」
英三は輝希から銀行口座を聞き、後日、九千万を振り込むと約束した。
輝希から何度も念押されたのは、一週間以内に振り込みが無ければ、佐田沼組の川本と竜成組の相原、ヤクザ二人に英三の居場所を伝えて、二人と一緒に襲撃しに来ると言っていた。
「くっそーー、まぁ一億は仕方がないか」
一刻も早く危険を回避するため、翌日には輝希の口座に振り込みをおこなった。
英三にとって今回の支払いは痛い出費となってしまった。
しかし、ここで命を落としてしまうようなことになれば本末転倒の事態となる。
それだけは回避することができそうだ。
そう考えれば一億は安い支払いなのかも知れない。
合計で一億の支払いを終えた英三の預金残高は、六億円を切ってしまっていた。
振り込みから三日後、輝希から着信があった。
「兄貴、ありがとうございました。これで兄貴にしつこく付き纏うことはありませんのでご安心ください」
それから数日が経ったある日……ある無謀な法律が制定された。
この世界の与党は、英三が総理大臣だった当時の野党、それらが政権を握っていた。
その内閣が制定した法律は、贅沢税というものだったが、これがとんでもない法律だった。
固定資産を除く、二億円以上の資産を保有する者は、通常の税率よりも高い三倍の税率が適用されるというものだった。
当然、英三もこの税率の対象になる。
「あいつら、とんでもない法律を作りやがった。財を成している者は、二億未満になるまでお金を使うか、高い税率を払い続けるかしかないということか。ホテル代金もその対象になるということだよな」
そしてお金に関わる犯罪はより一層、罪が重くなるという法律も成立させていた。
もちろん反社会勢力にお金を渡すことは重罪となる。
当然ながら輝希に渡した金も対象になってくるのだが、現金で渡していれば警察の足が付きにくいが今回は振り込みだ、銀行を通してお金が渡っていては言い逃れができない証拠になってしまう。
このことが世に出ることがないようにと願うばかりだ。
翌日には早速、税務署から電話が掛かってきた。
どうやら税務署は、銀行系の金融機関に協力を要請し、英三を二億以上の金融資産保有者であると確定したようだ。
英三は住民税などの税率が、一般の三倍となることが決定した。
これに違反をすると、もちろん重罪となる。
「この世界でも選挙に立候補して、今の政権を潰してやろうか! ふざけるな」
また英三の携帯電話が鳴った。
「仙玉さん、ワシはワイルドキャッシングの者だが、あんた舐めとんのか! 借りた金くらい返せや! ワシはあんたが今どこに居るのかくらい知ってるんやぞ。今から取り立てに行こうか?」
「私が直接借りた金じゃない。だから支払う必要はない」
「ほぉ、少しは痛い目を見ないとわからないようだな。今はビックリファイナンスの者と一緒なのだが、お互いお前を探すのに大金を使ってしまったわ! たっぷり手数料を上乗せして払っていただかないと割が合わんわ! 仙玉さんよ、待っていろよな!」
『何故だ、なぜ俺の居場所がわかったのだ?』
うろたえる英三、慌てて輝希に電話を掛けた。
「輝希、約束が違うだろ」
「何のことだよ?」
「俺の居場所、絶対に誰にも言わないと約束しただろう」
「あぁ、したよ、だから誰にも言っていないよ」
「借金取りの二人が俺の居場所を分かっている、今から行くと電話があった」
「借金取り? 誰だよそれ? そんな奴は知らねぇよ」
「本当か?」
「本当だよ。だから誰にも言ってないって。俺は約束を守るよ。だって仁義を重んじるヤクザだから」
「そうか、わかった。輝希、悪かったな」
借金取りに居場所を教えたのは輝希ではなかった。
それであれば誰が教えたのだ……あいつの他に誰が俺の居場所を知っているというのだ? そんな疑問と恐怖が頭を駆け巡った。
その夜は眠ることができなかった、しかし英三の元に借金取りが現れることはなかった。
「何だよ、ハッタリか。輝希が話していなきゃ、俺の居場所などわかる訳がないよな」
安心した英三、今日は第二の癒しの場所である城ヶ崎海岸にある海洋公園にタクシーで向かった。
途中タクシーの運転手が「後ろの車も城ヶ崎の海洋公園ですかね、あそこは景色が綺麗だから大人気ですよ。ほら前の車もきっとそうですよ」そんなことを言っていた。
