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武光と懐良・敗れざる者  作者: 橋本以蔵
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第2章 菊池奪回戦

一、


 一三四七年 正平二年夏、炎天下の菊の城が攻撃を受けている。

 深川の街は菊池川右岸に展開しており、港があって市街地があり、佐保八幡神社が要の位置取りに配され、小高い丘の上に一族の本城たる菊の城が構えられている。

 川向こうには赤星の庄が広がって、深川は地方豪族の本拠として相応の構えを見せていた。

 その市街地が今は敵勢に踏みにじられて、赤星館は敵方合志(こうし)軍に占領されてしまっていた。さらに今、(みなと)を守る守備隊と菊池本城を守る武士団たちが、北朝の合志軍に分断されて追い散らされる。

 奇襲を受けて総崩れとなっている菊池一族の将士たちだった。

「館へ集まれ、御屋形様をお守りせよ!」

 人呼びの丘で呼集の太鼓が打ち鳴らされ、菊池の将士たちが声を掛け合いながら菊の城へ駆ける。

 菊池氏は古代末より中世にかけての約五〇〇年間、肥後の国菊池郡を本拠として君臨した武門の一族である。

 この事件の時代は初代則隆(のりたか)公が一族を起こしてから三〇〇年もたっていたころで、肥後一帯、南は現在の熊本市、西には菊池川沿いに高瀬の津を擁する有明海辺りまでに勢力を伸ばし、九州の政庁たる大宰府にまで影響力を持つ名族に成長していた。その本家の城が今、脅かされているのだった。

 菊の城へ、菊池川対岸の付城とされた赤星館から出撃した合志軍の攻撃が今まさに繰り広げられている。無残に踏みにじられる菊池のご城下は、すでに阿鼻叫喚の巷と化している。

 逃げまどう町民や村の百姓たち。

 それを騎馬武者が追い回して矢で射殺し、雑兵どもが薙刀やこん棒で叩き殺していく。

 その町筋より少しだけ高台に菊池本城の菊の城があり、兵たちが張り巡らされた板塀ややぐらの上から城下の敵兵に矢を射かけている。

 菊池の本城である菊の城は地頭領主の館としては巨大だが、典型的な館城(やかたじろ)であり、すでに時勢の中ではいかにも守りが手薄い。堀や土塁に囲まれてはいるが、軍事的設備には乏しい。

 そこへ敵が押し寄せんとするのを、かろうじて城兵たちが押しとどめようと奮戦している。その間隙を縫い、裏手から物見が戻り、奥の間の縁先へ膝まづいた。

 不意打ちを食らい、大慌てで迎撃しようとしている菊池本家の当主、武士(たけひと)に報告する。

「赤星館は敵に占領され、付城に使われており申す、出田軍は攻撃を受けておる様子で、こちらへの援軍をにわかには出せぬとのことでありました!」

 病没した菊池武重の後を受けて十四代に立ったのは菊池武士(きくちたけひと)(二十二歳)だ。

「西郷は動かぬのか、水次(みつぎ)はどうじゃ⁉」

 多くが日和見をして様子見していると報告を受け、武士が顔を歪める。

「どやつもこやつも!」

 そこへ表から駆け込んできたのは兄の武澄(たけすみ)(二十五歳)、弟の武尚(たけひさ)(十八歳)、武義(たけよし)(十七歳)だ。

 水干姿のまま、太刀を抜き放っている。

「兄者、最早持ちこたえられん、一旦落ちられよ」

「敵は合志勢だけではなか、別な一隊が正面口の七城方面からも進軍してきよるげな、こいは周到に用意された不意打ちじゃ」

「わしらが先手としんがりを務めて兄者を逃がす、裏から、はよう!」

 武澄に肩を突かれて武士はよろけるように腰を上げた。


 鷹取(たかとり)城は別名を染土(そめつち)城と言い、菊池の北部、山間の迫間川(はざまがわ)沿いの山の上に詰めの砦が築かれていた。麓には常の館と百姓衆の畑や集落が寄り集まっている。

