30話
ガサガサと周囲の木々が揺れる。
風はない。枝を揺らし幹をゆるがす重量感は、明らかに生物のものだ。
木々に潜む生物。
そいつらはもう隠れる必要はないとばかりのその姿をあらわにした。
人間の、兵士。
敵はネクロマンサーに一矢を放つためだけの、暗殺者ではなく――
――軍隊だった。
尾行はされていない――葉の隙間から現れたのは、こっそりとあとをつけられる数ではない。
だとすれば考えられるのは――
「……最初から、伏せていたのか」
彼の声からは力が抜けていた。
だってあまりにも状況が絶望的すぎて、つい呆然としてしまう。
最初から伏せていた。
ああ、思い返せば思い返すほど当然の帰結――ネクロマンサーを賭けた戦いだというのにあまりに手応えのない人間の軍勢。大して増員されていなかった兵士。普通に戦っても楽勝だったであろう一騎打ち。
そのすべてが『人間は戦争に力を入れていない』という結論に結びついている。
それは、わかっていた。
わかっていたのに。
「不思議に思うだけで、『その先』まで考えられなかった……!」
彼は自分で自分を殺してやりたいような気持ちだった。
『戦争に力を入れていない』ことが明らかで、『その戦争には力を入れるべき』ことも明らかだったならば、なぜその先の『人間の狙い』を見出せなかった?
都合良く考えていた。
兵士数に増員がなかったのは、昨日の今日だから伝令が間に合わなかっただけで――
集団戦で被害を抑えたのはネクロマンサーが相手にわたった時に備え、どうせ勝負のつけられない集団戦を捨てたということで――
一騎打ちで『最弱』とされるベラが出てきたのは、本当に人気投票の結果だと。
並べるとこうまで不自然なのに、『そうだったらいいな』と『そうだ』を混同した。
願望と現実をはき違えたその結果が、ここだ。
そもそも最初から詰めるべき部分が詰められていなかったじゃないか。
ネクロマンサー受け渡しのタイミングだって、決着直後とは誰も言っていない。
それを決着直後に、向こう側が復活の儀式さえせずに、おとなしくわたしてきたことから、相手がこちらの油断を誘っていると判断できたはずなのに――
「――俺でなければ」
戦争を知らない自分でなければ。
戦いなんて人生で一度だって考えたことのなかった、自分でさえなければ。
殺し合いの重さ、種の存続を懸けた戦いというものを、もっとリアルに考えられる、自分ではない誰かであれば――
そこに姉は倒れていなかったはずだ。
伏兵の矢に射られて、姉は殺されなかったはずだ。
自分に対する怒りで、体が燃えたぎるようだ。
真っ黒な甲殻で覆われた体は、実際に熱を発している。
――これ以上は許されない。
これだってもう、許されない。
二度も姉を死なせた。
許されないなら――なかったことにする。
そうだ、今この場所こそが『死のない戦の最前線』。
彼が立つのは『死』と『不死』の境。
敗北すれば死のある戦が始まる。
勝利すれば――死のない戦が続く。
是非はわからない。
倫理はどうだ。道徳はどうだ。
わからない。彼に結論は出せない。
死ぬのはいけないことだが、死に続けるのはいいことなのか。
この死のない戦は、未来、どのように判断されるのか。
死のない戦が続く影響はどう出るのか。
ひょっとしたら世界は、とんでもない問題を抱え込まされているんじゃないか――
わからない。
けれど――
「もう、姉ちゃんは死なせない」
――倫理道徳影響常識人道平和安寧未来。
全部大事だ。
でも、それより姉の命が大事だ。
だから彼はすでに死んでしまった姉の生命を守るため、肉体に搭載されたすべての感覚器で周囲の状態を捉える。
すべては、もう一人のネクロマンサーを守るために。
彼が展開したものは、視覚であり触覚であり嗅覚であり皮膚感覚であり、あるいは風にふくまれる微細なヒトの成分をとらえる味覚であった。
第六感と呼ぶしかないものもあったし、熱源探知の機能――ピット器官のようなものさえあって、おまけに目は複眼で嗅覚は感情の機微までとらえ限度まで感覚を上げた皮膚は硬質な素材であるはずなのにわずかに流れる空気でさえ神経ごと削られているかのように過敏に感じる。
無意識にセーブしていた機能。
姉の用意した肉体の本気――だがこれは、彼が人間の常識に縛られているうちはセーブしておいてしかるべき機能であると思い知った。
こんな感覚、人間の意識には耐えきれない。
「……!」
声さえ出ない。
思わず膝をつきそうになる。
脳に絶え間なく入り込む多すぎる情報はたやすく頭をパンクさせる。
感じすぎて思考をする余地がない。自意識は拡散し自然と合一し、自分がただ周辺を感じ取るだけのナニカになってしまったようだった。
それでも感知能力は落とせない。
もう一人のネクロマンサー。
クレール。
お人形みたいな女の子。
か弱いただの人間。
彼女がいなければ、姉は死んだままだ。
彼女こそが今、彼にとって一番大事で――おそらく敵にとって、一番殺したい相手だ。
たった一矢であっけなく死ぬであろう彼女を守らなければならないのだから、矢の一つどころか、針の一本でさえ感じ取り対応しなければならない。
だから彼は、考えるのをやめる。
単純な話だ。脳の処理は情報収集で手一杯で、あとは体を動かすぐらいしかできそうもない。
人間らしいことなんか、考えている余裕がない。
だから彼は、人間らしさを捨て去り――
たった一つ。
『守れ』とそれだけ自分に言い聞かせて、意識を閉ざす。
「―――――――」
彼の体が咆える。
大型の獣のように、あるいは虫が強く羽根を震わすように。怪鳥を思わせる甲高さに、ぼこぼこと粘性のなにかが沸騰するような音も混じる。
この世にあってはならぬ声を上げ――
『人格』という楔を解かれて、一つの体につなぎ合わされたモンスターの王たちが力を解放する。