水素水事件
相樂実里は可愛い。
繚蘭学園高等部に在学する男子生徒が、一人もそれを言わない日はない。
相樂実里はそれくらい可愛い。
これは、そんな相樂実里の可愛さが巻き起こしたプチ事件。
二学期が始まると、この学校に通う生徒はみな文化祭を意識し始める。
ただの文化祭と侮ることなかれ。繚蘭学園の文化祭は一年間における最も重要なイベントであり、その盛り上がりは学内の枠を超えて地域の名物と称される。幼稚部から高等部、大学が同日程で開催し、それぞれの出し物を披露する。中でも高等部二年生の演劇・映像部門と大学軽音楽部のステージは人気が高く、それらのファンが校内外に多数存在するほどだ。
繚蘭学園の文化祭とは生徒たちの華であり、誇りなのである。
「――というわけで、我々一年一組も学園最優秀賞を目指して頑張っていきたいと思います!」
「今日はまず、クラス発表の題材を決めます。十分ほど時間を取るので、近くの席の人同士で案を話し合ってみて下さい」
橘幹久が士気を揚げ、菅井美希が取り仕切る。一年一組の四十人をまとめる二人のコビネーションも、すっかり見慣れた光景になっていた。
それを見守る瑞原勇馬の表情は、いたって穏やかなものだった。その視線は美希の凛とした姿へと向けられている。もっとも、恋慕の情があってのものではない。
彼はただ単に、彼女がこうしてクラス委員として務めを果たしている姿に安堵しているだけだ。体育祭の準備期間中に担任教師との揉め事を起こし、一時はその職を降りるのではとの噂もあったが――その後も変わらずクラス委員として活躍し続けている。やはりこのやかましいメンバーをまとめる役は、他の誰かに代えられるものではない。
「それにしても、クラス発表なぁ……」
勇馬は小さくため息を漏らした。別に、何かが憂鬱であるわけでもないし、疲労が溜まっているということもない。ただ、こういう局面でクリエイティブなアイデアを考えるのが得意ではないだけだ。
それでもそれなりに知恵を絞って考えてみるが、所詮ないものは出てこない。早々に諦めをつけ、左隣に座るショートヘアの少女に助け船を出すことにした。
「真帆は何か思いつくか?」
「ううん、全くダメ」
真帆ははにかんで答えた。というか、最近の真帆はいつもはにかんでいる気がする。そういえば、昔はこういう表情はそれほど見る機会がなかった。出会った頃から背丈や顔立ちはほとんど変わっていない一方、その所作や雰囲気などは少しずつ大人になってきたように思う。ちなみにこれを本人に伝えると、身近な友人を引き合いに出して「わたしはまだまだ子どもだよ」と返すのが常だ。
「あの二人がませてるだけだっての」
「ん? どうしたの?」
「いや……真島と相樂は楽しそうだよなって話」
「あー、そうだね」
そう話しながら二人が目をやった先には、クラス委員のミキミキコンビと何かを話し合っている女子二人組がいた。一人は長身にストレートの黒髪ロングヘアーをなびかせた、笑顔と声音の明るい少女。もう一人は肩の辺りまで髪を伸ばした、小柄でおとなしげな少女。真帆にとっては小学生の頃からの親友であり、三人で中学の陸上部に入部したことから勇馬とも知り合った。
「有沙も実里も、いかにもってくらい女子高生を満喫してるよね」
「だな。特に真島なんか、夏休みのうちに彼氏ができたって聞いたし」
「瑞原くんも知ってたんだ」
「そりゃ、まぁ――相手が相手だしな。嫌でも耳に入る」
勇馬の脳裏に、あの男の顔が浮かぶ。端整ながらもあどけなさの残る、爽やかな笑顔だ。それをはっきりと思い出せること自体、自分とあの男との付き合いの深さを突きつけられているようで、何となく気色が悪い。