 菊池の奥の院ともいうべき立地で、原田氏が城代として守り、時に応じて引退した棟梁の隠居所となったり、菊池全土の詰めの城として機能していた。

 菊池からは谷川沿いに来るか、雪野の山を紆余曲折せねばならず、ここなら敵が容易に大軍を寄せかけてくることは難しい。武士はその鷹取城に逃れ来ている。

 その広間に武澄、武尚、武義たちに加え、鷹取城代の原田左門兵衛、寺尾野八郎達が雁首揃えていた。武士が逃げ込んだと聞きつけ、重臣赤星掃部の助武貫あかぼしかもんのすけたけつら(二十五歳)が赤鬼のような顔を巨大な体にのっけて押しかけてきている。

「本城も我が館も敵の手に落ちた、無念じゃ!」

 十二代当主菊池武時の未亡人、十三代武重の母に当たる尼僧姿の慈春(じしゅん)(五十歳)も控えて、さっきから皆が軍装を解きもせず、虚しい議論が戦わされていた。

「このまま菊池が蹂躙(じゅうりん)されるのを、お前たちは座視するつもりかえ!?」

 髪を落として頭巾姿の慈春尼は当代武士の母でもあると同時に、菊池寄合内談衆の元締めの立場にある。

 武士が困り果ててうなだれている。

「此度の合志幸隆は本気じゃ、背後に少弐頼尚の指図があるのではなかかのう⁉」

 寺尾野八郎(三十七歳)が、鼻息を荒くして思いを巡らす。

「宅間勢や川尻の軍も侵攻してきておる、仕掛けは大きかぞ、なんとする御屋形様」

 武士が答えないので赤星武貫は眉間にしわを寄せる。

城隆顕(じょうたかあき)殿が他郷へ軍勢を率いて出張っておらるるっとが間が悪かなあ」

 武澄が腕をさすりながら気を揉むが、思案がありそうでもない。

「薩摩谷山城の主上、牧の宮懐良親王が肥後に、この菊池に入られるのを遮る気じゃろうか」

「牧の宮様からの令旨は来ておるが、菊池はまだ何も答えてはおらぬ」

 と、慈春尼が苦々しく言う。

 慈春には情勢を見て、かなうなら今から武家方につきたいという考えがあった。

「主上か、担ぐと決めたわけでもないに、最早災難の種かよ」

 武貫が大きな声で言った時、斥候からの報告がなされる。

「申し上げます、合志軍の情勢ですばい、深川の本城、赤星館に続いて守山の砦も落とされ申した、木庭(こば)城、戸﨑城、古池城が攻められ、敵は女子供をさらって綱で引き、合志の領地へ搬送しておりもうす」

 誰もが言葉に詰まった。奴隷に使われ、売られるものもあろう。

 そう言われても、ではどうすればいいのか、一座のものに思案は沸いてこない。

 領主として領民を守れないのではアイデンテティが喪失してしまう。

 荘園の領民は年貢を差し出してはいるが、領主が頼りになるかならないかいつも観察しており、負けて領地を失いそうであれば一家ごと、時には村ごと他地区へ移っていくことも珍しくはなかった。

