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いつか見た夕焼け [なろう版]   作者: 三王 一好 (さんおう かずよし)
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第二部

 いつか見た夕焼け [なろう版] 二

                       三王 一好


 

 目醒めると白い天井が見えた。辺りを見回す。ぎっしりと詰まった本棚。木製の机と椅子。パソコン。小さなキッチン。僕はソファーベッドに寝ていた。ここは[Kool]の二階だった。

 昨夜?今朝?あれから泊めてもらったのだ。好意は有り難く受け取ればいい。そして何らかの形で返せばいい。そんな感じ。

 ドアが開き、カズさんが入ってきた。

「おはようございます」

 挨拶を交わすとカズさんは窓のカーテンを開けた。穏やかな陽光が部屋を満たす。白い壁と明るい色の木の内装。

「簡単ですけど食べてください、これ」

 カズさんはバケットサンドと伊予柑ジュースが載ったトレイをテーブルに置いた。

「家では御飯と味噌汁なんですけど、ここには材料がなくて」

「いただきます」

 伊予柑ジュースをゴクゴクと飲み干した。乾いた喉が潤う。バケットサンドにかぶりつく。バケットの香ばしさとカリッとした食感。

生野菜がシャキシャキと音を立てる。芥子マヨネーズの加減が丁度いい。カズさんが淹れてくれた熱いミルクティーを啜る。胃がジーンと温まった。昨夜、あれ程飲んだのに酔い醒めがいい。カズさんも同様のようでスッキリとした顔つきだった。

「こんな部屋がKoolの二階にあったなんて驚きました」

「ここは仕事部屋と言えばいいのかな。メニューや企画を考えたり、酒の知識を得たり、あと、他所から来た友人と話すのにも使います。そんな時は〝朝まで語ろう〟って感じです。シャワーにトイレ、キッチンもあるので泊まることもできて便利がいいですよ」

 窓からはコリドー広場が見える。窓際に木製の揺り椅子があった。

「これ、座ってもいいですか?」

「どうぞ。この椅子は祖父(じい)さんの形見です。揺られていると、色々なアイディアが浮かんでくるんですよ」

 椅子に座り前後に揺らしてみる。キィ、と音がした。目の前の棚に地球儀が置かれている。

「カズさんて、外国を旅したことがあるんですよね」

「はい。大戸さん、興味がありますか?」

「あります」

 僕が頷くとカズさんは本棚から一冊の本を抜き出し僕に手渡した。[Rolling バーテンダー浪人の軌跡] 著者は三城一矢。

「国内外のBARを巡る旅をしたんですが、俺の旅の殆どのことがこの本に書かれてあります。旅日記をもとに書いてみたんですが、書くこと、意識化、言語化することって、自分の考えや過去、思想の整理が出来て楽しいですよ。自己分析の手掛かりにもなるでしょうね」

「面白そうですね。借りてもいいですか?」

「差し上げますよ」

「ええっ?それは…、はい、戴きます。ありがとうございます」

 少し躊躇ったが気持ちよく戴くことにした。好意は有り難く頂戴すると決めたばかりじゃないか。

「俺がバーテンダーとして駈け出しの頃、二十二歳の時かな。銀座の或るバーテンダーの本を読んで感銘を受けて、その人のBARへ会いに行ったんです。

『本を読んで、お会いしに来ました』

俺がそう言うと、その人は、

『今、その本を持っていらっしゃるの?』

と、尋ねられました。

『持って来ていません、家にあります』

俺が答えると、その人はカウンターの下から、ストックしていたんでしょう、新しいその本を取り出して見開きのページに筆ペンで署名して日付と俺の名前を書き判子をぽんっとついて、

『はい、どうぞ』

と、にっこり笑って手渡してくださいました。感動しましたね」

 カズさんは語り終えると遠くを見詰めた。

「じゃあ、この本にも署名(サイン)してくださいよ」

「そうですか、では」

 カズさんは照れ臭そうに笑って僕の求めに応じてくれた。

「戴いたものは本だけではありませんでした。バーテンダーの職に就いて一年半、確固たる決意のない俺でしたが、その人にお会いして〝バーテンダーを一生やる〟と決意することができました。当時、その人は七十四歳。〝バーテンダーとは、こんな歳までできる職業なんだ〟とも思いました。その後も何度かお会いすることができて、様々なことを教えてくださったし、

『バーテンダーからはお金は取れません』

と、仰って、お勘定を無料(ただ)にしてくださったこともありました。

 でも、何よりも、駈け出しの俺にバーテンダーのあるべき姿と言えばいいのか、理想像、目標を体現してくださったことに感謝しています。彫刻で譬えるなら、完成型を見せてくださった。彫り方は俺が考えてゆけばいい、という感じです。お手本を示してくださった。だから俺はその人のことを〈心の師匠〉と仰いでいます。正式な弟子ではなく俺が勝手に心で師匠と仰いでいるだけですから。俺には正式な師匠はいませんが今まで出逢った人が全て師匠だと思っています。俺は雑種で我流のバーテンダーといえるでしょう。俺は師匠達が授けてくださったものを俺なりに活かしてゆきます」

「その〈心の師匠〉はご健在なんですか?」

「八十八歳までBARをなさって、残念ながら八年前に九十六歳で永眠なさいました。昨夜、話したKoolの由来ですが、〈心の師匠〉のBARの名前が[クール]なんです。カタカナでクールなんですが、煙草のKOOLから取ったそうです」

「ああ、それで『願望』と言っていたんですね」

「そうです。自分のBARの名前をKoolにしたい、と俺が言うと師匠は、

『もっと、マシな名前があるでしょうに』

と、仰って笑いました。

『是非、そうしたいんです』俺が言うと、

『どうぞ、御遣いなさい』

と、仰ってくださいました。

 別に師匠の許しがなくとも勝手に名付けていいのでしょうが、それに師匠だって『ダメだ』とは言わないでしょう。ただただ、これは俺の甘えです。師匠と繋がっていたいという甘えです。師匠は快く甘えさせてくださいました」

 カズさんの〈心の師匠〉がどんな人かは分からない。でもカズさんの雰囲気や体現しているものから察することはできる。

 様々な〈師匠〉達がカズさんの中で生きているのだろう。

 話は尽きそうもなかったが長居をしても悪いので、僕は泊めてもらった礼を述べ立ち上がった。

「俺は旅で、旅だけじゃないか、今まで沢山の人が親切にしてくださいました。俺も親切を送りたいですね。一寸クサい言葉ですが…」

 返すんじゃなくて次の人に親切を送る。それは回り回ってゆくものなのかもしれない。

 

 ホテルでシャワーを浴びて街の西側へと向かった。行方には緑に覆われたこんもりとした山があり頂には教会のような建物が立っている。真直ぐ伸びた広い道路を進むと凱旋門のようなものがあった。門の前には境界線、といった感じで水路が横切っている。僕は石橋の手前で立ち止まり門を見上げた。

「こんにちは」

 その声に振り向くと、煙草を手にした男の人が笑顔で立っていた。

「こんにちは」

 挨拶を返す。五十歳半ばだろうか中肉中背で日焼けした顔に柔和な笑みを湛えている。

「今日もいい天気だねえ」

「すっきりと晴れて気持いいですね」

「ところで君、随分伸びてるねえ。刈ってく?」

「は?」

 と、見ると彼の背後は床屋だった。例の赤白青の回転塔がくるくると回っている。看板には[ RICKEY'S BARBER]と記されている。

「いやあ、今日は、ちょっと…」

「はははっ、冗談、冗談。ご旅行ですか?」

「はい。でも、何で分かるんですか?」

「地元の人は、まじまじと門を見上げたりしないからね」

「それもそうですよね。そうだ、ここに行きたいんですけど…」

 僕は友子から貰った名刺を差し出した。彼は眼鏡を掛けると名刺を見てくれた。地図を辿れば分かるのだろうが何だかこのまま立去りたくなかったのだ。

「ああ、ここね。ボクもよく行くよ。門を入って左へ曲がって真直ぐ行った先の広場にあるから。君、友子ちゃんの知り合い?」

「はい。BARで知り合いました」

「三城君のとこ?」

「そうです。知っているんですか?」

「知っているもなにも、(さん)ちゃんが中学生の頃から刈ってるからね」

「じゃあ、あのスッキリした頭はここで」

「一週間前くらいに来たかな。月に一度、刈りに来るよ。毎月会っているけど、ボクの方はなかなか飲みに行けなくてねえ…。そうだ、君、三ちゃんのとこに行ったら、ボクの代わりにジン・リッキーを飲んでよ」

「ジン・リッキーですね。いいですよ。今夜も行きますから」

「ありがとう。じゃ、これ飲み代。三ちゃんにも一杯飲ませてあげて。お釣りはお駄賃で取っておいていいから」

 彼は財布から千円札を二枚出し、僕に手渡した。僕は礼を言い素直に受け取った。彼の?悪戯?に付き合ってあげたくなったのだ。

「僕は大戸といいます。今夜、必ず飲みますから」

「うん。よろしく。ボクは辻力也。力也だからリッキー」

 お客さんが来たので僕達は握手をして別れた。

 石橋を渡る。門の柱には[平和の門]とあり[我らの友好と平和を願って]との言葉と世界の国々の名が刻まれていた。

 ふと、門の前から振り向くと真直ぐ伸びた道の先に城山があり、正面に頂の城がきれいに見えた。

 門を抜ける。山の麓沿いの歩道を進むと広場に出た。石畳、石造りの風格ある街並みが広がっていた。プレートには[渡来(とらい)町]と標されている。様々な人種、民族の人達が行き交っている。何なんだ、この街は…。

 広場の中央には何体かの天使の像を配した大きな噴水があり、放射状に噴き出す水の壁に虹が架かっている。噴水の向こうに明るい赤オレンジ色の庇と風にはためくイタリア国旗が見えた。

 白抜きで[CAFFE ARANCIA]と記された庇の下のテラス席は大勢の人で賑わっていた。イタリア人だろうか美形の給仕達が軽やかな身熟しで働いている。英語もロクに出来ないのに…ましてイタリア語なんて無理だ…だが、ここには友子がいる。僕はやや怯みつつも店内に足を踏み入れた。

「ボンジョールノ!イラッシャイマセ」

 長身でガッシリとした体格の男が笑顔で声を掛けてきた。

 うっ、と詰まったその時、

「あっ、ヨシ君!来てくれたんやねっ」

 まさに天使の声。男の背後から友子が顔を出した。僕は安堵して肩の力を抜いた。

「カウンターにどうぞ」

 友子に導かれてカウンターのやや高めの椅子に腰掛けた。カウンターは立飲みと併用になっていて奥のオープンキッチンまで続いている。テラス側の大きな窓の前と色鮮やかな絵皿や風景画、写真が飾られた壁に沿ってテーブル席があり、奥の壁一面には青空を背景に群青色の山と裾野に広がる白い街の風景がモザイクタイルで描かれている。入口横のショーケースにはサンドイッチやケーキが並び、ケースの上には袋や瓶に詰められた菓子類が置かれている。[Kool]で食べた棒状のビスケットもあった。なるほど…。

「ヨシ君、何か食べる?」

 友子は出逢った時と同じく髪を後ろでまとめていた。清潔な白いコック服がよく似合っている。

「あっ、はい。何か…、パスタとか…」

「今日のお薦めはね、瀬戸内魚介のトマトソース・スパゲッティ。ちょい辛で美味しいんよ」

「それをお願いします」

「じゃあ、あたし、作ってくるけん」

 友子はそう言って、先刻の男に何か囁くと身を翻した。小中高校とバスケをしていた友子の動きは俊敏だ。

 男はニカッと笑うと白ワインをグラスに注ぎ差し出した。

「コレは、友子からデス」

「ありがとうございます。いただきます」

「プレーゴ。ワタシの名前はエンゾ、デス。ヨロシク」

「僕は、ヨシキ、です」

 握手を交わす。何てフレンドリーなんだろう。

 白ワインは微かに発泡していてすっきりした飲み心地だった。

 僕がこの渡来町のことを尋ねるとエンゾは流暢な日本語で説明してくれた。

 この街は世界でも指折りの国際平和学の盛んな都市であり、山の北と西側には大規模な研究施設があるという。研究施設では燃料電池車や太陽光は勿論、地熱、波潮力、空気や水からの発電装置、蓄電池、農場ドーム、放射能除去装置、リサイクルシステムをはじめとする自然との調和を目指した科学技術の研究開発も行われており、それらを学ぶ、または携わる為に来た世界各国の人々とその家族がこの渡来町に住んでいるそうだ。各国から来ている研究開発員の家族達は雑貨店や飲食店等、自国の文化を広める、または、この国の文化を学べる仕事に就いているという。エンゾのお兄さんは燃料電池車の研究者でエンゾもナポリからついて来たそうだ。

「ナポリは世界で一番美しい街デス。デモ、この街も素晴らしい。ソレニ、女の子もカワイイ」

 エンゾは親指で友子の方を示し笑顔でウインクした。

「お待ちどうさま!」

 元気な声と共に友子が颯爽と現れた。手にはスパゲッティともう一品。

「これはね、当店の名物、アランチーノ。ライスコロッケなんよ。食べてみて」

 オレンジ大のコロッケが一つ。フォークで食べるのかな?躊躇(ためら)う僕にエンゾは紙ナプキンを差し出し齧りつくジェスチャーをした。

僕は紙ナプキンであつあつのアランチーノを摑むと齧りついた。

「美味しい!」

「グラッツェ!」

 友子とエンゾが声を揃える。

 笑顔の友子。職場の友子は輝きを増して見えた。トキメキ。久し振りに感じる胸のトキメキ。…そう、あれは中学生の時、僕は陸上部の女の子に恋をした。グランドを駆ける彼女は輝いて見えたっけ。

