19話
ゆらゆら。
ふわふわ。
流れていく流れていく景色が流れていく。
血が流れていく死体が流れていく人が右から左へ左から右へあっちこっちせわしなくながれていく。
景色はひどくゆらゆらしていて、震動のせいで頭はふわふわしていた。
羽化を夢見るイモムシはアリに捕われ戦場にいる。
気分はまるでお姫様。
だからきっと、いつか王子様が来るんだろうと思っている。
成虫になりたかっただけだ。
成虫になるのは素敵なことだと思っていただけだ。
いや、知ってはいた。
成虫になるには夢も希望もない現実が立ちふさがっていて、それをどうにかしない限り叶わない夢で、でも現実が嫌いで嫌いで大嫌いで触りたくも見たくもかじりたくもなかった。
まわりがみんな大人になっていく。
その中で子供であり続けた。
いつか、きっと。
素敵な『なにか』が自分を大人にしてくれるのだと、無邪気に信じていた。
もむもむと葉っぱをかじりながら『なにか』をずっと待っていた。
『なにか』がなにかはわからない。それは素敵な男性かもしれなかったし、なにか大きな事件かもしれなかったし、もしくは想像もつかないキラキラしたものかもしれなかった。
とにかくキレイであることは間違いなかった。
だって大人になるのは素敵なことだ。
素敵なことをもたらすのは、きっと素敵なものに違いないはずだから。
だからイモムシは目をふさぎたかった。
土煙だらけの景色。
死体と血の池。
こわいひとたちが、こわいものをふりまわして、戦っている。
だからイモムシは耳をふさぎたかった。
怒号と悲鳴。
金属のこすれるイヤな音。
自分を運ぶアリたちのかけ声と、数十万人が踏みならす足音。
でも、イモムシには目や耳をふさぐ手がなかった。
幼虫はこんなにも無力で、葉っぱをもむもむかじるしかできない。
人間を殺せなんて無理難題だ。
みんなはどうしていたのだろう。
このイモムシは、同じ幼虫が大人になるために人間を殺すのを見たことがない。
避けてきたから。
大人になるのは素敵なことだけれど、みんなが大人になるためにしてきたことは、ちっとも素敵に思えなかった。
だから、腕はないのに耳をふさいだ。
目隠しもできないのに、見ないことにした。
素敵な大人になりたかったけれど、大人にはなりたくなかった。
子供から大人になる過程にあるのは汚くて醜くて、グロテスクなことのようにしか思えなかったから。
「あああああああ……! 楽したい……! もっと楽に大人になりたいのにいいい……!」
イモムシには嘆くしかできなかった。
アリたちはどこに向かっているんだろう。イモムシにはわからない。
でも、アリたちは命令に忠実な人種だ。
だからコーチャンが『なるべくここから遠ざけて』と言ったから、きっと彼らは走り疲れて足が全部破裂してなくなるまで、さっきの場所から遠くを目指すのだろう。
「命令をするなら具体的にしてくださいい……!」
イモムシは嘆く。
のたのたと動くけれどアリたちの力は強く、逃れることはできそうもなかった。
絶望感の中――
不意に、アリたちの足が止まる。
急な停止だった。
そのせいで、イモムシは投げ出され、地面を二回ほどバウンドした。
「ううう……! 痛い……! イモムシ悪いことしましたか……? イモムシだからですか……?」
答えはない。
アリたちはイモムシに背を向け――槍を構えて、誰かと向かい合っている。
「アリさんたち……?」
イモムシが這う。
視点が低いので、アリがなにに対して槍を構えているかがわからなかった。
――けれど、見るまでもなく気付いてよかったはずだ。
戦場で槍の穂先を向ける相手なんて、敵に決まっているのだから。
イモムシが見たのは、武装した人間の集団だった。
彼らはアリとイモムシの行く手をふさぐように立ちはだかり、盾と槍をかまえていた。
つまり、隊列を組んでいるのである――緒戦でもないのに。
それにしても、なぜこんな、待ち構えていたかのように人間が?
その答えは、人間側からもたらされた。
「あのイモムシが、向こうの『起源種』の弱点だ! 捕まえて我らの英雄に差し出せ!」
馬に乗った軽装の人間が叫んでいた。
でも、イモムシはまだなんにもわからない。
起源種の弱点?
向こうが起源種と呼んでいる相手がコーチャンであることはわかる――彼が『なに』かは知らないが、たしかに一点モノのモンスター……起源種に見えるだろう。
だが、弱点とは?
