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チャンネルを回せば  作者: Z(ゼット)
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チャンネルを回せば

チャンネルを回せば




〈前書き〉


人が生きる人生にも、テレビみたいに選べるチャンネルがあったとしたら、皆さんはどんな世界のチャンネルを選ぶのだろうか。

生まれてくる国や地域、それに家柄、それらをチャンネルを変えるかのように選ぶことができたとしたら、自分は果たして、どのような人生を選び歩んで行くのだろうか。

ある日、骨董品屋で見つけた昭和四十五年製のテレビと出会った主人公は、古さの中にも趣きがあり、最後は懐かしさが後押しをするような形となり、このテレビを購入してしまう。

この主人公はテレビを購入したことがきっかけで、様々な人生の体験をすることになる。

チャンネルを回せば、是非読んでください。






【もくじ】


はじめに

一.あるテレビとの出合い

二.テレビの秘密

三.チャンネル一の世界

四.チャンネル二の世界

五.チャンネル三の世界

六.チャンネル四の世界

七.チャンネル五の世界

ハ.チャンネル六の世界

九.チャンネル七の世界

十.テレビの行方









一·あるテレビとの出会い


「今日は良い天気だ」

この小説の主人公となる仙玉せんぎょく 英三えいぞうは、福井県の田舎町に生まれ、近くの高校を卒業した後は地元にある技術系の企業に就職していた。

県外に転勤することもなく、ずっと実家に住み続けていた。

毎日の行動範囲と言えば、家と会社の往復をするだけであった。

田舎の山間に生まれた英三は、三百六十度、見渡す限り大自然に囲まれた田舎の家に産まれ、小学校は一学年に一クラスしかないという少人数の学校で学んできた。

小学生の時の英三は無邪気で、ウルトラマンや仮面ライダーといったヒーローものが大好きな、普通の男の子であった。

田舎の小学校を卒業した後は、自宅から八キロ離れた中学校に電車で通うことになった。

中学での生活は、今までの生活とは百八十度ガラリと変わり、町に一つしかなかった中学校は、一学年に十クラスもあるマンモス校に変わった。

中学の英三はイジメにあうことはなかったが、学業やスポーツの面では特段目立ったところもなく、少し悪ぶっている先輩や同級生に憧れを抱くような学生生活を送った。

中校を卒業してからは、高校受験でなんとか滑り込みセーフできた県立高校に通い、お金の面で親に迷惑をかけるようなことはなかった。

地方では私立の高校に進むよりも、県立高校に入る方が重視されているところがある。

高校に入ってからの英三は、これ以上の進学は考えておらず、留年することがない程度に勉強して、残りの時間は遊ぶことに集中した。

その頃は暴走族に入っている悪い連中に憧れたりはしたが、暴走族やマンガに出て来るような悪になる度胸は全くなく、普通の高校生活を送っただけだった。

英三の周りには青春時代を悪に徹して、そのまま真っ直ぐヤクザの道へ進む者もいたが、それはそれでしっかりとした信念を持っていると感心させられるものだ。

そんな田舎の暮らしであっても、女子からモテ捲る男子生徒はいた。

そいつの見た目は顔はアイドルかと思うくらい格好良くて、身長は高く、頭も良い、そして運動神経は抜群でサッカー部のキャプテン、それに生徒会長まで担っていた。

それが女子からモテない訳はない。

あんな風に生まれていれば何の努力をしなくても、ワーー、キャーー、言われるハーレム状態で居られたのにと、自分の見た目を恨んだこともあった。

そんな時、テレビで放映されていたのが『野生の王国』という番組、今週のテーマはライオンだった。

そこに映し出されていた映像から知ったのだが、ライオンは一夫多妻制で群れを作り、オスのライオンはハーレム状態であった。

この番組が英三の記憶に残したものは、残念なのだが、ライオンはハーレム状態であるということだけだった。

ある意味、テレビからもダメ出しをされたような感じがした。

英三が過ごした高校の三年間で得たものは特になく、何の意味も持たない実に中途半端な学生生活を送ってしまった。

そんな英三にも小さな夢と野望はあった。

それはデザイナーになりたいという夢だった。

こんな田舎の、それも決して裕福だとはいえない家柄に生まれた者の、小さな野望ではあったのだが、それすら呆気なく断念してしまった。

その理由は実に単純なもので、単に勉強することが大嫌いだから、高校より先の進学は考えられなかったのだ。

もしも世間体など考えなくても良いのであれば、高校すらも行きたくなかった程だ。

デザイナーになり、東京や大阪のような都会で自分の腕を試してやろうという訳でもなく、英三はただのほほんと暮らしてきただけだった。

自分の家がこんな田舎ではなく、東京のような大都会で、それも代々医者の家系という、とても裕福な家柄でさえ生まれいれば、順風満帆な人生を送っていたのだろうと楽なことばかり考えて生きてきた。

そればかりか宝くじに当たりさえすれば、人生を大きく変えることが出来ると考え、自力ではなく他力本願で伸し上がることしか頭にはなかった。

そんな英三も今年で四十歳になる、これといった趣味もなく、只々この田舎の地で年を重ねてきた。

だから勿論、独身である。

こんな英三の考えを良しとする女性など、中々いないだろう。

誰から見ても魅力など、全くない男だった。

来月誕生日を迎える英三だが、四十歳を一つの節目と考え、何か自分へのプレゼントを買おうと思っていた。

しかし、いざ自分へのプレゼントとなると、これはこれで難しいものだ。

果たして何が良いのだろうか、特にこれといって欲しい物もなく、そんなにお金を使いたい訳でもなかった。

英三は自身へのプレゼントのことで、二週間近くも悩んでしまった。

貯金がある訳でもないから、自動車や新品の高級時計などは選択肢にはない。

決して新品でなくても良いのだとの思いから、質流れ品や骨董品を扱う、老舗の骨董品屋を覗いてみることにした。

そこには高級時計や金、プラチナに宝石、それと高そうな骨董品の数々が、ところ狭しと並べられていた。

「いらっしゃい。今日は私共が買い取れるような品物をお持ちでしょうか?」

「いいえ、売るような物はありません。私はこの店で、何か掘り出し物はないかと思い寄ってみただけです」

「そうですか、ゆっくり見ていってください」

店から出て話してをしてきたのは、おそらく店主なのだろう、年はハ十歳ぐらいのお爺ちゃんだった。

英三に声を掛けた後は、店内のレジ付近に置いてある椅子に腰かけ、ニコニコした顔で英三を見ていた。

品数が豊富にある店内は、とても見応えがある。

きらびやかな宝石類や高級時計が並ぶコーナーは充実しているのだが、英三にはとても手が出せるような値段ではない。

店の奥の方に目を向けると、多くの骨董品が並べてあった。

素人目で見ても、高価な品だとわかるような壺や掛け軸がたくさん展示してある。

『場違いなとこに来てしまったかな……』と思っていた頃、『おや? あれは何だ?』そこには古いテレビが置いてあった。

そのテレビは懐かしさに加え、ドシッと構えた存在感のある風格、英三の目はそのテレビに釘付けとなった。

テレビの魅力にすっかり惹き込まれてしまった英三、食い入るように覗き込んだ先には昭和四十五年製というプレートが付いていた。

英三は昭和五十七年の生まれで、このテレビが現役で活躍していたのは知らないものの、幼い頃おじいちゃんの部屋で同じようなテレビが置いてあったのを記憶していた。

英三は大のお爺ちゃん子で、いつもくっついて離れなかったものだ。

そんな大好きだったお爺ちゃんは、英三が七歳の時に亡くなってしまった。

そのお爺ちゃんの部屋にあったテレビの画面には、いつも厚めの布が被せられていた。

お爺ちゃんが言っていた「これはテレビなのだが、もう映らなくなってしまった。だけど、もったいなくて捨てられないんだよ。また映るような気がしてならんから」ということを。

そんなお爺ちゃんが大切にしていたテレビだったが、お爺ちゃんが亡くなった後、英三の父があっさりと処分してしまった。

だからこのテレビを見た英三は、久しぶりにお爺ちゃんに会ったような、そんな懐かしさを感じていた。

「お客様、そのテレビが気になるのですか?」

質屋の店主が声を掛けてきた。

「懐かしくなってつい見入ってしまいました」

「そうですか。でも見えないねぇ、あんた若く見えるよ。とても五十代には見えないよ」

「違いますよ、私は三十九歳です。冗談にも程がありますよ」

「やっぱりそうだよな! いくらなんでも、こんなに若い五十代はいないわな」

「ところで、このテレビも売り物ですか?」

「そうですよ。このテレビも販売しています」

「これ映るのですか?」

「映るとも! しかし砂嵐だがな。今はこいつと繋がる電波が飛んでいないから、砂嵐だけしか映らないよ。調子が良ければウルトラマンでも映るかも知れんがのう」

「そうですよね、映らないですよね。じゃあ、何でこのテレビを売っているのですか?」

「このテレビを見て懐かしく感じる人がいるからですよ。それは私も含めてですがね。砂嵐しか映らないテレビだとしても、それはそれで良いのかなと思ってしまうのです。このテレビには人を惹きつける魔法でもかけてあるのでしょうかね」

「人を惹きつける魔法ですか……私もその魔法にかかってしまったのかも知れません。祖父と過ごした日々の記憶が一瞬で蘇ったのですから」

「それは良かった、このテレビを飾って置いて良かったよ」

「このテレビは、一体いくらで売っているのですか?」

「なに! このテレビが欲しくなったのかい?」

「はい! 欲しくなりました。ただ値段しだいのとこもありますが……あまりにも高いと私には手が出ません」

「そうか欲しくなったか、このテレビが。値段はテレビの後ろに付いているから見てみなさい」

英三はテレビの裏に回り、括り付けてあった値札を見た。

「一万円ですか?」

「そうだ、高いか?」

「思っていたよりも安い。それにこの気品高い造りは骨董品としても価値があると思う。このテレビ買います」

「そうかそうか、買ってくれますか」

「はい」

「これはかなりの重量がありますので、持ち帰るのは難しいと思いますが、配達をご希望でしょうか? 配達料は別途八千円かかりますが、いかがいたしましょう?」

「配達をお願いします」

悩みに悩んだ自分への誕生日プレゼントは、英三の直感で、この昭和四十五年製のテレビに決まった。

映像を観ることも出来ないテレビではあるが、骨董品としての価値を考えた英三は、是非とも欲しい一品であったということだ。

このテレビは来週の日曜日の午前中に配達されることが決まった。

それまでは、ワクワクした気持ちで一週間を送ることになるのだろう。










二·テレビの秘密


「オーライ、オーライ、ストップ」

英三が心待ちにしていた日曜日、午前十時にトラックがやって来た。

英三が骨董品屋で購入した、あの昭和のテレビが自宅に届けられたのだ。

英三の部屋は二階になるのだが、急な階段を登らなければならない。

テレビを運ぶ業者としては難しい技術が必要となる。

しかしテレビを運搬してきた作業員は重たい物を運ぶことに慣れているのだろうか、意図も簡単に部屋の中まで運び入れてくれた。

英三はこの日のためにテレビを置くスペースを作り、そして念入りに部屋を掃除していた。

そして部屋に納まったテレビを眺めて一言「やっぱりこのテレビは素敵だ」とウットリしていた。

テレビの画面に掛けるために買って置いた、少し厚手でカラフルな色を使った布を上から掛け、天板には布が落ちないよう重し代わりにタヌキの置き物を置いた。

これで準備万端だ。

今掛けた布を画面部分だけ捲り、棒状になっている電源のスイッチを引っ張ってみた……

しかしテレビは映らない。

「何故だ! なぜ映らないのだ」

それもそのはず、英三はコンセントを刺していなかったからだ。

英三はそれに気づかないまま、テレビの前で難しい顔をして悩み、三分後には笑っていた。

「コンセントを刺していないからじゃん」

安堵の表情を浮かべる英三、次はテレビが映ると期待しながら棒状のスイッチを引っ張った。

「あはっ、映った!」

喜びに溢れる英三だったが、その後テレビの画面に映し出された映像を観て、驚きを隠すことができなかった。

スイッチを入れてからニ秒後に映った映像は砂嵐ではなく、ウルトラマンの始まりをイメージするような、タイトルが書いてある画面だった。

ダイヤル式のチャンネルが指す方向は一の位置であった。

英三は二チャンネル、三チャンネルと、どんどんチャンネルを回してみる。

タイトルはチャンネル毎に内容が変わっていたのだ。

「あの骨董品屋の親父、このテレビに何かをインプットしやがったな!」

英三からしてみれば不信感のなにものでもない。

英三は只々シンプルに、昭和に活躍した古いテレビを満喫したかっただけなのだから。

「あの店に文句の電話をかけてやる」

英三は既に冷静さを失っていた。

「もしもし、一週間前にテレビを購入した仙玉ですが、今日テレビが届いて電源を入れたのですが、映った映像は砂嵐ではなく、何かタイトルのようなものが出るのですが、このテレビに何か仕掛けでもしましたか?」

「いやーー、そんなはずは無いのですが……電波も合わないはずなので砂嵐以外は出るはずが無いのですが。ちなみに私共の店で何か仕掛けをしたということは御座いません」

「現にどのチャンネルに合わせても、不思議なタイトルが現れるのです。それもチャンネル毎にタイトルが変わっている。何かプログラミングされているとしか思えないのですが」

「申し訳ございません、私共には判り兼ねます……ご返品されますか?」

「いや、そこまでは言っていません」

「もしかしたら、お宅の家に移ったことで、何かしら波長の合う電波を取り入れたのかもしれませんね」

「波長が合う電波を取り入れた? この家で……そんなことってあるのですか?」

「さぁ……私にもハッキリとは判りませんが、そのようなことはあるのかもしれません。なんせ古いテレビですから。少し様子を見ていただけますでしょうか」

「わかりました。あなたが仕組んだのでなければ、少し様子を見てみましょう。ありがとうございました」

冷静さを取り戻した英三は、電話を切った後、もう一度チャンネルを回し、一の方向に合わせてみた。

やはり画面には先ほどと同じ様に、ウルトラマンに出てくるようなタイトルが現れた。

そのタイトルには、こんな事が書いてあった。

『モテモテ! あこがれのアイドルとして闘ってみろ!』

「へぇーーどんな内容の話なんだろう。出来ることなら俺もそんな人生を歩んでみたかったものだな」

英三は人生で経験することがなかった、モテモテのアイドルというタイトルに心惹かれていた。

「どんな物語なのか観てやるか」

英三はチャンネルを一の位置に合わせたまま、物語が始まるのを待った。

しかし、いくら待ってもタイトル画面から進まず、やがて画面は砂嵐に変わっていった。

「何だよそれ! 期待させるだけさせて、こんな終わり方かよ。それなら最初から砂嵐で良かったわ」

英三は半ギレ状態となり、テレビのスイッチを切りコンビニへと出掛けて行った。

コンビニで購入した物は、缶ビールとレモン酎ハイ、それに鳥のから揚げ、ムシャクシャした気持ちをお酒で紛らわそうとしたのだろうか、英三は家に戻り、自分の部屋で昼間からお酒を飲みはじめた。

しばらくは腹を立てままで「昭和のテレビなんか絶対につけるもんか!」と意地を張っていたのだが、お酒は進み缶ビールと缶酎ハイの空き缶がテーブルの上に四本並んだ頃から、英三は気分が良くなっていた。

それは自宅で飲み始めてから約一時間半が過ぎた頃だったが、英三はあの昭和のテレビに目を向けはじめていた。

「もう一回だけテレビをつけてやろうか」

そして昭和のテレビのスイッチを引っ張り、電源が入ると再びテレビが映った。

テレビが映し出した画面は、英三が期待する砂嵐ではなく、また何やら大きなタイトルだった。

『お前に覚悟はあるか!』

「何だこれ?」

覚悟とは何の事だろう? 英三はお酒がまわり、頭がボーーッとした状態で、全く判断がつかなかった。

だから訳がわからないままテレビに向かい「覚悟はあります!」と答えていた。

このテレビはアンテナを接続していない、それにデジタル対応もしていない、当然ながらアナログ周波の電波など届くはずがないのだ。

だから誰が普通に考えても砂嵐しか映るはずがないのだ。

それなのに画面にはタイトル文字が映像として映っている、これは一体何故なのだろうか……英三はお酒に酔っているせいで、その何故すら判断が出来ない状態になっていた。

テレビのタイトルに向かい「覚悟はあります」と答えたものの、その後はどうなってしまうのだろうか。

昭和のテレビはその答えを待っていたかのように、次のタイトル文字が画面に現れてきた。

そのタイトルにはこう書かれていた……

『モテモテ! あこがれのアイドルとして闘え!』

このタイトルはお酒を飲む前に見たタイトルと同じものであった。

「おう、やってやろうじゃないの! モテモテの人生を味わってやるよ。俺の人生には無かったことだから」

その言葉は余分で、とても情けない言葉だから吐かない方が良かったのだが、まあ本当のことだから仕方がないだろう……これまでの人生で、女性からモテたことなど一度も無いのだから。

エイ、エイ、オー! ではないが、英三はウルトラマンが変身をして現れる、あのポーズと同じポーズをとり、テレビ画面の前に拳を突き出していた。

すると英三は、渦を巻きながらテレビの中へと吸い込まれてしまった。

英三は一体どうなってしまうのだろうか。

果たしてテレビの中から戻って来ることが出来るのだろうか。

闘え! 英三! で良いのかな?