それ以来、感じることのなかった胸のトキメキ。

 料理はこの店のシェフ、マリオが作り方を友子に教えてくれているそうだ。キッチンを覗くと丸々とした体格のおじさんが楽しそうに料理を作っていた。僕の視線に気づいたマリオは、

「チャオ」

 と、挨拶してくれた。

 食後にはティラミスと友子が淹れたカプチーノ。表面に数珠繋ぎになったハートの模様が描かれてある。

「へええ、こんなこともできるんですねー」

「まだまだ修業中やけどね。カフェの先生はエンゾなんよ」

「友子は、素晴らしい生徒デス」

「褒めて伸ばす先生なの」

 午後三時。俄かに店が賑わってきた。お勘定はパスタの料金のみだった。他の料金を払おうとすると、

「いいから、いいから。サービス、サービス。おもてなしやけん」

 友子に笑顔でそう言われると僕は礼を言うことしかできなかった。友子とエンゾは店先まで僕を見送ってくれた。暫く歩いて振り返ると、まだふたりは見送ってくれていた。僕はそそくさと手近な角を曲がった。と、その道は山へと続く道だった。

 石段を登りきると建物が切れ芝生の公園が広がっていた。公園では色々な人達が思い思いの時を過ごしている。遊具で遊んだり走り回ったりしている子供達、寝転がって本を読んでいる人、芝生に座りイチャつくアベック、子供を見守りながらお喋りに興じる母親達、ベンチに腰掛け寄り添う老夫婦…。長閑な光景に心が和んだ。

 坂の上に白い雲。緩やかな勾配の遊歩道が山頂へと続いている。風が清々しい。山頂の建物は国際交流館だった。この街の姉妹都市であるドイツの街の大聖堂を元にデザインされたそうだ。館内には世界各国から寄贈された美術工芸品が展示されている。国別の展示コーナーにはタッチパネルが設置されており、それぞれの国の歴史や文化、風景などを知ることができる。

 展望塔から渡来町を見下ろす。山の東側から南側へかけての水路で囲まれた町には幾つかの広場があり、ヨーロッパ、アジア、中東、アフリカ、アメリカ、オセアニア等、大まかな文化圏で分けられているようだ。町の中心部の一際大きな広場には教会、モスク、寺院が並立している。山の西側には近代的なマンション群が棟を並べている。海外から来た人達の住居なのだろう。エンゾが言った通り、北と西側には研究施設が並び、一本の広い道路が西の沿岸部にある工業地帯へ通っている。

 工業地帯は森と公園で囲まれて住宅地と区切られている。工業地帯に隣接している空港から飛行機が飛び立ってゆく。空港と温泉街を結ぶモノレールの高架は川の上空に設けられ、港への高架は海岸沿いを通り、枝分かれして工業地帯と渡来町を結ぶ広い道路の上空を通って渡来町を経由し中央駅へと続く。騒音や日照、安全対策なのだろう、建物の上空にモノレールは通っていない。

 日照といえば、マンション等の高層建築物は山や川、森の南側にまとまって建てられており住宅地に影を落とさない工夫がしてある。

 城山から一望した時は街の美しさに見惚れるだけだったが、今は都市計画の見事さにも目を配ることができた。

 黄昏に包まれた街。瀬戸内海に沈む夕陽。そして広がる夕焼け。教会とお寺の鐘の不思議なハーモニー。微かに聞こえる祈りの声。平和。この平和がいつまでも続きますように。 

 

 [Kool]は大盛況。カウンターは満席。席が空くのを待つ人達に囲まれる態で僕は窓際の立飲台(コントアール)に凭れ、ダブルのバーボンを入れたロックグラスを傾けながらカウンターに並ぶ様々な人達の様々な背中を眺めていた。背中越しに見えるカズさんはテキパキと働きながらも時折目が合うと微笑みかけてくれる。カランッ、グラスに氷が当たり音を立てる。ウイスキーの海に浮かぶ氷山のようだ。…こうやってひとりで飲るのもいいもんだな。ざわめきに包まれて何故か安らいでゆく気持ち。一端の大人になった気分。

 カウンター席の客は二、三杯飲みながらカズさんと話すと席を立っていった。空いた席へは立っていた客同士が人数、性別、年齢、順番等を考慮して譲り合いながら座ってゆく。僕も幾度か声を掛けられたが席を譲った。席待ちの人を気にしながら飲むのも気が引けるし、僕には時間がたっぷりとあるのだ。

 入口横の壁には大きなインフォーメーションボードいっぱいに様々な店やイベントのポスター、ポストカードが掲示されている。ボードの下枠の高さに天板を揃えて置かれた机、―エントリーテーブルは額縁を作った人の作品で、そう思って見てみると色調や風合いに共通した味わいが感じられた。テーブルの上にも沢山のチラシが乗っていた。カズさんに縁のある人達…。数々の縁がこのテーブルに乗り、新たな縁を待っているわけだ。

 チラシを眺めたり、本棚から海外のカクテルブックを取り出して立ち読みしたり、お客さんの会話に耳を傾けたり、結構、独りでも楽しめるものなのだ。

 十一時を回ると立ち飲みの客も居なくなり空席ができ始めた。僕はカウンターの一番奥の席、[星月夜]の隣に腰掛けた。

 正面の壁には自動車の絵が描かれたカレンダーやクリムト、ロートレック、ゴッホ等のポストカードが飾られてある。その下の台には銀色のエスプレッソマシーン。

 座る席、立つ場所によって店の風景も変わるんだなあ。

「立ちっぱなしで疲れたでしょう」

 と、言いながらカズさんがおしぼりを手渡してくれる。

「大丈夫です。足腰は強いんですよ」

 中学生の時は陸上部に入っていた。好きな娘と同じ部活。毎日の練習はキツかったが放課後を楽しみにしていた。しかし、やがてその娘は僕と同じ短距離を走る奴とつきあいだした。破れた恋。せめて競技では奴に勝ちたい、と思ってみたものの相手は地区内でも一、二を争うスプリンターだった。僕が敵うはずもなかった。結局、奴に挑戦することもなく陸上部を辞め、彼女にも告白できなかった。何もする前から諦めていた。あの頃から僕は一所懸命にやることを止めてしまったのかもしれない。だって一所懸命やっても、どうせ駄目なら惨めなだけじゃないか。

 顔を上げるとカズさんが心配そうに僕を見ていた。

「やっぱり、ちょっと疲れたのかな。大丈夫ですよ。そうだ、ジン・リッキーを二つお願いします。カズさんもどうぞ」

「えっ?ああ、ありがとうございます」

 カズさんは一瞬、面喰ったようだったが疑問は後にしたのだろう、速やかにジン・リッキーを作り上げた。

「もしかして、力也さんに会ったんですか?」

「分かっちゃいましたか。そうなんです。今日、渡来町の門の前で力也さんに会った時、代わりに飲んでカズさんにも御馳走してくれって頼まれたんです」

「ジン・リッキーでピンときました。力也さんならこういう事をさせかねないですから」

「お金まで戴いちゃいました」

「力也さんらしいです。では、力也さんに乾杯しましょう」

 僕達はグラスを掲げた。

「力也さん、いただきます。乾杯!」

 カズさんは目の前に力也さんが居るが如く声を掛けグラスを(かざ)した。僕も真似をしてカズさんの視線の先へグラスを翳した。

「これは一気で飲まなくてもいいですよね」

「勿論です。あれは武志が勝手に言っているだけですから。乾杯という言葉は杯を乾すという意味だから一気に飲み干さなければならないって。妙に理屈っぽいとこがあるんですよ。まあ、俺も他人(ひと)のことは言えないですけど」

 ジン・リッキー。初めてジンを口にした時には独特の味と匂いに辟易したけれど慣れるとその味と香りが心地よい。ジンにライムを入れてソーダで割ったものだがジン・ソーダとは呼ばない。リッキーという人に因んで名付けられたそうだ。

「カズさん、お久し振りっす!」

 その声に目を向けると、スーツ姿の男が二人立っていた。彼らはカズさんと親しげに挨拶を交わすと僕から一つ置いた席に腰掛け、ウイスキーのダブルをロックで註文した。

「カズさんもどうぞ」

 手前の男が嬉しそうに言う。カズさんは[宮城峡]とラベルに記されたボトルのウイスキーを三つのグラスに注いだ。

「カズさん、遂にできましたよ、農場ドーム!」

「おめでとうございます。美沢さん、やりましたね」

「まだ公式発表はしていないんですけど、今日は内々でお祝いです。二次会へ行く前にちょっと抜け出してきました」

「カズさんと祝杯を挙げたくて」

 二人が矢継ぎ早に喋る。まるで褒めて貰いたがっている子供のようで微笑ましい。農場ドーム?今日、エンゾから聞かされた言葉だな、と小首を傾げた僕にカズさんは気づくと二人を紹介してくれた。

 手前の細身の男、萱町はこの街の中央駅を設計した人だった。設計コンペの優勝作品だという。現在は都市計画全般に関わっているそうだ。

「私は、永く愛されるデザインとは原点または伝統的なものではないかと思っています。ですから中央駅も鉄道発祥の地ヨーロッパの昔の駅を参考にしつつ、この国の伝統的建築様式を取り入れてデザインしました。この都市の街並みも、この国が強制的開国を受けず戦争もなく緩やかに近代へと発展したら、どんな街づくりをしただろう、と想像して計画しました。勿論、私一人じゃなく、持田先生のプロジェクトチームが前もって綿密な調査、研究、構想をしていてくれたからです。お蔭様で機能的で暮しやすく景観にも配慮した街づくりの計画ができました」

 萱町の隣の小太りの男、美沢は二年程前から農場ドームの研究開発を進めていた。

「農場ドームとは地熱、太陽エネルギーを利用した循環型の半永久的農作物生産システムです。まあ、巨大なビニールハウスとでも思ってください。農場ドーム内は何段もの農地プレートで形成されているので平地の農地の何倍もの農作物が外の環境に関わらず生産できるんですよ」

 美沢は額に汗を滲ませ興奮気味にそう言った。

「これによって寒冷地や砂漠などの環境が厳しい地域、農業資源や土地の乏しい国でも食物の自給自足への足掛かりが?めるわけです。人類は科学技術で飢えを克服できるようになったんですよ。この技術は将来、宇宙開発にも役立てられることでしょう」

 と、萱町がクールな口調で説明を加えた。

「何度も挫けそうになったけど、諦めずにやって良かったです」

「よくやったな、美沢。お前の情熱に乾杯!」

 二人はグラスを合わせ喜びを分かち合っていた。カズさんはそんな二人を優しく見守っている。情熱。目的の大きさが人を熱くさせるのだろうか。僕にはない。目的さえも…。

「取り敢えず、御報告まで」

 と、二人はウイスキーを飲み干し立ち去って行った。

 萱町と美沢と入れ違いにテンガロンハットを被った男が滑り込むように入って来ると、しなやかな動きで先刻まで美沢が座っていた椅子に、ストン、と、腰掛けた。

「あーちゃん、いらっしゃい」

「どうも。いつものヤツください。これからクラブでDJ演()るんで一杯だけ。カズさんもどーぞ」

 あーちゃん、と呼ばれた男はそう言うとレコードを操作するように手を動かした。体の中に音楽が流れているようなリズミカルな動きの人だ。

 カズさんは手早くカクテルを二つ作ると、あーちゃんの前に置いた。グラスを手に取ったあーちゃんは急に背筋をピンッと伸ばし、カズさんへ向かってグラスを掲げた。カズさんもグラスを掲げて、それに応える。ふたりの儀式があるのだろう。

「これ、これ。ビールやウイスキーは何処でも飲めるけど、これはKool(ここ)でしか飲めねえ」

 あーちゃんは日に焼けた精悍な顔に笑みを浮かべ、[いつものヤツ]をグビグビと半分程飲んだ。

「あーちゃん、農場ドームができたんやって」

「あ、そーすか。まっ、あれはあれでいーと思いますけど、オレ達は大地でしっかり農業やりますんで」

「そっちの調子はどうなん?」

「ヤバいっすよ。もう、農業やりたいって若いヤツがバンバン来てます。もう、こっちは天手古舞い、嬉しい悲鳴ってヤツです」

「そうかー。農場ドームの計画が始まった頃は、そんなこと予想できなかったもんなあ」

「希望はしていましたけどね。もうドームなんていらないんじゃないんですか。区画整理で農地も増えてるし。まあ、こっちも流行りっぽいのが気になりますけど農業やるヤツが増えるのは大歓迎です」

「ドームはあくまでも補助やけん。型はどうあれ自分達の食物は自分達でつくる、というのが根本やけんな」

「カズさんの持論は自給自足ですからね。まあ、こっちはオレ達に任せて、カズさんは安心してカクテルをつくってください。モチはモチ屋ってね。オレ達もバンバンいいものつくりますから。って、時間がねえや。また、今度ゆっくり来ますから!」

 あーちゃんは立ち上がると、いつものヤツを飲み干した。

「ありがとう。いってらっしゃい」 

 カズさんが声を掛ける。すでに扉の前にいたあーちゃんはその声に手を挙げ指の動きで応えると外へ滑り出して行った。

「何か、つむじ風のような人でしたね」

「つむじ風か。ピッタリですね。重信あつし、て、言うんですけどね、名前の通り熱いヤツなんですよ。俺は戦友と思っています。歳は一回り程下なんですけど、以前、潰れかけていた店を盛り返そうと一緒に奮闘してくれました」

