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武光と懐良・敗れざる者  作者: 橋本以蔵
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第2章 菊池奪回戦(3)

六、


 菊池本城、菊の城は十郎によって焼かれてしまっており、鷹取城の広間で緊急の寄合衆内談が開かれた。表には夏の盛りの日差しが降り注ぐが、広間の板間はわずかに涼しい。

 主家の武隆(たけたか)武澄たけすみたちが難しい顔で居並ぶ。

 さらに西郷、水次、鹿島、宗谷、平山、伊倉、赤星それぞれの一族の古老たちが参加している。

 武士(たけひと)のすぐ下の弟、武隆(たけたか)(二十一歳)は飛び地に城を構えていたのが、急遽戻ってきている。

 その下の弟たち、武澄弟の武尚(たけひさ)武義(たけよし)はこの寄合には参加は許されていない。

 皆の間に長い無言の間があって、やがて武士が苦しい口を開いた。

「わしにはもう無理ごたる、…わしは仏門に入りたか」

「仏門じゃと」

 武士(たけひと)のその思いはここ数年菊池の人々を困惑させてきた。

 武士(たけひと)からすれば何年も前から総領辞退の意志を示してきており、受け入れて貰えていなかったのだが、限界だった。豊田の十郎が鮮やかに菊池を奪回して見せたことが決定打となった。あんな真似は絶対にできない、と思ったのだ。

「棟梁がこの一族危難の際にその責務を投げ出すなど、前代未聞じゃわ」

 気の強い慈春尼(じしゅんに)が我が子のふがいなさに苦い顔をして吐き捨てる。

 武士(たけひと)は強く目をつむり、歯を食いしばってこの座に耐えている。

 末座にあって十郎は平気な顔でそっぽを向いている。

 菊池奪回の功を褒めてやるために内談衆が呼びつけたのだ。

 だが、議題はまだお褒めの言葉を頂く手順に来ておらず、十郎は手持ち無沙汰に待っている。

武士(たけひと)はずっとそう言い続けておる、…これ以上は酷かもしれんの」

 武澄(たけすみ)の言葉を受けて武貫(たけつら)が苛立っていう。

「武士が十四代を引退するのがやむなしとするなら、では跡を誰が襲うのか」

「それが肝心ばいな」

 菊池本家の子としては武士の兄にあたる武澄が実力、人格共に圧倒的に秀でていたが、身体が弱いことと本人の穏やかすぎる性格から棟梁の任には適さないであろうと誰もが見ていた。

 では菊池の明日を誰に託せばよいのか。

 皆、誰も簡単には意見が言えない空気だったが、慈春尼が声を張った。

「…武士がどうしてもというなら、であれば、…武隆がよかろう、…武士の次には武隆を跡継ぎへとの起請文(きしょうもん)もある、私はそれがよかと思う、武隆がのう」

 慈春尼には気性の合う武隆(たけたか)が可愛いらしく、しきりにこれを推す。

「わしは、よかぞ、受けても」

 武隆が皆の顔色を見たが、空気は重い。

「…筋でいえばそうでもあろうが、…我らが当主となられるならば、南朝北朝、我ら菊池の行く道を示して頂かなければならん、それに皆が納得ずくでついていく気になれるか」

 と、古老の一人が言った。

「武隆殿のお考えは如何に?」

 そう問われて、武隆(たけたか)は詰まった。

 かつては宮方できた菊池家だったが、此度の合志一族の侵略と言い、明らかに武家方、最近は北朝方と称すべきだが、そちらの勢いがいや勝ってきている。

 本州方面では南朝勢は押しまくられてその運命は風前の灯火(ともしび)と、民の間でも先行きが見限られている。とはいえ、先代先々代の意向は宮方、南朝方で来ている以上、それをひっくり返すなら、それなりの大義名分や明確な方針を示す必要がある。