 国人領主がダメなら守護に訴え出たし、それが当てにならないなら荘園を住み替えた。領主にとって、それは非常時の兵力を失う事でもある。

 それに対し、領主は自分が頼りになる絶対者であると証明し、それによって領民を確保し、年貢を徴収しなければならなかった。

 今、領土を敵に蹂躙され、菊池はまさに領主としてのアイデンテティの危機だった。

「御屋形様、どぎゃんすると!?早う指示を出されんと」

 寺尾野八郎に膝を詰められても、武士は決断力を示せない。

「わしが思うに…」

 だが言葉が続かず、一座のものの顔色を窺う。

「竹井城合戦の二の舞を踏まれる気か⁉」

 赤星武貫が苛立って声を荒げた。

 武士が率いて守ったが、結局敗れて失った城のことをあてこすっている。

 そのいくさでも武士には決断力を示せなかった。

 病に倒れた十三代武重の後を受けて十四代に就任した武士だが、その後の七年は長すぎた。

 状況はさらに悪化し、庶子(しょし)家分裂は避けがたい。そこにこの事態だった。

 荷が重いと感じている。

「討って出よう」

 苦し紛れにそういう武士だが、すぐに上げ足がとられる。

「軍勢をどう動かされるか?」

 武士が答えられないと、

「その思案がなかとか⁉」

 苛立ちは伝旙(でんば)して武澄までが焦れた声を上げる。

 勝気な慈春尼も我が子ながら武士の態度は歯がゆくてならない。

 連戦の敗北、菊池への敵侵入に対応できるのかと、兄の武澄や寺尾野八郎が苛立ちきる。

「合志勢撃退の策がないならおどんな勝手に動く、もはや棟梁の指図は受けんばい」

 武貫が立ちかけ、慈春尼が慌ててそれを制す。

「武貫、待ちやれ、よりあいしゅないだんの定めにしたごうて話を詰めよ、お前さまたちの思案をまず披露されたか、棟梁一人で決めきれぬ場合は」

 それを遮って武貫が喚く。

「それは平時の取り決めたい、今はそげな悠長な場合ではなか、一時を争う、おいは赤星の手勢を率いて勝手に動く、許さんというなら腕で来い、のう、ご本家様よ!」

 睨み据えられて武士の胃がキリキリと痛んだ。

 慈春は赤星家から武時の妻に出た。武貫は甥にあたる。

 その遠慮のなさが強い言葉を放たせている。

 言葉に詰まった武士と慈春尼を見やり、あざけりの色を見せる者もある。

 とはいえ、啖呵を切った赤星武貫も動くに動けず、一同は煮詰まってしまっている。


二、


 その夜中に鷹取城を抜け出したのは武士(たけひと)だった。

 この非常事態の中、わずかな護衛の兵士を伴っただけで鷹取城をすべり出し、さらに山奥の鳳儀山聖護寺(ほうぎざんしょうごじ)を訪ねようと、武士が険しい山道をよろばうように行く。

 迫間川を辿って遡り、朴木川(ほうぎがわ)に沿って脇手へ入り、鳳儀山の山頂近くに聖護寺はある。そこには武士が師と仰ぐ大智禅師(だいちぜんじ)(五十九歳)が、粗末な墨染めの衣に身を包んで、質素な山居をしながら境涯を磨いておられる。

