始まり-The Beginning-
「あ、あ、赤点だぁ〜!!!」
後ろの彼女は脚をバタつかせ、俺の椅子を何度も蹴った。
「なんだよ氷室、まさか赤点か? ったく、こんな基本問題くらいできなきゃダメだろ……」
「うん……糸瀬くんは何点なの?」
「99点。あと1点欲しかった。」
「いい悩みだねぇ……私なんて一点ぽっち上がったところで赤点を抜け出すにはその400倍くらい必要だよ?」
上目遣いで覗き込まれ、少しドキッとしてしまった。
「400倍って……」
もはや救いようがない。
「さっき先生が言ってたが赤点者は月曜日の放課後に再テストだってよ。これで点取らないと最悪退学だってさ。」
少し追い討ちをかけてみる。
「うぅ……。そうだ!ねぇねぇ、糸瀬くん。このあと時間空いてる?」
先ほどから一転して、不敵な笑みを浮かべたこの女は覗き込むような姿勢のまま尋ねてきた。
「まぁ空いてるけど……」
「よし決まり!私の家でお勉強!」
明るい笑顔になり、荷物をてきぱきと片付け始める。
「はぁ……」
しまった。口が滑った。特にやることもなかったが、塾とでも言っておけばよかった。
「それじゃ、行こっ!」
片付け終わったのか、先ほどとは大違いのテンションで手を引いて来る。まるで彼女に振り回される彼氏のようだと思ったが、慌ててその思考を振り払う。
「誰か……助けてくれ……」
気づかぬうちに声に漏れてしまったようだ。だが幸い氷室には聞こえていない。これから何をさせられるのだろうか、手を引かれながらそればかりを考えていた。
「ふえぇ……」
情けない声で、ぼーっとしていた意識が引き戻された。そうだ、勉強を教えに連れてこられたんだ。
「まずはこれを覚えるんだ。」
そう言って俺は科学社会テキストの左上を指差した。これは一昨年から新設された科学社会という教科だ。科学に関連した社会情勢、即ち社会と科学が同化してしまった分野に関する部分だ。正直いらないと思う。
「う〜。わかんないよぉ〜」
「カッコ1の答えはSEPO。カッコ2はカタリスト社だよ。」
「なにそれ?」
「知らないのか?SPBの販売会社だぞ?」
「うん、知らない、てかSPBってなに?」
「まずそこからか……。いいか?SPBってのは、脊髄埋め込み型小型BMIって名前で、Spinal Cord BMIの略で、ちっちゃいチップみたいなヤツ。これは四角2のカッコ1の答えだな。氷室も入ってるだろ?」
「うん、まぁ。でも、入れたのはちっちゃい頃だったらしいからよくわからない。SPBってなんなの?インターネットをノーハンドで観れるのは知ってるけど、それ以外に何かあるの?」
無理のない話だ。なんせ俺自身もこの装置はよくわかってない。教科書の解説だけでは無理があるのだ。高校でやる内容じゃない。
「よくわかんないけど、記憶容量が増えてるらしい。実感ないけどな。脊髄に埋め込んで、脳神経と人工神経をつないで、外部装置と無線接続してるんだって。運動神経を良くしたり計算を早くしたりもできるとかなんとか。」
「うへぇ、気持ち悪い。」
「だよな。ていうか明日再テストだろ?覚えないとマズくないか?」
「うん、頑張る!」
氷室は小さくガッツポーズをとった。
「おう。そのいきだ。」
「なんか問題出して!」
「そう言われてもなぁ。そうだ、SEPOとカタリスト社の契約金を述べよ!」
「もうちょっと簡単な問題にしてよ……」
少し難しかったようだ。
「それじゃあ、SPBの開発者は誰?ニュースで話題になってるだろ?」
「わかんないよぉぉ」
泣き始めた。
「うわぁ泣くな泣くな。罪悪感やばいんだから。」
それでも彼女は泣き続け、俺の腹部に顔を埋めた。
「うお!やめろやめろ!」
引き剥がそうとするが頑なに離れようとしない。
「うぅ、ぐすん」
生暖かい涙と鼻水が気持ち悪い。
もうほっとくか。
俺は彼女の乗ったまま大の字に寝転がる。
こんなんでいいのだろうか。それよりもココってこいつの家だよな、一軒家だよな、大丈夫なのだろうか。