ニ.チャンネル一の世界


良い感じにお酒に酔った状態でテレビの中に吸い込まれた英三だが、着いた先はでは今まで生活していた世界と同じような景色が広がっていた。

その風景があまりにも普通過ぎて、少し酒を飲み過ぎただけじゃないかと勘違いをしてしまう程であった。

「何だよここはよ……何がモテモテなんだ。女性がとかじゃなく、見渡す限り人っ子一人いないじゃないか。これじゃアイドルに成りようもないな。子供騙しの遊園地よりも悪い場所だよ」

しかし暫らくすると景色は変化して、英三の居る場所は賑やかな高校のキャンパスへと変わっていった。

やがて目の前には沢山の人が現れ、男性よりも女性の割合が多い学校だということが分かってきた。

「キャーー、英三くんよ!」

「えっ! おれ?」

「キャーー、私、英三くんと目が合っちゃった」

「英三先輩、カッコいい」

「これヤバくないか。俺モテモテじゃん。ここでは何が起こっているのだ?」

英三がこれまで過ごしてきた人生の中で、このような経験を一度も経験したことがない。

だから目の前で起こっていることが信じられなかった。

そして一体どう対応したら良いのか分からず、只々うろたえているだけだった。

「これって本当に現実なの? 俺の姿は高校生のようだ……それに身長はどうだろう、元の自分と比べて明らかに十センチは高くなっている気がする。そうだ顔、顔はどうなっているのだろうか?」

「キャーー、英三くんが移動するよ、何処に行くのだろう」

英三はとても恥ずかしくて、その場から逃げたいという気持ちもあったが、それよりも自分の顔がどうなっているのかということが一番気になっていた。

英三の周りを取り囲んでいた大勢の女子から逃げる様に、トイレに駆け込んだ英三、そして向かった先はトイレに備え付けられている鏡の前だった。

映った顔に思わずウットリ、抜群に良い男だった。

「これが今の顔なのか……俺は今、こんな顔なのか。これじゃあワーー、キャーー言われるのも納得ができる」

英三の本当の顔は、一重まぶたで目は細い、しかし今は、ハッキリとした二重まぶたに大きな目をしていた。

キラキラとした奇麗な黒目に、スッと筋が通った高い鼻、それにシュッとした顎に艶のある奇麗な肌、おまけにカッコ良い髪型と、身長は百八十センチ以上はある。

今まで見てきたアイドルや俳優と比べても、今の自分であれば完全勝利できるのじゃないかと思った。

「これじゃあ周りが騒ぐのも仕方がない訳だよ。俺はこの顔とスタイルを手に入れたのだ。スゲーー!」

自身の姿を確認することができた英三は、先程とは違い堂々とした姿でトイレから出て行った。

追っかけ女子も、流石にトイレの前で出待ちしている女子は一人もいなかった。

トイレから出て廊下を歩く英三に、一つの不安が頭をよぎった。

「ここは学校だよな。じゃあ俺の教室は何処なんだろう? この不思議な世界に来る前まではお酒を飲んでいたが、そんな俺が高校生になっても大丈夫なのだろうか。それに俺、はっきり言って頭良くないし、それに勉強は大嫌いなんなだけど……その辺のことはどうなっているのだろう?」

そんな事を不安に思いながら廊下を歩いていると、後ろから数人の男子生徒が英三に声をかけてきた。

「英三、何処に行っていたんだよ! また女子どもに囲まれていたのか? 流石にアイドルはモテモテだな」

『やっぱり俺、アイドルなんだ!』

「あのーー、ちょっとお腹の調子が悪くて、トイレに行っていたんだよ」

「へぇーー、アイドルでもウンコすんのかよ」

「当たり前だろう! そんな迷信を、未だに信じていたのかお前は、本当にバカじゃねぇか」

「冗談だよ。それより次は物理のテストだったよな……英三はいつものように勉強してきているんだろう?」

「えっ! マジで、テスト? そんな事があるなんて、すっかり忘れていたよ」

「マジかよお前! あれだけ前から先生が言っていたじゃねぇか。まあ、英三だったら勉強なんかしてなくても満点取れるんじゃねぇか。なんだかんだ言っても英三は頭良いからな、アイドルのくせによ」

「流石に今回はマズいだろう」

英三は、この世界のクラスメイトと思われる男子生徒から声をかけられたことで、何とか自分の教室まで辿り着くことができそうだ。

そして次の授業は物理、テストがあるらしいのだ……流石の英三もこれには参ってしまったようだ。

英三はボロボロになることを覚悟しながら、男子生徒五人と他愛のない会話をしながら教室まで歩いた。

辿り着いた英三の教室には『三年 特進クラス』との表示板が掲げられていた。

『マジかよ! 俺が特進クラスなんて……信じられない』

英三が在席していると思われる特進クラスは、一学年に一クラスしかない学業優秀者が集まる特殊クラスであった。

進学することは勿論のことだが、優秀な大学を目指すための特別進学クラスであった。

こんな優秀なクラスで、それも初めての授業が物理のテストとは、実にツイテいないなと感じた。

この学校の特進クラスは少数精鋭にしてあるのだろうか、この広い教室に座席は三十あるかないかといったところだ。

このクラスに在席する生徒は、どの生徒も賢そうな顔をした者ばかりだった。

席に着いてしばらくすると先生が教室に入って来た。

とても優しそうな顔をした先生だが、手にはお約束のテストを持っていた。

『最悪だ……』

この世界は一体どういう世界なのだろうか?

人生のやり直し? はたまたドラマ? 英三にはそれすらわからないまま、この教室に居るのだ。

そしてテストが配られ、先生の合図でテストは始まった。

テストの問題を見た瞬間、初めはじんましんが出るくらいのアレルギー反応があったが、テストに書いてある文字や記号などを見ていると次第に、『解る』というような変なスイッチが入った。

脳と手が自然に動き出して、どんどん設問が解けいく、それも凄いスピードで。

テストの前に心配していたような事は全くなく、不思議と手が勝手に動き、あっという間に全ての問題を解き、逆に時間が二十分以上余ってしまった。

『マジかよ! 全部解けているよ』

この世界での英三は頭も良いようだ。

「仙玉、もう終わったのか?」

「あっ、はい。テストの見直しでもしています」

改めてテスト問題を見てみると、見たことも聞いたこともない難しい問題ばかりが並んでいた。

物理のテストの時間が終わり、休憩時間に入ったのだが、周りの者からは「テストがあることも忘れて勉強もしていないってって言っていたクセに、スラスラ解いていたじゃないか」と言われ「テストがあることなんて忘れていたし、本当に勉強はしていなかったよ。あれはたまたま知っている問題が出ていただけで、ある意味ラッキーだった。今日がテストと聞いてめちゃめちゃ焦ってしまったけどな」と返した。

「マジかよ、今日のテストはめちゃくちゃ難しい問題ばかりだったぞ」

「だから、ラッキーだっただけだよ」

「あっ! そうだ、今日はどうなんだ? 六限目の授業は大丈夫なのか?」

「えっ! どういうことだ?」

「英三は仕事だからと言って、よく六限目は早退するじゃないか。今日は仕事ないのか?」

「あっ、そうだよな……今日はどうだっけ、覚えていないや」

どうやら英三は進学校に通いながら、芸能活動もおこなっているようだ。

周りの者から得た情報では、六限目の授業はかなりの頻度で早退しているそうだ。

しかし今日と言われても、何のことだろうというのが本音だった。

「英三、迎えが来たようだぞ。今日も仕事みたいだな、頑張れよ。おーーい、齋藤さーーん、英三ならここに居ますよ」

どうやらマネージャーが迎えに来たようだ、名前はありふれた苗字で齋藤さんらしい。

マネージャーの齋藤さんは見たところ、年齢は三十代の半ばくらいに感じた。

「仙玉くん、行きますよ」

「やっぱり今日も仕事なのか?」

「これでも結構断って、前よりは本数減らしている方ですよ。仙玉くんの希望で、学業も大切にしていきたいという要望を社長も尊重しています。仙玉くんの人気は凄いからね、色んな番組からひっぱりダコです。どの番組も必ず視聴率が取れますので」

「じゃあ、今日も頑張りますか」

「お願いします、早く行きましょう。学校の先生には早退のこと伝えてありますので」

英三はこれから何処に行くのだろうか、そこでどんな仕事をするのか、全く何も分からない状態で学校を後にした。

それから車で一時間ぐらい移動して、地下駐車場に車を停めた。

「着きました。今日のスケジュールは、このテレ朝で歌番組の収録をしてから、次はフジテレビに移動し、ドラマの撮影、そのあとはレコーディングの打ち合わせと、歌とダンスのレッスンで今日の仕事は終了です」

「えっ! そんなに仕事が入っているの?」

「はい、明日よりはマシだと思いますが」

「マジで……明日はもっと凄いのか」

「もう時間がありません。早く楽屋でスタンバイしてスタジオに入りましょう」

『歌番組の収録にドラマの撮影……ってか、俺に歌なんか歌えるのか! 元々あまり得意ではないけど……音を外してしまったらどうしよう』

マネージャーと共に楽屋に入った英三、そのあと直ぐにメイクさんがやって来て、これはカチューシャという物なのだろうか、髪を上げられた状態で顔のメイクが始まった。

「今日も素敵ですね」

専属のメイクさんなのだろうか「今日は特に肌の調子が良いみたいです」だとか、「昨日は良く眠れたようですね、目の下にクマも無く、目も一段と澄んでいます」と言われた。

言われた本人は「この身体は、今日が初めてですから」とも言えず、ただニコニコ笑うだけだった。

顔のメイクが終わると次は髪を整えはじめた。

学校の鏡で見ていた髪型も素敵だったが、流石はプロの職人、整えてもらった髪型は最高に決まっていた。

英三はフルメイクの後、またもや自分の姿にウットリしてしまった。

『幸せ! こんな人生がやって来るなんて。天は二物を与えずとは言うが、それを与えられた人間もいるのだよ、ここに! 顔良し、頭良し、長身で女性からモテモテのアイドル、いくつも与えられる人間はいるんだよ。これぞ自分が求めていた人生なんだ!』

英三はとても幸せな気分に酔いしれていた。

スタジオ入りした英三、その姿は自信に満ち溢れ、堂々としたものだった。

この流れでいけば歌も何とかなるのではと思ってきて、さほど歌のことも気にしなくなっていった。

カメラアングルのチェックに振り付けの確認をおこなった後、いよいよ本番のテレビ収録が始まった。

実は英三のスケジュールが詰まっていたことから、今回はリハーサル無しのぶっつけ本番、一発勝負ということが英三の事務所から希望として出されていた。

英三はドキドキしながらも、ステージに立った。

スタジオ全体と耳に取り付けられたイヤホンからは音楽が流れはじめ、英三の心臓は張裂けんばかりの鼓動が英三を襲っていた。

『どうしよう』

その時、身体が勝手に動きだした。

おそらくこの曲の振り付けなんだろう、そこには激しい動きをする場面もあったが、その後は勝手に歌いはじめていた。

「はいOKです。流石ですね、一発でOKですよ! お疲れ様でした」

ホッとした英三、笑みも溢れていた。

『俺は何でも出来るじゃないか! それも全て完璧に』

もう気分はスーパースター、英三はこの生活は最高とまで思っていた。

そして次はドラマの撮影に向かって行った。

撮影しているのは学園ドラマらしい。

このドラマの最高視聴率は三十五パーセントと人気のドラマだという。

三十五パーセントと言われても、よく分からない数字ではあるが、とにかく凄い視聴率らしい。

同じ高校の仲間二十人で結成している、ダンスグループの物語ということだが、他校のダンスグループと対立をしていて、ダンスのバトルも見どころの一つだが、激しい喧嘩バトルもあるという青春ドラマだ。

今日の撮影は、英三のグループが他校のダンスグループ三十人から呼び出され、睨み合いから喧嘩バトルが始まるという重要なシーンを演じる。

主役はもちろん英三、絶大な人気を誇っている。

それこそ英三が出ていないなら、見ていなかったという年配の方までいるくらいだ。

英三は子供からお年寄りまで、幅広く人気があるアイドルスターのようだ。

「仙玉さん、今日もよろしくお願いします。今日はバトルのシーンを撮影します。激しい殴り合いもある、このドラマで最高の見せ場となるシーンの撮影です。仙玉さんが引き立つような、格好いいシーンが撮れるように頑張ります」

これは異例とも言えるだろう、撮影前に監督自らが英三の楽屋まで挨拶に来たのだ。

この世界はそれほどまで英三に、気を遣わなければいけないのだろうか。

仙玉英三には相当な数の出演オファーが来ているが、英三の強い希望で学業にも集中したいとの想いを考慮して、事務所は学業に影響がない程度の仕事しか入れていないのだ。

だから各テレビ局と映画製作会社の中で、英三の凄まじい争奪戦が繰り広げられているのだ。

そんな状況からやっと英三の出演を勝ち取ったテレビ局や映画製作会社は、英三にへそを曲げられないように必至なのだ。

もしそのような事がおこれば、英三から出演を辞退されてしまう可能性もある。

そうなれば大損害だ、テレビ局としては一つの番組がきっかけで、局全ての番組に出なくなることも想定されるからだ。

そして大勢いる英三のファンの人達を筆頭に、テレビ局の信用を失ってしまう事態にもなりかねないのだ。

それだから英三の扱いは、必然的にあのような丁寧なものになってしまう、これは仕方のないことだ。

これだけは言っておきたい、英三は決して我がままな性格ではということを……

喧嘩のシーンを念入りに打ち合わせした後、いよいよこのドラマの見せ場となるシーンの撮影がおこなわれた。

英三は運動神経も良く、ダンスも上手い、だから喧嘩のシーンはかなり派手な動きになりそうだ。

撮影場所には計五十人の役者が集まっていた。

両方のグループが睨み合い、罵声を飛ばし合うというシーンからスタートした。

そのうち言葉だけでは収まりがつかなくなり、お互いのリーダーが気勢を上げて襲いかかっていく。

「オメーラ全員、ぶっ殺してやる!」

ついに始まった五十人の大乱闘シーン、カメラが向けられる中心となるのは勿論、THE視聴率男の英三である。

このシーンの英三は、もの凄く強い、仲間がやられているのを見つけると、自分の前に敵が何人いようが、敵の攻撃を上手く交わしながら、拳と蹴りを炸裂させ仲間の元ヘに行き、仲間を殴っている相手に向かい鉄拳をお見舞いした。

「お前は隅に隠れていろ。ここは俺一人で大丈夫だから」

「すまん」

相手より十人も少ない英三のグループだが、このグループは喧嘩が強い者が多い、だから決して情勢は悪くなかった。

相手グループの半分以上は、既に倒れて戦闘不能な状態になっていた。

「おりゃーー、俺はここだ!」

英三が大きな声で叫んだ。

英三の近くにいた敵の四人が英三の方を見た。

そして四人は英三に攻撃を仕掛けようとした。

「おう、お前! どっち向いているんだ! お前の敵は俺だろうが!」

英三の方を向いた敵の一人が、英三のグループの者に後ろから攻撃され、その場に倒れた。

仲間のお陰で、英三の相手は三人に減った。

逆のことを言うと、減ってもまだ三人が相手だということになる。

この場に立っている者は、もの凄く喧嘩が強いか、後ろに控えていた幹部系の強者だと考えられる。

その三名が一気に英三を目掛け襲いかかって来た。

一人は英三の長い足から繰り出された蹴りが見事にヒット、その後ろから走って来たもう一人の攻撃はかがんで交わし、最後の一人には下から拳を突き上げ相手の顎にヒットさせた。

交わしただけになっていた相手とは向き合い、ワン、ツー、スリーと拳を打ち込んだ。

この時点で見渡す限り、この場にしっかりと立ち戦闘までおこなえるような者は、英三のグループの約十人と相手グループのリーダーだけになっていた。

そのリーダーに向け英三が叫ぶ。

「おい、テメェ来いよ! なに最後まで逃げ回っているんだよ。お前とタイマン張ってやるよ」

「オメェ如きのクソが、いきがるなよ! 俺は強いぞ、ぶっ殺してやる!」

そこから二人の喧嘩は二分続くのだが、結果は英三の圧勝であった。

ただ、これはドラマの話である。

絶対的人気を誇る主役が、予想通り勝利するという撮影をしただけなのだ。

しかし迫力のあるシーンが撮れたことには間違いない。

撮影を終えた英三は、絶賛する監督と一言交わし、急いで次の仕事に向かって行った。

次の仕事はレコーディングの打ち合わせ、それに歌とダンスのレッスン。

英三はダンスが大好きで、芸能界の仕事の中では一番気合が入る時間らしい。

先ずは、次の新曲に向けた打ち合わせおこない、終わった後はスタジオに入り、二時間の歌とダンスのレッスンをこなした。

これで予定していた仕事は全て終了した。

最後はマネージャーの車で自宅まで送ってもらい、帰宅したのは深夜の一時を過ぎていた。

シャワーを浴びた後、今日出されていた宿題を終わらせてベッドに入った。

既に時計の針は三時を指していた。

大人気のアイドルともなると、こんな生活は当たり前なのだろう。

これでも我がままを言って、かなり仕事は減らしている方だというから驚きだ。

その仕事を減らす期限には約束ごとがあった。

それは大学受験が終わるまで、それが終わってしまえば、そんな我がままは言えない状況になってしまう。

英三は二ヶ月後に控えていた早稲田大学の受験に向け、勉強と仕事の両立をおこなっていく。

英三の学力であれば合格は間違いないであろう。

翌日も学校と仕事のハードスケジュールは続く。

それに加えてという話にはなるが、仕事で人から見られるというのは仕方のないことだが、プライベートや学校で過ごす時間さえも休まる時間ではなかった。

誰からも干渉されない唯一ひとりになれる時間は、家に帰宅した深夜から朝までの時間だけだった。

もちろん土日でも仕事が入っていて、月に一回の休みが取れたら良い方だった。

その月一回の休みも、プライベートで外を歩けるば「ワーー、キャーー」と周り中が大騒ぎとなり、身体は休まらない。

英三はそんな不便さを感じるようになっていた。

「有名人は不都合なことが多い。一人になりたい、どこにでも楽しく出かけたりしたい。只々プライベートが欲しい。こんなにルックスが良く格好いい男なのに、恋愛すら許されない。一般人でこのルックスであれば、誰とでもお付き合いが出来るはずなのに。それに干渉が多すぎだ……この世界では、自分自身でいることすら許されない。何が演技だ、何がアイドルだ、それだから愛想よくしていろだって、それがアイドル、応援してくれるファンのためだって……本当に疲れるよ」

ただ、この世界の英三の生活は、こんな生温いものでは終わらなかった……

「おめでとうございます。仙玉さん早稲田大学に合格ですよ!」

「ありがとう、取り敢えず良かった」

この日のワイドショーは、仙玉英三が早稲田大学に合格したことで持ち切りだった。

テレビ局としては英三が大学に合格したことで、テレビ出演が多くなることを期待しているのだから、心からの喜び報道であることには間違いない。

ドラマのロケ地に向かえば報道陣から「おめでとうございます、仙玉さん一言ください」などのオンパレードだ。

一言でも返してしまうと「これからは積極的に芸能活動に専念できますね」と続いていく……

英三としては、今ぐらいのペースでも精一杯だと思っていた。

英三が所属する事務所の社長は、マネージャーに対し仕事を拡大させろという指示を出していた。

事務所もこの時を待っていたのだ。

そして瞬く間に、英三の仕事量は二倍となり、やがて三倍へと増えていった。

今朝は三時起き、新しく始まる恋愛ミステリードラマの番宣のため、朝早い番組から出演していくことになっている。

英三はこのドラマ撮影と並行するように『哀眼の空』という時代物の映画にも出演が決定し、その撮影も既に始まっていた。

そしてアイドルとしての活動も益々活発になっていく……

ハードルが下がった出演交渉は、英三の仕事を増やし、プライベートを無くしていった。

寝る時間は平均で二時間、マネージャーやスタッフなど常に誰かと一緒に居たり、いつでもファンからの視線を感じたりする日々が続いていた。

共演者の女優やアイドルからは、食事の誘いや告白などといったことが多々あったが、週刊誌の記者が常に張り付いているため恋愛をすることすら叶わない状態であった。

そして英三のストレスは半端じゃなく大きなものになっていった。

英三は常にニコニコしてカメラの前で振る舞っている。

英三は皆の英三で有り続けなければならなかった。

だが家まで調べて押しかけてくるモンスターファンまで出現し、英三は二十四時間アイドルとして過ごした。

身体は疲れ神経はすり減っているというのに、益々休みを取ることはできない状態だった。

このままでは精神的におかしくなってしまいそうだ。

ハードな仕事をこなし、帰宅した家に居る時間は唯一幸せを感じる時間だが、その一方で、このまま何処か遠くに逃げてしまいたいという気持ちにもなっていた。

このまま何も考えなくても良い世界に身を置き、楽になりたい……それはどうすれば叶うのだろうか?

何をすれば、それを手に入れることが出来るのだろうか?

