序幕:プロローグ2
「はぁ……」
アツシのは深くため息を付きながら大通りを歩いている。空はうっすらと暗くなり、木々では鳥たちがさえずり、街は人で溢れていた。一日の労働が終わり帰路につく『サラリーマン様』なのだろう。つい先刻まで同じ立場にいたアツシは羨望とも軽蔑とも取れる眼差しを人々に向けていた。
あてもなく彷徨っていたアツシは公園へとたどり着いた。長い間歩いた足はひどく疲れ、公園の端の方に木製の朽ちかけたベンチを見つけた。
「普段ならこんなベンチには触りもしないだろうな。」そう考えながらも疲労に堪えた足を休ませるため、左手で軽くベンチを払い腰掛ける。
アツシは決して仕事に対して悦びを覚えるタイプではなかった。就職する前から決して働きたいとは思っていなかった。大学を卒業間際になると嫌でも皆『就職』の単語を意識するようになる。ある程度お金がある人は就職活動前に自転車で日本一周など理解に苦しむ行いや、星間トンネルを抜け、他の惑星に住みアルバイト等で生計を立てつつ自分のやりたいことを見つける人生を賭けた旅行をしていた。お金が無いがバイタリティのある人は、知恵を絞り起業する者、ラーメン屋でバイトしそのまま独立する者などがいた。ではお金もないがバイタリティもない学生はどうなるかというと、自分の専門性を活かした職を探して、人材を求めている企業に入社するか、やりたいことを考えず適当な会社に入社する他なかった。アツシの場合は『適当な会社に入社した』。自分の持っているスキルや専門性は考えず求人票に対して斜め読みし、条件の良さそうな企業を探していた。『仕事のやりがい』とは『労働者への搾取であり不誠実な経営者の言い訳』であると考え、『アットホームな職場』とは『プライベートまで拘束される就職したくない職場』と考えていた。最終的に『やりがい』や『アットホーム』といった用語を回避し候補を絞り、もらえる給料を軸に就職活動を行い。そしてGIグループの中でも大きなGMJに就職した。何を評価されての入社なのかは分からないし気にも留めず、職場環境が自分に合わなければすぐに転職しようと考えていたが――
「結局6年以上働いたなぁ……」
アツシの口からは悲嘆と懐かしさが入り混じった消えてしまいそうな声だけが漏れ出ていた。
ふと隣に気配を感じ右を見ると一人の女性が座っていた。俺が来た時には誰もいなかったはずだが……一体いつから座っていたのだろう。腰のあたりまで届く黒髪ロングのストレートヘアに茶色のジャケットを羽織り、膝上くらいのチェック柄スカート、わずかに底が厚いブーツを履いている。横顔は街中の誰もが振り返るほどの美人、おそらく日本人であろう。
「こんばんは。」
彼女の声は柔らかく、彼女の世界に引き込まれるような声だった。
「こ、こんばんは。」
彼女の事をまじまじ見ている時に不意に挨拶をされ、上手く挨拶ができなかった。まさか話しかけてくるとは思わなかった。見つめていたのが気づかれたのではないか。
「今お時間よろしいでしょうか。」
彼女の方から暇か聞いてきた。意味が分からない、詐欺だろうか。今どき流行りもしない宗教の勧誘だろうか。怪しい電子回路でも売りつけられるのだろうか。詐欺だとしたらここから早く離れたいところだが、ここから立ち去る理由が思いつかない。それにこんな美人と話す機会なんてそうそうないだろう。
「はい……大丈夫ですよ。」
まずは話を聞いてからヤバイと思ったら逃げればいい。
「あの、失礼なこと聞くかもしれませんが――」
答えづらい質問が来ることが事前に宣言される。
「――もしかして、お仕事されてないんですか?」
「お仕事は――してないです……」
終わった。謎の隣の席の美人さんとの会話はこれにて終了。『つい数時間前無職になったとこです。』とも『大企業で働いていたんです。』とも言えず。昨日出会っていれば大いに胸を張って自分の働いている会社や仕事内容や給料について、これでもかというくらいに話していたところ――だが今は無職だ。職なし金なし家だけギリギリある状態の自分では相手にもされないだろう。幸いお金もないので詐欺にあうこともない。良くも悪くもこの美人さんとの関りはこれにて――