「その店は、どうなったんですか?」

「残念ながら潰れました。奮闘むなしく、力及ばずでした」

 カズさんが、ふっ、と淋しく微笑んだ。順風満帆に見えるカズさんにも、そんな過去があったんだな。

「結果は出せませんでしたが、あの一所懸命に足掻いた日々はいい経験になりました。後悔、反省、後から考えると、もっとあーしてたら、こーしてたら、という思いも湧いてきて…まさに後知恵、たら話ですけど、あの時の俺にはあれが精一杯だったと思います。そんなことも考えさせてくれたいい経験でした。今は、こんな風に思っています。?努力すれば必ず報われるとは限らないけれど報われることもある。だからといって努力しなければ報われることもないし、報われるとは限らないことを知ることもできない?って。どんなに理屈をつけても失敗は失敗です。失敗の原因を自己の責任というところまで突き詰め把握して、自己改革をしっかりやらなければ、また失敗するでしょう。『失敗は失敗のもと』と謂われる所以です」

 耳が痛かった。失敗することを恐れ、負けることを恐れ、振られることを恐れ、挑戦も告白もしなかった僕。一所懸命にやること、努力することを止め、テキトーに無難に過ごしてきた僕。他人(ひと)の所為にばかりして自己責任を負うことから逃れてきた僕…。

「まっ、こんなことを言っていますが、俺はまだまだ未熟者です。元気出していきましょう、大戸さん」

「元気、か…。元気といえば、今日、アランチアに行ったんです。友子さん、元気に働いていましたよ」

「元気なとこが取柄ですからね」

「あー、何か元気が出るカクテルとかないですかねえ」

「んー、そうですねえ…」

 と、言いながらカズさんは?いつものヤツ?に使っていた酒瓶を?むと僕の前に置いた。くびれの入ったセクシーな形の茶色の瓶にオレンジ色の貼紙。

「これは、あーちゃんが創ったリキュールなんですよ」

「リキュール?」

「混成酒のことです。お酒に果物や薬草等を混ぜたものといえばいいですかね。例えば、昨日、大戸さんが飲んだXYZに使うコアントロー。ホワイトキュラソーというものですが、これはオレンジの果皮が原料として使われているんです」

「へええー、オレンジですか」

「そう。それで、この地方の名産品は蜜柑なんですよ」

「有名ですよ。この地方の家には蜜柑ジュースが出る蛇口が有るって」

「関東の方は、よくその冗談を言いますよね。時々、本気にしている人もいますけど。それでですね、この地方の蜜柑を使っても美味しいリキュールができるんじゃないか、と、あーちゃんに話したら、あいつ、ノリ気になっちゃてヨーロッパへ渡って研究してですね、見事、リキュールを完成させたんですよ」

「凄いや。それがこれなんですね」

「そうです。プリンセサ・ダムール。[愛の媛]という名前です」

「なるほど!」

「あーちゃんはアメリカでカウボーイをしたり、九州でドッグトレーナーをしたり、帰郷してからは農場を経営する傍ら、地元産の麦でビールを醸造(つく)ったり、DJを()ったりと、興味を持ったことをどんどんやってゆく情熱家なんです。現在は農業をやっている若者達のカリスマ的存在です。田植え、稲刈りの時は田園ライブを企画して、所謂、田楽ですね、お祭り騒ぎで楽しんで仕事をする。みんな、太陽の下で汗を流しスポーツ感覚で仕事をする。仕事を楽しむ、という旋風を巻き起こしたのは、あーちゃんですね。兎に角、名前の通りヤツは熱い。その所為か、このリキュールを飲むと元気が出るって評判ですよ」

 カズさんは、話しながらチューリップのような形の小さなグラスに[愛の媛]を注ぐと僕の前に差し出した。

 グラスに、ぽっ、と灯が点ったようなオレンジ掛かった琥珀色。柑橘の甘い香りに誘われて口に含むと、思ったよりは甘くなく、凝縮された蜜柑の風味とアルコールのしっかりとした刺激が絶妙なバランスで口の中に広がっていった。

「うーん。美味い…」

「リキュールは、それ自体がカクテルとも云えるんですが、これで何かお作りしましょうか?」

「はい。お願いします」

〈流れ星シェイク〉

 星、と云えば、カズさんのベストのポケットへ入っている懐中時計の鎖には、銀色に輝く☆の飾りが付いている。動作と共に揺れる☆が、いつも黒と白のシンプルな出で立ちで飾り気のないカズさんの唯一の装飾品だ。

 カクテルグラスにシェイカーから明るい赤色のカクテルが注ぎ込まれる。シェイクによって生じた気泡がスーッと引いてゆく…。

この瞬間が僕は好きだ。

「情熱の接吻(くちづけ)。[キッス・オブ・パッション]です。愛の媛の熱い接吻ですよ、大戸さん」

 …ヒメ… Kiss Only One Lady …。

 僕はそっと、くちづけた。

「おっ、きたきた!燃えてきましたよ」

「大戸さんは、ノリがいい」

「いや、本当ですよ。[愛の媛]の甘い風味が活きてます。でも、このカッとくる熱い感じは何なんですか?」

「ベースをブランデーにしました。ブランデーの語源が、熱した、焼いたワイン、という言葉からなので」

「熱か…。僕もカズさんやあつしさんみたいに熱くなれるかなあ…」

「人が何かをするのは、自己を表現するのは、自分の存在の証明なんだと思います。だから熱くなるんだと。その表現が自分の存在と関わりが深ければ深いほど、熱くなる度合いも増すんでしょうね。俺は何の取り柄もないですが、好きな職業を、カクテルをつくること、Koolを営業することで自己表現ができ、それを認めてくださるお客さん達がいてくださる。これは、とても有り難いことです」

「情熱の炎が完全燃焼しているんですね」

「大戸さん、巧いこと言いますね」

 成功だけが結果だと思っていた。でも、失敗も結果なんだ。成功も失敗も結果ならば、その過程を一所懸命にやることに意味があるんじゃないのかな。一所懸命にやったこと、それも結果なんだ。一所懸命にやることを止めていた僕は情熱の炎を燻らせていたのかもしれない。不完全燃焼によって生じた有毒ガスは僕を蝕み続けていたのだろう。今もなお…。

 僕もカズさんのようになりたい。『失敗もいい経験だった』と言いたい。そして、意味のある自己表現をしてみたい。

 ん? 意味のある自己表現、って何だろう…。

 〝だんっ〟  

 カウンターを叩く音。

 カウンターの端で突っ伏していた男が顔を上げ、酔眼でカズさんを睨みつけた。

「馬鹿野郎!お前は絶望も挫折も味わったことがないけん、そんな呑気なことが言っとれるんやがっ!」

 男はカズさんを睨みつけたまま怒鳴った。

「…そうですね。そうかもしれません…」

 カズさんが俯く。

「何ぞうっ!エラそうに言うなあぁっ、お前は運がええだけなんぞうっ!オレだって、運さえよければ…運さえよければなあぁっ…」

 男はそれから同じことをクドクドと繰り返し言い続けた。

 カズさんは男の前に立ち、黙ってそれを聞いていた。

 そんな男の姿が酔っ払って母さんにクダを巻く父の姿に重なって見えた。あの時、僕は無力だった。母さんを庇ってあげられなかった。父が怖かった…。

「あの…」

 僕は堪らなくなって立ち上がった。

「大戸さん」

 カズさんが声を掛けてきたが、僕はそれを振り切るように男の目を見詰めた。

「何ぞうっ、何か文句があるんかっ!」

「あります。運は自分の力で摑むものだと思うし、絶望も挫折も味わったことのない人なんていないと思います。みんな、あるんですよ。でも、それをどう受け取るかでしょう?カズさんが此処に立っているのは、此処に立とうと努めたからです」

「な、何をうっ!」

 男は吠えながら勢いよく立ち上がった。はずみで椅子が倒れる。男の拳が震えている。

 ―殴られる。僕は後退りした。

 と、僕の背後からカズさんが出て来て、男に向かって立ち塞がった。

「鴨川さん、落ち着いてください」

「のけえっ!」

「のきません」

 沈黙の対峙。

 やがて、男は拳を開くと顔を覆った。

「わかっとんやが…、おれが情けないんやって…。ほやけど、足?いても、足?いても、うまいこといかんのやが…」

 男は嗚咽しながらそう言った。

 カズさんは黙って立っていた。

 男は一頻り泣くと袖で顔を拭った。

「すまんかったな。おれ、帰ろうわい」

「…はい。…お気をつけて…」

 カズさんが男の背に優しく手を当てる。男は勘定を済ませ肩を落として出ていった。

 僕は何だか男に酷いことを言ったような気になった。男は、鴨川さんは、僕が言ったことなど承知の上だったのだろう。わかっていても、やり切れない気持ちをカズさんにぶちまけたのだろう。カズさんはそれをわかっていたのか…。

「すみません、カズさん。僕、我慢できなかったんです」

「いいんですよ、大戸さんの気持ち、嬉しかったです。ありがとうございました。こちらこそ、迷惑を掛けてしまって、すみませんでした。あの人、いい人なんですけど、なかなかうまくいかなくて…」

 カズさんは倒れていた椅子を起こした。そして背凭れに両手をついて立ち尽くしたまま呟いた。

「…俺は、何にもできないんですね」

 僕はカズさんの姿を見守ることしかできなかった。人は他人に何をしてあげられるのだろう。何ができるというのだろう…。

 扉が開き、男が入って来た。褐色の肌、彫り深い顔立ち。外国人?

「いらっしゃいませ」

 カズさんが椅子から手を放して男に声を掛ける。

「カドゥッ!」

 男が笑顔で叫んだ。

「ア、 アンヘル!」

 カズさんも叫び、男に駈け寄る。お互い申し合わせたかのように両腕を広げ、ひしっと抱き合うふたり。

 何者だろう。ふたりは訳の分からない言葉で喋っていたが、やがてカズさんは男を僕の隣の席に座らせた。

「彼の名はアンヘル。ほら、昨日話したバルセロナの友達ですよ。いやあ、突然なんで驚きました」

 ああ、この人が煙草の人か。光のある黒い瞳、少し縮れた豊かな黒髪、鼻下に蓄えられた濃い髭。何となくだが、ダリに似ている。

「ムーチョグスト。ヨロシク」

 アンヘルが手を差し出す。僕が握ると彼は腕相撲をする時のように握りを変え、器用に指をパチンッと鳴らしてウインクをキメた。

「アンヘル流の握手です。懐かしい」

「カドゥッ!」

 アンヘルは悪戯っ子みたいな笑顔でバッグの中から茶色の紙袋を取り出すとカウンターの上に置いた。そして、紙袋から、ジャーン!と、いう感じで黒色の瓶を引き抜いて見せた。

「アンヘル、ムーチャスグラシアス!これは、カヴァ。スペインのスパークリングワインです。しかも、アンヘルのお気に入りの銘柄、[グリヴァ]です。行きつけのバルで仕事上がりのアンヘルと一緒によく飲んだものです」

 アンヘルはゆっくり店内を見回すと独特のイントネーションで、

「ビユゥーティフル」

 と、言った。

 〝ポンッ〟 小気味のよい音を立ててコルク栓が飛ぶ。

 アンヘルは鮮やかな手つきで[グリヴァ]をフルートグラスに注ぐと、人懐っこい笑顔で僕に手渡してくれた。何か人を安心させる雰囲気を持った人だ。

「カンパイ!」

「サルー!」

 僕達はグラスを掲げた。[グリヴァ]は外気で充分に冷えていた。きめ細かな泡立ち。爽やかでキレ味抜群。花のような香りの余韻。

 二十二年前、カズさんはヨーロッパのBARを巡る旅をした。最初の国がスペイン。バルセロナでアンヘルと知り合い友達になった。スペイン語もロクに喋れない、異邦人のカズさんに、アンヘルは親切に温かく接してくれた。カズさんの目的を理解してくれて、スペインの酒やカタルーニャ地方の料理を教えてくれたり、バルセロナのBAR、レストラン、カフェを紹介したりしてくれた。老舗のカクテルバーへも一緒にゆき、ふたりして酔っ払い、目抜き通りを、肩組んで奇声を上げながら歩いたこともあったそうだ。

 別れの日、アンヘルは家にカズさんを招いて友人達とささやかなパーティを開いてくれた。その時にアンヘルは熟成型の赤ワインを出してきて、

「今度、カドゥ(カズさんのことをアンヘルはこう呼ぶ)が来たら、これを一緒に開けよう」

 と、言ってくれた。

 その約束を果たすべく、カズさんは十二年前にスペインへ渡った。

 出会いから十年。訪れる前に手紙を出そうかとも思ったが、もし引っ越しでもしていて返送されたり、手違いで手紙が届かなかったりしたら、気持ちが挫けてしまう。そう思ったカズさんは連絡もせず、いきなりバルセロナを訪れた。そして紆余曲折ありながらも無事アンヘルと再会できた。

 約束の赤ワインは飲むことができなかったが、アンヘルはカズさんを新居でもてなしてくれた。その時にカズさんは、

「今度はアンヘルが我が街に来る番だ。Koolを開店させたら会いに来て欲しい」

 と、言ったそうだ。

「その時、アンヘルは、

『宝クジにでも当たらないと行けないだろう』

と、言っていました。それが、何とビックリ、先月、宝クジが当たったそうです。アンヘルも何かと忙しい身なんですが、この機会を逃してはならない、と、俺に会うためだけに遥々来てくれました。連絡せずに来たのは前のお返しだそうです。もっとゆっくりしてくれればいいのですが、明日の夕方の便で帰るそうです。それにしても、いやあ、吃驚しました」

