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いつか見た夕焼け [なろう版]   作者: 三王 一好 (さんおう かずよし)
1/3

第一部

 いつか見た夕焼け [なろう版] 一

                        三王 一好


 夕焼けが、通り沿いに彼方まで続く建物の狭間の空を、寂しげに染めていた。

 僕は足を止めて夕焼けを見詰めた。不意に寒気がして身が竦んだ。

「ふう…」

 僕は溜め息をつくと夕焼けに向かって歩き出した。

〝夕焼けの明くる日は晴れるんよ〟

 いつだったか母さんがそう言っていたっけ…。

 つんっと冷たい空気が鼻を抜け辺りの景色が滲んだ。

 前を横切るアーケードには沢山の人が行き交っている。皆、いきいきとしていて楽しそうだ。

 これだけ人がいるのに僕は誰のことも知らない。誰も僕のことなんて知りはしない。人が大勢いる場所がこんなにも孤独を感じさせるなんて今まで知らなかった。

何でこんな賑やかな所に来てしまったのだろう…。

 …東京から新幹線で岡山まで。乗り換えた列車で瀬戸大橋を渡った。

陽の光を浴びて瀬戸内海がキラキラと輝いていた。

 初めて来た四国。山々は雪に覆われているが平野部に雪は無い。

のどかな景色を眺めながら列車に揺られこの街に入り、駅に降り立った。

 ガラス張りの屋根から明るい陽射しが降り注ぐ広々とした駅の構内は開放感に溢れ、ヨーロッパの駅を思わせる洒落たつくりだった。ガス燈を模した舎燈、ロートアイアンというのか、黒塗りの鉄の金具や手摺と渋い色合いの木とレンガがいい味を醸し出している。

 建屋の中にバスや市電の乗り場があり天候に煩わされることなく乗換えができる。

観光都市なのだろう、駅の案内も分かりやすく、土産物屋やカフェ等も充実している。

 併設された鉄道博物館の入口横には蒸気機関車が展示されていた。

機関車の傍らには鉄郎とメーテル、車掌さんの等身大フィギアが佇んでいる。

 [銀河鉄道999 出発進行!]と、大書されたポスターを見ると、

今年四月より、この街から原作者ゆかりの町まで[999号]が運行すると記されてあった。各停車駅の町には[999]に登場する星を模した様々なアトラクションが設けられ、町の観光と共に楽しめるという。食堂車でクレアさんが供してくれる地元産牛肉の特大のビフテキが旨そうだ。終着駅の町には原作者の記念館があり[999]の世界にどっぷりと浸れる旅ができるそうだ。

 駅は沢山の人で賑わっていたが窮屈な感じはなかった。

 観光案内所のおネエさんの感じも良く、僕は市街地図を貰い駅近くのホテルを紹介してもらった。

 広い階段を上がり展望広場に出ると正面にこんもりとした山が見えた。

頂には白壁にいぶし銀の瓦を輝かせた城が〝凜〟と立っている。

城山周辺に視界を遮る高い建物は何も無い。

広場は城山を背景に写真撮影をする人達が場所を譲り合い和気藹々とした雰囲気に包まれていた。

外は肌寒くはあるが東京ほどではない。風が穏やかで陽射しが暖かく感じられた。

 ホテルにチェックイン。ホテルにひとりで泊まるのは初めてだった。滞在日数を訊かれ、

「一週間」

 と、答えていた。何泊するか決めていなかった。何となく、そう答えていた。

部屋の窓からも城が見えた。荷物を置き備え付けのお茶を飲み一息つくとホテルを出た。

 市街地図を頼りに中心街へと歩く。ちょうど城山に向かってゆく格好だ。

駅から城山へ伸びる道路は広々としていて道路の両側には真新しい建物が並んでいる。

 建物の高さが抑えられ揃っているからか空が広く感じられた。

 時折、玩具の汽車みたいな電車がチンチン、シュッシュッポッポ、と、音をたてて通り過ぎてゆく。

 緑水を湛えた堀の外側に沿った遊歩道を歩いてゆくと中心街へと出られた。

 オフィス街は整然として落着いた佇まいで電柱、電線が無く自動販売機や視界を遮る広告看板も無い。

段差の無い歩道は広々としていて花壇には花と緑が溢れている。

自転車専用道も整備されており、通行者の安全にも配慮がなされている。のんびり歩けるというのは気持ちがいいものだ。

建物の高さやデザインに統一性がある。

瓦屋根というわけでもないのに、

〝和風〟

そんな言葉が頭に浮かんだ。

 商店街には、お馴染みの全国チェーン店やコンビニ、ブランドショップ、量販店の姿は無く、

落着いた店構えのオーダーメイドやハンドメイドのショップ、飲食店がゆとりを持ってセンスよく並んでいる。

 そう、(ひし)めいていないのだ。

 珈琲が好きな人が多いのだろうか、カフェがよく目についた。

 [名物 鯛の釜めし]の文句に惹かれ鯛の釜飯と天ぷらの定食を食べた。

ボリューム満点で鯛の旨味がごはんに染み込み美味しかった。

こんなまともな食事をしたのは久し振りだった。今朝もパンを食べただけだった。

店の人も朗らかで親切だった。もしかしたら僕が空腹なのを察して大盛りにしてくれたのかもしれない。

値段も手頃だった。満腹になった腹を摩りながら気分よく店を出た。

 歩道の中央には自転車の通行レーンがあり、所々に設けられた駐輪スペースに整然と並んだ自転車はちょっとしたオブジェにも見える。

自動車の姿が無く、東京では見慣れた空き缶、菓子袋、吸殻等のゴミが落ちていない。

 街ゆく人達の歩調はゆるやかで、のんびりした口調の方言が耳に心地よい。

女性達の佇まいが清楚に感じられた。この街の雰囲気自体が清楚で朗らかなのだ。

初めて来た街なのに、どこか懐かしい。いつしか僕もその歩調に合わせゆったりと街を散策していた。

 …そうやって街に見惚れ、うろうろしているうちにここに来ていたのだ。

 静かな場所に行きたい。僕は足早にアーケードの人波をくぐり抜けた。夕焼けはもう盛りを過ぎて辺りは暗くなり始めていた。

 少し歩くと映画館があった。洋館風の洒落たつくりだ。名画座というやつだろう昔の映画を上映しているようだ。入口横の壁に貼られたポスターに[カサブランカ]という文字が見えた。

この街の建物は丁寧につくられていてコンクリートの箱のような寒々しく無機質な建物は見当たらない。

 映画館の角から、すうっと北へ伸びる石畳の道には街燈が連なりやさしい灯を点している。

その道の入り口に小さな広場。プレートには[コリドー広場]と標されている。

数本の木と街燈に囲まれた広場の中央にはライトアップされた噴水が清々しい音を立てキラキラと光る水しぶきを上げている。中心街にはこのような小さな広場が点在していた。

 僕はベンチに腰掛け噴水を眺めた。

 疲れた。

 こんなに歩いたのは久し振りだった。広場には誰もいない。誰しもこんな寒空の下、こんな所に居たってしようがないだろう。誰もが誰かの待つ暖かい場所へと帰ってゆくのだ。結局、人が居ようが居まいが孤独感は募る。僕はひとりぼっちだ。

 空はすっかり暗くなってしまった。冷たい風。吐く息が白い。体が冷え切ってしまった。

ここに座っていたってしようがない。僕は胸を抱きながら立ち上がった。

と、噴水越しに灯が見えた。店のようだ。まるでこの広場を庭にしているかのように建っている。

僕は寒さに身を震わせながら、その灯に近づいて行った。

 広場の石畳から緩やかなスロープが扉へと導く玄関口は張り出し屋根に覆われ天井の灯が足元と木製の扉を照らしている。

扉の横の壁に嵌め込まれた黒鉄(くろがね)のプレートに刻まれた銀色の文字は、[Kool(クール)]。

その上部に[BAR]下部に[DAL8.8.2014]の文字が刻まれている。

 BAR…。僕はBARなんて入ったことがなかった。

酒は飲めるが、せいぜい居酒屋やカラオケボックスでビールや酎ハイを飲むくらいで、高い金を払ってBARで格好つけてカクテルなんてのは僕には無縁のことだと思っていた。

 イーゼルに立掛けられた黒板に[PM6-PM9 HAPPY HOUR]とあり、最初の一杯目のカクテルが五百円、テーブルチャージ無料と書かれてあった。

 扉の小窓から見える店内。椅子の無いカウンターの向こうの壁に[CHAT NOIR] ―黒猫の絵が飾られている。

〝入って来いよ〟

そんな挑んでくるような目つきで黒猫がこちらを見ている。

 奥の方は見えないが人影はないようだ。暖かな灯…。

 一際強く吹き付ける一陣の風。その風に背中を押されるように僕は扉を押していた。         

「いらっしゃいませ」

 張りのある男の声。ロウソクの灯のような穏やかな光に満たされた店内。

カウンターの(なか)に男がひとり、沢山の酒瓶(ボトル)が並んだ棚を背に立っている。

光のある小振りな目。微笑んで僕を見ている。スッキリと刈り上げられた頭にツンツンと立った前髪。

白いシャツに黒のネクタイとベスト。

もっと年輩の厳めしそうな人を想像していた。男の雰囲気に僕は緊張を緩め店内を見回した。

 [星月夜]が掛けられた奥の壁へ真っ直ぐ伸びる頑丈そうな木製のカウンター。背凭れ付の椅子が並ぶ。

 カウンターの向かい側には細かなカットが入った硝子窓があり下枠に沿って台が設えてある。

テーブル席はないがあってもいいくらいのゆとりがある。板張りの床と腰壁。

腰壁の上は白塗りの壁だろうか、灯の光の具合なのか黄色掛かって見える。

 天井が高く、木を基調とした、飾らない、落着いたつくり。

 そして静かだ。

 初めて入ったBAR。もっと狭くて暗い所だと思っていたけれどそうでもないんだ…。

「どうぞ、お好きな席にお掛けください」

 男の声で我に返った。客は僕だけだ。

 カウンターの中程の椅子に座る。

高過ぎず低過ぎず座り心地の良い木製の椅子だ。足に何か当たった。見ると足元に黒鉄の棒がカウンターに沿って這っている。棒に足を載せて顔を上げた。

「今晩は。どうぞ」

 男が笑顔で温かいおしぼりを手渡してくれた。悴んだ手が綻んでゆく。

「ああ…」

 僕は思わず声を漏らしていた。

「外は寒かったでしょう」

「はい。夕方になって急に冷え込みました。風も出てきたし。日中はそうでもなかったんですけど、やっぱり、こっちも寒いんですね」

「雪が降ることは滅多にないですけど、やっぱり冬は寒いですよ」

 男がメニューと灰皿をそっと置いた。灯に照らされた男の快活な顔。三十歳半ばくらいだろう。歳の割に落着いた感じがするのは職業柄だろうか。

「ご旅行ですか?」

「まあ…、そんなとこです。四国には初めて来ました」

「お客さん、関東からいらっしゃったんですか?」

「え、何で?はい、東京から来ました」

「何となく、そんな感じがしました。いつ、いらっしゃったんですか?」

「今日の昼過ぎです」

「そうですか。初めてこの街にいらっしゃったのに、この店に足を運んでくださるとは嬉しいことです。有難うございます。分からないことや知りたいことがあれば遠慮なくお尋ねください」