「有沙も美人だし、諜廼くんも女子に人気高いし――お似合いって感じだよね」
「人気? アイツが?」
思わず失笑が漏れた。いや――真庭諜廼が異性から人気であることは紛れもない事実だし、否定したいわけではない。だが、
「なんて言うか、おれは部活とか下校中とか――男同士でバカやってる時の諜廼の方が好きだな」
「どういうこと!?」
真帆の声音が急に高くなった。見開かれた瞳と大きく開いた口から、驚愕が見て取れる。何をそんなに驚くことがあるのかと怪訝に思いつつ、勇馬は言葉を続ける。
「……上手く言えないけど、真帆とか真島とか相樂がいる時の諜廼は、何か善人を気取っているような感じがするんだよな」
「つまり、男の友情に明け暮れる諜廼くんの方が好きだと」
「その言い方はやめてくれ、ちょっと気持ち悪い」
「あっ……ごめん」
真帆ははっとして語気を落とす。彼女が何に興味を示したのか、勇馬はついぞ知ることはなかった。
ホームルームが終わり、ひとまずは下校時刻を迎えた。
ひとまず――という表現からわかるように、この時刻をもって帰宅する生徒は極めて少数である。大半は放課後も教室に残って、雑談まじりに文化祭の準備活動に取り組む。
勇馬もその一人であった。
「珍しいな――勇馬が部活より学校行事を優先するなんて」
勇馬の陸上バカっぷりはクラスの誰もが知るところである。口にしたのは幹久であったが、その場にいた他の面々も同じく意外に思っていたであろう。
「まぁ、気まぐれってやつだよ」
勇馬はゴシップなどの噂話に興味を持つタイプではなく、クラスという集まりでも率先して中心に割り込む真似はしない。しかし、だからといって他人の視線に無頓着というわけでもない。他のほぼ全員が和気あいあいと話し合いを続ける中で、一人カバンを持って教室を後にしたらどう思われるか――それを考えるだけの知能を持っていただけだ。
「――で、結局出たアイデアの中だと、お化け屋敷が優勢か?」
「そうだな。ベタといえばベタだけど、やっぱり文化祭を男女で回りたい層は多い。お化け屋敷といえば吊り橋効果――大人気間違いなしって寸法よ!」
「下衆の考えね」
幹久のジョークに、美希から容赦のないツッコミが入る。
「でも、案としては賛成よ。問題は、ド定番であるがゆえに、他クラスと競合になる可能性が高いってことかしら」
「競合?」
「もしかして、それに負けたらお化け屋敷できなくなるとか?」
首を傾げたのは実里と有沙だった。ふたりのいる机上には、すでに大量のお菓子が広げられている。彼女らの目的が議論ではなく団らんにあるのは言うまでもない。
「そういうわけじゃないわ。一年生は複数のクラスで同じテーマになっても、潰し合いにはならない」
「二年生の演劇は、抽選なり話し合いなりで上手く折り合いつけるらしいね」
「えぇ。――ただ、来週の学級委員会で『プレゼン』があるの」
「プレゼン?」
「中間発表みたいなものかしら。わたしたちのクラスはこういうことをやります、ここまで決まっています、みたいなことを他クラスに報告するのよ」
「そこで他の学級委員に『つまらなそう』っていうイメージがつくのはまずいよねって話。ましてや同じテーマで相手の方が面白そうとかになると、結構マズいじゃん」
「成る程、完璧に理解したのよ」
実里は大袈裟に相槌を打つと、大事そうに抱えていた水素水のペットボトルをぐいっと飲み干した。大食いタレントさながらの勢いで、中の水が空になる。
「やっぱり水素水は最高なのよ」
実里は上機嫌でカバンに手を突っ込む。二本目の水素水が顔を見せたその時、有沙が露骨に眉をひそめた。