英三はそんな癒しの景色を見ながら、一人でバーベキューをしながらビールを味わっていた。
「おい、仙玉」
そこで突然、声を掛けられた、それも呼び捨てで……恐る恐る声がした方を振り返ってみた。
「あっ!」
「あっ、じゃねぇよ。手間かけさせるなよ」
「何で、ここが?」
「だから昨日言ったろ、居場所はわかっていると。そのホテルから後を付けて来たよ。ホテルの中じゃ直ぐに警察へ通報されそうだからな」
「あんたが、あのホテルに宿泊していることを、親切に教えてくれる人が居たのよ」
「誰だ? 俺があのホテルに居ることは、ごく僅かの者しか知らないはずだ」
「そのごく僅かの者じゃないのかな。しっかり心当たりがあるじゃないか」
「でも、まさか……その人は信頼できる人だ。そんなことは絶対に無い」
「本当にそう言い切れますか。絶対なんて存在するのかな」
「嘘だ、そんなことは無い」
「人なんて者はね、絶対など存在しないのだよ。じゃあ教えてやるよ、その人の手にさ、百万円を握らせてあげたら、直ぐ教えてくれたよ」
「そんなバカな……あの支配人が裏切ったとは」
「そういうこと。ワシらはあんたを探すのに、高い、高いお駄賃と、移動の交通費、それに宿泊代を使ってんだよ。それとワシらの高い時給、これら全て経費、元金と利息に手数料という名目で上乗せをして、仙玉さんからいただくことになりますわ」
「そんな……私が払う必要などない」
「バカなことを言ってもらっては困ります、借りた金を返すというのは当たり前のことですよね。それを拒否して、そして手間を掛けさせたのだから、上乗せして請求するのは当たり前のことですよね?」
「……」
「あんたには耳じゃなく、身体に聞くしかないようだな、なぁ仙玉さんよ!」
そう言って英三の腹に拳を叩き込んできた。
英三はその痛さと苦しさ、それに息をすることができず立っていられなくなり、その場で両膝を地面に着けた。
「まだ届いていませんか? ワシらの想いが、あなたの脳みそには」
「うぅーー」
借金取りが、うずくまる英三を蹴り上げようとした瞬間。
「わかった!」
その言葉で借金取りの足が止まった。
「そうか、やっとわかってくれましたか。それでは、ここからは穏やかに話し合いをしましょう、仙玉さん」
三人は野外にあるテーブル席に着いた。
そして手数料を含めた返済額の交渉がおこなわれた。
「仙玉さん、これが当社ワイルドキャッシングの借用書、これが旅費交通費の領収書、これはワシの人件費の明細です。そこに手数料を上乗せして、合計で一億三千万になります」
「一億三千万? どんな計算をしたらそんな金額になるのですか?」
「こっちは大金叩いて仙玉さんを探したのだから、このぐらいは仕方がないことでしょう。あの時、素直に返済してくれていたらこんなことには成らずに済んだと思いますが」
「しかし、いくらなんでも高すぎますよ」
「仙玉さん、ここで死にたいですか? ワシは本気ですよ。あんたを殺したあと、通帳とハンコ奪えばいいだけですから」
「……わかりました、お支払いします」
「次はワシの番ですな。ビックリファイナンスの栗林といいます。こちらはワイルドさんよりも少し高くなりますが、一億五千万です。明細はこちらです」
「わかりました、両社にお支払いしますので、もうこれで終わりにしてもらえますか」
「勿論ですとも。振り込みが確認でき次第、仙玉から離れますから安心してください」
英三は翌日、両金融会社に合計で二億八千万円を指定口座に振り込んだ。
「ありがとうございました。お幸せに」と電話があった。
今回の件で、信用を裏切られる結果となった熱海のホテル、英三は今日まで使用したホテル代金の精算をお願いし、明日以降は借りないことを伝えた。
ホテルに残している荷物の処分もお願いした。
「そうですか、それは残念です。ではこれまでの料金ですが、三倍の消費税を含め二千五百八十万になります」
「明日、振り込みます。ありがとうございました」
翌日、その振り込みを終え伊東のホテルに戻った英三、待っていたのは伊東のホテルからの請求書だった。
「私はまだ宿泊を継続しますよ」
「承知しております。ですがこの辺りで一度精算しておかなければ、当ホテルも不安になりますので、大変申し訳ございませんがよろしくお願い致します」
「そうですか、支払いは明日でも宜しいでしょうか?」