英三の手には延長コードが握りしめられていた。

英三の頭の中で自殺という二文字が頭の中を駆けめぐった。

ハッと我に返る英三、まだ正気な面が少し残っていたようだ。

慌てて握っていた延長コードを窓から投げ捨てた。

周りから見ると羨ましいと思われるルックスや生活だが、これはこれで大変なのだということに気づいた。

誰よりも良い顔とスタイルを手に入れた英三を待っていたのは、女性からモテモテの夢のような生活。

それを体験することはできたのだが、逆に女性と付き合うことも出来ない不便な面と、プライベートというものは全くないという生活だった。

人生の中で一番輝く時間に、プライベートのない仕事野郎になっていることに英三は気づいた。

只々「ワーー、キャーー」言われているだけの、操り人形であることに気づいたのだ。

こんな人生を歩むのなら、まだプライベートが保証されていた自分の人生の方がマシではないかと思っていた。

人生の中で何度か憧れることがあった、モテモテの人生というのは、とても疲れる人生であることを身を持って知ったのだ。

「そうだ、俺はあのテレビの中に入っただけなのだ。これはテレビの中の世界、俺はここから出れば良いだけなんだよな」

そして真夜中、あの昭和のテレビ探した。

「あった! テレビがあった」

英三は押入れの隅から、あの昭和のテレビを見つけ慌ててスイッチを入れたのだが、テレビは映らなかった。

「何故だ! 何故なんだよ!」

英三は焦って、完全に冷静さを欠いていた。

しばらく考え「あっ、電源……電源が入っていないんだ」

しかしテレビのコードだけでは長さが足りず、電気を供給することができなかった。

重いテレビを動かすより、延長コードを見つけて供給する方が良いと考えた英三、しかし先ほどまで手にしていた延長コードは外に投げ捨ててしまっていた。

英三は延長コードを探すため外に出た。

しかし延長コードは中々見つからず、悪戦苦闘してしまう。

英三はこの世界から一刻も早く逃げ出したいという一心で、延長コードを探し続けた。

やがて延長コードは草むらの中から見つかり、あの昭和のテレビへの電源供給は成功した。

そしてテレビ画面には砂嵐が映し出されていた。

「よし、ここであのウルトラマンのポーズをとるのだな」

英三はテレビの中に入るきっかけとなった、あのウルトラマンのポーズをテレビの前で取った。

「うわぁーー」

英三は渦を巻きながらテレビの中に吸い込まれていった。

着いた先は元居た世界。

無事に戻ることができた英三だが、顔は元に戻り、もう二度と格好いい男になどなりたくないと思っていた。








四.チャンネル二の世界


カッコ良い姿のモテモテの世界から、無事に帰還することができた英三は、自身が行っていた世界を振り返っていた。

「あまりにもカッコ良過ぎるというのも考えものだな。初めは良いのだが、最後は自殺まで考えてしまった。ただ、あの不良の役はカッコ良かったよな。そうだ強い男、それだ、おれが次に目指したいのは強い男なんだ。そうだ、このテレビにそういうチャンネルはあるのかな?」

英三は再びテレビの電源スイッチを引っ張ってみた。

テレビ画面に映し出されたのは砂嵐、チャンネルは一の方向を指していた。

その次のチャンネル、二の方向にチャンネルを回してみた。

また画面にはウルトラマンみたいなタイトルが映し出されていた。

『誰よりも強く、強者の世界に挑め!』

「強者の世界か、強い者に憧れていたからな。そういう事も体験できるのかな? 飛び込んでみるか、強者の世界に」

英三はテレビの中に飛び込むことを早々に決めたようだ。

テレビの前では既にウルトラマンが出現する時のポーズを取る英三がいた。

その時、テレビから音が鳴った『シュワッチ!』その音と共に、英三は画面の中へと吸い込まれて行った。

到着した先では、あのウルトラマンのポーズのまま画面から飛び出して来た。

そして英三は、そのまま床に顔から落ちた……それは余りにも間抜けな姿である。

こんなお間抜けが、強者になど成ることが出来るのだろうか?

「今度はいつの時代から始まる物語なのだろうか?」

どうやらこの世界では、朝を迎える時間のようだ。

「英三、朝だぞ。また学校に遅刻するのかい」

「うっせぇな、クソババア!」

どうやら身体つきは中学生ぐらいのようだ。

とにかく学校に行かなくてはと、英三は準備のため洗面所に向かった。

英三は鏡に映った自分の姿にびっくりしてしまう。

「えっ、金髪!」

中学生なのに髪は金髪、顔には傷もあり、とても厳つく見える。

「英三、早く準備しろよ。またバイクで学校に行くなら、絶対に先生に見つからないようにしてくれよな。また学校から呼び出されるのはごめんだよ」

「わかっているよ、クソババア」

中学生なのにバイクに乗って登校とは、今回の英三は中学生でも札付きの悪らしい。

しかし本当の英三はバイクなど乗ったことがない!

大丈夫なのか?

しかもバイクは、ド! ヤンキー車!

ハンドルは絞り、ド派手なカウルにアンコ抜きの長くそびえ立つシート、竹槍に近いマフラーからは爆音、まるで暴走族のようだ。

そう、英三は中学から暴走族に加入していた。

ラメの効いた赤いタンクに書かれていた文字は『赤い彗星の英三』だった。

英三が所属するチームの名前は『デスキャスト』。

その意味は『死のメンバー』らしい。

中学生である英三の立ち位置は不明だ。

「行ってくるわ!」

英三は爆音と共に姿を消した。

英三は中学生、もちろん運転免許など無い、だが愛車は大型二輪の免許が必要なカワサキのZⅡ(ゼッツー)、なんとも生意気な中学生だ。

ヘルメットは被らないが、これにはちゃんとした理由がある。

それは髪型が崩れてしまうからだそうだ。

バイクは学校近くにある親戚の家に置き、そこからはチンタラと歩いて学校に向かう。

今日も一限目の授業には間に合わず、遅刻して教室に入ったのだが、先生も「またか」と呆れてしまい、何も言わなかった。

おそらく英三からの仕返しが怖かったのだろう。

先生としては、英三が居ない方が授業もやりやすいので、真面目に登校してきてもそれはそれで迷惑、とても複雑な心境なのであった。

普通であれば、生徒が学校に来ないとなると心配をしたり、登校を促したりするものだが、英三の場合はその次元を遥かに越してしまっているのかも知れない。

英三は教科書も開かずというより、教科書など持って来ていない。

鞄は持って来ているが、財布しか入っていないペラペラの薄い鞄だ。

英三にしてみれば鞄なんていうものは道具ではなく、ファッションの一つにしか過ぎないのだ。

一限目を途中から参加するも、ヨダレを垂らしながら寝て過ごした国語の授業、ニ限目は体育の授業だ。

英三は体育の授業であっても、真剣には取り組まない。

男子がおこなう今日の授業は、二手に分かれてサッカーの試合をおこなうことになっていた。

英三は赤いタスキを付けたチーム、初めはダラダラとしていた英三だが、どうやらサッカーは嫌いではないみたいだ。

今はこんな姿でひねくれた英三だが、小学生の頃はサッカー少年で将来を期待される程だった。

それがどこでどう間違ったのだろうか、今ではこんな感じになってしまった。

サッカーの試合をゴールポスト近くから見ていた英三は、余りにも低レベルな試合ぶりに段々イライラが溜まりはじめていた。

「くだらない試合してんなよ」

そう呟くとダラダラと歩き、ボールが回されている所まで近づくと、素早い動きでボールを奪った。

そこからは相手のゴールポストを目指しドリブルで駆け上がり、二人、三人と交わしシュートを放った。

放たれたボールはかなりの速さで、ゴールネットを激しく揺らした。

英三が本気を出せばこんなものだ、実にもったいないことである。

その時グランドでは、どよめきが起こっていた。

グランドの隣では女子がテニスの授業を受けていたのだが、その女子から「英三くん、カッコいいじゃん」という声が上がっていた。

英三もまんざらでもなさそうなのだが、これ以上サッカーの試合に参加することはなく、この後は不良らしくゴールポストの裏に行き、引き続きサボっていた。

英三は中学生にして既にタバコを吸っていた、だから息切れをしてしまい、体力がなくなってしまったという訳だ。

これ以上のパフォーマンスは期待することはできないだろう。

ニ限目のあの一蹴に力を注いでしまった英三は、三、四限目を爆睡して過ごし、給食の時間に備えた。

今日の給食は英三の大好きなカレーだ、おかわりは一回までと決まっているのだが、二杯おかわりするのが不良だった。

英三は二杯のおかわりを含め、たっぷり三杯のカレーをたいらげた。

午後の授業には参加せず、仲間三人と近くの神社に行き、タバコを吸いながらコーラを飲み、ポテトチップスを食べて時間を潰した。

六限目の授業が終わる時間に学校に戻り、点呼を受けてから学校を出た。

「不良って楽しいな。誰も文句を言って来ない。よほど俺のことが恐いのだろう。俺にはこの生活が合っているかもな」

英三はこの生活がお気に入りのようだ。

ポケットに入っていた小さなメモによれば、今晩『デスキャスト』の集会が有るようだ。

英三が住んでいるこの県でデスキャストは、喧嘩最強、走り最強と言われている暴走族らしい。

英三は中学生でありながら、そのワル振りは県内でも有名だった。

そんなワルの英三だからこそ、中学生から暴走族の一員になれたのだ。

暴走族のデスキャストは十人で構成されている。

結成されてから、これで六代目となる。

総長は高校三年の一成、特攻隊長は賢治、英三は特攻隊長補佐としての位置づけだ。

集会がはじまるのは十九時、まだ時間あることから一度家に帰り、バイクを整備してから特攻服に着替えて出発する。

実は今日の集会は気合が入っている、隣の市で構えている暴走族『男爵』の縄張りを爆走して、男爵との決闘を狙っていた。

最近の男爵は、二十人にメンバーを増やして勢力を拡大してきている。

先週はデスキャストの縄張りを、我が物顔で爆走されてしまった。

ここらで奴らを、痛い目を合わせておかなければ、最強暴走族デスキャストの面目が丸潰れになってしまう。

相手の男爵はデスキャストの倍の人数がいる集団にはなるのだが、喧嘩最強軍団を謳うデスキャストであれば、何ら問題はないであろう。

何故かこの時の英三は、ワクワクが止まらない状態だった。

どうやらこの世界の英三は喧嘩がとても大好きらしい。

それを物語っているのが、中学生でありながら特攻隊長補佐に就いていることだった。

喧嘩に関しては絶対的な信頼を得ているのだと思われる。

今日も学校で感じたことではあるが、英三に逆らう者は誰一人いなかった、それが答えだろう。

一度家に戻った英三、慣れた手つきでバイクの調整をおこなった。

英三が分身のように大切に扱っているバイクのゼッツーは、年式は古いバイクになるので、こまめな手入れが必要になる。

その手入れのおかげなのだろうか、英三のバイクは扱いやすく、しかも速い、特に加速が尋常ではなかった。

バイクの手入れが終わると二階に上がり特攻服に着替えた。

特攻服は白地、文字は赤と黒と金色が使われ、胸には特攻の刺繍、背中にはチーム名であるデスキャストが英語で刺繍されていたが、その下には大きく喧嘩最強の文字が並んでいた。

完全に敵を挑発するような特攻服である。

英三は家に置いてあった大好きなカレーパンを三口で食べ、集会に向け爆音を発しながら出発して行った。

海岸沿いにある駐車場が集合場所になっているのだが、もう既に六人のメンバーがタバコを更かしながらたむろしていた。

「おい英三、今日は俺達を舐めた奴らに、地獄を見せてやるんだからな。スゲーー闘いになるから、英三も頼んだぞ」

話をしてきたのは特攻隊長の賢治だった。

賢治が停めているバイクからは、竹槍風に飛び出ている物があったが、それは鉄パイプ、賢治のCBXに括り付けられていた。

それから五分も経たないうちに、総長の一成と他二名が駐車場にやって来た。

「おい、わかっているだろうが、今日は一歩も引かねぇからな! 舐めたまねした奴らを許す訳にはいかねぇ! 気合入れて行くぞ!」

「絶対ぶっ殺してやる!」

気合いを入れたデスキャストは『男爵』が縄張りとする街に向け出発して行った。

先頭に総長の一成、二列目には特攻隊長の賢治と英三が並走して走った。

十台のバイクが爆音を上げながら、男爵の縄張りを流した。

あとは男爵が現れるのを待つだけだ。

二十一時を過ぎた頃、英三達が走っている場所とは違う場所から、大勢で走るバイクの音が聞こえてきた。

総長が「行くぞ!」と声を掛け、音のする方向にバイクを飛ばして行った。

「あっ、男爵だ!」

男爵の集団を見つけると、総長と特攻隊長、それに英三の三人は更にスピードを上げ、先頭を走る敵の総長目掛けどんどんバイクを追い越して行った。

一成は男爵の総長である富樫を見つけ叫んだ。

「富樫! バイク降りろや! ぶっ殺してやる!」

「ふざけろ! お前ら、この街から一人も帰さない!」

デスキャストの三人は富樫を取り囲むようにフォーメーションを取り、小高い丘にある公園の駐車場まで誘導するようにして走った。

両チーム総勢三十人の暴走族が公園に集結した。

「オメーーラふざけるなよ! なに我がもの顔で人の街走っているんだ!」

「おう、今日はわざわざデスキャスト様がお礼参りに来てやったんだよ!」

「ぶっ殺してやる」

「二度と逆らえないようにしてやる」

いよいよ闘いが始まった。

デスキャストの四人は鉄パイプなどの武器を持参してきていたが、敵も金属バットなどを用意していた。

英三と賢治は素手で挑む。

三十人が入り交じり、血しぶきが飛び散る喧嘩となった。

お互いの総長も激しく拳を振り回す凄まじい闘いとなるが、この喧嘩はどちらかが完全にくたばるまでおこなわれる。

人数では圧倒的に不利なデスキャストだったが、英三と賢治の素晴らしい活躍で十分後には、地面に足をつけ立っている者の数では、デスキャストの方が敵の数を上回っていた。

しかも英三と賢治は無傷、二人は圧倒的な強さである。

その頃、総長の一成は男爵の総長、富樫に狙いを定めた。

「おい、どっち向いているのだ富樫。俺が相手になってやる」

一成は富樫の頭を掴まえて頭突き、富樫はその痛さから頭が下げたところに、頭を抱えながら一成の膝を顔面に叩き込んだ。

富樫はふらつき立っているのがやっとのようだが、一成は容赦ない。

拳をみぞおちや右脇腹に叩き込み、最後には正面から蹴りを放ってやった。

これで富樫は立つことも出来なくなった。

英三と賢治は残っている敵に鉄拳を打ち込んでいた。

やがて男爵のメンバーで、地面に足を付け立っている者は誰もいなくなった。

デスキャストのメンバーも倒れ込んでいる者は三人いたが、全員意識はハッキリしていた。

英三は仲間が持っていた鉄パイプを手にして、男爵の総長が乗って来たバイクをボコボコに叩いて走れないようにしてやった。

一成は倒れ込む富樫に向かって一言。

「二度と舐めた真似するなよ!」

デスキャストの十人は爆音を上げ、その場から去って行った。

この日を境に、デスキャストが縄張りとする街に侵入してくる暴走族はいなくなった。

中学三年で受験を迎えていた英三は、名前を書くだけで入学できる頭が良くない高校に進学した。

高校に入学すると一年生ながら、上級生を含めた全校生徒を三日間で占め上げ、この学校で英三に逆らう者は誰もいなくなった。

暴走族としては、高校一年で特攻隊長、二年でデスキャストの総長となった。

高校三年の時、県中部に存在していた七つの暴走族を束ね上げ『中部連合』を結成し、誰もが恐れる凶悪暴走連合の初代総長となった。

そして英三は高校を卒業すると、県内で一番の勢力を持つ暴力団『狂人組』の組員となった。

実はこの暴力団の組長は、英三がデスキャストの総長となった頃から、色々と良くしてくれていたこともあり、ある意味スカウトされて組員になったようなものだ。

組員としての一年目は、まだまだ若い英三だったが「ヤクザは顔が名刺」だと教えられ、喧嘩最強を武器に、なりふり構わずやんちゃな形で、ヤクザ社会の名刺である顔を売っていった。

ヤクザとなった英三は、組員としての看板と、自分の力を武器に、大勢の人を集め特殊な人材派遣業を始めていた。

起業した人材派遣業というのは、お金にだらしがない者や、暴力事件などで英三があいだに入って解決してやった者、それにドラッグにハマった者など、様々な者が登録をしていた。

そして英三に集められた者達は、通常では人があまり働きたくないような職場に人材を送り込むといったものだ。

人が好まない仕事というものは、とても報酬が大きいのだが、その内半分は英三の取り分となっていた。

その他には、ネオン煌めく夜の街で商売する店を回り、用心棒をするからと言ってみかじめ料を徴収していた。

英三はこの業界でも手腕を発揮し、組員の中でもトップの上納金を納めるまでになった。

そして二十歳で幹部に昇進、自分としても五人の子分を持つまでになっていた。

巷の喧嘩の仲裁や、英三がおこなう独自の裁きは、警察よりも遥かに早く、その筋では厚い信頼を得ていた。

全てが順調に進みお金に困ることなど無い英三は、子分達を使って金貸しをはじめていた。

利息は通常では考えられないほど高い利息だが、どこからもお金を借りることが出来ないブラックリストの人や、犯罪者、それに家族には言えない借金の穴埋めに、お金を借りに来る者は後が絶えなかった。

そのため英三の暮らしは派手さを増していった。

車はベンツ、服は全てブランド品を纏い、誰もが英三にヘコヘコする環境になっていた。

「強い者、これは気持ちが良いわ」

英三は調子に乗ってしまい、他の組が縄張りにしている場所にも手を出しはじめていた。

英三からみかじめ料を要求された店、その店は英三の組と対立している『佐田沼組』の幹部、川本喜八の女が経営する店だった。

それを女から聞いた川本は怒り狂ったという。

そして川本は家に隠し持っていた拳銃を手に取り、狂人組の事務所に向かった。

「おい! 仙玉は何処だ!」

「誰だテメェ? ここを何処だと思っているんだ! 狂人組だぞ! 死にてえのか! おう、お前、ヤクザ者か?」

「俺は佐田沼組の川本じゃ! お前んとこの仙玉が舐めたまねしやがるから、ぶっ殺しに来たんじゃ!」

「おい、取り押さえろ!」

「ふざけるな!」パン、パン、パン、川本が英三の組事務所で拳銃を撃った。

「太一、大丈夫か! 何しやがる、クソ野郎が!」

川本が放った銃弾が狂人組の組員、藤山太一の腹に二発も命中していた。

太一の腹部は真っ赤に染まりその場で倒れ込んでしまった。

組事務所に居た組員五人は、乱入してきた川本を抑え込みにいく。

しかし川本から二発の銃弾が放たれ、その一発が組員一人の太ももに当たってしまった。

組員の一人は川本から拳銃を奪い、あとの組員三人は、川本を取り囲み一斉に蹴りを入れ、他の組員は救急車を呼んだ。

組員らに蹴られうめき声と罵声を上げる川本は、必死に抵抗を続けていたが、三分後には意識をなくなってしまった。

川本の顔はパンパンに腫れ上がり、この者が誰なのかさえ認識することができなくなっていた。

川本の顔にバケツの水をかけて強制的に起こし、川本が所属する組である佐田沼組の事務所に電話を掛けさせた。

「はい、佐田沼組」

「川本だ、すまんが若頭に代わってくれ」

「喜八さん、苦しそうですが大丈夫ですか?」

「いいから、若に代われ!」

「わかりました」

「喜八どうした?」

「若、すみません……狂人組の事務所で隔離されてしまいました」

「なに! 狂人組だと?」

「はい、この組の仙玉に落とし前つけに殴り込みに来ましたが、仙玉は事務所に居ませんでした。持っていった拳銃で、狂人組の二人を撃ってしまいました」

「お前、何やってんだ! 今からそっちに行くから待っていろ」

狂人組の組員は自身の組長と、若頭に連絡を取り事態を報告、今回は救急車を呼んだことで、警察沙汰になることが確定してしていた。

腹を撃たれた組員のことを考えれば、これは致し方ない事だと言えるだろう。

この一報を聞いた英三は「はぁ? 佐田沼組、舐めたことしやがって!」と怒り爆発であった。

この時、英三は恐ろしいことを考えていた。

自分のことがきっかけで、結果、組に迷惑を掛けてしまったこと、そして自分の顔に泥を塗られてしまったこと、この落とし前は自分の手でつけるしかないと英三は考えていた。

英三は組長と若頭に謝罪を入れたあと、自分に付いている子分、五人全員を自宅に集め指示を出した。

「こんなことが起こってしまった、俺は許せない。佐田沼組の組長、浅田と若頭の権田のタマを取る」

「兄貴、本気ですか?」

「当たり前だ、俺のことで狂人組の事務所が荒らされたのだぞ! そして太一と真也が撃たれた。あいつら舐めたまねしやがって! これは俺が蒔いた種、己で刈り取ってやる」

「兄貴、殺りましょう! みんな手伝いますよ」

「組長の浅田と、若頭の権田を殺してやる。二手に分かれて同時刻に二人を殺害する。しかし権田は武闘派で危険な人物だ、だから権田は俺が殺る。そして組をぶっ潰してやる!」