改めて辺りを見回すが、独り暮らしのようだ。不安は不要だった。
「疲れたなぁ」
そういえば、コイツの家族って会ったことがなかったことを思い出す。高校生で一人暮らしは今時珍しくもないが、離れたくないという親も多いらしいのだ。
今度、挨拶だけでもしとかないとな。
俺はそっと目を閉じた。
「お、重い、どいてくれっ!う、顔近い顔近い」
息苦しさと鼻腔をくすぐるシャンプーの香りに目を覚ました。ピンクの可愛らしい時計は朝7時を指している。
俺の上には氷室がうつ伏せに倒れ込んでいた。
「ん?ちょっと?女の子に重いはないんじゃない?」
ぷくっと頬を膨らませる。
「ごめんごめん」
「まったく!起きるの遅いし酷いこと言うし。」
「ご、ごめん」
「……」
「……」
「きゃあっ!」
短く叫んだかと思うと彼女は跳ね飛んだ
「ぐぼふ!」
蹴られた衝撃で吐き気がこみ上げる。
「かっかかかか顔近い!」
「反応遅い…それと腹を…蹴るな…」
吐き気に耐えつつ答える。理不尽だ。
「ごめんね?」
上目遣いで覗き込まれる。
あれ、意外と可愛いーー。
ダメだダメだ、こんなアホに惚れてどうする。心を落ち着けるんだ。慌てるな、平静を保て。
「まったく。まず、起きるの遅いのは氷室が勉強教えてって来たからだろ?それに、起きてたんならなんでどかなかったんだよ。」
「そっ、それは……」
彼女の顔がみるみる赤く染まってゆく。
意外と可愛い一面もあるじゃねぇか。頭も良ければいいんだけどな…
「ち、ちょっと!あんまりこっち見ないで!」
しまった、思わず見つめてしまった。
ふざけているのか本気なのかわからなかったが、俺は慌てて視線をそらす。
「そういや今日は土曜日なんだな。平日かと思ってドキッとしたよ」
平静を装いつつ、適当な話題を振る。
「あ、そっか今日は土曜日か!」
「今気付いたのか?」
「うん」
彼女は照れ臭そうに笑う。
「暇だし、どこか行かない?」
「勉強しなきゃダメだろ」
「やっぱり忘れてなかったかぁ…」
当たり前だ。実際ああも泣かれては忘れようにも忘れられない。
「まあ、テスト範囲って言っても、実際設けられたばかりの科目だしね。それにまだ授業自体もまだ3時間しかやってないだろ?」
「うん……」
「そしたら、覚えるべき基礎知識は昨日ので十分。」
また泣かれても嫌なのでフォローに徹することにした。
「じゃあなんで私は点が取れなかったの?」
「範囲が狭くて問題が少なくなるじゃん?ってことは、一問一問の配点がデカいんだよ。で、お前は授業中寝てたわけだ。」
「つまり…?」
「普通に授業受けていれば解けたはず。今更だけど他の科目はどれくらいなんだ?」
「赤点ギリギリだったけど大丈夫だった。」
「そうか、よかっ……よくはないな。お前の勉強全般に言えることだけど、まず勉強方法に問題がある。」
「うーん、自覚ないんだけどなぁ……」
本当に自覚がないようだ。仕方ない、悪い点を教えてやろう。
「とにかく、がむしゃらに問題を解くのをやめろ。一夜漬けは効果ないぞ?それと、ノートを綺麗に書きすぎ……」
ーピンポーンー
話の途中にインターホンが鳴りやがった。空気の読めないヤツもいるもんだ。
「ん?誰?」
「誰だ全く」
勉強の邪魔をされた。少しムカつくが、平静を装ってドアを開ける。
「グーテンタァァァァァク‼︎‼︎男女朝から同じ部屋にいるとはとはどういう状況だねこれは‼︎HAHAHAHA‼︎」
男とは思えない甲高い声だ。更に、長髪な上に全体的に細長い体であることが相まって、逆光では完全に女だ。口調や質問内容は男のそれだが。
「あの、そういう関係じゃ」
「朝っぱらから生徒の家に何しにきたんですか理事長。私たち学生は勉強で忙しいのですが。出来ることなら邪魔しないでいただきたいです。」
氷室の話を遮って話す。よりによってこいつとは、運も尽きたか。口調は失礼だとは思ったが、この理事長はその程度気に留めない。
会話するとムカつくもん、いいよね。
