「約束事は慎重に」
私の名前はオルネス=フルカ。この国の第二王子、ルイス殿下の婚約者の公爵令嬢でございます。
この国には3人の王子がいらっしゃいます。長男は今年成人をお迎えになる18歳、双子の次男三男は17歳。来年の双子の学校卒業と成人を待って、王太子を決めることになっております。王子は皆幼い頃から婚約者が決められており、結婚すれば財力や勢力図が国に有利になる仕組み。それを考慮して婚約者や自分の周辺と関係を築けるかも王太子選定の基準となっております。
この国では約束というのは特に重要な役割で強い力を持っております。口約束であっても第三者の証人さえあれば、非常に強力な力を持つのです。公的な話の場には必ず証人役の書記がいるほど。悪巧みは一歩間違えば奈落の底。常々、口には気を付けねばなりません。
さて私と双子の殿下は同じ年齢、同じ学び舎に通っております。入学当初は学内で第二王子殿下とご一緒することもよくあったのですが、入学からしばらく経ちますと殿下の方から距離を置きたいと言われました。
その理由も意味も把握しておりました。本来退けて然るべきの有り得ない理由ではあったのですが、私はそれを受け入れる事にしました。王子の妃になるなら取り乱してはなりませんもの。ですが、このような扱いは約束違反。一応はご忠告申し上げましたが、聞き入れてはいただけませんでしたの。仕方ありませんわね。
それ故に大人しく距離を置いておりましたこの頃。
数週間後の休暇前のパーティーに備え実行委員の一員として学内を慌ただしく動いておりますと第三王子殿下から声を掛けられました。双子の王子ですが似ているのは髪と目の色だけ。傍目には双子に見えず、性格も90度くらい違います。
「オルネス嬢、話があるのだが」
「まぁ。レオン殿下、ご機嫌麗しゅう」
時期柄とこの雰囲気、ご用件はなんとなく想像がつきます。
「ノエル様、ご一緒していただけますか?」
側にいるレオン殿下のご学友に証人としての同席を頼みます。顔なじみのノエル様はそれぞれの立場や事情を理解しており快く引き受けてくれます。この方の書かれる文字はとても美しく、どのように早く書かれても読みやすいのです。そのため、大事な話し合いの時の同席を何度もお願いしたことがあります。ずっと眺めていたいと思うほどには憧れの字ですわ。
人気の少ない教室の隅でレオン殿下は小声でお話を始められます。
「最近兄上と益々距離があると耳にしております。もしや次のパーティーも」
「えぇ、きっと私はお側には」
やはりそのお話でしたのね。もう過去数回、私は婚約者のエスコートを受けておりませんの。
「あなたにお願いするのもと思いますが、どうにもなりませんか?」
「恐れ入りますが……」
切なそうな顔で話していた彼に遠慮がちに返すと切なさが増してしまいました。申し訳なく思いますが、無理なものは無理なのです。
レオン殿下は大変に心優しい御方で、その優しさ故に王太子の椅子も一番遠いと噂される程。ご自分の婚約者と私を重ねて心を痛めて下さっているのでしょう。でも私は傷ついておりませんの。
「レオン殿下、お心遣いに大変感謝申し上げますが、もう戻らぬものです」
そう言って私は一礼。頭を下げたまま、大事な事を伝えます。
「これまでありがとうございました。貴方様のご親切への感謝を。お幸せを心よりお祈り申し上げます」
これ以上具体的に申し上げることができませんで、曖昧な挨拶ではありますが、お察しになられたのでしょう。ノエル様の片眉がほんの少し上がります。レオン殿下は悲しそうな顔でしたが、ご理解下さいました。
迎えたパーティーの日。
どなたのエスコートもなく、1人で入場した私を迎えたのは私の婚約者とその距離の原因、ミア男爵令嬢。
「ネス、話がある」
ミア様に腕を組まれたルイス殿下が声をかけていらしたのですが、珍しく自信なさげに戸惑ったようなお顔からは何のお話なのかうかがい知ることができません。今更一体何のお話でしょう。
