第5章 懐良と美夜受
一、
武光が獲得した領地の田畑は深川から大琳寺、西寺の荘園近くにまで広がっていた。折しも農作革命の時期と重なり、春の稗や粟と夏場の米が二毛作可能となり、牛や馬が使われるようになっている。農事は当時の先端ハイテク産業となっていた。
今初夏となり、新しく開かれた田でも村中総出で田植えが行われる。
ここ数年来、田植えは神事として晴れやかなイベントと化しており、お囃子や太鼓で男たちが舞い踊り、美しい晴れ着に身を包んだ女たちが早乙女として一斉に並んで田植えを行う。雇われてきた田楽法師も出て陽気に囃し立てる。
「陽気もようて、めでたき田植え日和でござりまする」
晴れ上がった陽気に誘われ、親王と護衛の中院義定が護衛付きで見物に来ている。
美夜受も美しい装いでしたがっていた。
五条頼元が懐良に菊池に馴染んでもらいたいと企画し本家の武澄が案内した。
懐良には陽気な菊池の人々の営みが好もしく思われたが、リラックスして笑顔を見せるほどには心を開いていない。
懐良には根深い鬱屈がある。それでも絹の水干に烏帽子が似合い、懐良がいるだけで水田が明るく晴れやかになった。
男たちは晴れがましい思いで張り切り、女たちは親王を意識して浮き立っている。
「宮さま、早乙女どもの晴れやかなこと、御覧なされませ」
武澄の言葉を虚しく聞きながら、懐良は無表情なままに眺めいたが、突然武光が男たちの舞いに駆け込んできた。
ひょうきんな田植え踊りを舞い始め、囃子方たちが合わせて楽曲を賑やかなものにした。くっついてきた緒方太郎太夫も負けじと踊る。
女たちが一斉に笑い、田んぼはさらに活気づいた。
「武光様、うまかねえ」
「もっと舞え、もっと!」
十郎だったころから武光にはこんなひょうきんな一面があり、在所の男たちには恐ろしがられたが、すっきりした目鼻立ちもあり、女子供には人気があった。
武光の存念は分からない。親王へのサービスだったのか、あるいは自分自身を菊池に売り込みたかったのか、ただ楽しみたかったのか。なんにせよ、土地の者たちに受けた。
すると、何を思ったか、親王が進み出て太鼓を取り上げ、自分で叩き始めた。
皆、あっとなって見やったが、親王には天性のリズム感があったもののようで、たちまちお囃子のリズムを掴んで軽快に打ち鳴らした。
それを見て、むっと対抗意識を燃やし、武光が負けじとひょうきんに踊りだす。
懐良は武光を見やり、武光に張り合うように太鼓を叩く。
武光と親王コンビの田植え神事はかつてない興奮を一同に与え、作業がはかどった。
女たちは美しい親王を見やって心を弾ませ、武光のエネルギッシュな体の使い方に笑い転げる。子供たちまでが武光の真似をして踊りまわり始めた。
この前後の数年は武光の生涯で最も幸福な時代といえるかもしれない。
いくさの数も少なく、菊池が本当に自分の故郷になっていくことを実感できた。
この美しく広大な大地を、武光は本当に愛し始めていた。
一人、美夜受だけは冷たい目で武光を見つめている。
院の馬場は「犬の馬場」が転化した名前だといい、「犬の馬場」だったという。
つまり犬追物による訓練が行われた馬術や矢による射撃の訓練場だ。
今日も武者たちが犬追物をして射撃の腕を磨いている。
武者たちは逃げまどい怯え吠え立てる犬どもを、先を布でくるんだ矢で射立てる。
それを横目に武光と懐良は馬による打突でしのぎを削り合っている。
あれ以来武光と懐良親王は、武光指導で武闘訓練を続けている。
それには今でいう追っかけが出て、女子供や後家さんたちがいつも現れた。
そして一々歓声を上げたり悲鳴を上げたりしてはしゃいだ。
武光は颯天と共に親王と馬を追い詰めてゆく。
背後に回り、追い上げ、体当たりし、離れては再び打突する。
勢いは抑えてあり、なぶるような仕打ちと言えた。
挑発に乗ってむきになった親王を、武光は容赦なく追い詰める。
「もう、やめて!」
