流れ着いた先
冷たい飛沫が頰にかかる。
ぼんやりとした白い光に視界がつつまれ、カイトは思わず目を細めた。
遠くから水が落ちて石を叩く音が聞こえる。
体の下に冷たくて固い感触があった。
幾何学的な配置で敷き詰められた石畳。ミスラ聖殿でみたようなものに似ている。
あたりは遺跡のような古い石壁に囲まれていた。苔むした石組みの隙間から清水が滴り落ちている。
まったく記憶にない場所だ。
カイトはゆっくりと上体を起こした。
壁孔から細い光が差し込んでいる。今は朝か、昼だろうか。それとも夕方? どれぐらい眠っていたのだろう。
外の光は黄昏ているようにも見えるが、なにか様子がおかしい。
空気感が異質なのだ。肌で分かる。
まるで自分を取り巻く世界全体が、魔法掛かっているようにすらみえる。
「……ここは……?」
なんとも奇妙で幻想的な場所だった。
ここはどこなんだろう? どうやってここまできた?
カイトは最後の記憶を呼び起こそうとした。
ミスラの聖殿の泉に飛び込んだところで、覚えが途切れている――
泉に落ちて、そこから別世界に来てしまったのか。
もしかしてここはネロ爺さんが話していた異世界なのだろうか。
いつの間にか《境界》を飛び越えて、異世界への扉をくぐり抜けてしまったのだろうか。
わからない。どうして僕はあの泉に――
そうだ、とカイトは思い出す。ここに来る直前までのことを。
幻術士の男に操られたロゼッタと戦うはめになったカイトは、窮地に陥りつつもロゼッタを抱いて泉の中に飛び込んだのだ。
冷たい水でもぶっかければロゼッタの目が覚めるのではと考えたのだ。思い返せば苦し紛れの動作だった。あの時はほとんど何も考えずに勢いで体が動いたのだ。
「ロゼッタ……、ロゼッタ?」
カイトはあわてて周囲を探した。
すぐそばの壊れた石柱の向こうにロゼッタが倒れていた。
「ロゼッタ!」
カイトはロゼッタを抱き起こした。
「大丈夫? 起きて、ロゼッタ!」
「う……が……あが……」
「ひっ」
カイトの顔色が青ざめた。
(まだ術が解けていない!?)
「カ……イ……ト……」
「……!」
ロゼッタがカイトの呼びかけに応えた。
カイトは心の底から安堵した。ロゼッタの洗脳が解けたのだ。
自信はなかったが、泉に飛び込んだ際になにかしらのショックがロゼッタに作用したのだろう。
「ロゼッタ、大丈夫?」
カイトはロゼッタを揺り動かす。ロゼッタはうっすらと目を開けた。
「カイ……ト……」
ロゼッタはひどくやつれた声をしていた。カイトはロゼッタの持ち上げた手を握り返した。
「ごめ……ん……なさい……」
「ロゼッタ?」
「ごめんなさい……ボクは……君たちにひどいことを……」
幻術士の支配から解放されたことを自覚したロゼッタは、カイトの胸の中で泣き出した。
「見えてた……ボクは自分のしてること全部……分かってたんだ……。なのに、止められなかった……」
「もういい。大丈夫だよ、ロゼッタ」
ロゼッタは息を荒げた。急に体調が悪くなったのか、苦悶の表情をうかべる。
「どうした、ロゼッタ?」
「ボクを……見ないで……」
血のように真っ赤な瞳のまわりを涙でさらに赤く腫らして、ロゼッタはカイトに見られまいと顔をそむけた。
「ボクの一族は生まれながらにして吸血鬼なんだ……。笑えるでしょ? 魔獣からみんなを守ってるボクの一族が、魔物みたいな吸血鬼だなんて」
「……」
「ボクは汚らわしい生き物なんだ……」
ロゼッタの目から涙がこぼれ落ちる。
「そんな……」
「だからボクは人一倍真面目に、正義に生きようと思ってた。みんなにバレて嫌われるのが怖かったんだ。でも秘密にしてたツケがきた」
ロゼッタは苦しそうに咳きこんだ。
「敵にいいように操られて、大切な友だちを手にかけて……挙げ句の果てにこの有様だ……」
ロゼッタの喉からヒューヒューと掠れるような呼吸音が聞こえてくる。
頰がこけて、カラカラのミイラのようにげっそりしていた。昨日の白くて艶やかな肌とはまるで別人だ。
吐息が漏れでる乾いた唇から、吸血鬼の鋭い牙が見え隠れしている。もはやそれを隠す余裕もなくなっているらしい。
ロゼッタは急速にやつれていった。
「なんだこれ……。なにが起こってるんだ? ロゼッタ、どうやって君を助けたらいい?」
カイトは困惑した。こんな症状はみたことがない。吸血鬼特有の病気だろうか?
「昨日から限界は近づいてたんだ。それなのに、バカみたいに能力を使っちゃって……しっぺ返しがきた」
「……」
「でも……ありがとうカイト。いいんだ、気にしないで。ボクのことはいい、行ってくれ……。ここにいたら助からないぞ……」
「ダメだよロゼッタ。こんなとこに君を放ってはおけない」
「ボクはもう動けない。助からない。ここで死ぬ……」
「あきらめちゃダメだ! 僕は絶対ロゼッタを助けるぞ」
「最後に……君に……会えてよかった……」
そう言ってロゼッタは目を閉じた。
「ロゼッ……!」
カイトは取り乱した。どうすればロゼッタを救えるのだろうか。
限界がきたとは一体なんなのか。
バカみたいに能力を使ったことで体に限界がきた……。能力とは?