「いやー休日も勉学に励むとは実に優秀な生徒だ。そんな優秀な糸瀬くんにお誘いがあるのだが、ここではなんだ。近所のカフェにでも行こうか。いいコーヒーを出す行きつけのカフェがある。」
「理事長様のお誘いとあらば、断ればさぞ酷い目に遭うのでしょうね。」
「そんなに身構えることはないよ。ただ、すこし君に話したいことがあってね。他人に聞かれるわけにもいかないんだ。少し来てくれるかな?」
断れないオーラが漂っている。断れるわけがない。学校の最高責任者がわざわざ自分の元にまで来たのだ。
「もちろん喜んで行きますよ」
これが最善の回答だろう。
「ではそういうことだ氷室君。すこし彼を借りる。キミは勉学に励んでくれ給え。期待しているよ?」
そういうと国立総合科学第二高等学校理事長とかいう長ったらしい肩書きをもつ彼、香月は、早足でカフェへと歩みを進めていった。
「話とは一体どのような内容で?」
「なんども言うが、身構える必要はないよ。少なくとも君の成績を評価してのことだ。」
幸い怒られるわけではないようだ。でもそれもそうだ。この人が怒るとこなんて見たこともないし想像もつかない。
「カフェってまさか…」
向かう先に見えてきた建物を見て思わず口に出してしまった。
「そうだ、あそこのカフェだ」
「メイドカフェですねあれは」
まさかこの人にこんな趣味があったとは。
「いやー、メイドカフェはいいね。実際のメイドにはない仕草や愛嬌がある。雇ってみるとわかるけど、あの子達意外と毒舌で傷つくんだよね。」
苦笑いしかできない。後半はすこし哀れに思ったが、理事長のことだ。冗談に決まっている。
「お帰りなさいませご主人様」
お決まりの挨拶だ。特に何も思わずそのまま促されるままに席に座る。そういえば理事長はなぜメイドカフェでコーヒーなのだろうか。
「実はここのオーナーと知り合いでね。なかなかいい豆を仕入れているらしいんだ。売れ行きは微妙らしいけど、拘りなんだって胸張って威張ってたよ」
「それはお気の毒ですね。」
「ブラックコーヒーを二つ」
注文は紳士なんだが、周囲の状況とのギャップがひどい。
「かしこまりました。」
先ほど案内してくれたメイドが答える。思わず惚れそうになる笑顔だが、この子らも金を貰ってやっていることを忘れてはいけない。
「では早速、本題に入ろう。まず、君はなぜこの高校が第二高校で、第一高校がないのか疑問に思ったことはないかい?」
「いえ、何度かありますが噂ばかりでいい情報はなかったです。」
「その噂とやらは把握していないのだが、どんな内容なんだい?」
「UMAに食われたとか、危険実験をやって国に消されたとか、酷いものでは魔界に飛ばされたなんてのもありますね。」
「なかなか面白い推測をするね。凄くおしいのがある。」
「どれがおしいのです?全て現実的にあり得ないと思うのですが。」
「二つ目と三つ目だ。あそこの学校、並行世界とやらに丸ごと吹っ飛んじゃったんだよね。」
「吹っ飛んだ?生徒や先生はどうなったんですか⁉︎」
「そこが大変だった。産まれた時にDNA提供が義務付けられてて、SPBの埋め込み手術をする場合は費用の補助が受けられるでしょ?幸い、そこの生徒先生はこれをやってたんだ。DNAでクローンを作り、SPBから外部記憶装置に保存されていた記憶や経験をコピーしたのさ。これで何事もなかったかの様に繕い、消えた学校は廃校ってことになって夜中に周辺の整地がなされた。少々無理があったけど、親御さんは納得してくれたよ。」
「うっ…。とても人間の所業とは思えませんね。貴方がこれを考案したんですか?」
こんなやり方は人間ではない。クズだ。嫌悪感しかない。だがこれ以外に手段がなかったのも事実なのだろう。
「いくら私とてこんな外道なやり方は考えられないよ。それに当時はこんなに地位にはいなかった。全て上からの指示だ。全く日本政府は人外の集まりだね。」
「実行したあんたも十分外道ですよ。でもなんで並行世界に吹っ飛んだってわかったんですか?」
「キミは話がわかってくれてとても助かる。簡単に言えば、並行世界がこの世界に掠めたんだ。その時の接点に、“ちょうどその学校があったんだ”。ほんとに偶然なんだろうけど、とても偶然とは思えないね。」