「ごきげんよう、ルイス王子殿下」
明るく礼をすると2人共の顔が少し曇ります。それぞれに違う色を示しているけれど横並びだから気付かないようです。
「……あなたとの婚約の事なのだが……」
言い淀むルイス殿下は顔色が宜しくなく相当言葉を選んでいるご様子。ということは私のお話を聞かれたのでしょうか。それでいてこの状況なら、今ここでどんな言葉を選ばれても結果は変わりませんわ。
言葉の進まない彼にしびれを切らしたのかミア様が口を開きます。
「ルイは私と結婚するから、あなたとの婚約はなし! です!」
あまりの大声とその内容に、ホールの皆様の注目が集まります。あら、嫌です。折角こっそり入場できましたのに。こういう注目の浴び方は苦手ですの。発言を許されていない下位貴族の無礼な口調に眉をひそめるご令嬢方。皆様、可愛いお顔が台無しですわよ。
「約束しました! ちゃんと記録もあります!」
そう言ってルイス殿下の腕を益々ぎゅっと抱きしめる令嬢。あらあら。
「本当ですか? ルイス王子殿下?」
扇で顔を隠しながら殿下に視線を移します。
「……本当だ。証人もいる。富める時も貧しき時も、いかなる時も愛すると誓い合った」
少しの曇りを含んだ表情で殿下がお答えになります。ミア様はそれに気づかず勝ち誇ったように私の顔を見ています。
「それはおめでとうございます。お決まりなら、何故私にお話を?」
「そんなの、あなたにルイを諦めてもらうために決まっているじゃないですか!」
どうしてこう、いちいち大声を出すのでしょう。大したことない話が大袈裟になって、殿下が恥をかくだけですのに。
気が付くと私たちの周りに人が輪を作り、その中にノエル様がいらしています。証人として立って下さるのでしょう。手に紙とペンをお持ちです。その向こうにはレオン殿下のお姿。あれ以来心配して下さっていたのね。勿体ない事だわ。
「ミア様、もう少し小さな声でも十分ですわ。諦めるとはどういうことでしょう」
「あなた、ルイの婚約者だからってルイのやることにやかましく口を出していたんでしょう?」
「王子殿下はご身分のある方ですから、お行儀は守っていただきませんと。婚約者としての務めでもあります」
殿下の腕をぎゅうと抱きしめて彼女が叫びます。
「婚約者婚約者って……愛してもいないのに勝手に決めて! ルイはおもちゃじゃありません! ルイの気持ちは考えないんですか! 可哀相です!」
ノエル様の記録の手が一瞬止まりますが小さくかぶりを振りながら続けます。皆様もこの不敬発言には目のやり場に困っています。私は段々気分が悪くなってきました。こういった頭の悪い方は苦手ですの。
「……それはお決めになられた両陛下に仰ってくださいますでしょうか?」
「んなっ……言えるわけないじゃないですか!」
でももう言ってしまいましたわよね。
そこで口をはさんだのはレオン殿下です。
「ご安心を。今の発言、この場の全員が証人となり書記が控えました」
凛と響いた声にノエル様が頷きます。
「ミア嬢が両陛下に謁見なさる際には発言を許されましょう」
ミア様の手の震えを察してかルイス王子が口を開きます。
「レオン、意地が悪いぞ。この発言に記録は不要だろう」
「いいえ、婚約の話ともなれば大事。記録を判断するのは陛下ですよ、兄上」
続きを、と促す様な仕草をされて、皆様の注目がこちらに戻ります。このようなレオン殿下を見るのは初めてで私は少し驚きました。いつも優しく穏やかな方もやはり王子、やはり王太子候補なのですね。
ミア様は分が悪いと判断したのでしょう。自分を弱者、私を悪者に仕立てようとします。
「ひどいじゃないですか! 私の立場を悪くしようと……」
「何がでしょう。あなたと殿下の婚約はお祝いしておりますし、そのような気などございません」
「嘘です! ルイの隣に立つ私がうらやましくて仕方ないはずです!」
「別に」
思わず本音でポロリと答えてしまった私の言葉に、ミア様もルイス殿下も目を丸くされます。本当です。興味がございませんもの。もういいかな、と思うと遠慮していた本音が口から滑り出ていきます。