先ずは浅田と権田の日々の行動を知ることが大事だと考えた英三は、二人の行動を探るところから始めていった。

全ては二人を確実に仕留めるために……

今年で還暦を迎える組長の浅田は、毎朝の日課として、近くのジムに行っていることが分かった。

浅田は二年前に心臓を悪くして手術をおこなってからは、毎朝汗を流し、体を鍛えることが日課となっているようだ。

権田は夜の十一時には、自分の女が住むマンションに行き、それから朝までマンションで過ごして、朝になると佐田沼組の組員がマンションまで迎えに来ていた。

この調査は一週間続けられたが浅田も権田も、この行動パターンが崩れることはなかった。

「よし、明日決行する」

二人の行動パターンからして、先に殺しを決行されるのは組長の浅田からになる。

英三達は明日、三人ずつに分かれて行動する。

どちらの現場でも、拳銃を所持した状態で現場周辺に潜み、内一人は車を近くに待機させて、事が終われば即現場に駆けつけ二人を乗せて逃げる予定だ。

朝八時、ジムから出てきた浅田は、英三の子分が起こした襲撃で呆気なく撃たれ死亡した。

浅田の周りには二人の組員が居たのだが、襲撃をかけた英三の子分二人は、組長の前に素早く立ち、正面から十発もの銃弾を発砲した。

その後は二人の元に車が横付けされ、車に乗り込み逃げることができていた。

八時十分、若頭の権田が滞在しているマンションの部屋の扉が開いた。

権田が居るマンションはオートロックのマンションではあったが、英三達はそれを難なく突破して同じ階のエレベーター付近で待機していた。

権田がエレベーターの前に立ち下のボタンを押す、しばらくしてエレベーターが到着する音が鳴った、その瞬間、隠れていた英三ともう一人の組員は、その音を合図にエレベーターの前に走った。

「何だお前ら!」

英三が右手に持っていた拳銃で権田の顔を殴りつけた。

権田はなだれ込むように、扉が開いたエレベーターの中へ倒れ込んだ。

英三らも素早くエレベーターに乗り扉が閉まると同時に、権田に銃弾を浴びせた。

その弾の数は十二発、至近距離から放たれた全ての弾が命中、権田は即死だった。

エレベーターを一階まで降ろし二人は降りたが、権田はそのままエレベーターの中に残し、英三は車で待機する組員に連絡を取り、車をマンション前につけるように指示した。

しかし既に、マンション前には佐田沼組の車が横付けされていた。

エントランスで権田を待っていた組員は「おっ?」英三が呼んだ車に気づいた。

佐田沼組の組員は英三が呼んだ車に意識が集中してしまい、マンションから出て来た英三に対し完全に背を見せていた。

その組員に「おい」と静かに声をかけた、組員が振り向いた瞬間、英三は発砲した。

しかし、そいつを殺すつもりはなく、狙った場所も急所ではなく、太もも、両方の足を撃たれた組員はその場で倒れ込んでしまった。

英三らはゆっくり車に乗り込み、その場を去っていった。

その後、マンションは大騒ぎとなる……

エレベーターの中で息絶えた権田を見つけた住人は叫び声を上げ、そして警察と救急車が駆けつけた。

この事件を暴力団の抗争事件と判断した警察は、狂人組の事務所に駆けつけ規制線を張った。

ニュースで状況を確認した英三は、全員に自首を促して警察署に向った。

目的を達成させることができた子分からは、後悔という様子は全く感じられず、むしろ達成感で一杯という感じが伝わってきた。

後におこなわれた裁判所の判決は、全員が懲役五年程度の判決であった。

頭を失ってしまった佐田沼組は、組員が徐々に離散していき、やがて組は潰れてしまった。

行き場を無くした組員らの中には、狂人組の組員になる者もいた。

五年後……刑期を終えた英三が狂人組に帰って来た。

今日は宴の席が用意されている。

「お疲れ様でした」

「おう、あれから組は運営しやすくなったか?」

「それが最近はさっぱりで……」

「どういうことだ?」

「確かに佐田沼組が無くなった当時は稼ぎも良くなりましたが、最近は警察がうるさくて、それがどうにもなりません」

「警察? 警察なんか関係ないじゃないか。そんなものは黙らせてしまえばいい」

「それが最近はそうもいきません。暴対法やなんやかんやで、みかじめ料なんかは要求した方も渡した方も犯罪になります。それに銀行の通帳も作れませんし、車を買うことすらできない。マンションも借りることができない、本当に窮屈な世の中になっています。これじゃ全く稼ぎになりませんわ」

「そんな程度のこと、力に物言わせればいいじゃないか」

「そんなことしたら即逮捕、逮捕ですよ。街中に暴力団追放、反社会勢力は断固拒否しますという垂れ幕が掛かっていますよ」

「お前らそれで、黙って指咥えて見ているだけなのか!」

「そうは言いますが、全く策がありません。ここ最近、そうですね、二、三年でどれだけのヤクザがカタギになったか分かりません。ヤクザを辞めるか、リスク承知で薬を売るか、そんな環境ですよ」

「あっ、組長! 仙玉英三、只今務めから戻りました」

「ご苦労だったな英三。これからは組のために頼むな」

「はい、快く出迎えて頂き、誠に有難う御座います」

「英三よ、今、組の状況は良くない。これまで何度思ったことか、お前が居てくれたらなと」

「どうかされましたか?」

「こいつからも聞いたかも知れんが、ヤクザにはやりにくい世の中に変わってしまった。昔ほど羽振りの良いヤクザは居なくなってしまった」

「組長、変えていきましょう。俺が変えますよ」

「頼んだぞ英三、今日は好きに飲んでいってくれ」

組長はそう言って席を離れて行った。

「ここ最近の組長は、少し身体を崩しているみたいだ。組長のためにも、何とかしなければと思うのだが……」

「明日、俺の目で世間を見てくる」

英三は信じられなかったのだ。

たかが四、五年で、組がこんなにも力を無くしているとは……これは英三が思ってもいなかったことだったから。

狂人組が以前から支配していたシマに自分が行けば、シマは何とかなるだろうと、この時点での英三は考えていたに違いない。

しかしその考えは、一瞬にして打ち砕かれることになる。

ヤクザがこの社会で生活していくには、余りにも過酷な環境になっていた。

シノギはおろか、自分の生活さえ成り立つかどうかわからない状況であった。

英三は刑務所から出て一ヶ月間は、組に甘えることも出来るだろうが、その後は自立と貢献が必要となる。

しかし英三は、この一ヶ月後に事件を起こしてしまう。

以前であれば、ヤクザの代名詞である顔が、この社会では全く通用しないことに英三は苛立ちを感じはじめていた。

その結果、力づくでみかじめ料をせしめるようになっていた。

それに対し警察は、これを事件として捜査をはじめる。

それでも英三は、みかじめ料をせしめるため、方々の飲み屋に顔出し、自分の力を武器に店員を脅しては金を手にしていた。

ある日、同じように脅して金を得ていた英三だったが、その店は他の組の組員が経営するキャバクラだった。

竜成組の九條という組幹部の女が経営する店だったのだ。

この九條という人間は、英三が過去に佐田沼組の組長と若頭を殺したという話は知っていていた。

当然、危険な人物ということは知ってはいたのだが、この時の九條の怒りは半端ないものであった。

九條は竜成組の中でもやり手の組幹部で、暴対法の網を潜るようにシノギを稼いでいる人物であった。

この暴対法にも勿論、隙間はあった。

それは暴力団ではないところには適用されないということだ。

九條という人間は、それを上手く利用していたのだ。

それが半グレだ。

九條は半グレの三団体と親しくしている。

その数は総勢三百人を超える大きな規模になっていた。

九条と半グレの間柄は、お互いに利点があるようなバータな取り引きがなされている。

暴力団であるが云えの利点と、暴力団ではないという利点、お互い良い方を利用し共存を果たしていた。

九條と親しくしている半グレ三団体、それを纏めている林原に金を与え、仙玉英三を見つけて捕え、死ぬ一歩手前までヤキを入れろと指示を出していた。

「そんな簡単な仕事で百万も頂けるなんて有り難いです。今後も色々と協力させて頂きますわ」

「頼むわ、お互い持ちつ持たれつの関係だからな」

この計画は、翌日から決行された。

半グレ三団体のトップに立つ林原の号令で、三百人余りの者が一斉に英三を探し回った。

林原は自身が経営するバーに半グレ三団体の長を集め、下の者達からの連絡を待っていた。

そして、林原の隣に座る男の携帯電話が鳴った。

「おう、長嶋だ」

「見つけました、仙玉です」

「そうか、何処だ? 奴は何をしている?」

「三丁目にあるバー 、シャンソンで呑気に飲んでいますよ」

「奴は一人か?」

「付きがニ名います」

「絶対に奴から目を離すなよ! 今からそっちに大勢の人を回すから、準備ができ次第、店を襲撃だ」

「わかりました」

電話を受けた長嶋は隣に座る林原にやり取りを報告、そして林原から指示が飛んだ。

「直ぐ三十人ほど、バーシャンソンに向かわせろ」

そして十五分後、再び長嶋の携帯電話が鳴った。

「今ここに四十人ほど集まりました」

長嶋が、林原に電話を渡した。

「林原だ、外に見張りを五人ほど残して、あとは全員店に入り、仙玉英三を襲撃しろ。いいか、絶対に殺すなよ! 半殺しにしろ! 仙玉英三は喧嘩がとても強い。人数がいるからといって舐めてかかるなよ!」

「わかりました」

バーで飲んでいる英三は、外で起きていることには全く気付いていない。

そしてバーの扉が荒々しく開き、それは始まった。

金属バットや鉄パイプといった武器を持参した、三十人余りの半グレが一気に店の中になだれ込んで来た。

店の従業員の女性は叫び声を上げ、店の奥へと走って逃げて行った。

英三はソファに座ったままで、堂々と構えていた。

両脇に座る付きの二人は立ち上がり、英三を護るように前に出た。

「仙玉英三と、隣にいる二人のヤクザ以外には手を出すつもりはない。用事ない者は奥にでも行ってろ」

「お前ら、俺の事を分かってここに来ているみたいだな。そしてお前らはとっても弱虫みたいだな。俺のことがそんなに恐いのか? だからといって、そんなに大勢で来る必要があるのか? 恥ずかしくないのか? お前ら弱いんだろう? 早く家に帰って寝ていろ」

「ふざけたこと抜かしやがって! 絶対に黙らせてやる! おい、殺れ!」

武器を手にした三十人余りの者が、三人を取り囲み攻撃が開始された。

大振りで武器を振ってくる半グレの攻撃を、初めは交わすことができていた三人だったが、あまりにも数が多く、敵の攻撃は次第に英三達の身体を捉えはじめていた。

そんな中でも英三は、テーブルの上にあったボトルを手にして相手の頭をかち割り、割れてトゲトゲになったボトルを使い、刃物のようにして相手を刺し反撃した。

英三の前には五人ほどの者が、血だらけの状態で半グレが床に倒れていた。

英三が更に一人の半グレを刺した後、後ろから鉄パイプで背中を殴打され、身体は前によろけた。

英三の前で金属バットを持って構えていた者は、英三の足に向け殴打した。

その後は無数の凶器が止む間なく、英三の身体を捉えていた。

そして三人は、意識を失ってしまった。

英三が意識を取り戻したのは病院のベッドの上だった。

体中が痛い、英三の身体は身動きが取れないようベッドに固定され、目は半分も開かない状態だった。

頭は包帯でグルグル巻き、かろうじて生きているのだと感じた。

そのあと英三は、一緒に居た仲間二人がどうなったのか気になるが、それを声に出すことすら出来ない状態だった。

『こんな事ってあるのか? 強者の世界だろう! 何故こんなにボロボロにならなくてはいけないのだ? 俺は強者だよな! 自分が強ければ強いだけ多くの敵を作ってしまい、最終的にはこんな結果になってしまうということなのか……だったら、こんな世界からは早く逃げたい』

英三が憧れていた強者の世界とは、とても激しく、周り中が敵で、誰も信じることができない世界だった。

本当は一番辛い世界なのかも知れないと思っていた。

そして大切な仲間をも巻き添えにしてしまった……あれは確実に英三を狙った襲撃、二人には関係がなかったはずだ。

英三は二人に申し訳ないことをしたと反省していた。

俺がこの世界に来なければ、俺が誰よりも強くなりたいなど考えなければ、こんなことには成らなかったのだろう……英三は反省の念で一杯だった。

身動きができない身体になってしまった英三は、何とかこの世界から逃げなくては、いずれ自分が殺されてしまうだろうと怯えていた。

この世界に来て怯えたことなど、初めてのことだった。

病室の外には数名の組員が居るのだろうか、時々ドスの利いた声が聞こえてくる。

「お疲れさまです。親分、英三兄貴はこちらの部屋です」

そして組長が病室に入って来た。

「英三……大丈夫か? 今は痛いだろうが、絶対に回復するから、今は頑張ってくれよな」

組長の姿を見て、そして、その言葉を聞き、英三の目からは涙が溢れ出していた。

そして英三は、今動かすことができる最大限の力を振り絞り、感謝の気持ちを込め、組長にうなずいた。

病室をあとにした組長、病室の外で待つ組員との会話が微かに聞こえてきた。

「英三は、一緒に居た二人の事を気にしている。俺はあいつの回復を優先したいから、英三に二人のことは何も言うな」

「わかりました」

「玲司が死んだことを知れば、奴はどんな行動を起こすかわからない」

「輝希は何とか一命を取り留めていますが、予断を許さない状況です。襲撃を起こした連中は、どうやら半グレのようですね。裏からの情報ですが、襲撃した人数は三十人以上はいたのではないかと言っていました。それでいて殺すことが目的ではなかったようです。奴らは刃物や銃を一切使用せず、殴打する道具だけで襲撃しています。玲司が死んだことは想定外だったかも知れませんね」

「半グレを裏で操った者が必ずいる。そいつを探し出してくれ」

一緒に居た二人の内一人、玲司は亡くなっていた。

英三はあの日、玲司と輝希を飲みに誘わなければこんなことにはならなかったと、再度自分を責めた。

これがヤクザの世界、初めは可笑しく、そして楽しく、我がまま自分中心に生きてきた。

金も沢山入り、好きな物を好きなように買うことができ、自由奔放に生きてきた。

しかし、時が過ぎ時代は変わった。

ヤクザが生きていくには厳しい世の中になっていったのだ。

暴対法、みかじめ料の禁止、それが原因で収入が激減、更に普通の民間の人間であれば当たり前にできる、物を買う、不動産を借りる、通帳を作る等のことが、ヤクザであることで出来なくなってしまった。

このままヤクザを続けていくことは厳しい。

僅かなシマも今は、取り合いが激しくなり、今後は抗争事件は絶えないだろう。

英三がヤクザとして生きていくことにも限界がやって来た。

ただ、元の世界に逃げ帰るにしても、自分の仲間を殺されている以上、この落とし前だけはつけていかなければ成らない。

そのためには早く身体を回復させ、あの昭和のテレビを見つけなくてはいけない。

自分と仲間をこんな目にした男を必ず殺してやる。

英三は逮捕される前に、元の世界に逃げ帰るつもりだ。

この世界のヤクザとして、最低限の役目を果たした後で。

六ヶ月後……

英三の回復までには、六ヶ月という時間を要した。

その間病院の外には、他組のヤクザ者と半グレがしばしば現れていたようだったが、英三の病室の前には二十四時間、狂人組が張り付いていたことから襲撃は無かった。

英三は奇跡的に完治することができたのだが、玲司は死亡、輝希は脳に障害が残り半身不随の体となってしまった。

英三は復讐に燃えていた。

狂人組の調べによれば、英三を襲撃するよう指示した者は竜成組の幹部、九條だ。

ある意味、狂人組の調べは正確であったことになる。

英三はこの調べを元に、組の者にも気づかれることなく、着実に復讐の計画を立ていった。

そう、英三は一人で復讐をするつもりなのだ。

もうこれ以上、仲間を犠牲にしたくないとの思いからだった。

英三は密かに銃の密売人と接触し、殺傷能力が非常に高い、デザート イーグルという拳銃を手に入れた。

この銃は五十口径もあり、威力が強く大きな弾丸を使うことから、破壊力が桁違いに凄い。

英三は、その銃を選んだのだ。

英三は九條を、必ず仕留めるつもりなのだろう。

銃を忍ばせ竜成組の事務所付近に車を停め、九條が現れるのをジッと待った。

しかし、その日は現れず、英三は車の中で一夜を明かした……

あらかじめ怪しまれることがない様、車は軽自動車のアルトに乗っていた。

これであれば竜成組の組員からも、怪しまれることはないだろうと考えていたのだ。

英三は九條が現れるまで、意地でもその場を離れるつもりはなかった。

昼頃、組事務所の前に黒いアルファードが停まった。

二人の組員が玄関の外まで出て来ていた。

後部座席のスライドドアが開き、降りてくる一人の足が見えた……次の瞬間!

