プロローグ
ようこそ。読んでいただきありがとうございます。
次話「目覚め」から本編がはじまります。プロローグは退屈なのでスキップしましょう。
もっとせっかちにいくなら、次章の「御山入り」から、主人公の冒険の旅が始まります。スキップしましょう。
水の音で目が覚めた。
瞼の闇が白く滲み、うっすらと光が差し込んでくる。
ひやりとした感触があった。気が付けば、水溜まりの中に半分顔をうずめていた。
むっくりと身を起こし、あたりを見回す。
冷たい石壁に囲まれていた。
苔むした石造りの側壁は崩れ、並んだ石柱は無残に朽ちかけている。ところどころ折れた柱の天井が落ちこみ、隙間から木の根が覗いている。
廃墟だ。ただの廃墟ではなく、数世紀前に滅んだ何かしらの文明の遺跡なのだろう。刻まれた石細工の意匠がかつての栄華を偲ばせる。
ところどころに穿たれた孔から光が差し込み、水面がきらめいてぼんやりと光の小道を作り出している。
そこは静寂だけが支配する世界だった。
また、ここだ。
不思議なのは、強烈な既視感。
一度も見たことがないはずの、幻想的な光景なのに驚きも感動もない。ここには来たことがある。
とても昔、どこかで見たことがある気がするのだ。それはいつのことだったか……
どうして自分がこんなところに倒れていたのか、不安も感じず、気にする必要もなかった。なぜならすべて知っているからだ。
このはじまりを何度も見てきたから。そしてこれが、夢なのだということを。
だから、やるべきことも分かっている。
たよりない足腰でなんとか立ち上がる。全身がボヤけているようで感覚がおぼつかない。
水溜まりと思われたものは、小さな水の流れだった。せせらぎの下には綺麗な丸石が整然と敷き詰められている。
その先に目を向けると、通路になっていた。ゆるやかな斜面の奥から水が流れてきている。そちらに向かって足を踏み出せばよい。なぜか自然とそう思えた。
あたりに生物の気配はない。世界でたった一人なのに不安や孤独は感じなかった。むしろ奇妙な安らぎと懐かしさがあった。
心配する必要はない。この流れの先のずっとずっと向こうに、かけがえのないものが待っているのだから。
足を踏み出す。
壁面から水のはじける音が聞こえてくる。高所から水が細い筋となって落ちてきて石壁を叩いているのだ。
見上げると太い樹木の根が絡みついた自然の巨石がそそり立っており、裂け目から飛沫をあげてとうとうと清水が落ちている。
手を差し出して水を受け止め、顔を洗ってみる。冷たい。冷たいのだが、少しも刺激が感じられない。これが夢だからなのか。
さらに歩みを進める。やがて天井がなくなり、光が差し込んできた。外に出たのだ。
桃色に染まった空は、今が明方なのか夕方なのかどうにも判らない。
あたりが霧掛かっているせいで太陽の位置すら分からない。
細かいことは気にしなくてよいだろう。これは夢なのだから。
なだらかな斜面には小さな花が咲き乱れ、風にそよいでいた。
人の大きさほどの岩と潅木が転がっており、樹木の根が這うように埋もれている。どこからか滲み出た水が根を伝って糸を引いていた。
振り返れば、先ほどまで自分がいた場所がやはり古い城砦か何かの建造物であったことがわかる。朽ちた瓦礫が語るのはむなしい風の音だけだ。
なんとも現実感のない、茫漠とした風景だった。しばらくぼんやりとそこに佇む。
丸石を並べただけの坂の小道が続いており、その先は霞につつまれ見えなくなっている。
しかし迷う必要はない。ただ進めばよいのだ。
坂を登りきると小さな池があった。
伝ってきた水流はここから来ていたのだろう。水面は底までくっきりと、恐ろしいほどに透明だ。
注意深く足を差し入れる。見た目よりずっと浅い。膝上まで浸かるが容易に足がついた。
そして次に進む方向は――
瞬間、下から強い風が吹き上げてきた。たちどころに霧が掻き消え、視界が広がった。
やはり。
そこには、あの巨大な樹があった。
天を穿つように、余炎のにじむ空に黒々とした枝を広げ、その厳威の姿をさらけ出した。
あまりにも大きく神秘的なその姿は、この奇妙な世界のすべてを象徴しているかのようだ。
巨樹の圧倒的存在感が目を釘付けにする。その姿を見上るだけで不思議と気分が高揚し、力が沸いてくる。
音のない透明な声がきこえた。
引き寄せられるように足を踏み出す。
そうだ。あの樹の下にいけば逢える。
悠久の時を経て、永遠に眠り続けるあの二人に。
そのためにここへ来たのだ。
巨樹の曲がりくねった大きな根にがっしりと抱かれるようにして、水晶体がそこにあった。
人を飲み込むほどに大きい水晶だ。
二人はこの中にいる。
視界が霞んで意識もおぼろげになっていく。残された時間はもう少ない。
巨樹の太い根を足場にして水晶体の真下へと移動する。焦らず、ゆっくりと慎重にだ。
なんとか手の届く場所にたどりついた。びっしりと水滴で覆われた水晶体の表面を手のひらで拭う。
飛び上がりそうなほどに冷たいが、意に介することなく水玉を払っていく。
どうしても二人の姿が見たい。そのためにここに来たのだ。
水晶体のなかに、二人の少女の姿が現れた。
穏やかな寝顔をしている。
息をのむ美しさだった。
二人はいつもそこに居てくれた。
そして、今回もどうやらここまでのようだった。
手から力が抜け、足元の感覚が無くなった。
世界がぐるりと回って闇が落ちてくる。
届くことのない言葉を叫んだ。その時――
たしかに名前を呼ばれたような気がした。