「先程のあなたの発言を返すようですが、私にも気持ちはありますのよ。決められた婚約を選ばれた誉とは思えても、必ずしも愛や感情を伴っているとは限りません」
ノエル様がさらさらとペンを走らせます。
「ルイス王子殿下との婚約は大変に光栄なことでありがたく存じておりました。殿下がどのようなお立場でもお気持ちでも、妻として支えられるよう、敬愛の情でお側におりましたわ。時が経てば未熟な私でもこの気持ちが愛になったかもわかりません」
ルイス殿下の肩の向こう、レオン殿下と目が合います。心配そうな瞳です。大丈夫ですわ。私、冷静ですし傷ついてなどおりませんもの。
「恋愛結婚は素敵で私も憧れますが、婚約や結婚から愛を育てられるかどうかも人の魅力というものでしょう。この国の貴族の大半は始まりが望まない約束でも愛を育てる事をしていますわ」
昨今は恋愛結婚も流行りではあり、政略結婚から始まった方々がたまに空気を読まない言葉に中てられて嫌な思いをされることがあります。今もそうですわね。
私の言葉に家同士が決めた婚約者達が励まされたのか、婚約者の腰を引き寄せる様が視界に入ります。まあまあ。お幸せにどうぞ。
「つまるところ私の今の気持ちは、そういった愛情ではありませんの。ですからあなたをうらやむ気持ちはありません。愛されないからと嫉妬や意地に苛むことも。妃の重責は承知しておりますのでその椅子に執着もございません。あの時も、ルイス王子殿下の婚約者として殿下自身にご忠告申し上げましたまで」
「だからそれが意地悪だって言うんです! ルイの気持ちや行動を制限するのは可哀相だって……」
コロコロ論点を変える方ですこと。ノエル様の記録は大丈夫でしょうか?
「どんなに気の毒でも婚約者、特に王族ともなればそういうものです。不名誉を避けるためなら苦言も呈しましょう。約束も果たさねば恥というもの」
そう言うと視線をすっとルイス殿下に戻します。結局彼女と話す羽目になりましたが、お話がこれだけならもうおしまいで宜しいでしょう。無駄ですわ。
「ルイス王子殿下、お話というのは彼女と結婚する、という事だけでなく私との婚約をお辞めになりたいとの事でお間違いございませんのね?」
相変わらず曇ったままのお顔でゆっくりと頷かれます。
「……そうなんだが……」
「なんでしょう? なにかございますか?」
ミア様に見つめられ、意を決したのか殿下が少し大きな声で仰ったのは――
「婚約の条件を変更できないだろうか?」
という、前代未聞の発言でした。
パチリ、と扇を閉じて私は答えます。よりによってそのような。どうやら何もご存知ではないのですね。
「無理ですわ。私の気持ちだとかそういうことではなく、両陛下と我が両親の同意なくして」
「……ならば今からでも説得に……」
「それも無理ですわ。あの婚約に今の殿下の望みが通るとは思えません」
向こう側のレオン殿下の歪んだ顔もですが、ノエル様の無表情ぶりが素晴らしいですわ。そういうレベルの発言ですわよね。私もがっかりしております。
婚約の条件を変更するには証人が必要、それも王家の婚姻の条件は特に記載が細かく、どれもが由緒正しく定められたもの。いち王子の希望が適うとは限りません。それも婚約者以外の恋人を連れた側の要望など以ての外でしょう。
説得、という言葉を使われる以上、きっと殿下も難しい事は理解はされていらっしゃるのでしょうね。どのようなご希望かわかりませんが、それで私に力添えをお望みならなんと図々しいのでしょう。
それにあの約束はもう。
「ルイス王子殿下、ご安心下さい。先程より私はあなたとミア様のご婚約を心よりお祝いしておりますし、私達の婚約を盾に騒ぎ立てる気も責める気もございません」
「私たちの愛が勝ったわ」と勝ち誇った笑顔のミア様の隣で殿下もうっすらと安堵の笑みを浮かべます。嬉しそうで何よりですわ。私もこれをお伝えすればおしまいですので嬉しいですわ。
