集落
――遥か遠い昔、あるところにお爺さんとお婆さんが暮らしていた。
暑さもすっかり落ち着き涼しげな風が吹くようになったある晴れた日のこと、お爺さんは田んぼへ稲刈りに、お婆さんは集落の近郊を悠々と流れる川へ洗濯に行った。
人口約100人程のこの集落は米の収穫を主な収入源としている。決して肥沃とは言えないこの土地で収穫された貴重な米の一部は他の集落との交易に回され、海産物や果物、あるいは布製品などの日用品の確保に回されている。そして残りの収穫の大部分は鬼と呼ばれ人々から恐れられる存在への供物として献上され、集落の人々はわずかに残った米と、交易で安価に仕入れた粟や麦などで飢えをしのいでいる。この集落の人々はそのような貧しさに苦しみながらも、毎日の仕事を真面目にこなし、慎ましやかに暮らす強さと優しさを兼ね備えている。
お爺さんが稲刈りから戻ると、お婆さんはまだ家に帰っていなかったようで、囲炉裏に置かれた薪には火が着いていなかった。
「婆さんはまだ帰っとらんか。いつもならこの時間には家の外でも米味噌で作った味噌汁の匂いがするんじゃがのう。」
背負った籠を戸の横に置くと、お爺さんは家の外に出て、辺りを見渡した。
「まあ、よその奥さんがたとの話に花でも咲かせているんじゃろう。仕方ない、今夜は儂が晩飯の準備でもするかのう。婆さん、驚くんじゃなかろうかの。」
お爺さんはそう独り言を漏らしつつ、鼻歌を唄いながら慣れない手つきで囲炉裏の薪に火を付け、その上に鍋を置いた。
火にかけた鍋が蒸気を上げ始めた頃、家の戸がガタつきながら開いた。
「爺さんや、今帰りましたよ。あらまあ!爺さんが料理をするなんて、これは珍しい!明日は雪でも降るんじゃなかろうねえ。」
お婆さんの驚く様子を見てしめしめとニヤつくお爺さん。
「どうだい婆さん、驚いたかの?いつもより帰りが遅いからの、たまには儂が晩飯の準備でもと思ったんじゃよ。ふぉっふぉっふぉ! ゴホッ!ゴホッ!」
余りにも勢い良く笑ったお爺さんは咳き込み、持病の咳喘息の発作が出てしまい数分の間苦しそうにジタバタとしていた。しばらくの後、咳が落ち着き息が整うと、お爺さんはお婆さんに問いかけた。
「それより婆さんや、今日はなんで帰りが遅かったんじゃ?よその奥さんがたとでも話し込んでいたのかい?」
そのお爺さんの問いかけに、ハッとした表情を浮かべ、お婆さんが口を開いた。
「話し込んでいた、と言ってもいいのじゃろうか……、」
「実は川で洗濯をしていたら、近くで洗濯していた奥さんがたの話が聞こえてのう。その話によると、どうやら昨晩おかしな叫び声が山の上から聞こえたようなんじゃよ。」
「ほうほう。で……?」
興味深げに話しの続きを促す好奇心旺盛なお爺さん。
「まあまあ、そう焦んなさらないでくださいよ、お爺さん。」
「それでの、その話の続きなんじゃが……。その声というのが実に奇妙で、動物のものではなく人の声だったというのは間違いないようなんじゃが、なんというかこう、儂らが話している言葉とは違う妙な抑揚があったようなんじゃよ。」
「それは妙な話じゃのう。昨晩は雨も降っていたし、夜中にわざわざ山の上に行こうなんて変わり者もそうそうおらんじゃろ。婆さんや、恐らくそれは猩々の類じゃよ。婆さんも小さい頃に親から聞かされたことがあるじゃろ。遅くまで起きていると猩々が怒って山の上から石を投げてくるぞっ、てな。」
お婆さんはお爺さんの話にどこか納得いかない様子で、沸騰する鍋を火から下ろした。
「爺さんや、幼子を脅かすようなそんな昔話を引き合いに出さないでくださいな。近頃は鬼の手下がどこそこの街を襲った、なんて話も頻繁に聞くんですからね。情報を持たざることがどれ程愚かしく危険なことだか知らないといけませんよ。」
お爺さんはお婆さんの腹を立てた表情を見て、いかにもしまった!といった表情を浮かべ、直後、お婆さんの機嫌を取るように、よっ!洗い場の情報通!などとおだてたが、その努力も虚しく、お婆さんは木の器に味噌汁を盛り一人で黙々と食事を始めたのであった。