「結構でございます」
ホテルからの請求金額は、三倍の消費税を含めた一千二百万円であった。
英三は翌日に支払いを完了した。
この時、英三の預金残高は、二億円にまで減ってしまっていた。
「マズいな……はじめは十億もあったのに。このままの生活をしていたら破産してしまう。安いアパートでも探して地味な生活でもするか」
フェラーリを売却することも含め、節約していくことを考えはじめていた。
しかし英三には諦めることのできない見栄があり、宿泊するホテルのグレードを下げることはしなかった。
英三からしてみれば、そうは言ってもまだ二億あるのだから焦る必要はないと、自分を落ち着かせていた。
二億になってしまった預金は、全額銀行から引き出してホテルの部屋にある金庫に保管することにした。
その頃、英三が来ているこの世界である大事件が起こった。
それは……
大金を手にした輝希が、この世界の飲屋街で豪遊をしているところから始まる。
「おい、あれ輝希じゃねぇか?」
「あぁ間違いない。組が潰れ、うちの佐田沼組とお前のとこの竜成組に媚び売って、最終的には英三を倒すことで共闘した輝希だよ」
「羽振り良さそうじゃねぇか、ちょっと声を掛けてみるか」
「そうだな、俺らを裏切ってなければ良いが」
「おい、輝希」
「あぁーー? 」
輝希は大金を得たことで気が大きくなっていたのだが、そこに呼び捨てで声を掛けられたことに苛立った様子だ。
「誰だ?」と粋がる輝希に対して、「俺だよ」という答えが返ってきた。
その姿を確認した輝希は、一瞬にして酔いが冷めた。
「あっ、兄貴、お疲れさまです」
「ヤケに羽振り良さそうじゃないか、輝希」
「いや、それほどでもないです」
「大金でも入ったのか?」
「違いますよ、少しばかりのみかじめ料が入っただけです」
「お前、俺達に何か隠してないか?」
「……」
「おい、お前のその財布を見せろや、ヤケに分厚いじゃないか」
輝希が持っていた鞄型の財布を、佐田沼組の川本が無理やり奪おうとした。
「やめてくれ! 何をするんだ!」
その横から竜成組の相原が、車椅子に座る輝希の顔を思いっ切り殴った。
輝希は軽い脳しんとうをおこしたのか、手から鞄型の財布が離れた。
直ぐさま川本が財布を開けて中を確認した。
「たんまりと持っているじゃねぇか。こいつを裏路地に連れて行くぞ」
川本と相原は、まだ少し放心状態の輝希を人通りの無い裏路地に連れて行った。
「おい! 七百万は入っているぞ!」
「お前、こんな大金どうしたんだ?」
「だから、みかじめ料だって」
「そんな訳はないだろう。あれ、これは何だ?」
相原が鞄の奥から通帳を見つけた。
中を確認する二人、そして輝希の通帳の残高に衝撃を受ける。
「九千万だ? どうしたんだこんな大金」
「ここに振り込み人の記載があるぞ。おい、仙玉英三だぞ、どういうことだ? お前、俺達を裏切ったのか?」
「すみません、英三の居場所を教えるから勘弁してください」
輝希は遂に英三の居場所を話してしまった。
「おい裏切り者、ヤクザ社会で仲間を裏切るということはどういうことなのかわかっているよな?」
輝希はヤクザ社会でのその重さは重々理解していた。
「通帳と現金は預かる。ハンコはどこだ?」
「ハンコは姉が持っている」
「そうか、取り敢えずは仕方がないか」
「居場所を教えたのだから、通帳と現金は返してくれ!」
「バカなことを言うな!」
川本が輝希の顔面を殴った。
輝希は身の危険を感じ、胸ポケットに手を入れた。
相原がそれに気付き、輝希の腹目掛け蹴りを入れた。
ぐったりした輝希の胸のポケットを川本が確認した。
「こいつ危ない物を持っているじゃねぇかよ」
川本が輝希の額に銃を構えた。
金は全部渡すから助けてくれと命乞いをする輝希、その願いは叶わなかった。
「パン、パン!」
動かなくなった輝希に向かい「裏切り者には丁度いい死に方だ」そう言って車椅子を蹴り、ゴミが山積みされたゴミ捨て場に押し込んだ。
その場を後にした二人が向かった先は、英三が隠れている伊東のホテルだった。
二人は英三が宿泊するホテルのフロントに向かい、このホテルで一番豪華な部屋に宿泊したいとお願いした。
「申し訳ございません、一番豪華な部屋は宿泊されている方がおります。次にグレードの高いお部屋であればご用意することができます」
