忘却の世界
しめやかに再開
水の音で目が覚めた。
瞼の闇が白く滲み、うっすらと光が差し込んでくる。
ひやりとした感触があった。気が付けば、水溜まりの中に半分顔をうずめていた。
むっくりと身を起こし、あたりを見回す。
冷たい石壁に囲まれていた。
苔むした石造りの側壁は崩れ、並んだ石柱は無残に朽ちかけている。ところどころ折れた柱の天井が落ちこみ、隙間から木の根が覗いている。
その廃墟は、見たことのある様式の建築だった。数世紀前に滅んだ王朝の遺跡なのだろうか。刻まれた石細工の意匠がかつての栄華を偲ばせる。
ところどころに穿たれた孔から光が差し込み、水面がきらめいてぼんやりと光の小道を作り出している。
そこは静寂だけが支配する世界だった。
そう、ここだ。
一度も見たことがないはずの、何度も見た幻想的な光景にかつてない感動を覚える。ここはオレの夢の場所だ。
どうして自分がこんなところに倒れていたのか。気にする必要はなかった。なぜならすべて知っているからだ。
今度は、自分の足でここまでやってきた。
だから、やるべきことも分かっている。
ふとロゼッタのことが気になった。
意図せずとはいえ、戦闘中に彼女を一人で敵中に置いてきてしまったのだ。とても心配だった。しかし戻る方法なんて分からない。
今はこの流れの先のずっとずっと向こうにある、掛け替えのないものに逢いに行くこと。それだけだ。
足を踏み出した。
壁面から水のはじける音が聞こえてくる。高所から水が細い筋となって落ちてきて石壁を叩いているのだ。
見上げると、太い樹木の根が絡みついた自然の巨石がそそり立っており、裂け目から飛沫をあげてとうとうと清水が落ちている。
手を差し出して水を受け止める。冷たい。清冽な飛沫だ。顔にかけてもっと意識を覚醒させる。
さらに歩みを進める。やがて天井がなくなり、光が差し込んできた。外に出たのだ。
桃色に染まった空は、今が明方なのか夕方なのかどうにも判らない。
あたりが霧掛かっているせいで太陽の位置すら分からない。
これまで見てきた世界だ。もうすぐあの二人に会える。
なだらかな斜面には小さな花が咲き乱れ、風にそよいでいた。
人の大きさほどの岩と潅木が転がっており、樹木の根が這うように埋もれている。どこからか滲み出た水が根を伝って糸を引いていた。
丸石を並べただけの坂の小道が続いており、その先は霞につつまれて見えない。
しかし迷う必要はない。ただ進めばよいのだ。
坂を登りきると小さな池があった。
伝ってきた水流はここから湧き出でてきたのだろう。水面は底までくっきりと、恐ろしいほどに透明だ。
だが問題はない。この水たまりは歩いて通れるのだ。なんども来た場所なので体が覚えている。
注意深く足を差し入れる。膝上まで浸かるが容易に足がつく。これならいけそうだ。
迷う事なく真っ直ぐに進む。
瞬間、下から強い風が吹き上げてきた。たちどころに霧が掻き消え、視界が広がった。
やはり。
そこには、あの巨大な樹があった。
天を穿つように、余炎のにじむ空に黒々とした枝を広げ、その厳威の姿をさらけ出した。
あまりにも大きく神秘的なその姿は、この世界のすべてを象徴しているかのようだ。
巨樹の圧倒的存在感が目を釘付けにする。その姿を見上るだけで不思議と気分が高揚し、力が沸いてくる。
音のない透明な声がきこえた。
引き寄せられるように足を踏み出す。
やっと逢える。あの樹の下にいけば逢える。
悠久の時を経て、永遠に眠り続けるあの姉妹に。
そのためにここへ来たのだ。
巨樹の曲がりくねった大きな根にがっしりと抱かれるようにして、水晶体がそこにあった。
人を飲み込むほどに大きな水晶だ。
二人はこの中にいる。
今回こそは大丈夫だ。
巨樹の太い根を足場にして水晶体の真下へと移動する。焦らず、ゆっくりと慎重に手足を運ぶ。
なんとか手の届く場所にたどりついた。びっしりと水滴で覆われた水晶体の表面を手のひらで拭う。
飛び上がりそうなほどに冷たいが、意に介することなく水玉を払っていく。
どうしても二人の姿が見たい。そのためにここに来たのだ。
水晶体のなかに、二人の少女の姿が現れた。
穏やかな寝顔をしている。
息をのむ美しさだった。
「やっと逢えたな――」
その瞬間、世界がぐにゃりとゆがんだ気がした。
大声で叫んだ。ここまで来て、振り落とされるわけにはいかないのだ。
指先に力を込め、必死にその場にとどまろうとする。
世界が真っ白になった。
叫びをあげる。
そして、ティノはその名を呼ばれた。