「ひどか、武光様」
「ああたは鬼か!」
見物の女子供が悲鳴を上げて泣き顔になる。
必死の形相で食らいつく親王に武光が叫ぶ。
「打突、鎧での馬の乗り降り、剣も弓も膂力がすべて、馬を落ちれば」
懐良が馬から突き落とされ、颯天から飛び降り、武光が笑いながら近づいていく。
飛びついて組み伏せ、押し倒し、膝をかけて懐良の肩を抑え込んでしまう。
持房や種房ら親王の従者たち、「無礼な!」と激怒する。
武光に駆け寄る中院義定だが、親王が制した。
「義定、構わぬ!」
といい、武光を睨み上げた。
「ほざけ、武光、わしは武士に引けを取るつもりはない」
武光を突きのけ、親王は自らの力で反発しようと立ち上がる。
武光には女子供の前で恥をかかせようという意地悪な態度が透けて見えている。
「武光様のバカ!」
だが、武光の内心はただの意地悪な気持ちだけではなかった。
懐良をいたぶろうとしていたが、そのサディズムには裏側の感情が潜んでいた。美しさで自分を圧倒してくる懐良を撥ね返したかった。
叩き伏せることで懐良に引きずり回される自分の心を突き放したかった。
その時、のっそり進み出たのは赤星武貫だった。
「武光殿、腕自慢のようじゃが、おいにも一手ご指導いただきたか」
菊池一族の内部が武光旋風に翻弄され、それに対して未だに納得のいかぬ勢力は密かに反乱を企てているという噂があって、武光は赤星武貫には根強い敵意があると警戒していた。警戒しながら身構えて訊いた。
「弓か、剣か?」
武光が不敵に笑って訊くのに武貫が答える。
「組み打ちがよか」
武光は五尺八寸の長身だが、武貫は六尺二寸の巨大漢だ。
「ほうか、それなら」
よそ見して油断させておいていきなり武光が組み付いていく。
武貫は体のわりに動きが素早く、武光を簡単にかわしてしまう。
む、となった武光は身構えて相手の隙を狙い、回り込む。
武貫が身構えながら、にたりと笑った。
激しい駆け引きが展開され、組み合い、のしかかり、引き倒し合う。
殺気をはらんだすさまじい戦いに、周囲が静まり返っていった。
本気で相手を殺しかねまじき武貫の攻撃は鋭い。
中院義定は明らかに武貫は武光を潰しにかかろうという魂胆と見た。
当時の将士は誰もが鎧着用の上、戦場で相対した敵を組み伏せる為の技を磨き上げている。この闘法がやがて古流武術各流派に完成されていく。
両者は技を尽くして戦うが、やがて膂力に勝る武貫が圧倒し始めた。
かわされ、足払いをかけられ、起き上がったところを叩きつけられた。
「ぬしゃ!」
カッとなってタックルに行くが、帯を取られてひっくり返された。
ついには武貫が息の上がった武光を組み敷き、武光は身動きを封じられた。
「うぬ!」
下からあがいてくる武光を見て、これまで振り回されてきた怒りにかられ、拳骨を叩きこんでしまう赤星武貫。皆がはっと強張った。
武光の鼻と口から血が噴き出している。
動けぬ棟梁を上から殴りつけるなど、やりすぎだ。
「赤星様、おやめくだされ!」
居合わせた人々すべてが、武光がどう出るか緊張する。
颯天の轡を取っていた太郎が激怒して太刀に手をかけた。
武貫は武光を見下ろし、これまでこらえた感情を爆発させた。
「殺すなら殺せ、許しは請わんぞ」
そう言って武貫が武光を解放し、武光は緒方太郎太夫に歩み寄り、その腰から抜刀して武貫の元へ戻った。太刀を武貫の首に突きつける武光。
「斬れ、この首くれてやる」
武貫が言い放ってどっかと座り込み、首を伸ばして武光が切りやすくした。
「おう、よか覚悟じゃ」
居合わせた全員が息をのんだ。
中院義貞が息をのみ、懐良が青ざめて睨み付けた。
じっと武貫の覚悟を見極めようとする武光。
武光は振り上げた刀を打ち下ろす。
女たちから悲鳴が上がった。
だが、首の寸前で刃はぴたりと止められた。
「その首、確かにもろうたばい、当面預けておく」
え?と武貫が見返ると、武光は笑っている。