 親しみやすい人でよかった。何故かバーテンダーという人達には、ツンッと澄ましているイメージがあった。

「今の時間帯はハッピーアワーで一杯目のカクテルが五百円なので、よろしければカクテルを召し上がってみてください」

 分厚いメニューを見る。沢山のカクテルの名と内容が記されている。しかし、カクテルのことなど僕には分からない。まあ、この人になら別に気取ることもないか。

「あの…」

「はい」

「僕、BARに入ったのって今日が初めてなんです。それで何か…おすすめのものとかないですか?」

「そうですか。初めての街で初めてのBAR…、何かいいですね。それでは…」

 男は嬉しそうにそう言うと僕の手元を暫く見詰めた。

「それでは、あたたかいカクテルは如何ですか?冷えた体が温もりますよ」

「えっ、あったかいカクテルなんてあるんですか?」

「ありますよ。例えば、焼酎やウイスキーのお湯割り、たまご酒なんかもあたたかいカクテルといえます。コーヒーや紅茶を使うものもあるんですよ」

「へえー、カクテルって色々あるんですねえ」

「そうなんです。カクテルとは広い意味でいうと混ぜもののことですから。まあ、BARでは洋酒を主体にしますけど」

 混ぜものか。そういえば、料理にも何とかのカクテルってのがあったよなあ。

「ん?どうしてカクテルっていうんだろう?」

 その言葉で男の目が輝いた。

「カクテルとはコックテイルで直訳すると『雄鶏の尻尾』という意味になりますが、これには色々な説があるんです」

 男はカクテルが元はミックスドリンクの一形態を指す言葉であったこと、カクテルという呼び名がアメリカやイギリス、メキシコで誕生した説等と自説の「滋養強壮・精力剤説」を身振り手振りを交え面白く分かりやすく説明してくれた。

「…と、色々あるわけですが、何が本当か、なんて突き詰めるようなものではないと思います。カクテルとはそういう曖昧なところを楽しむものじゃないかなと俺は思っています。って、すっかり話し込んでしまってすみません。すぐにお作り致します」

 男はこれから作るカクテルの簡単な説明をし、僕の好みを訊いた。僕は全てを男に任せた。

 シュゴゴゴ…。音が響く。男はエスプレッソマシーンでミルクを温めると、トントントン…と、ミルクの入った容器をカウンターに軽く打ち当てた。その音が期待を高まらせてゆく。

「お待たせしました。ホット・バタード・ラム・カウです」

 白い皿に載せられた取手の付いたグラスが僕の前に差し出された。ふわあ、と白い湯気が立っている。ミルクティーのような色のきめ細かい泡に半ば埋もれて少し溶けかけたバターが浮かんでいる。

「スプーンでよくかき混ぜて、お召し上がりください。熱いですからお気をつけて」

 柄の長い木製のスプーンでかき混ぜると、バターはみるみるうちに溶けて泡の中へ広がり甘い香りが立ち昇った。取手を持ちグラスを口元に運ぶ。湯気が頬をあたたかく包んだ。ふうっ、ふうっと息を吹きかけゆっくりと啜り込む。温もりと共にまろやかな甘さが口の中いっぱいに、じわあっと広がった。

「ああ…、美味しい、です」

「有難うございます。お口に合いましたか?」

「はい。甘さも丁度いいし、あったまるし。香りがいいですね。でも、これ、お酒は何が入っていましたっけ?」

「ラム、というお酒が入っています」

 男はラムについての僕の質問にすらすらと答え、分かりやすく説明を加えてくれた。

「凄いなあ、よく知っているんですね」

「いやあ、知らないことばかりです。まだまだ修行中で、学ぶことは多いです」

「学ぶことかあ、身に詰まされます」

「お客さんは、学生さんですか?」

「はい。大学の二回生です」

 と、言ったものの去年の十一月から行っていなかった。

「これ、よかったら召し上がってください」

 小皿に四角い棒状のビスケット。半分に折り齧る。やや固めの歯ごたえ。スライスされたアーモンドとシナモンが香ばしい。

「今晩は!」

 扉が開く音と共に弾んだ若い女の声がした。

「いらっしゃいませ」

 男が入口を向き、声を掛ける。僕もつられて入口に目をやった。が、すぐに視線をグラスに戻した。綺麗な(コ )だったから。

 彼女は僕のすぐ後ろを通ると席を一つ置いて座った。何気なさを装い、目を向けると彼女と目が合った。

「今晩は」

 彼女が微笑む。

「こ、こんばんは」

 どぎまぎしながら挨拶を返した。

「御免なさい。大きな声出しちゃって」

 彼女は僕を覗き込むような姿勢でバツの悪そうな表情を浮かべた。

「い、いえ、全然、気にしないでください」

 応えながら、まともに彼女を見ることができた。やっぱり綺麗な娘だった。化粧気はないがしっかりとした眉とぱっちりとした目が印象的なはっきりとした顔立ち。寒さの所為(せい)でか頬がほんのり桃色に染まっている。前髪は下ろしているが長そうな髪はきれいに後ろへ流しまとめている。擦れた黒い革ジャンにブルージーンズ。

「それ、バタラムミルク?あたしもこれにする」

「かしこまりました」

 男は彼女におしぼりを手渡すと作業に取り掛かった。

「何ですか?今の呪文のようなの」

「このカクテルの本当の名前って長いし可愛くないけん、呼び名をつけたんよ」

 彼女はきらきらした瞳で僕を見詰めてそう言った。瞳も方言も可愛い。顔立ちは美しいのに気さくな感じなので僕は少し落着くことができた。

「こちらの方は今日初めて、この街にいらっしゃったんですよ」

 男がカクテルを作りながら彼女に声を掛ける。

「えっ、そうなん。どこから来たん?」

「東京です」

「そっかー。しばらくおるん?」

「一週間くらいかな。まだ決めてないんですけど」

「まあ、ゆっくりしていかんけんよ。あたし、(とも)()。よろしくね」

「僕は大きな戸板の戸で大戸(おおと)。大戸義輝(よしき)です」

「大戸さんは、いくつ?」

「二十歳です」

「じゃあ、あたしの方が二つお姉さんやね」

「お待たせしました」

 男がバタラムミルクを友子の前へ置いた。

「ありがとう」

 友子は男を見詰め微笑むとグラスを両手で包み込んだ。それは何気ない仕草だったがなまめかしく感じられた。

「大戸さん、申し遅れました。三城一矢(さんじょう かずや)です。宜しくお願いします」

 男が名刺を差し出す。名刺を貰うのは初めてだった。

「三城さんて珍しい名字ですね。この辺りの名字なんですか?」

「違うんですよ。ですから珍しがられて子供の頃に揶揄(からか)わられました」

「僕もです」

 僕と三城さんは名字に因んだ渾名を披露し合った。

「子供って酷いこと平気で言うし変な渾名つけたがるもんねえ。あたしは名字が姫原やけん、ヒメって呼ばれよったけど、今は友子が多いかな。マスターのことは、みんな、カズさんって呼びよるみたい。大戸さんは何て呼ばれよるん?」

「大抵、名字ですけど…、あとは、ヨシキとかヨシ君とか…」

「じゃあ、ヨシ君。ヨシ君って呼んでかまわん?」

「ええ。いいですよ」

 〝ヨシ君〟懐かしい響き。母さんがそう呼んでいた。

「ヨシ君はこの街のことどう思った?」

「新しくてきれいな街だなあって思いました。この店も街に見惚れてウロウロしてるうちに見つけたんです」

「そうやったん。二年程前からね、市民意識が高まって『個性を活かした街づくり』が始まったんよ。だから街が新しくてきれいんよ。街のつくりも暮しやすさと景観に気を配っとるんよ。まあ、まだまだ工事中の所も多いけど、あと三年できれいに整備される予定」

「そういえば、個性的な店が多かったかな。全国チェーンの店とか無かったし」

「そう!宣伝や流行とかじゃなくて、自分達のセンスで自分達に合ったものを、この街の人達は楽しんどるんよ。ほやけんブランド品やチェーン店はいらんのよ。添加物、保存料まみれの得体の知れない食べ物もお断りっ。この街独自に食品の品質基準を定めてあるから、基準を守れない店は撤退したし、守れんところは出店もできんようになっとるんよ。ハンバーガーや唐揚げにお弁当、カフェは専門店でそれぞれの店の味を美味しく安心して楽しめるし、服やアクセサリー、雑貨なんかは自分で作るか、オーダーメイドで作ってもらうことが多いしね。このジーンズだって、あたしがデザインしたんやけん。作ってくれたんは、衣山さんやけど」

 友子はパンパンッと太腿を叩いた。

「友子さん、この街が好きなんですね」

「うん。大好き。市民意識が高まったきっかけが、この街の近未来を舞台にした映画やったんやけど、ストーリーは勿論よかったし、CGで描かれた街の姿が素敵だった。

『こんな街になったらいいなあ』

って、素直に思ったもん。皆もそうやったんやないかなあ。まあ、明日にでも城山から街を眺めてみんけんよ。映画のまんまやけん」

 ふたりのグラスは空になっていた。

「カズさん、次、何かください」

 僕は、カズさんと呼んでみた。親しみを込めて。

「次は、どういったものになさいますか?」

 カズさんが笑顔で応える。

「お任せします」

「では…、モスコーミュールは如何ですか?さっぱりとして飲みやすいですよ」

 聞いたことのある名だった。でも、どんなものかは知らない。飲んでみるのが一番だ。

「それ、お願いします」

「あたしは[雪の妖精(スノーフェアリー)]をください」

「かしこまりました」

 カズさんはハンドルが付いた搾り機でグレープフルーツを搾った。爽やかで瑞々しい香りが漂ってくる。

「いい香りねー」

 目を閉じた友子がうっとりとした表情で言う。

「そうですねー」

 僕も目を閉じ香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

 目の前の棚には沢山の酒瓶が並び輝いている。カズさんはそれを背に流れるような動きでカクテルを作ってゆく。

 シェイクの音。

 初めて間近で見るシェイク。銀色のシェイカーがカズさんの腕の動きと共に煌く。やがてそれは、すうっと斜め下に流れ止まった。

「流れ星シェイク」

 友子がキメをつけた。

「えっ?」

「マスターね、自分のシェイクに名前を付けとんよ。

『流れ星シェイク』って。おかしかろう」

「ああ、最後のすうっと流れるところですね」

「それもありますが、シェイカーの煌くさまも、この名の由来です。それに、俺が名付けたのでは無いんですよ」

 カズさんは苦笑いを浮かべながら灰色っぽい陶製?のコースターを僕達の前に置き、その上にグラスをそっと載せて差し出した。

 モスコーミュールを一口飲む。生姜の香り。爽やかでやさしい口当たり。

「美味しい!本当だ、飲みやすい」

「有難うございます。これは俺がBARで初めて飲んだカクテルなんですよ。そんな思い入れもあってお薦めいたしました」

 それからカズさんはモスコーミュールの内容と名の意味と由来を話してくれた。

「うーん。一つのカクテルにそんなドラマがあるなんて…。いやあ、カクテルって面白いですね」

「有難うございます。そう言って戴けると嬉しいです」

 カズさんの笑顔。カクテルのことが好きなんだな。

「じゃあ、友子さんのカクテルには、どんな由来があるんですか?」

「あーあ、ヨシ君、ゆーてしもた」

 友子が『知―らんで』みたく言い、顔を顰めた。

「これは、俺のオリジナルカクテルです」

 カズさんは分厚い黒表紙の本をカウンターの上へ出すと僕の前に置きパラパラと捲りはじめた。

「これです」

 見開きの左頁には、蒼い(そら)に浮かぶ白い妖精の絵があった。色づかいやタッチがシャガールな感じだ。

「この絵は、カズさんが描いたんですか?」

「そうです。このカクテルのイメージです」

 右頁には[雪の妖精 Snow Fairy]とあり、カクテルのイラスト、レシピと由来が記されている。本の厚さからして百種類以上のオリジナルカクテルがあるのだろう。〈流れ星シェイク〉にしろ、この本にしろ、一風変わっていて面白い人だ、カズさんは。