 聖護寺は聖福寺と違い、公案は用いない曹洞宗(そうとうしゅう)の寺である。

 只管打坐(しかんたざ)がもっとうで、悟りさえ目指さぬというのが建前だ。

 大智は山門の前の岩場で早暁座禅を終え、朝課に移ろうとして、武士の一行が登ってくるのに気が付いた。

 わずかな供ぞろえで登ってきた武士の蒼ざめてやつれた顔を見れば、合志勢の侵略が聞こえていたこともあり、大智には状況が手に取るように分かった。

 暑い日差しを避けて方丈へ招き入れ、朝粥を与えて落ち着かせ、話を聞いた。

「もはや、わたくしには何をどう考えてよいのやら」

 今回だけではない、ずっとこの状態が続いている、という武士。

 何を提案しようと様々な意見が出されて、武士の意見は退けられる、棟梁として何ができるのか、武士はすっかり自信を失っていた。

 十三代武重(たけしげ)の代から菊池本家は絶対の権威を失っているのは明らかだ。

 当時の武家は本家庶子家の分裂領地争いに悩まされており、本家は力を付けた庶子家に圧されていた。

 菊池一族とて例外ではなく、それが「よりあいしゅないたんのこと」という取り決めを庶子家から、表向きは合議の上であったが強要されていた事実に表れている。

 よりあいしゅないたんのこと、とは菊池家憲とも呼ばれる寄合内談衆の協議の事で、武重と内談衆の間で取り決めのなされた菊池の掟である。

 菊池の棟梁の言い分よりも上に立つとされた取り決めで、一族とは何か、武家とは何を信条として生きるのか、が規定された。


一、天下の御大事は内談の議定ありというとも、落去の段は武重が所存に落とすべし。

一、国務の政道は内談の議を尚すべし、武重すぐれたる議を出すというとも、管領以下の内談衆一統せずば、武重が議を捨てらるべし

一、内談衆一統して菊池の郡においてうたえ事(以下判明せず)を禁制し、山を尚して五常の議(茂生の樹)を磨(増)し、家門正法と共に竜華の暁に及ばん事を念願すべし

謹んで八万大菩薩の明照を仰ぎ奉る

                    藤原武重  花押血判

延元三年七月二十五日


 要は棟梁の勝手にはさせないという庶子家の意向に沿った、家憲というには怪しげな一文だった。大智としても武重に相談され、菊池のために良かれと思ってこの取り決めに賛成したが、今では分からなくなっていた。

 武士がこの取り決めの為に追いつめられていることは明らかだった。

 人が相談し合うという事にはどこか危うさが付きまとう。

 武士はもう、うんざりだった。そのうえ、この合志一族からの攻撃だ。

「皆がおのれのえてがってに狂うばかりで、正道が通りませぬ、菊池の一族がどうなろうと、私にはもうどうでもよか!」

 大智の口からため息が漏れた。

「武士殿は仏道にもう一段踏み込むしかないのかもしれませぬな…」

 大智禅師は肥後宇土郡長崎村に生まれ、永仁四年七歳で川尻の禅寺、大慈寺に入った。

 禅を学ぶこと天性の才があったと言われる。

 その後総持寺そうじじに学び、長じては元に渡って学び、加賀に祇陀寺(ぎだじ)開山住職となっていたが、やがて菊池武重に請われて菊池入りをしていたものだ。

 住したのが菊池隈府の北方一五キロの鳳儀山聖護寺。

 それは小さな修行道場の山寺で、史家によれば、武重によって党的団結の中核として招聘(しょうへい)したとされるが、大智禅師ともあろう高僧が党派の為や、武士団誰彼に味方したり敵対したりして禅の教えをないがしろにするとは考えにくい。

 おそらく鎌倉幕府時代の北条氏が武士の魂のよりどころとして禅を学ぼうとした故事に倣い、菊池の武士も生き死にをかけた戦場に赴く身として、明確な死生観を打ち立て、死への恐怖を克服する道を模索するため、菊池武士団の精神の支柱に禅の教えを皆で掴もうとしたものであろう。

 大智禅師もその心根に打たれて菊池入りし、贅沢な大刹を望まず、山深い小庵を望み、応えた武重は鳳儀山中に聖護寺を修行寺として建立、わずかな土地を寄進して寺の糧としたものだ。

