噂
桃太郎を子と認めてからというもの、おじいさんは以前よりもせっせと働くようになり、おばあさんは若き日に子を持つことができなかったある種の罪悪感から解放されたかのように生き生きと生活を送るようになった。二人からの愛情を一身に注がれ、桃太郎はすくすくと成長していった。
お爺さんとお婆さんは若い時分に経験することのなかった我が子を愛するという幸せを噛み締めながら、ぽっかりと穴の空いた時間を丁寧に紡ぎ上げるかのように日々を大切に過ごした。春には桃太郎を背負い満開の桜を見に行き、夏には川で水遊びなどに興じた。秋の夜長には虫達の歌う声を聴き、そして冬には三人で仲睦まじく囲炉裏の火を囲んだ。桃太郎との思い出を積み重ねながら、三人の尊い時間があっという間に流れていった。
お爺さんとお婆さんが桃太郎を子として迎え入れてから、早くも十七年の歳月が過ぎ去ろうとしていた。桃太郎は幼い時分の可愛らしさを感じさせぬ程に逞しく成長していた。背丈は六尺と五寸程と大柄で、彼を初めて見た行商人などは驚きと共に少しの恐怖を覚えたものだったが、一度そのぶっきらぼうながらも愛情深い優しさに触れると、彼の山のように大きな体に頼もしさを感じるのであった。
夏の終わりを感じさせる涼しげな風が木々を揺らす夕暮れ時のことだった。桃太郎は田んぼから家に戻ると、背負っていた籠を戸の横に置いた。
「父さん、母さん、今帰ったぞ。」
桃太郎は汲んできた川の水で手と顔を洗うと、その大きな体を居間に上げた。
「桃太郎や、すまんのう。そろそろ収穫を迎えようというこの大切な時期に一人で仕事をさせてしまって。儂がもう少し若ければこんなことにもならんかったろうにのう……。」
居間に敷かれた布団から上体を起こしたお爺さんの顔は血色が悪く、頬は幾分痩せこけていた。
「父さん、気にすることはないさ。今まで父さんが一人でやってきた仕事を俺が一人でやっているだけのことだ。俺が生まれる前に父さんが一人でやってきたことを俺がやれないわけないだろ。」
桃太郎はお爺さんに目を向けずにそう言った。
「ほら、お爺さん。桃太郎もこう言っているんじゃし、今はなんにも気にせんでゆっくり休んでおっていいんじゃよ。」
お爺さんはお婆さんにそう諭されると、納得のいかない表情を浮かべながら再び布団に横になった。
「爺さんや、そんな顔をするんじゃありませんよ。桃太郎はお爺さんの望み通り、強く、そして優しく育ってくれたのう。」
お婆さんはそう言いながら、桃太郎の夕飯の準備を始めた。桃太郎は自分を褒めるお婆さんの言葉に少しの照れ臭さと居心地の悪さを感じ、厠に立った。
「爺さんや、桃太郎は見ての通りあまり口数は多くはないが、誰よりも優しい子に育ったのう。」
「ああ、なんとも喜ばしいことじゃのう。それにの、優しいだけではなく強く育ってくれた。桃太郎がやって来てからもう暫くで十七年になるがの、あの子はもう十分一人でもやっていけそうじゃのう。」
そう言い咳き込むお爺さんを見て、お婆さんは悲し気な表情を浮かべた。
厠で用を足し家に戻ろうとした時、桃太郎はある違和感に襲われた。厠の方を振り返ったが、特に変わった様子は見受けられなかった。桃太郎はその違和感がただの思い過ごしでないことを直感し、再び厠に歩み寄りその裏を覗き込んだが、長く伸びた雑草が鬱蒼と生い茂っているだけであった。
近頃、集落の中では不穏な噂が飛び交っている。その噂によればどうも鬼の手下と呼ばれる盗賊のような者達の動きが活発化しているとのことである。桃太郎は鬼の手下のことは予てより知ってはいたものの、実際に彼らを目にしたことはなかった。しかしながら最近では聞いたことのある街の名をその噂話の中に間々耳にすることがあり、そのことが彼の神経を普段よりも鋭く尖らせていたのだ。厠を後にし隙間から薄明かりの漏れる戸を開けると、囲炉裏の横には茶碗にこんもりと盛られた玄米と、菜っ葉の漬物、そして根菜のゴロゴロと入った味噌汁が用意されていた。
「桃太郎や、おあがりなさい。今日も残暑の厳しい中、一人で仕事をしてきて疲れたろう。たんと食べて、疲れを吹き飛ばすんじゃよ。」
桃太郎は居間に上がり、茶碗にこれでもかという程高く盛られた玄米を見て、怪訝そうな顔をした。
「父さん、母さん。二人はもう晩飯は済ませたのか?」
「ああ、お前さんが帰る前に済ませたぞ。どうしたんじゃ?一人で食べるのが寂しいのかの?」
お婆さんは桃太郎の質問の意図するところがわからず、目を見開きキョトンとした顔でそう答えた。
「それならいい。じゃあ、頂きます。」
お婆さんは時々、蓄えが潤沢にあるとは言えない米を桃太郎の為に炊き、自分達は粟や麦などの安価な食べ物で食事を済ませていた。桃太郎はその行動が母の愛の表れだということは十分に理解はしていたが、そのような折にはどうしても純粋に米の味を楽しむことができなかった。その心情をお婆さんに伝えたことがあったが、お婆さんは困ったように笑うと、そんなこと気にせんでええんじゃ、と言ったのだった。
「そういえばの、桃太郎。今朝お前さんが仕事に出た後に、お隣の楊ちゃんがお前さんを訪ねてきたんじゃ。なにやらお前さんに渡すものがあると言っていたんじゃが。」
桃太郎は茶碗の玄米を掻き込みながら、お爺さんのその言葉にわかった、と短く返事をした。お婆さんは食事を掻き込む桃太郎の姿を見て、満たされたような笑顔を浮かべていた。