第1章 豊田の十郎
一
比叡山からは一方には京の都が見下ろせ、反対側には琵琶湖の風景が見下ろせた。
大比叡と双耳峰の二峰からなる尾根の至る所に伽藍や僧堂が展開されている。
比叡山延暦寺は天台宗の開祖、最澄によって開かれた。当時仏教は最高の学問としての地位を誇り、延暦寺は日本最高学府であり、天皇家の保護を受けてきた。今尚、新興の武家権力に対して権威を保ち、一定の不可侵権を持っている。今はそれが頼りの後醍醐帝だった。
一三三三六年 延元元年、深夜である。
比叡山延暦寺内、清廉院の奥では護摩壇がしつらえられ、盛大に炎が燃やされて護摩祈祷が行われている真っ最中だ。
後醍醐帝は早くから護摩祈祷に傾倒して自身調伏の祈祷を行った。
僧侶によって太鼓が打ち鳴らされ、後醍醐帝が自ら護摩を焚き、マントラを唱える。
「オンマリシエイソワカ、オンマリシエイソワカ!」
既に二時間近くも祈りを続けている。
激しい炎と護摩の煙の中、赤々と炎に照らされた後醍醐帝の顔は汗にまみれ、目が吊り上がり、控えてそれに同期しながら祈祷させられる息子である皇子たちには異様に見えた。
皇帝の座にありながら鬼道じみた加治祈祷に入れ込む後醍醐は一種変人であった。
一番幼い懐良親王は体の震えを我慢するのが精一杯だった。
「朝廷にあだなす足利尊氏を滅ぼしたまえ、打ち払いたまえ、かーっ!」
感極まって見返り、後醍醐帝が凄愴な面持ちで皇子たちを見まわす。
「息子どもよ、朕は恨めしい、朕を裏切って政権奪取に走る足利尊氏が」
その顔には涙があふれて火に照らされ、てらてらと不気味に光っている。
討幕を果たすも建武の新政を阻まれた後醍醐天皇は足利尊氏に追いつめられている。
足利尊氏の武家方に比叡山を取り囲まれ、明日にも討ち入られかねない状況だった。
「朕の為にこれまでも皇子たちが命を落とした、したが尊氏は益々勢力を募らせおる、このままでは朕は、朕は!」
と涙を流し、がっくりと手をついて肩で息をされた。
「わしはお前たちに使命を託す、よいか、我ら宮方に味方する有志を探せ、足利尊氏に目にもの見せよ、懐良、懐良はおるか?」
不気味な相手から目を逸らしたいけれど、それが天皇でありわが父であってみれば、そうはいかないことだけはこの幼い親王にも理解できて、必死に座り続けている。
名は牧の宮懐良、六歳。
怯えた顔になる懐良の肩を押し、背後に控えた五条頼元がわずかに進みださせた。
怯えながら固くなった六歳の少年の顔を見ながら、後醍醐帝は顔を歪めて言う。
「懐良を鎮西の宮、征西大将軍に任ずる、…分かるか?懐良」
後醍醐帝が懐良の背後に控える五条頼元(四十八歳)親子以下の従者、中院義定(四十二歳)、冷泉持房たちを見やる。
「頼元、…皆も頼むぞ、…懐良を守って西へ向かえ、味方を探し出すのじゃ、なんとしても」
懐良親王は後醍醐帝の第十六皇子であり、こんな幼子さえ駆り出さねばならぬほど、後醍醐帝は追い詰められていた。
「智勇すぐれたる武士を探せ、我ら宮方の為に戦ってくれる勢力をだ、頼むぞ、懐良」
いつまでもくどく言う後醍醐帝の気持ちは弱り切っている、と頼元は見た。
おいたわしい、と思い、袖で涙を拭いた。
「懐良、…懐良…」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔の後醍醐帝が這い寄ってきそうで懐良の腰が引けたが、頼元が制して逃がさない。
見やれば思いつめて張り詰めたひ弱な親王の姿に頼元の心は痛む。
背後の院前の外廊下に人影がある。
垂髪に小袿姿の二条藤子が涙の目で親王を見つめる。
懐良の母は権代納言三位の局、左中将藤原為道の妹、二条藤子である。
藤子は息子の過酷な未来を思い、胸が痛んだが、これにもなす術はない。
博多合戦から三年の後、鎌倉幕府は既になかったが、世の中は落ち着かなかった。