 鳳儀山は峩々たる山中にあり、菊池のものは菊池深川から相当な思いでもって谷を辿り、尾根を辿っていかねば聖護寺には行きつけない。

 そこで行われた禅師の指導とはまさに只管打坐(しかんたざ)、一切の妄念を捨てて一跳直入如来地いっちょうじきにゅうにょらいちの座禅ただそれだけであったろう。

 しかし、菊池の武士からすれば守護として統治の悩み、敵対する勢力への対応策に対する心構えなど、様々に相談案件が出てきてしまったものと思われる。

 それに対して無碍(むげ)にもできず、求道(ぐどう)の道筋に沿いながら現状に対応する心の持ち方の手ほどきをしたに違いない。

 その先に「よりあいしゅないだんのこと」もあるのだ。

「ご老師様、…重いのです、…苦しいのです、…近頃は息もでき申さぬ」

 武士の精神は既に限界にきている、と大智は見た。

 しばらくじっと考えて、やおら口を開いた。

「…降りなされ、…分に余るなら投げ出せばよい」

「しかし、それでは菊池の棟梁としての分が立ちまっせんばい!」

「なに、なるようになり申す、…大事ない」

 武士は呆然としたまま大智の顔を見つめた。


三、


 炎天下に百日紅(さるすべり)が満開の、ここは御船の恵良惟澄(えらこれすみ)の領地の一角。今年十九になった美夜受(みよず)と母おえいの住む家は元地下侍の屋敷だった。

 つましい暮らしだが、惟澄の手当てと自分たちの畑仕事で生計が成り立っている。

 おえいは元は村から村への子連れの渡り白拍子(しらびょうし)で、祭礼や見世物興行に踊りを舞い、時には占いで卦を見たり、春を売ったりして生きてきた。

 それが惟澄の目に留まり、囲われて戦死して主のいなくなった屋敷を与えられた。惟澄からの手当てと自給自足の畑で生計を立てている。

 縁先のかなたには御船川沿いの独立した小山が見えている。

 山頂には柵が巡らされて砦となり、麓には惟澄の住む館があって、御船(みふね)城とされていた。

 美夜受とその母おえいの家におしかけている十郎はもう二十歳になっている。

「かかさま、つまみが切れた、漬物はないか、キュウリでもよかぞ」

 通い婚の亭主面でいう十郎だが、まだ二人は婚姻はしていない。

 来れば毎度、美夜受の母の作る飯を掻き込み、酒を食らって美夜受の膝を引き寄せ、ごろりと横になる。

 長身にがっしりと肉が付き、細身ではあるがすっかり大人の顔つきになっている。

 おえいは苦笑いしながら十郎の言うとおりにしてやる。

 いくさがないときはおなごの尻を追い掛け回す他にすることがないが、美夜受の悋気(りんき)の前には手も足も出ず、ぐうたらな亭主のように暮らすしかなかった。

 その庭先へ、ひょっこりと惟澄が姿を現した。

「まるでこの家の婿じゃな」

「お、惟澄さま、よかとこへきなった、一献いこう」

 と、徳利を差し出し、美夜受が盃を持ってくる。

 そのまま縁先でおえいの運んできたキュウリをつまみに呑み始める二人。

「おまんはお気楽者じゃのう、入り浸っておるではなかか」

 惟澄がいくさをしていない時は美夜受の膝で甘えているだけの十郎を笑う。

「わしの娘の味はどうじゃ」

「好かんコツを言わっしゃるな」

 美夜受が惟澄を睨み付ける。

 美夜受の母おえいは惟澄の女だが、美夜受は惟澄の義理の娘、ではない。

 おえいはただの妾なので、おえいも美夜受も正式な身分はない。

 惟澄は十郎の後見役を自任し、いわば惟澄は十郎の烏帽子(えぼし)親という関係にあった。

 その十郎が惟澄の妾の家に出入りし、やがては美夜受と深い仲になっていた。

 人を人とも思わぬ真似だが、悪びれない十郎のケロリとした態度に惟澄は一切苦情を言わなかった。  

 かえって、面白がって、よく可愛がってもらえ、と美夜受を冷やかした。

「大きなお世話」

 美夜受は惟澄を切り捨てたが、惟澄は笑った。

 惟澄は十郎を鍛え、兵の動かし方を教え、初陣を飾らせてやり、共に暴れまわっている。

 そんな惟澄に十郎がひどくなつくのも、菊池から疎外された孤独感からだった。

「叔父貴よ、…そろそろ阿蘇家を乗っ取れんのかい?」

 と、何気ない世間話の口調で問う十郎。

 ふふんと、惟澄が笑って杯を口に運んだ。

「…阿蘇大宮司家(あそだいぐうじけ)は棟梁惟時(これとき)様の独裁性が強いでのう、…それを庶子家も疑わず同調しておる、…その形勢は今のままではどうにもなるまい、…じゃが、菊池は違う」