こういう時、見栄や虚勢を見せず、からりとした対応ができることが武光の武器だった。まっすぐ武貫に笑いかけ、尊敬の念を込めて手を出し、助け起こそうとした。
「武貫、確かにぬしゃ強か、…以後、将士、雑兵を問わず、武芸の指導をしてくれ、菊池の男どもを鍛えなおしてくれや」
飛び地に見捨てられ、恵良惟澄に庇護されながら生き抜いてきた武光の苦労人としての面目躍如足るところで、さわやかに負けて見せて相手の心を掴む人たらしの術だろう。
同じ苦労をしてきても、誰にでもできる芸当ではないが。
だが、赤星武貫は甘くなかった。武光の手をはねのけて自分で立った。
「いつか見届けてやるばいた、ぬしの正体をの」
言い捨てて立ち去った。
武光が見送りながら笑った。
「しぶとかのう、赤星武貫、組み伏せがいがあるわい」
その言葉を聞いて、中院義定はほほう、と武光を見やった。武光のその態度が年に似合わず練り上げられていることを悟り、見直している。
「…なるほどな」
この仁は、やはり大きく人を動かせるかもしれない、と思った。
武光が親王に照れたように笑いかけたが、懐良は軽蔑のまなざしで見た。
武士というものの荒々しい在り様にはとことん虫唾が走った。
荒くれたやり口で互いを貶めあう奴らだ、と思った。
表面臣従して見せても、いつ裏切って本性をむき出し、自分を殺したり、捕縛して北朝側に突き出すのかと恐れ、武士の傍にいて安眠したことはない。
懐良には武光も同じ穴の狢だった。乱暴で野卑で、デリカシーがない男と見えている。だが、それに押されておびえてしまえば、五条頼元が心配するように、自分も宮家の権威も舐められてしまうだろう。都にいればそれで済むかもしれないが、この九州では違う。奴らに対抗し、向こうを張って勇気を示さなければならない。何としてでもこの菊池を、菊池武光を組み伏せなければならない。そして手足のごとくに使うのだ。
南朝の隆盛のため、そこから始めなければならない。
武光が太刀を太郎に投げ渡し、懐良にいたずらっぽい笑顔を向けた。
「宮さま、早駆けいたそう」
帆を立てた廻船がゆっくりと川を下っていく。
菊池川べりへ武光と親王が馬を駆けさせる。
「遅か遅か!」
むきになって武光を追う親王だが、笑いながら先を行く颯天の武光。
負けじと馬に鞭を入れる親王だった。
この武光に食らいついていくしか自分が生き残る道はない、と思った。
いつかこの男を圧倒する。その一念に凝り固まっていった。
颯天は気持ちよさそうに駆け、どこまでも馬を疾走させる二人だった。
美しい菊池の夕日が二人を包む。
壮大な平原を蛇行しながら河口を目指す菊池川は西に向かって伸びており、夕日は川沿いを下れば前方に沈んでいく。周辺に山はなく、夕日は視界の限りを朱に染めた。
自らも朱一色となりながら、振り返ってはっと息をのむ武光。
むきになって馬を駆る親王の髪が風になびいている。
親王の目は武光を睨みつけている。
この時もまた武光は親王を美しい、と思った。
産毛までが夕日の金色に染まり、親王の顔を輝かせているようだ。
どうかするとこのまま菊池の風となってかき消えてしまうのではないか。
そんなはかなさを感じて、胸に痛みが走り、武光は慌てて自分の妄念を振り払う。
二頭の馬と二人の若者は走り続ける。
地の果てまでも駆けられる、と武光は思った。
日はあとわずかで落ちて消えるだろう。
武光には、この瞬間は永遠につながるものに思えた。
二、
武光邸で毎夜のように酒宴が開かれるようになった。
身分の上下隔てなく参加したいものを呼び込み、酒肴でもてなし、歌い騒いだ。
伊右衛門や弥兵衛、太郎なども常連で常に酒席にいた。
武光が自分で声をかけるだけでなく、太郎や伊右衛門、弥兵衛を通じて身分の上下なく人を招いたので、次第に参加者が増えていった。
初めは武尚、武義兄弟達武光信奉者が飲んで騒いだが、やがて西郷や加島氏や出田氏など、分家の城主たちまで顔を見せた。