「実里……アンタまたそのインチキ水飲んでるの?」
「インチキなんかじゃないのよ。水素水はれっきとした科学なのよ」
「どういう風に?」
「それは知らないのよ」
「アンタ、絶対騙されてるわよ……」
有沙の小言は無視。実里はまたも豪快に水素水を口に運んだ。五〇〇ミリのペットボトルが、ひと口で半分にまで減る。
「つまるところ、ただのお化け屋敷じゃなくて、もうひと捻りが欲しいわけだな?」
「そういうこと。どうしたもんかね」
「……」
一瞬の静寂。それを断ち切ったのは、教室の戸が開く音だった。
「ごめんごめん、今戻ったよ」
「真帆、どこ行ってたの?」
「ちょっと隣のクラスの友達と、本の貸し借りを――ついでに向こうの情報も聞けたよ」
「おぉ、それはそれは! どんな感じ?」
「えっとね、これこれ」
「?」
真帆が見せたのは、一枚のメモ用紙だった。そこに記されていたのは、
「なになに……、一組――お化け屋敷(濃厚)、二組――ヒミツ♡、三組――難航中(展示系の可能性高いか)、四組――輪投げ(割と確定っぽい)、五組――ミニ図書館?、六組――迷走中……何これ」
「まさか真帆、他クラス全部調べてきたの? すごすぎるんだけど……」
「有沙、落ち着くのよ。確かに真帆は素直でいい子だけど、それにも増して交渉とか謀略が下手なのよ。この子の力で敵から情報を引き出したとは思えないのよ」
「敵って……」
「次に、この汚い字。几帳面な真帆のものじゃない――っていうか、そもそも女の子の字じゃないのよ」
つらつらと語る実里――その口調は平坦なようでいて、微かな高揚を帯びているようにも思えた。多分、その違いに気づけたのは、付き合いの深い真帆と有沙くらいだろう。
「何より、この情報量と、それに対して露骨に伏せられた二組の『ヒミツ♡』。こんな舐めた真似をしてくれるのは、あの人に違いないのよ」
「あぁ、アイツな」
勇馬が真っ先に反応した。それとほぼ同時に、真帆と有沙からも失笑が漏れる。
対して、未だ見当がつかないのはミキミキコンビ。
そう――このメモ書きの送り主は、勇馬ら『元・冬木市立第四中学校組』と親しい人物――、
「安東慶彦くんなのよ」
「……誰?」
美希の反応は、この上なく淡泊だった。期待を裏切られたような、落胆の様子すら見て取れる。
「まぁ、仕方ないっちゃ仕方ないのよ。安東くんは特別顔がいいわけでも、背が高いわけでも、勉強ができるわけでもない――わたしたちみたいな日向者とは縁遠い、根っからのド陰キャなのよ。趣味はネットサーフィン、他人の噂話、ドラム、SNSでわたしの自撮りをいいねして保存して眺めること、小学生の弟ちゃんと妹ちゃんの面倒を見ること、動画サイトにアップされているわたしの『弾いてみた』動画を見ること、等々。嫌いなものは――」
「実里は相変わらず、安東くんのことになるとよく喋るね」
「アンタたちの関係からは、澱んだ空気を感じるわ」
「アイツの相樂に対する執着はなかなか常軌を逸してるからな」
同中組は平然と言ってのけるが、それを聞いた美希は青ざめていた。
「何よそれ、ただの変態じゃない! 実里はそれでいいの?」
「よゆーなのよ。どうせあのヘタレには、画面越しにわたしを見つめてシコ――想いを募らせることしかできないのよ。わたしは優しいから、安東くんのいかなる愛も受け止めてあげられるのよ~」
「シコ?」
「確かに、安東くんに男らしく告白する勇気とかはなさそうね。それこそ、ふたりで花火を見ながら――みたいな……」
「はいそこ、自分の体験を重ねない。大体、わたしはまだ、あのもやしのことは認めてないのよ」