 そこが甘ければ、庶子(しょし)家分家が黙ってついては来ない。

 武隆が答えないので、それぞれが勝手に意見を出し合い始めた。

「おいな、あくまで南朝方で行くべきと思う、忠誠の道を行くべきじゃ」

「しかし、そいで菊池に明日があるとは到底思えぬ」

「おいは北朝につくべきじゃと思う」

「何、それぞれ信じる道を行けばよか」

「そいではぬしゃ、菊池が分裂してもよかというか!?」

「やむなし!」

「一族同士、いずれ血で血を洗ういくさになるとぞ、ほんにそれでよかつか!」

 喧々諤々(けんけんがくがく)たる一座には分裂の危機が見え隠れしている。

 菊池一族は源平の戦いでは平氏方について鎌倉期は冷や飯を食わされた。元寇(げんこう)の役では相当の活躍を見せて肥後の菊池ここにありと存在感を示した。肥後の国司や肥後権守(ひごごんのかみ)を拝命し、肥後界隈では名家中の名家と言える。

 だが、家が大きければ大きいだけ、庶子家を立てて所領を増やし、本家を細らせぬようしなければならぬ苦労がある。中には本家にたてついて跳ね返るものも出てきて、経営は並大抵ではない。ここ何年来、菊池一族は分裂の危機にあったと言っていい。

 南北朝の騒乱がそれに拍車をかけていた。

 突然皆を制する大声が放たれた。

「菊池は分裂などしてはならぬ」

 その一言で一座の皆がはっと見やった。

 十郎が腕組みをして傲然と天井を睨んでいる。

「分裂してそれぞれが勝手に動けば、所詮九州の各守護や豪族どもに呑み込まれて名を失い、よか所を食いつくされてそれでしまいじゃ、何も残らん」

 そんなことは分かっている、と誰もが苛立った。

「しかし、まとまらんければ仕方があるまい、誰にこの大所帯を率いていけるとか!」

 古老の一人が吐き捨てたが、十郎は平然と言う。

「おいが率いる」

 再度全員がえっと見やった。

「おいが率いる、菊池は南朝方で行く、議論は必要なか」

 武隆がおろおろして慈春尼を見返り、慈春尼は憤怒の形相で額に血管を浮かせた。

「…十郎、お前にこの寄合内談衆の会議で口を開く資格はなか、控えおれ」

 慈春尼をじろりと見やって十郎が言う。

「…此度の合志(こうし)の侵略は菊池の命運を断つ危難じゃった、…今菊池がここに存続しておるのはわしが守り抜いたからじゃ」

 皆が絶句した。

 それを言われては誰にも一言もない。

 合志軍を一気に菊池から叩き出して見せた十郎の勢いに押され、皆が押し黙った。

 いくさの結果のみが一族の運命を左右するこの時代においては、一族に勝利をもたらしたあの抜群の働きの前にはそれを簡単に否定することは難しい。

「菊池は南朝方で行く、本家はわしが継ぐ、それがわしの意志じゃ、それで菊池は生き延びられる、…どうするか、あとは皆で話しおうてくれ」

 十郎は自分の主張だけを伝え終わるとさっさと座を立ってしまった。

「小僧が!」

 はらわたを煮えくり返らせた慈春尼(じしゅんに)が手にしていた扇子を叩きつけた。

 他の内談衆たちはそれぞれに思惑を巡らせ、利や損を計算し、互いの顔色を見やって腹を探り合う。

 ただ共通しているのは妾の子の末流にこの名誉ある菊池一族を任せて本当にいいものか、という疑念だった。皆のプライドがそれぞれのレベルで傷つけられていた。

「…私は認めぬ、…十五代当主には本家筋の我が息子、武隆!」

「じゃがのう、…此度、合志一族を追い払うた十郎の働き、人気、…民の間でもちきりじゃ、もりあがっておる」

 とある古老が心配する。

「民の気分もおろそかにはできぬでのう」

 吹き出る汗を拭いもせず、赤い顔をして口を開いたのは赤星武貫(あかぼしたけつら)だ。

「十郎の手柄は手柄じゃが、本城を取り返したあのやり口、真っ向からのいくさ勝負ではなか、名門菊池一族としての品がない」

 多くの古老たちがその意見には賛成して大きく頷いた。

「おいな、子供の頃から馴染みの武隆どんに十五代になってもらいたか」

 慈春の尼が嬉しそうに大きく頷いた。

 武貫(たけつら)が珍しく理詰めでものをいう。

「これまで菊池一族の栄誉ある歴史、守ってきたつはあくまで本家じゃ、それだけでは無論、なか、菊池の棟梁になるちいうこつは、いくさを指揮するだけでなく、総領の得分、反別いくらと決められた年貢を取り立てる利権を得るという事でもあるたい」