『奴だ! 九條だ!』

今は落ち着けと、英三は自分の気持ちにブレーキをかけていた。

『奴は事務所の中に入った……帰りも必ずあそこから出て来るはずだ。あのアルファードが横付けされた時、その時が奴の最後の時、奴が地獄に落ちる時だ』

英三は車のナンバーをしっかり目に焼き付けた。

それから二時間が経った頃、事務所の玄関に黒いアルファードが横付けされされた。

ナンバーも九條のアルファードのもの。

英三はアルファードのテールランプを見ながら、ゆっくり車を進めた。

アルファードが停車している少し手前には、左折ができる路地がある。

英三の狙いは、路地に向かって車を左折させた所で車を停め、事務所から出てくる九條を運転席から発砲する計画だった。

更に車を進めていく英三、事務所から人が二人出て来た。

英三は車のフロントを左の路地に向けた状態で車を停止させ、窓を開けて銃を構えた。

『出て来た!』

バーン、バーン、バーン、立て続けに三発撃ち、全ての弾丸が九條の身体を捉えた。

周りに居た二人に向けても四発、弾丸を発砲して、装弾していた七発の弾丸の全て撃ち尽くした。

そのあと英三は、車を急発進させて現場から逃げて行った。

そして英三が向かった先は田舎にある実家だった……そこには、あの昭和のテレビがあるからだ。

英三は急いだ、実家に到着する前に警察に逮捕されてしまえば、これで自分の人生が終了してしまうからだ。

ここで逮捕されたら次はいつ出所できるか分からない。

今回は人を三人も殺してしまったのだから。

実家までは一般道を走って二時間、部分的に高速を使うという手もあったのだが、それは警察の手が回るというリスクと、逃げ場が無くなるという二つのリスクがあった。

英三はとにかく、一般道で実家を目指した。

道は渋滞もなく一時間半で実家に到着、警察はまだ来ていないようだった。

母親が庭で畑仕事をしていたが、帰宅した英三に気づき「英三……帰って来たのかい」

「ああ、そうだ。また旅に出るから準備しに帰って来た」

「ご飯、食べるか?」

「今日は急いでいるから、また今度な」

英三は高校まで使っていた部屋を目指して走った。

押入れの襖を開け、あの昭和のテレビを見つけた。

「あった! 俺は助かった」

外ではパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。

「仙玉英三は居るか?」

「家の中に居ますが、何か……」

「人を殺した、中に入るぞ」

警察は二階の部屋近くまで迫って来ていた。

英三は慌ててテレビのスイッチを引っ張り、テレビのチャンネルが二の位置にあるのを確認してウルトラマンのポーズをとった。

英三は回転しながらテレビに吸い込まれ、一瞬にして姿を消していった。

警察が英三の部屋にやって来た時に残っていたのは、電源が入ったままの古いテレビが押し入れの中にあるだけだった。

そのテレビに映し出されていたのは砂嵐だった。

そして英三は、元の世界に帰ることが出来たのだった。









五.チャンネル三の世界


殺るか、殺られるか、恐怖の世界から戻って来た英三は恐い英三ではなく、元の世界で生活していた普通の英三に戻っていた。

そして普通の液晶テレビを付けて、天海祐希が主演している結婚相談所を舞台としたドラマ『私が結婚させます!』を観ていた。

天海祐希演じる峯崎瑠璃子は、とても特殊な結婚相談所を経営している人物である。

「結婚か、俺も一度はしてみたいな」

英三が戻って来た世界は、生活環境はもちろん年齢もそのままだ。

「それにしても恐ろしい世界だったな……やっぱり俺は強くなんか無くていい。それこそ普通でいいんだ。えっ、ところで普通って何だろう?」

英三は、またあの昭和のテレビの前に座り「このテレビ、まともなチャンネルはないのか?」そう言ってスイッチを引っ張った。

チャンネルは二の位置を向いたまま、テレビ顔面が映し出していたのは砂嵐だった。

「次は三チャンネルか」

英三はチャンネルを三の位置に合わせるとタイトルが現れた。

『普通に結婚してみよう』

「これだ、結婚だ! そうだよな、普通ってこういうことなのかも知れないな。よし結婚でもしてみるか」

結婚でもしてみるかとはよく言ったものだ。

本当の世界で生きる英三の年齢は四十歳だ。

それこそ英三なんかは、結婚相談所でも利用しない限り結婚など出来ないような男だ。

いったい今回の世界は、何歳から始まる物語になるのだろうと楽しみにしながら、テレビ画面の前でウルトラマンのポーズをとった英三、やがて渦を巻きながら画面に吸い込まれていった。

そして着いた先ではお決まりのように顔から着地、不様な姿をさらけ出していた。

到着した家で自分の姿を確認するため洗面所に向かい、自分がどんな顔なのか確かめた。

「普通じゃん。元の世界の顔とほとんど変わっていない。年齢は二十代後半ぐらいかな」

「英三、何をしているんだ! 早く支度しなさい。今日は式場の打ち合わせなんだろう」

「式場? 何の話だよ」

「あら、この子はいよいよ頭までおかしくなってしまったのかい。来月に迫った結婚式の打ち合わせをする日だろう」

「そっか、それじゃ支度するか」

この世界の英三は、既に結婚する相手も日取りも決まっているようだ。

いったい英三は、どんな相手と結婚することになっているのだろうか。

今日は両家の親も同伴して、結婚式に振る舞う料理の打ち合わせを、試食しながら決めていくことになっていた。

英三は母親と結婚式場に向ったのだが、予約をしていた式場を見てビックリ!

「こんな立派な式場で結婚式をやるのか?」

「あんた達は高いオプションまで付けて、最後には花火まで打ち上げるのでしょう。贅沢な結婚式だよね」

「悪いなぁ母ちゃん、迷惑かけます」

「何を言っているの! 私は一銭も出しませんからね。あんたが借金してでもやると言ったじゃないか。そんなに無理をしないで、小さな式にすれば良かったのに。総額七百万円も結婚式にお金をかけるなんて信じられないよ」

『マジかよ……借金か! ローンは月々いくらなのだろう』

「ぜんぶ彼女の言いなりなんだから仕方がないよね」

二人は式場の中に入り、彼女とその両親と落ち合い、結婚式で振る舞う料理を決めるためレストランに向った。

彼女の名前は瑞穂さんというらしい。

少しぽっちゃりとはしているが、全体的には可愛らしい感じの方であった。

「欲を言えばもっと奇麗な人が良かった」と思っている英三であった。

本当の世界では、自分で結婚相手すら探すことも出来なかったダメな男が言えるセリフではない。

相手の彼女はもっと妥協して英三なのかも知れない。

ただ英三も瑞穂さんと話をしていて、とても優しそうな良い人だと感じていたのだ。

理想ばかりを追いすぎていては結婚など出来ないのかも知れない。

打ち合わせが終了したあと、両家の親は帰宅して、英三と瑞穂さんは新婚生活に向けた買い物に出掛けた。

二人であれがいい、これがいいと言いながら、楽しく買い物していると、結婚は良いのかもと感じるようになっていた。

結婚式まであと一ヵ月、住む所は会社の近くで広めのマンションを借りることにしていた。

結婚式当日……

結婚式は五十人ほどの来客と共におこなわれ、皆んなから盛大な祝福を受けた幸せな式になった。

新婚旅行はヨーロッパ十日間の旅、ここでも盛大に買い物と食事、全ては英三のカード払いで借金は更に増えていった。

『まぁ、これから二人で働いていくのだから、少しは余裕が出るだろう』

英三の中ではそんな考えをしていた。

この時点で結婚式の借金と合わせて、月々の返済額は十五万円ぐらいになっていた。

英三の年収はおよそ五百万、年齢からしてそんなに悪くない給料なのだが、それでも月々の支払いが十五万円だと流石に厳しいものがあるだろう。

それでも妻が居るというのは、嬉しいことではあった。

それから時が流れ……

結婚式からあっという間に一年という時が経っていた、幸せだったカップルはどうなったのであろうか……

英三は「行って来ます」「チュッ」なんてことを想像していたに違いないのだが、現実というものはそんなに甘くなかった。

妻の瑞穂は結婚と同時に、正社員として働いていた職場を退社していた。

名目は寿退社だ。

しかし寿退社とは名ばかりで、仕事が遅い、ミスが多い等の理由で上司や同僚からイジメを受けていて、元々仕事を辞めたがっていたようだ。

そのことを英三には全く知らせていなかった。

そして瑞穂は会社でのイジメが原因でうつ病を発症していたのだが、英三にはそのことも伝えておらず、英三も瑞穂がうつ病だということには全く気づいていなかったのだ。

今はテレフォンアポインターとして週に四日パートで働いているが、稼ぎはそんなには多くない。

英三は朝七時に自宅を出て会社に行っているが、自宅を出発する時に起きていたのは最初の一ヶ月間だけ、現在はベッドの中から寝ながら見送るというのが日課になっていた。

瑞穂は午前十時まで確りと寝て、十三時からの仕事に間に合うように家を出て、テレフォンアポインターとして十八時まで働いていた。

それから家に帰り、カップラーメンにお湯を注ぎ、一人で食べるというのが日課になっていた。

夕飯を食べた後は、大量のサプリメントをテーブルに並べ、順番に口の中に放り込んでいる。

体に必要な栄養は、サプリメントで補えば充分という考えであった。

仕事がない日は学生時代の友達とランチ、そこで自分は良い暮らしをしているのだと友達に見栄を張りたかったのだろうか、全身ブランド品を纏い、ランチは平均単価が五千円だった。

英三の帰宅時間はだいたい二十一時頃、いつも手にはコンビニの弁当が入ったビニール袋を下げて帰るというのが日課だ。

「はい、給料明細」

「ん! なに、また給料下がったの?」

「仕方がないじゃないか、取引業者が倒産してしまい、そのあおりを受けてしまったのだから」

「仕事ができないからじゃないのか! こんなに稼ぎが悪いのは、あんただけじゃないの。この給料じゃ、来月からの小遣いは五千円になりますのでよろしく」

「えっ! 五千円、マジで? この毎日買ってくる弁当は別だよな?」

「バカ言ってんじゃないよ、弁当代も込みに決まってるだろうが」

二万円の小遣いでも大変だったのに、それを五千円にまで減らされてしまったら、英三の来月からの生活は、より惨めなものになるだろう。

というより、既に惨めな結婚生活である……妻が食べている一回のランチ代は五千円なのに。

英三のセコセコ生活は、翌日の休日からおこなわれることになった。

現在残っている小遣いは四千円、月初めに貰える小遣いは五千円、これで朝昼食や夕飯も賄わなくてはならない。

この状況を考えて先ずスーパーに向かったのだが、確保したのはお米だった。

五キロのお米を千六百円で購入、それと塩こんぶ、朝昼晩の食事全てを昆布のおにぎりで済ませようとしたのだ。

海苔は巻かない。

とりあえずはこれで一ヶ月分の食料を確保したことになる。

「食費だけでも二千円近くかかってしまった。五千円の小遣い生活が始まれば残高は三千円になってしまう。俺の生活は本当に大丈夫なのだろうか……でもこの難局を何とかして乗り切るしかない。結婚とは辛いものだ。考えていた結婚というものは、お互いが助け合い、そしてもっと幸せで温かいものだと思っていた」

もちろん普通の結婚であればそうであろう。

結婚というものは、色々と辛いこともあるだろうが、英三が置かれているこの環境よりはまだマシだと思う。

給料は減り、英三の財布の中身は苦しくなる中、妻の瑞穂はテレフォンアポインターの仕事を休みがちになっていた。

原因はパート仲間から誘われて行ったパチンコにハマってしまい、徐々にそちらを優先するようになっていたからだ。

週に一回が二回となり、パートの出社前に少しだけと思って入ったパチンコ屋でも、ついつい夢中になってしまい無断欠勤をするようになっていた。

そうなれば当然、勤め先からは怒られ、ついに売り言葉に買い言葉で会社を辞めてしまった。

英三の惨めな生活とは真逆に、瑞穂はパチンコにどっぷりハマるという不思議な生活になっていった。

この頃から妻は、金銭感覚が無くなり、身なりや服装はどんどん派手になっていき、英三の名義で頻繁にキャッシングをするようになっていた。

ギャンブルはパチンコだけでは収まらず、競馬や競輪などにも手を出してしまい、賭け事の全てにハマっていった。

日を追う毎に金遣いは荒くなり、やがて瑞穂に男の影がチラつくようになっていた。

どうやら競馬や競輪を教えたのは、その男のようだ。

パチンコ屋で親切にしてくれていた年上の男で、顔は強面で瑞穂のタイプ、そして口の上手い男だった。

パチンコ屋で機械のことやコツを教えてもらい、楽しく話をしながらパチンコを打つ間柄だったが、いつしか瑞穂は、その男に身も心も捧げるようになっていた。

その男には英三にない物を沢山持っていた。

もの知りで頼りがいがあり、とにかく優しい、瑞穂から見て男としての魅力がたっぷりあった。

瑞穂はその男のことが大好きになってしまい、絶対に嫌われたくないという気持ちから、男にお金まで捧げるようになり、男と結婚したいと想うまでになっていた。

想いが募ればつのるほど、英三に対する態度は逆に冷たくなっていった。

依然として五千円生活を続けていた鈍感な英三でも、ここまでの態度になると気づいてくるものだ。

「瑞穂、お前どうした? 何でそんな態度しか取れないのだ? 何が不満だ?」

「はっ? 不満だらけだよ! 稼ぎは悪いし、男として頼りないし魅力もない。何であんたなんかと結婚したかと後悔しているわ!」

「何ていう言い方だ! 安い小遣いでこんなに頑張って働いているのに、何でそんな風に言われなきゃいけないんだ」

「あんた頑張ってもこれ? そんな安い稼ぎしかできないのは能力が無いってことだろう。私もう限界、離婚しましょう」

「ど、どいうことだ!」

「そのままだよ。あんた顔だけじゃなく、耳まで悪くなったのか? 」

「突発的な感情で、そんなことを軽く言うもんじゃない」

「バカかお前は」

瑞穂は一枚の紙を投げつけた。

投げたのは離婚届、既に瑞穂は記入済みで押印もされていた。

「本気なのか?」

「当たり前だろ、もう無理」

翌日、瑞穂は引っ越し屋に電話をし、その日のうちに引っ越した……英三が仕事に行っている間に。

帰宅した英三の目の前には、ガランとした部屋のテーブルに、綺麗に広げられた離婚届と引っ越し屋の領収書だった。

領収書には『らくらくパック 二十四万円』となっていた。

ダンボールに詰める作業までお願いする贅沢な引っ越しプランだった。

これで英三の結婚生活はあっさり終了してしまった。

「あれ! 俺の預金通帳は?」

どこを探しても通帳が見つからない……慌てて瑞穂の携帯電話に電話をするが「お呼びいたしましたが、お出になりません」何度かけてもこれが繰り返されるだけだった。

「ちきしょう、銀行印もない。あいつ金を全部持って行きやがった。明日、人事課に言って給料の振込口座を変えてもらうしかないな」

これまでのお金は諦めるしかなさそうだが、これから振り込まれる給料だけは阻止しなければならないと思った。

それから一ヶ月後……

「仙玉さんの携帯電話でしょうか? こちらはビックリファイナンスの田所と申します。七月の引き落としが出来なかったと銀行から報告を受けましてお電話をさせて頂きました。今回のお支払いは、振込用紙を送付して対応いたしますので、ご入金の方よろしくお願い致します」

「ちょっと待って下さい、何かの間違いではないでしょうか。私はそちらからお金は借りていませんが」

「仙玉様の奥様がご利用を頂いております」

「何ですって! 一体いくら借りているのですか?」

「上限一杯の百万ですね。月々の支払いが五万円の設定になっています」

「そうですか、しかし妻とは先日離婚しましたので関係ないですよね。失礼いたします」

「何を甘いこと言ってるんですか。借り入れは、仙玉英三さんの名前で借り入れされています。借りたものは、しっかりと返していただかないと、ねぇ、仙玉さん」

「無理ですよ」

「ふざけるな! こっちはあんたの家も会社もわかっているんだぞ! とにかく振込用紙を送りますので、二十日までに入金お願いします。ガチャ!」

「あいつ百万も借り入れしていたなんて……一体何に使っていたのだ?」

もう一度、瑞穂の携帯に電話をしてみるが、今度はコールすらせずに切れてしまった。

ついに着信拒否されてしまったようだ。

そして再び英三の携帯電話が鳴った。

「何だよ、しつこいな! はい、仙玉です」

「仙玉様の携帯電話でよろしいでしょうか?」

「はい、そうですが、何でしょうか?」

「いつもお世話になっております。こちらワイルドキャッシングと申します」

「ワイルドキャッシング? 別に用事はありませんが」

「奥様には大変お世話になっておりまして、今回、大丸銀行から引き落しが出来なかったと連絡がありましたので、契約者であります仙玉英三様にお電話させてもらいました。今月の引き落しが出来なかった分は、振り込みをお願いする形で宜しいでしょうか?」

「私は妻と離婚したので関係がありません。本人に直接連絡してくだい」

「そういう訳には参りません。契約者はあくまでも英三様となっておりますので」

「そんなの知らないです! もう勘弁してください。ガチャ!」

英三は頭にきて電話を切ったが、また直ぐにワイルドキャッシングから着信があった。

「しつこいぞ!」

先ほどの電話は女性からであったが、今度は男性が掛けてきた。

「仙玉さん、あなた何か勘違いしていませんか? 世の中、借りたもの返すというのは当たり前のことですよね。お宅に集金に行きましょうか? 今回は遅延も出ていますので、通常よりも高い金利の他に、手間を掛けた手数料も発生しますが、それでよろしいでしょうか?」

「わかりました、わかりました。支払いますので振込用紙を送ってください」

「ありがとうございます。期日までによろしくお願いします。支払いが確認できない場合は、仙玉さんの自宅若しくは会社に、こんにちは、ってしなければならなくなりますので」

「わかりました。でも一つだけ教えてください、いくらの借り入れをしているのですか?」

「えっ? 信用貸しということで、二百万円でしたよね」

「二百万も! 何故そんな大金を?」

「それは私共には分かりません。しかしあの日、仙玉様も奥様とお見えになっていたじゃないですか。使い道はあなたの方がよくご存知かと思いますが」

「私は行っていません。それでは妻は、他の男の人と来ていたということですか?」

「それ以上のことは、私共ではお応えすることが出来ません。これで失礼いたします」

「何だよ、どういうことだ。瑞穂に男が居たということなのか?」

瑞穂は銀行とは違う金融機関から、三百万もの借金を作っていた。

後日、振込用紙が届き内容を確認したところ、金利は上限一杯の高さで、月々の支払いは二社合わせて十万円を超えるものになっていた。

英三はこの他にも結婚式の借金が残っているのと、住んでいるマンションの家賃は九万円だった。

ひと月の支払いだけで二十四万円になる。

英三の給料は手取り二十三万円、通帳は瑞穂が持っていき、貯金はゼロ。

「もうダメだ……俺は、どうすればいいのだ」

今住んでいる広い住居は不要と考え、狭くても安いアパートに住もうと探してはみたが、入居の際には敷金や礼金もかかる。

敷金と礼金ゼロを謳っているところは、自分の想定よりも家賃が高くなっていた。

今住んでいる所を退去するにも、一定の支出が予想される。

英三はサラ金から届いた振込用紙をジッと見つめ、これはもう逃げるしかないと思っていた。

「結婚生活はあっさりと終わってしまったし、この世界に残る選択は無いよな」

とても幸せとは言えない結婚生活だったが、その結婚生活の短さの方がより悲惨だったと思う。

更に結婚の終わり方も悲惨で、妻は男を作って出て行った上に、多額の借金を英三に残していった。

結婚は懲りごり、もう二度と結婚したくないと考えていた。

ただ、こんな悲惨な結婚生活であっても、瑞穂に対しては多少なりとも未練が残っていた。

だから英三が考えたのは、この世界で生活するのは限界だと思うまで、瑞穂のことを待ってみようと思っていた。

英三は届いた振込用紙の支払いはせず、そして住まいも変えず、何事もなかったかのように会社に行っていた。

振込用紙が届いてから十日が過ぎ、ついに支払いの期日も過ぎてしまった。

瑞穂からの連絡は無いまま。

「あと一日、二日は粘ってみようかな。瑞穂が戻って来てさえくれたら、何とか出来るような気がするから」

翌日も会社に出掛けた英三、午後の二時に異変が起きた。

「こんにちは! 仙玉英三さんが勤める会社でしょうか?」

英三の会社が入っているビルの一階から、大声で叫ぶ一人の男が居た。

「あっ、三角商事は五階だね。今から行きます!」

「マズい、借金取りだ!」

男はエレベーターに乗ったと推測し、事務所に居た英三は階段に向け走り出した。

「おい仙玉、どこ行くのだ?」

英三は何も言わず、事務所を飛び出し階段を駆け下りた。

「おい! 仙玉いるか?」

「どちら様でしょうか?」

「お前が仙玉か?」

「いいえ違います。仙玉は先ほど外出しましたが」

「はぁ? いつだよ? 俺は奴の借金を取りに来たんだ! んっ?」

やけに外を気にする社員の目に不信を感じた借金取り、事務所の奥まで入り込み窓から外を見た。

「あいつか!」

そう言って慌てて事務所から飛び出しエレベーターに乗り込んだ。

そして外に出ると、英三が走って行った方向に走って行った。

「何だったのだ? 仙玉はあんなヤバい所から金を借りているのか?」

英三と借金取りとの距離はまだ離れてはいたが、追われる者というのは心臓がバクバクものだ。

英三はタクシーを捕まえ自宅に行くよう依頼した。

英三を見失った借金取りもそのうち、自宅に向かうことは間違いないだろう。

だから英三としても、一刻を争う事態だった。

マンションに着いた英三が一目散に向かった先は押し入れ、あの昭和のテレビを見つけるために……

ここで限界を感じた英三は、元の世界に戻る決心をした。

押し入れの中でテレビを見つけると、素早くスイッチを引き、あのポーズを取り画面の中へ消えていった。

英三は結婚生活を送るという世界でも、苦く辛い、後味の悪い結末を迎えてしまったのだ。









六.チャンネル四の世界


結婚のチャンネルではひどい目にあった英三は、只々うなだれるしかなかった。

そして現実の世界に帰れたことを実感するため、普通の液晶テレビをつけた。

テレビで放送されていたのは、佐藤 健が主演の連続ドラマ『前世の旅』であった。

このドラマは、自身の前世から頼まれた主人公が、前世が生きた時代にタイムスリップし前世の人間となり、前世が辿った悲惨な運命を変えるため、代わりに自分が生きるというドラマだった。