「一番のお部屋は、いつ空きますか?」
「長期宿泊されているお客様なので、いつと申し上げることはできません」
その一番豪華な部屋に泊まっているのは英三だと確信した二人、二番目に豪華な部屋の位置と、そして一番豪華な部屋の位置を確認した。
二人はこのホテルに宿泊する部屋を決めた。
英三が宿泊する部屋と、川本と相原が宿泊する部屋は同じフロアーにある。
このフロアーにある部屋数は全部で三室、自慢の豪華な部屋が集まるフロアーになっていた。
その夜、このホテルのスタッフに一晩だけ制服を貸して欲しいとお願いをした。
一度は断られたのだが、手に十万を握らせると「一晩だけなら」と最後は承諾してしまった。
夜が明ける前、相原は制服に着替えて英三が宿泊する部屋の呼び鈴を鳴らした。
「おはようございます仙玉様、至急お伝えしたいことがございます」
「どうしたのですか? こんな朝早く、まだ四時ですよ」
まだ頭が起きていない状態でドアを開けた英三。
「バァーーン!」
相原はドアを思いっ切り蹴り、大きく開いた扉から二人は部屋に入った。
「何だお前ら……あっ、川本、相原」
凍りつく英三に二人は、拳を振り続けた。
英三の顔はどんどん腫れ上がり、まぶたと口からは血が流れていた。
「英三! お前のせいで組は弱体化してしまった。そのせいで俺達は生活することも難しくなったんだよ。お前からは、たっぷりと慰謝料いただかないとな」
「わかったから、話し合いをしよう」
「話し合い? お前、輝希にいくら渡した? 奴の通帳を見たが、九千万も入っていたぞ」
「輝希の通帳? 何故そんな物を見たのだ?」
「輝希を捕まえて吐かせた。だからお前の居場所もわかった」
そして輝希から奪った通帳を英三の目の前でチラつかせた。
「輝希、輝希はどうなったのだ?」
「この通帳を必要としない世界に行ったよ」
「お前ら、何てことをするんだ!」
「お前もそうなりたくなければ、俺達に一億ずつ支払え。俺達は本気だぞ」
川本が腰に刺していた拳銃を英三の頭に突き付けた。
「お前は殺したくないんだよ。まだまだ、お前には役目があるからな。早く金を出しな」
英三は下を向いたまま、何も発言しなかった。
ここで命乞いしながら惨めに殺されてしまうか、それとも残りが二億になってしまった金を全部渡すべきか、英三は悩んでいた。
「おい川本、ここに金庫があるぞ」
英三はヤバい、見つかってしまったと、敷いてある絨毯を握り締めていた。
「おい、早く開けろや! こっちは慰謝料の二億さえ貰えば、命は助けるつもりなんだよ」
英三はまだ悩んでいた。
前屈みに座る英三に対し、川本は顔面を蹴り上げた。
「早くしろって言っているのが聞こえないのか」
英三の顔からは更に多くの血が流れた。
「わかった」
這いつくばるようにして金庫まで向かい、金庫のダイヤルを回し扉を開けた。
「あるじゃないか!」
金を数えはじめた相原、川本は英三がおかしな真似をしないかと監視していた。
全ての金を数え終えた相原は、ニヤけた顔で川本の方を見た。
「ちょうど、二億あった」
相原は自分達が宿泊する部屋からスーツケースを持ってきて、その中に金を全部詰め込んだ。
金庫にあった全ての金がスーツケースに納まり、笑顔で川本が呟いた。
「約束した通り、お前の命だけは助けてやる。ただ、俺達がいなくなったあと警察に通報されたり、どこかに逃げ出されたりするのは厄介だから、お前を動けないようにする。おい相原、テープで口を塞げ」
その後、バキッ! 英三の右足のすねが折られた。
バキッ! そして左足も折られた。
「相原、あとは手を縛ってくれ」
手を縛り終わった後、川本は英三の後頭部に蹴りを入れ気絶させた。
最後に輝希の命を奪った拳銃を引き出しに入れ、部屋から立ち去った。
それから二人は自分達の部屋に戻り、着替えをして早朝五時にはホテルをチェックアウトした。
英三が発見されたのは午後一時、朝食や昼食の要請がないことを不振に思い、フロントからの依頼で部屋を訪れた清掃員だった。
「大変です! 仙玉様が大怪我をされています。直ぐに救急車を呼んでください」
救急搬送された英三の意識はあり、診察を受けた後、緊急の手術がおこなわれた。
執刀医は女性、助手には年配の男性が付いた。
「仙玉さん、よろしくお願いします」
