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武光と懐良・敗れざる者  作者: 橋本以蔵
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第10章 豪雨災害


一、


「こいはまたえらか御殿ですのう!」

 田舎者丸出しで緒方太郎太夫が間の抜けた声を放った。

 一三六七年、正平二十二年、菊池の穴川に暮らす緒方太郎太夫が里人からの嘆願書を持って博多に出てきている。それを武光が案内しようとしているのだった。

 宰府守護所(さいふしゅごしょ)あとに創建された征西府御殿(せいせいふごてん)がそびえている。

 場所は大宰府(だざいふ)。現在に伝えられているものはないが、菊池本城御殿よりは大きく壮大な施設であったろうと思われる。

「さすが、征西府じゃ、いやあ、たいしたもんばい、武光様、真実ああたは菊池の誇りじゃ、おいはえらか殿様に仕えられて、幸せたい」

 太郎がうれし泣きをして、武光は苦笑した。

「涙もろいのは老け込んだ証拠ぞ、毎年毎年子供を増やしおるそうなが、女房殿に尻を敷かれよるんじゃなかか?」

「そ、そいを言わんでくいやい」

 太郎が嫌な顔をして、はよう案内を、と先に立っていく。

 大宰府は博多からわずか十七キロの距離にあり、白村江(はくすきのえ)のいくさの時に築かれた。昔官衙(かんが)の置かれた大宰府は大和朝廷の威を九州に及ぼすために平安京を模した街で、朝鮮城である大野城(おおののき)の置かれた山を背後にしてその麓に大宰府政庁跡がある。

 かつてはその両サイドに筑前国分寺と唐から戻った空海が滞在した観世音寺が控えていた。 七世紀後半に西海道の統治、外交と貿易の拠点として建設された街だった。その大宰府に管理された国際港が博多である。

「時代が下ってからは大宰府は長く少弐(しょうに)一族の支配によって運営されてきたつじゃ」

 武光の説明に、太郎が「はあ」と感心しきりだ。

 この物語の当時は大宰府政庁は既になく、ただ代わりに近年まで近くに少弐一族の館が構えられていた。それが宰府守護所(さいふしゅごしょ)で、少弐一族が宰府守護として政庁を構えていた。

 そこを攻め立てた時に焼き払い、跡地に御殿を建てたのが新政権たる征西府だった。

 宝満山(ほうまんざん)には有智山城(うちやまじょう)という詰めの城が置かれてあったが、大保原(おおほばる)で威勢を失って後、少弐一族は追い落とされ、有地山城も落とされて、少弐頼尚(しょうによりひさ)は大宰府から逃げ落ちていった。

 大保原の戦いの敗北が潮目を決定的に変え、少弐一族は多少の変遷はあれ、結局歴史の表舞台から消え去っていったのだった。

「攻め取ったのは棟梁ちゅうこつじゃものな」

 太郎が満面の笑顔で言うように、大保原以来上昇機運に乗った武光たち菊池勢が今は占領している。武光は親王を奉じ、征西府を菊池から大宰府(だざいふ)へ進めた。

 大宰府という栄光の街に征西府(せいせいふ)を進出させることは菊池一族には悲願だったが、南朝に皇統統一を図るため、いずれ京に攻め上る使命を持った親王にも悲願の地だった。

 そしてそれは果たされた。

 武光は成長した武政を連れて精鋭二〇〇〇を大宰府に常駐させ、親王の周辺を守った。

 武光や幹部たちは周辺に館を構え、親王は御殿内に起居した。

「大宰府征西府は南朝の安定した政権中枢というわけよ、とはいえ、九州は未だ抵抗勢力が反抗の隙を狙いおる、どいつもこいつもしぶといわい」

「なーん、太宰府でも親王様は人から宮さまと奉られおるわ、大したもんたい、棟梁の采配あって都の繁栄を取り戻したのじゃもの」

「何度も兵火におうて焼け落ちた太宰府天満宮を、我ら征西府によって新造し、新たな荘園を寄進してやったわ」

 武光が自慢して笑った。

「ああたは太宰府の救いの神じゃと皆が言うておるち、拝まれねばなるまいよ」

 と太郎はおどけて武光を拝んで見せた。武光は苦笑しながらこの数年の軌跡を思い返していた。武光は菊池から大宰府へ通じる軍道を整備させ、物資の運搬を容易にした。兵站(へいたん)の補給路としてだった。

 博多湊(はかたみなと)は底ざらえがなされ、大型船の改修ドックが整備された。唐房(とうぼう)には海の民があふれ、異人達が以前にも増して引きも切らず、嬌声が飛び交った。経済はにぎわい、華やいだ日々に大宰府の人々は征西府を心からたたえ喜んでいた。