見終えた英三はドラマに感動、あのチャンネル三で起こったことは早めに忘れようと思い、またあの昭和のテレビと向かい合っていた。

英三はチャンネルのダイヤルに手を伸ばし、早々に次のチャンネル、四の位置に回してみた。

すると直ぐに、画面にはタイトルが現れた……『裕福な家柄で生活してみろ!』

英三はとっさにテレビのスイッチを切った。

「待てよ、またひどい目に合うのではないだろうか」そんな思いからだった。

だから英三なりに少し考えてみた。

やはり人生というものは、どんな家に生まれてくるかによって、生活に大きな違いが生まれると思う。

一等地に広大な土地や建物を持つ不動産王、そして大企業のオーナー、財閥といわれる家系に開業医、そんな裕福な家にさえ生まれていれば何の苦労もなかったのだろう。

「このチャンネル四とは、どんな家に生まれ、そして育っていく事になるのだろうか」

英三は先ほど映し出されたタイトルに、少しずつ興味を持ちはじめていた。

英三としては、家が金持ちでさえあれば、楽に人生を過ごしていく事ができると考え、このタイトルの生活に期待してみることにした。

「よし、ボンボンの暮らしでも体験してみるか」

英三はテレビのスイッチを再度引っ張り、タイトルを確認して、そのあとはお決まりのポーズで裕福な家の生活へと向かって行った。

次の世界でも顔から落ちた英三だが、今回は全く痛くなかった。

それは落ちた場所がフカフカのベッドの上だったからだ。

痛くないというよりも、とても柔らかくて気持ちが良かった。

やっぱり高級なベッドは違うなと感動する英三だった。

今まで味わったことのないベッドの感触を、何度も確かめるように、英三はあのポーズでベッドに飛び込んでいた。

お馬鹿な遊びをしていると、部屋に設置してある内線が鳴った。

「英三ちゃん、お食事の用意ができました」

「はーーい」

今度の世界は高校生から始まるようだ。

英三はパジャマを着ていたのだが、そのパジャマにはヴェルサーチのロゴが付いていた。

ためしに部屋に備え付けられていたクローゼットを開けてみたが、中には高そうな服がいっぱい並んでいた。

それからエレベーターで食堂に向かった英三、食堂のテーブルには朝から豪勢な食事が並んでいた。

「朝からフランス料理」

「ごめんなさい、今日は少しメニューが少なめで」

「少ないことはないよ。いつもありがとうございます」

「英三ちゃんは本当に良くできた子です」

「いただきます」

英三はナイフとフォークを使い、豪華な朝食を食べはじめた。

「美味しい」

「たくさん食べて、今日も勉強頑張ってね」

今日は学校は休みなのだが、大学受験のため家で勉強をしなければいけないようだ。

「今日は一時から、家庭教師の先生が三人見えられますよ」

「わかりました」

「英三ちゃんはこの家の後継ぎ、早く立派な医者になって仙玉病院の手助けをしてくださいね」

英三は応桂義塾大学の医学部を受験する予定だ。

家庭教師を三人も付けて本気モードに見えるが、逆の考えをしたならば、英三には三人も家庭教師を付けなければ大学の受験が危ういということになる。

ただ父である仙玉病院の院長、仙玉金成の力があれば、英三一人ぐらいを合格させることなど容易いことなのであろう。

しかしそれは、最後の手段なのかも知れない。

仙玉病院の長男である英三は、仙玉家の名誉を背負っていると言っても過言ではない。

歴史ある大きな病院の長男が、現役合格せずに、一浪二浪なんていうことは絶対に有ってはならない家系、何がなんでも父が現役合格させるだろう。

仙玉金成は、全国医師会の理事も務める大物医師、裏に手を回せば英三を入学させることなど容易いことである。

しかし大学に入学させることが出来たとしても、その後の学業についていくことができなければ医者になることなど出来ない。

そのためにも最低限の学力は必要となるだろう。

英三は元の世界で一番嫌いだったのが勉強、それに取り組まなければならないという辛い試練を味わっていくことになる。

今日父の金成は、応桂義塾大学に講師として招かれている。

その講義が終われば学長と会い、英三のことをお願いしに行くに違いない。

世の中というものは、お金と権力が有ればどうにでもなるものなのだ。

この家のに生まれた時から、医者になるためのレールは引かれ、英三はただそれに沿って歩いて行くだけで良いのだ。

それに一生お金に困る事など無い生活が確定している。

それはとても幸せなことだ。

人はどこに生まれてくるかによって、人生のレールというものは大きく変わってしまうということなのだ。

もしかしたら英三は、この世界から離れることなく、一生この世界で生活していくかもしれない。

それも一つの運命なのかも知れない。

しかし英三には重い試練がある……今は三人の家庭教師を招き、猛勉強の真っ只中なのである。

この世界の英三はそこそこ頭は良いのだろうが、応桂義塾大学の医学部に合格するような学力はおそらく無いだろう。

今は嫌いな勉強をひたすら頑張るしかないようだ。

「英三くん、凄いじゃないか! この難しい問題も解けるようになったのだね。あとひと頑張りです」

「ありがとう。大変だがやるしかない」

「お手伝い致します」

応桂義塾大学の医学部で講義を終えた金成は、その後で学長室を訪れていた。

学長は金成のかつての恩師、教授に成りたての頃に講義を受けていた。

「学長、お久し振りでございます。この度は講師として呼んで頂き、本当にありがとうございます」

「仙玉さんは優秀な医者です。こちらから頭を下げてお越し頂いていますよ。今後ともよろしくお願い致します」

「もったいないお言葉です。さて、早いもので私の息子が大学受験を受ける歳になりました」

「そうですか、もうそんなに大きくなられましたか。それで息子さんは医者の道に進むのでしょうか?」

「その予定で、今は猛勉強しております」

「それでどの大学に進学を予定しているのでしょうか?」

「やはり医学部では一番と言われている、この応桂義塾大学で勉強させたいと思っております。ただ……もうひと頑張りという状況です」

「そうですか……わかりました。それであれば私に任せてください。ところで息子さんの名前を教えてもらっても良いですか?」

「英三、仙玉英三と言います」

「英三さんですか、良い名前ですね。わかりました。私が必ず合格させましょう」

「そう言って頂けると有り難いです。これはほんのご挨拶です、お受け取りください」

そう言って金成は、菓子折りが入った大きな紙袋を学長に手渡した。

菓子折りの中には勿論、大金が入っていた。

箱半分ほどのスペースに、帯がかかった札束が五つ入っていた。

「おう! これは美味しそうなお菓子ですね。英三くんのことは私に任せてください。この大学でしっかり勉強して頂き、仙玉病院で活躍される立派な医者に育ててみせます」

「よろしくお願い致します」

これで英三レールの上にそびえ立っていた重たい門は開かれた。

このやり取りを知らない英三は、その後も猛勉強を重ね、いよいよ運命の受験の当日を迎えていた。

試験で力を出し切った英三、その後の合格発表では英三の受験番号の表示があった。

英三は当然、それも何の疑いもなく、自分の実力で合格したと思っていた。

大学に通うのは最短で六年なのだが、英三はいったい何年間通うことになるのだろうか。

しかし、そんなことは考える必要もなかった。

やはり父の力は偉大だ、実際は卒業までの単位は足りてはいなかったが、そこは学長のハンコ一つ、それだけで事は済んだ。

いろんな手を使い医師の国家試験にも合格した英三は、来月から県立病院で臨床研修医としての勤務が決まっていた。

この臨床研修医は最低でも二年は経験を積まなければならない。

当然ではあるが、この県立病院にも金成の息はかかっていた。

英三は県立病院で特待生のような扱いを受け、二年の研修医生活を無事に終了したのだった。

その後は引き続き県立病院で医師として働くことになる。

担当は内科、主に消化器内科医として患者を診察することになった。

県立病院を訪れる患者の数は半端じゃない。

それこそトイレに行くことすら迷ってしまうことがある程で、こちらの方が身体を壊してしまいそうだと思っていた。

消化器内科は多岐にわたり診療しなければならない。

お腹が痛いといっても、何が原因なのかを判断しなければならない。

血液検査や触診、カメラを入れたりエコーに問診、この県立病院には最先端の医療機器が揃っており、それらの技術を頼りにすれば大半のことは解決できるのだが、原因を中々特定できずに悩んだりすることもあった。

英三は新米の医師で経験不足から分からないことも多くあり、先輩方に相談して解決していくことも多々あった。

お年寄りは年齢からくる老いという問題もあることから、薬でごまかしてしまうようなこともあったが、そこが小児科とは違い、寿命という言葉が使えるだけ精神的な負担が少い面はあった。

県立病院で医師として働き三年が過ぎた頃、英三の父親である金成から連絡があり、その後は仙玉病院で働くことになった。

英三は仙玉病院の跡取り、その病院での第一歩がいよいよ始まろうとしていた。

父である金成は仙玉病院の三代目、英三が無事に病院を継ぐことが出来れば、仙玉病院の四代目となる。

父の期待を一身に背負い、県立病院で担当していた消化器内科医として仙玉病院の勤務に就いた。

県立病院で診てきた患者と比べたら症状が軽い患者さんが多く、英三としては負担が少なくなったと感じていた。

一ヶ月後、仙玉病院から給料を頂いた英三、その明細を見た瞬間、英三の目は点となったが口元は徐々に緩み、やがて白い歯が顔を出していた。

「百七十万……ひと月でこんなに貰えるのか」

英三はその夜、父の部屋を訪れお礼を伝えた。

「英三が来てくれたおかげで私の負担は軽くなったよ。とても助かっているし、そのぐらいの働きはしてもらっているよ。ありがとう、これからも宜しく頼む」

「はい、ありがとうございます」

ここから英三の暮らし振りは、派手さを増していくことになる。

夜は飲みに行くことが増え、週に五回というのも珍しくはなかった。

これまでもお金に不自由することなく、ボンボンとして贅沢を重ねてきていたのだが、その贅沢は一気に加速し、毎夜キャバクラ通いをするようになっていった。

医者で病院の後継ぎ、玉の輿に乗りたいという女性が英三を取り囲むようになっていた。

「この世界の生活はやめられないな。このまま一生ここで暮らそうかな」

英三は素晴らしい生活を手に入れたと心から思っていた。

前回みたいに結婚で苦労をすることなどないだろうし、この生活なら自然に、それも贅沢な結婚ができるだろうとも考えていた。

昼は医師として真面目に頑張り、夜は別の顔で遊び捲くる、そんな生活を手に入れていたのだ。

しかし頑張ってきた仕事と毎夜の夜遊びが祟ったのだろうか、診療時間中に睡魔が襲い、ウトウトと目が閉じてしまうことがあった。

それでも何とか堪え診療を続けようとするが、やはり疲れには負けてしまい、時々いい加減な診断になってしまうこともあった。

腸炎を胃炎と判断するぐらいならまだしも、インフルエンザを風邪を間違えてしまってはいけない。

しかし、そんなことが起こるようになっていた。

ここまで来ると夜遊びは控えて仕事に集中していかなければならない。

それを実行した英三、その後は誤診をするようなことは無くなっていった。

夜遊びを控えるようになってから一ヶ月が経った頃、英三は一つの虚しさを感じるようになっていた。

お金は沢山持っているのに、今は日々、仕事をこなすだけのつまらない生活。

そのつまらない仕事のために、楽しみだった夜遊びを控えなければいけないという単純な虚しさだった。

仕事は朝から晩まで休む間もない忙しいのだが、この病院の長男として生まれたからにはこれが宿命、三代続いた仙玉病院をこれからは更に評判も良くしていかなければいけない。

もちろん誤診などあってはならない、ましてや自分のミスが原因で患者が亡くなってしまうこと等あれば一大事となってしまう。

この時の英三は思っていた、お金や財産が腐るほどあったとしても、それを使う時間がなければ意味がないと。

只々、仕事に追われる日々、そして後世に病院と財産を継承していくだけのつまらない人生だと感じはじめていた。

金持ちの人生などは、はじめから決まったレールをひた走るだけの詰まらないものであることも実感していた。

生活していくことには何の不自由もないのだが……

そう思っていた夜、英三は久しぶりに飲みに出ていた。

一ヶ月振りに来た夜の街に心踊り、溜まりにたまったモヤモヤは一瞬にして洗い流された。

やがて夜の遊びは酔いの気持ち良さに変わり、英三は過去最高とも言える量のお酒を飲んでしまった。

幸い翌日は病院が休診日、英三は二日酔いと闘う休日となってしまった。

しかし不思議なものだ、また夜が来れば元気が出た。

明日は仕事ということもあり、今日は大好きなお酒は少し控えめにすると心に誓い、また夜の街へと出掛けて行った。

お酒は少し控えめながらも、今宵も夜の遊びを満喫した英三だった。

そして夜の街を離れたのは日付が変わる少し前、帰宅後は明日の仕事に備えて直ぐに就寝した。

英三は自宅の食堂からのコール音で目覚め、朝を迎えた。

アルコールの影響はさほど感じられず、目覚めの良い朝を迎えることができていた。

朝食もご飯二膳を平らげた後、出勤の準備に取り掛かった。

夜遊びの疲れなのだろうか、洗面所で目眩のようなふらつきはあったものの、さほど気にする程のことでもなかった。

この目眩の原因は、優秀な家系の生活に医者という多忙な職業、お金には全く不自由しない生活から脱出したいという、精神的な出社拒否の症状だったのかも知れない。

ただ、元居た世界の生活と天秤にかけると、断然、今の生活の方が遥かに良いだろう。

休み明けの仙玉病院は、朝から多くの患者が来院した。

英三の診察室も、次から次へと患者が訪れて来る。

毎年この時期になるとインフルエンザの患者が増えてくるのだが、この年は通常の風邪とノロウイルスも同時に流行していたのだ。

訪れる患者の症状は主に発熱や倦怠感、それに咳と鼻水、腹痛や嘔吐である。

診察に訪れた患者をなるべく速い時間で診察して、患者をなるべく待たせないことを英三は優先していた。

その結果、普段よりも多くの患者が押し寄せて来ていたのだが、通常と同じ時間で全ての診察を完了させていたので混乱もなかった。

看護師からは「さすが若先生、あんなに患者さんが来ていたのに仕事が早い。素晴らしいです」そんな声が上がっていた。

当然、英三もまんざらではない。

院長である父からもお褒めの内線が入り、益々気分が良くなった英三は、また夜の街に出掛けて夜の女の子達に自慢したいという気持ちなっていた。

夕方、病院に一本の電話が入った。

昼に英三の診察を受けた三十代の患者の妻からだった。

この患者は昨日の夜から、激しい腹痛と嘔吐、それに発熱を発症していたことから仙玉病院を受診していた。

英三の診断はノロウイルス、しかし様態はどんどん悪くなっているという内容だった。

英三は看護師に「直ぐに病院に連れて来るよう伝えてくれ」と指示を出した。

病院に到着した患者は確かに様態が悪そうだが、再診した英三の診断は変わることなくノロウイルスだった。

そのことを患者の妻にも伝えた。

しかし、あまりにも痛がるので追加で痛み止めを処方して、妻もノロウイルスであればと一安心して帰宅して行った。

痛み止めの薬が効いたのか、帰宅直後は落ち着きをみせていた患者だったが、再び深夜に様態が急変、意識がもうろうとした状態で県立病院に救急搬送されていた。

患者を診た県立病院の先生は、緊急手術が必要と判断をして、即刻手術がおこなわれた。

しかし、既に手遅れだった……午前三時四十分、三十代の男性は死亡してしまった。

この患者の死因は急性すい臓炎、英三が診断したノロウイルスではなかったのだ。

急性すい臓炎は、突然起こるすい臓の炎症の一つで、すい臓がむくんで腫れるほか、炎症が強い場合はすい臓の血流が悪くなり組織を壊死します。

突然の激しい腹痛を伴い、重症化すると死亡する可能性がある重い病気である。

英三は適正な検査を怠り、急性すい臓炎と診断できていなかったという、完全なる英三の誤診であった。

死亡した男性の家族は悲しみに暮れると同時に、仙玉病院に対する怒りが込み上がっていた。

手術を担当した外科の先生に、仙玉病院で受けた診断と経緯について話をした妻、それに対して先生から出た言葉は「えっ、仙玉病院でこの症状をノロウイルスと判断されたのですか?」だった。

外科の先生は英三のことも、そして父、金成のこともよく知っている人物なだけに信じられないという思いであった。

しかしこの先生も思い当たる節はあった、英三は非常に優遇されていた研修医であったことだ。

何かしらの大きな力が働き、優遇されている研修になっているのではと思っていたからだ。

この仙玉病院の誤診により患者が死亡するという重要案件は、朝の七時に県立病院の院長に伝えられた。

「なんてことだ……ともかく親族が騒ぎ立てる前に、仙玉病院に事を知らせなければ大変なことになってしまう」

県立病院の院長が仙玉英三に便宜を図り優遇していたこと、病院が経験を積ませなかったことが原因で起こった誤診であるということが世間に知れ渡ることになれば、間違いなく自分の身も危ないと悟った。

何とかして仙玉金成と、電話で口裏合わせをする必要があったのだ。

「仙玉さん大変なことになりました。先日、仙玉病院の内科を受診された患者様が、深夜に当病院で亡くなりました。これは英三くんの誤診が原因でした」

「何ですと! 英三の誤診? その時は難しい判断だったのでは」

「検査をすることで判断はできたと思います。それよりもマズいのは、英三くんが私の所に研修医として来ていた時に、私が病院内で彼を優遇していたということが世間に知れるとこです。結果的に、その甘さが原因で誤診を招いたのではないかと言われたくない。亡くなった方の家族は、仙玉病院での誤診が原因だと言って大変お怒りだ。なるべく早急な解決をお願いしたい」