英三は女医の顔を見た瞬間……
「あっ! あなたは」
「覚えていらっしゃいますか。あの時、あなたの誤診により夫を亡くした妻です。あなたのことを手術したくて、この方にお願いして医師免許を手に入れることができました」
「お久しぶりです、仙玉英三さん」
「応桂義塾大学の学長」
「この人に頼めば知識がなくても、医師の免許が手に入りますから凄い世の中ですよね。今日は私が手探りで、骨をつなぐ手術をしてみますね。今日が初めての手術になりますので、多少のことは大目に見てください。では学長、早速はじめましょう」
「私が見ていますので、思いっ切りやって大丈夫ですよ」
「はい、色々試してみますね。それではメスを入れてみます」
「うわぁぁ!」
「ごめんなさい、もしかして痛かった?」
「先生、麻酔を忘れていますよ」
「そうですね学長、麻酔をするの忘れていました」
手術は四時間にも及んだのだが、骨折していた足は折れたままで、とても酷い仕上がりだった。
「明日また手術してみましょうね。一体いつまで仙玉さんの身体が持つのか、楽しみですわ」
病室に移動した英三の身体は、ベッドに固定され身動きが取れない状態だった。
そして顔や足からは血が流れたままの状態、止血処理などは全くされていなかった。
「痛いよ、痛くて痛くて仕方がない。このままでは死んじゃうよ。あんな奴らに手術なんかさせちゃダメだよ。金を積んで医師免許を貰った偽物の医者なのだから。頼む、誰か助けてくれ」
その時、英三の苦しむ姿に反応する者がいた。
富士サファリパークにいるビッグボスだ。
英三の身体から流れ出す血の匂いに反応したのだ。
「英三、俺がとどめを刺してやる」
ビッグボスは未だ、英三に対して強い怒りを抱いていた。
一方警察は、英三がホテルで受けた傷害事件と輝希が殺害された殺人事件、この二つの事件の同時解決に向け捜査を進めていた。
何故なら、この二つの事件は、強い関連性があると睨んでいたのだ。
暴力団と金、その匂いがプンプンと漂っていたからだ。
暴力団である輝希の捜査をする中、輝希が殺される一週間前辺りから、羽振り良く飲み歩く姿が目撃されていた。
輝希がどこから金を手に入れたのか捜査する警察は、あるクラブの女から有力な情報を手に入れた。
捜査はそこから急展開を見せはじめる。
輝希はそのクラブの女に「ここだけの話だが、近々、俺の口座には大金が転がり込む。俺はな、その手付けとして貰った一千万で遊んでいるんだよ。お前が俺の女になれば、店の一軒ぐらい直ぐに出してやるよ」来店の度に、そう話しをしていたという。
輝希が生前、唯一持っていた可能性のある銀行口座を調べた警察は、結婚していたごく僅かな時期に作っていた銀行口座の存在を突き止めた。
「調べてみよう」
案の定、怪しい金の流れがあった。
それが英三から送金された九千万円だった。
クラブの女から聞いた手付けの一千万と足して合計で一億となる。
英三は反社会勢力に多額の送金したという重い罪で、英三の逮捕が可能となった。
しかし病院で動けなくなっている英三を逮捕することはいつでもできると考えていた警察は、輝希の殺人事件を最優先することにして、この事件と英三をもっと太いロープのような線で紐づけていきたかった。
誰が輝希を殺したのか、それを確定させたかったのだ。
勿論この事件に関しても容疑者の筆頭は英三なのだろう。
輝希に渡した金を取り戻すために、英三が殺したというのが有力な説だ。
それが単独でおこなわれた犯行なのか、それとも協力者がいた複数での犯行なのか、それとは全く違う誰かに殺害を依頼した依頼殺人なのか、この時点ではどれ一つとして分かってはいなかった……
最終的に一番警察を悩ませたのは、英三と輝希、この二人の接点が全く見つからないことだった。
一つの説として、英三が宝くじで十億円当選したことを風のうわさで聞いた輝希が狙ったとしか考えられなかった。
それもそのはず、この世界での接点など無いのだから。
当たり前のことだが、違う世界で起きた出来事など、この世界の警察が知る由もない。
警察はホテルを再捜査、英三が泊まっていたホテルの部屋から拳銃が見つかった。
鑑定の結果、輝希の体内から見つかった弾丸の施条痕と、英三が泊まるホテルの部屋から見つかった拳銃の型が完全に一致した。