 征西府として大きな変化は京から後村上天皇の第六皇子、伊倉の宮良成親王(当時六歳)を迎えていることだった。良成親王(よしなりしんのう)には懐良親王(かねながしんのう)の後継の任務が期待された。 菊池が棟梁として直接の采配を武光から武政に移譲しようとしているように、征西府においても世代変わりしての権勢維持が意識されていた。

 本州の南朝勢にいよいよ勢いが失われ、後小松天皇と側近たちは征西府に東征してもらって窮状を救ってもらうよりも、むしろ勢力を九州に集めて九州から北朝を突き崩してもらいたいと考え始めたこともあった。

「なんちかんち、征西府が大宰府入りして六年、近頃九州は鎮まって、菊池ではありがたかこつと噂しよりますばいなあ」

 太郎は陳情の筋も忘れてひたすら征西府の繁栄に目を見張った。


 ここ数年、太宰府入りした征西府は南朝方に下った九州武士団を押さえて九州経営にいそしんでいた。もちろんその目指すところは南北朝統一を目指していつか東征し、京の北朝勢力を下して皇統統一することにある。その狙いは当然のように九州各武士団には徹底されており、かつて争ってきたライバル豪族たちも南朝と命運を共にすべく恭順し、年貢を納め、徴兵に応じ、東征の号令のかかる時を待っていた。

 九州武士団には南朝方として日本統一に貢献し、一族の命運を将来へつなげようという気運がようやく盛り上がり始めていた。それだけの可能性を征西府は見せていたのである。

 そんな九州南朝方のシンボルが牧の宮懐良親王であることは周知されていたが、征西府の実質的求心力は菊池武光その人にあった。

 こつ然と現れて菊池一族の棟梁になりあがったかと思いきや、誰もが二の足を踏んだ牧の宮懐良親王を迎え入れ、南朝の旗印を掲げ、連戦連勝してその存在感を示した。

 のみならず、菊池川流域を統治してさらには倭寇をプロデュースして海外にまで経済圏を広げ、菊地を都として九州最大の城塞都市として整備したその手腕。

 そのいくさ神としての存在感は大保原の戦いで決定的カリスマ性を持つに至った。

 人々にとって、勝利という二文字は決定的な影響力を持つ。

 島津、伊東、原田、秋月、三原、山鹿氏など、かつて覇を競って争い合った武士団たちがこぞって太宰府の征西府へ通い、指示を仰いだが、それに対応する武光の魅力がさらに彼らを引き付けた。勝ち誇らず、下積み経験の長いもの特有のざっくばらんな庶民性を示し、たちまちどの武将たちとも打ち解けて見せた。

 武将たちは牧の宮の威光にひれ伏しながらも、菊地武光との同盟を喜んだ。

 むろん、九州の情勢が南朝方に有利であるからであり、その勢力内に自分の種族が置かれて損がないことが条件であり、条件が変わればたちまち手の平を返すであろうことは火を見るより明らかであった。とはいえ、それでも多くの武将たちが武光と手を取り合えることを喜んだ。片意地を張り、勝敗にこだわり、勝者の目で敗者を見下す相手に対しては、たとえ利害が一致しようとも、九州武士団はなびかぬ頑固さがある。

 武将たちは武光の男気ある人となりに惚れ込んだのだった。

 そんな武光の人望とカリスマ性に、征西府は支えられて今日に至っている。

 とはいえ、武光は自ら先頭に立って九州武士団を右へ左へ引きずり回すような真似はしていない。あくまで征西府の運営は牧の宮懐良親王と、親王を守って西下してきた公卿たちが主管し、 それを菊池武士団及び有力豪族たちの選抜された委員たちが取り仕切った。

 菊地武光の立場はどこまでも菊池一族の棟梁としての域を出てはいない。

 それでも菊池武光のカリスマ性と人気によって、武将たちが一目置き、武光の隠然たる存在感によって征西府は支えられているのだった。


 武光は太郎を征西府のまつりごとの場にも案内した。

 征西府御殿では博多の宗一族など海商どもからの税収の管理と使い道、寺領の適性を検地し、各種訴えに対する裁判を行う、というまつりごとが執り行われている。

 その政務室で太郎は恐縮して小さくなって皆の会話に目を丸くしている。

 かつては頼元が担当した恩賞のあてがいや係争問題を、今は政務の中心人物饗庭道哲(あえばどうてつ)や五条頼元の子、頼遠、頼治らが行う。

 職制として執行、権大監三人、小監一人、大典一人が置かれ、花押で執行許可を与えた。

「若手も加わり、代替わりも順調、めでたか」

 と城隆顕(じょうたかあき)が言う。武澄、武貫(たけつら)は既に亡いが、四十七歳になった城隆顕は健在だ。老練な軍師として征西府の軍勢の采配には決定的な権力を保持している。菊池軍を指揮する実質的司令官は武光の二十一歳になる息子の武政だった。