その顔触れにいつしか城隆顕や赤星武貫までが加わるようになった。
時には武澄も参加して、誰もが勝手にがなり合い、やかましくて耳を弄するばかり。
「ご無礼!」
赤星武貫がよた付きながら濡れ縁から庭へしゃーと小便する。
「きたなかぞ、赤星!」
武澄が文句を言うが、明らかに嫌がらせをしている武貫は意に介しない。
「間に合わんばいた、許されよ!」
城隆顕が座に戻った赤星武貫に訊く。
「なぜおる?…ぬしゃ、武光様を信用せぬのではないのか」
「せぬ、正体を見届けてやるために来ておるのよ、飲めば隙が出よう、一族をおのれの欲のために振り回す悪党なら、この手で成敗してくれる!じゃが、ぬしゃなぜ来る?」
武貫に問い返されて、静かに笑いながら城隆顕は盃を口に運ぶ。
「…似たようなもんかの」
その座は無礼講とされ、常にざっくばらんな酒宴となった。
もっとも太郎が酔って赤星武貫の頭をぺしゃぺしゃ叩きひげを引っ張った時は、激怒した武貫が太郎を引きずり回して叩きつけようとしたので、皆が止めに入って大騒ぎを演じることなどもあったが。時には懐良親王も招かれた。
だが、さすがに親王の前では誰もかしこまって酔いきれないので、親王自身が以降は遠慮して参加を控えた。代わりに頼元や頼氏、中院義定たちが招かれて楽しんだ。
城隆顕はその間冷静に武光を観察し続けた。
やがて武光という男への警戒感が薄らいでいった。
その宴は武光のさびしがりな性格に由来するものだと、察していった。
子供のころからの孤独を武光は埋め合わせようとした。加えて武光には不眠症があり、夜が辛かったのだ。孤独な夜を恐れて武光は皆を集めた。
いずれにせよ、菊池軍団の結束がその酒宴で形作られていった。
武光が計算した以上に、剛腕で菊池を統括するだけでなく、人情の面で男同士のきずなが結ばれたことが功を奏して団結を生み、この後、菊池の強さを支えるようになっていく。
武光以前の菊池のぎくしゃくした不統一感は払しょくされていき、あれほどまとまらなかった一族が、以降一切乱れることなくまとまっている。
城隆顕の胸に武光という個性を愛する気持ちが生まれていった。
もっとも、その酒宴その他の出費で武光の懐は常に危機的状況が続いた。
その宴の甲斐もあり、武光は一族の幹部たちをうまく采配し、菊池の整備を進めていった。
新造なった隈府の街は条里制を採用し、三本の道筋で本城へつなげるが、折れを多用して敵侵入の場合の守りとするよう計画された。
迫間川寄りの一条は武家屋敷群とされ、本城周辺から西に下るにつれて、重臣の館から身代の小さな家臣団の館が配置されるよう指示した。
新市街一条の通りに武家屋敷街を創設させたのは鎌倉の市街設計に倣い、離れた領地の豪族たちの上屋敷を置いて、そこで生活させることで招集をかけやすくし、気ごころを通じ合わせることに狙いがあった。事実、武光の館の宴会は一条の通りに館を構えた豪族たちがいつでも参加でき、親しくなって結束が強まっていた。
伊右衛門や弥兵衛たち旗本もその通りの下手に小さいながら屋敷を構えることが許され、田畑も手に入れて晴れて菊池の一員となり負わせていた。
普請奉行を命ぜられ、全工程を監督する城隆顕は次第に乗ってきていた。
敵の侵入を防ぐ条里制による町割りを、鎌倉の街並みに倣って施工せよとの武光からの指示を受け、城隆顕は武光の慧眼に舌を巻き、どこからこれほどの教養を得たのかといぶかしんだ。
豊田の田舎にどんな教育機関があるわけでもなく、菊池本家が仕込んだわけでもない。
ある種の天才かもしれない、と城隆顕は思った。
城隆顕はこの頃から次第に武光の棟梁としての器量に惚れ始めていたのかもしれない。
城隆顕は御城下の設計に本腰を入れ、将士や人夫を動員した。
武澄、武尚、武義ももはや武光の意を受けることが楽しくてしようがない。
延寿刀鍛冶の館を西寺に移し、大量生産を可能とせよ、と言われた時は膝を打った。