時間も距離も関係なく、友情は育まれるものなんだなあ。こういう友達は会った時の喜びも一入(ひとしお)だろう。

 カズさんはスペイン語が堪能、というわけではないらしく、辞書を片手に筆談やジェスチャー、時には英語を交えながらアンヘルと話していた。意思の疎通に手段は選ばない。お互いが相手を分かり合おうとする姿は見ていて微笑ましかった。カズさんはこんな感じで諸国を巡ったんだろうな。

 話が一段落すると、後はお互いがそこにいるだけで満足、という雰囲気となった。カヴァが空いたのでカズさんは国産の赤ワインを抜いた。僕とアンヘルの会話はカズさんが通訳してくれた。カズさんに教えてもらったスペイン語で僕が自己紹介するとアンヘルは手を叩いて、

「ビエン(上手い)、ビエン」

と、褒めてくれた。初めて喋ったスペイン語、カタカナ発音で通じたのが驚きだった。

 閉店時間が過ぎ、

二階(うえ)でゆっくり飲りましょう」

 カズさんが誘ってくれたが、僕は遠慮することにした。再会を喜んでいるふたりを見ていたら、何だかふたりっきりにしてあげたくなったのだ。それに、いちいちカズさんに通訳させるのも悪いし。

 [Kool]を出る。冷たい夜風が火照った頬に気持ちいい。アンヘルはカズさんへのお土産の中からスペイン産のブランデーを僕に御裾分けしてくれた。

「アスタ・ルエゴ」

 別れ際にアンヘルが言った言葉。またな、という意味だそうだ。

 僕もカズさんのような旅をしてみようかな。国や民族が違っても一緒に過ごした時間が短くても友達になれるものなんだな。僕に友達がいないのは、転校の所為(せい)でも周囲の人の所為でもなく僕自身の所為なのかもしれない。

「僕の所為か…」

 今夜、鴨川さんに僕が言った言葉。あれは僕自身に言った言葉のように思えた。うまくいかないのを母子家庭の所為、他人の所為、学校の所為、社会の所為、運の所為にしていたのは僕じゃないのか。

「今まで、僕は何かに努めたことがあっただろうか」

 テキトーに無難にやってきたのを母さんの為だと云いながら、母さんの所為にしていたんじゃないのか。本当は失敗を恐れている僕自身の所為じゃないのか。僕は絶望や挫折を受け止めるどころじゃなく、何に対しても向き合わず逃げ回っていただけじゃないのだろうか…。それ以上は考えたくなかった。今までの僕を全て否定してしまいそうで怖くなったからだ。

 夜空を見上げる。傘のかかった月が滲んで見えた。

 ホテルまでの道程が随分遠く感じられた。







 着信音で目醒めた。友子からだ。

「ヨシ君、こんにちは!もしかして寝とった?」

「いえっ、起きてました。こんにちはっ!」

「昨日は来てくれてありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました。御馳走様でした」

「ねっ、今からドライヴに行かん?」

「えっ?あ、はいっ!行きます!」

 時刻は正午を過ぎていた。僕はベットから跳び起きると、熱いシャワーを浴び、素早く身支度を整えた。

 十三時前。ホテルを出る。玄関前に友子の赤い車。長い髪をおろし、サイドの髪を綺麗に編み込み、ざっくりとした白い手編み風のセーターを着た友子は別人のように見えた。何気に化粧までしていて美しさが際立っている。

「見違えましたよ」

「そーお。おかしい?」

「いえ。きれいです」

 友子は少し含羞んで目を伏せた。

「ありがと。海に行ってもかまわん?」

「はい」

 友子となら何処へ行っても何処まで行っても構わない。

 出発。青空。天気晴朗ナレドモ風ヤヤ強シ。

 時が止まって欲しい、そんな歌が流れている。僕も同感だ。

 僕はこの二、三日間の出来事を友子に話した。

「武志さんはね、会ったらいっつも、

『一矢のこと困らすなよ』

って、蹴り入れてくるんよ、お尻に。いい人なんやけど、何だかおっかなくて苦手」

「僕も初め、その筋の人かと思いました」

「それに、あたしのことガチャピンって言うし」

「ガチャピン?何で?」

「前歯が出とるけんやろっ、失礼やと思わん?」

「そりゃあ、失礼だ」

 僕は笑いを噛み殺して応えた。武志さんなら言いそうだ。

「武志さんに高砂さん、チャリさん、お三津さんと大将、それに、リッキーさんに、あつしさんまで。何か、あの人の友達のオンパレードやねえ」

「皆さん、いい人ですよね。お三津さんなんて人柄がそのまんま顔に出ていますよ」

「お三津さんか…。あの女性(ひと)も少しおっかないかなあ。いつも朗らかで優しいんやけど、品定めされてる感じ。笑っていても目がコワイんよねー。被害妄想なんかもしれんけど。

『あんた、かー君を幸せにできるん?』

って、思われているみたいな…」

「それは考え過ぎですよ」

「そーかなあ。女ってコワいんやけん」

 友子は意味深な笑みを浮かべた。

「ま、それはいいとして、チャリさんなんか、話には聞くけど、あたし、まだ会ったことないけん。レアよねえ」

「へええ。あっ、レアと云えば…」

 僕はアンヘルのことを話した。

 その話を聞いた友子は急にしょんぼりとして、

「そう…。アンヘルか…」

と、呟いたきり黙りこくってしまった。

「どうかしたんですか?」

 友子は黙ったまま前を見据えハンドルを握っていた。前歯で下唇を噛んでいる。何か考え事をする時の友子の癖だ。

 やがて友子は溜息と共に口を開いた。

「今日ね、実は、あの人と約束しとったんよ。あたし、日曜が休みってことが少ないの。そんな貴重な日やのに、今朝、電話にも出んし、家にも居らんしで心配になってKoolへ行って二階に上がってみたら、すっごくお酒臭くって、それに誰か居て、ふたりでぐーすか眠っとたんよ。もう、頭っきて飛び出してきちゃった」

「…そうだったんですか…」

「そっかー。あの人はアンヘルやったんかー。そんなら、しょうがないかなー。ふふっ、また飲んだんやろうなあ、馬鹿みたいに」

「ええ。すごく嬉しそうでしたから」

 友子の携帯電話が鳴った。

「あの人からだっ!」

〝ピッ〟友子は電源を切った。

「でも、まだ許せない。お仕置きよっ」

 僕は複雑な心境で空を見上げた。

 二十四時間も、もたない恋の熱をさらってゆく南風…。そんな詞を乗せて流れる歌が心に沁みた。

 港と一体化した海浜公園の横を通り過ぎる。青い空と海を背景に大きな観覧車やジェットコースター等があり大勢の人で賑わっているのが見えた。

[あいにゃあ][ひめにゃあ][みかにゃあ]というネコをモチーフにしたマスコットキャラクターもいるそうだ。

 海に突き出した木製の桟橋の上には小遊園地があり、レトロな回転木馬をはじめ、古き時代の遊具を楽しむことができるという。海鮮市場や食堂、ショッピングモールもある。今年の夏から開催される[媛まつり]の会場となる広大な広場と御船を展示する[媛まつり会館]もあった。地元の人ばかりでなく、海を渡って県外の人も遊びに来るそうだ。

 海浜公園の南には、昨日、山頂から見た工業地帯がある。雨が少ないこの街では海水から真水を作り工業用水として利用していて、副産物としてできる天然塩は今やこの街の特産品だという。

 友子曰く、

「海水の塩は一味違うんやけん」

 因みに天然塩の名は[媛のしずく]だそうだ。媛づくしである。

 海浜公園から海沿いに続く遊歩道[シーサイド・ウォーク]にはジョギングや散歩をする人達が行き交っている。今月はこの街で大規模なマラソン大会が催されるそうで、この遊歩道もコースになっているという。

 遊歩道の先に木々に囲まれた広場と高く聳える塔が見えた。

「あの塔は何ですか?」

「供養塔よ。あそこは市民の共同墓地なの。海と山とにあって、好きな場所へ皆と一緒に葬られるんよ。あたしの祖父もあそこに眠っとる。あたしもここを希望しとるんよ」

「皆と一緒に?」

「そう。親戚のおいちゃんも近所のお婆ちゃんも、この街の人達は、みーんな一緒。この街の人達は個別にお墓を持つことをやめたんよ。供養も家でしよる。あたしん家も居間に写真を飾って毎日一緒に御飯食べたり、お茶を飲んだりしよる。形式じゃなくて心で想う。それが供養やと、あたしは思うとる」

 遺骨を移した墓地は造成されて広場や公園になっているそうだ。

 心で想う供養か…。確かに形じゃなく心だよな。

 車は北へ向かう。左手には冬の海とは思えない穏やかで暖かい色合いの青い瀬戸内海が続く。海に浮かぶ丸みを帯びた緑の島々…。長閑な景色に心が和んだ。

「ああ…、友子さんのパスタ、美味しかったなあ。アランチーノもティラミスもカプチーノも」

「有難うございます。そう言って戴けると嬉しいです」

 友子がカズさんの口真似をする。

「友子さんも好きな職業(しごと)をしているんですよね」

「うん。お父さんが料理を作るのが好きでね、あたしはいっつも、お手伝いしよったんよ。それで好きになったみたい。お母さんやお姉ちゃんはそうでもないんやけど」

「お父さんも料理人なんですか?」

「ううん、大工さん。職業柄、朝が早いから、自分とあたしらのお弁当、朝御飯をお父さんが作ってくれてたんよ。お母さん、朝が弱いけん。お姉ちゃんも。あたしは朝起きるの平気やったから手伝いよった。休みの日には凝った料理を一緒に作ったもんよ。お父さんと献立決めて、買い物行って、分担して料理を作って…、楽しかったなあ。今でも料理しよる時にその頃のこと思い出すことがあるんよ。ついつい笑っちゃう。マリオやエンゾに、

『また友子が、料理に?微笑みの調味料?を入れている』

『〝いい人〟のことを想いながら料理するなんてけしからん』

『友子の料理は愛情過多だ』

なーんて、冷やかされるけど」

「ふーん。いいなあ。僕には何にも無いんですよねえ…。て、云うか、何にも考えてなかったのかな」

「何にも無いってことは、可能性が無限にあるってことやろう。いいやん。これから考えたら。青年の未来は明るい!」

「未来…か。友子さん、将来の夢とか、あるんですか?」

「えっ、あたしの夢?」

 友子が黙り込んだので、僕は友子の顔を覗き込んだ。下口唇を噛んでいる友子。考えてる。考えてる。段々と頬が赤らんでゆく。

「何か、恥ずかしいなあ…」

「いいじゃないですか、教えてくださいよ。夢なき青年には参考とするものが必要なんですよ」

「でも、誰にも言ったことないんよ」

「じゃ、僕が第一号です。ヒメの未来は明るい!」

「うーん。ま、ヨシ君ならいいっか。でも、誰にも言わんとってよ。あの人にも」

「はい。約束します」

 すでに友子の顔は朱に染まっていた。

「あたしの夢はね、あの人と結婚すること。それでKoolを一緒にするの。あの人がカクテルをつくって、あたしが料理をつくって。

お三津さんとこみたいに」

「なあーんだ」

「何よう、何で、なあーんだ、なん?」

「だって、そりゃあ、実現の可能性、大、じゃないですか。それなら大丈夫ですよ」

「そっかなあ…」

「そうですよ。何でカズさんに言わないんですか?」

「それは無理無理。だって前にも言ったやろう、はっきりした関係やないって。あの人は自由で居りたいんよ、きっと。あたしが勝手に好きなだけで…あの人を束縛して嫌われたくないし…他にも仲のいい女性(ひと)が居るみたいやし…」

「自由でいたい、か」

「あたしね、前につき合っていた人が、すっごく束縛する人で嫌で堪らんかった。初めは、愛されてるって思とったけど段々モノ扱いされている感じが強くなってきて…。兎に角、あたしが思い通りにならないと殴る蹴るで怖かった。あたしも我儘なとこあったけれど、それにしたって、あれは酷過ぎやったと思う。別れた後もしつこかったし。そんなことがあったけん、あの人とつき合う時に、あたしから言い出したんよ、束縛し合う関係はやめよう、って」

「それで、カズさんはどう言ったんですか?」

「それでいい、て。もともと、あの人は自由気ままにってタイプやけん、ちょうどよかったんやないかな。あの人からすれば、あたしは恋愛に疲れてたから自分のとこで羽を休めたら、また何処か()んでゆくって思とったんやないかな。齢の差や職業のことなんかもあるし…。今、思えば、あたしあの人に合わせて背伸びしとったんよ。はっきりした関係を求めたら振られるんじゃないかって怖かったし。

でも、つき合ってゆくうちに、あたしの方があの人を束縛したくなっちゃったし、あの人のとこが居心地よくなって、ずっと一緒に居りたくなっちゃった」

「うーん。素直に今の気持ちを言えばいいと思いますけどね。カズさんだって友子さんが好きだから、つき合っているんでしょう?」

「そ、それはそうだと思うけど…。そう簡単にはいかんのよ。大人の世界は複雑なのよ、坊や」

「坊や、て、二つしか違わないでしょっ」

「あたし、妹やけん、お姉さんに憧れとったんよ。甥はおるけど、年の近い可愛い弟が欲しかったなあ」

「僕はひとりっ子ですけど、兄弟が欲しいと思ったことはないですね」

 母さんが居てくれるだけで充分だった。強いて云えば、姉か妹が欲しいかったが、それは少しイヤらしい動機を持つ。

「あの人も、ひとりっ子なんよねえ。だから、ひとりが好きなんかなあ…」

「それは違いますよ。同じひとりっ子として言わせてもらえば、本当は寂しがり屋なんです。ただ強がっているだけですよ」

「そっかなあ…。でも、あの人、ひとりで旅したし、今もひとりで店しよるし、結婚せん、て言いよるし…」

「それは反動ですよ。寂しければ寂しいほど強がってみせるものなんです」

「ふーん。ヨシ君って学者みたいやね」

「一応、大学生ですから」

 ふたりで笑い合った。僕は自分のことを話しただけだ。僕が友達も彼女もいらない、と思っていたのは強がっていたからかもしれない。強がっていられたのは、母さんがいてくれたから…だろうか。