 惟澄が意味深な目で十郎を見やり、十郎が見返した。

「…庶子家が分裂しかかって、中には武家方に寝返るべしとの意見もあると聞く、武士(たけひと)はあれこれ突き上げられてもう持つまい、…そろそろ出番ではないのか?」

 にたりと笑って十郎は惟澄の佩刀に手を伸ばす。

「そうよのう、…菊池を取りに行くか、…それにはふさわしい佩刀が要るばいた…」

 十郎の手が触れるか触れぬかの時、惟澄がすらりと太刀を引き抜いた。

 陽光にギラリとすさまじい光を放ったのは蛍丸だった。

 十郎の目がじっと刃を見つめる。

「…ほしいか?やらんよ」

 と笑う惟澄。

 それは菊池延寿鍛冶(きくちえんじゅかじ)の源流、来国俊(らいくにとし)の打った大太刀で、惟澄がかねて後醍醐帝の為、多々良浜の戦いで足利尊氏と戦った折、傷ついたのを鴨居にかけて寝たら、蛍が群れ飛んで刀の傷が消えたという。それ以来菊池界隈では惟澄の「蛍丸」として聞こえた名刀となったのだが、実際見事なそりと波紋を持った豪壮、優美な長刀だった。

 十郎が笑ってため息をつく。

「いつかおいもこれほどの業物を持ちたいわい」

「やらんでもないが、…おまんがこれを持つにふさわしい男でなけりゃ」

 と、にやつきながら十郎を見やる惟澄。

「…それをどう、わしに明かしてみせる?」

 この時、惟澄の視界の端、庭の生け垣の向こうで百日紅の木がちらりと揺れた。

「なにやつかい!?」

 惟澄が誰何(すいか)した。

 十郎が笑って制した。

「均吾じゃよ、叔父貴」

 庭へ入ってきたのは均吾が成人した修験者、密偵の行者筑紫坊だ。

「おお、おまんは」

 惟澄には十郎の従者としての均吾が記憶にあった。

「この頃見んと思うたら、おまん、修験者になったつか」

「わしの密偵じゃ」

 十郎に言われて、惟澄は、あ?と見返った。

「筑紫坊、どうじゃ、菊池の状況は?」

 筑紫坊が惟澄の前でいいのか?と目で問う。

「よか」

「菊池はえらかこつになっており申す、合志勢に合力して、宅間勢や川尻勢が各城を落とし、菊池本城菊の城も」

「抑えられたのか、棟梁の武士(たけひと)は?」

「おそらく鷹取城ではございませんろうか」

 惟澄が驚いて十郎を見返る。

「そりゃえらかこつじゃ、どうする?このまま成り行きを見るのか、それとも」

 おえいと美夜受も台所の方から聞き耳を立てた。

 じっと考えていたが、腰を上げる十郎。

 その瞬間、十郎の内部でもやもやした霧が一気に晴れ、突然、ぽんとなすべきことが見えた。 多分、少弐や大友の首を取ることにつながる道だ。

 あの憎い少弐貞経、いや貞経は既に亡いが、少弐を打ち滅ぼす!そのためには!

 繋がった。

 おのれに自負のある人間は自分の力を示せる機会を待つものだ。

 座禅をしてかえって強くなった煩悩の炎が燃え盛っていた。

「菊池を頼む」

 武時の言葉や、武辺への自信、領地経営の知識を仕入れることなぞ、すべてがつながって一本の道筋となり、十郎を招くように思えた。

「時が来たかもしれんのう」

 美夜受が張り詰めた顔で十郎を見つめる。


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