「シコ……?」
話題はそこから、大きく逸れまくることとなった。いつしか、文化祭の面影がすっかりなくなった頃、真帆がひっそりと勇馬の元に寄ってきた。
「やっぱり、結局こうなるよね」
「まぁ、予想されたオチだけどな」
「わたしは好きだよ、この雰囲気」
「そうだな――」
そう言って勇馬は、すっかりただの井戸端会議と成り果てた一帯に目を向ける。全くもってくだらないが、勇馬もまた、この空気が憎めないのである。
このメンバーで、文化祭を成功させたいな。
柄にもなく口走りそうになった台詞を、勇馬はすんでのところで呑み込んだ。
時を同じくして、場所は勇馬たちの所属する一年一組――の教室からほとんど真正面にある、一年生の男子トイレ。モップを片手にろくに掃除もせず、ぐだぐだと雑談に興じる男子生徒二名がいた。
「納得いかない」
「どうした、慶彦。珍しく不機嫌じゃない」
「何で一年生のトイレの掃除当番、毎日ウチのクラスなんだよ! 普通、曜日ごととかで回してくもんだろ?」
声高に主張する安東慶彦だったが、生憎、真庭諜廼は帰国子女である。日本の学校の常識はわからない。
「とは言っても、他のクラスは他のクラスで担当してる場所があるんだろ? トイレなんて教室の目の前にある分、ラッキーじゃないか」
「確かに他クラスだと、わざわざ校庭まで行ってウサギ小屋の掃除するトコとかもあるし、それを考えたらまだマシか」
――でも、と慶彦は続ける。
「何でトイレの真横に自販機を置くんだよ!」
「……それ、何かマズいのか?」
「何か、気分的にイヤだろ? トイレの真横で買った飲み物飲んで、その隣にあるゴミ箱から空いたボトルを回収するの!」
「慶彦は細かいこと気にしすぎだと思う」
確かに近いと言われれば近いが、入り口から一歩ズレたところに設置されているだけだ。トイレの中にあるわけじゃない。
「更に言うと、その空きボトルをまとめてゴミ捨て場に持って行く仕事が『トイレ掃除』という扱いなのにも納得していない」
「そんなにイヤなら先生のとこに行って相談でもするか?」
「いや、良い。どうせ大人はぼくたちの声なんか聞いちゃくれないさ」
「……まぁ、その可能性は高いかもな」
このままだと、慶彦のネガティブモードが延々と続きかねない。諜廼は半ば強引に話題を逸らすことにした。
「そういえば、さっき真帆ちゃんに渡したメモあったろ。あれ、貴重な情報源じゃないのか?」
「大丈夫だよ。写メ撮ってあるし、脳みそにもばっちり記憶されてる」
「ふーん。それにしても、掲示板――だっけ。よくもまぁそんなすぐに情報が出回るもんだな」
「イマドキはツイッターなんかもあるから、尚更だね。テレビのニュースなんて待ってたら、時代に取り残されてしまう」
「テレビですら持ってないおれはどうすれば良いんだ」
「興味あるなら買えばいいじゃん。オススメの機種とかリストアップしてあげようか?」
「じゃあ頼むわ。秋から面白いドラマが始まるって、有沙ちゃんが楽しみにしてたし」
「オッケーイ。どうせならブルーレイレコーダーとかも一緒に――」
といった塩梅で、いつまで経っても掃除に取りかからない不真面目な二人。
そこに、二人の客人があった。
一年一組の、瑞原勇馬と橘幹久である。
「あれ、慶彦と諜廼」
「おやおや、勇馬と――幹久。どうしたの、水素水なんて手に持って」
「いや、教室で文化祭の打ち合わせしてたらさ……幹久が相樂の持ってた水素水をひっくり返して、この通り制服を水浸しにしちまったわけよ」
勇馬の言い草はやや大げさだった。確かに紺色のズボンには濡れた痕跡が見えるが、そこまでびしょ濡れというわけでもない。幹久が手に持っている水素水のペットボトルにも、まだ中身が入っている。