後醍醐帝と足利尊氏が仲違いして争い合っていたからだ。
後醍醐帝と足利尊氏がなぜ戦い始めたのか、簡単にいえば、共に鎌倉幕府を倒したものの、いざ政治を始めようという段になって、両者がトップ争いを始めてしまったのだった。
博多合戦の後、後醍醐帝の討幕の動きは進み、護良親王と足利尊氏の力で北条の鎌倉幕府を討幕でき、一応後醍醐帝の新政権が発足した。しかし、後醍醐帝が自分の思う政治を行おうとするや、今度は内部の派閥争いが表面化、護良親王も足利尊氏もそれぞれ征夷大将軍の地位を争って画策しあい、護良親王は足利氏の支配する鎌倉で不審死を遂げた。
その後、足利尊氏が鎌倉に居座り、武家による幕府再建の動きを見せたため、後醍醐帝側の新田義定が討伐軍として鎌倉の足利尊氏に向けて放たれた。
ここに後醍醐帝の宮方と、足利尊氏の武家方という対立構図が生まれた。
「朝敵」の烙印を押されて追われた足利尊氏は不利な情勢となった。
その後宮方が鎌倉を占領、足利尊氏はいったん九州へのがれるも、多々良浜の合戦で宮方と対戦し、この時は武家方尊氏勢の勝利に終わった。
宮方軍には菊池一族も参加して敗北している。
その勢いを得てすぐさま東上して宮方勢、楠木正成らと戦った足利尊氏は以後勝利を重ね、湊川のいくさで楠木正成を倒し、京を制圧した。
楠木正成、名和長年という忠臣を失い、後醍醐帝は切羽詰まって今に至っている。
延暦寺の寺域は広大で、そのどこに後醍醐帝が匿われているのかを足利勢はまだ探知できていなかったが、足利直義は尾張、美濃、伊賀、伊勢の尊氏党を呼び寄せており、尊氏は根来衆を引き連れて延暦寺を遠巻きにしている。
発見されて捕縛されるのは既に時間の問題と思えた。
そんな中での後醍醐帝の苦し紛れの策が、幼い親王たちを日本各地に派遣することだった。
数日後の比叡山中の闇の中、未明のこと。
世の中は切羽詰まり、この暗闇でさえ不穏な空気に満ち満ちている。
木立の中の道を懐良親王と五条頼元以下お供の公家たちが逃れ落ちていく。
六歳の懐良の手を、頼元が引いて足元に注意しながら歩いた。
松明などの明かりを用いるわけにはいかない。
総勢でも一〇人に過ぎない一行だ。これが天皇に命じられて派遣される征西将軍と家来たちの姿なのである。
皆声もなく進みゆくが、早くも周囲に警戒して物音を立てまいとさらに息をひそめた。
(わしがこの子の後見人だ、守ってゆかねばならない、…この子に使命を果たさせるのがわしの責務だ、…守らねばならぬ)
頼元が思い詰めて何度も自分に言い聞かせ、自身に使命感を刷り込んでいく。
頼元は後醍醐帝に長く仕えた役人で昇殿を許され、勘解由次官を拝官し、深い信頼を得てきた人物だ。五条という名も賜り、征西将軍懐良親王の後ろ盾として全権を委ねられている。
今、征西将軍となって当てもない旅に出る親王の運命はかかって頼元次第と言えた。
その責任感で生真面目な頼元は張り詰めている。
今、敵に襲われればひとたまりもない、そうなればこの剣にものを言わすしかない、そう思い定めて張り詰めているのは中院義定だ。
貴種でありながら武辺の漢、中院義定は刀に手をかけ、油断なく周囲を警戒する。 その義定がはっとなって身構え、手振りで皆の足を止めさせる。
頼元がさっと懐良をかばったが、すぐにおお、と緊張を解いた。
木陰から二条藤子が小袿に長袴の姿を現してきた。
「お母さま!」
懐良が頼元の手を振りほどき、駆け寄ってその懐に飛び込んだ。
「懐良、…牧の宮さま、…お父上のお心はシカと受け止めましたか?」
母から聞かされたいのはそんな言葉ではなく、懐良は苦しい顔で母の体にしがみつく。
それを感じてさらに涙を流し、藤子は紙のひな人形を取り出し、懐良に渡した。
「一緒に作ったお雛様、男の子なのにおかしいと私が言ったのに、あなたはせがんだ、覚えていますね?」
母手作りのひな人形。それを見つめながら懐良が頷く。