しかし警察は、英三の単独犯ではなく、共犯者が存在するという線も捨て切れずにいた。
病院のベッドで動けなくなっている英三を今すぐ逮捕するよりも、共犯者の特定が先だと考えた警察、またもや英三の逮捕を遅らせてしまうことになった。
しかし、これが吉と出るか凶と出るかは、警察にも全くわからないことだった。
その頃、静岡県内で起こった事件が速報としてニュースで流れていた。
それは富士サファリパークのライオン一頭が、管理する園内から脱走したというとんでもないニュースだった。
英三は痛む身体をベッドに固定された状態で、この事件を知ることになった。
「間違いない、脱走したのはビッグボスだ。そして、俺を殺しに来る気なんだ」
英三は、この身動きができない状態で襲われたら、どうなってしまうのだろうと恐れ慄いた。
この病院の医師もそうだが、英三の命を狙っている者は多い。
それだけ色々な世界で恨みを買ってきたということなのだ。
全ての世界で問題を解決することなく帰って来ていたのだから仕方のないことだろう。
「誤診により、私の夫を死に追いやった仙玉英三さん。今日は、昨日に引き続き二回目の手術です。今の状態よりも身体が楽になると良いですね」
「家族ぐるみで散々、私の権力を利用したあげくに、事件後は雲隠れしてしまった仙玉英三さん。私も手術をお手伝いしますので、今日も頑張りましょう」
「嬉しい、今日も学長の手伝いがあれば安心ですわ。だって私の医師免許、学長の力だけで取得したものですから。医者としては全くの素人で、よく分からないことばかりなので、学長、今日もよろしくお願いします」
「仙玉さんの身体を使って、一緒に勉強しましょう」
「はい。それでは仙玉さん、手術室に参りましょう」
「嫌だ! 絶対に行きたくない!」
「あらあら、そんな我がまま言わないでください。まるで子供みたいですよ」
嫌がる英三を二人は、笑いながら手術室へ移動させた。
それから十分後には、痛がる英三の叫び声と、あの二人の笑い声だけが病院内に響き渡っていた。
手術の時間は二時間、学長は英三の体力が限界に達したと判断し、実地での手術勉強会は終了した。
しかし両足の骨はまだくっついていない、未だ骨折したままの状態での終了だった。
警察はホテル従業員への聞き込みと、防犯カメラのチェックをおこなっていた。
事件の前日ヤクザ風の男二人が、英三と同じ階の高級部屋に宿泊していたとホテルの従業員から聞いていた。
防犯カメラのチェックでも、その男二人は確認できたのだが、顔、名前、指紋、どれ一つ称号させることができず人物の特定には至っていなかった。
警察はホテルで記入されていた氏名と、防犯カメラの映像をテレビで公開する指名手配の公開捜査をおこなったのだが、有力な情報は何一つ上がって来なかった。
そして事件後の目撃情報も全くなかった。
そう二人のヤクザは英三から十分な金を巻き上げたことで、この世界での目的を達成していた。
だからこの世界に留まる理由がなくなったのだ。
それに、このままこの世界に留まれば逮捕されるリスクも大きくなることから、早々に自分達が住んでいた元の世界に帰って行ったのだ。
それでは警察も捜査のしようがない、完全にお手上げの状態になっていた。
これで英三に対する暴力事件は、永遠に未解決事件として残っていくことになるだろう。
富士サファリパークから脱走したライオンは、ライオンの専門家をはじめ大量の警察官を動員して昼夜問わず続けられてはいたが、何の手掛かりもないまま二日が過ぎた。
英三はビッグボスに怯え、病院の医師にも怯え、どちらからも、いつ殺されてもおかしくはない日々をベッドの上で過ごしていた。
自由は完全に奪われ、震えながら過ごす日々が入院から五日も続いていた。
警察はライオンの捜索に人員を捕られてしまい、英三の事件捜査は最低限の人数でおこなわれていた。
捜査に限界を感じはじめてきていた県警本部は、暴対法違反と輝希の殺人容疑で英三の逮捕状を申請した。
「俺は死んでしまうのだろうか」
野生で生活していた時の感が蘇ったのだろうか、英三は自身の死を感じはじめていた。
それと同時に、徐々に近づいてくるビッグボスの存在も肌で感じていたのだった。
その夜、英三が入院する病院を当直する者は誰もいなかった。
それなのに夜明け前、無人である病院内を何者かが歩くような足音が響いていた。
