2話
「わたしがこーちゃんをこの世界に召喚したの」
と、姉は言う。
ガラスケース越しの会話だった――いや、目の前にある透明で硬質な薄い膜はたしかにガラスに見えたけれど、ひょっとしたらガラスではないのかもしれない。
なにせ――
「ここは『異世界』で、モンスターさんとかがいるんだよ」
――ということらしい。
いや、どういうことなのかよくわからなかったが、事実はどうでもよかった。
現実だろうが非現実だろうが。
異世界だろうが現実世界だろうが。
あの世だろうがこの世だろうが――
「……姉ちゃんは変わってないな」
――たとえ触れれば消えるうたかたのような世界であったとしても。
一瞬だけでも姉に会えたというのは、なかなか粋なサービスだなと彼は思った。
「こーちゃんはなんか、声が変わったね? 魂がおじさんみたい」
姉が首をかしげる。
彼は薄く笑う。
「おじさん……に、なったのかなあ。俺さ、ねーちゃんが死んでから、もう十年も二十年も生きてるんだ。もう、姉ちゃんの歳はとっくに追い抜いちゃったよ」
「ええ!? そうなの!? だってわたし、この世界に来たの去年ぐらいだよ!?」
「そうなのか……」
「うん。そのあいだに、召喚術とか降霊術とかー、いっぱい魔法の勉強して、今のお姉ちゃんはすごく有名な魔法使いなんだよ! 天才!」
「そうなのか……」
姉の容姿は小学五年生当時のものである。
あれから一年経っているとしても、まだまだ子供だ。
その顔で『魔法使い』とか言われると、なんともほほえましい。
「にしても、よく俺が俺だってわかったね?」
「うん。自信あったよ! こーちゃんが死んだらその肉体に宿るように色々がんばったからね! 召喚術ってなかなか成功しないんだよ! 召喚者と被召喚者のあいだに強い魂の結びつきがないとね」
「えーっと……色々気になるけど、まずは――『その肉体』?」
「あ、そうだ! 久々に会えたのが嬉しくって忘れてたけど、今、出してあげるね」
「うん。このガラスケースみたいなの、なんなの?」
「暴走したら危ないから安全装置だよー」
なんでもないことみたいに言いながら、姉は装置と装置のあいだを行ったり来たり、操作をしたりしなかったりする。
軽快な機械音や、電車のドアが減圧する時みたいな『プシュウ』という音が断続的に鳴る。
「……待って姉ちゃん、『暴走』ってなに?」
彼は作業中の姉に問いかける。
姉は杖で地面によくわからない模様を描きながら――
「ん? 暴走は暴走だよ? えーっと……意図せず暴れること?」
「暴走っていう言葉の意味じゃなくって――」
彼は、自分の体を見下ろす。
それからすぐに視線を姉へ戻した。
……なんか。
見えてはいけない形状が目に映った気がしたのだ。
「――あの、姉ちゃんが俺を召喚したって言ってたけどさ」
「うん」
「俺は、死んだんだよね?」
「うん。死ぬ前に召喚したら、お父さんとかお母さん悲しむからね!」
「じゃあ俺は死体なの?」
「うーん……」
姉はそこで口ごもった。
隠しているというよりも、表現を探しているという感じだ。
「…………死体だけど、死体じゃない?」
「いや、意味がわからないんだけど」
「待って待って。今出しちゃうから。そしたら鏡で見せてあげる! わたしの自信作!」
不穏なワードしか出ていない気がした。
だんだん自分の姿を確認するのが怖くなってくる――というかもう怖いので、意図して体を見下ろさないよう気をつけたり、手足が視界に入っても無視するようつとめている。
なんというか。
一見して――人間っぽくない手足のような気がしてならないのだ。
「うーん……呪文は、えっと……『深淵なる闇へ封じられし王の遺骸よ――』」
呪文が不穏すぎた。
姉はその後も『彼の肉は災いそのもの』とか『彼の目覚めは世界の終焉を告げる』とか物騒な単語山盛りの呪文を唱え――
「『死霊術士の名においてその肉体を解き放たん』」
「待って姉ちゃん! 今『ネクロマンサー』とか聞こえたんだけど!」
「待ってこーちゃん! 今、呪文がいいところだから! えーっと、『肉よ価値なき器となりて、内に入りし魂に従属せよ。この行いは背理である。我は神に背く者――』」
「姉ちゃん! 姉ちゃん! その呪文明らかに闇属性なんだけど大丈夫!?」
「こーちゃん、しー! しー! 『――契約を。彼の肉は十三種族の王、彼の魂は忌むべき者を縛る新たなる枷。動き出せ我が奴隷よ。我は死を統べる女王なり』」
「姉ちゃん、『死を統べる女王』とか聞こえたんだけど! 俺の知ってる姉ちゃんは『死』とか統べてなかったよ!?」
「最近統べたの! ふう、はい。これでおしまい。もー、ダメでしょこーちゃん! 呪文の最中に邪魔したら危ないんだからね!」
「いや、呪文自体がだいぶ危ない感じだったんだけど……」
「あ、気をつけて。今、開くから」
姉が言うと――
プシュウ、と減圧のような音が響き、ガラスケースのようなものが後ろ側へ開いた。
彼は動くガラスケースに顔をぶつけそうになったので、ちょっとかがむ。
そうして視線を前に向けると――
「はい、鏡」
無慈悲にも、姉が(たぶん)魔法により、空中に大きな水鏡を出現させていた。
そこで、彼は己の姿をついに直視してしまう。
全身は真っ黒だ――服が、とかではない。皮膚自体が真っ黒で、そもそもそれは皮膚ではなくウロコのような質感の、硬質そうなナニカだった。
頭には角が生えている。
ねじくれた、これもまた黒い、角だ――それがこめかみのあたりから左右に突き出ていて、鉱石のように黒く輝いていた。
顔はトカゲを連想させる。
また、背中には三対の翼が生えている。
翼はコウモリのようだったが、全身のウロコといい、コウモリよりはドラゴンなのかなと彼は想像した。
肘先には刃のように鋭いトゲが伸びており、それはどうやら意思一つで肘に収納が可能なようだった。
手足の爪も同様であり、どう考えても日常生活を送るのには不便そうな仕掛けとしか思えない。
腰の後ろには太い尻尾がある。
やっぱり体のメインはドラゴンらしいのだけれど、ところどころに悪魔を思わせる特徴もあり、ようするに――
「姉ちゃん、俺、化け物になってない?」
彼は問いかける。
姉は真剣な顔で親指を立てて、言う。
「カッコイイよ!」
「カッコイイ……?」
「カッコイイ!」
カッコイイ。