8>>手放した事にも気付かない
泣きながら廊下を一人で歩いていたシンシアを義母である侯爵夫人が呼び止めた。
涙の止まらないシンシアを支えながら別邸の一室で向かい合って座った夫人は、シンシアに事情を聞こうとはせずにただ静かにシンシアが落ち着くのを待った。
運ばれてきた紅茶が優しい香りでシンシアを落ち着かせる。
シンシアはすすり泣きながらも静かに話しだした。
「……わた、わたくし……後悔はしておりません……
あの方の妻になれた事っ、ほんとうに、……本当に嬉しくてっ……
だから……だから一言……
ロメロから一言……
シンシアを選んで良かったって……
それだけがあれば……わたくしっ、…………」
『短い命でも、好きでもない女と一緒にいるくらいなら心から愛している女と一緒にいることを選ぶ』
……そんな言葉1つあれば、どんなにツラいことでも耐えられる気がしたのに……
ロメロは期待した言葉をくれなかった……
それどころか、シンシアを選んだことを後悔しているかもしれないと思えてしまって、シンシアの心は暗い水に落とされたかの様に冷たくなっていった……
愛している。
一目見た時からずっと……
本人を知って更に好きになった。
シンシアにはロメロだけだった。
もし逆の立場だったら……
シンシアは明日死ぬ事になってもロメロと居ることを選んだだろう。
きっとその選択を悩まないし後悔もしない。
でもロメロは……
ロメロは悩むのだ……
ロメロはシンシアよりアメリアを選ぶべきだったと、今更後悔しているのだ…………
シンシアは悔しくて堪らなかった……
ロメロがアメリアを求める心が“愛”じゃない事は分かっている。
でもその気持ちに“シンシアへの愛”は勝てないのだ……
ロメロの『シンシアへの愛』はその程度なのだ…………
震えながら泣き続けるシンシアに静かに夫人が話しかける。
「貴女のお父様から『娘はまだ返してもらえないのか?』と手紙が来ました」
「……え? お父様が……?」
「えぇ。そして、これが貴女宛よ」
夫人は折り畳まれた1枚の手紙をシンシアの前に差し出した。
シンシアはそれを震える手で取って開き、目を通した。
そこには勝手な事をした娘を叱る言葉と、娘の今後を心配する父の愛が綴られていた。
──もういいだろう?
それ以上傷つく前に帰って来なさい──
父の手紙にまたシンシアの涙は壊れた様に溢れた。
「お父様……っ!」
口元を手で覆って声を抑えながら泣くシンシアを少しだけ優しい眼差しになった目を夫人は向ける。
「……貴女はまだ若いわ。
ロメロとは婚約式も婚姻式もどちらも上げてはいないから、貴女たちが結婚した事を知っている人は少ないでしょう。
全てを無かった事にはできませんが、侯爵家と貴女のお家の伯爵家が動けば少しは誤魔化すことができます。
貴女が望むのならば『貴女とロメロの関係は学生時代だけの遊びだった』事にできるのです。
事実を知る者には口さがなく言われるでしょうけれど、このままロメロの側に居て侯爵家の別邸で人知れずに生きてロメロ亡き後に悲しみのまま実家に帰るよりは、今決断した方が良いとわたくしも思うわ。
貴女のお父様は貴女が幸せになれるように考えて下さっているようですよ?
……ここでは貴女に、その様な気遣いはできません……貴女も……それは分かっているわよね?
ロメロが選んだ事ではありますが、貴女に責任が無いとは……誰も思えないの……」
夫人の言葉にシンシアは罪の意識からツラそうな顔をして目を閉じた。
「……分かって、おります……」
絞り出すように答えて下を向いてしまったシンシアに夫人もツラそうに眉を寄せた。
責めたい訳ではないが、庇える程の心の余裕を夫人は持つことができない。目の前の娘と自分の大切な息子が出会わなければ……と、どうしても考えてしまうのだ……
それでも……
「貴女を追い出す気はないわ。
貴女がロメロの側にずっと居てくれるなら最期まで居て欲しいと思っているの。でもその後は……貴女に侯爵家での居場所は無いわ。
それでもいいならロメロを支えて上げてほしいと思っているわ……」
「…………」
義母の言葉にシンシアは直ぐに答えることができない。
そんなシンシアを置いて夫人は椅子から立ち上がった。
「どうするかは貴女次第よ。
直ぐに答えを出さなくてもいいけれど、早い方が貴女の為よ……
よく考えて……
次は、後悔の無いようにね……」
そんな言葉を残して夫人は部屋を出て行った。
一人残されたシンシアは暫くその場所から動けなかった……
4日後、シンシアは別邸に実父を呼んで話をした。
そして5日後、実父と共に侯爵夫妻と話をしたのちにシンシアは実父と共にギルディエル侯爵家を出て行った。
シンシアは実家に帰った。
ロメロとシンシアの婚姻は無かった事にされ、全てが終わった後にロメロへと教えられた。
その時、ロメロへシンシアからの言葉として
『シンシアが居てくれればそれでいいと、そんな言葉を貰えていたら、わたくしはきっと、ずっとロメロ様の側に居ることかできたと思います。愛しておりました、ロメロ様』
そんな言葉が伝えられた。
それを聞いたロメロは忌々しげに顔を歪めて毒を吐いた。
「私を見捨てたのかシンシア……
あれほど私を愛していると言っておきながらこれか……
私はなんでそんな女を選んでしまったんだろうな……」
それを聞いた侯爵夫妻はもう何も言わなかった。
ロメロには言葉は届かない。
愛した女の言葉さえ届かないのだ。
一体誰の言葉ならこの男に届くのだろうかと悲しくなった……