「カクテルには、このモスコーミュールのように昔から飲まれているスタンダードカクテルと呼ばれているものと、個々のバーテンダーが創るオリジナルカクテルがあります。もっとも、スタンダードカクテルだって、それを作るバーテンダーによって材料の配分やお酒の銘柄、作り方が変わってきます。バーテンダーの個性が出てくるんです。ですから一つのカクテルはバーテンダーの数だけあると言えるでしょう。お客さんは星の数程あるBARとバーテンダー、そしてカクテルの中から気に入ったものを見つける楽しさがあるんですよ。勿論、お客さん自身がカクテルを作って楽しんでみるのもいいと思います」

「カクテルって割と自由なんですね。もっと堅苦しいものなのかと思っていました」

「そう、自由なんです。絶対こうでないといけないとか、著作権だとか、そんなものはないんです。誰でも気軽に自由に楽しめるものなんだと俺は思っています。そもそも…」

 カズさんの話の腰を見事に折って扉が開いた。二人連れの女の子。

常連客なのだろう、カズさんと親しげに話している。

「ちょうどよかった。あの人、このテの話になると長いんやけん」

 友子は僕の耳元に顔を寄せると声を潜めた。甘い香りの熱い吐息が耳にかかり僕は少し動悸動悸した。

「これも美味しいんよ、飲んでみんけん」

 友子が[雪の妖精]を差し出す。グラスの口が塩?で縁取られている。雪を表現しているのだろう。白いカクテル。先程匂った瑞々しいグレープフルーツの香り。友子の口唇(くちびる)が触れた部分だけグラスの縁が露わになっている。ここに口をつければ間接キスだ。しかし、僕は反対側の縁に口をつけた。砂糖の甘さ。塩ではなかった。友子の口唇も甘いのだろうか、桜色の口唇…。

「ジュースみたいだ。美味しい」

 甘酸っぱいグレープフルーツの味わい。子供の頃、砂糖をまぶしたグレープフルーツを母さんが食べさせてくれたよな。

「でしょっ!ワインベースやけん、アルコールも軽いんよ。それと、これも見て」

 友子が頁をめくる。開いた頁には[夏の妖精 Summer Fairy]とあり、青空の下、黄色の花咲く草原で黄色い蝶と戯れる麦わら帽子を被った少女の絵があった。蝶の羽で少女が妖精のようにも見える。今度の絵はモネ風だ。[ひなげし]を思わせる。

「あたし、六月生まれなんよ。誕生日のプレゼントに、これを創ってくれたんよ」

「へええ、いいなあ。じゃあ、次はこれを飲もう」

「残念。夏季限定なんよ。これは夏のお楽しみ」

「夏、かあ…」

「今度は夏に来てみんけん。今年から媛まつりも始まるし」

 媛まつり、とは八月の最初の木、金、土曜日に行われる市を挙げての祭りで、二十四地域に分かれている市の地域ごとに[媛]をテーマに飾りつけた『曳舟』『御船(みふね)』と呼ばれる山車へ地域で選ばれた媛|(地域を代表する二十歳未満の美しい女性)を乗せ周囲を煌びやかな衣装を纏った女性主体の踊り手達が舞いながら市中を練り歩く、というものだそうだ。媛をテーマにというのは、例えば友子の住む城北地域では[かぐや姫]をテーマに御船の装飾、衣装、振り付けを考えているという。

 この街には全国でも珍しい『鉢合わせ』と呼ばれる神輿をぶつけ合う秋祭りがあるのだが、これは男性主体で夏の媛まつりは女性主体で行われる。

 曳舟は木曜日に自地域を回り、金曜日は中心街へ集結しアーケード街や堀の内広場で舞いが披露され観客による人気投票が行われる。広場には屋台が軒を連ね、特設ステージではコンサートや野球拳大会等が繰り広げられる。土曜日は海浜公園へ集結、舞いを披露し観客の最終投票があり媛、御船、演舞の三部門の優秀賞と総合優秀賞が決められる。日が沈む頃、御船は電飾を灯して海に浮かべられ、日没後、盛大な花火が海上の夜空いっぱいに打ち上げられる。

「ん?今年の夏から始まるのにやけに詳しいですね。まるで見たことがあるみたいだ」

「媛まつりも映画に出てきたんよ。CGやったけど綺麗やった。夜の海に浮かぶ御船と花火が幻想的やったなあ」

「媛まつり、かあ。この街らしい名前ですね」

「愛は二つありむとも、媛は御身一つで候」

「それは?」

「あたしらの県のことよ。愛がつくのは愛知県もやけど、媛がつくのはあたしらの県だけやけん。愛もあるけど媛もいるってね」

「なるほど。確かに綺麗な女性(ひと)が多いですよね」

「それ、他所から来る人達によく言われる。この(ことば)には他の意味もあって、愛は沢山の人に与えられるし与えるべきなんやけど、愛を与える相手は一人、つまり一人一人、相手によって愛し方が違う、

そして自分自身も一人、まあ平たく言うと博愛は結構だけど、まずは身近な一人一人を大切にしましょう、それが結局は博愛に繋がる、てことかな」

「んー。深いですねえ」

「まっ、これは受け売りで、あたしは、愛する人が沢山いても一番は媛!一番愛しているのは彼女ですって解釈しとる」

 立て続けに三組の客が入り、僕は友子の隣の席に移った。

 カウンターの扉側の壁には[夜のカフェテラス]が飾られており、後ろの壁には[ローヌ河畔の星空]が飾られている。木製の額縁に入れられたそれらの絵が窓のようにも見える。壁の向こうにこの絵の世界が広がっている…、そんな気持ちにさせられる配置だ。奥の壁の[星月夜]といい、カズさんはゴッホが好きなのだろう。

 カズさんは忙しく働いている。しかし慌ただしさはない。落着いた動作で次々とカクテルを作りながら客の相手をしている。何度か〈流れ星シェイク〉も登場した。チーズ等のつまみも出ている。客達も心得たもので自分達のカクテルやつまみが出てくるのをのんびりと待っている。カズさんの仕事振りを見ているだけでも楽しい。

 バーテンダー、って格好よくて面白そうな職業(しごと)だなあ…。

「ヨシ君、何か食べる?」

「お腹いっぱいです。夕方に鯛の釜飯を食べました。量も多くて美味しかったです」

「鯛は瀬戸内の名物やけん、よかった」

 ミックスナッツ。手の掛からないものを註文した。

「ここの器や灰皿はね、マスターが作ったんよ。郊外に[焼物の里]があって、そこで」

 友子は器を華奢な指で弄びながら、そう言った。飾りのない短く切り揃えられた爪の指がしなやかに動く。白地に藍色の模様というのが[焼き物の里]の定番だそうだ。

 コースターは、これも地元の名産品、瓦で造られたものだという。

 洋の文化であるBARに和の文化がうまく溶け込んでいる。いや、和に洋なのか…。どちらにせよ和洋折衷という感じだ。それはそのまま、この街の印象にも通じる。

 僕はトイレへと席を立った。煙草の煙がするすると天井の排気口に吸い込まれてゆく。

 満席のカウンターに並んだ様々な人達。皆、楽しそうだ。皆の話し声がひとつになって波の音のように聞こえる。

 窓側の台の端の本棚には酒に関する本が並んでおり、本棚の隣にある板で仕切られた細長い空間|(小床の間とでも呼べばいいのか)には[日日好日]と書かれた短冊が掛けられ、台の上には小さな黒招き猫と白い花が活けられた硝子製の一輪挿しが飾られてある。よく見てみれば一輪挿しには[Kool]の文字が透かし彫りされていた。

 本棚のすぐ横の台には読書灯と椅子が一脚置かれている。ここで本を読んだり書き物をしたりする人もいるのだろう。

 小床の間の傍の壁には、シャガールであろう、あの独特な青色を背景にした天使や、赤子を抱いた聖母、司祭?などのポストカード大の絵が飾られてあった。

 トイレ横の壁にはオーロラの写真が掛けられてある。夜空にたなびく緑のオーロラ越しに北斗七星が煌いている。

 淡いグリーンのタイルの床と壁に囲まれたトイレは明るく清潔でゆったりとしたつくりだった。正面の壁や側面の壁には[睡蓮]が、洗面台の上部の壁には[ひなげし]が飾られている。天井は青空色。仄かに草原の香りがする。まるで野原で用を足している感じだ。

 ゴッホ、シャガール、モネ…、印象派の部類に入る画家達の絵。店のつくりや飾られている絵から、何となくだが、カズさんの趣味趣向が分かるというものだ。

 席へ戻ると、友子は革ジャンを脱いでいた。タイトな黒のセーター。体のラインがしなやかな猫のように綺麗だ。

 入口近くの壁に鉄製のハンガーラック|(カズさんは、製作者の名に因んで、フッキーラックと呼んでいる)がある|(渋い色合いの木製ハンガーには[Kool]のロゴが入れられている。カズさんの友でもある製作者が開店祝いに刻印してくれたそう。そのハンガーに掛けられた服の隙間から、壁に飾られたダリの[記憶の固執]が見える)のだが、僕もジャケットを脱ぎ、友子に倣って背凭れに掛けた。

「この革ジャン、年季が入っていていいですね」

「ありがと。お母さんのお下がりなんよ。ぼろぼろやけど気に入っとんよ。ヨシ君のジャケットも格好いいじゃない」

 僕の母さんは革ジャンを着るような人ではなかった。洋服の販売員という職業柄か、いつも小綺麗にしていた。僕の服の殆どは母さんが見立てたものだ。このジャケットも去年のクリスマスにプレゼントしてくれたものだった。

 何杯かのカクテルを飲みながら友子と話した。友子は澄ましていると近寄り難い程の美しさなのに、笑うと白い前歯がこぼれ愛嬌のある表情になる。

 何組かの客が入れ替わり立ち替わりして[Kool]は盛況だった。

「この時期の平日に、こんなこと珍しいです」

 カズさんが洗い物をしながら言う。

「ヨシ君て、福の神かもね」

 友子が微笑む。何だかいい気分だった。ずっと味わっていなかった楽しくて安らかな気持ち。

「そうだ!ヨシ君、お風呂は好き?」

「はい。自慢じゃないけど長風呂です」

「じゃあ、明日の夜、温泉に行ってみん?あたしが連れて行ってあげるけん」

「ええっ、いいんですか?行きます!」

 友子と電話番号を教え合った。友子のほんのり赤らんだ顔と潤んだ瞳はいつまでも心に残った。







 快晴だった。母さんが言っていたことは、この街でも通用したようだ。ホテルのレストランで朝食を済ませ、歩いて城山へ向かった。

 たっぷり水を湛えた堀は城山の西側から南側を通り東側へと回り込んでいる。西と南の堀の内側は文化公園になっていて広々とした芝生の広場の周りにコンサートホール、美術館、図書館などが木々に囲まれ点在している。中心街に面した南の堀の内側には風格のある県庁が聳え立ち、その東側には古い洋館を中心にした西洋庭園が配されている。庭園を抜け堀沿いの遊歩道を東へ進むと大きな櫓門の前へ出る。櫓門の前からは堀に太鼓橋が架けられていて、向こう岸にはアーケードの入口が見える。

 櫓門の内側―城山の東の堀に囲まれた一帯には[お城下]と呼ばれる江戸時代の町並みが再現されていた。武家屋敷、商家など木造の建物が軒を連ね、屋内は資料の展示、お茶やお花、着付け、舞踊、琴、三味線などの教室、土産物の売店などに利用されている。この街の名産品である絣をはじめ、櫛や簪などの民芸、工芸品の製造販売店もあり、旅籠や料理屋も実際に営業されていた。町道場の格子窓を覗くと、白刃を閃かせ型稽古をする人達がいた。衣装の貸し出しもしていて、侍、虚無僧、忍者、花魁といった格好で楽しげに歩く外国人や観光客の姿もあった。働いている人の多くはお年寄りで着物姿が様になっていた。