「あの、よろしければお名前をうかがってもよろしいでしょうか。」
全く訳が分からなかった。仕事もなければ給与0の俺が身分を明かした段階で美人さんは目の前から居なくなるものとばかり思っていたら次は名前を聞いてきた。冷静に考えると給与0の貧乏人から取れる物といったら情報しかない。個人情報なら集めれば相応の額になる。各個人に割振られた番号と結びつけば社会保険の情報や購買履歴もわかる。そう考えると詐欺の可能性が大いにあるわけだが、自分の情報を公開すれば美人さん会話が繋がるかもしれない。自分自身の情報と下心を天秤にかけアツシは決断した。
「――ナイトウ・アツシです。」
自らの欲望に忠実に従った結果。アツシは自分自身の氏名を相手に公開した。
「ナイトウ・アツシさんですね。あ、ごめんなさい。私、自分の名前言い忘れてました。」
そう言って眼前の美人さんはジャケットの外ポケットに左手を入れると一枚の紙を取り出し、俺の眼前へと差し出した。
「私は宇治京・愛奈。鈴木商店マキナ開発部所属の技術者です。」
なぜ一介の技術者が俺なんかに接触してくるのか。聞いた言葉への驚きと、その意味が理解できず目線を紙から上げると美人さん――宇治京さんは俺の目の前に立ち、深々とお辞儀をしていた。
「どうか私たちの会社に来ていただけませんか!!」
「……え?」
ますます意味が分からない。ついさっき解雇を宣言された男だぞ。仕事で何か大きなことを成し遂げたわけでもなく、専門的な知識や技術を持っているわけでもない。そんな俺に彼女は一体どんな理由があってスカウトを仕掛けてくるのか。
「仕事がない身にとって、あなた方の会社でお世話になれるのは凄く有難い話です。でも――」
宇治京さんがどんな目的で、どんな理由で俺をスカウトするのか。聞こうとた言葉は彼女の言葉に遮られた。
「それはGMグループを解雇されたナイトウさん。あなただから私たちの会社に来て欲しいのです。どうかご一考をッ――」
そう言って彼女は再度頭を深く下げた。
あくまで『GMグループに所属していたナイトウさん』として来て欲しいという願いであるなら、同業他社として技術が欲しいという可能性が考えられるが、そもそも鈴木商店なんて会社聞いたことがない。同業他社ではないとすると、30そこらの何の専門知識もないおっさんを鈴木商店が欲している意図が全く見えない。一体誰が何の目的で俺をスカウトしようとしているのか皆目見当がつかない。だが職探しを新しく行うより、俺自身をご指名の鈴木商店に就職する方が楽に仕事がきまる。何より交渉次第で条件を釣り上げて、給与アップも望める。
「3点確認ですがよろしいでしょうか。」
「はい。何でしょう。」
「1点目に『私たちの会社に来て』というのは『私を雇う』という解釈でよろしいでしょうか。」
「はい。そのようなご認識で相違ありません。私たちはナイトウさんに戦力になっていただきたいのです。」
「2点目ですが、私の待遇、給与や福利厚生は宇治京さんが決めるのでしょうか。」
「いいえ。ナイトウさんの処遇は鈴木商店の人事部の方と社長が話し合って決めます。……今の段階では即答できず申し訳ありません。」
彼女は謝罪し再度頭を下げた。彼女に頭を下げさせてしまったことは僅かばかりの罪悪感を抱いてしまうが、ここまでは就職時の面接、条件提示では当たり前の質問であろう。彼女にどれほどの権限が与えられているかは分からないが、俺をスカウトし雇用までもっていくのが今の彼女の使命なのであろう。それなら――
「最後に確認、というよりお願いになるのですが。」
「はい……」
「就職の判断材料とするため明日御社を見学させていただけないでしょうか。」
唐突な要望を出せば彼女がどれくらいの裁量を持ち、鈴木商店がどれだけの熱意を持ち俺にアプローチしているのか、ある程度予測が可能である。
アツシは会話の裏で出来る限り思慮を張り巡らせながら宇治京・愛奈と自分に対するイメージを向上させようと必死であった。
そして宇治京・愛奈から発せられた言葉は――
「いいですよ。」
迷いのない承諾の言葉であった。
アツシの眼前には両手を合わせて僅かに首を傾げ、嬉しそうに微笑む宇治京・愛奈の姿があった。