それは明らかに人間の足音ではなかった。
それが誰なのか、英三は気づいていた。
病院のベッドの上で括りつけられながら、あの足音はビッグボスが病室に向かって歩いている足音だと。
その足音はどんどん近づいて来る、英三の血の匂いを頼りに。
その足音が英三の病室の前で止まった。
「来る!」
「ドーーン! ドン!」
ビッグボスが病室のドアに体当たりをしている。
徐々にその音は鈍い音へと変わり、最後は鍵が壊れるバキッという音がした。
身動き一つできない英三と、疲れ果てた身体のビッグボスが病室で対峙した。
「英三、やっと会えたな」
「やっぱりお前だったか、ビッグボス」
「サバンナの掟、お前には死んでもらう」
「待て! 見てみろ、俺はお前とは違う、今は人間なんだぞ。この世界は、お前が住む世界ではないのだぞ」
「俺はお前を恨んでいる。俺の使命はただ一つ、英三、お前を殺すことだ」
ビッグボスはベッドに跳び乗り、鋭い目で縛られている英三を睨んだ。
そして英三の首元に噛みつき、息ができないようにした。
英三は遠のいていく意識の中、ある音が聞こえてきた。
それは病院を歩く数人の足音だった。
『早く助けてくれ、このままでは死んでしまうよ』
呼吸を止められ苦しそうにする英三、ビッグボスはとどめを刺すかのように更に強く締め上げてきた。
やがて英三の心臓は動くことを止めてしまった。
数人の足音は英三の病室の前で止まり、壊れた扉を勢いよく開けた。
「仙玉英三、逮捕状だ。えっ!」
足音の正体は五人の刑事だったが、刑事は目の前には驚くような光景があった。
英三の首に噛みつくライオンが居たからだ。
英三の心臓が二度と動くことがないと確信したビッグボスは、英三の首から口を離し刑事に視線を向けた。
「銃を構えろ!」
ビッグボスはベッドから降り、刑事に緊張が走った。
しかし、ビッグボスの顔は刑事を威嚇するような顔ではなく、穏やかに微笑むような顔に見えた。
その顔を見て刑事は、銃を握る力が抜けていった。
それから二秒後、ビッグボスは見えない階段を上がるかのように、ゆっくりと上に向かい、そして刑事の目の前から完全に消えてしまった。
「おい、ライオンが消えたぞ、何処へ行ったのだ?」
「何処にも居ません」
「そんなバカな、ライオンは仙玉英三の首に噛み付いていたぞ」
英三に駆け寄る刑事、喉元に残るライオンの歯型を確認、幻でなかったことは証明できそうだったが、ライオンの姿は突如として消えてしまった。
「大変だ! 仙玉が息をしていない、早く医者を連れてこい」
刑事達は病院中走り回り病院スタッフを探すが、スタッフは誰一人として居なかった。
刑事は病院から消防署に電話を掛け救急車の手配をし、別の病院へと搬送してもらった。
そして搬送先の病院で英三の死亡が確認された。
その後警察は、英三が入院していた病院の医師と連絡を取るが、病院関係者とは連絡を取ることはできなかった。
警察は英三が手にした宝くじの当せん金である十億の使い道を調べる中で、不審な金の流れをいくつか掴んでいた。
英三が大怪我を負った事件で、推定二億の金が取られていることもわかった。
これも未解決事件として未だ捜査中、その他にサラ金二社から返済を迫られていたようで、ここでは約三億の金が渡ったものと思われる。
この事件でも容疑者が見つかることは絶対にない、未解決事件として残っていくことになった。
英三が関わったと思われる輝希の殺人事件は、反社会的勢力に金を渡した事件と、それを取り返そうと殺害した殺人事件として被疑者死亡で書類送検した。
英三の元妻は離婚後も、英三を対象とした生命保険を掛け続けていて、元の世界で多額の保険金を受け取ったようだ。
英三の最後となってしまったチャンネル七の旅は、一度は十億という大金を手に入れる幸せな生活を味わったが、他チャンネルからの恨みが一斉に集まるチャンネルでもあった。
あのタイトルが示していたように、英三の死はチャンネル七に飛び込んだ瞬間から決まっていたのかも知れない。
英三がトランクルームの中に置き去りにした、あの昭和のテレビは一体どうなってしまうのだろうか。
十.テレビの行方
チャンネル七の世界で死んでしまった英三だが、自身が元々生活していた世界は一体どうなってしまったのだろうか?