 城山の登山口には[からくり駕籠]、[からくり腰掛]というロープウェイとリフトがあり、江戸時代に本当にあったのではないか、と思わせられる仕掛けで面白い。

 歩いて登ることにした。濃緑の木々が茂り、鳥の囀りが聞こえる緩やかな山道を歩く。陽射しが暖かく風が清々しい。空気がうまい。

 きれいに積み上げられた石垣に沿うように歩き、いくつかの門を抜けると山頂の広場に出た。正面に美しい城。陽の光が瓦屋根を銀色に輝かせている。

 広場には時代劇に出てくるような萱葺の茶屋があり絣の着物姿の女性達がにこやかに働いている。下の[お城下]もそうだったが現代のものを見せない工夫がむかしへと浸らせてくれる。

 青空の下、美しい街が広がっていた。昨日、見惚れた中心街が眼下に見える。上から見ると建物の高さと向きがきれいに揃っているのが分かる。東京では見慣れた高層ビルの姿が無い。太陽光発電のパネルだろう、殆どの建物の屋根が紺碧に輝いている。整然とした白亜の中心街。その向こうを高架式のモノレールが走る。さらにその先は、やはり紺碧の屋根を持つ住宅街が湖のように広がり、田園の緑が遠くに見える薄靄掛かった山々へと続いている。

 豊かな緑と青と白の城下町。中心街の道路やそこから放射状に伸びる幹線道路の道幅が広いのは媛まつりや今月行われるマラソン大会とも関係があるのかもしれない。まだ建設中の建物もある。所々に見える空き地は整備中なのだろう。それにしても、街はこんなにも美しくつくれるものなのだろうか…。僕は夢を見ているようで立ち尽くしてしまっていた。

「もし」

 僕はその声で我に返り、振り返った。

 白髪の爺さんが立っていた。渋い柿色の着物が恰幅のよい体に似合っている。

「いやあ、あんまり熱心に街を眺めとるもんやけん、ついつい声を掛けてしもうたんよ」

 爺さんはニコニコと笑いながら、のんびりした口調でそう言った。

「きれいな街ですね。まるで夢を見ているようです」

「そうじゃろう。儂もそう思う。長生きはするもんよ、空襲で焼かれた街が、こんなにきれいになったんを見られるんやけんのう」

「空襲?」

「ああ、大東亜、いや、君らは太平洋戦争と習ったんかのう」

「この街も空襲されたんですか?」

「そうじゃよ。お堀の周りに死体が並んでおったんを覚えておる。どこもかしこも焼かれてしもうて酷いもんじゃった」

 東京大空襲は知っていたが、この辺りまで空襲を受けたとは知らなかった。いや、習ったけれど忘れたのかもしれない。入試にそんな問題は出ない。そういえば、原爆が落とされた広島はこの街の近くだ。福島の原発事故による被爆が初めてではない、この国はすでに事故ではなく、広島、長崎とアメリカにより殺意を持って投下された原爆で二度も被爆させられているのだ。空襲、原爆の被害を受けながらも、この国は発展してきたのだ。それは、この爺さん達の世代のお陰だろう。現在のこの街の姿からは空襲で焼かれていたことなど想像もできない。

「二年程前から街の整備が始まったそうですね」

 僕は、やや重くなった気分を変えるように明るくそう言った。 

「そうじゃのう、その頃から具体的な整備が始まったのう。まあ、街づくりの決定打は、この街を舞台にした映画じゃったが、その前から映画の原作の小説が広く読まれておっての、その小説がきっかけとなって、皆が、

『自分とは何だろう?』

『郷土とは?』

『この国とは?』

そして未来について考えはじめとったんじゃ」

「自分を見詰めはじめたんですね」

「そう。(おのれ)を見詰め、己を知れば、個性の大切さに気づく。この街で云えば、温暖で豊かな自然、この城山や温泉街に代表される伝統文化、そしてそれらに育まれた温和な人々が、個性と云えよう。その個性を活かした?街づくり?を始めたんよ」

 昨日、僕が受けた〝和風〟という街の印象は、そういう街づくりの姿勢からかもしれない。

「個性の大切さに気づいた時、もう一つ大切なことに気づく」

「それは、何ですか?」

「それはな、〝和〟よ、〝和〟」

 爺さんは空に〝和〟と指で書きながらそう言うと言葉を続けた。

「人はな、ひとりで生きているわけではない。他人(ひと)がいるから(おのれ)の存在があり、個性を活かすこともできる。人と人の関係のみならず、

人と自然、全てにおいて調和が大切なんじゃ。この?和?の大切さを、この街の一人一人が感じたからこそ街づくりが滑らかに進んだわけじゃ」

「〝和〟、か…」

 僕は呟いた。しかし〝和〟とはいったい何だろう?仲良くすることだろうか…。

「まあ、あんたは若い。じっくり考えればええよ。儂もこうやって考えてみるまでは、ただ何となく何かに流されて踊らされておったようじゃったよ。何となく生きとった。考える、ということは大切じゃのう」

 僕も、何となく生きている。ただ何となく…。

「さあ、儂は行くよ。儂は毎日、そこの石垣の下で、この街の歴史を説明しよる、勝山という者じゃ。歴史を伝えるのも年寄りの役目やけんのう。なあに、御代はいらん。よかったら聞きにおいで」

 勝山さんはそう言うと、赤い鉢巻を締めながら石垣へ歩いて行った。僕もその後を追った。

 三十人くらいの人に交ざって勝山さんの熱弁を聞いた。外国人には金髪の美しい白人女性がちゃんと通訳していた。この街の歴史は古く、古代から現代まで時代の流れを追いながら、分かりやすく、時には冗談も交え面白く、勝山さんは説明してくれた。

 昨夜のカクテルもそうだったが、物事の由来を知るのって面白い。どうしてこの名になったのか、どうしてこんなことが起こったのか、という理由が分かると、その物事に対する理解が深まるし親しみも持てるように思う。

 説明を終え、煙管で一服している勝山さんに礼を述べると、勝山さんは通訳の白人女性を?儂の奥さんよ?と紹介した。彼女はドイツ出身で四十歳、勝山さんは八十六歳。

「彼女の為にも、儂は長生きするつもりじゃ」

 呆気に取られていた僕に勝山さんはそう言うと呵呵と笑った。

 城内に入り武具甲冑等の展示物を眺め説明文を読んだ。歴史って結構面白いものなんだな。興味を持つこと、これが大切なのだろう。学校の授業も教師がまずその教科に興味を持たすように教えてくれれば生徒は学習の喜びを知ることができるだろう。興味さえ持てれば後は各自ネットや本で知識を得ることができるし授業にも身が入るというものだ。

 天守閣に登る。街の全景を望むことができた。西の空の下には海が見える。こんなに近くに海があるなんて思わなかった。

 母さんの故郷。この街の何処かで母さんは生まれ、育ったんだろう。それは、今、見ている場所なのかもしれない。母さんは自分の生い立ちを殆ど話さなかった。ただ、この街で生まれ育ったことは話してくれていた。探せば、僕の祖父母や親戚がこの街にいるのかもしれない。でも探す気はなかった。母さんが話さなかったことだから。母さんがこの素晴らしい街を見たらどう思うだろう…。

 母さんの故郷であるこの街で僕は果たさなければならないことがあった。どうやら、その場所は見つけられたようだ。

 茶屋で抹茶を飲み、その昔、殿様が考案したという餡を巻き込んだタルトを食べて下山した。そして、あの玩具の汽車のような形の路面電車に乗り温泉街へと向かった。

 レトロな木造の駅舎の改札口を抜けると、そこは明治時代への入口だった。

 この街は著名な文学者達ゆかりの地でもあるらしく、温泉街一帯は彼らの生きた、また温泉本館が建てられた明治時代をテーマにした街並みがつくられている。街は歩行者天国。ゆったりと散策できる。石畳にガス燈。建物は勿論、看板や生活用具に至るまで当時のものを再現しているようだ。周囲にはホテルが建ち並んでいるが和風旅館、洋館風の外装で雰囲気を壊さない。折角、街づくりに凝ってもコンクリートの箱のような高層ホテルに囲まれていたのでは興醒めだろう。

 着物姿の女性を乗せた人力車が通る。まさに時間旅行(タイムトラベル)だ。

 ガイドに連れられた団体旅行者の姿をあちらこちらで見掛ける。ちょうど説明していたガイドの話によると、この街並みの地下は大きなスペースになっていて、駐車、荷物の搬入出や従業員の出入りは全て地下でなされているそうだ。地上が舞台だとすると地下は楽屋といえるだろう。地下に頑丈で巨大な箱をつくることによって街並みごと免震構造になっているのだという。今日歩いた[お城下]も昨日歩いた中心街も同じ構造なのだろう自動車を見掛けなかった。

 温泉本館の前に出た。瓦屋根が幾つか重なった木造の風雅な建物。玄関に掛けられた藍色の暖簾が風にはためいている。本館の周囲は石畳の広場になっていて沢山の人達が記念撮影をしている。秋祭りでは神輿の鉢合わせがこの広場で行われるそうだ。

 温泉か…。今夜、友子と約束しているのだが…、まあ、二度入ったっていいや。暖簾をくぐり温泉本館へ入った。

 二つある落着いた雰囲気の石造りの湯殿はどちらも思いのほか狭く混み合っていてゆっくり入れる状態ではなかった。僕にしては珍しくそそくさと湯から上がり二階の広々とした座敷でくつろいだ。仲居さんがお茶と黒、黄、緑の三色串団子を出してくれた。

 母さんもこの温泉に入ったのだろうか。二度の引越しで母さんがこだわったのは[足が伸ばせる浴槽]だった。毎晩、母さんの帰宅前に湯を張っておくのが僕の重要任務だった。

 温泉本館を後にして、近くの年季の入った食堂でうどんと恵方巻きを食べた。白い割烹着姿の老夫婦がやっていて、ふたりの穏やかな雰囲気がいい。味付けがやや甘いがこれはこれで美味いものだ。

 温泉本館の広場に面した[文芸館]には、この街と関わりの深い小説家、俳人などの紹介、作品や資料が展示されている。この街を舞台にした小説の登場人物の下宿や家を想定した建物もあり見物客が絶えない。日露戦争で活躍した兄弟の資料館もあった。

 [文明開化通り]をぶらぶら歩く。[牛鍋屋]からは肉の焼けるいい匂いが漂い、ビアホールでは真っ赤な顔をした人達がジョッキを掲げている。何処からか三味線の音も聴こえる。通りを抜け、柳が揺れる水路沿いの道を城山の方角へ進むと[大正浪漫の街]、[昭和モダン街]と続く。水路は城山の東の堀へと繋がっていて、春から秋にかけて渡し舟が行き交うそうだ。川の流れのように時代も流れてゆくのだ。平成生まれの僕にとっては母さんが生まれ育った昭和ですら遠い昔のように感じる。こうやって過去の時代を肌で感じられる場所というのは貴重だろう。僕は[昭和モダン街]で射的とスマートボールにすっかりハマってしまった。

 陽はすっかり傾いていた。温泉街の駅舎まで戻ると、ちょうどモノレール駅から団体が降りてくるのが見えた。モノレールは空港、駅、港等と街の要所要所を結んでいて便利がいい。

 アーケード入口前の停留所で電車を降りると、堀の上の空にやさしい橙色の夕焼けが広がっていた。アーケードには今日も沢山の人が溢れている。僕はそれを避けてアーケードの裏通りへ入った。こちらは人もまばらでひっそりとしていた。小綺麗な料理屋などが軒を連ねている。

 [お好み焼き]の暖簾が目に止まった。母さんがよくホットプレートで作ってくれたものだ。

 暖簾を片手で上げ、からりと戸を開ける。

「いらっしゃいっ!」

 元気な声と共に熱気とソースの香りが僕を包んだ。カウンターだけの簡素だが明るくて清潔な店内。客が何組か居てカウンターに嵌め込まれた鉄板の上でお好み焼きがじゅうじゅうと音を立てている。