「わかりましたが、仙玉病院を設立して以来、初の失態、先祖に面目が立ちません。病院はどうなってしまうのでしょうか?」

「それは後にしてくれ。とにかく不正がバレることがないようにしてくれ。もしバレることがあれば、応桂義塾大学の学長にまで迷惑をかけてしまうことになる、仙玉さん頼んだぞ」

「わかりました」

この事態を英三はまだ知らなかった。

亡くなった患者の親族の中に、テレビ局で報道関係を担当している従兄弟がいた。

そのいとこは早速、報道局に情報を提供した。

そして診察開始前の仙玉病院の前には、従兄弟が働くテレビ局の取材班が来ていた。

「昨日、仙玉病院で診察を受けた三十代の男性が、深夜に県立病院へ緊急搬送され亡くなられましたが、これについてコメントをお願いしたいのですが」

「詳細はまだわかっておりませんので、コメントは控えさせてもらいます」

「急性すい臓炎をノロウイルスと誤診されたようですが、どのような検査をされていたのでしょうか? そしてその診断は正しかったのでしょうか?」

「詳細がわかりましたらお伝え致しますので、少しお時間をください」

恐れていたことが起こってしまった。

その報道をきっかけに、次々とテレビ局が仙玉病院に押し掛けて来た。

これほど早くマスコミに知れてしまうとは誤算だった。

この後は大火事に成りかねない、この火消しはとても難しいものになりそうだった。

この報道を観た他局のマスコミが、時間を追うごと仙玉病院と英三の自宅に押し寄せて来た。

その頃、応桂義塾大学の学長は、過去に交わした仙玉金成とやり取りや、裏口入学や不正単位を与えたことに関する資料の処分に躍起だった。

そして英三が家を出る際、自宅と病院はマスコミに取り囲まれている状態だった。

英三は質問に一切応じることなく、それらマスコミを振り払うかのように、自身の高級車に乗り込み仙玉病院を目指して行った。

到着した仙玉病院周辺でも、英三を待ち構えるマスコミで溢れかえっていた。

「何だこれは! ちょっとミスをしただけじゃないか。人間誰しもミスくらいすることは有るだろう」

英三は苛立っていた。

しかし気持ちを向けるべき場所というものは、そこではないと思う。

亡くなった人のことや、悲しい想いをさせてしまった親族に対して申し訳のないことをしてしまったという、謝罪の気持ちではないのだろうか。

金成の携帯には県立病院の院長から再度、早く火消しするようにという催促の電話が掛かっていた。

県立病院の外科の先生からは、今回の英三が出した診断が、完全に誤診であった事を説明をする電話が病院に掛かって来ていた。

そして英三が何処までの検査をして、ノロウイルスという判定に逝ったったのかということの説明を求められていた。

「患者から聞いた症状と、世間ではノロウイルスが流行いる状況から判断しました」

「それだけですか? それだけの検査しかしてないのですか? それで急性すい臓炎であったあの患者の診断がノロウイルスですか……信じられない診察だ」

「あれは仕方がなかった! インフルエンザやノロウイルスでごった返す大勢の患者を、私は一人で診察しなければならなかったのですよ。あの状況からして、多少診察が雑になることはあるでしょう。あの人は運が悪かったのですよ、こんな時期に急性すい臓炎を発症したなんて、当院もとんだとばっちりですよ! うちの病院じゃなくても、同じ結果だったと思いますよ。お互い運が悪かった、ただそれだけです」

「あなたは最低な医者だ。いや、あなたが医者であることさえ、あってはならないことだと思う。あなたがおこなってきた過去の不正、私が洗いざらいマスコミや警察にお話いたします」

「私の何が不正だと言うのですか? 私は不正などしていません」

「研修医時代のあなたの待遇、そして研修医としての課程を、あなたは修了していません。この事は私が知り得る事実です。誰と誰の話し合いでそうなっていたのかは知りませんが、私が知り得る全てのことを警察にお話します」

英三の医師としての人生はこれで終わってしまいそうだ……しかし、これは序章に過ぎない。

仙玉病院それに仙玉家、今後の行く末には、暗いトンネルしか見えていない。

これで証明されたことになる、英三は優秀な家系に生まれたとしても、それを活かすことなど出来ない人間だということを。

翌日、仙玉病院の謝罪記者会見がおこなわれた。

「病気を見つけることが出来ず、患者様を死亡させてしてしまったこと、大変申し訳御座いませんでした」という謝罪の言葉から始まったのだが、それ以降の会見で出た言葉は「男性が病院に来られた際、血液を採取して消化酵素の値を調べ、私が確認をしました。しかしその時点での数値は全く異常はありませんでした。その後、何らかの急変が起こったのではないかと思われます。よって当病院の過失は無いという風に思っております」だった。

「診察を受けた日の夕方、患者はあまりの痛さから仙玉病院に電話をして、再度来院し診察をされていますが、その時におこなった検査と治療内容を教えてください」

「また同じように検査をおこないましたが、午前中と同じ結果でした。しかし余りにも痛いと言われましたので、鎮痛剤を処方して様子を見ることにしました」

「本当に検査はされたのですか? 親族は何もしてもらえなかったと言っていますが」

「間違いなくおこなっています。それは先方の勘違いだと思われます。それから急変されたと考えています」

英三は嘘を並べた。

検査など一度もおこなっていないのに。

この謝罪会見の様子はテレビで放送されたのだが、この映像を観た誰もが思ったことだろう、英三が言っている言葉は全て自身の保身であるということを。

人が一人亡くなったという重さを感じていない、誠実さに欠る会見であった。

そして仙玉病院の信頼は失墜していった。

これをきっかけに県立病院の院長と父の金成が取り調べ受け、その後は家宅捜索も入り、県立病院の院長は金成から多額の金銭を授受していたことが明らかになった。

それは英三に対する特別な便宜を図っていたというが証明されたことになる。

そして二人は逮捕され、捜査は更に応桂義塾大学の学長にも及び、不正入学についても容疑が固まった。

英三の医師免許は金にまみれた汚い資格、己の実力で医師としての資格を得たものではない。

数々の不正を重ねて、金で買った偽者の医師、その偽者が患者を診察していたのだ。

ある意味、殺人者である。

当然、英三の医師免許は剥奪されることになるだろう。

警察も英三を逮捕する方向で捜査を進めていた。

追い込まれた英三、これ以上この世界で生活をしていくのは不可能と判断していた。

直ぐ自宅に戻り自分の部屋の奥に埋もれているだろう、あの昭和のテレビを探し元の世界へと戻る準備をはじめた。

深夜まで掛かってテレビを探し出し、テレビの電源を入れてみるが何も反応がなかった。

「何故だ! 電源のランプも点かない。おい、どうした?」

どうやら長い間、大きなクローゼットの奥の奥に押しやり、何の手入れもせずに埋もれたままにしていたことが原因で、テレビに不具合が生じているようだ。

「どうすればいいんだ……んっ! これが原因か!」

テレビの隣に置いてあった大きなダンボールがテレビのコードを潰してしまい、コードが完全に折れ曲がっていたのだ。

「中で線が切れてしまったのかな……」

その潰され曲がってしまったコードを慎重に伸ばしてみた。

バチ、バチ、微かな音が聞こえ、テレビ画面横にあるランプが点いたり消えたり、不定期な点滅を起こしていた。

「頼む、何とか動いてくれ。そうだ、電気が流れる丁度良いところで固定してみよう」

英三はビニールテープを探してみるが見つからず、やっとのことで見つけ出した物は、セロハンテープだった。

「仕方がない、このセロハンテープでグルグル巻きにして固定するか」

バチ、バチ、微調整しながら電流が流れる位置を見つけセロハンテープで固定した。

するとランプは点滅から点灯へと変わり「やった、これで帰れる」と喜んでいた。

この作業が終わる頃、外の世界は薄明かりが差す日の出間近の時間になっていた。

あまりにも集中して作業したからなのか、それとも元の世界に戻ることが出来るという安堵感からなのか、英三の身体は脱力した状態になっていた。

もう安心だから休憩しようと思い、部屋に置いてあるコーヒーメーカーをセットした。

コーヒーを飲む英三の耳に、外から人の話し声が聞こえてきた。

カーテンを少し開け外を覗いた英三の目に驚きの光景が映った。

「何だあれは?」

この辺では見たことがないセダンの車とミニバンが、自宅前の道路に複数停車していた。

「あれは警察だ! この時間に居るということは、俺を逮捕に来たということなのか?」

英三は直ぐにカーテンを閉め、慌ててテレビのスイッチを引っ張った。

そしてチャンネルの位置を確認、ここに来た時と同じチャンネル四の位置を指していた。

そしてテレビ画面は砂嵐の渦巻きだった。

英三はテレビの前であのウルトラマンのポーズを取り、数秒後にはテレビの中に吸い込まれていった。

「ドン!」顔から落ちた部屋の風景は、元の世界で暮らしていた自分の部屋だった。

「助かった……」

その時、チャンネル四の世界では、逮捕令状を手にした六人の私服警官が自宅に来ていた。

警察は英三が逃亡を図ることも想定し、外では四人の私服警官が自宅の周りを取り囲んでいた。

英三はまたもや、既のところで危険を回避することが出来たのだった。

結局、英三という人間は、御曹司として生まれても、ダメだということが分かった。











七.チャンネル五の世界


またも逮捕直前で元の世界に戻ることができた英三だったが、気持ちを落ち着かせるため普通のテレビをつけた。

テレビでは山田孝之主演のドラマ『相棒は幽霊』が放送されていた。

「また逮捕されることを連想してしまうよ……」

次は一層のこと法律など無い世界で暮らしてみたいと考えるようにもなっていた。

それと同時に、もう別の世界など経験しなくてもいいかなとも思っていた。

英三の気持ちは複雑だった……

しかし、今暮らす現実の世界で、これから良い暮らしに転換することなど不可能だということもわかっていた。

それを覆すには、思い切った大胆な転換をしていかなければならない。

「また、あの昭和のテレビのチャンネルでも回してみるか。次のチャンネルは五か……どんな世界なのだろう」

英三は、テレビの前に座りスイッチを引っ張った。

四の方向に向いたチャンネルが映し出している画面は砂嵐、それを五の方向に回してみた。

直ぐ画面は切り替わり、渦巻きと共にタイトルが現れてきた。

『野生の覇者になれ! 百獣の王の世界!』

「どういうことだ?」

タイトルから想像するに、ライオンにでもなるということなのだろうか。

もしそうだとしたら、動物の世界というものは一体どのようなものだろうか?

昔テレビで観ていた『野生の王国』、毎回テーマが決まっていたのだが、英三が特に好きだったテーマは、百獣の王であるライオンの特番だった。

ライオンは強い、そしてあの堂々とした風格、メスライオンが狩りしてきた獲物を先に食べるという、今の世界から消えてしまった父親が一番という、あの男らしい生活と豪快な食べっぷり、全てが英三の憧れであった。

「よし、その世界に行ってみようじゃないか」

そして英三は、あのお決まりのポーズで再びテレビの中へと入って行った。

辿り着いた先は灼熱の地、アフリカのサバンナだった。

今回は顔から落ちることなく、しっかりと四本の足で大地を捉えていた。

「今回はやっぱりライオンだったか、それもオスだ。この地で一番強く、そしてかっこ良い百獣の王になれたのだ。よし暴れまくってやるぞ。それとライオンの社会は一夫多妻制、俺はモテモテにもなることができるぞ。おっ、あれが俺の群れかな」

英三は堂々とした風格を醸し出しながら群れに近づいて行った。

「やっぱり俺の群れだったか」

自分の群れと確認できたのは、一頭のメスライオンが英三に近づき体を擦り付けてきたからだ。

この群れは英三が支配していて、群れのみんなも英三のことを信頼しているようだった。

この群れを守り、そして従えさせているのは間違いなく英三だ。

「しかし暑いな!」

「はい、だから日中は日陰で寝て過ごし、夜の狩りまで体力を温存します」

「そうだな、頼んだぞ。今日は何を狙うのだ?」

「昨日はトムソンガゼルでしたので、今日はシマウマを狙おうと思っています」

「シマウマか、いいね! 最高のご馳走だよ。脂の乗った大きいのが捕れるといいな」

「皆で力を合わせて頑張ります」

英三は他のメスにも声を掛けて、群れでのコミュニケーションを図った。

日中のサバンナは灼熱地獄、わずかにできる木陰を利用し、体温を少しでも下げて過ごす。

英三は群れを守るために監視の目を光らせていた。

やがて辺りは暗くなり、英三の群れは獲物を求めて夜のサバンナへと狩りに出て行った。

英三は直接狩りはしないが、群れの護衛のために狩り場の近くで目を光らせていた。

夜のサバンナは日中の灼熱地獄とは打って変わり過ごしやすい気温となるため、草食動物たちも気持ち良さそうに草を食べていた。

メスライオンは夢中で草を喋むシマウマ達の風上に位置取りすることがないよう、細心の注意を図りジリジリとシマウマとの距離を詰めていく。

そしてシマウマを追う者と、シマウマが逃げるルートに待ち伏せする者とに分かれた。

メスライオン達の狙いは定まったようだ。

群れの中心にいる大きな体のシマウマが、少し足を引きずっていたからだ。

弱い者を狙っていくのが狩りのセオリー、これが野生の世界というものだ。

野生の世界でケガをするということは、死を意味するのだ。

弱い者は強い者たちのエネルギーに変わり、最後には土に還る。

そして狩りが始まった。

一頭のライオンがシマウマの群れ目掛けて走り出した。

ライオンの向かう先は足を怪我しているシマウマ、他のシマウマ達も一斉に走り出した。

足を怪我しているシマウマも、予想に反して逃げ足は意外に速かった。

キズは浅いのだろうか……

待ち伏せをしていた他のライオン達も、そのシマウマに狙いを付けて一斉に走り出した。

やはり怪我の影響なのだろうか、そのシマウマの逃げる速度が少しずつ落ちていた。

他のシマウマのスピードに着いていくことが出来ず、群れからも離れはじめた。

シマウマを追うライオン達は言葉を交わす訳でもないのだが、打ち合わせでもしたかのように、あのシマウマ一頭に照準を当てていた。

一頭のライオンがシマウマに追いつき、鋭い爪を剥き出しにした前足で、シマウマの腰からおしり辺りまで引っ掻いた。

シマウマは爪で引っ掻かれた痛さと、ライオンの前足から繰り出されたパワーで腰からバランスを崩し横倒しになってしまった。

そこに他のライオン達が飛び込んできて、呼吸を止めるため喉元を噛み、シマウマを窒息死させた。

少し離れた場所でその一部始終を見ていた英三、シマウマが動かなくなったことを確認して、その場所に駆け寄って来た。

英三はメスライオン達をねぎらい、そのあとシマウマの腹にガブリと嚙みついた。

英三が食事を始めるとメスライオン達はそこから離れた。

メスライオン達は英三が腹いっぱいになり、満足するまで近くで周りを監視しながら待機するのだ。

一番味が濃く栄養価の高い内臓を頂くことができるのは、群れを仕切っているオスライオンの特権だ。

メスのライオンは英三が内蔵を食べ残すことがあれば、内臓にありつくことができるのだ。

英三はお腹が一杯になるまでエサを食べる、一杯になるとエサから離れて行く、残りはメスライオン達でシェアされることになる。

ここで生活しているメスライオン達は、全て英三の奥さんと言って良いだろう。

英三にとってこの生活は、とてもハーレムな生活で、現実の生活を忘れることができる優雅なものとなり、一生この生活でも良いと考えはじめていた。

ただ、ここは野生の世界、そんな生温い生活がいつまでも続く訳はないのであった。

この年のサバンナは、一部の地域で気候が安定せず、草木の生育が悪い場所があった。

その場所は去年まで、サバンナの中で一等地と言われるほどの豊かな草原が広がり、草食動物達もこぞってこの場所を目指し腹を満たしていた。

そんな草食動物の楽園は当然ながら、ライオンにとっても素晴らしい楽園となるのだ。

何故なら自分達が獲物を探しに行かなくとも、いろんな獲物が自らの足で目の前に現れてくれるからだから。

こんなに素晴らしい狩場は他にはないだろう。

ライオンにとっては是非とも抑えておきたい縄張りである。

それではいったい、縄張りとはどうやって決まっていくものなのだろうか?

野生の世界のものさしは、力のみである。

強い者はより良い場所を縄張りとし、より多くのメスを従えている。

英三が支配している縄張りは、レベルで言うと中の下といった場所で、群れの数も目立って多くはなかった。

だからこれまで目立った縄張り争いなどは起こっていなかった。

しかし異常気象により、サバンナの一等地は大幅に価値を落としてしまうことになった。

過去の一等地であっても、その場所で生活することが困難となければ、ライオンの群れは移住を考えるのは当然のことだろう。

大きな勢力に降り掛かった天災は、一部の野生動物に困窮を生み出し、やがては困窮に耐えられなくなった者は、群れから離れていくのだった。

かつての一等地を支配していたライオンの群れは、約半分にまで減ってしまった。

もはやこの群れは崩壊寸前、群れを守っていくためにはかつての一等地を捨て、新たに豊かな縄張りを求め移動するしかないであろう。

飢えに苦しむ群れは広いサバンナを宛もなく、只々、草食動物達が群がる土地を探して移動した。

その群れはやがて、英三が率いる群れの近くまでやって来ていた。

そのことを英三は気づいていなかったが、群れのメスライオン数頭が何やらソワソワし始めていた。

それに気づいた英三はメスライオンに声を掛けてみるが「何でもない」とだけ返してきた。

ソワソワしていた数頭のメスライオンは、昔ビックボスというオスのライオンから愛されることなく群れから追い出された過去がある。

今、正に、近づいて来ているオスライオンこそが、ビッグボスなのだ。

その匂いを察知し怯えを感じたと同時に、次は愛されたいという複雑な欲望が体中を駆け巡っていた。

だから英三には嘘をつき、隠したのだった。

日中の気温が一番高くなる正午、皆が暑さでだるくなり木陰で体を休める中、四頭のメスライオンが英三の群れから抜け出して行った。

灼熱の炎天下のサバンナを移動することは死に直結しかねない無謀な行為なのだが、四頭はこの選択を取るしか方法はなかった。

四頭はどうしてもビッグボスに会いたくて、英三の群れから出ていくことを決断したのだ。

出ていくチャンスは日中の灼熱の時間のみ、他の時間であれば英三からの仕打ちを受けることになるからだ。

群れから抜けるということは、ヤクザが組から抜けていくのと同じ様なものなのかも知れない。

すなわち群れから抜けること、それは命がけなのである。

英三に気づかれることなく群れを抜けることができた四頭のメスライオン、無事にビックボスを見つけ群れの中に受け入れてもらうことができれば、英三からの仕打ちを免れることができるだろう。