山城、京より招かれた来一派が延寿と名を改め、菊池稗方に土着して代々当主を延寿太郎と称し、名工を輩出している。流派の特徴として鍛えは柾目、にえ細やかに匂い深く、菊池の砂鉄を用いたので、地肌締まって特有の青さを帯びている。
菊池川、迫間川から産出する砂鉄を溶解した玉鋼を鍛錬して刀剣を製造するのだが、武光は新しく整備された西寺の延寿屋敷の周辺を製造工房として割り振って生産規模を拡大し、さらに高瀬、同南田、今村の木下、西迫間などに工房を展開せよと命じた。
のち、菊池氏断絶の後は四散して、一派は玉名に移って胴太貫と称すのだが…。
武光は菊池武豊、赤星武貫たちにも役割分担を与えていった。
各外城(本家以外の城塞群)の補修整備も急げよというものだった。
後に十八外城といわれた外城群だが、必要に応じて作られたり破城されるので、実数はそんなものではない。かくして次第に菊池は国際港博多、中央の権威を伝える太宰府に次ぎ、第三の都として生まれ変わっていく。
深川の上市場では定例の市が立つようになった。
武光の号令で菊池は交易船の誘致に力を入れ、船あきんどたちが増えている。
湊はさらに整備され、川底が掘り起こされて船着き場が拡張されて、船の修繕ドックも新設された。船便が入ると様々な外国の産物や都会からの物資が荷揚げされ、一部が卸の業者から小商いのものに払い下げられ、それが目玉商品となって近在から人々が群れ集まった。
上市場、下市場と呼ばれる場所で三斎市の日には焼き物や帯売り、白粉売り、布売り、薬売り、からむし売り、綿売りや塩売り、麹売り、豆腐売りに扇売りなど、ありと あらゆるものが販売されて賑わった。
上市場、下市場はのちに北宮神社が勧請されてから、さらに賑わいを増すことになる。
深川の湊からほど近いそこには近在のものは無論、遠く他領からの買い物客が集まり、船便で来た異国からの旅人さえ混じった。人気は焼き芋やまんじゅうなどの食い物で、腹を減らした乞食の子なぞも群れてくる。
その雑踏を、今野良犬のようにさまようものがある。
よだれを垂らしながら人々の背後から来て食い物を見つめるのは、乞食のような姿となった矢敷宗十だった。見つかれば縄を打たれる身でありながら、まだ菊池を去りがたい宗十はただ空腹だった。しかし、並べられた饅頭に手を伸ばした時、泥棒!と叫ばれてしまった。
慌てて逃げだす宗十を大人たちが追った隙に、子供達がまんじゅうを盗んでいく。
宗十は逃げながら惨めだった。そしてだからこそ怨念そのものと化していく。
武光、そして懐良、奴らの首を取る。その首を大友に持参し、禄を得る。
その執念に凝り固まって走る宗十だった。
川面といわず生い茂る草の間といわず、夥しい数の光が飛び回っている。
現代からは考えられないくらいの数のホタルの群れだった。
その蛍見物に、菊池の将士といわず、女房といわず、百姓衆といわず、大勢の風流人たちが歩き回っている。木庭城ふもと近くの菊池川に乱橋と呼ばれる石橋がかけられてあり、毎年この季節には人々が暑さしのぎにホタルを愛でに集まってくる。
「きれいかですのう」
太郎が子供のように目を輝かせた。
緒方太郎太夫ときている武光がうんと頷く。
蛍は豊田にもいたが、菊池の衆の風流心につられていた。
その時、前方から親衛隊士を従えながら来る親王と美夜受を見た。
武光の足が止まった。
「武光」
懐良が静かな目で見やり、武光は思わずうろたえた。
武光は都の貴種に張り合ったつもりだったが、結局その美しさと品の良さに圧倒されてしまっていた。懐良と目が合うと、思わず上ずってしまう。苦手でありながらも憧れてしまい、それを見せまいとして大らかに笑って見せた。
「親王さまも来ておられなったつか」
「菊池のホタルは見事じゃ」
懐良が思わず素直な言葉を吐き、武光も雑念を忘れて眺めやった。
何万という蛍の光の中に、二人の美しい若者がいた。