 生ビールと広島風お好み焼きの大盛りを註文した。僕は関西風よりも広島風の方に馴染みがある。母さんが作ってくれていたのは広島風だった。

 霜のついたジョッキに注がれた生ビール。乾いた喉に気持いい。背の高い高校生くらいの可愛い女の子が目の前でお好み焼きを慣れた手つきで焼いてくれた。焼きたての熱々を頬張る。子供の頃は猫舌だったが今は熱くても平気だ。家とは火力が違うからだろう。生地がパリッと焼けている。

「どうだいっ」

 見ると女将さんが立っていた。

「うまいです」

「よかった。若いんやから、たあんとお上がり」

 女将さんは豪快に笑い向こうへ行った。

「御免なさいね。うるさくって」

 女の子が鉄板を掃除しながら、申し訳なさそうに言う。

「こらっ!親のことをうるさいとはなんぞねっ」

 女将さんの声が飛び、女の子は肩を竦めにっこりと笑った。

 母娘(おやこ)か…。女将さんは僕の母さんくらいの年齢だろう。

 母さんも働いていた。朝から晩まで毎日毎日、満員電車に揺られ通勤し、帰って来るのは夜の九時頃だった。風呂から上がり一息つくとラーメンやお好み焼きを作ってくれた。週に一度の母さんの休日、食卓には御馳走が並んだ。

 〝いつも、ちゃんとしたもの作ってあげられなくって御免ね〟

 母さんはそう言っていたものだ。

 ぐっ、と生ビールを呷り、席を立った。

「ありがとうございました!」

 母娘の元気な声と笑顔に見送られて店を出た。外はすっかり暗くなっていた。風が冷たい。温もりが奪われてゆく。

 アーケードの裏通りを歩く。この通りから東へ伸びる道沿いにネオンの灯が並んでいる。この辺りは歓楽街なのだろう、人通りも多くなり、すでに出来上がっている背広姿の男達が奇声を上げながら通り過ぎてゆく。こういう所はどこも同じだな。

 コリドー広場に着いた。待ち合わせの時間まで、まだ時間がある。[Kool]の灯。客が来ているのだろう、硝子窓越しに見える人影が影絵のように揺らめいている。

 石畳の道を歩く。[コリドー通り]と標されたプレートが映画館の壁にあった。街燈の灯を石畳がほのかに照り返している。ブティック、洋食屋、カフェ…、この通りに並ぶ店はどこかしら趣があって〝コリドー〟という言葉の響きそのままの雰囲気を醸し出している。

昨夜、[Kool]で見たゴッホの絵[夜のカフェテラス]みたいな暗がりにやさしい灯がふわっと浮かび上がったような感じ。絵と云えば、[Kool]に飾られている絵の額縁の殆どはカズさんの友人が作ってくれたものだそうだ。それぞれが絵の雰囲気にピッタリの味わいのある額縁だった。

 界隈をぐるっと一回りしてコリドー広場に戻った。ベンチに腰掛ける。昨日は気付かなかったが[Kool]の入口横の街燈に看板が架けられてあった。看板を吊っている棒の先っぽに黒猫の飾りが蹲っている。招き猫?黄色の真ん丸い目がユーモラスだ。小床の間の黒招き猫といい、[CHAT NOIR]といい、カズさんは猫が好きなのだろう。それも特に黒猫が…。この国で黒猫は不吉なイメージで捉えられていることが多いが海外では幸運を呼ぶといわれることもあるらしい。

幸運。不思議なものだ、昨日、僕はここに座り孤独感に浸っていたというのに…。

「ヨシ君!お待たせっ」

 友子の弾んだ声。振り向く。お下がりの革ジャンとジーンズ姿。吐く息が白い。

「何、ぼんやりしとったん?」

「Koolを見ていたんです」

「寒かったやろー、早よ、行こっ」

 友子に促され、僕は立ち上がった。

 地下の駐車場は途方もなく広かった。頑丈に造られていて核シェルターにもなるそうだ。鮮やかな赤色の軽自動車に乗り込む。車内は暖かく微かに花の香りがした。[YAMATO]知らないメーカーだ。

珍しげに車内を見回す僕に友子は、

「この街じゃFCV(燃料電池車)は当たり前やけん」

と、言った。既存のメーカーの車はこの街の規格に合わないので独自にメーカーを立ち上げたのだという。何種類かの標準の型があり、

そのまま乗るのもよし、こだわりがある者は町工場で好みのスタイルに改造できる。友子の車はフィアットを参考にしたそうだ。

 従来のように車ごと替えるのではなく一台の愛車を修理、改造しながら長く大切に乗るのがこの街の流儀なのだそうだ。その流儀は車だけでなく他の製品に対しても同じだという。

「大量生産、大量短期消費じゃなくて、適量生産、適量長期消費ってとこかな」

 友子は得意気に言うと車を走らせた。

 地上に出た車は温泉街の方へ向かってゆく。

「僕、昼に温泉本館に入っちゃったんです」

「そうなん。でも、これから行く温泉は、それよりも奥にあるところやけん」

 僕は城山と温泉街の素晴らしさについて話した。友子は、

「ほうやろー」

と、相槌を打ちながら話を聞いていた。

「城山と温泉街は、あたしも好きな所やけん、気に入って貰えてよかった」

 ホテルの窓の灯が並ぶ温泉街を過ぎ緩やかな山道を登ってゆくと目的地に着いた。何気なく見た看板には[混浴大露天風呂 天の河]

と、書かれてあった。

「混浴っ!」

「大丈夫。ちゃんと工夫されとるけん」

 何が大丈夫なのか友子は自信たっぷりにそう言うと手提げ袋からバスタオルと浴用タオルを出し渡してくれた。石鹸、シャンプーは備え付けがあるそうだ。しかし、混浴か…。初体験、混浴。

 入場料は友子が支払ってくれた。広々としたホールは大勢の人で賑わっていた。奥には食事処があり、大座敷もある。浴場の入口は男湯、女湯に分かれていた。

「じゃあ、天の河でね」

 友子は女湯の暖簾をくぐり、さっさと行ってしまった。僕も男湯の暖簾をくぐる。ロッカーがずらりと並んだ更衣室の壁に温泉の泉質、効能の説明と浴場の見取り図があった。独立した男湯、女湯があり、それぞれから流れる[湯の河]を伝ってゆくと混浴大露天風呂へと出る。男女が出逢う。それで天の河なのだろう。

 それにしても、友子は素っ裸なのだろうか。まさか、そんなことはないだろう…。僕はどきどきしながら服を脱ぎ、わくわくしながらタオルを持つと浴場へ入った。

 広々とした浴場。中央にある大きな岩風呂には、どどどどど…と音を立てて[湯の瀧]が勢いよく湯を落としている。僕は掛け湯をすると、辺りに人がいないのを幸いに、ざんぶっと湯に入った。やや熱めのいい湯加減。体の強張りが緩んでゆく。早速、幅三メートル程の湯の河をゆく。湯の高さは胸下くらい。緩やかな流れに腰を押され洞窟を抜けると視界がぱっと開けた。

「でかいっ!」

 直径五十メートルはあるだろう大露天風呂が広がっていた。湯煙が夜空に立ち昇ってゆく様は豪快で爽快だ。こんなに凄い風呂は初めてだ。大露天風呂の周りには、いくつかの小露天風呂があり、家族連れやアベックがのんびり湯に浸かっている。湯の中を泳ぐように進みながら友子の姿を探した。

 風呂の真ん中の岩場に友子発見。僕に気付いた友子は上半身を湯から出し手を振った。友子の躰には白い布が巻きつけられていた。―残念。僕は気を取り直して岩場に辿り着くと友子の横に腰掛けた。ちょうど胸くらいまで湯に浸かれる。

「これね、ここで貸してくれるんよ。一応、女性はこれを着けてくださいって。でも、気にならん人は着けんでもええんやけどね」

 友子は弁解するような口調でそう言った。確かに年輩の女性の中には着けていない方もいる。僕は股間を隠そうか隠さまいか迷ったが、隠さないことにしてタオルを頭の上に載せた。友子に見られるのならば本望である。

 友子は髪を白いタオルで巻き上げていた。蒲公英みたいで可愛い。露わになった肩と胸元。鎖骨の線がきれいだ。肌理が細かく艶やかな薄い麦穂色の肌。白い布に覆われた胸の膨らみについつい目がいってしまう。この布の下には…。

「こらっ」

 友子の声。僕は視線を遠くに移した。

「しかし、結構、人がいますねえ」

「そうやね。地元の人だけやなく他所からも大勢来よるみたい」

「でも、混浴って恥ずかしくないのかなあ」

「そりゃあ、恥ずかしいけど、まあ、スッポンポンじゃないしね。お湯に入っていればそうそう見えることはないし、それに誰かさんみたいにジロジロ見る人はおらんしっ」

 友子は微笑みながら、きっ、と僕を睨んだ。マナーがいいんだろうな。今日、城山で会った勝山さんが言っていた〝和〟に、このマナーも含まれるのかもしれない。

「でも、いいもんよ。家族や恋人とかと一緒にこんな大きなお風呂に入れるのって。折角、温泉に来ても一緒に入れんかったら、つまらんやろう」

 母さんをここに連れて来たら、きっと喜んだだろうな…。家族や恋人か…。

「カズさんとは、来たことあるんですか?」

「えっ…」

 友子は言葉を濁して俯いた。僕は昨夜で分かっていた。友子の瞳はいつだってカズさんを追っていたから。

「ヨシ君、恋人は?」

「今は…、いません」

 正確には、今も、いないだった。僕は今まで女の子とつきあったことがなかった。ゲームの美少女達とは豊富につきあってはいたが、現実では片想いの恋ばかり、告白すらもできず諦めてばかりだった。

「そっかあ。あたしもあの人のこと、恋人とは言えんかもしれん。何かはっきりしてないんよねえ。あの人は歳の差とか仕事のこととかで気を遣っているみたいやけど…。あたしは、そんなこと全然気にせんのに」

「歳の差って言っても大した差じゃないでしょ?」

「何言うとん、あの人五十一歳よ。今年で五十二歳なんやけん」

「ええっ!そんな歳なんですか?」

 母さんと同い歳だったとは…。

「全然見えないですね、三十歳半ばかと思っていました」

「うん。あたしも歳訊くまではそう思とった。でも、うちのお母さんの二つ歳下なんよねえ。ま、二つでも歳下でよかったけど」

「友子さんは二十二歳ですよね」

「うん。今年で二十三歳。だから、親子ほど歳が離れとんよ。それだけやなくて、仕事が夜の仕事でしょう。そんなん関係ないのに。要は気持ちよ、気持ちっ」

 友子は溜め息をつき夜空を見上げた。ほっそりとした首筋に濡れたおくれ毛が絡んでいる。うなじに並ぶ二つの黒子が艶かしい。

「そういえば、今日、城山で会った八十六歳の勝山さんの奥さんなんて四十歳で、しかも白人でしたよ。四十以上も歳の離れた夫婦なんです。そういう人だっているんですから大丈夫ですよ」

「そうよねー。別に珍しくないんよね。ヨシ君からも、あの人に言ってやって」

 友子は弾んだ声でそう言うと、湯の中から体を起こした。

「でも、やっぱり、あの人には内緒にしといてね。ああー、何かのぼせたみたい。あたしは女湯に戻るけん、ヨシ君はごゆっくり」

 友子は桃色に染まった頬に手を当てて、にっこりと笑った。

 一時間後にホールで落ち合う約束をして、友子は湯煙の彼方へ消えていった。淡い恋心…。また片想いか。相手がカズさんなら仕方がない。僕はカズさんにも惹かれていた。

 男湯に戻り、泡風呂、打たせ湯、サウナなどを梯子して愉しんだ。思えば、こんな大きな浴場に来るのは久し振りだった。小中学生の頃は母さんと一緒にスーパー銭湯へ出掛けたものだ。風呂上りに飲むラムネやコーヒー牛乳が堪らなかった。

