月が欠ける
―奥アゼル地方 ミスラ聖殿遺跡―
ミスラ聖殿の洗礼の泉の間で、ティノとロゼッタは謎の魔導士、ダルハラジムと交戦状態に陥った。
男が操っていたザッツとリーバーを倒したので、残りはダルハラジムただ一人となった。見える範囲においてはだが。
「油断するな、もう一人がどっかにいるはずだ」
ティノは不良の三人目、グリエンの存在を警戒していた。
「わかってる。でも今はあいつを速攻でつぶす!」
「ロゼッタ、あまり飛ばしすぎるな、あとでしっぺ返しがくるぞ」
ティノはロゼッタが無茶をしていることが気掛かりだった。
さっきまでのロゼッタはかなりやつれていて、ろくに睡眠もとっておらず極度に疲労していることは明白だった。そんな状態で度を超えた魔力をハイペースで消費し続けたらどうなるか。
きっとそれはロゼッタ自身も承知している。彼女の正義感が己に鞭打つのだ。
「素晴らしい、やるじゃないか君たち」
ダルハラジムは両手を広げて感激の意を示した。
倒れた下僕には全く興味を示さず、ティノとロゼッタに指を立てて注文する。
「だが、私が欲しい答えはそうじゃないんだ。早く竜の秘奥への道を示してくれ」
ロゼッタが弾かれるように飛び出した。
「やあっ!」
渾身の右ストレートでガントレットを叩き込む。しかし拳は空を切り石壁にブチあたった。
そこに男の姿はなかった。
「遺跡を破壊するとは、この冒涜者め」
ダルハラジムは階段の上にいた。階下に降りてきていたと思っていたが、最初から動いていなかったのだ。
「待て、ロゼッタ!」
ティノの静止を聞かずロゼッタは跳躍した。
空中で体をひねり、螺旋階段の上にいる男めがけてガントレットの裏拳をお見舞いする。しかしそこに男の姿はなく――
彼女の真下にいた。男はいつの間にか階段を降りていたのだ。
ダルハラジムの手がロゼッタの足首をつかんで床に叩きつけた。
「あぐっ!」
わけがわからない。幻術で惑わされているのだ。
「ロゼッタ! クッソ、てンめえ!」
ティノは猛然と駆け出してダルハラジムに殴りかかった。
しかし彼の姿が掻き消えたと思った瞬間、側面から強烈な蹴りを受けて壁に叩きつけられた。
衝撃でティノは意識が朦朧とした。世界がぐらりと歪んだような気がした。
「何をしている? 早く答えを出せ」
男が歩いてきて、ティノの襟首を引っつかんで放り投げる。
「……!」
ティノの体が宙を舞って泉の中に落下した。どっぱんと水柱があがり波紋が広がる。
無数の白いあぶくが水面にあがったが、ティノが浮かび上がってくる気配はなかった。
ダルハラジムはティノの様子を気にかけることもなく、倒れているロゼッタの元に歩み寄った。
男の長い指が倒れているロゼッタの顎をつかんで引き寄せ、冷たい目がロゼッタの瞳を覗き込んだ。
「ほう? 珍しいな、お前ナイトウォーカーか」
「があっ!」
その言葉でロゼッタは激昂した。
手刀突きが男の胸に穿たれる。だが突き出した手刀は男の脇に捕らえられていた。男の喉仏を握り潰そうともう片方の腕を突き出すが、逆に手首を取られてしまう。
ロゼッタは血のように真っ赤な瞳で男の顔を睨みつけた。
「馬鹿が。そんなチンケな魔眼が幻術士に効くか」
男は掴んだ手首を振り回して、ロゼッタの体を壁に叩きつけた。息ができなくなるほどの衝撃だ。
衝撃で石壁が音を立てて崩れ落ちる。
「アゼル魔導学院は人材豊富だな。教え子に吸血鬼がいるとは」
「がああぁっ‼︎」
ロゼッタは怒りの叫びを上げながら飛び出した。開かれた口から鋭い二本の牙がのぞき、振りかざす指先にも鋭い爪がのびていた。
もうなり振り構っていられなかった。野獣のような闘争本能の赴くまま目の前の敵を切り裂くしかない。