「私との婚約は既に私の方から破棄をお伝えし、無事受理されております」
会場がシーンと静まり返ります。あらやだ。
「もう、だいぶん前の事ですわ」
ミア様の目が大きく見開かれ、殿下の顔が真っ青になります。
「破棄……」
その小さなつぶやきも、ホールに大きく響きます。もう全員の注目は私ですの。こうなったからにはこのオルネス。腹を括って最後まで令嬢のプライドでこの場をまとめさせていただきますわ。
「えぇ。破棄でございます。解消には出来ませんでしたの。ご忠告申し上げましたあの時に殿下が『真実の愛が見つかった。僕は彼女を愛している。君とは距離を置きたい』と仰ったでしょう。その日の内にどなたからか報告が上がったようで陛下から謝罪がありました。私は殿下の一時の気の迷いと相手にしないつもりでしたの。しかしそのあとすぐに私が嫉妬に狂っているだとか私の嫌がらせに困っているだとか妙な噂がどちらからか流れて参りましてね。そんな下らない事に巻き込まれたくありませんので」
「……私そんな噂知りません!」
真っ赤な顔でムキになってミア様が叫びます。ああ、やはりあなたでしたのね。破棄を認めて下さった陛下が随分とたくさんあなたに関する書類をお持ちとのことでしたがそうでしたか。ここで大声を出していたのも、その噂のように私を陥れるためでしょうか?
「大きな声で否定されますけど、あなたが何かしたとは一言も」
うふふ、と笑って私は続けます。
「ルイス王子殿下、ですからもう私はあなた様の婚約者ではございませんのです。ここであなた方に訴えられる事も、お役に立てる事もないと思いますわ」
そういって一礼。このままカーテシーをして終わりです。と思ったのに何故か殿下が一歩前へ詰めていらっしゃる。
「待ってくれ、ネス」
「オルネス、ですわ、ルイス王子殿下」
さすがに顔を上げます。もう愛称で呼ばれる間柄ではないのです。こちらは先程から嫌味のように長々と呼んでいるのに、愛称で呼ぶなんて。つい口から出かけて収めます。
苦々しい顔には焦りが見えます。
「なんとか解消には……」
「なりませんわ。もう終わった事です。陛下が破棄とお認めになられたのです。破棄に伴う代償も私は受け取る準備が出来ております。婚約のお約束にありましたでしょう。一切の浮気を認めず、有責とし破棄可能と。婚約証書の控えもお持ちなのにお忘れとは仰いませんわよね? お約束は守るためにありますのよ。せめて順番を守れば解消にできたかも知れませんが……」
無傷でのその男爵令嬢との婚約は無理だと思います、の一言は飲み込んでおきましょう。殿下の様子からして、解消にしたうえで真実の愛への口添えを頼みたかったというところでしょうか。百歩譲ってきちんと順序立った手続きを踏んでの側室候補でしょうに。厚かましいにも程がありますし、そこまでされて黙っている私ではありませんわ。立場や家柄ではなく一女性のプライドがありますの。断固拒否です。
もういいかしら、と視線をずらすと渋い顔のレオン殿下が目に入ります。心配していただいたのに婚約破棄の事はお伝えできなかったものね。仕方ないとはいえ申し訳ない事をしてしまったわ。
「どうして知らせなかった……」
とぽつりと呟いた元婚約者の声に私は答えます。
「条件にありますのよ。お分かりかと思っておりました。それに殿下にお伝えするのは私の役目ではございません」
それは陛下の役目です。まさか息子が覚悟なく浮気するとは思っておらず憚られたのでしょうか。わざとかも知れませんが真相はわかりません。
ミア様は私を悪者にして破棄の正当性を訴えるつもりだったのでしょうが、もう破棄されていましたからね。噂の事も否定すれば私はもう関係ないとばかりの笑顔です。「やっぱり愛が全てですね!ルイは私の王子様です」とニコニコ。さようですか。
さわさわ囁く輪から抜け出たレオン殿下がこちらへ近づいてきます。ノエル様は書記を続けるご様子。その表情から察するに、まとまらないルイス殿下の代わりにレオン殿下が場をまとめて下さるようです。私はもう宜しいですわね。