自分みたいなイモムシを捕まえたところで、なにができるというのか――
「英雄ベラのところでの会話を聞いてたヤツみてえだな」
アリがしゃべる。
そいつは綺麗な右目に傷のある、妙に強そうな黒アリだった。
「イモムシ、悪いがオレらはここでアイツらを止めなきゃならん。ちょうどいい。お前もここで大人になりな」
「え? で、でも、なんでイモムシが狙われているのでしょうか……? こんな価値のないダメイモムシなんか、狙ったって……」
「そりゃあ、コーチャンがあんたを大事そうに扱うからだろ」
「……」
「なんで大事かはオレらにもさっぱりわからんが、アンタは今、あの人の弱点になりうる。だから狙われてるんだ」
「え、で、でも、コーチャンさんは別に、イモムシのことなんか、どうでもいいんじゃ……」
「どうでもいい相手を逃がすために、英雄の矢面に立つかよ」
「……」
「重ね重ねオレらにはさっぱり理由がわからんが、とにかく、あんたを大人にすることは、あの人にとって、英雄と向かい合うぐらいに大事なことなんだろ」
「……でも、イモムシにそんな価値は……」
「ハッ、あんたの自己評価なんか知るかよ」
「……」
「自分に価値がねえと思うんなら、自己評価をわざわざ語るな。オレらにとっちゃあ、英雄と渡り合える戦力であるコーチャンが、あんたを大事にしてるっていう事実だけで充分だ」
「でも……」
「『でも』じゃねえ。黙ってろ」
「……」
「いいじゃねえか、なんかの勘違いでも。……価値がねえなら、オレもそうだよ。英雄と戦ったら、オレらみてえな雑魚は跡形も残らねえ。足止めにさえならない、戦力外のその他大勢さ」
「でも……」
「黙って聞け。……こんな雑魚でもさあ、英雄と戦う人の力になれるんだ。あんたを守るっていう行動で、英雄と戦えるんだ」
「……」
「勘違いなら勘違いさせといてくれよ。せっかく盛り上がってるところなのに、盛り下がるじゃねえか。命懸けで子供を守れる! そうすれば英雄と戦うあの人の力になれる! ――ここが格好のつけどころだ」
「……アリさん」
「羽ばたけよ、イモムシ。毎日懸けてる安い命だが、今日はいい値がつきそうだ。お前の羽化でオレらの命の価値をあげてくれよ。オレらに最高の『死』をくれよ!」
右目に傷のある黒アリは笑う。
イモムシは気付いた。
――この虫たちは、満足して死にたいだけなんだ。
コーチャンだってきっと、命懸けでイモムシをかばう理由なんかないに違いない。
聞けばなにかは答えるだろうけれど、それはきっとそう大したことでもないだろう――『なんとなく』『そういう流れだから』の違った言い回し以上にはならないはずだ。
だからきっと、この人たちにとって、詳しい事情も、正確な理由もどうだっていい。
ただ、その場のノリで盛り上がって、『今日は価値のある死に方をしたな』って、あとで笑いたいだけなんだ。
だって――死んでも生き返る。
そういう戦争で、そういう日常だから。
そして。
今日、彼らの命に価値をつける役目に――たまたま、イモムシが選ばれた。
「……」
重すぎて震える。
どうか命を捨てるなら、このイモムシのためじゃなくて、他のことのためにお願いしたい。
でも――ああ、でも、もう無理だ。
心理的に置いてけぼりのイモムシを放置したまま、アリと人間がぶつかり合う。
盾を構えながら槍を持ち駆けてくる人間の戦列。
それにぶつかっていくアリたち。
めきょ、とか、ごしゃ、とか、イヤな音が響く。
アリたちは力持ちで丈夫だけれど、盾と鎧で身を固めた人間たちが連携して突撃してくるとさすがにもたない。
人間側には指揮官がいた。
馬に乗った男だ。
そいつの号令が発せられるたびに人間の集団が動いていく。
それは見ていてぼうっとしてしまうほど美しい動きで、イモムシは自分たちがあっというまに包囲されていく光景をなにも言えずにながめるしかなかった。
「イモムシの成長を邪魔させるな!」
右目に傷のあるアリが叫ぶ。
すると、アリたちは戦いながら、イモムシをかばうように囲った。
十五名による方陣。
一辺を構築するのは六名あるいは七名。
ぺらっぺらの陣形だ。一刺しで破れそうなほど頼りない。
あとはもうただの蹂躙だった。
数で勝る人間は、しかし油断しない。綺麗に隊列を整えて、用心深く盾を構えて、注意深く槍を持って、慎重にアリたちの方陣を包囲していく。
押し潰され始める陣形。
すりつぶされるのを待つだけの時間。
アリたちの真ん中で、イモムシは震える。
息づかいが、足音が、武器のきらめきが、血が、イモムシのまわりをぐるぐる回る。
「アリさん……アリさん……!」
イモムシは泣きそうな声をあげた。
応じる余裕のある者は存在しない。
全身を槍で貫かれ、盾を持った戦列と一人で押し合い、手足を剣ではね飛ばされながら戦うアリたちには、もはやイモムシを顧みる余裕さえない。
方陣の内側にいるイモムシのもとまでは、一兵たりとも侵入してこなかった。
それはアリたちの死闘の成果に他ならない。彼らは命がある限りにおいて万全なる人間兵士を一人たりともイモムシに近寄らせないという完璧なる戦いをしていた。
だが――
全身を槍で貫かれた一人のアリが、ついに動かなくなる。
もとより十五人による防衛線だ。たった一人の脱落は巨大な穴となる。
それでもアリたちは奮戦したが――
どしゃり。
そんな音を立てて、イモムシの目の前に、人間の兵士が倒れこんでくる。
ボロボロで。
血だらけで。
それでも、目は戦意であふれた、人間の兵士。
名も無きただの一兵卒。
しかし無力なイモムシにとっては抗いがたい強大なる敵。
そいつと――
目が合った。
「……ヒッ」
イモムシの呼吸が詰まる。
殺意を宿した瞳というものを、生まれて初めて向けられたのだ。
その人間はほとんど死にかけだった。
それでも――死にかけの人間でも、無抵抗なイモムシを突き殺すぐらいはできる。
人間は槍を杖代わりにして立ち上がる。
吐き出す呼吸には血が混じっていた。左の脇腹には大きな穴が空いている。
戦意はまったく萎えていなかった。その眼光は『お前を必ず殺す』という決意を秘めてイモムシを見ている。
ただの無力なイモムシを。
なんの武装もない、力無い存在を――力いっぱい、殺そうとしているのだ。
――だからイモムシは知ることになる。
自分にも価値はあった。
それは強い人に大事にされているとか、みんなの『死』を価値あるものにできるとか、そういうことではなくって――
――殺さなければ死ぬような状況では、自然と体が抵抗する。
ようするに生物は本能的に知っているのだ。
人の命よりも、自分の命の方が大事だと。
……なぜか、相手の脇腹の大怪我から、視線が外せなくなった。




