10話
「姉ちゃん、俺、夕方に戦ったベラさんのことが忘れられない」
「恋だね!?」
「いや、良心の呵責だよ」
夜。
寝室――広いドーム状の空間に、巨大なベッドがぽつんと一つきりある場所。
真っ白なシーツが敷かれたそこで、角と翼の生えた二メートル超えの真っ黒な爬虫類顔の生き物が、体育座りをしながら震えていた。
人を、殺したのだ。
相手は今ごろ生き返っているような気はするものの、やっぱりその行為には罪悪感が湧くものだった。
当たり前だ。
異世界。
戦争。
ネクロマンサー。
人を殺しても罪の意識を感じないでいい状況はそろっている。
それでも彼の倫理観は、彼自身に殺人を許さなかった。
今さらながらやってしまったことの重さに震える。
自分は未来ある少女の命を奪ったのだ――たぶん今ごろ、生き返っているだろうけれども!
「姉ちゃん、やっぱりこの状況は狂ってるよ……俺、耐えられないよ……」
「元気出してこーちゃん。お姉ちゃんがついてるよ」
同じベッドの上、立ち上がった姉が、頭をなでてくれる。
彼はチラリと横目で姉の顔を見た。
綺麗な女の子だ。
長い黒髪はさらさらで、黒い目は大きくパッチリとしている。
震える弟を気遣う姿は慈愛に満ちていて、一瞬、女神に見える。
着ているものがシャツのみなのは、これから眠ろうとしていたところだからであるものの、妙な背徳感を彼に感じさせた。
だって――どう見ても幼い女の子である。
やはり、姉の年齢はとっくに追い抜いてしまっている。
彼はもう大人だった。
だから相手が姉とはいえ、小学生相当の女の子になぐさめられている図は、人に見られたら社会的制裁をくらいそうなぐらい犯罪的なのだが――
なんだかすごく、自然な感じだった。
姉と話していると、心が勝手に幼稚園児のころに戻りそうになる。
それは危険で、しかし甘美な感覚だった。
――いけない。
彼はなにもかもがどうでもよくなりかけるのを、必死に押しとどめた。
「姉ちゃん、俺はもう幼稚園児じゃないんだ。あんまり子供扱いしないでくれよ」
「わかってるよ! こーちゃんはもうおじさんだもんね!」
「……おじさんではないけど」
おじさんではないけれど。
姉の年齢から見れば、二十代以上はみんな『おじさん』かもしれないなとはちょっと思う。
「でも、お姉ちゃんにとって、こーちゃんはいつまでもかわいい弟のままだよ!」
「うん……ありがとう姉ちゃん……」
「だから気にしないで、眠ろう? 明日になったら、きっと元気になってるよ」
「うん……」
いや。
『うん』じゃない。
「……姉ちゃん、人殺しの十字架は、寝て起きた程度でコロッと忘れていいものじゃないと思うんだ」
「でも生き返ってるよ!」
「生き返っても!」
「みんなやってるよ!」
「やめてよ! 赤信号みんなでわたれば怖くないとか言うけどさ! みんながやろうが、一人でやろうが、いけないことは、いけないことだよ!」
「こーちゃんはまじめでいい子だね」
「いや……いや……そうじゃない……きっとそうじゃない……俺が特別まじめなんじゃない……世界がまるごとふまじめなんだ……」
「こーちゃん、やっちゃったことはしょうがないよ」
「俺を甘やかすのもいい加減にしてくれよ! 心がへたれるだろ!? 必死に自覚してる罪の意識から俺が逃げたらどうするんだよ!」
「でもねこーちゃん」
「なに……?」
「戦争で相手を殺すのは、別に罪じゃないよ?」
「……」
不思議そうな顔で首をかしげる姉を見て――
彼は、やっぱりこの世界は狂っていると再確認した。
「姉ちゃん、正気になってくれよ……頼むよ……」
「でも、やらなきゃやられちゃうし……」
「……そうなんだけどさ」
「一騎打ちで負けて領土をとられたら、大変だし……」
「そうなんだけどさ」
「たった一人、それも生き返る一人を殺すだけで、モンスターさんたち十三種族の多くの暮らしが救われるし……」
「そうなんだろうけどさあ! くそう! 殺しちゃいけない理由が一個もねえなあ!」
常識が崩壊している。
――ここは異世界。
彼が過ごした世界とは別な常識、倫理観、価値観の根付いた異邦なのであった。
郷に入れば郷に従えという言葉もある通り、違う場所に来て、かたくなに自分の過ごした世界の価値観を固持している方が、おかしいのかもしれない。
でも。
でも、なんか……!