 ホールに出ると友子はすでに出ていてソファーに、ぽつん、と座っていた。乾かした髪を後ろで束ね、前髪をすっかり下ろした姿はあどけない少女のように見えた。

「どうも、お待たせしました」

「ううん、あたしも、今、出たとこやけん」

 もともと化粧気のない友子の肌は薄桃色に火照ってつやつやとしている。とろん、とした風情が妙に色っぽい。

 この近くで湧く天然水で仕込んだラムネを飲みながら友子と話した。昔からこの場所には温泉があったのだが、新しく造りかえるに当たって付近を何ヶ所か掘ったところ温泉は勿論、天然水の水脈も発見されたそうだ。お陰で温泉は掛け流し。水量豊富な湧水で水不足の心配も解消され温泉街と城山の堀を繋ぐ水路も造ることができたという。

 城山や温泉本館の広場では結婚式やライブ等も行われるそうだ。春には[お城下祭り]、[温泉祭り]があり大名行列や花魁道中、女神輿、伝統芸能の発表会、楽団のパレード等、華やかで賑やかなイベントが開催されるという。友子はカズさんと一緒に[お城下]にある無料教室で茶道や華道を習ったそうだ。単なる観光地としてだけではなく地元の人にも利用され親しまれているようだ。

「あっ、もうこんな時間!」

 ホールに置かれた大きな振り時計は十一時を差そうとしていた。

「あたし、明日、朝から仕事なんよ。そろそろ帰ろっか」

「はい。そういえば、友子さんの仕事って何ですか?」

「カフェで働きよんよ」

「ウエイトレス!」

「ブーッ。コックさんでした。そうだ、ヨシ君、この街におる間にうちの店に来てみんけんよ。あたし、今週は日曜まで休みないし」

 友子は財布の中からオレンジ色の名刺を出し僕に手渡した。

 [CAFFE(カフェ) ARANCIA(アランチア)] 営業時間は朝の七時から夜の十二時まで。年中無休。裏面には地図があった。

「早番、遅番があるけど、昼間は必ずおるけん」

「アランチア?」

「イタリア語でオレンジのことなんよ」

「成程。この街らしい名前ですね」

 振り時計のボーン、ボーンという音を聞きながら外へ出た。寒い。友子と並び小走りで駐車場を駆け、車に乗り込んだ。

「何処に送ろっか?」

「Koolへお願いします」

「ええっ、今日も行くん?」

「はい。何だかカズさんに会いたくなりました」

「そう。…いいなあ、ヨシ君は」

 友子は淋しげに微笑み、車を出した。

 見上げれば満天の星。こんな星空は初めて見た。行方にはその星空を映したような街の夜景が広がっている。

 もう恋をしない、そんな歌がステレオから流れる。恋なんかしなくったって困りはしない。むしろ恋をした方が切なくて困る。今までの片想いの恋…。

 いつも振られることばかり頭に浮かんで、どうせ僕なんかと諦めていた。そして、いつからか恋することすらなくなっていた。

「これ、誰の歌ですか?」

「矢沢永吉さんの[夏の終り]よ。両親が好きでね、小っちゃい頃から聴かされているうちに、あたしも好きになっとったんよ」

 僕の母さんはサザンが好きだった。昔の曲をかけてあげると、

〝懐かしい〟

と、喜んで聴いていた。一緒に聴いているうちに僕も好きになっていた。母さんのお気に入りは[そんなヒロシに騙されて]だった。よく口遊(くちずさ)んでいたものだ。

 関係ないかもしれないが、僕の父の名は雄輝(ひろき)だ。

 道路は空いていて、あっという間に中心街に着いてしまった。

 コリドー広場。車が止まる。基本的にこの辺りの道路は車両通行止めなのだが、深夜から早朝まで一部の道路は通行できるそうだ。

「これ、あげます」

 僕はポケットから取り出した物を友子に差し出した。

「あっ、かわいい。どうしたん?これ」

「今日、射的で獲ったんです」

 友子は黄色の紐を摘まみ上げると、軽く揺らした。朱塗りの竹細工の鈴が鳴る。友子の笑顔も揺れる。

「じゃ、ありがとうございました」

「うん。またね。これ、ありがとう」

 車から降りてドアを閉める。友子は腕を伸ばし軽く鈴を振ると車を出した。

遠ざかる尾灯(テイルライト)…。

 夜風が冷たい。足早に[Kool]へ向かう。樽をイメージしたという木製の扉。昨日、初めて来たというのに随分前から来ているような気がする。

 扉を引き開ける。[Kool]の扉は押しても引いても開く。重厚な造りだが軽く開く。そして間口が広い。

「いらっしゃいませ」

 カズさんの笑顔。客はアベックが二組。カウンターの両端に陣取っている。僕は、昨夜、友子が座っていた席に腰掛けた。カウンターの真ん中、カズさんの作業場の真ん前。

「今晩は、大戸さん。いらっしゃいませ」

 カズさんがおしぼりを広げ手渡してくれる。

「今晩は。今日も来ちゃいました」

「毎日でもいらしてください」

 本当に毎日来てみようか、との思いが頭の隅をよぎった。

 [雪の妖精(スノーフェアリー)]を註文した。その白色に湯煙に包まれた友子の姿を浮かび上がらせる。

彼女は彼のもの、か…。そんな歌も友子の車で流れていた。

 申し合わせたように二組のアベックは出て行った。

入れ替わるように焦げ茶色のコートに身を包んだ男が入ってきた。

「よう」

「おう。武志、いらっしゃい」

 男は僕の席から一つ置いた椅子に座った。

「ビール二本、グラス三つ」

 カズさんは壜ビールの栓を抜くと、男のグラスを満たした。男はカズさんから壜を受け取るとカズさんに酌をした。二人の一連の動作がまるで儀式のように見えた。少々、あっけに取られていた僕に男は空のグラスを差し出した。

「おう、青年、一杯()らんか」

「えっ?僕に?いいんですか?」

「大戸さん、彼は俺の幼なじみの武志です」

「桜井武志です。よろしく」

 急に改まった口調で男はそう言うと、両手を添えた壜を僕の方へ傾けた。鋭い目つき。その筋の人なのだろうか…。

「大戸義輝です。どうも」

 僕が手にしたグラスに桜井さんがビールを注いでくれた。

「乾杯!」

 三人でグラスを合わせる。桜井さんとカズさんは競うようにビールを一気に飲み干した。僕は半分程飲んでグラスを置いた。

「あっ、大戸君、乾杯したら一気よっ」

 桜井さんが鬼の首を取ったように言う。鋭い目が子供のように輝いている。僕は慌ててグラスを空けた。

「さっ、チョンボでもう一杯」

 桜井さんが嬉々としてビールを注ぐ。コワモテで物言いは乱暴だが、何処か憎みきれない人懐っこさがある。僕は一気にビールを飲み干した。すかさず桜井がビールを注いでくれる。

「桜井さん、乾杯!」

「ははははっ、大戸君、いい根性やねえ」

 桜井さんは甲高い声で笑うとグラスを差し出した。グラスを合わせる。僕達は同時にグラスを空けた。

 桜井さんがまたビールを注いでくれた。僕は壜を受け取り桜井さんのグラスを満たした。

「カズさんは飲まないんですか?」

「俺は、基本的には営業中に酒を飲みません。ただし、お客さんが勧めてくださった時は頂戴しています」

「一矢は酒にも女にも弱いけん」

「えーっ、こんな仕事をしているのに意外ですね」

「そうでしょう。でもバーテンダーの中には酒が殆ど飲めないという人もいますからね。それにお客さんから勧められても酒を一切飲まないという人もいます。逆に勧められてもいないのに飲む人も…。まあ、色々な流儀があるんでしょうが、俺はくださるものは有り難く戴きます。でも酒に弱いので加減をみて戴くようにしています。酒は魔物の面もありますから間合いを見極めないと危ないですよ」

「女もな」

「それは武志もやろっ」

「こいつ、今では澄ました顔して仕事しよるけど、若い頃は、よう酔っぱらって色んな所で吐きよった」

 僕は酔っぱらったことが無かった。それ程まで飲んだことがないからかもしれないが、酔って無様な姿は晒したくない。第一、僕は酔っぱらいが嫌いだった。父が酔ってクダをまいていたことを覚えている。母さんは何故かそんな父に口答えもせず、むしろ優しく接していたように思う。

「武志には敵いません。俺のことを何でも知っていますから」

「いつ頃からのつきあいなんですか?」

「幼稚園からですね。家も近所でしたし。途中、空いた期間がありましたが、高校でまた一緒になって…」

「一矢は小さい頃からこまっしゃくれて口が立ってなあ、気に入らんヤツやった」

「武志は口も達者ですが手も早くて大変でしたよ」

 幼なじみ。同じ過去を共有する友達。僕には幼なじみなんていなかった。両親の離婚による小学生の時の転校、さらに母さんの仕事の都合による中学生の時の転校。大したいじめに遭った訳でもなかったが他人に心を開けない居場所のない感じをずっと抱えていた。だいたい友達すらもいなかった。今も大学にいるのは顔見知りといった言葉がピッタリの人達ばかりだ。

 何組かの客が入り、桜井さんは僕の隣の席に移った。

「幼なじみっていいですね」

「そうやなあ。先刻(さっき)、一矢が言いよったけど、オレはあいつのことを何でも知っとる。でも、あいつもオレのことを何でも知っとるわけよ。だから何というか、あいつには格好つけんでええし素のままでおれる。親兄弟や嫁さんとは違う身内みたいなもんかなあ。それに長年つきあってきた仲での信頼があるわな。あいつは信じることができる。ま、オレはあいつに迷惑や心配を掛けることが多いけん、偉そうなことは言えんのやけど」

 桜井さんは僕に何杯もビールを注ぎながら、カズさんとの思い出を話してくれた。桜井さんの語り口は巧く、話を聞いているうちに僕はまるで自分がふたりの幼なじみのような気になっていった。

「武志、あんまりみっともないこと話すなよ」

「まあ、ええがあ。お前みたいな変わったヤツもおるっちゅうことよ。これも社会勉強やけん。お前は仕事しよれっ」

 武志さんはセブンスターの煙と共に言葉を吐き出した。その威勢のいい啖呵に客達が笑う。

 友達。友達って何だろう?今まで友達なんていなくても平気だった。友情なんて嘘臭い言葉だと思っていた。皆、自分さえよければいい、他人のことなんてどうでもいい、と思っているはずだ。でも、今、ふたりを見ていたら羨ましい。僕にもこんな友達がいたらどんなに心強いことだろう…。

「じゃ、締めの乾杯」

 武志さんがグラスを掲げる。気が付けば空壜が十数本並んでいた。

 ぐっ、とビールを飲み干す。

「大戸君、元気で。いい旅を」

 武志さんがごつい手を差し出す。握力が強い。そして温かい。

「武志さん、御馳走様でした。ありがとうございました」

「おう。じゃあ、一矢、帰ってこうわい」

「うん。気をつけてな。ありがとう」

 武志さんは軽く手を挙げ出て行った。

「武志さん、また戻って来るんですか?」

「えっ?ああ、『帰ってこうわい』ですね。あれは帰ります、ということですよ。よく他所から来た人に同じ質問をされます。地元の人は当たり前に家へ帰る意味で遣っていますが、確かに紛らわしい言葉ですよね」