妙に強調されていた部分があった。気になるが、聞いたところで流されて終わりだろう。
「それで、私が呼ばれた理由は?」
「お、ズバズバ切り込んでくるね。そういう姿勢好きだよ」
「呼ばれた理由を教えてください」
まったくこの男も饒舌だ。
「わかったよ。まず、単刀直入にカッコよく言うと、国家機密の部隊へのオファーだ。」
「こんなところで話してもいいんですか?」
「いいんだよ。どうせ誰も聞いちゃいない。それでだね、衝突の時の分析で、また再び衝突するらしいことがわかった。世界中は藁にもすがる思いで様々な新組織を設立した。そこで、日本も世界に便乗して対特殊事件組織っていう組織(爆)を設立したんだ。そしてそこの指揮官(笑)に私が選ばれたわけだ。どうだ?来る気にはならないかね?」
この男はどうやらこの国が相当お嫌いなようである。
「整理がついていないんですが、国家機密とやらを聞いてしまっているからには間違いなく後には引かせてもらえないんでしょうね。」
「うん。もちろん聞いた以上、協力はしてもらう。でも、入隊は任意だよ。こればっかりは生きるか死ぬかになりそうだからね。」
「でもそんなに危険なら、勝手にクローンでもなんでも作って使えばいいじゃないですか。どうして俺のところに?」
思った質問をそのままぶつけてみる。ひどく上機嫌なのできっと答えてくれるだろう。
「それはだね糸瀬くん。もうすでにカタリストのとこの研究グループがキミのクローンを作ったんだ。」
驚きが顔に出てしまった気がしたが、気づいていない様だ。ホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、新たな驚きとさらなる嫌悪感に襲われた。
「そしたら酷い有様だったよ。君のその身体能力と知能は遺伝子の欠陥の様なものだからね。一般人に比べるととても再現が難しい。つまり、障がいを持って誕生してしまったんだ。一応その子らも行政の保育所で預かってもらっているが、どうなるかはわからない。」
「あなたはやはり人間の精神とは大きくかけ離れている様に見えるのですが……。」
「私は異端児と呼ばれていたからね!そんなことを言われても傷つかないよ。むしろ褒め言葉だ。残念だったねHAHAHA‼︎」
どこか誇らしげだが、少し憐れでもある。まったくこんな人間が国家機密機関のトップとは、日本も終わりかもしれない。
「それで、どんな活動をするのでしょう。」
「名前のまんまだよ。警察や公安の手に負えない、馬鹿でかい事件やらなんやらが起きるかもしれないって言うんで、一応の対策として設置されてるわけだしね。」
「協力しなければどうなるんですか。」
「意欲があってよろしい。協力しなければ、キミの脳みそだけ交換して、肉体だけを頂くよ。私は大事な生徒の脳みそを引っこ抜くなんて仕事はしたくないんだけどね。まぁもっとも協力といっても、入隊と余り変わらないような気もするけど、上も気まぐれだから(笑)」
「入隊と協力の違いは?」
「お金が貰えるかもらえないか。それと、キミの身の安全。入隊しちゃえばメンバーもいるし、実際は入隊の方がメリット大きいよ。まぁもっとも、キミの選択肢は2つしかないんだから、メリットの大きい方を選ぶだろうけど。」
まんまと乗せられた。してやられた。
「仕方ないですね。仮入隊と言うことでどうでしょうか?まだ整理もつきませんし、しばらく時間をください。」
「信用してくれて嬉しいよ。それじゃあ、詳しいことはそのうち何らかの手段で伝えるよ。キミは彼女さんとお勉強していたんだったね。邪魔してすまなかった。もう戻ってくれていいよ。お代は払っておく。」
「それはありがとうございます。あと彼女じゃないです。腐れ縁です。」
「そうなのかい?やけに仲が良さそうだったが…?」
「生徒のプライベートですよ。」
そう言い残して店を後にした。アイツに勉強を教えなくてはならない。今はそれが一番の問題だ。