今度こそ、とカーテシーをして下がる私を今度はレオン殿下が呼び止めました。
「オルネス嬢。後程お話がありますので、お待ちいただけますか?」
「まぁ勿体ない事ですわ。私の様な情けない女に一体なんのお話があるというのでしょう」
「陛下からの伝言です」
ルイス殿下の顔が歪みます。陛下からの伝言、ということはレオン殿下はいくらかご存じだったのかしら。
笑顔ですうっと下がる私の後ろからレオン殿下の声が聞こえます。
「さて、兄上、残念でしたね」
やはりいつものレオン殿下のようで少し違います。いつもはもっとふわっとした方なのです。レオン殿下に向き直っているであろうルイス殿下とそこを去る私は背中合わせ。見えませんが苦々しい顔のルイス殿下が目に浮かびます。
「ひっそりと話すべきことをこのように大事にしてどういう意図が?」
大事にしたのはミア嬢ですが、諫めなかった殿下の事も暗に責めておいでですわね。
会話を背中に場を離れようとするとルイス殿下の側近、フランツ様が私の隣に立ちます。いつからいらしていたのでしょう。
「今しばらくこの場に」
珍しく笑っていらっしゃる。といっても薄く口元を上げるだけなのですが、この方が笑っている時は逆らわない方がいいのです。早く立ち去りたいのですが、そう言われて振り切ればまた噂の元になりましょう。大人しく隣に立ちます。
「別に残念ではないし、大事にする気もなかった」
「そうですか。ところでミア嬢とのご婚約は本気で?」
ご機嫌なミア様の頭が縦に揺れています。ルイス殿下の頭も緩く頷きます。
「証人はどなたでしょう」
「フランツだ」
さわっと人の視線が隣のフランツ様に集まります。私も横目で見ますが、そこには先程の笑顔はなく、いつもの能面の様なお顔がありました。
「フランツ、間違いないか」
レオン殿下のお言葉にフランツ様は恭しく礼をします。
「陛下にもご報告申し上げております」
「なるほど、これで伝言の本当の意味がわかった。オルネス嬢、そちらに居て下さって良かった。そのままフランツの横でお待ち下さい」
にこりと笑うと目の前の人に向き直ります。
「兄上、あなたが自ら父上に話されなかったことを父上は大層お嘆きです。よって私が伝言を預かったのです。お分かりかと思いますが、あなたにも伝える事があります」
ルイス殿下の肩が震えました。お分かりなのでしょうか。
「ミア嬢との婚約は認められましょう」
ミア様がはしゃいで喜んでいます。殿下の肩は動きません。
「伴い兄上はそちらの男爵家に婿入りが決まります。持参金は兄上の私財から。フランツは只今をもって私の側近に」
この言葉にミア様がはしゃぐのを止め、またもや会場がしんとなってしまいました。ノエル様のペンの音が響き、衣擦れの音と共にフランツ様がまたも恭しく頭を下げます。
そこに響き渡ったのはミア様の叫び声にも近い大声です。
「ちょっと待って下さい! ルイが婿入り? どうしてですか?」
「そういう決まりだからですよ」
レオン殿下の言い方は柔らかく聞こえますが、いつもからは信じられないほどのとても冷たい声です。
「どうしてそんな意地悪するんですか! オルネスさんの仕業ですか?!」
振り向いてきっとこちらを睨む彼女との間にフランツ様が庇うように少し前に出て下さいます。
「……いいえ、私にそんな事はできません。初めからルイス王子殿下はご存じのはずです。王族の婚約には条件がありますの。浮気では婚約破棄は免れず、婚約破棄なら王位継承権は剥奪」
「それを知っていてルイを放っていたんですか?!」
「ですからご注意申し上げました。そこから先はご存知の通りですわ」
私に噛み付くミア様をルイス殿下が諫めますが聞く耳を持ちません。
「……ミア、その話は……」
「ルイは黙って下さい! 私は王妃になりたいって言ったじゃないですか!」
「きちんと無理だと言っただろう。婚約を解消できても可能性は低いと……」