 旧菊池本家はすでに勢いを失い、武光の家系が新たな本家として菊池を統括していた。

 亡くなった武澄の息子の武安が本家筋であるという立場を捨てて武政を補佐している。

 武安は武政と相談のうえ、佐賀の姉川に城を築き一帯を姉川一族に守らせた。

 土地はよく治まり、年貢も無事に取り立てられている。

 姉川一族を立ててはいるが、姉川を実質管理しているのは武安の菊池一族であり、わずかではあっても、武政や武安にはそういう成功体験があって、自分たちの九州経営方針への自信となっていた。

 武政は父武光に相談しながら、九州全域の政権維持をはかるべきところだが、この親子にはここ数年来、隙間風が吹いている。

 今日も武政は城隆顕(じょうたかあき)に相談する風を装いながら、武光による政権への影響力を牽制(けんせい)しようとして、あえてことさらに問題をあげつらう。

「少弐はすでになく、大友勢も鎮まってはおりまするが、どうにも不穏でござります」

 武政が城隆顕(じょうたかあき)に訴えると、武安が尻えに乗った。

「各部族ども、厳しく押さえつけて領地を召し上げ、反抗する力を奪い取っておくべきではござらぬか、今からでも命令を出せばよかです」

 威勢のいい意見を突き付けられても城隆顕は苦笑して取り合わない。

「若いもんに棟梁ほどん知恵がつくまでは、なかなか新たな策には乗れぬな」

 大保原以来、征西府は「降参半分の法」というやり方で打ち破った豪族連中を従えようとしてきた。大保原の大いくさの後も北朝勢との戦いは熾烈を極め、征西府が大宰府入りするまでには多大の苦難があった。相手を打ち破っても、その後の反抗をどう抑え込むかが大きな問題だった。そこで武光が編み出したのが、鎌倉以来の武家作法として常々行われていた「降参半分の法」をアレンジして活用するやり方だった。

 北朝に味方して征西府にたてついたものでも、所領は半分残す、というのが「降参半分の法」だったが、武光たちは徹底して、一切を召し上げない、すなわち全領地を安堵する、というやり方を取った。

 窮鼠(きゅうそ)は猫をはむ。追い詰めるのではなく、利をもって吊り、連合しようとしたのだった。そこにはやはり武光の個性が強く働いていたのではないか。

 だが、それこそが武政たち若手の不満の原因となっていた。

「奴らに所領を安堵するけん、余力が残り、反抗の種になり申す、しかるべく領地を召し上げ、そこに菊池子飼いの武将を配すべきなのです!」

「今からでも遅そうはござらぬ、島津や大友勢の底力を削ぐべきでござろう」

 武政と武安が城隆顕を突き上げるが、城隆顕は苦笑して言う。

「力押しで相手から根こそぎ奪い取り、圧力で屈服させるというやり方では無理が来る、棟梁は皆が思いを合わせて一つの形に向かうという道筋を思い描いておらるるのじゃ、武力は必要、じゃがのう、万能ではなかぞ」

 力業は行うにたやすい。だが、必ず敵意を生み、潜在的な反勢力を形作らせてしまう。それを城隆顕は若手に指導しようとしている。

「…知恵じゃ、各豪族どもを抑え込んで完全に支配権を確立するためには、相当な知恵がなければならんでのう、最近の棟梁が抱える思案はそこなのじゃよ、そこなのではあるのじゃが、なあ…」

 城隆顕までが思案顔となり、若手にはそれがもどかしい。

「その甘さが命取りにならねばよかじゃが」

 武政も武安もそれ以上を言い募りはしないが、彼らの中には不満がたまりきっている。

 不満の種は財政上のことや、征西府の方針のこと、博多の運営に関してなど、限りない。要は世代間の対立なのだった。

 武光や城隆顕の主導で今もなお、すべてが動いていること自体が、若手には鬱屈を引き起こしているようだ。それを相手にしない武光の関心は、何をもってすれば九州武士団をまとめ上げ、対北朝戦において揺るがぬ戦力を作り上げることができるか、という点にあった。 だが、武光にももやもやとした案以上の具体性が持てていない。

 その何かが掴めないばかりに、征西府は軍事力に頼るしかなく、軍勢派遣を繰り返してきた。武光の本意ではないが、小さな反抗の目もつぼみのうちに摘み取らなければならないと苦心していた。

 その争いの中、菊池武盛は斯波氏経(しばうじつね)大友氏時(おおともうじとき)らと戦い、敗れて討ち死にしている。武光は長者原に少弐冬資(しょうにふゆすけ)、斯波氏経と戦い、これを破った。その後豊後の諸城を攻めた。厚東の軍、大内軍とも菊池は戦った。