並んで無心に蛍を眺める二人を見て、居合わせた人々にざわめきが起こった。
夢幻の中に不思議な美を見た思いがして、人々はため息をついた。
だが、やがて武光は鋭い視線を感じた。
美夜受の武光へのまなざしが突き刺さってくる。
武光にも複雑な思いがあって、言葉をかけたいがそれはできない。
美夜受の目は妖しく燃え立ちながら武光の言葉を待つ。
二人の間の感情が爆発しそうに膨れ上がって、異様な沈黙が続いた。
今夜の美夜受は美しいというより、羅刹女の趣だった。
武光は困り抜いてしまっている。
太郎がそんな二人を痛ましく見ている。
懐良はふと太郎の表情に気づいた。
太郎の視線は武光と美夜受に向けられている。
それで懐良は武光と美夜受の表情を見てしまう。
懐良は戸惑ったが、すぐに武光と美夜受の感情の背後に、ただならぬ交錯があることに気づいた。美夜受は隠しても隠し切れない思いを爆発寸前でこらえている。
懐良は衝撃を受けた。
絶句して立ち尽くした。
そんな男女たちの周りを夢幻のように小さな灯かりたちが舞い踊る。
菊池の衆から感嘆の声が上がり、笑いさんざめく声が漏れる。
いくさの時代が嘘のような平和と穏やかな和みが辺りを満たしている。
その光景は背後の木庭地区の山からも見えている。
暗い川床に何万、何十万の小さな灯かりの粒が飛び交い、人々の幸福が塊り合っている。そんな光景が遠く見えるここは藪と木立の闇で、一匹のけだものが潜んで見下ろしている。
藪蚊に食われるが、痩せこけて腹を減らしたそのけだものはもはや追い払う意思を持たない。 今、初夏の生い茂った茂みの闇から里の明かりをうかがう矢敷宗十の目には、菊池川を群れ飛ぶ 蛍の光ではなく、武光と懐良の生首が見えている。
宗十の目には敵意と憎悪が燃え立っている。
奴らの首が欲しい、と宗十は執念に取り付かれている。
美夜受は沈み込んだ親王の気配を探るように見ている。
「宮様」
懐良の夜着を脱がせにかかった美夜受だが、その手が跳ねのけられた。
「…どうかなされましたか?」
御所、雲の上宮の寝所で、美夜受が今夜も務めを果たそうとするが、懐良の態度は一変している。美夜受は自分との間に固い壁が建てられてしまっていることを感じ取った。
「…宮様、…ねえ」
耳元に唇を寄せ、息でしゃべりかけて懐良の官能をくすぐろうとするが、かわされた。
唇を噛み締め、身体をこわばらせ、親王はみじめさに耐えている。
蛍の夜の後、懐良は義定の息子、中院持房を使って美夜受の素性を探らせた。
そして美夜受が豊田の荘以来、武光の思われ者であった事実を突き止めていた。
美夜受が武光だけを想い、その命で懐良の元へ遣わされたのだということも。
美夜受は冷静に観察し、親王が自分と武光の間柄について、真相を察したのだとみてとった。 そして満足した。
「なにをすねておられますのか?」
美夜受の狙いは当たった。
あの夜、わざと武光への感情を高まらせて露出させ、懐良に見せつけたのだった。
「…美夜受、お前と武光は」
「わたくしと武光様が、…なんでございます?」
意地悪な笑みを浮かべながら、美夜受が親王を追い詰めようとする。
美夜受が再度誘い掛けようとするが、親王がたまりかねて睨み付けた。
「よせ」
誇りが邪魔をして美夜受を問い詰めることはできない。
ただはらわたが煮えくり返っていた。
(わしに情けをかけたつもりか、武光)
美夜受への想い、誇り、操られて喜ばされた無念さ、みじめさ。
わしの命も南朝の運命も、いつも誰かの手に委ねられている、今は武光の手がそれを握っている、奴の施しでわしは体裁を保っていられる、奴の施しの女をあてがわれ、飼われている。わしはおのれの意志で飯一椀も食う食わぬを決めたことがない!
わしはいったい何なのか。武光を許せないと思った。
美夜受が無表情の下でほくそ笑んでいる。
これが美夜受の武光への復讐だった。