お分かりでしたのね。それにしてもそこまで理解され覚悟していらしたのに私の温情を期待していたなんて、ルイス殿下、今度こそ本当に見損ないましたわ。
「だめです! きちんと婚約者を管理していなかったオルネスさんの責任でもあります! オルネスさんも約束違反じゃないですか?!」
あらやだ。管理だなんて。本当に仰ってることが支離滅裂ですわ。ノエル様のお手元が心配ね。優秀な方だから大丈夫だと思うけれど、見直して混乱なさらないかしら。かくいう私は実は記憶力の良さだけが取り柄ですの。どうでも良い事ですけれど。
「オルネス嬢は被害者であって加害者ではありませんよ」
「じゃあフランツですね! ルイの側近なのに全然何も……」
「私も一度殿下にご忠告申し上げました。オルネス嬢と同様に返されましたが。証人はノエルです」
ノエル様ってば本当に優秀でいらっしゃる。フランツ様は続けます。
「ミア嬢は何か勘違いなさっている様子ですが、そもそもあなたが悪いのですよ。あなたには何度もご注意を申し上げましたでしょう。王族にあまり馴れ馴れしくなさらないでほしいと、オルネス様に失礼だと」
「その証人も私が」
静かに声を上げたノエル様と目が合うと優しく微笑んで下さいました。今まで見たことのない笑顔に驚きます。数年のお付き合いですが笑顔なんて初めて目にしました。思わずドキリとしましたけれど、眩しさにご令嬢何人か倒れているのではなくて?
「何ですか! みんなで意地悪して……!」
「私もノエルも、あなたの事を陛下に報告し、都度適切に自らの役割を果たしております。あなたに何か言われる筋合いはありません」
フランツ様、ミア様の事お嫌いですのね。先程の笑顔の理由がわかりましたわ。ノエル様もそのようですし、陛下の手元の大量の書類の理由も。
ミア様が可愛らしくむくれた様子でルイス殿下をぎゅっと抱き寄せます。
「何です! 従者のくせに生意気です! ルイ!」
しかしルイス殿下は何も言えません。当然ですわね。
「……話が違います! ルイは立派な王子様のはずです!」
「兄はあなたの王子様なのでしょう? 何か問題が? ……お話というのが王太子の椅子の事なら、それは愛には無縁なものですよ。約束を守れない人には座れないものです」
満面の笑みのレオン殿下にミア様が怯みます。
「この国では当然の教えですが『約束事は慎重に』ですよ。お二方」
レオン殿下の微笑みはいつも通りですが、その瞳は怒りに燃えておりました。
これ以上話すこともないと判断したレオン殿下が会場に大きく語りかけます。
「さて、これ以上パーティーの開始が遅れては迷惑が掛かりますね。皆様、大変見苦しくお騒がせ致しました! 実行委員の皆様の心遣い溢れるパーティーです。お楽しみ下さい!」
さり気ないミア様非難、素晴らしいセンスだわ。絶対に見習えない。今まで優しくて可愛い殿下と思っておりましたけれど全然違うではないですか。これなら王太子の椅子も遠くないと思いますわ。
こちらを気にしながらもざわざわと四方に散っていく人の中央で喚きながらルイス殿下を揺らすミア様と揺さぶられながらも彼女を説得する彼を視界の端に収めながら、私は勢力図の整理をします。我が家はどこを支持する動きになるかしら。
なんて考えているうちにレオン殿下とノエル様が傍までいらしていました。
「オルネス嬢、お待たせしました」
「あ、いいえ、この度は私の不始末でお騒がせ申し上げました……」
全てルイス殿下、というかミア様の責とわかってはいても社交辞令は大事ですものね。私はもう一度頭を下げます。
「こちらこそ。オルネス嬢、兄に代わってお詫び申し上げます」
その笑顔はいつも通りですが、雰囲気がいつもと違います。
「兄上があのようなら私も心が改まるというものです。さて、お待たせしておりました父上からの伝言ですが、『あなたがレオンに味方するならその愛を許そう』というものです。……オルネス嬢、もしやどなたかに想いを?」
「まぁ、ありがとうございます。フルカ家は全力でお力添えすると思いますわ」