「ヨシ君は偉いなあ。あたし、勉強嫌いやったけん、大学に行こうなんて思わんかった」

「僕だって、勉強が好きなわけじゃないですよ」

 それなら何故、大学に行っているんだろう。就職に有利だから、か。しかし、一流大学ならいざ知らず、僕が通っている大学を卒業したところで、どれ程のことがあるだろうか。僕がうかうかと大学へ行っている間に、実社会に出ている人達はぐんぐん実力をつけている。僕は、何だか自分が随分無駄な時間と金の浪費をしているような気がしてきた。

「でも不思議なもんね。あんなに学校の勉強は嫌いやったのに、料理や食材、料理の背景にある文化や歴史について学ぶことは楽しいし、好きやもの」

「好きなことや興味があることについて調べたり、考えたりするのって楽しいですものね」

 好きなこと、興味あることから学んでゆけば、その学問は様々な分野に繋がり、広がってゆくのかもしれないな。学校の勉強が嫌いになるのは、興味を持つ前に押し付けられるからだろう。

「ん〜っ、ヨシ君に話したら、何だか、すっきりしちゃった。ありがとう」

「デ・ナーダ、です」

「あの人の真似やね。あーあ、今頃、アンヘルと居るんかなあ…。でも、旅しよる頃のあの人に出会わんでよかった。と、云っても、その頃のあたしは子供やったけど。先刻、あたしの夢を話したけど、今は、あの人がそこに居るだけで幸せ、って思っとんよ」

 そこにいるだけで、生きていてくれるだけで。それは失ってみて初めてわかることなのかもしれない。でも、それでは遅いんだ。失う前に気づかなければならないことなんだ。

 車は海岸道路を駈ける。道路のすぐ横は海だ。海ってこんなにきれいなものだったんだなあ。

 友子の両親は所謂、デキチャッタ婚で二十歳前に姉の愛子が生まれた。十代の頃はヤンチャだった友子の父親は結婚を機に大工の仕事に打ち込み十年で独立を果たした。工務店の経営も安定し、今度は息子を、という期待を裏切って生まれたのが友子であった。なので、姉とは十三歳離れている。友子の出産で母親は子供が産めなくなってしまったそうだ。姉は両親の若い結婚生活を見て育ち結婚に消極的だったくせに、ひょんなことから同級生と二十二歳で結婚した。旦那さんは結婚後から友子の父親の工務店で働き始め、現在は後継者と決まっている。二年後、待望の男の子が生まれ、更に年子で男の子、その二年後には娘が誕生した。十一歳で叔母さんとなった友子には甥が二人と姪が一人いることになる。

「でも、あたしのことは叔母ちゃんじゃなくて、友子ねえちゃんって呼ぶんよ。みんな可愛いんやけん」

 友子は両親と実家で暮らしている。姉夫婦は歩いて五分の所に住んでいるそうだ。両親と姉夫婦、甥姪、皆、仲睦まじく、実家の作業場で職人さんや同業者、友達の家族達と大宴会を開くこともしばしばだという。

 そうか。友子の明るく大らかな、そして思いやりのある優しい性格は、そういう生い立ち、家庭環境で育まれてきたものなんだな。

 姉が早々と〝大役〟を果たしたお蔭で、友子は自由気ままに過ごせるのだという。カズさんのことも姉だけには話してあるそうだ。

「お姉ちゃんたら、こっそりKoolへ行って知らん顔でカクテル飲んで、あの人と世間話したりして、次の日に、

『齢はいっとるし、ちょっと変わった人やけど、あんたにはあれくらいの人が丁度ええんよ。優しそうな人やない』

やって。あと、水商売っぽくないとこもいいって言いよった」

 海沿いのカーブをいくつか過ぎると[道の駅]が見えた。駐車場に車がズラリと並んでいる。何かイベントをしているらしく建物周辺は沢山の人で賑わっていて、仮設のステージではバンドが演奏をしている。

 その賑わいを横目に見るように車は通り過ぎ、大きなカーブを曲がった所にある駐車場へ滑り込むと止まった。こちらは打って変わって三台の車がポツリ、ポツリと止まっているだけで人気もない。

 友子は車から降りると大きく伸びをして紺色のダッフルコートを着た。陽の光が友子の髪を栗色に輝かせている。クセのないきれいな髪だ。

「ヨシ君、これ見て」

 友子は鍵に僕が贈った竹細工の鈴を付けてくれていた。

「これ、お返し」

 友子はコートのポケットから黄色い封筒を出すと僕に手渡した。開けると紺地に白い模様の入った絣の小さな袋が入っていた。袋の口は緋色の紐で結ばれていて紐には鈴が付いている。

「これ、友子さんが作ってくれたんですか?」

「うん。おばあちゃんから貰った端切れでね。お守り。ヨシ君の健康と幸せを祈って作ったけん」

 矢沢永吉の曲集も入っていた。友子のお気に入り曲集だという。

 礼を述べると友子は照れ臭そうに笑ってコートの裾を翻すと駐車場の一隅へ足を向けた。

 古びた四角い箱のような形の建物。白く塗られた外壁が青い海に映えていた。青い布地の庇に白い文字で[Creperie Takahama]と記されている。

「こんにちは!高浜さん」

 テイクアウトの窓へ友子が声を掛ける。

「やあ、友子ちゃん、久しぶり」

 坊主頭が少し伸びた髪|(こういうのをイガグリ頭と呼ぶのだろうか)の浅黒く日焼けした顔の男が顔を出した。

「一矢は元気かい?すっかり御無沙汰しちゃっててねえ」

「相変わらず元気、あの人は」

「そうだろうな。店内(なか)に入るかい?」

「お天気がいいから外で食べる。何だか今日は暖ったかい」

「夕方から、雨になるだろうな」

 高浜さんにそう言われ空を見上げる。確かに雲が多くなったようだ。

「ヨシ君、何食べる?蕎麦粉で作ったギャレットが美味しいんよ。でも、一つじゃ物足らんかもしれん」

「お任せします。食欲ないから一つでいいです」

 このところ酒の飲み過ぎで胃がもたれた感じだった。

「そう。じゃ、高浜さん、ハムとチーズのギャレット二つ。…と、ミックス・プレスサンドも二つ、お願いします」

「あいよっ。待つ間、これ飲んでてよ」

 高浜さんが陶製のマグカップに注いだあったかいコンソメスープを出してくれた。友子は礼を述べると、高浜に僕を紹介してくれた。

 高浜さんは以前、東京でソムリエをしていたという。働いていた店が閉店したのを機会にヨーロッパへ渡り、各地のワイナリーを巡りとクレープの研究をしている時に、ボルドーで旅をしていたカズさんと知り合ったそうだ。

 話をしながら高浜さんは円い鉄板の上で器用にクレープを焼き上げた。手に職というのか、技術を持った人というのは格好いい。

 友子はシードルの小瓶も二本買うと海辺へ歩き出した。僕がお金を出そうとすると、

「あたしが誘ったんやけん」

と、言って友子はにっこりと笑った。

 駐車場から一段下がった遊歩道をふたり並んで歩く。横を向くと友子の頭越しに海が見える。少し目線を下げると友子と目が合った。微笑む友子。束の間、恋人気分。

「これ、高浜さんとこでしか手に入らんのよ」

 友子がシードルの小瓶を差し出す。フランスのノルマンディー地方から直接仕入れているそうだ。貼紙(ラベル)には赤い林檎の絵があった。

 友子と並んでベンチに腰掛けた。砂浜には誰も居ない。強い海風が友子の髪を乱す。友子はコートの中に髪を仕舞い込むとギャレットを頬張った。僕もギャレットを頬張り、シードルを飲んだ。初めて食べた塩味のクレープ。蕎麦の風味がまたいい。甘酸っぱいシードルとよく合った。急に食欲が湧いてきて、僕はプレスサンドもペロリと平らげた。そんな僕に友子は自分のプレスサンドを半分、分けてくれた。

「人の縁、って、不思議ですよねえ。カズさんは旅先でアンヘルや高浜さんと友達になったんでしょう?僕には考えられないや」

「何言うとん。ヨシ君だって、そうやない。あの人やあたしと友達になったやろう」

「あっ、そうか。そうでした。そういや、友子さんはどうやってカズさんと出会ったんですか?」

「えっ、それを聞いちゃう?」

「いや、嫌だったら構いませんよ」

「まあ、参考になるかどうか分からんけど…」

 …料理の専門学校を卒業した友子は講師の紹介で繁華街のレストランに就職した。講師の友人である年輩のシェフは厳格な人で新米の友子にも容赦なく、朝から深夜までコキ使われた。しかし、元来、健康で明るく前向き、勘の良い、そして何よりも料理好きの友子には苦にならなかった。むしろそんな日々が楽しかったという。

 学生気分が抜け、仕事に真剣に取り組む先輩や仲間達との触れ合いで考え方が変わってきたのと、時間のすれ違いから関係が拗れ、つき合っていた彼|(束縛彼氏。高校の二つ上の先輩だが職を転々としプータローだったそうだ)と別れた。しかし、その彼は別れてからも執拗に復縁を迫り、帰り道で待ち伏せしたり、数々の嫌がらせをしたりしてきた。特に待ち伏せが怖かった。つきまとわれ、強姦されそうになったこともあった。

 結局、友子の父親が相手の家へ乗り込み話をつけたが、毎晩、店長が家まで送ってくれていたそうである。店長は傷心の友子に優しく接してくれ、仕事面でも何かにつけ優遇してくれるようになった。

 帰り道、店長にBARへ誘われることもしばしばあった。店長には妻子があり、歳も一回り上だったこともあって友子も気を許し気軽につき合い、店長の家庭や職場の愚痴を聞くようになっていった。

 店長は初め紳士的であったが徐々に下心を顕わにするようになってきた。時折、冗談めかしてホテルに誘われることもあった。

 自棄気味になっていたのと、寂しさ、虚しさ…、そして店長への同情と感謝…。この頃の友子は様々な感情が入り乱れ精神的に不安定な状態だった。

 そして、大忙しのクリスマス・ディナーを終えて、閉店後の打ち上げ会でワインを飲み過ぎ朦朧としていた友子は店長に誘われるがまま、初めてゆくBARに連れて行かれた。

〝これでホテルに誘われたら、ついて行ってしまうだろう…。もう、どうなったっていいや〟

 その時の友子は、そんな気持ちだったという。

 シェイクの音が響き、店長が、お任せでと註文したカクテルが友子の前に差し出された。塩で縁どられたスラッとしたグラスに入った真っ白なカクテル。口元に運ぶとグレープフルーツの爽やかな香り。口づけると、砂糖の仄かな甘みと、(友子曰く)清らかな味がした。突き上げられたかのように友子は顔を上げバーテンダーを見た。

洗い物をしていたその人も友子の視線に気がついて顔を上げ、目が合うと優しく微笑みかけてくれた。

 これが友子とカズさんの出会いだった。因みに、友子が[Kool]で初めて飲んだカクテルは[雪の妖精]である。

〝こんなことしてちゃいけない〟

 カズさんのカクテルで友子はそう悟ったという。勿論、カクテルだけではなくカズさんの佇まいや所作からも〝何か〟を感じたのだろう。後日、そのことを告げるとカズさんは、

〝それは、(友子に)時機が来ていただけで、たまたまでしょう〟

と、言ったそうだ。

 トイレで友達に電話を掛けるように頼み、嘘の急用で店長を振り切るようにして友子は帰宅した。

 翌日からは店長に送ってもらうこともBARへの誘いも断った。

店長との関係は気まずいものとなったが、年末年始の忙しさで仕事以外のことを考える余裕がないのに救われた。

 一月半ば、やっと落ち着きを取り戻した店に大問題が勃発した。シェフが一月末で辞めることになったのである。友子が入店する以前からシェフとオーナーの間には厨房スタッフの待遇や料理の内容等を巡って対立があり、年内に改善がなければシェフは辞めるとオーナーに告げていたそうだ。

 料理人の世界には〝総上がり〟という、しきたり|(料理長が辞める時はスタッフ達も一緒に辞める)、があるという。シェフはそんなことは望まなかったそうだが、主なスタッフ達は自主的に辞意を表明していた。

 ちょうど、店長とも気まずくなり、それに友子自身も新米で不満を言える立場ではなかったが店の待遇に疑問を持っていたこと、シェフのお蔭で就職できた恩義もあり辞めるべきか辞めざるべきか悩んだ。

 その悩みの相談に乗ってもらう為|(これは口実だったそう。ずっと会いたかったそうだ)、友子は[Kool]の扉を開けた。

 幸いなことに客は友子ひとりだった。友子はカズさんが作ってくれた温かいカクテル|(バタラムミルク。これは友子がこの時、呼び名をつけたのだという)を飲みながら、まるで旧知の仲だったかのようにカズさんと話せたそうだ。

 カズさんは友子の話をじっくりと聞いた上で、

〝辞めるのなら、友人の店を紹介しますよ〟

 と、言ってくれたそうだ…。

「あれは、あの人が希望を与えてくれたんよ。過去に囚われていたあたしの心を未来へ向けさせてくれたんやと思う」

 そう言って友子は遠くを見た。

 …カズさんが紹介してくれた店は[ARANCIA]だった。友子の憧れの店だったのだ。

 一月末にシェフと共に店を辞め、翌日から[ARANCIA]で働き始めた。働き出して十日目、マリオが〝スペチャーレ〟なチョコレートの作り方を教えてくれた。マリオはパスタを切る器械や押し型を自分で作る。そのチョコレートの型もマリオの作ったもので、〝矢〟と〝ハート〟の型であった。