「というわけで、ちょっと着替えてくるわ。真庭くん――だっけ。掃除中にすまない」
「いえいえ。どうせおれたち、掃除なんてしてないし」
「そこはちゃんとしろよ」
ツッコミを入れたのは勇馬だった。幹久は苦笑まじりに頭を垂れ、個室の鍵をかける。
「仕方ない。ちょっと入り口のペットボトルだけまとめてくるわ」
「ありがと諜廼」
「……それにしても、ちょっと意外な組み合わせだ。勇馬と幹久――赤点候補の問題児と学級委員なんて、どういう風の吹き回しだい?」
「文化祭の話し合いしてたからな。慶彦こそ、幹久と面識があったなんて意外だ」
「中学の時、一瞬だけ通ってた塾で一緒だったんだよ」
「あぁ、そういや半年くらい行ってたな――」
思えば、中学入学当初、慶彦の成績は悪くなかった。否――贔屓目抜きに見ても、上位一割に入るくらいの実力があったはずだ。それが、中学二年生辺りを境に、勇馬と共に『陸上部の二大バカ』と称されるようになってしまった。
「何で塾辞めちゃったんだよ」
その声はトイレの個室から聞こえてきた。
「おれ、慶彦と模試の点数競い合うの――楽しかったのに」
「うーん……これ言うと怒られそうでイヤなんだけど、飽きちゃったんだよね」
「飽きた? 勉強に?」
「まぁ、そんなところ」
きまりが悪そうに微笑む慶彦。それ以上、個室からの返答はなかった。そこへ、
「慶彦~。ゴミめっちゃ多いぞ~」
そう言いながら、諜廼はペットボトルが詰まったビニール袋を持ってきた。その量はすさまじく、今にもビニールがはち切れそうなほどである。
「いや、詰め込みすぎだろそれ。二つに分ければ良かったんじゃ」
「ゴミを捨てるのにもお金がかかるんだぞ。ビニールだって資源なんだし。こういう積み重ねが大事なんだ」
「その真面目さがあるならさっさとトイレ掃除も終わらせろよ……」
勇馬が呆れかけたところで、個室の鍵が開いた。下だけジャージに着替えた幹久が、空のペットボトルを持って出てくる。
「待たせて悪かった」
「いいよ。どうせもう掃除やらないし」
「おまえら結局トイレ内は何もしてねぇじゃん!」
「当たり前だろ。トイレなんて汚いところ、誰が掃除したいんだよ」
「……何でおれが間違ってるみたいに言うんだ」
「ところで幹久。これ」
そう言って慶彦は、五〇〇円玉硬化を投げた。
「何これ」
「それで相樂さんに、侘びの飲み物でも買ってやりなよ。水素水は無理でも、それなりのものにはなる」
「……相樂さんって、何が好きなんだ?」
「甘いもの――特にオレンジとかリンゴの果汁一〇〇パーセントジュース。それか味付けのない天然水。お茶とかコーヒーみたいなカフェインはNGだ。下手したら翌日まで機嫌が悪くなる」
「おまえは相変わらず、相樂のことになるとよく喋るな」
「実里ちゃんのこと好きすぎるでしょ」
「まぁね。でも別に、付き合いたいとかじゃないから。さぁ行った行った。ぼくらは掃除の仕上げが残ってるんだ」
「さっきもうやらねぇって言ってただろ!」
「悪いな、慶彦。この礼は必ず――」
「いや、そういうの良いから。あと、飲み物渡す時にぼくの名前は出すなよ~」
言葉の代わりに、幹久は空のペットボトルの入った手を挙げた。
結論から言うと、二人は最後までトイレ内の掃除をしなかった。
床も拭かず、流し台も洗剤どころか水洗いすらせず。
唯一、袋にまとめたペットボトルは――、
「やっぱダメだ、破れる! 袋二つに分けよう!」
「さっきのエコ発言はどこ行ったよ」