 それが配下の土豪や地頭らすべてから寄せられるので、自前の田からの上りだけでなく、莫大な利益が集まる。

 菊池の場合は菊池川を使った交易の上がりもあり、商人どもから莫大な割り前が取れる。

 市が立てば市料も入ってくる。その利権を誰が握るかは当事者でなくとも重大な関心事となる。

「そいをあげな使用人にも等しい妾腹(めかけばら)に任せるなぞ、おいには業腹じゃ、そもそも信用でけるとか、棟梁になった途端、何を始めるか、のう、みな、そうじゃなかか!」

 慈春尼が何度も頷いて泣き出した。

「よう言うてくだされた、武貫や、もっともじゃ!皆、そこをよう考えてくだされや、家の本流とはその信頼の事じゃ、本家の利権をあげな末流に渡してはならぬ、死んだ武重の霊に言い訳が立たぬ、寂阿(じゃくあ)殿の御霊にもじゃ、そうであろう?な、な、そうであろう?」

 慈春尼が一人一人の顔を覗き込むようにして訴える。

 様々な思惑が乱れ飛ぶ中、武澄だけがじっと考え込む。


七、


 秋の気配が立ち始めたイワシ雲の空へ黒い煙が立ち上がっていく。

 豊田の郷の十郎の家が燃えている。

 十郎や美夜受(みよず)がそれを眺めており、背後には颯天(はやて)を引いた太郎がいる。

 引っ越しの為の荷車に家財が積み込まれており、一緒に行く使用人たちも火を見ている。

 颯天の(くつわ)を取りながら、太郎は情けなく気弱になっている。

「あーあ、住み慣れた家じゃのに」

「もはや用なしじゃ」

 と、十郎が言うが、太郎は不貞腐(ふてくさ)れる。

「この先、屋根の下で眠れるのか、おいは心配たい」

 家人数名も不安げに顔を見かわす。

 皆、十郎が菊池でやっていけるのかどうかについて、確信がない。

 恵良惟澄(えらこれすみ)が馬で来た。

 馬を降りながら、呆れてそばの十郎を見返る。

「火までかけんでも」

「二度とここへは帰らぬ覚悟じゃ」

 笑う十郎の顔を見やる惟澄(これすみ)