しかしロゼッタのするどい爪は空を切った。またしても幻影だ。
ロゼッタは再びあらぬ方向から手首をとられ、足をすくわれて背中から床に叩きつけられた。
「ハハハ、夜の吸血鬼は頑丈だな。だが、どこまで持つかな?」
ダルハラジムは倒れたロゼッタの腹を踏んできた。
「あぐっ、ぐぐ……」
これが大人の魔導士の力なのか。
太陽が沈んでからのロゼッタは、その気になれば筋力は昼間の数倍、知覚も数段鋭敏に、常人をはるかに上回る身体能力を引き出せるハズだった。こちらが子供とはいえ、この呪われた一族の力を使えば押し勝てると思った。そして実際に力を解放した。しかし――
とんだ勘違いだった。相手が強すぎる。
どう足掻いても勝てない相手は存在するのだ。
一人で思い切って突っ込んで返り討ちにあう。ボクは何をやってるんだろう。
こんなので優等生だなんて笑える。本当どうにもならない――
ロゼッタの脳裏に絶望がよぎる。彼女が自棄に陥ろうとしたそのとき。
異変が起きた。
月明かりの部屋が突如として暗く、闇に包まれたのだ。
「なんだ? 何事だ?」
ダルハラジムは大広間に出て外の様子を伺った。月の様子がおかしい。
煌々と光を放っていた満月が、黒く欠けつつあった。
「これは……月蝕か?」
ダルハラジムは胸騒ぎがして後ろを振り返った。泉の水面が青白く輝きだしたのだ。
「なにぃ、こ、これは……!?」
洗礼の泉の水面が音を立ててさざめき、水面の奥底から淡い光を放ち始めていた。
ダルハラジムははっとした。
先ほどからティノが浮かび上がって来ないのだ。
彼の姿かたちが泉の中から忽然と消え失せていることにようやく気がついた。
「そうか……」
事象はすでにはじまっていた。歯車はすでに回り始めたのだ。
「これだ! これこそが《境界》、異界への扉なのだ! ついに道が開けたのだ!」
ダルハラジムは驚きと喜びに打ち震え、興奮のあまり胸をかきむしった。
(境界……?)
ロゼッタも急激な異変に混乱していたが、確かに泉の様子が明らかにおかしくなっていた。
この泉が境界だったのか。ということは、ティノは向こう側の世界に往ってしまったのだろうか。
ダルハラジムは迷うことなく泉へと足を踏み出す。
彼が泉の側壁に手をかけたそのとき、足元からロゼッタが組みついた。
「行かせないっ!」
「なっ、貴様……! 離せ!」
「離すもんか! お前にティノの邪魔はさせない!」
ダルハラジムはロゼッタを引き剥がそうとするが、万力のように両脚に組みついて離れない。
さらにそのとき、螺旋階段のはるか上の方から声が響いた。
「ティノー、ロゼッター! おーい!」
カイトの声だ!
ここまで探しに来てくれたんだ。ロゼッタは嬉しくて涙が出そうになった。
ダルハラジムは引き剥がそうとしていた腕でロゼッタの頭とアゴを押さえ、ロゼッタが声を出せないようにした。
「やはり、あのチンピラでは門番程度にもならなかったようだな。だが、お仲間が来ようとムダなことだ……!」
(モガモゴ……!?)
「手を貸してもらうぞ。貴様の友だちが私の邪魔をしないようにな。フフフ……私がこれから何をするか、わかっているだろう?」
ロゼッタの顔がさっと恐怖に引きつり、イヤイヤと首を振る。
ダルハラジムの腕を振りほどこうと足掻くが、魔導士の細腕は信じがたいほどに強く、万力のようにロゼッタの額を締め付けた。
「貴様が、お友達のお相手をするのだ。さぁ、私の役に立て」
(んーっ! んんんん……!)
頭に灼けるような衝撃が走る。
視覚、聴覚、身体中のすべての感覚が真っ赤に染まってゆく。
ロゼッタは悲鳴をあげた。