 九州は南朝の旗色濃しとはいえ、実質未だに不安定な情勢の中にある。

 それらの要素が旧世代と新世代の間に亀裂を作り始めている。

「じゃっど、征西府の大宰府進出後も、我ら菊池一族に気を抜ける時はなかったわい、ぬしら若いもんには苦労を掛けるが、やむを得ぬわい、のう、太郎」

 武光は暢気(のんき)な風情で太郎に自分の苦労を語り、その様子もまた武政や武安を苛立たせる。

 そんな日々の中、武光の指示で、政権運営の実務は表向き武政に主権が移されようとしており、武光は自邸にこもってものを考える日々が多くなっている。

 九州征西府を揺るがせない確かな何か。それは理念だろうか?いや、理念では足りない、と武光は思う。具体的な何らかの行動原理だ、と思っている。

 それは「あれ」だ、との思いが武光にはある。あの構想をもってするならば、九州諸豪族を真の意味で結束させ得るのではないか。そんなアイデアがあって、武光は城隆顕(じょうたかあき)にだけは内密で相談をかけている。

 いずれにせよ、現況では九州北朝勢を相手の情勢はまだ連日武光たちを休ませてはくれていない。九州はいまだに揺らいでいる。

 若さを失ったせいがあったかもしれない。武光は三九歳、当時の四〇は今の五〇代には当ろう、壮年であり、体力は未だにあったが、思慮分別の重みが加わって、荘重な大人となっていた。武光は考え込むことが多くなっている。

 太郎は豪壮な御殿内の仕様に目を見張り、見まわして難しい話など聞いてはいない。


後醍醐帝(ごだいごてい)の宿願を果たせず終わるのはいかにも無念でござる…、(みかど)、申し訳もござりませぬ、…ただ、京で死にとうござった、…この先、宮さま、ご無事で」

 (しとね)の中の老人はやせ衰えた手を差し伸べた。

「ご苦労だった、…お前は父であった、わたしは不肖の息子だったが、よく耐えてくれた、ありがとう、頼元」

 父と言われて感激し、涙をいっぱいにためた懐良の手を握り頼元は自分も涙をあふれさせた。 頼元は七十八歳となって、老衰していた。

 三奈木(みなき)の荘の五条頼元の隠居所の奥の部屋だ。

 武光と懐良(かねなが)の背後には同行してきた武政が控えている。

 頼元は征西府が大宰府進出を果たして落ち着いた後、八女郡の星野村、矢部に領地を賜って一族本願の地としていた。先年亡くなった良氏が妻子をなして、この地に一族継続の道筋が立てられてある。そこからほど近い三奈木の荘に頼元の隠居所が構えられている。

 その隠居所の奥の間に、今頼元は伏せっている。

「宮様、…宮様」

 あとは弱った息の下で言葉にならない。

「お前の望みは代わって私が果たす、頼元、心やすう成仏いたせよ」

 見舞っているのは親王(三六歳)と武光、そして中院義定(なかのいんよしさだ)(七十三歳)の三人だった。

 懐良も万感胸に迫って言葉を詰まらせた。

 頼元の視線が懐良(かねなが)から隣の武光に移された。頼元は涙ながらに武光の手を取った。

「深いご縁を頂いた、貴殿のお陰で我らは命を長らえ、大宰府に征西府を進めることもでき申した、感謝してもし足りぬことでござる、…後をよしなにお頼み参らせる、武光殿、…牧の宮様をお願いいたす、…東征を、…皇統統一を、必ず」

 武光が穏やかな笑顔を見せ、手を握り返した。

「お約束いたしますばい」

 武光が答えると、頼元はそれで安心したように目を閉じた。

 一三六七年、正平二二年五月二八日、筑前三奈木の庄で五条頼元が七十八歳で病没した。

 老いて涙もろくなった中院義定(なかのいんよしさだ)はいつまでも頼元の骨と皮になった手を握りしめ、涙を目いっぱいに浮かべ、生気を失って行く頼元の顔を見つめている。


 厚い雲に覆われて青空が見えていないが、例年なら三奈木の荘の空は五月晴れのころだ。

 なのにもう梅雨入りしたかのように暗くじめついた雲の下、新しい墓石の前で手を合わせる武光と懐良の姿がある。墓石を見つめて座り込み動かないのは中院義定だ。

「…どんなにか京の地を踏みたかったであろうな」

 懐良が呟いて、武光には言葉がない。

 武政と緒方太郎太夫が控えて沈鬱(ちんうつ)な表情を浮かべている。

 頼元の息子の良氏は大保原の合戦の翌年、怪我が悪化して亡くなっており、頼元の晩年は満たされていただろうか、と、思いやっている懐良の気持ちは痛いほどわかる。

 牧の宮の東征を願いながら死んでいった頼元、良氏親子。

「武光、…わしは必ず答えてやるぞ、頼元の執念に」

 硬い表情で言う懐良親王を見て、武光は親王がまさに自分の想いとして東征を望んでいることを痛感する。武政もじっと懐良親王の思いを汲もうと見つめた。

 かつて虚無だといった親王の人生観は変わり、自分自身の信念を抱いている。

 大保原(おおほばる)のいくさ以来、懐良(かねなが)の左腕は動かなくなってしまっており、体の脇に沿わせて目立たなくはしているが、もはや太刀を取って勇壮な働きはできないだろう。