「これをお持ちなさい、私との思い出に、…私を忘れないで」
あまりに悲しい母の言い草に、懐良は抗議の気持ちを込めて母の顔を見上げたが、そこに我が子と引き離される母の涙を見て、自分もこらえきれず涙を溢れさせ、お雛様を見下ろした。
「宮さま」
心を鬼にした頼元にせかされ、懐良は再び歩き出し、皆もそれに従った。
細長を着用して旅装束とした懐良のその後ろ背に、もう一度藤子が声をかけた。
「祈っていますよ」
何をとは藤子は言わなかった。
だが、使命を果たすことをではなく、ただ無事でいてくれることだけをであることは、懐良以外の一同皆にも痛いほど分かっていた。
藤子はそこに立ち尽くしていつまでも見送った。
一行は琵琶湖の水面の方角へシルエットとなって遠ざかっていく。
懐良は数度見返った。
母の方角は森の木立に覆われて闇となり、その姿はもう見えなかった。
母をしっかり見おぼえておくことはできず、それが懐良が母を見た生涯最後の時となった。以後、両者がまみえることは二度となかった。
二、
「先手を取るばいた、続け!」
一番駆けの恐怖など何も感じさせない突撃の仕方だった。
十郎(一七歳)に操られながら、颯天が飛ぶように走る。
当時の馬はサラブレッドとは比べ物にならないほど小さく、しかし身体は頑丈で、平地でも山でも怪我せず走り回ることができた。
颯天は体毛が芦毛の美しい灰色の馬で、気が強く足が速い。
十郎は黒糸縅の大鎧を着用はしていたが、馬上での打ちもの戦にも対応できるよう大兜は着用せず、烏帽子に鉢巻き姿で弓を構え矢をつがえながら、たずなを咥えて足と腰だけで馬を走らせた。
真っ赤なほろを背後に大きく膨らませ背後から来る流れ矢を無力化しつつ、颯天を全力疾走させる。伊右衛門(二十一歳)、弥兵衛(二十五歳)たち配下の武士たち一〇騎ばかりがその後を追う。
さらにそのあとに、猿頬を付け、胴巻きに草摺り小袴姿の太郎(一九歳)が薙刀を持って必死に十郎の馬を追って走る。
今では十郎の轡取りだが、乱戦となれば十郎は勝手に突っ走るので、太郎はその間に必死に首を拾おうとする。少しでも位の高い首を上げて一人前の家持ちの侍になりたいのだ。 首は他人によって死体から斬り落とされたものでも手柄になる。
恵良惟澄(三十四歳)は十郎とその一党の動きをカバーするようにしんがりから馬を駆る。
それに同じ郷の将士数十騎が続く。
「十郎に後れを取るな!手柄をみんな持っていかるるぞ!それでよかかい⁉」
惟澄に囃すように言われて熊手やこん棒、薙刀を持った雑兵たちが徒歩で追う。
それを待たず、十郎は突き進んできた敵に襲い掛かる。
矢合わせの終わらぬ内に血気に任せて突撃していくのがこの若き武者のスタイルだったが、毎度、伊右衛門たち郎党はそのせわしない攻撃についていくのに苦労する。
「颯天、よかぞ、お前のせなはぶれぬで矢の狙いがつけよいわい!」
敵からの矢がばらばらと降ってきたが、十郎の母衣に当たって勢いをそがれて落ちる。博多で震えていた七歳の頃のあどけなさがまだ残る面持ちながら、体は逞しく筋肉質になっており、細くしなるようで空へも飛びそうな身軽さで疾走した。
矢を連射する技の巧みさは神がかっていた。
十郎は三枚打ちの弓を工夫して四方を竹で構成した矢を好んで使った。
独特の握りを考案して矢の速度を上げており、最大射程距離は三〇〇メートルほどだったが、一〇〇メートルまでの敵なら大鎧の上からでも確実に射抜いた。
矢の距離が終われば弓を投げ捨て、太刀を抜いて颯天と共に敵に打突をかけた。
駆け抜け切り倒すその勢いは疾風そのままだった。
「手向かうもんはうっ殺すばかりぞ!どけ!」
敵が皆馬から落とされ、駆け抜けて颯天のたずなを引いて踵を返すと、再び敵に駆け寄りざま打突を食らわせた。この打突には絶対の自信を持っている十郎だった。