英三が暮らしていた実家を覗いてみた。
「英子、早く英美を起こしてきて。今日は大掃除の日だからね」
「英美、早く起きなさい。ママが激怒しているわよ。今日は大掃除よ」
「わかった、起きるよ」
「パパも今日ぐらいは手伝ってね。いつも会社、会社と言って、家の事は何にも手伝ってくれないのだから」
「はい、はい」
この日は年末の大掃除のようだ。
家中を覗き見てみるが、英三の存在を示す物は何処にもない。
もしかしたら、他の世界で死んだことで現実の世界にも連動してしまったのだろうか?
この世界の英三も、もしかしたら何らかの原因で死んでしまったのだろうか……
「うちの男手はパパしかいないのだから、押入れの片付けや倉庫の片付け、しっかりお願いしますよ」
えっ! 仙玉家には父親以外に男性は住んでいないだと?
どうやら仙玉家の子供は、英子と英美の姉妹しか居ないらしい。
あの昭和のテレビが作り出したチャンネルの世界で死ぬということは、現実世界での痕跡は全て消えてしまうことなのだろうか?
この世には、英三などという人物は元々、存在すらしていなかった、ということになってしまったのか?
仙玉英三という人間は、現実の世界からは完全に消えてしまったようだ。
英三には同情してしまう……本当に気の毒だ。
押し入れを片付けるという使命を受けていたパパは、普段では手が回らないような押し入れの、奥の奥の方まで片付けようと頑張っていた。
「あれ? ママ、奥の方に爺さんが使っていた古いテレビを見つけたのだけど、これどうする?」
「捨てるにもお金が掛かるしね。しかし大きなテレビだね。凄くしっかりとした創りだけど、骨董品屋にでも売れないのかな?」
「どうだろう……英子に調べてもらおう。あいつ、そういうの詳しいと思うから」
長女の英子はネットで検索をはじめたが、十分後には驚いた顔で両親の部屋にやって来た。
「ママ凄いよ! 今は何だかレトロブームらしく、昭和四十年代のテレビは高い値で取り引きされているみたい。このテレビさぁ、画像に出ているこのテレビに似てない? このテレビ、高値で取り引きされているよ」
「本当だ、そっくりじゃないか。骨董品屋を呼んで見てもらおう」
英子は骨董品屋とやり取りをおこない、本日中に訪問してくれることになった。
「ちょっと、テレビが映るかやってみるか?」
パパはテレビのコンセントを刺し、電源のスイッチを引っ張ってみた。
「おう、映ったじゃいか。砂嵐だけだけどな。こんなのが本当に売れるのか?」
夕方、訪問してきた骨董品屋は「これは保存状態がとても良い」と言って、思っていたよりも高値で買い取ってくれた。
仙玉家にとっては予想外の収入となり、正月の料理は少しだけリッチになりそうだ。
買い取った骨董品屋は、英三があの昭和のテレビを買ったあの骨董品屋だった。
結局、あの昭和のテレビは、元の場所に戻ったことになる。
テレビを持ち帰った骨董品屋は、丁寧に掃除と手入れをしてから、早速、店頭に並べた。
「あっ、このテレビ懐かしい。改めて見てみるとこのテレビ、古さの中にもお洒落感があるよね。家のインテリアにも丁度良いかも。すみません、これ購入したいのですが、自宅まで配達とかしてくれますか?」
あの昭和のテレビは、購入した者をまた不思議の世界へと誘うことになるのだろうか?
完
著者:通勤時間作家 Z
これまでの作品
『昨日の夢』
『前世の旅』
『哀眼の空』
『もったいぶる青春』
『私が結婚させます!』
『死の予感』
『相棒は幽霊』
『鏡にひそむ謎』