 二月十三日の夜、友子は自分の作ったチョコレートを持って、[Kool]を訪れカズさんに告白した…。

「早っ。いきなり、ですか?」

「家系かな?お母さんもお姉ちゃんも電光石火やったし。それは冗談やけど、?きめてやる今夜?って思ったのは覚えとる。マリオに紹介してくれた時も店へ一緒に行ってくれたし、何度か会っているうちに確信したんよ。

〝この人は断らない。あたしを見捨てない〟って。

 ただし、結婚という言葉はタブーにしよう。束縛はしちゃいけないってことは分かってた。それは、あたしにも抵抗があったし。若さゆえかなー、あの時のあたしは、型はどうでもいい、兎に角、あの人と身近な関係に、あの人の特別な存在になりたかったんよ。あの人と一緒に居りたかったんよ」

「ふーん。その気持ち、何となく分かります」

「だから、もうじき二年になるんよ。あっという間やったなあ」

 友子は視線を海の彼方へ向けた。

「あたし、ここの海が好きなんよ。何か穏やかで…。寂しい時とか辛い時とかも、この海を見ていたら心が落ち着くの。あの人もね、この海と(おんな)じ。一緒にいると落着くの。あたしって、お父さんっ娘やし甘えん坊やけん、何でも許してくれるような、包んでくれるような、そんな人が好きみたい。時々、子供扱いされて、腹立つけど。あの人だって、少年(こども)みたいなとこあるくせにねえ。…そうそう、あの人、子供の頃、こんなとこまで泳ぎに来よったんやって、自転車こいで…」

 自然とカズさんの話になった。お仕置き、と言いながらも友子はカズさんのことが気になるのだろう。カズさんが羨ましかった。僕にも友子のような()が側にいてくれたなら、どれだけ心が安らぐだろう。

 僕は昨夜の酔っ払った鴨川さんのことを話した。立ち尽くしていたカズさんの言葉も。

「あの人は、きっと、こう思っとるはずよ。俺は一所懸命に仕事をして、美味しいカクテルと居心地のいい雰囲気をつくって、みんなに、いい気分になってもらおう、って。それが、俺のできることだ、って」

 友子は優しい眼差しで海を見つめ言葉を続けた。

「あの人ね、意地っ張りで、俺が、俺が、って、何でもひとりで抱え込んで平気な顔して、それはそれで、あの人のいいとこなんやろうけど、カズ君だって、あの人だって、辛い時、甘えたい時があるはずなんよ。そんな時、あたしが包んであげたいな、って…」

 僕の中を何かが激しく突き上げた。頭の奥がカッと熱くなり、一瞬、目の前が真っ暗になった。

 気がつくと、僕は友子を抱き寄せ、友子の口唇を奪っていた。友子は身動ぎもしなかった。ただ、口唇を固く閉じたまま、(じつ)と哀しげな瞳で僕を見つめていた。

 僕は友子を離すと走り出した。砂浜へ跳び降り、何処までも何処までも走る。やがて、砂に足を取られ僕は砂浜に倒れ込んだ。仰向けに転がる。心臓がバクバク鳴っていた。胸を掻き毟りたくなるような、…後悔。…自己嫌悪。

 海を眺め続けた。海の彼方から灰色の厚い雲が空を覆い始め太陽を隠した。寒々とした強い風が吹き付ける。何であんなことをしてしまったんだろう…。カズさんを想う友子を見ていたら、嫉妬?憎悪にも似た激しい感情が突き上げてきて、友子を滅茶苦茶にしたいような…、抱きしめたいような…。でも、これからどうするんだ。このまま逃げるのか。何とか誤魔化して取り繕って気まずく別れるのか…。答えは決まっていた。

 どれくらい、そこに居ただろう。僕は重い腰を上げると、一歩一歩砂を踏みしめ、元いた場所へと歩いた。吹きすさぶ冷たい風と荒れた灰色の海。友子は膝を抱き、ぽつん、とベンチに座り海を見ていた。

 僕は友子の横で立ち止まった。そして、言った。

「友子さん、好きです」

「えっ…」

 見上げる友子の目を見つめ、僕は気持ちを搾り出すようにして言葉を続けた。

「先刻はすみませんでした。いきなり、あんなことをしてしまって。何か抑えきれない衝動があって…。それで、あの…、今まで僕、女の子とつき合ったことなんてなかったんです。いつも振られることばかり考えてしまって告白すらもできませんでした。でも、今は、ちゃんと告白します。僕は友子さんが好きです」

 自分でも何を言っているのかよく分からなかった。でも、先刻のコトを謝ることと友子が好きだということは言えた。

 友子は立ち上がり、僕の目を見つめた。痛いくらい真っ直ぐな友子の視線。

「あたしも、ヨシ君のことが好きよ。でも、それは…」

「分かっています。友子さんにはカズさんがいる。ただ、どうしても、僕は自分の気持ちを伝えたくて…。友子さんには迷惑でしょうけど、すみません」

「ううん、謝るのはあたしの方よ。ごめんなさい。あたし、あの人に当てつけてたんよ。ヨシ君の好意を知りながらヨシ君を利用して…。馬鹿ね、そんなことしても何にもならんのに。本当は、あの人を包んであげたいのに…」

 分かっていた。それでも僕は友子と一緒に居たかったんだ。

 友子は潤んだ目を伏せ下口唇を噛み締めていた。涙を堪えているようだ。友子を泣かせたくはない。

 沈黙の時が流れる。風と波の音。

 僕は言葉を探すように海へ目を向けた。テトラポットに波が打ち寄せる。砕けた波が裂けて散ってゆく。

「じゃあ、友子さん、あいこ、にしませんか?」

「あいこ?」

「そうです。僕も友子さんに迷惑を掛けたし、友子さんも僕を利用した。それで、あいこ、です」

「そんなんで、構んの?」

「はい」

「ありがと。優しいんやね、ヨシ君て」

 友子に笑顔が戻った。

 ――雨。

「帰ろっか」

 帰り途、車の中でふたりの口数は少なかった。僕は矢沢のバラードを聴くとはなしに流れる景色を眺め続けた。[雨のハイウェイ]が切なく響いた。

 車窓を叩く雨は次第に強さを増してゆく。

 夕焼けは熱い灰色の雲に遮られて見えなかった。ただ辺りが暗くなってゆくだけだった。

 

 ホテルの部屋へ戻り、ベッドに倒れ込む。

 お守りを見詰める。…友子。固く閉じられた口唇。…哀しげな瞳。分かってはいたことだが、友子は僕を受け入れてはくれなかった。振られたのは誰の所為でもない。僕の所為だ。受け止めよう。惨めで、切なくて、淋しい…。今まで、これが怖くて逃げ回っていたんだな。惨めな自分を認めたくない。惨めな自分と向き合いたくない。行動せず、努力せず、テキトーにやっていれば、本当の自分は傷つかずきれいなままで置いておける。失敗したって、〝あれは全力じゃなかったから〟〝テキトーにやっていたから〟と、言い訳ができる。まだ、昨夜の酔っ払い、鴨川さんの方が、足掻いているだけマシかもしれない。もう、誰の所為にも、何かにすり替えることもできなくなってしまった。本当の自分とは、今の惨めな自分だった。

 僕はアンヘルに貰ったブランデーの栓を開け、瓶に口をつけ呷った。強いアルコールに咽る。それでも構わず喉に放り込むように呷り続けた。喉が、胃が、熱く燃えるようだった。一刻も早く、正体を失って眠ってしまいたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 空腹で目醒めた。アンヘルのブランデーは半分も減っていなかった。もっと飲んだ気がしていたのに…。空きっ腹で酒の回りが早かったのだろう。

 酒に呑まれる人の気持ちが少し分かったような気がした。辛さ苦しさ哀しさ淋しさ…、そんな気持ちを紛らわせる為、人は酒を飲み酔っ払うのだろう。しかし、それは何の解決にもなりはしない。皆、それは分かっている。分かっているけど止められないのだろう。

 人の弱さ。父が酔っ払ってクダを巻いたのも、そんな人の弱さからかもしれない。今の僕は父の弱さを責めようとは思わない。母さんが酔っ払った父に優しかったのは今の僕と同じ気持ちだったからかもしれない。

 重くだるい体を引きずるようにして僕は部屋を出て、ホテルのレストランで焼魚定食を食べた。日頃、魚など食べつけていないので何の魚かはわからないが、多分、鯖であろう焼魚は脂がのって美味しかった。味噌汁を啜ると、胃が、ほっと一息ついたような感じがした。母さんは味噌汁が嫌いだった。その所為か朝食はトーストが多かった。ただ、母さんの休日の翌朝は御飯と焼魚などの和食を拵えてくれた。献立の構成上、味噌汁を作ってくれたが、母さんは食べなかった。僕は味噌汁が嫌いではなかった。ひとりで食べる晩飯は弁当と即席味噌汁が定番だった。母さんは仕事が休みの日、ハンバーグやトンカツ等、僕の好物を作ってくれたが、たまに母さんの好物である魚や野菜の煮物を作ることもあった。その時は渋々食べていた。それどころか箸をつけなかったことさえある。今となれば、そんな料理の方が懐かしい。もっと食べておけばよかった。もっと、母さんの好物を食べさせてあげればよかった。て、云うか、日々の晩飯だって、僕が支度をして母さんの帰りを待っていてあげればよかったんじゃないか。僕は部活をしていたわけでも、塾に通っていたわけでもない。漠然とテレビを観たりゲームをしたりしていただけだ。時間はたっぷりあったのに。…そうやって料理に親しんでいれば、友子のようにコックになりたいと思ったかもしれない。僕は何て無駄な時間を過ごしてきたんだろう。

 雨は降り続いていた。僕はホテルの部屋に籠りカズさんの本を読み耽った。気を紛らわす為に読み始めたのだが、読み進めてゆくうちに、その面白さに夢中になっていた。

 本や映像等からだけではなく、自分の目で見て耳で聞いて鼻で嗅いで舌で味わって肌で心で感じて、体験からも知識を得たい。経験から学び考えたことをバーテンダーの仕事、修業に活かしたい。そんな志を抱き、〝バーテンダー浪人〟|(カズさんらしい肩書だ)として国内外のBARを巡った旅での様々な出会いと経験。BARと酒のことが主だが、アンヘルのような友ができたり、偽警官に騙されそうになったり、恋をしたり、失恋したり、ホモに迫られたり、街のつくりに感心したり、きれいな景色に心を奪われたり…。色々なエピソードからも目的を持った人の強さと熱さが感じられた。

 …まあ、兎に角、この人は、カズさんは、前向きで楽天家なのだ。何事に対しても、好いように好いように考えて楽しみながら行動する。すると不思議なことに物事が好いように運んでゆく。カズさんも数々の間違い、過ち、失敗をしている。でも、それらが結局は好い結果へと繋がってゆくのだ。幸せなんて気の持ちよう、考え方次第、なんて云うが、世の中って案外そんなものなのかもしれないな。本を読み終えると何だか元気が出てきた。

 夕方、僕は縁起を担いでカツ丼を掻っ込み喝を入れると、ホテルで借りた傘を差し街へ出た。

 激しい雨に打たれながら[Kool]へと歩く。何故か、友子が居るような気がした。初めてのキスに初めての告白。結果は惨々だったが、〝当たって砕けた〟そんなスッキリとした気持ちのようでもある。これもカズさんの本の影響かもしれないが、やってしまったこと、おこってしまったことを後悔しても忘れ、消し去ろうとしたって仕様がない。それらを抱えて、〝前向いて進め!〟と、僕の心が叫んでいる。僕は友子が好きなんだ。今は、その気持ちを抱えていればいい。淋しさも切なさも含めて。

 [Kool]の扉を引き開ける。入り口横にオブジェのような黒塗りの鉄製傘立て。カズさんがデザインして、友たちが溶接、組み立て、塗装してくれたものだという。濃い赤色の傘が一本。

 カウンターの中程の席にひとり、小柄な女の人が座っている。

 カズさんがタオルを差し出してくれた。傘を差してはいたのだが、肩や背中が濡れていた。

「大戸さん、こちらへお掛けになりませんか?」

 カズさんが女の人の隣の席を勧める。

 白髪掛かった短めの髪。涼しげな目元。年輩だが颯爽とした感じで濃紺のスーツがよく似合っている。

「ああ、彼が旅の学生クンね」

「つい、先刻、大戸さんのことを話していたんです。こちらは、好美さん」

「どうも、大戸です。今晩は」

「今晩は。先刻、カズ君が、若い頃の自分を見ているようだ、って、言っていたけど、何となく雰囲気が似とらい」

 カズさんと僕が似ている?それは嬉しい言葉だったが、僕は面映ゆくなって、カウンターへ視線を逸らした。好美さんの前には赤いカクテルが置かれていた。

「それ、何ですか?」

「カンパリソーダ。美味しいよ」

 僕もカンパリソーダを註文した。

「わたしが御馳走するわ。大戸君はお遍路さんじゃないけど、旅人へささやかなおもてなし」

「ありがとうございます。あの、お遍路さん、て、何ですか?」

「四国にはね、弘法大師ゆかりのお寺を巡る、八十八か所巡り、というのがあって、そのお寺を巡る人のことを、お遍路さん、って、呼ぶんよ。四国には、お遍路さんに差し入れをしたり、家に泊めてあげたりして色々なお世話をしてあげる、そんな風習があるんよ」