打突の際、邪魔になる母衣は早くも脱ぎ捨てられて身軽になっている。
当時の騎馬武者の戦いはまずこの人馬一体となっての打突から始まった。
矢合わせの後、全速力で駆けより打突することで相手を失神させたり、落馬させ、ひずめに掛ける。それで勝負がつく確率が高かった。
颯天はすべて心得ていて、飛び跳ねるようにしてひずめで敵を踏み潰す。
次には落ちた相手に太刀で斬撃を加えたが、その勢いで相手が警戒して引け越しになると今度は颯天から飛び降りて相手に体当たりを食らわせ、組み打ちでねじ伏せ、鎧どうしで脇や喉という鎧の隙間を突いて殺していく。
後の時代に流行るような剣術使いの剣法などいくさ場では実践的でなく、存在しない。
「しゃあああーっ」
勢いが気合となって発せられる。
その時点では近接しすぎて太刀は役立たず、そこらに打ち捨てられた。
それを拾って確保するのも従者の大事な役割だ。
「くそ、もう太刀を捨てやがった!」
首を拾っていたがそれを打ち捨て、十郎が駆け寄り、弓矢と太刀を拾って急いで後方へ逃げる。颯天は少し離れて、再び主人から必要とされる時を待つ。
自然伊右衛門たち家臣団もそれに従い、この一門の突撃行動は果敢で激しいものとなり、常に効果を上げた。当時の戦いは後の戦国時代と違い、騎兵や歩兵の部隊分けなどはまだない。騎馬の武士を囲むように徒歩の郎党が最小単位の部隊を作り、それが地域の重臣を中心にまとまる単位となり、さらに領主なり棟梁の元に統率されて指令を受けて行動する。
乱戦となれば敵味方入り乱れ、従者同士でも打ち合って殺し合う。
それぞれが入り乱れて打ち合い、刺し合い、殺し合った。
敵が怖気て腰が引けてくると、十郎が誘うように呼ばわう。
「おいな菊池武時が一子、豊田の十郎じゃ!こん首、掻っ切れるもんがおるかい!?」
大柄で膂力抜群の十郎に歯の立つ者はいなかった。
相手はひるみ、味方は勢いづいて、十郎の周りで豊田の戦士たちが敵兵相手に肉弾戦を繰り広げた。太郎も十郎の太刀を裸のまま後背の帯に差し込み、再び戦線に戻り、無我夢中で薙刀をふるう。豊田勢は二人、三人と敵を血祭りにあげていく。
一三四三年 興国四年、肥後の甲佐、立早の田口城前がこのいくさ場だ。
両城の挟んだ緑川の中州で激しい争闘が展開されている。
北朝勢、対馬豊前次郎、大友野津三郎蔵人以下、数百騎の軍勢が押し寄せ、田口城にこもる恵良惟澄と豊田の十郎を攻めようとしたので、先手を打って迎え打った十郎たちだった。
何のいくさかと言えば、これに先立って惟澄の本家である阿蘇大宮司の棟梁阿蘇惟時が足利尊氏の誘いに乗り、宮方を裏切って本拠である矢部城に拠って足利尊氏の武家側に立った為、惟澄が反旗を翻したのだ。
それへ惟時が軍勢を差し向けた。
十郎にとってはいくさの理由なぞどうでもいい。
惟澄に誘われるまま豊田の郎党を引き連れて参戦していた。
惟澄の手勢に加わり、甲佐、立早にあった阿蘇本家の砦を攻撃して撃破し、続く戦に備えて緑川を挟んで向かい城として田口城を築いたが、それへ少弐の息のかかった対馬豊前次郎、大友野津三郎蔵人以下、数百騎の軍勢が押し寄せてきたという訳だった。
まさか惟澄が楯ついて本気で兵をあげて歯向かって来るとは夢にも思わず、今頃惟時は益城郡矢部の阿蘇本家の館で激怒して赤鬼となっていよう。惟澄は平然と笑いながらそれだけの無茶な真似をする武将で、そこが十郎と気が合うところだった。
この時、脇手から軍勢が駆けつけてきた。
寄せてきたのは新手で川尻幸俊、宅間宗直の軍勢だった。足利尊氏側に立つ豪族たちで、惟時に加勢を依頼されて駆けつけてきたものだろう。
「十郎、川尻勢と宅間勢じゃ、巻かれる前にここは引こうぞ」
恵良惟澄が冷静に呼ばわり、十郎が新手の敵勢を確認した。
「皆、引け!城へ戻れや」
十郎の指示で、伊右衛門も弥兵衛も郎党達に馬を引かせ、逃げ戻る。
十郎が口笛を吹いて颯天を呼ぶ。