「姉ちゃん、そうじゃないんだよ……『やっていいからやっていい』じゃないんだ。なんていうかこれは、世間体とか風潮の問題じゃなくって、自分との戦いなんだよ」
「こーちゃん……」
「俺はベラさんのこと、忘れない。あの人の命を奪ってしまった罪を、俺は一生背負って生きていこうと思う」
「こーちゃん……お姉ちゃん、ようやくわかったよ」
「わかってくれたか……」
よかった。
姉にはまだ人の心があったんだ。
彼は安堵し、涙を流しそうになる。
今朝訪れた異世界では実に様々なことがあったけれど――
姉に正気が残っていたことが、異世界に来てから一番嬉しいことだ。
――と。
彼は思ったんだけれど。
「こーちゃんは早くこの世界に慣れた方がいいよ」
「……えーっと」
「うん。ごめんね、そうだよね……いきなり戦争だなんて、心が追いつかないよね。大丈夫、心が追いつけるように、お姉ちゃん、がんばるからね?」
「いや……」
「たった一人殺しただけでそこまで考えこむなんて、お姉ちゃん、こーちゃんの将来が心配だもん。これから何千何万何十万と人が死ぬのに……それも毎日……」
「俺は姉ちゃんの今が心配だよ」
「大丈夫! ちょっと眠いけど、まだ起きてられるよ!」
「睡眠の心配はしてねーよ!」
「じゃあお姉ちゃんの『今』って?」
「……」
『今』は『今』だ。
でも、うまく言語化できない。
なんていうか、会話に大事なのは共通認識だと彼は気付いた。
野球の話題がわからない人に、野球の話を振っても、相手はきょとんとするだけなのだ。
なので、倫理の話題を振っても、倫理の話題がわからない姉は、きょとんとしていた。
「とにかく、こーちゃん、明日――前線に行こう?」
「えっ」
「たくさん殺せば慣れるよ」
「……いや」
「大丈夫! 死んでもお姉ちゃんがどうにかするから!」
「その」
「だから明日のために、今日はもう寝よう? お姉ちゃんが子守歌歌ってあげるね?」
「あの」
「はい! 横になる!」
姉が寝転がりながら、ポンポンと自分の隣を叩いた。
『ここに寝転がれ』という強いメッセージが感じられる行動だった。
既読無視しなければならないだろう。
「姉ちゃん、そうじゃないんだよ……! たくさん殺せば慣れるとか、そういうことを言えちゃう今がダメなんだって、俺はそう思ってるんだよ!」
「寝るの!」
「こんな精神状態じゃ眠れないよ!」
「もー、わがまま言わないの! 明日お友達と遊んでる時に眠くなったら困るでしょ?」
お友達(敵兵士)と遊んでいる(殺し合っている)時に眠くなったらたしかに困るけれども。
彼は言語に絶した。
姉はもうダメかもしれない……
「はい、ねーむれーねーむれー、いーい加減にねーむれー」
姉がついに子守歌を歌い始めた。
まずい。
このままだと、幼稚園のころ、こうして寝かしつけてもらっていたという刷り込みのせいで、眠ってしまう……!
「姉ちゃん、俺は……俺は……!」
「ねーむれーねーむれー、明日も殺し合いー」
「姉ちゃん……!」
「ねーむれーねーむれー」
姉が『弟を寝かしつけるだけの機械』と化していた。
そして彼は、こんな時だというのに、まぶたが落ちそうだった。
――そうだ、つらかったのだ。
異世界に来て初日だ。戦争に殺し合いによみがえりにおかしな倫理観。モンスターと人間が頭の中でグルグルしている。興奮もしたしなにより姉が姉で姉だった。
姉である。
精神は摩耗していた。いや、この世界に来てからというわけではない。もといた世界でも精神がすり切れる毎日だった。残業代の出ない残業。会社という名の奴隷商人が今日も今日とて社員の精神と人件費を生贄に捧げ商業利益を特殊召喚する。
デスクワークだけが仕事だったはずがいつしか業務は多岐に渡り、仕事量の融合事故が起こってよくわからないクリーチャーが誕生していた。
その名は社畜。
我は底辺にたたずむ者。我は虚無。我は世界を支え、しかし顧みられぬ者――
――そうだ、子守歌を聴きたかった。
誰かに横で眠れ眠れと歌ってほしかったことを思い出す。え、眠っていいんですか? マジで? この仕事三日ぐらい不眠不休じゃないと期日間に合わないんですけど眠っていいの? すげえや姉ちゃん、終電で家に帰れるよ!
幼い少女の歌声が、彼の魂を優しく包みこんでいく。
彼の思考は千々に乱れて、拡散し、希釈され、拡大してわけのわからないものになっていく。
薄れ行く意識で感じた世界はとても優しかった。
だからそれでいいか、と彼は思考を止め――
明日の最前線業務もがんばろう――がんばろう? と彼は最後に思い、意識を手放した。