 左足を微かに引きずってもいた。

 あの美しく完璧だった親王が、古強者として名誉であるとはいえ、五体満足な体でないことは、武光の胸を痛めた。自分がそう仕向けて親王は不自由な体になられた。

 その親王は吉野の南朝から矢の催促をされて、心を痛められている。

 吉野の南朝は相変わらず北朝勢の前に風前の灯火(ともしび)、壊滅寸前で九州の征西府だけが望みの綱となっている。すべては懐良の双肩に掛かっているといっても過言ではない。

「…予定している東征の準備、怠りなく進めよ」

「はい、身共(みども)はこの足で菊池へ帰ってあとの固めをしてまいります」

 そうは言いながらも、武光は先年来の天候不順のため、豪雨災害があった菊池を気にしている。緒方太郎太夫が嘆願に来た筋というのはそれだった。菊池には相当な被害が出ており、 迫った年貢おさめの内検に対して手加減をというのだった。

 だが、今うかつに懐良にそんな話はできない。

 必ず支障なく準備いたしますとの約束に念押しをした。

 親王が思いつめた顔で武光を見やった。

「…急ごう、武光、まだまだ京の都は遠い、わしらもあの日のような若者ではない、ぐずぐずしておれば、頼元のように朽ちていくことになる」

 という。武光は親王の想いを受けて頷いた。

「気は抜きませぬ、必ず親王様を京にお連れ致します」

 親王と中院義定(なかのいんよしさだ)を博多へ送り出した後、武光は武政、緒方太郎と共にわずかな供回りで山道を菊池へ向かった。


二、


 とてつもない集中豪雨であったという。

 菊池川一帯に大きな被害が出ているとの報告は受けていた。

 災害被害が気になって、武光と武政、緒方太郎太夫は高瀬の津を見てから船で菊池川を遡上する予定だ。高瀬の津は聞きしに勝る被害を受けていた。

「これは」

 武政が驚いて見回した。衝撃を受けている。

 武政は物事に動揺しすぎると、武光は見ている。

 それだけに武光は武政の力量を測りかねていた。いくさではまずまずの成績を上げているが、全権をゆだねていいのか。いずれは武光の後継としてすべてを取り仕切らせようと思っているからこそ、あらゆる点への目配りや配慮のできる器量を望みたかった。

 高瀬の桟橋はすべて流され、船が打ち上げられて川から遠く離れた森にまで運ばれて無残に腹を見せていた。港の商館も水に浸かり、商品を台無しにされ、荷車が家の屋根に乗っていた。被害は大きかったが、高瀬武尚(たかせたけひさ)は気力をみなぎらせて復興事業を指揮していた。

「兄者、菊池の被害はここの比ではないらしか、その目でしかと見てやらんば、のう」

「分かった」

 高瀬では武尚(たけひさ)の館に泊めてもらって色々聞かされた武光は、問題は菊池だという武尚の言葉に送られて、翌日、武政、太郎太夫と共に船の上の人となっている。

 甲板上に寝転んで、傍らには颯天(はやて)の二代目がいる。太郎が飼い葉をやる芦毛(あしげ)の二代目は初代よりは気持ちが穏やかで優美な体躯をしている。武光自身がむき身の野太刀から鞘に納まった名刀のような落ち着きに変化しているように、馬との向き合い方にもそれなりの変化があるようだ。 

 その武光は菊池川の流域の荒れ果て方に胸が騒いだが、菊池に入り、七城に差し掛かって、さすがにはっと息を呑んだ。

「こいは…!」

 山鹿から七城に入ると、菊池川は迫間川と合流する。そしてそこへさらに木野川が流れ込む。それでなくとも湿地に悩まされがちな一帯だったが、今の情景はすさまじい。

「三本の川からの土石流が暴れ回っていきよったですばいた」

 太郎が説明したことによれば、川上でも土石流が奔流となって木庭辺りで平坦部に出た途端川は決壊、赤星や深川は氾濫した濁流に押し流され、まともに残された家の方が少なかった。菊の城は少し高台にあって水には呑まれなかったが、水の中に孤立した状態だったという。