慶彦はため息をつき、トイレの脇にあるペットボトルのゴミ箱を開けた。先程、諜廼が入れ替えた新品のゴミ袋を取り出し――、
「――あれ」
ゴミ箱の奥底に、ぽつんと佇む水素水のペットボトル。ゴミに捨てられたタイミングとパッケージからして、幹久が持っていた実里のもので間違いないだろう。
そういえば、着替えに入ってきた時は、まだ中身が入っていた。
「……」
とりあえずビニール袋を持ち出し、トイレの流し台を見る。
水が流れた形跡は特にない。
だとすれば――。
「――諜廼、袋持ってきたよ」
「さんきゅー。それじゃあ半分移して――」
「それはぼくがやっておくからさ、トイレと流し台の水だけ流しておいてもらっていい?」
「いいけど、何で?」
「何となく、だよ。水流しておけば、掃除したっぽくなるでしょ」
それは建前だった。
流し台に水を流した形跡がない以上、残った水の行き先は絞られる。
幹久が個室を出た時、水を流す音はなかった。便座の表面に濡れた跡があれば、それがペットボトルの内容物によるものであるといえるだろう。
もしその形跡すらなく、どこにも捨てられていなければ――水は一体、どこに姿を消したのだろうか。
だが、もはやそれを憂慮するのは無駄というもの。どのみち、便座と流し台は諜廼が水を流してくれた。今更、確認する術などありはしない。
文化祭準備で、すっかり日が暮れてしまった。
一年二組はとりあえず、男女逆転仮装喫茶を開く方向で進めることになった。文字通り、男子が女装をし、女子が男装をするというコンセプトである。
「慶彦は線が細いし、背丈的にも女装が似合うんじゃないかな」
「諜廼こそ華奢だし髪も長いから、お誂えだと思うよ」
慶彦は、諜廼と軽口を交わしながら学校を後にする。だが、脳裏には先程の一件がこびりついたままだった。
「――好きな人のリコーダーを舐めるっていう話、聞いたことある?」
「へ? 何それ、気持ち悪っ」
「いや、日本の学校におけるあるあるというか、鉄板ジョークの類なんだ。間接キスみたいなものさ」
「あー、そういうこと」
「……何でそんなことするんだと思う?」
「何でって、そりゃあ――」
一瞬の間が空いて、
「好きだから、じゃないか?」
「……そっか」
「? 何の話?」
「昨日ネットで見つけた心理テストだよ。好きだからって答えたやつは、恋をしてる」
「何それ、変なの」
――好きだから。
単純明快な理由だった。成る程、疑う余地もない。
実里は学年でも有数の美少女として名を馳せる、ちょっとした有名人だ。幹久が恋心を抱いたとして、何の不思議もない。公言していないだけで、想いを同じくする男子生徒は他にも幾何か潜んでいるはずである。
橘幹久と、相樂実里。
「……あまり上手くいきそうにないなぁ」
思わず苦笑が漏れてしまったところで、不意に携帯電話が着信を知らせた。
発信者の名は、相樂実里。
「……はい、もしもし」
『あー、もしもし? 実里なのよ』
「どうしたの、電話なんかしてきて」
『さっき橘くんから天然水もらったんだけど――あれ、安東くんのセンスでしょ。一応、お礼はしておこうかなって』
「あぁ、バレた?」
『当然なのよ。ありがとね~』
電話はそれだけだった。一分にも満たない通話時間が、画面に記録として残る。
「……実里ちゃんから?」
「そう。クラスの出し物対決、負けないからねって」
橘幹久と、相樂実里。
ふたりの関係がどう進んでいくか、今はまだわからない。
それでも、とりあえず一つだけ、はっきりしていることがあった。
安東慶彦は、相樂実里が幸せになれる未来を願っている。
※本作は筆者が別所にて執筆している『繚蘭学園シリーズ』より傑作選として掲載したものです。