「何か、聞いたことがあります」

 カンパリソーダ。好美さんとグラスを軽く合わせる。

 ほろ苦く、微かに甘い。何というか、大人の味かな。

「その八十八か所巡りは、何か御利益とかあるんですか?」

 好美さんは少し戸惑ったような表情で、マイルドセブンに火を点けた。

「御利益か…、そうねえ…。人によって目的は様々だろうけど、わたしの場合は、一人息子の供養の為だった。単車の事故だった。単独の事故で人様を傷つけなかったのがせめてもの…だったけれど。夫に先立たれて女手一つで育て上げて、やっと一人前になった、と思った矢先のことだったの。何か、いたたまれなくて、(じつ)としていられなかった。でもねえ、巡ってみたところで、息子が生き返るわけでもないし、巡っている間は他のお遍路さんと親しくなったりして気も紛れたけれど、巡り終えれば、また元の木阿弥でねえ。所詮、供養だなんて云っても、息子の為じゃなくて、自分の為、残された者の自己満足のような気がして…。息子の死が哀しいだけじゃない。息子を亡くした私が哀れで可哀想だったところもあったんよ。自分で自分を憐れんでいたんよ。自己憐憫ってやつね」

 僕は返す言葉もなく、漂う紫煙を見詰めた。

「…で、巡り終えても茫然としていて、そればかりか、息子の後を追おうか、とさえ思うようになっていた時に、友達が此処に誘ってくれたの。まあ、見るに見兼ねたんやろうねえ。そしたら、カズ君は、お母さんを亡くしていて…。それで、此処へ来るようになって、カズ君と話をするうちに、わたしもやっと息子の死を抱えてゆけるようになったんよ。どうしようもないことが世の中にはあるんよ。それは、受け止め、抱えてゆくしかないんよ。ま、今は、そんなに堅苦しい感じじゃなく、いつも傍にいるような、一緒に生きているような、そんな感じなんやけどね」

 重い内容の話ではあったが、好美さんの口調は世間話をするようだった。

「俺の母は四十九歳で逝きました。俺が二十五歳の時でした。母は俺が十歳の頃から女手一つで俺を育ててくれて、元気な人でした。あまりに突然な死だったので、俺は驚き、そして、途方に暮れました。母は師のような存在でもありましたから。しかし、やがて俺は、逝くまでしっかり生きようと思うようになりました。母は逝くことによって俺に生きることを教えてくれました。

『いつか人は逝く、だから逝くまでしっかり生きなさい』

『あたしの供養なんていらないから、その分、今生きている人、あんたも含めて、みんなを大切にしなさい』って。と、思いつつも、後ろの床の間、俺は神棚と思っていますが、は、母を祀っています。まあ、これくらいなら母も許してくれるでしょう。母のことを見知っている京都の宮大工の友人が開店祝いに造ってくれました。」

 そう言って、カズさんは優しい眼差しを神棚へ向けた。

 振り返り、僕も神棚を見詰めた。

 そんな意味があったんだ…。そう思って見ると、色合いや風貌が女性らしい感じもする。

 死。どうしようもないこと。いつか人は死ぬ。その事実を抱えてゆくしかないのだろう。カズさんも母子家庭だったんだな。僕と同じ境遇だったんだな…。僕の母さんが教えてくれたこと…。

「何かね、息子を亡くした母親と母親を亡くした息子が出逢って、母親の方が教えられたんじゃあ、立つ瀬がないけれど、もし、わたしの方が、息子よりも先に死んでいたら、やっぱり、カズ君のように思って欲しいと望むと思うの。息子もきっと、母さん、しっかり生きてよ、元気でいてよって望んでいると思うのよ。優しい子だもの、あの子は…。

 逝ってしまった人の望みを察する。まあ、その望みは生きている者の、残された者の手前勝手な幻想なんやけど、それは、〝もしも自分ならどう思うか?何を望むか?〟という想像力、思いを遣ること、―思い遣りから導けると思うの。これは逝った人にだけじゃない。生きている人、傍にいてくれる人、全ての人に思い遣りを持って接することが、これは生きている人の方が楽よね、分からなければ尋ねることができるもの。そういう思い遣りを持つことが、生命の大切さ、有難さに気づいた者の役割じゃないのかな。大切な者を、愛する人を亡くした者の役割なんじゃないのかな。そう私は思っているの。その役割をカズ君も私も振られたのよ。気づけるのか、引き受けるかどうかは自分次第だけどね。私は引き受けることを決めたってわけ」

 僕が死んでいたら、母さんはどう思っただろうか…。僕は母さんに何を望むだろうか…。

「御免なさい、湿っぽい話をしてしまって。大戸君みたいな若い人を見ていたら、ついつい息子のことが頭を過って、今を大切に生きて欲しいなって思ってしまうのよ。ホント、大きなお世話よねえ。気を悪くせんといてね」

「いえ。大丈夫です」

「で、話は元に戻るけど、わたしにとって、御利益は、カズ君に逢えたことかな。あと、歩きながら色々なことを考えられて、自分を見詰められたこと、体力に自信がついたこと。歩いて巡ったからねえ。あんなに歩いたのは人生で最初で最後やろうねえ。色々、自分で考えて、自分を見詰められていたからこそ、カズ君の言葉も心に響いたんやと思う。まっ、そんなこんなで、わたしはカズ君の母親がわり、って勝手に思ってんのよ。迷惑やろうけどね」

「とんでもない。ありがとうございます」

「じゃ、遠慮なく言わせてもらおうわい。あんたもそろそろ結婚しなさいよ。結婚も子育ても修行の一つなんやから」

「はあ…」

 カズさんは溜息にも似た声と共に項垂れた。

「あんたは、まだ若いつもりかもしれんけど、もう五十歳を越えとんやけん。あんなに、あんたのことを想うてくれる娘は居らんのやけんね。あんまり待たせよったら、友ちゃんの気持ちが変わるかもしれんよ。

 それに、あんたには欠けとるもの、足らんものがある。それを補って、満たしてくれるんは友ちゃんやとわたしは思うとる。上手くは言えんけど、あんたはひとりで生まれ育ったんじゃない。結婚もしない、家族を持とうともしない、ってのは、あんたの存在を否定することになるんじゃないかしら。それで、十全に生きているって云えるのかしら。相手が居らんのやったら、いざ知らず、あんたには友ちゃんが居るんやからね」

「好美さん、酔ってるでしょう」

「酔ってないと、こんなお節介、言えんやろう」

「言えてます」

 ふたりが笑う。本当の母子(おやこ)みたいだ。

 生きてゆく。こうやって残された者達は新たな関係を築いて生きてゆく。

 僕が死んでいたら、母さんに生きて欲しいと望むだろう。後なんか追って欲しくない。供養なんかいらない、泣き暮らして欲しくもない、幸せに生きて欲しいと望むだろう。

「大戸君も、お母さんを大切におしよ」

「…はい」

 僕はそう応えるしかなかった。その答を選らんだ。

 扉が開く。―雨音。

 友子だった。いつものように髪を後ろにまとめ、お下がりの革ジャンにジーンズ。濡れたオレンジ色の傘。

「あら、友ちゃん、ちょうどよかった」

「あっ、好美さん、今晩は」

 友子は僕越しに好美さんへ挨拶してから、

「ヨシ君、今晩は」

 と、声を掛けてくれた。

 友子と目が合った。微笑む友子。僕も微笑みを返した。少し引き攣っていたかもしれない。

「今、友ちゃんの話をしよったんよう」

「えっ、何?何?」

 友子は僕の後ろを通り過ぎ、好美さんの隣に座ってしまった。

「好美さん、口は禍の元ですからね」

 カズさんが友子におしぼりを渡しながら言う。

「はいはい。カズ君、御代わり戴けるかしら」

「あたしもカンパリソーダください」

「僕もお願いします」

「折角だから、カズ君も飲みなさいよ。皆で乾杯しましょっ」

 カズさんが作業を始めると、好美さんは友子に顔を寄せ何かを囁いた。

「その話は、後で…」

 友子の声が聞こえた。

「はい。お待たせいたしました」

「あら、早いじゃなーい」

「同じものでしたから」

「ふーん。じゃ、かんぱーい!」

 好美さんがグラスを掲げる。友子はグラスを合わせると、一気に飲み干してしまった。

「マスター、御代わりください」

 友子が空いたグラスを差し出す。

 一瞬、友子とカズさんの視線が絡んだ。

「あら〜、いい飲みっぷりね〜。友ちゃんなら、いいわよう。カズ君は目が小っちゃいけど、友ちゃんに似れば、目がぱっちりした可愛い子ができるわ」

 …言いたい放題の母親だ。

 月曜だからか、雨だからか、客は来なかった。

 好美さんも〝一言〟の後は、カズさんを揶揄うこともなかった。

 友人知人のこと、小説や映画など、取り留めのない話をしているうちに歌の話になった。

「わたしは、ジュリーね。タイガースの頃から好きだった。あんなに華があって艶のあるスターはいないわ」

「俺も母の影響で好きでしたよ」

 噴水のステージで歌ってくれたカズさん。随分と前のような気がする。

 …僕がサザンを好きなのも母さんの影響だ。親の影響。それは歌だけじゃないよな。僕が絵を好きなのも母さんの影響だ。僕が小学生の頃、母さんと一緒によく美術館へ行った。シャガール、モネ、ルノアール、ゴッホ…、そういった画家の絵が母さんは好きだった。あの頃、僕は絵を描くのも好きで、写生大会ではいつも何かしら賞を貰っては母さんに褒めてもらっていたものだ。

「あたしは、矢沢さん。そうだ、マスター、[逃亡者]ください」

 カズさんが伊予柑を搾る。弾けた香りが鼻を(くすぐ)る。ロックグラスを満たす鮮やかな夕焼け色。カンパリが揺蕩(たゆた)うように底を赤く染めている。

―逃亡者。僕はこの街に逃げて来たのだろうか。逃げて来たのだとしても逃げようとしても自分の心からは逃げられはしない。

「はい。ヨシ君」

 友子がグラスを渡してくれる。柑橘の甘酸っぱい香り。グラスに口づける。一瞬、友子の口唇の感触が脳裏を過った。滑らかな口当たり。後に残るほろ苦さ。見掛けによらずアルコールが強い。ジンがしっかりと効いている。

「旬の果物のカクテルもあるんよ。蜜柑が終わって、今は伊予柑」

 友子が僕の方へ催促するように手を伸ばす。

「いー予感ってね。伊予柑を使ったバームクーヘンも人気があるんよ。伊予柑の香りとさっぱりした甘酸っぱい味わいが好評でね、断面が的の模様で、矢をモチーフにした楊枝がついてるの。

『みかにゃあの伊予柑バーム。的中!いい予感』

あの宣伝、耳に残るわ〜」

 と、言いながら好美さんが[逃亡者]を友子へ渡してくれた。

「俺は地元の柑橘類や旬の果物をうまくカクテルに取り入れたいと思っています。四季があって、旬がある。この楽しさをカクテルで表したいですね。そもそも…」

「友子さん、[逃亡者]って歌があるんですか?」

「うん。ヨシ君にあげた、[お気に入り曲集]に入っとるよ」

 友子は僕の意図に気づいたようで、共犯者の笑みを浮かべて言葉を続けた。

「このカクテルは、[逃亡者]のプロモーションビデオでね、オーストラリアのグレートオーシャンロードにある岬で矢沢さんが夕焼けを背景に歌っているシーンを表現したんやって。マスター、話し出したら長いけん、あたしが先に言っとく」

「それもありますが、歌詞や曲からのイメージも表現しています」

 カズさんがつけ加えた。

 その岬のことはカズさんの本に記されていた。[永吉岬]とカズさんが名付けた海に突き出した断崖絶壁の細長い岬。カズさんはその岬の先端に立ち、此処に立てたこと、ひいては全てに感謝した。夕焼けに染まる海と空に体と心がとけて広がってゆく…。そんな爽やかな清々しい感覚を味わったそうだ。

 友子が体を揺らし、[逃亡者]の出だしを歌い出した。

 カズさんもそれに合わせて続きを歌う。逃げ出して、南へ向かった、今、答なんかはないと気がついた。そんな詞だった。

 カズさんの目が遠くを見ている。きっと心は永吉岬へ()んでいるのだろう。

「カズ君が永ちゃんを好きなのは分かるけど、友ちゃんが好きなのはどして?若いのに」

「あたしは、両親が矢沢さん好きで、その影響かな。父なんか結婚式で[アイラブユー、OK]をギターで弾いて歌ったんよ。動画をよく観せられたわ。お父さんたら、素肌に白いスーツ着て、リーゼントでキメて、すっかり成りきっとるんよ。今は可笑しいけど、子供の頃はカッコイイって思いよった。そんな思い入れもあって、お姉ちゃんの名前は愛子なんやけど、アイ、ラブ、から取ったんやって。あたしは、ユーから取って、初めユーコで、優子、裕子、祐子…って、色々候補があったんやけど、おばあちゃんが字を見て、トモコって読んで、

『友子。いいー名前だねえ』

と、言ってくれたのと、おばあちゃんのお祖父さんが、友蔵やったこともあって友子になったんよ」

「歌から名前を取るなんて、何だか安直ねえ」

「あたしも、そう思って父にそう言ったことがあるんよ。そしたら、父曰く、『何言うとんぞ。名前ちゅうのはなあ、読みやすくて、その名前に込められた思い、意味が大切なんやが。私とあなた。愛と友は人生で大切なものやろうが。俺がいて、お前がいる。愛があって、友がいてくれたら、全てOKなんやが』だって。成程って思って、ちょっと感動しちゃった」