 改造されつつあった深川の湊もずらり並んでいた船着き場が壊され、船の修繕用ドックには土石が流れ込んで最早使い物にならない。修復にはどれだけの時間がかかるか。

 川ざらえは可能なのか。問題は山積みとなっているという。

 馬渡城(まわたしじょう)までしか船は入れず、船を降りた武光は馬渡城主蛇塚氏に出迎えられた。

「深川まではとても船で行け申さぬ」

「分かった、仕事に戻れ、おいたつはよか、自分で行く」

 佐保八幡宮まで流されてしまった深川までは遡行できないので、武光は馬渡城の桟橋で船を捨て、馬の武政、太郎や警備隊を従え、颯天にまたがって隈府(わいふ)の菊池本城に向かった。武光が構想した惣構えは隈府の守山から切明にかけて高台を形成している。総じて構えの中は無事だったが、菊池川沿いの被害は想像を絶した。

 そして迫間川(はざまがわ)は惣構えの端辺りまでは断崖に防がれて隈府の街は守られた。だが、神来(おとど)や神尾の辺りは氾濫にやられて家々が流されてしまっている。

 本城御殿に入って報告を受けた武光は今更ながら被害の大きさに息を呑んだ。


 翌日から、太郎に案内させて現状視察に向かった武光と武政は、自分たちの目で被害をいちいち確認しながらつのる衝撃に胸を塞がれる思いだった。

 菊池川の上流山間部では谷が深いために川の決壊はないが、その代わりにがけ崩れが起き、多くの城が崩落、部落が土砂に埋まってしまっていた。

掛幕城(かけまくじょう)の一部、元居城(もとおりじょう)の下部も崩落、麓の集落が呑み込まれて消えてしまい申しての」

 情けなく説明する太郎はさらに、下流域、七城にかけての氾濫は広大な地域に及び、それが木野川の流れと合流するあたりでは手の付けられない泥の平原と化したことを告げる。

「菊池川沿いでは馬渡城が、迫間川沿いでは増永城、正光寺城が流されて壊滅状態じゃでのう、城周辺の集落も、ぜーんぶ泥に呑まれてしもうたつばい」

 生き残った者は廃材や流木にむしろをかけて雨露をしのぎながら、復興作業に従事していた。名主も小百姓もない、泥にまみれて身分の上下など区別がつかない。

 このあたり一帯は火山灰の台地である。無論阿蘇の振りまいたものだ。

 農民たちは忌み嫌ってニガ土と呼んだ。干ばつになれば何もかもを焼き尽くし、洪水となればすべてを灰の泥が呑み込んでしまい、固まれば石のようになって耕すことが不可能になる。今はまだ泥が粘りついて廃屋の片づけさえ許してくれない。

 突然前方で女の奇声が発せられた。

 地行者とは加持祈祷(かちきとう)をする女行者だが、その女行者が狂ったように祈り騒いでいる。

 呆然となり、暗澹(あんたん)と眺めやるしかない武光だった。

「もはや祈るしかなか、ちゅうこつですばい」

 武光たち一行は増永城主西郷氏の役人が年貢の取り立てをする場面に遭遇する。

「黙れ!水の被害にことよせて、納めるべき年貢をごまかすというのはそりゃ通らぬわい!」

「そいは無茶じゃ!このありさまの中で、おいたつは今日食うもんがなかじゃぞ!」

 必死の形相で年貢は払えないと抗議する百姓を役人が(むち)で打ち据える。

「嘘ばこけ!そういうたところでお前らが米やみそを隠しておるとは承知じゃ、ぬけぬけ言い訳抜かさずと、さっさと納めるべきものを納めんかあ!」

 打たれながら百姓は激しい憎悪の目で睨み上げた。

 駆け寄りざまその鞭を取り上げ、武光は役人を足蹴にした。

「馬鹿め、力づくで民を抑えきれると思うか!」

「た、武光様!?」

 みながはっとなって武光を見やった。

「この期に及んで救済ならいざ知らず、税を取り立てようとはなんごつか!?民あっての領主じゃというこつが分からんか!」

 相手が武光と知って役人はひれ伏したが、武光は鞭で役人を打ち据えた。

「親父様、おやめくだされ!」

 武政が武光の手を止めた。それを武光は振りほどく。

 役人にさらに迫ろうとした武光に武政が必死に立ちはだかった。

「親父様、ここは西郷家の領地でござるけん、菊池家棟梁と言えど、お口出しが過ぎますまいか」

 あえて領民たちの前で武光に逆らって見せる武政には対抗意識があるようだ。

「この惨状の中で民を絞り上げるこつは道を外れておる、見逃すわけにはいかぬばいた!」

 武光はさらに役人に迫ろうとするが、武政が武光を押しとどめた。

「西郷家には西郷家の家裁があり申す、そこに親父様が手を突っ込みなされては、西郷家の立つ瀬がござらぬ!そもそも、武家が甘い顔をしては領地経営は成り立ちますまい、九州諸族への対応といい、親父様は甘すぎるのでござる!」