昨夜のロゼッタが見せた身体能力と反射神経は、常人のそれをはるかに上回っていた。あれが吸血鬼の力なのだろう。
超常的な力を引き出すには、なにかしら相応の代償を必要とするはずだ。それが底をついたということか。
そのときカイトはピーンときた。そうか、血だ。
吸血鬼のエネルギー源といえば血液だろう。血を補充すれば治るのではないだろうか。
振り返って思い出してもみれば、今までロゼッタがまともに食べ物を食べているところを見たことがない。ロゼッタにとって普通の食料は、有効なエネルギー源ではないのかもしれない。
確信はもてないが、試してみるしかないだろう。
カイトは「ヨシ」と決意すると、腕まくりをした。
「血だ、ロゼッタ。僕の血を吸うんだ。それで助かるんじゃないか?」
ロゼッタはびくりと震えてカイトを見た。
「それは……!? ダ、ダメだ、カイト。それはできない……。君の血を吸うなんて!」
カイトはロゼッタの上体を起こして自分の胸にもたれさせた。
「やっぱり血を吸えば治るんだね?」
ロゼッタはイヤイヤと頭を振る。
「それじゃあさっきまでのボクと変わらない。大切な人をこの手で殺すようなケダモノといっしょだ!」
「殺さない程度に吸えばいいだろう? 僕の大切な人のためだ」
「……!? 本気で言ってるの……?」
カイトはロゼッタのまえに腕をもってきた。
目の前の熱い血潮を感じて、自然とロゼッタの息遣いが熱くなる。
「ダ……ダメ……! ボクがカイトの吸ったら……!」
「あっ、もしかして僕も吸血鬼になっちゃう?」
「そ、それはない……」
安心した。
「じゃあ大丈夫だね」
カイトは平然とそう応えた。
ロゼッタは改めてカイトの人柄に驚いていた。
不良と対峙したときは恐怖で縮こまるほど臆病なのに、こういう事態に対しては不思議と肝が据わっている。
きっとこの人は、自分のことよりも他人のことを助けるために本気で自分を投げ出せる人なんだ。
この人はボクよりずっと強い。とても気高くて尊い人……。
ロゼッタはこの少年の魅力に本気で惹かれつつあった。
(ボクがこの人の吸ったら……、きっと戻れなくなる……)
ロゼッタは震える手でカイトの腕をつかんだ。
「ね、ねえ、カイト」
「ん?」
おそるおそるカイトの目を見て訊ねる。
「せ、責任……とってくれる?」
「責任? もちろん、責任もって君を助けるよ」
カイトのやさしさに触れてロゼッタはぽろぽろと涙をこぼした。
「あ……ありがとう……」
「さあ」
ロゼッタの口の前にカイトは腕を持ち上げた。
ごくり。
ロゼッタが唾を嚥下する音が聞こえた。
そしてカイトの腕に唇を押し当てる。緊張でカイトも心臓がドキドキした。
かぷり。
軽く刺す痛みがあって、カイトは自分の血が吸われてゆくのを実感した。
ちゅー。
(お? おお、吸われてる)
カイトは血を吸われているという事実を自覚するだけで、ちょっとだけ目眩がしそうな気分になった。
「んっ……」
ちゅーー。
(これ貧血なる? もう、なってるんじゃないの? 貧血)
ロゼッタの顔色がだんだんと良好になってきた。
こけていた頰がふっくらとしてきて、少しずつ血が通ってきたかのようにみえる。
「んむ……」
ちゅーーーー。
(あれ、これヤバくない?)
「ちょ、ちょっと、ロゼッタさん。僕、貧血起こしそう貧血」
ロゼッタの荒い鼻息が腕に当たるのを感じる。彼女の頰が朱に染まってきた。
カイトの顔は青くなってゆく。
「はふぅ……」
ちゅーーーーーーーー。
(ヤバいやつだわこれ!)
気がつけばロゼッタの細腕がカイトの体に絡みつき、カイトの腕もしっかりホールドされていた。
カイトは振り解こうにも、がっちり組みつかれて逃げられない。
「ロゼッタさん!? ちょっと吸いすぎと違うかな? 死んじゃうよぼく死んじゃう! 絶対に絶対に死んじゃう!」
「んむふぅ……」
ちゅーーーーーーーーーーーーーーーー。
(だめぇー)
ロゼッタは前のめりになってカイトの血を吸い続ける。カイトはその場に押し倒されてしまった。
「ストップ! ストーーップ! ストーーーーッップ! バッ、ロゼッター! やめろー! ストーーーーッッツププ!!」
カイトはドクターストップを宣言した。
「……ぷはあっ!」
ロゼッタはカイトの体に馬乗りになったまま背をのけぞらせ、恍惚とした表情で熱い深呼吸をした。
「はわぁ……」
妖艶な笑みを浮かべて、熱い血の美酒の余韻に浸るロゼッタ。舌を這わせて唇についた血液を名残惜しそうに味わう。
ロゼッタの肉体は元の瑞々しさを取り戻し、紅かった瞳の色も元に戻った。彼女は完全に復活していた。
桜色の柔らかい唇の感触を指で楽しみ、カイトに微笑みかける。
「ボク……カイトの、たくさん飲んじゃった」
小悪魔の笑顔だ。
「どういたしましてーうまかったー?」
カイトは語彙力のない干物になった。