「ふーん。確かにそうねえ。お父さん、いいこと言うじゃない。近頃、読みにくい名前も多いからねえ。友子って、ちょっと古風な名前やと思いよったけど、そんな由来やったんやねえ。まあ、熱狂的な人もおるもんねえ。永ちゃんかあ。スタイルを維持しているのは素晴らしいとは思うけど。…ジュリーは太っちゃったからね。まあ、それはいいのよ。ひとときでも美しい素敵な夢を見させてもらえたんだから。でも、永ちゃんは、何処がいーのか、わたしにはさっぱり分からんねえ」

「マスターも、この曲だけはギターで弾けるようになったんよねー」

 友子が悪戯っぽく微笑む。

「カズさん、ギター弾けるんですか?」

「ええ、まあ…。でも、この曲しか弾けません」

「へえー、それは初耳ね。ちょっと、弾いとおみ」

「いや、でも、ギターが…」

「ギターは二階(うえ)にあるもんねー」

「あっ、僕も見ましたよ。二階にあった」

「年寄りの云うことは聞くもんよ」

「後学の為に是非、聴かせてください」

「あたしも聴きたいなー」

 三人の攻勢に、カズさんは不承不承、二階へ上がり、取ってきたギターを抱えた。なかなかサマになっている。

「お客さんが来たら止めますから」

 カズさんは一度、入口の方を見た。

 ―真っ直ぐに愛を謳ったバラード。

 友子の車で耳にしたことのある歌だった。確かに結婚式に向いている。

「さっ、歌も聴いたことだし、わたしは帰るわ」

 好美さんが立ち上がった。

「あたしも一緒に帰る。方向、同じやし」

「わたしは、ひとりで大丈夫よ」

「あたし、明日も仕事やし、それに好美さんに話もあるけん」

 友子も立ち上がった。

「大戸君、元気でね」

 好美さんの皺くちゃな優しい笑顔。母さんも齢を重ねたら、こんな感じになるのだろうか。

「ヨシ君、またね」

 笑顔の友子。友子は昨日、僕と別れてからどうしていたのだろうか、僕のことをどう思っているのだろうか、そんな思いが頭の隅にあったのだが、屈託のない笑顔が僕を安心させた。

 ふたりが出て行き、急に場が、しん、となった。

 洗い物の音が響く。

 僕は[逃亡者]を註文した。さっぱりとした飲み口と後に残るほろ苦さ…。この余韻が気に入った。そのほろ苦さを味わいながら、カズさんの手が止まるのを待った。

 洗い物を終えたカズさんが上体を起こした。

「カズさん、カズさんは友子さんと結婚しないんですか?」

「昨夜、あいつに聞きました。昨日、あいつにつき合ってくれたそうですね」

「…はい」

「昨日、アンヘルを空港まで送って、…そうそう、アンヘルが、

『ヨシがバルサに来たら歓迎する』

と、言っていましたよ」

「本当に、一晩で帰っちゃったんですね」

「俺も引き留めたんですが、

『今回はカドゥの顔を見に来ただけだ。次回は家族でゆっくり来るから』

と、言って…。で、家に帰ってみると、あいつが来ていました。あいつ、ひどく落ち込んでいました。大戸さんに迷惑を掛けてしまったって。俺が約束を破ったのがいけないんです。俺の甘えです。すみませんでした」

「いやっ、僕の方が…。僕、カズさんのものに手を出してしまったんです」

 そうだった。僕はカズさんを裏切ったのだ。どうして、そのことに気づかなかったのだろう。のこのこと出て来て、会わす顔なんてないじゃないか。

「あいつはものじゃないですよ。まして、俺の所有物でもない。あいつは大戸さんに甘えてしまったと言っていました。俺も含めて人は他人に甘え自分を甘やかしてしまう。弱いもんだな、と、思います。で、結婚についてですが、俺は結婚とは契約だと思っていました。契約を守るためには安定した生活力と精神力が必要だと思っていました」

 カズさんは一息入れると言葉を続けた。

「こんな俺でも、今までに好きになってくれて、つき合ってくれた女性(ひと)達がいてくれました。でも、俺は我儘な夢を追いかけて、彼女達の気持ちに応えることをしなかった。俺は旅がしたかったんです。ひとり、自由気ままに諸国を巡って様々な経験をしたかったんです。

そんな不安定な状態では、とても結婚なんてできない。いつ旅を終えるかなんて決めたくはなかった。約束もしたくなかった。それなら、初めから彼女達とつき合わなければよかったのでしょうが、それは、俺の弱さ、甘え、です。〝愛されている〟という立場に依りかかり、自分を甘やかし、彼女達の好意に甘えていました。

 現在はやりたかった旅を終え、こうやってBARを構えることもできて、何とか安定した暮らしをさせて戴いています。俺は、このままひとりで生きてゆくつもりでした。あいつとのつき合いも、いずれ、あいつに相応しい相手が現れて、去ってゆくまでのこと、と、思っていました。ともすれば、あいつに傾きそうになる心を、あいつの云う『束縛しない関係』や年齢差、職業柄等を理由にして誤魔化してきました。それに、俺には不安がありました。あいつを幸せにすることができるのか?って。でも、昨夜、あいつの話を聞いて、大戸さんの素直な告白や、一人っ子の話を聞いて、俺は大切なことを見失っていたことに気づきました」

 カズさんと友子の甘え、弱さ。僕も友子の弱さにつけ込んで自分を甘やかし、衝動の欲望の赴くままに友子の唇を奪ってしまった。僕の甘えと弱さ…。

 僕はカズさんの黒ネクタイの結び目を見詰め言葉を待った。

「それは〝俺は、あいつが好きだ〟ということです。大戸さんのような素直な気持ちを見失っていました。本当は寂しいくせに、あいつと一緒に居たいくせに、ひとりで生きてゆくと強がっていました。まるで子供ですね。あいつの気持ちを知りながら、あいつに辛い思いをさせていました。昨夜、あいつに言われました、

『ちゃんとつき合いたい、ずっと一緒に生きてゆきたい』って。

それは、大戸さんに、素直に自分の気持ちを伝えればいい、と、諭されたからだと言っていました。あいつ、大戸さんに勇気をもらったって感謝していましたよ」

 何気なく口にした言葉だったが、僕の言葉が友子に勇気を与えたことが嬉しかった。

「俺も自分の素直な気持ちを見失っていたことを気づかせてもらえました。俺はいつものクセで、俺が、俺が、と、独りよがりに考え過ぎていました。幸せ、というのはふたりで築いてゆくものだし、夫婦になるんじゃなくて、夫婦をする、なんだってことも」

「それって、どう違うんですか?」

「〝する〟という意志を持つことです。結婚すれば、子供が生まれれば、自然に夫婦になる、親になるんじゃなくて、意志を持って夫婦をする、親をする、この意志が弱かった為、不安だったんだと思います。そして、この意志は信じることから生まれてくるのだと思います。俺の両親は俺が十歳の時に別れました。父の浮気が原因でした。まあ、現在はそれだけが原因ではないと思っていますが…。母の辛そうな、哀しそうな姿を見て、『浮気は悪いことだ』『してはならないことだ』との思いが子供心に深く刻み込まれました。しかし、いくつかの恋愛を経験するうちに人の心の移ろいや恋愛と浮気の葛藤を抱えるようになりました。『このままでゆくと父と同じことをしてしまうのではないか』と、いう不安が心を占めるようになりました。俺は浮気をしてしまう自分を恐れるあまり、女性と中途半端にしかつき合えなかった。いや、つき合わなかったんです。相手のことよりも自分の保身ばかりを考えていました。浮気をしない自分である為に浮気にならない関係を持とうとしてきました。『束縛をしない関係』というヤツです。恋愛に対する不信感を浮気に対する恐怖を『束縛をしない関係』で誤魔化していました。

 確かに、人の心の移ろいはどうしようもない。相手の心も自分の心でさえも。移ろったのなら移ろった時のことです。諸行無常、変化するのは世の常です。明日どうなるなんて誰にも分かりません。〝今〟どうなのかが大切なんです。だから、昨夜のあいつの言葉で俺は決めました。あいつを大切にする。あいつを幸せにすると決めました。ふたりで『幸せな関係』を築いてゆくと決めました。あいつに俺の母のような思いはさせない。浮気が悪いと思うなら浮気をしなければいいだけのことなんです。意志を持てば父のようにはならない。意志を持って、夫婦を親をすれば、どんな問題だってふたりで乗り越えてゆける。現在(いま)の俺の、あいつの気持ちは信じられる。いや、信じると決めました。

現在の気持ちを大切にして、今日を、明日を信じる。そんなことも大戸さんとあいつに気づかせてもらえました」

 〝する〟という意志。僕にも欠けていた。

 〝これからどうなるんだろう〟という不安。それは?こうする?という意志がないから生まれてくるんじゃないかな。

 友子の固く閉ざされた唇は、僕への拒絶ではなく、カズさんを想う友子の意志の固さだったのかもしれない。

 カズさんが言うように人はものじゃない。誰の所有物でもない。でも浮気は相手への不信感となる。僕の両親の離婚も父の浮気が原因だった。相手の浮気が平気な人もいるかもしれないが、僕は平気じゃいられないだろう。母さんも平気じゃいられなかったから父と別れたんじゃないかな。父を信じられなくなったんじゃないかな。

「俺は自分の甘えや弱さをずっと消そう、消そうとしてきました。でも、ある頃から、それはできないんじゃないかと思うようになりました。甘えや弱さは自己愛の表れで、生きてゆく上で自己愛を消すことはできないんじゃないか、と。それに自己愛は他人への優しさや思いやりとして表れることもある。じゃあ、どうすればいいか。自己愛を認識して、甘えや弱さとして表れようとする時、それが他人に迷惑が掛からないように、むしろ優しさや思いやりとして表わせられるように意志を持って調整する、調和させてゆく、導いてゆく。まあ、以前は、『制御する』と思っていたんですが、それは力み過ぎかな、と。慣れてくると、『導く』『流す』と云う感じになってゆくように思います。それにしても、これは厄介で難しいことですが、そうやってゆこうと、もっと言えば、それを楽しんでゆこうと、俺は思っています」

 確かにそうかもしれないな。

『つい魔がさした』『ことの成り行きで』とか言っているが、それは外からのものではなく、自分の内にある自分勝手な欲望―自己愛、が、引き起こすことなのだろう。だいいち『魔がさした』と言うこと自体、自分を庇おうとする自己愛の言い訳じゃないか。

「…僕も、そう思います。はっきり分かったわけじゃないんで、偉そうには言えませんけど」

「俺が大戸さんの年齢の頃、母にこんなことを言われました。

『あんたね、分かったような、偉そうなことばかり言いよるけど、結婚もして、子育てもして、わたしくらいの年齢になってから、そういうことを言ってみなさい』って。

現在、その頃の母の年齢を俺は軽く越えていますが、徒に年齢を重ねただけで内面は未熟なままなんでしょうね。恋愛や結婚は人生と同じで、いいこと、綺麗ごとばかりじゃない。それなのに俺はいいこと、綺麗ごとばかりを求めていたんです。お互いがちゃんと向き合う恋愛や結婚、夫や親と云う役割の責任から逃げていたんです。自分がやってもいないことはとやかく言えませんよね。でも、これからやってみます。分かったような、偉そうなことを、綺麗ごとを、俺が実際にできるかどうかやってみます。まあ、これは、あいつが居てくれるからこそだし、あいつの協力があってのことですけどね。誰とでもできることじゃない。あいつとだからこそできることです」

 …母さん。

 僕の母さんは、そんなことは言わなかったが、親としての責任を果たしてくれた。自分のことをそっちのけにして僕の親をしてくれていたんだ。もっと話をしておけばよかった。母さんの気持ちや思いをもっと聞いておけばよかった…。

 …母さん。

 ぐっ、と、込み上げてくるものがあった。目頭が熱くなった。

 …カズさん、…実は、…僕…。

 と、扉が開いた。僕は口から出掛かった言葉を飲み込み、入口に目を向けた。

 黒い毛皮のコートに身を包んだ女性が俯いて立っていた。

 うっすらと濡れた、ゆるやかなウェーブのかかった長い栗色の髪で顔はよく見えない。

 彼女は俯いたまま、おぼつかない足取りで歩き出した。ほのかな甘い香りが舞う。

彼女は崩れるように奥の席に座った。

「…アレクサンドラ…、頂戴」

 彼女は髪をかき上げ、顔を上げた。

 少し掠れた細い声。愁いを含んだ白い横貌。長い睫毛、何とも云えない色気を湛えた潤んだ瞳。通った鼻梁、微かに捲れた艶やかな薔薇色の口唇。…クリムトが描く女性のような妖艶で蠱惑的な雰囲気。僕はその美しさにただただ見惚れてしまっていた。

 彼女が俯く。長い髪が彼女の貌を隠してしまう。それでも僕は彼女から目を離すことができなかった。カウンターに置かれた白い手。ほっそりとした指先に紅い爪。二十七、八歳くらいだろうか…。

 彼女は[星月夜]を背景に身動ぎもしない。その姿は美しい一体の彫像のようだった。

 …友子が青空に燦々と輝く太陽だとしたら、彼女は月だ。夜空に冴え冴えと光る三日月だ。

 シェイクの音が響く。いつもより回数が多い。

 カクテルグラスに注がれたカフェオレ色のカクテルが彼女の前へ差し出される。

 すっ、と、彼女がグラスを傾ける。

「…懐かしいね、このカクテル」

 ――涙。

 彼女の言葉にカズさんは無言で頷いた。

 カズさんに話しかける気を殺がれた僕は勘定を済ませ外へ出た。

 霧雨にけぶる街燈。傘を差すまでもない。

 寒くもないのに肩を窄めて歩き出す。

コリドー広場を抜け、通りに出て振り返ると、[Kool]の灯が消えていた。






























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