四頭はビッグボスの匂いがする方へひたすら足を進めた。

その頃ビッグボスも、徐々に近づいてくる四頭の懐かしい匂いを察知していた。

ただ今は、余りの暑さで足を踏み出すことはできない、ただ群れが向かうべき方向を完全に定めたのだった。

ビッグボスとの距離が五キロまで近づいた所で四頭は、木陰で僅かに残る体力を温存することにした。

この場所で涼しくなる夜を待ち、狩りをおこなうための体力を残す。

そして栄養をつけた状態でビッグボスに会うのだ。

夜の狩りでは弱っていたインパラを仕留めることに成功した。

体格はさほど大きくはなかったが、四頭が腹を満たすには十分であった。

そして四頭は夜の闇の中を歩き出した……ビッグボスに会うために。

ビッグボスは次第に大きくなる足音、それに徐々に強くなる匂いを感じ、四本の足をしっかり地に着け待った。

「よく辿り着いたな。おかえり」

ビッグボスは快く四頭を迎え入れた。

「お前達を今まで受け入れていた群れは何処なのだ?」

「この場所から約五十キロほど西に行った所です」

「ワシらが縄張りとしていた場所は、サバンナ最高だと言われる場所だったのだが、今はすっかり変わってしまった。雨は降らず、土地は干上がり、見渡す限り荒れ果てた最低の土地になってしまった。お前達の居た土地はどうだったのだ?」

「はい、最高の土地とまでは言えませんが、色んな草食動物が生活していましたので、日々の狩りに困ることはありませんでした」

「ワシは今、新たな縄張りを探しておる。その場所は縄張りとして最適な場所ではないだろうか……その縄張りの主は誰だ?」

「英三でございます」

「英三? ……知らんな」

「そうでしょう。突然現れた新参者で、一瞬にして群れを支配しました」

「で、何故、その新参者からお前達は逃げて来たのだ?」

「ビッグボスに会いたくて……また一緒に生活がしたかったのです」

「そうだったか、あの時は悪かった。お前ら四頭は若かったので、他の群れで生活するという経験もして欲しかったのだ。このサバンナを強く生きていく経験を積んで欲しかった」

「ビッグボスからの愛情だということは感じていました。だから私達は再び、愛情あるビッグボスの元に帰って来ました」

「ワシの想いを分かってくれていたのか……ありがとう」

「ビッグボス……」

ビッグボスの目からは涙が流れていた。

「ワシは今から生活のために縄張りを持ち、群れを作らなければならん。お前ら手伝ってくれるか?」

「もちろんです」

「お前達が生活していた場所はとても良さそうだ。そこの主、英三と勝負して縄張りを奪いたい。そこまで案内してくれるか?」

「わかりました、英三の縄張りまで案内いたします」

「お前達にとっても命がけになるだろうが、このワシが全力で守ってみせる。そして勝負には必ず勝つ」

ビッグボスはオスライオンの中でも体は大きく一際目立っていた。

そして力も強く攻撃力も高い、それに動きは俊敏だ。

サバンナの一等地を支配し続けてきたビッグボスは、これまで幾度もの闘いをおこなってきたた。

ビッグボスは闘いで負けたことは一度も無く、このサバンナでは間違いなく最強と言えるであろう。

「今晩はこの場所でゆっくりして、明日の夜になったら旅立とう」

ビッグボスはここまでメスライオン五頭を連れて移動していた。

新たに加わった四頭と合わせ、十頭で英三の縄張りを目指す。

英三の群れは全頭で八頭だが、闘いはオス同士の対決になる。

勝った方がメスを十六頭従えることになり、同時に縄張りも手に入れることになる。

その夜、九頭のメスライオンは狩りをおこない、大柄なシマウマ二頭を捕らえ腹を満たした。

そのあとビッグボスは爪を研ぎ、牙を磨き、英三との決戦に備えていた。

明日の夜には英三の群れ近くまで移動して、昼間は休み、夕方になってから勝負を挑むことにした。

英三はこの闘いに敗れ、命を落とすような事にでもなったらどうなってしまうのだろうか?

あの昭和のテレビでの英三の旅は、このまま終わりを迎えてしまうのだろうか?

夕方になりビッグボスは、満を持して英三の目の前に現れた。

英三の群れのメスライオン達は一斉に構えたのだが、その目は一瞬にして点となってしまった。

それは英三の群れから出て行った過去の仲間、四頭のメスライオンが一緒だったからだ。

「お前らは何だ?」

「俺はビッグボスだ。お前の縄張りを奪いに来た。今すぐ此処から出て行くか、それとも俺と闘うか、どっちにするかはお前が選択しろ」

「バカかお前は! ここは俺の縄張りだ。死にたくなければ今すぐに立ち去れ! お前ら四頭は俺のところに残れ、今回は特別に罰を与えないから」

「お前は自分が置かれている立ち位置が分かっていないようだな。俺がきっちり教えてやるよ」

そう言ってビッグボスは英三に飛び掛かった。

英三はびっくりし、反射神経で後ろへ跳ねた。

「お前ビビっているのか? さぁ、決着つけようぜ」

「おい待て! なぜ争わなければいけないのだ?」

「このサバンナで生きていくためだ。弱い者は滅びるのみ。これが野生の掟なのだ」

「待て、話せば分かるよ、無駄な争いはやめよう。だって、このサバンナでライオンのオスは絶対的な王者、お互いこの広いサバンナの王者なのだから、こんな小さな場所で争う必要もないだろう?」

「強い者が、より良い土地を勝ち取る、それは当たり前のことだ」

またもやビッグボスが飛び掛かり、そして英三の体を捉えた。

「うっ!」

ビッグボスの鋭い爪が英三の体に刺さり、そのあとは滑り落ちるように引っ掻いた。

なんとか体を離すことができた英三だったが、足からは赤い血が流れていた。

ビッグボスは牙を剥き出しにして英三に飛び掛かって来る。

その姿は英三を噛み殺すような勢いだ。

英三はその勢いに圧倒され、怯え、震え、緊張で体が固まってしまい、その場で伏せてしまった。

ビッグボスは英三の後ろから首を嚙み背中に爪を立てた。

野生動物の本能なのだろうか、英三は体を反転させるように横に転がり、ビッグボスに自分のお腹を見せた。

これで決着はついた。

ビッグボスは嚙みついていた首から口を外し、そして爪を抜いた。

これ以上の無駄な争いはしない、それは相手が降参したからだ。

英三は背中を丸めながらかつての仲間を残し、その場から去って行ったのだ。

ビッグボスは良い狩り場と縄張り、それと七頭のメスライオンを手に入れた。

英三は早めに降参したことで、大きな痛手を避けることはできたのだが、今日からは食べていくことにも困る生活が待っている。

それを乗り越えることができなければ、英三を待っているのは死のみ。

プライドを捨て、ハイエナが漁る残飯を横取りしてでも生きていくか、力づくでどこかの群れを奪うかしかないだろう。

英三はこの広いサバンナで、この上ない敗北感を味わっていた。

これが野生の世界というものなのだ。

英三には、もう一つ残された選択があった。

それを成功させるためには、あの昭和のテレビを探し出さなければならない。

もし見つけ出すことができなければ、元の世界に戻ることはできない。

「テレビは、どこにあるのだ」

英三は三日間、サバンナを歩き続け茂みなどを探し回った。

食事にありつけていない英三の体力は、極限状態に陥っていた。

目の前には死肉を漁るハゲタカの群れ、それを退かし英三は、骨に僅かに残る肉を削ぎ取り、そして骨を舐め、少しだけ腹を満たすことができた。

やっと思考能力が回復して、サバンナに来た日のことを思い出してみた。

「たしか俺が降り立ったのは、あの群れの近くだったはず……ということは、テレビはあの群れの近くにあるということなのか? でも近づくのは危険だ! もう一度ビッグボスとの決闘になれば、次は本当に殺されてしまう。それだけは絶対に避けたい。こんな所で、こんな姿で、そんな無惨な死に方はだけはしたくない」

英三は悩みに悩み、一つの決断をした。

相手が暑さで動きが鈍くなる日中に群れまで近づいて、あの昭和のテレビを探すことにした。

その時間まではしっかりと体を休め、もしもの時は全速力で逃げようと考えた。

相手も暑い日中では、深入りはして来ないだろうと読んでいたのだ。

英三はハゲタカが漁っていた死肉から、まだ僅かに残る肉が付いた肋骨を一本もぎ取り、自身が待機する場所に持ち帰って夜を過ごした。

少しでも体力を付けるために。

ビッグボスの群れまでの距離は約八キロ、夜に距離を縮めることはせず、全てを日中に賭けることにした。

体力との勝負になることは間違いない。

翌日は夜明けと共に出発した。

日が上がり切る前に、少しでも前に進んでおきたかった。

ビッグボスの群れに近づく道中、あれは昨日の成果だったのだろうか、骨と皮だけになったシマウマが何頭も横たわっていた。

ビッグボスの群れは十分なご馳走にありつき、体力は万全なようだ。

短い時間であの昭和のテレビを見つけ出し、素早く元の世界に戻る必要がありそうだ。

サバンナのギラつく太陽が空の一番高い所から照りつける頃、英三はビッグボスの群れ近くまでやって来ていた。

群れのメスライオン数頭は英三の匂いに気づいたようで、少し顔を上げるような素振りを見せたが、灼熱降り注ぐ、その暑さには勝てないようで、直ぐに伏せてしまった。

ビッグボスはその異変に気づいていなかった。

英三は残る体力を振り絞り、茂みを見つけては隈なくテレビを探した。

しかしテレビは見つからない……「ダメだ」

英三は半分諦め、死を覚悟しはじめた頃……「あっ!」ビッグボスが休んでいる横、三百メートル先に茂みを見つけた。

英三は悩んだ……テレビを探している最中に気づかれることがあれば命は無い。

その前にあのテレビを見つけなくてはいけない。

意を決し英三は、茂みに向かい一歩足を踏み出した。

ビッグボスの左耳がピクリと動いた、英三の足音を察したのだろうか。

一度は死を覚悟した英三は、テレビはあの茂みにあると確信し、少し早足で茂みに向った。

生と死を賭けて。

茂みの中を必死に探す英三、テレビはまだ見つからない。

「何故だ? ここだろう。茂みに埋もれてしまったか!」

更に茂みを掻き分け探す。

それはガサガサという音を作り、ビッグボスもその音に気づいた。

ビッグボスが体を起こすとメスライオン達も一斉に体を起こした。

「やばい!」

英三は走って逃げ切るのは不可能と判断し、そのままテレビを探し続けた。

寝起きで体が重たいビッグボスだったが、徐々に速度を上げ英三に近づいて来た。

「あった!」

英三はあの昭和のテレビを見つけ出した。

焦る気持ちを抑えながらスイッチに両方の前足を優しく伸ばし、ゆっくり添え、静かに引っ張った。

その時、一頭のメスライオンが英三を目掛け飛び掛かって来た。

英三はとっさに相手の喉元を深く噛み、そのまま引きちぎった。

メスライオンは即死だった。

英三には時間が無かったということを考えれば、致し方のないことだったのかも知れない。

そのメスライオンはかつて英三の群れで暮らしていたメスライオンだった。

ビッグボスは自分の妻が殺されたのを見て、目を血走せながら向かって来る。

「早くしないと」

スイッチを入れたテレビが映し出していた画面は渦巻き、英三は画面に向かって右の前足を伸ばした。

英三の体は画面に吸い込まれ、サバンナから消えていった。

その後、その茂みには英三もテレビも残っておらず、ビッグボスの群れが茂みを取り囲んでいるだけだった。

そして茂みの横には、首を噛みちぎられ無惨な姿になったメスライオンの死体と、英三の匂いが微かに残っているだけだった。

ビッグボスは怒りを込め吠えた。

元の世界に無事戻ることが出来た英三は、傷ついた背中を鏡に映して、あの世界では命の危険があった事を再確認、その後は身体の震えが止まらなかった。

もう野生の世界には二度と行きたくないと、心から思う英三であった。









ハ.チャンネル六の世界


サバンナから戻ってからの数日間は、風呂に入る度に背中の傷が滲み、布団に入っては寝返りをうつ度に痛さで目が覚めるほどだった。

この傷が治るまでは、他の世界に行くことなど考えることもなかった。

それでも気になるのは、あの昭和のテレビが次のチャンネルで出すタイトル、それだけでも知っておきたいという思いはあった。

「正直言って、もう懲り懲りだという気持ちはある。だけど次こそはという想いがあるのも事実だ。残るチャンネルはあと二つ、次のチャンネルのタイトルだけでも確認しておこう」

英三はあの昭和のテレビと向き合っていた。

いつものようにスイッチを引っ張り、テレビが映し出した画面は砂嵐、五の位置を指すチャンネルを六の位置まで回してみた。

そうすると、いつものように次のタイトルが映し出された。

『日本を動かせ! 総理大臣になってみろ!』

英三がサバンナから戻ってから十日後の出来事だった。

まだ万全とは言えない身体、それでも英三の野望は色濃く出ていた。

「どうするんだ? 俺」

今の英三は、やっと身体が動かせるようになった状態、ここは気持ちを抑えて体力の回復を優先することにした。

身体を療養中はテレビで放送されていた鈴木亮平が主演の連続ドラマ『ニオイが判る男』や松坂桃李が主演の連続ドラマ『昨日の夢』を観ながらゆっくり過ごしていた。

傷が癒えた英三は、チャンネル六の世界に飛び込む決心をした。

そう、それは総理大臣になるという決心だった。

英三の頭の中で一つの野望が芽生えた瞬間でもあり、日本という国で誰よりも偉くなりたいという野望が形になった瞬間であった。

気持ちの準備は整った、向かうはあの昭和のテレビの前、スイッチを引きタイトル画面に向かい右の拳を突き出した。

英三は再びテレビの中に吸い込まれ、チャンネル六の世界へと旅立って行った。

お決まりのポーズで床に転がる英三だが、そこには赤く深いじゅうたんが敷いてあり全くと言って良いほど痛みを感じなかった。

「何だ? もう総理大臣ってことか? そんなところから今回は始まるのか?」

しかしそれは間違いだったようだ。

「これは俺の自宅なの?」

降り立った場所は総理官邸ではなく、この世界で英三が生活する自宅のようだ。

「あのタイトルからして、まだ総理大臣にはなっていないはず。しかし立派な家だな。さすが総理大臣を目指す家、家柄もそれなりに良いということなのか」

「仙玉官房長官、お車が参りました」

「そうか、ありがとう。今行く」

迎えに来た車は『レクサスLS600』という最高級車だ。

その前後にはSPの車が停まっていた。

英三を乗せた車は総理官邸に向かい、現総理の菅部総理大臣と打ち合わせをおこなう予定になっていた。

菅部総理は民主自由党の総裁で、三ヵ月後に任期満了を迎えることになっていた。

そして次の総裁選には立候補をしないことを明言していた。

そこで白羽の矢が刺さったのが若き官房長官、仙玉英三 四十二歳だった。

菅部総理との打ち合わせは、総裁選に必要となる二十人の推薦人の確保と、民主自民党の各派閥固めをおこない、圧倒的な勝利を飾り、安定的な政権を作ることが狙いであった。

英三は仙玉派(構想会)の会長を務めている。

派閥のメンバーは約五十名と、民主自由党の中では中堅クラスとはなるが、大派閥のメンバーは九十名を超える人数がいる。

そこを掌握しなければ安定した政権を維持することが難しくなってしまうだろう。

それと、その大派閥から対抗馬が出るようなことになれば、総裁選で負けてしまうことも考えられる。

その大派閥を率いているのが現在の首相、菅部総理総裁である。

菅部は菅部派(法池会)の会長を務めている。

だから菅部からの応援は得ておく必要性があった。

今のところ菅部派からの立候補予定は考えていなかった。

菅部総理も官房長官としての英三の働きは認めており、安定した政権運営に大きく貢献してくれたと感謝していた。

菅部総理は英三を民主自由党の総裁に推すということが、この場で確約されたた。

お互い忙しい身ではあるが、今後の日本と民主自由党を背負っていく大切な話し合いが、この場でなされていた。

この話し合いというものは、お互いの考えが合致することが条件にもなるが、お互いの利害関係がWIN-WINになることも大切になる。

英三は表向きにはまだ立候補を表明していないが、英三の動きを見ていれば誰もが気付くだろう。

あとは対抗馬が誰になるのかが問題だった。

あまり関係性の良くない中堅派閥の、五甲斐派の五甲斐会長の動きが気になるところではある。

五甲斐会長と英三は、相違点が余りにも多過ぎることが問題で、特に中国と朝鮮半島問題では大きく意見が食い違っていた。

菅部総理は五甲斐氏と共闘してきたのだが、英三が五甲斐氏と共闘することは難しい話であることには間違いがない。

英三が総裁選で完全に勝利するためには、五甲斐派以外の全ての派閥を固めるしか選択はないようだ。

実は菅部総理も最近は、五甲斐氏にはうんざりしているというのが本音だった。

結束を強めた二人は予定していた一時間をフルに使い、次期総裁選に向けた見通しをつけた。

そのあと英三は仙玉派のメンバーを集め、昼食を兼ねた会合をおこなった。

会合では五十人全員でカツカレーを食べた。

仙玉派は結束が固く、ここでも総裁選に向けた前向きな意見と指示を確立していった。

「会長いよいよですね。総裁の椅子が目の前まで来ました」

「皆んなが一緒だから心強いよ」

「菅部総理との話し合いは上手くいきましたか?」

「全面協力するとの約束を取り付けたよ」

「あとは他に誰が、立候補に手を挙げるかですね。ここまで固めていれば誰が出て来ても会長は安泰ですよ」

「まだまだ気は抜けないがな」

菅部は総理総裁の座に八年という、長きに渡り君臨してきた。

それを成し遂げられたのは、大きな二つのバックがあったからなのだ。

一つは英三と仲が悪い五甲斐派、もう一つは菅部派に継ぐ大勢力の笹生派だ。

笹生派の中には不穏な動きをする者がいるとの噂がある。

どうやら笹生派の半数近くが、自派の紺野を推しているようだ。

英三は笹生派の会長、笹生治郎とは何度も打ち合わせをおこない、英三推し一本でいくという約束を取り付けてはいたが、笹生はグループ内を纒めきれていなかった。

それと紺野は出馬への頑な自分の想いを抑えることができなかったのだろう。

総裁選に限っては、笹生派内で分裂が起こっていると言えよう。

そうであったとしても、予想外のことが起こらない限りは数の力で英三が勝利することであろう。

英三にとって総裁選も大事なことなのだが、官房長官としての職責も大事な局面を迎えていた。

現首相の菅部はタカ派と呼ばれ、強権的な考えや政治手法をおこなうことがあり、敵を作ってしまうことが多かった。

その代表例が、外交面での中国と韓国との仲の悪さである。

もし英三が首相になったとしても、この路線は変わることは無いだろうが、ここまで強権的なやり方にはならないと思う。

それほど菅部総理は強権政策を引いてきたのだ。

五甲斐派としては、何とかこの流れを断ち切りたいと考えていた。

だから五甲斐会長は英三に対して、強い口調で批判をおこなうこともあったのだ。

その五甲斐会長の動きが少しずつ見えてきたのは、あの派閥会合でカツカレーを食べた日から一週間後、少数でグループを形成する砂場 元防衛大臣に近付き、総裁選へ出馬するよう打診、そして総裁選に必要となる二十人の推薦人の確保まで約束していた。

それから時が経ち、総裁選当日がやって来た。

立候補者は三人、紺野氏、砂場氏、それに英三だ。

一回目の投票で過半数を超える支持を得ることが出来れば、その時点で総裁が決定する。

票が割れ過半数を超える票を確保できなければ、上位二名での決選投票となる。

英三としては一回目の投票で過半数を遥かに超える、ぶっちぎりの得票数で勝利し、その後の政権を安定したものにしたいと思っていた。

ただ勝つだけではダメなのだ。

民主自由党員全員の投票が終了し、いよいよ運命の開票がおこなわれた。

館内に司会進行の声が響き渡り、そのあと英三の得票数が発表されどよめきが起こった。


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