すかさず颯天が駆け寄り、そのたてがみを掴んで体を低くさせ、素早くまたがる。 颯天の踵を返して田口城へ引き返していく十郎が叫ぶ。
「太郎、もたもたしよると城門を閉めちしまうぞ!」
と、十郎は太郎をからかっている。
身分ある武将らしい武者の首を掻き切ろうとしていた太郎が慌てて後を追う。
「首がまだじゃのに」
十郎旗下の一〇騎も、惟澄手勢の数十騎も引き上げていく。
「自分は馬じゃといい気になりよって、おいは徒歩ぞ、首を、手柄を上げさせろ」
ぶつぶつ言いながら惜しがって顔を歪めるが、いかんともなしがたく、薙刀を担いで駆け出した。何度も見返っては、「惜しかあ」と太郎は泣きべそをかく。
数日後、甲佐の外れあたりは緑川が豊かに流れて春先のうららかさだった。
新緑の中、颯天を速歩で進めながら領地豊田へ向かう十郎の姿がある。
鎧兜は太郎や従者達に箱で運ばせて、自分は身軽な水干姿だ。
伊右衛門や弥兵衛たち配下の郎党たち十騎と郎党合わせて四、五十人ばかりが汗を拭きながらその十郎を追う。
まだ胴巻きを付けたままの太郎は担いだ籠の重さに真っ赤な顔をして駆けている。
「ふう、ふう、ふう、暑かのう、豊田まであと一息、ふう」
十郎は菊池氏十二代武時の妾の子で、大覚寺統派に属する後宇多院歓喜光院領の益城郡豊田の庄に地頭職代理差配役を与えられていた。菊池姓を名乗ることは許されていない。
豊田は肥後熊本、甲佐と御船の間辺りにある。
鎌倉初期には八条院の所領であったという。菊池氏はここに荘官職を持っていて、武時第一〇子の十郎にその管理をさせている。
そこは菊池からは一〇余里も離れた飛び地で、今は周囲の状況から滅多に菊池へ通うこともできない十郎だった。菊池へは年に数度しか行くことはない。
集めた年貢を納めに行くためで、行けば本家の納屋に寝かされた。
その扱いが面白くないので、菊池ではいつも女たちの家を泊まり歩いて本家に居つかない。女といるか、町でごろつき相手に喧嘩をするくらいしか楽しみはなかった。
もっとも、女たちとの間に子供ができたりもしていたが。
当時は十七歳の父親なぞ珍しくはなかった。責任感もないので子供は放置のままだ。
十郎は普段はそんな悪たれだった。
本家からすれば物の数にも入れられていない郎党同然の立場で、伊右衛門や弥兵衛達は菊池からつけられた家臣ではなく、惟澄の家来の次男坊三男坊が、勝手に十郎を大器と期待して馬を調達し、百姓の中の暴れ者を引き連れて従軍しているものだ。
いわば村の暴れん坊軍団とでも称すべき一党だった。
田口城でのいくさのあと、萱野村でも戦に及び、さらに益城郡豊田荘の山崎に向かい城を構えた武家軍相手に攻めかけた恵良惟澄と十郎。
さらに益城郡の天木荘でも武家軍の少弐軍相手にいくさをして、相手の主だった武将たちを打ち取った。面白かった。
いくさ慣れして自信たっぷりに兵たちを指揮する惟澄は十郎にとって師のようなものだった。十郎は心からいくさを楽しんだ。まだ死を実感できるほど生きていない十郎にとって、 目の前で何人の人間が死のうと、自分が矢や太刀で何人打ち殺そうと、それは手柄であり、首級幾つという数字でしかなかった。
何日野戦をしようが、干飯で作った粥だけで過ごそうが、身体を洗えなかろうが、一切気にかからなかった。
ともあれ、相手の北朝勢が益城郡から引き揚げていき、阿蘇大宮司本家と掛け合うという惟澄の考えにより、久しぶりにいくさ明けで所領へ帰ってきた十郎と武士ども、郎党たちだった。
十郎は颯天を速歩で駆けさせることをやめなかった。
「太郎、息が上がっちょるが、情けなかぞ、しっかりせやい」
伊右衛門や弥兵衛が馬上から声をたてて笑いながら太郎を見返る。
十郎は太郎たち徒歩組がどんなに汗を滴らせ、真っ赤な顔をして走っていても、時折見返って、笑うだけだ。気が急いていた。早く豊田に帰りたい訳がある。