 …僕は帰る場所を失ってしまったのかもしれない。東京の家へ帰っても迎えてくれる人はもういない。

「大戸さん、有難うございました。武志につき合ってくださって。しかし、お酒強いですね」

「こんなに飲んだのは初めてですよ。自分でもビックリしました。いやあ、楽しかったです。カズさんの(こと)も聞けたし、ビールもご馳走になっちゃったし。いい友達ですね」

「ええ。いいヤツです。武志は無茶なこともしますが、温かいものを持っている。俺は武志を信じています」

 同じ時間を過ごしただけじゃなく、その中で育まれてきたお互いを信じる心、それが友情なのかもしれない。友情を育むには時間が掛かるのだろうか…。

「お水、召し上がりますか?」

「いえ、大丈夫です。えーと、昨日、出してくれたジン・トニックをください」

 昨夜、覚えたカクテルだ。二杯目はこれにしようと決めていた。

 ジンは四角い瓶に黄色の貼紙(ラベル)、ゴードン。ショット・グラスと呼ばれる小さいグラスに入れられて出てくる。小皿にカットされたライムとマドラー。氷入りのグラス。そしてトニック・ウォーターの瓶。トニックとは〝元気づける〟という意味があるそうだ。飲み手はグラスにジンを注ぎ、ライムを入れ、トニック・ウォーターで満たして好みに応じた味に調整できる。マドラーで掻き混ぜ過ぎると炭酸が抜けてしまうので軽く掻き混ぜるのがコツなのだそうだ。通常はカズさんが全て作るのだが、〝自分で作る楽しさを〟ということで、このやりかたを勧めてくれた。実際、イギリスではこのスタイルで出す店もあるという。確かに自分で作るのって楽しい。







 目醒めるとホテルの部屋だった。僕は着のみ着のままベッドに横たわっていた。頭が痛い。ぼうっとする頭を押さえ記憶を手繰り寄せる。昨夜…[Kool]…ジン・トニックを飲み干した後、急に気持悪くなってトイレに駆け込み吐いた。…そこまでは覚えている。しかし、その後は?タクシーに乗ったんだっけ?んー、思い出せない。トイレでカズさんが背中をさすってくれていたような気もする。僕は酔っぱらってしまったのだろうか。記憶がない。こんなことは初めてだ…。

 再び目醒めた。ぼんやりとした薄い朱色の夕暮れ空が窓から見える。一日無駄に寝てしまった。頭痛は治まっていた。水をがぶがぶと飲む。やはり記憶が定かでない。カズさんに迷惑を掛けたのではないか?[Kool]へ行かなければ。

 熱いシャワーを浴びると幾分、頭と体がシャキッとした。急に腹が減り、ホテルのレストランでカレーライスの大盛りを平らげて外へ出た。

 冷たい風が身に沁みる。ライトアップされた城が夜空に浮かんでいる。堀沿いに並んだ灯籠の灯が水面に揺れている。僕は身を縮め早足で歩きながら懸命に記憶を手繰り寄せた。しかし、どうにも思い出せない。こんなこともあるんだな。これが酔っぱらうということなのか。まさか暴れたりはしなかっただろうな。酔っぱらってクダを巻く父の姿が頭に浮かんだ。僕はその姿を振り切るように、さらに歩く速度を上げた。吐く息が機関車の蒸気のようだ。それにしても大戸が嘔吐じゃ洒落にもならないや。

 [Kool]の扉の前。来てはみたものの、僕は扉を開けることを躊躇った。カズさんに叱られるのではないか、邪険にされるのではないか。このまま何くわぬ顔をして旅の恥をかき捨てて東京へ帰ったっていいのではないか…。

 僕は思い切って扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 ざわめきの中、カズさんの声が通る。笑顔のカズさん。僕はほっとして店内に足を踏み入れた。

 [Kool]は大盛況だった。立って飲んでいる客もいる。窓際の台は立ち飲み用のカウンターだったのだ。今日は金曜日。カウンターに十三席しかないのだから、こんな日はすぐ満席になってしまうのだろう。しかし、万事がゆったりとした造りなので窮屈さはない。

「大戸さん、こちらへどうぞ」

 カズさんの前の席が一つ空いていた。昨夜と同じ席。僕の為に空いていたように思えて嬉しくなった。

「カズさん、昨日は済みませんでした」

 開口一番、僕はカズさんに頭を下げた。

「いえ、別に。大戸さん、謝る程のことは何も無いですよ。それより大丈夫でしたか?無事、ホテルに戻れましたか?」

「それが…、記憶が無いんです。目が醒めたらホテルの部屋にいて…どうやってホテルに戻ったかもよく思い出せないんです」

 カズさんの話によると、トイレに入った僕がなかなか出てこないのでドアを開けてみると僕は便器を抱え込んで寝ていたそうだ。揺り起こし水を飲ませると吐いたという。店に泊まるようにカズさんは言ってくれたそうだが僕がホテルへ戻ると言ってきかないのでタクシーを呼び乗せてくれたという。

「何か暴れたり失礼なことを言ったりしませんでしたか?」

「それはないです。ただ…」

「ただ?」

 嗚呼、僕はとんでもないことをしでかしてしまったのであろうか。

「ただ、俺に『友達になってください』と何遍も仰っていましたよ。勿論、OKしましたけど」

 何も覚えていなかった。でも、確かにカズさんと武志さんを見ていて羨ましくなったことは覚えている。酔った勢い、とでも云うのか、ついつい思っていたことを口に出してしまったのだろう。普段の僕はそんなことは思ったとしても口には出さない。しかし、そんな大事なことを覚えていないなんて情けない。

「いきなりだったんで吃驚しましたけど、嬉しかったです。まっ、友達というのは口約束でなるもんじゃないと思います。これからの俺達のつきあいの中で友情は育まれてゆくでしょう。気楽にいきましょう、大戸さん」

 カズさんの言う通りだった。言葉ひとつで友情は生まれるもんじゃないだろう。そんなこといきなり言われても迷惑だろうな。

「カズさん、すみません、迷惑を掛けて…」

「さっ、もう謝るのは止めにしてください。酒を飲んで酔うのは、あたりまえのことですし、そもそも武志につき合ってくれた上のことですから、御迷惑をお掛けしたのはむしろ俺の方ですよ」

「いや、そんな。飲んだのは僕ですから…」

「俺は迷惑だなんて思っていませんよ。昨日のことは俺達が親しくなる〝きっかけ〟になったじゃないですか。それより、何か召し上がりますか?」

「あっ、そうですね。何も註文してなかった。えーっと…そうだ、宿酔(ふつかよ)いに効くカクテルってありますか?」

 その言葉を聞いて隣の女の子達がクスクスと笑った。僕は耳がカーッと熱くなるのを感じた。

「ありますよ。レッド・アイという、トマトジュースとビールのカクテルです。まあ、迎え酒ですけど」

「それ、下さい」

「生卵を入れる()り方もありますけど、どうしますか?」

「ナシでお願いします」

「かしこまりました。と、言っても、もともと生卵を置いて無いんですけどね」

「なあんだ、ビビリましたよ〜」

 生ビール用のグラスになみなみと注がれた赤い液体。トマトジュースなんて久し振りだ。ごくり、あ、見てくれに反して飲みやすい。こいつぁぐびぐびいける。そのまま半分程飲んだ。乾いていた喉が潤い心なしか胃が軽くなったような気がした。

「どう、落着きました?」

 隣の女の子が言う。栗色のショートボブ、ぽっちゃりした顔に少しタレた目。狸に似ている。もう既に幾らか飲んでいるのであろう、赤ら顔になっている。

「ええ、まあ…」

 どーせ、馬鹿にしてるに決まっている。

「うちらなんか記憶が飛ぶことなんてしょっちゅうやけん、そんなん気にしたらあかんよ」

 どうやら慰めてくれているらしい。そう思って見直してみると、割りかし可愛らしい顔立ちだ。それに二度見するくらいのグラマーである。

「そうですよ、大戸さん。俺なんか自慢じゃないですが、他所のお店のカウンターに吐いたことがあります」

「えっ、カウンターに?」

「やだっ、カズさん、きたなーい」

「はははっ、失礼。それでカウンターに、どばーっとやっちゃって『もったいないっ!』て、叫んだそうです。俺はすっかり酔っ払っていたんで覚えていないんですけどね」

 僕は笑いながら気持が軽くなるのを感じた。隣の女の子、カズさんの優しさが嬉しかった。皆、誰しも失敗はある。失敗したことがあるから他人(ひと)の失敗に対して優しくなれるんじゃないかな。今は、酔っぱらいに対してそれほど嫌悪感を抱いていない僕がいた。僕に他人を責める資格なんてない。それに、だいたい人に他人を責める資格なんてないんじゃないのかな。自分のことを棚に上げているんじゃないのかな。

「でも、今後は気をつけます」

 僕はいい気にならぬよう自分に釘を差した。

「そうですね。俺も何かヘマをやらかす度にそう思うんですが、またやってしまう。恥ずかしながら、その後も何度も粗相をしでかしました。ここ数年はやっと他人に迷惑を掛けずに飲めるようになりましたが油断は禁物だと思っています。で、俺は思うんですけど、BARという場は大げさに言うと克己復礼の場、緊張と緩和のバランスを楽しむ場でもあるんじゃないでしょうか。緊張し過ぎると面白くない、緩和し過ぎるとみっともない。まあ、大抵、緩和の方に傾きがちになりますが、それは酒を飲んでいるのだから仕方がない。ただ、お客さんには気分良く酒に酔い、その場を楽しんで戴きたいですね。その手助けをするのも俺の役割の一つだと思っています」

「みゆきは緩和し過ぎるんよ」

「あんただって緩和しっぱなしやない」

「そりゃ、あかんわ」

「誰?この人」

「知らなーい」

「大戸です」

「おおっと」

「みゆきが一番くだらなーい」

「彼は大戸さん。東京からいらっしゃっているんですよ」

 カズさんがふたりに僕を紹介してくれた。そのお蔭で、東京話で盛り上がることができたし、ふたりと打ち解けることができた。

 隣の狸顔の娘はみゆき、みゆきの隣の娘は朝美。ストレートの長い黒髪、色白でほっそりとした体つきの朝美はやや面長な顔立ちで、切れ長の目が少し吊り上っている。こじつければ狐顔だろう。狸と狐。いいコンビだ。ふたり共、専門学校生で僕と同い歳だった。

 酒を飲むのなら家でも飲める。なのに何故、人はBARに来るのだろう。カズさんが言うようにバランスを楽しむ、それもあるだろう。昨日の僕がそうだったようにカズさんに会いに来る、カズさんのカクテルを飲みに来る、それもあるだろう。そして、友子や武志さん、みゆき達との出会いのような人との出会い、それもあるんじゃないのかな。つい先刻までお互いに知らなかった人達がカウンターに並ぶことによって知り合える。BAR、って不思議な場だな。

 〈流れ星シェイク〉

 シェイクが始まったと同時にみゆきと朝美は手を前で組み目を閉じた。その姿は何だか祈っているようにも見えた。

 みゆきと朝美に白いショートカクテルが出される。このショートというのは時間が短いという意味で量も少なく氷も入っていないので早めに飲むカクテルということだそうだ。これに対してモスコーミュールやジン・トニック等の量も多く氷が入ったカクテルは長く時間を掛けて飲めるのでロングカクテルと呼ばれる。

「先刻のシェイクの時、何をしていたんですか?」

 僕はみゆきに尋ねた。

「願い事してたんよ。カズさんのシェイクって『流れ星シェイク』って呼ばれよるけん、流れ星と同じでシェイクしよる間に願い事を三度唱えたら願いが叶う、て、うちらが勝手にやりだしたんよ」