そう。今回の事には私以外のフルカ家全員で怒り狂ってましたのよ。だって元々王家から是非にと進められた婚約なのですもの。それなのに浮気だなんて。婚約破棄の手続きの時もお父様が、これ以上王家の政略結婚に振り回されたくない、というフルカ家全員の願いを陛下に訴え迫ってもう大変でしたの。陛下は条件付きでそれを飲んで下さることになりましたの。それがこれですわね。願いが叶うなら喜んで国に忠誠を誓い直すと思いますわ。
それよりも陛下はレオン殿下派なのね。第一王子は彼を支持する王妃様に似て少し散財の気があると噂があったけれど本当なのかしら。それで双子には早くから私財を持たせ重要性を教えていらしたとか……。レオン殿下にはお世話になりましたし、お父様も同じ双子ならレオン殿下の方が良かったと仰っていましたし、私個人もこの方に付くのは大賛成ですわ。
「……オルネス嬢?」
あらやだ、私ってば質問に答えておりませんでしたわね。レオン殿下もノエル様もじっと私を見つめています。
「失礼しました。その伝言は私の結婚を私に選ばせて下さると言うお約束なのです。まだ恋はしておりません。これから探すのです。私の強かさが露呈し婚約破棄の傷もありますが、それでも愛してくれる方を見つけて幸せになりたいのです。殿下も皆様も、本当にありがとうございました」
お2人の笑顔が眩しいですわ。大丈夫ですわ。お約束を破っての浮気などしておりません。
実行委員の仕事に戻った私を会場は温かく迎えて下さいました。いやですわ。こんなに優しくされたら情けなくて安心して泣いてしまいそうになりますわ。駆け寄って下さったレオン様の婚約者のご令嬢はもう私をお姉様と呼べないのだと泣いて下さって恐縮でしたわ。殿下との婚約で知り合えた素敵な皆様とお別れするのが寂しくないと言ったら嘘になりますわね。憧れのあの美しい字とも。
ちょっとだけ涙が滲みましたけど、内緒ですわ。
翌日、両陛下に呼び出しを受けたルイス王子殿下とミア嬢でしたが、事もあろうに彼女は登城せず、その婚約は男爵家有責で破棄となりました。男爵は娘を連れて半分に減らされた領地に引きこもるそうです。
それによってルイス殿下の扱いも変更。卒業と同時に廃嫡、王族としては異例の準男爵に落とされフランツ様のご実家の補佐を行うことになるそうです。処分が甘いと眉を寄せる方もいらっしゃいましたが、初めて愛した娘のために王族の身分を捨てる覚悟をしたのに金目当てだったなどという気の毒過ぎる出来事に、私が腹を立てなかったこと、位があっても平民であるなど、色々な事が重なって皆様の溜飲が下がりました。
さて、私はと言いますと。
あのパーティーの翌日からノエル様の猛アタックを受けておりましたの。以前から私を想って下さっていたのですって。気付きませんでした。あれだけ素敵な方なのに婚約されていなかったことにも驚きましたわ。
婚約を破棄したばかりではしたないとは承知しておりますが、何しろ憧れのノエル様からの愛の告白ですもの。内心嬉しくて仕方ありませんでした。初めは婚約だなんて大事なお約束事に慎重にならねばと思っておりました。だって証人を務めて下さるレオン殿下やフランツ様が毎回生温かい瞳で口元を緩めていらして、なんとなく誰かの思い通りな気がして悔しかったですし。でも先日露呈した私の可愛げのなさを全てご存知でいて「あなたの気持ちが僕に向くまでお待ちします」なんてその字の通りに誠実なお約束をいただいて、毎日麗しい文字で優しい言葉の綴られたカード付きのお花も贈られては誰だってときめきません? 半年後に婚約をお受けしたのですが、それから1年以上経った今もときめきで胸がいっぱいですの。
今日の約束は一生を決める大事なもの。証人は両陛下と王太子になられたレオン様をはじめとする私たちを支えて下さった皆様。オルネスは愛するノエル様の元へお嫁に参ります。
私たちの誓いは「お互いを幸せにすること」ですの。
このお約束、絶対に守り通してみせますわ!