「本気でやるのじゃな?」

「ああ、菊池を引っ担いで親父殿の遺志を継ぐ」

 その言葉を聞き、満足げにうなずく美夜受(みよず)だった。

 美夜受は十郎の心を察している。

 自分をないがしろにして顧みない菊池の衆に怒りを抱いていること。

 ファザコンで、父を見捨てたこと、いくさに怯えたことのトラウマを隠し持っている十郎だ。  

 菊池の主流から取り残され、飛び地の領地に放置されたことへの寂しさと反発、それがいつかは巨大なエネルギーとなってこの若者を立ち上がらせると、美夜受は読んでいた。

 美夜受は自分の血潮をたぎらせられない分を、十郎にたぎらせてほしいと期待していた。

 当時のいくさでは頑強な肉体がすべてで、女には出る幕がない、美夜受はそう思い込み、悔しさを内に秘めていた。美夜受は男に生まれたかった女だった。

「おうい、つくしんぼう!」

 太郎が彼方から来る筑紫坊を見つけて無邪気に手を振る。

 筑紫坊(つくしぼう)がやってくる。

「これを」

 手紙を十郎に差し出した。

「わしが取り次いだ五条頼元殿からの返書か?」

 と、惟澄が訊く。

「はい」

 阿蘇一族に加勢を呼びかけていた五条頼元と恵良惟澄は繋がっていた。

 そのつながりを頼って、十郎が五条頼元に面会を申し入れ、その使者の任を果たした均吾の筑紫坊だった。手紙を読んだ十郎が惟澄に伝える。

「薩摩へ出かけることになりますな、叔父貴にも同道をお願いしたい」

「薩摩か、遠かのう、…やむなし、桜島でも見てくるとするか」

 家が燃え落ちていく。

 もう十郎に帰る家はない。


 薩摩の秋の海、とある船上に海風がそよいでいる。

 彼方には桜島が噴煙を上げている。

 瀬戸内の海賊の軍船上である。

 小早船(こはやぶね)で寄せてきて這い上がった十郎と惟澄は、不慣れな揺れに翻弄された。それを海賊衆が笑う。

 先に来ていた五条頼元(ごじょうよりもと)中院義定(なかのいんよしさだ)と配下の者が見迎える。

 四国の海族忽那義範(くつなよしのり)の軍船が差し回され、五条頼元の意向を受けて九州の海で様々に働いている。

 その軍船上で頼元と惟澄、十郎たちの間で秘密会議が持たれる運びとなったのだった。

 忽那義範(くつなよしのり)は出張ってきていないが、上級武将大山田越前が立ち会いとなる。

 大山田越前に促され、五条頼元が進み出た。

「牧の宮様侍従、五条頼元でおじゃる」

 既に面識がある惟澄が十郎を紹介した。

「これなるは菊池十二代、菊池武時が一子、豊田の十郎でございます」

 十郎をじっと見やった頼元は、菊池の棟梁でござるか?と訊いた。

 いたずら者の顔でニッと笑った十郎。

「…豊田の十郎?」

 菊池の棟梁ならなぜ菊地姓でないのか。

 む、と怪訝な顔を見せる頼元に対し、慌てて惟澄が補足した。

「間もなく十五代に就任いたす、菊池の動向はこの十郎が双肩にかかっており申す」

 と、実はまだ何も決まっていないのに、はったりをかました。

 大前田越前が甲板上にしつらえた席に皆を案内した。

 南朝海賊軍団が島津東福寺城を攻めて牽制する作戦が整い、薩摩脱出の準備が進んで、あとは宮様の落ち着かれる先、というところまで谷山の征西府は準備できている。

 問題は征西将軍の受け入れ先だった。

 有力な受け入れ先が喉から手が出るほど欲しい。

 この会談の成り行きや如何に、と大前田越前が両者を交互に見やる。

 じっと十郎と惟澄を見据えた頼元は、未練たらしく惟澄に訊いた。

「…阿蘇家は我らを受け入れなさらぬのか」

 惟澄が頭を掻きながら言い訳をする。

「…これまでのいきさつで最早お分かりじゃろう、阿蘇大宮司(あそだいぐうじ)家当主、惟時(これとき)殿は様子見いたしおる、決断はでき申さぬよ」

 頼元は明らかに不快な色を見せた。

「…それで菊池家を、というのが惟澄殿のご意見なのじゃな」

「しかり、でござる、身共(みども)は阿蘇大宮司家を継げぬ、…阿蘇家の国論をまとめることはかなわぬ、…じゃがこの十郎は必ず菊池を率い申す」

 じっと十郎を見つめる頼元は、この二人を信じていいのかどうか、迷いに待った。

「一五代を、…そなたが」

 そんな頼元の腹の中を察しながらもとぼけて笑う十郎。

「肥後はよかとこです、きっと親王様にも気に入ってもらえましょう、おいでなされ」

 さわやかに言われて戸惑う頼元だった。

 この若者はここでやり取りされていることの重大さを本当に理解できているのか。

「阿蘇大宮司家、…われらは一途に頼ってまいったのじゃがのう」

 阿蘇大宮司家に未練断ちがたい様子の頼元に惟澄が十郎を弁護しようと言葉を継ぐ。

「わしは足利尊氏のやり口には納得いき申さぬ、信用せぬ、わしは南朝に味方する、しかし、わしにはまだ阿蘇一族をまとめる時期が来ておらぬ、一族の長、惟時殿は近年、足利幕府から阿蘇大宮司と承認された令旨をもらって喜び、北朝勢に味方して南朝方の領地を奪おうとさえしておる、阿蘇大宮司家は見限られるにしくはなし」