 武政は理詰めで攻め込み、武光がその瞳に怒りの炎を燃え立たせた。

「武政、わしを批判するのか⁉」

 武光が仁王立ちとなって睨み付け、武政はひるんだ。

 武政の中に幼いころの父への恐怖心がよみがえった。

 子供心に、鬼のように強く、鬼のように恐ろしかった父、武光を恐怖した日々。

 立ち尽くして言葉を失った武政を、武光は押しのけた。

「西郷家は領民の命より家の台所が大事か!?申せ!民を苦しめて主家は立ちいけるのか⁉答えんか!」

 鞭うたれて泥の中を逃げ回ってはいずりながら、それでも役人は悲鳴のような声で叫んだ。

「年貢はわが西郷家の懐を潤すものではありまっせんけん!」

「なんじゃと!?」

「征西府の戦争資金だすけん!」

 えっ、と武光の鞭が止まった。

 役人は征西府から各領主に割り当てられた戦費のために、供出しなければならないノルマがあり、何はさておいてもそれだけは収めよと菊池本家から達しがあるのだという。

「貴方様の命令なのでございます!」

 役人はうずくまってガタガタと震えたが、勇気のある男だった。

 愕然となって武光は立ち尽くした。

 言葉を失い、立ち尽くしながら、東征のための資金調達はまさに自分の発令であることを思う武光だった。取り立ては猶予する、と、口をついて出かけたが、武光は思い起こした。

「…予定している東征の準備、怠りなく進めよ」

 そう言った親王の熱い眼差しが武光の脳裏によみがえる。

 数か月後に迫る東征こそ、親王が人生をかけて成し遂げんとする大命題だ。

 それを思うと年貢の猶予を言い出せず、鞭を役人に返した武光だった。

「菊池へお戻りか」

 そこへ歩みだしてきたのは一人の尼だった。

 武光が見やると、尼僧の姿にたすき掛けで袖をまくり、全身泥まみれになっている。

 美夜受(みよず)の尼は正観寺の僧たちと復興作業に出かけてきていた。

 背後には手を振る大方元恢(たいほうげんかい)や僧たちが泥まみれでいる。

 美夜受(みよず)が武光を見据えて言う。

「征西府が太宰府に進出して六年、いよいよ盤石(ばんじゃく)を得ましたな、…菊池の民が喜んで支えたから、…じゃが、今はそれどころではない、年貢を猶予するというて下さい」