「…左様か」

 頼元の落胆ぶりは十郎からもはっきりと見て取れた。

「しかし、菊池は違う、十郎は南朝の旗印のもとに菊池をまとめ申す、征西将軍をお迎えし、征西府を支えられるのは十郎の菊池でござる」

 惟澄がダメ押しをするが、頼元は十郎をちらと見やる。

 頼元には若い十郎の力を読み切れない。

「…菊池は分家庶子(しょし)家がそれぞれ分裂気味じゃとか、弱り目だと聞き及ぶ、…十郎殿が率いるからとてどうなることか、…我らの責任は生半可なものではござらぬ」

「菊池はおいが束ね申す、…保証が必要ですろうか?」

 十郎が笑って言うので頼元は怪訝に見やった。

「分かり申す、…落ち目の菊池に賭けるは博打でござろうな」

「おいおい、十郎」

 惟澄が慌てるが、十郎はぎろっと頼元を見据えた。

「じゃが、博打でない道がどこにござろうか?」

 頼元が十郎を睨み付ける。不敬な!という思いがある。

「征西将軍の使命を博打(ばくち)に例えなさるのか」

「おいは十五代となって菊池を統率し、有無をも言わせず宮方宣言をし、お守りする、今この九州でお前さま方を引き受ける、そう言うてござる、同じことを言い切る武家が他にあるならそちらに頼りなされ、おいは構わぬ」

「皇家に対し奉り、その言い条は何事か、控えなされ!」

 頼元は激怒して腰を浮かし、中院義定ははや太刀の(つか)に手をかけている。

 その両者を見据え、十郎は言い放った。

「この九州で自らの運命をかけず世を渡る武士はどこにもおらんばいた、いや、本州でさえそぎゃんたい、おいなおどん様方に賭けるちいうておる、菊池の命運を征西将軍に賭けるとな、保証なくともじゃ、生きるも死ぬるも、菊池の民人すべての運命を南朝に託すばいた、おどん様方も賭けるしかなかばい、どこにも誰にも保証はなか、どの武将を選ぶかはおどん様方の選択と決意ひとつ、…好きに決断しなさるがよか、ご免」

 十郎は笑って席を立った。

 惟澄はため息をついて天を見上げるが、確かに十郎のいう事に理は尽きている。

 苦笑して腰を上げ、十郎の後を追って小早に向かった。

 唖然呆然として二人を見送る頼元と中院義定は立ち尽くす。

 陸に向かう小早を船頭が操る。

 今頃になって酔いが回って吐き気を催した十郎が舳先から、おえ、と胃液を吐く。

 惟澄がやれやれとその背中をさすった。

 都人(みやこびと)とはこんなものかと十郎は内心苦笑していた。

 まみえる前はさすがに「身分高き貴人がた」に対して緊張する心はあった。

 だが、会ってみれば所詮は同じ人、だと思った。

 地方の土豪国人、荘官領主や菊池氏のような守護地頭まであらゆる人々の命運を握る皇族と公卿官人たち。京の都は想像など及びもつかぬ華やかさであろうと、人々はあこがれを持って語ったが、見たこともないものにかしずこうと思うほど、十郎はやわな男ではない。

 肥後ものの向こうっ気は十郎の脳髄からかかとまでを貫いている。

 十郎は惟澄を通じ、筑紫坊の鬼面党を使って吉野の南朝から裏を取っていた。

 牧の宮懐良(まきのみやかねなが)親王には征西将軍の資格があり、領地与奪の権限が事実あるのかどうか。

 牧の宮懐良の兄である後小松帝の南朝皇室は保証するという返事を寄こしていた。

 そこまで相手の実効的力量を見切ったうえでの牧の宮菊池勧誘の挙だった。

 島津が谷山攻めの準備を進めているとの情報は筑紫坊から既に入っている。

 時間がない。頼元は決断せざるを得ないだろう。

 牧の宮はわしを頼ってくる。か、どうか。むろん、賭けではあったが。

 そんな十郎たちの乗った小早が遠ざかっていくのを忽那の軍船上から頼元は見送った。

 四条畷(しじょうなわて)の戦いに楠木正幸(くすのきまさゆき)が敗れ、吉野の後村上帝はさらに奥地の豪農の家に落ちられた。もはや後がない。南朝の命運は尽きかけている。

 五条頼元には焦りしかない。

 しかし、あの若者はあまりにも不敬、あまりにも傍若無人(ぼうじゃくぶじん)

 ところが中院義定(なかのいんよしさだ)は苦笑して言った。

「…あの若者のいう事、潔い趣があり申す」

 頼元は、え?となった。

 風が出てきた。波が立ち始めている。

 頼元と中院義定の足元は大きく揺れている。




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