 答えることができず、武光は立ち尽くした。

 すると太郎がもろ肌を脱ぎ、おつきの護衛兵に太刀を預け、泥の中へ入っていき、廃材撤去作業に加わった。それを見て、武政も作業に加わっていった。

「た、武政様、およし下され、緒方太郎太夫さまも!」

「ご本家様がそこまでせずとも」

 驚く村人たちは恐れ多いと止めに入るが、武政は構わぬといって作業を続ける。

「どいておれ!」

 武光が自分も諸肌脱ぎとなり、作業に加わった。

 武光のがっしりとした肉体がしなり、作業がはかどりだした。

「お、おいたちも」

 村人たちは、がぜん力づけられ、作業に熱を入れた。

 役人も鞭を投げ出して作業に加わる。

 皆に連帯感が生まれ、廃材が次々に撤去されていく。泥の渦が掻き出され、住まいの跡や家と家をつなぐ道が姿を現し、際限ない復興作業のはかがわずかだけいった。


 その夜、作業団の野営地へ、武光たちはそのまま泊まり込んだ。

「棟梁様、こげなところではお体に障りましょう、ともかく本城御殿へ」

本城から来た将士や郎党が武光に城へ戻って休んで下されと頼むが、朝から作業があるから時間が無駄じゃと、武光は復旧作業用の仮小屋に寝転ぶ。

「野営地で寝るのはおいたち武家の日常たい」

 そこへ美夜受が盆に乗せた薄いかゆを持ってくる。

「棟梁様、お召し上がりくだはりませ」

 武政が受け取って武光と太郎に渡してやる。

 三人、がつがつと食い始めた。

 そんな武光をじっと美夜受は見つめた。

「征西府は菊池のものが予想もせぬほど大きくなり申したな」

「まだ途中ばい」

「…途中とは?」

「それは…」

「京へ攻め上られますか?…皇統統一を果たし、…そのうえで」

「ともかく途中よ」

 武光はさらなる高みを目指し、尼はその危うさを指摘する。

「仏門ではこの世に常住のものはないと申します」

「…すっかり仏者のものいいじゃな」

「九州でいくさ神に歯向かえるものはもうおらぬとか、ですがのう」

 既に島津、大友、少弐も歯向かいをやめた、しかし、敵は次から次へと湧いてくる。

 それを尼は指摘した。戦いには果てがなく、その間にも人は衰えていく。

「見果てぬ夢は人を飲み込むのではなかでしょうか、貴方も親王様も」

 恵良惟澄(えらこれすみ)は既に亡く、武澄(たけすみ)赤星武貫(あかぼしたけつら)もなく、貴方は一人、大丈夫なのか、と言いたげだ。

「そうかもしれぬが、わしは進むしかなかけん、ただ」

 次の世代が育って居る、と武光は武政を見やった。

 かつての燃えるような情念で敵を求めた時代は遠く、近頃は征西府に関わる人々の立つ瀬を思う武光だった。そして犠牲にした人々のことを。

「…あまりにも多くを犠牲にした、…生の喜び悲しみを、わしが断ち切った」

 武光は美夜受の気持ちを推し量っていた。

「…取り返しのつかぬ境涯に追いやったものもある、…さぞ恨んでおろうがな」

 美夜受は武光が自分のことを言っているのだと察した。

「…若すぎたんじゃわい、…おいには大事なものをどう扱えばよいか、分かっておらなんだ、…悔いておる、…どれだけ悔いても今更どうにもならぬ、…おいは」

 無理なことをさせたと、自分の身勝手を反省している武光だが、美夜受(みよず)は笑う。

「甲斐なき繰り言はおやめなさるがよか」

 ズバリと切り捨てられて、武光は美夜受の態度にたじたじとなった。

 美夜受が(きびす)を返してその場を離れ、武光は椀を置いて後を追った。

 太郎がそわそわして追いかけていこうとしたが、武政がその袖を引いてとめた。

「野暮たい」

 と言われて、太郎はもじもじしたが、我慢して腰を下ろした。

 武政は去った武光を、耄碌(もうろく)したな、と思っている。

 大保原合戦(おおほばるかっせん)の頃の猛り立った猪武者の面影は、もはや、ない。

 武政はかゆを掻きこんだ。

 美夜受は泥だらけの工事現場に歩いて行った。

 泥をかぶったあしの原が広がる河原にまで美夜受は歩き、武光がついていく。

「親父様の夢は、まだ見ますか?」

「ああ、…もはや見んな」

 大保原の戦いで憑き物が落ちたように、父の夢は見なくなっていた。

 受けたトラウマが浄化され、傷を癒す為に戦いを求める必要がなくなったのかもしれない。それよりいくさのために死んでいった多くの命が気になり始めた。

 自分の身勝手があれだけの人を死に追いやったのではないか、との疑念である。

 昔より神社仏閣に通うことが多くなっていた。

 美夜受(みよず)は、あなたはそれでよい、という。

「じゃが、あなたの夢を支えた菊池のものがこの困難に出会う時、あなたは年貢を猶予することもせぬのですか?」

 痛いところを突かれ、言葉を呑む武光。

 征西府の目指すところは東征であり、皇統統一、そのために準備してきたのだ。

「…今は金が要る、食料もじゃ、兵糧が要る、…ここをこらえて貰わねば」

 冷たい怒りの目で武光を睨む美夜受だった。

「あなたの性根が見えましたばい、…結果、あなたのいく道は身勝手なわたくしの道にすぎぬ」

「!」

「僧籍に入って座禅を繰り返すうち、やっと気が付きましたばいな、…あなたが私を親王様に差し出したお気持ち、…菊池の為に親王様のお力を借りたいと、親王様の機嫌を取り結びたかったかと思うた、でも違うた、…あなたは本当に親王様を想うたのばいな」

「…なに?」

「あなたは苦しんでおらしたじゃろう、じゃっど、好きな女を差し出した苦しみではなかった、…好きなお方が私と(むつ)み合うことに苦しんだのです」

 唖然となって美夜受の尼を見返す武光。

益体(やくたい)もなかことを申すな」

「あなたが本当に想ったのは私ではなかった、あなたが想うたのは!」

 抜刀して脇差しを突き付けた武光。

 真に激昂(げきこう)していた。

「親王様に対し、不敬な想いをわしが抱いたというのか!それ以上言えば!」

 斬る、とまでは言葉が出なかった。どこかに図星を突かれた動揺があったからだ。

 美夜受は一切の怯みを見せず、武光を睨みつけた。

「あなたは私を使い捨てた、自分の想い人の為に、…菊池の人々に夢を見せ、すべてを賭けさせた、多くを死なせた、宮様ただ一人のために!…その犠牲を全部背負うていかねばなりますまい、でなければ、あなたは地獄にも辿りつけぬ」

 尼は凄絶な目で睨みながら、武光をからかうように笑った。

「地獄の果てまでいかっしゃれ」

 武光は激情に突き上げられながら、なすすべがなかった。

 近くに積み上げられた修復資材の影に大方元恢(たいほうげんかい)が座っていた。

 聞いてしまって、大方元恢はため息をつく。



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