「願いを叶える流れ星か…。何かロマンティックですね」

「そうそう、うちらは夢見る乙女やけん。でもシェイクの度に願い事してたら有難みが薄いけん、一晩に一回、しかも決まったカクテルの時だけにしとるんよ」

 みゆきはホワイトレディ、朝美はマルガリータ。マルガリータのグラスの縁には塩がつけられている。これはスノースタイルというそうだ。一昨日の夜、友子が教えてくれた。

 僕は[雪の妖精]を註文した。

 手も組まず目も閉じなかったがシェイクの時、心の中で願いを三度唱えたのは言うまでもない。

 [雪の妖精]…湯煙に包まれた友子の姿…。友子は今、何をしているんだろう…。

「ねえ、カズさん」

 みゆきがカズさんに声を掛ける。僕は妄想を遮られ、視線をカズさんに移した。

「はい」

 洗い物をしているカズさんが顔を上げる。

「先刻、気になったんやけど、お酒は、あれ、ちゃんと計って入れとるん?」

「この間、行った店は小さい計量カップみたいので計って入れよったよ。うちはここのカクテルの方が好きやけど…」

「それはメジャーカップ、というものです。これでしょう」

 カズさんは大きさの違う銀色の円錐をくっつけたものを摘まみ、みゆき達に見せた。

「そうそう、これよ」

「これは、小さい方が三十ミリリットル、大きい方が四十五ミリリットル、入ります」

 カズさんはそう言いながらゴードンの空瓶に水をたっぷりと入れ、シェイカーとメジャーカップと共にカウンターへ置いた。

「それではいきますよ。まずは三十」

 カズさんは無造作にシェイカーへ水を注いだ。そして、その水をメジャーカップへ注ぎ移した。水はピタリ、と納まった。

「次は四十五」

 同じように水をシェイカーに注ぎ、今度は逆さにしたメジャーカップへ水を注ぎ移した。またもや、水はピタリ、と納まった。

「これだけでは、他の細かい分量はどうなるんだ?と思うでしょう」

 カズさんは理科の実験で見たことのあるメスシリンダーをカウンターに置き、シェイカーに水を注いではメスシリンダーへ注ぎ移し、

五、十、十五…、と五ミリリットルずつ足した分量を注いでみせた。いつの間にか店内は静かになり、他の客までカズさんの技に見入っていた。

「好きな分量を言ってください」

 カズさんが朝美に言う。

「えーっと、六十五」

 カズさんは頷くとシェイカーに水を注ぎ、その水をメスシリンダーへ注ぎ移した。水は六十五の目盛にピタリ、と納まった。

「うちは百!」

 みゆきが言う。同じ要領で水をメスシリンダーへ。当たり前のように水は百の目盛にピタリ、と納まった。「おおー」と溜息に似た声が周りから聞こえる。何だか手品でも見ているようだ。

「大戸さんもどうぞ」

「じゃあ、一二三」

 と、言ってから僕は後悔した。五ミリ単位なら計れるかもしれないが、こんな中途半端な分量は無理かもしれない。

 そんな僕の心配を他所に、カズさんは微笑みながらシェイカーに水を注いだ。そしてシェイカーの水をメスシリンダーへゆっくりと注いでゆく。五十…九十…百二十…、そして最後の一滴。水は一二三の目盛にピタリ、と納まった。

「すっごーいっ!」

 みゆきと朝美が叫ぶ。その声を皮切りに周りの客から拍手と歓声が湧き起こった。僕もほっと胸を撫で下ろし拍手をした。よかった。成功してくれた。

「有難うございます。まだまだ修業中ですが…」

 カズさんが照れ臭そうに笑う。

「しかし、何事も完璧ということはないと思います。計量カップを使った方が、ある程度正確に計れるでしょう。でも、どうも俺は計量カップを使うのは薬を調合しているみたいで性に合いません。お客さんが計量カップを使えと仰るならば使いますが…。そもそも、俺はカクテルをつくる時に、これを何ミリ入れて、とか考えていません。このくらい、と感覚で入れてつくっています。それは、俺がカクテルを〝夢〟と思っているからです。〝夢〟を計量カップで計れますか?俺には計れないし計りたくもありません。俺のカクテルの曖昧なところは、俺の味、個性として楽しんでくだされば幸いです。尤も不味かったら仰ってください。好みに沿うようにつくり直させて戴きます。以上、御清聴有難う御座いました」

 再び店内に拍手と歓声がおこった。指笛を吹いている人もいる。確かな技術に裏付けられた理論。(うつつ)と夢の融合、カクテル。BARは、ただ、酒を飲む場だけではなく夢と出逢える場でもあるんだ。

 註文が殺到して、カズさんは息つく間もなくカクテルを作り続けた。流星群、といったところだ。

 カズさんが大切にしているのは、酒を正確に何ミリ計ることでも、独り善がりな夢を客に押し付けることでもなくて、お客さんが喜んでくれるカクテルをつくることなのだろう。カクテルだけじゃないか、全てにおいて、か。

 カズさんの手が空いた頃合いを見計らってグレープフルーツを使ったお薦めカクテルを註文した。

 カズさんの作業には派手なパフォーマンスもこれ見よがしの格好つけもない。水や空気が流れるように淡々と自然な動作でカクテルをつくってゆく。

 [サウザン・ブリーズ]、南のそよ風。オランダ産のレモンの酒とグレープフルーツ、そしてトニック・ウォーター。矢沢永吉の歌、[YES MY LOVE]のイメージからつくったそうだ。その名の通り、そよ風のような優しい口当たりと爽やかな飲み心地。

 風…そう、カズさんは〝風〟のような人だな。

 カクテルの化身…ふっと、そんな言葉が頭に浮かんだ。

 カズさんの背後か中かにカクテルの神様か霊かそんなものが居て、カズさんを通して介してカクテルという形になって出てくる…そんなイメージ。カズさんがカクテルの化身ならばカズさんが注いだ量が適量でありカズさんの配合が()い加減ということになる。

 いい加減、とは面白い言葉だ。悪い意味に使われることが殆どだが本来は()い加減でちょうど()いということなのだろう。どうでもいいのか、ちょうどいいのか、悪いのか好いのか、そんなバランスの曖昧さまでも表している言葉のようにも思える。

 零時前になると客が疎らになり店の様子が落着いた。店を出掛けに客達はカズさんに一声掛けていった。カズさんは笑顔でそれに応えていた。見ていて微笑ましい情景だった。

「もう、うちら、あかんわ〜」

 と、言いながら、みゆきと朝美もすっかり緩和した様子で帰っていった。みゆき達のお蔭で楽しく過ごせた。ふたり共、同い歳だというのに僕なんかよりもずっと考え方がしっかりしている。将来の目標を持ち、その目標へ向かって、現在を活き活きと生きていて、頼もしくも羨ましかった。

 しかし、人と話すのって楽しいものなんだな、新しい発見でもしたように僕はひとりごちた。

 扉が開く。黒いコートを腕に掛けたライトグレイの背広姿の男。

「お帰り。帰っとったんやな。遅くに珍しい」

「会社の連中と飲んでてね。締めの一杯を飲りに来たんだ」

「ここに座らんけん」

 カズさんは洗い物の手を止めると、僕の隣の席を手で示した。

「こちら、東京からいらしている大戸さん」

「や、どうも。高砂です。よろしいですか?」

「大戸です。どうぞ」

 と、僕が言うと、高砂さんは莞爾と笑い、僕の隣に座った。

「高砂は中学からの俺の友人です。高校も一緒だったんですよ」

「高砂、何にする?」

「ギムレット、をもらおうか」

「かしこまりました」

 〈流れ星シェイク〉

 シェイカーからグラスに、ギムレットが最後の一滴まで注ぎ込まれる。なみなみではなくグラスを持っても零れないように飲みしろが取られている。

 高砂さんは一口飲むと満足げに目を細めた。高砂さんもカズさんの個性を楽しんでいるのだろう。

 カズさんとの会話から、高砂さんは転勤で現在は東京に住んでいること、この街に本社があり、月に一度はこの街に帰ってくること、二十代の息子と娘がおり、娘は結婚していて四歳と七歳の娘|(高砂さんにとっては孫娘)がいること等が分かった。高砂さんもカズさん同様、若く見える。とてもおじいちゃんには見えない。しかし、カズさんにはない落着きというか貫禄のようなものが感じられた。会社での立場や父親としての立場からくるものなのだろうか。

─父親。僕が小学生の時、両親は離婚した。僕は母さんに引き取られた。それ以来、父とは会っていない。母さんより五つ歳上だから今年で五十七歳になるはずだ。

「東京は、どちらにお住まいですか?」

「日暮里です」

「おっ、私は根津に住んでいたことがあるんですよ」

 上野、浅草、秋葉原周辺の話題で盛り上がった。高砂さんは東京の地理に明るく、僕の知らないことを沢山知っていた。

「高砂さん、東京に住んで、どれくらいになるんですか?」

「二十年近くになるかなあ。今は子供達も巣立って妻と小金井に住んでいるんですけど、根津にいた時は単身赴任でね。あの頃は出張が多くて大変でしたよ」

 僕の父も家にいることが少なかった。子供心にも寂しかったものだ。仕事の関係もあったが、女性の関係もあったという。僕が高校生の時、そんな話を母さんから聞いた。

「仕事とはいえ、やっぱり家族と離れて暮すのは寂しくて、東京に家族を呼んだんですよ。まあ、今は東京に転勤になったことも、出張で色々な土地に行けたことも良い経験になったと思っています。三城もね、色々な土地を旅しているから話が合うんですよ」

「カズさん、旅行なんてするんですか?」

 カズさんは、ずーっとこの街でBARに立ち続けてきた、そんな思い込みがあった。

「むかしのことですよ。旅の時は高砂の家にも世話になって何週間も泊めて貰ったこともあります。家族みたいに居座っていました」

「三城はね、単車で日本を一周したり、ヨーロッパやアメリカなどの国々を旅したりしたことがあるんですよ。羨ましいヤツです」

 僕は国内の旅行すら碌にしたことがない。この街へ来たことが旅のうちに入るのか分からないが、これが初めてのひとり旅だ。まして海外なんて…。

「そんな旅ができたのも、俺には守るものがなかったからです。でも、高砂には家庭がある。俺がふらふら旅をしている時に高砂は仕事をし家庭を守り続けていたし、今も続けている。尊敬しています」

 僕の父は守り切れなかったのだろうか。母さんからは父の浮気が離婚の原因だと聞いていた。父は母さんと僕を裏切ったのだ。僕はそう思っていた。

「折角、旅の話も出たことだし、もう一杯もらおうかな」

松風(まつかぜ)、か」

「おう。三城も飲るけ?」

「いただきます」

「松風?」

 呟いた僕にカズさんが説明しようとすると高砂さんは遮るように、

「待て。説明は後にして、まず作れ。大戸君の分もな」

 と、言って笑った。

 カズさんは〝してやられた〟という表情を見せると、三つのコリンズグラスにライムを搾り入れ、氷を入れてカウンターへ並べ、手際よく[松風]をつくり上げた。

「乾杯!」

 共にグラスを掲げる。薄靄掛かった淡い緑の色合いがきれいだ。ミントの爽やかな香りと味わい。ゴードンがしっかり効いている。

「このカクテルは、この街の風をイメージしてつくりました。ジンは松脂臭いと云われているので松からの連想と伝統、歴史を表しています。みかんを使えばもっとこの街らしいのでしょうが色合いや味を考えてグレープフルーツを使いました。まあ、グレープフルーツは当店のおすすめでもありますし。また茶道において茶釜が沸く音を松風と呼ぶそうなので、ソーダとトニック・ウォーターでシュワシュワッと。ライムは松の緑、最後に入れるGET(ジェット)27(グリーン・ペパーミント・リキュール)は松林を吹き抜ける爽やかな風を表現しています。綴りは違いますが、ジェット、噴射という言葉遊びも含んでいます。所謂、ご当地カクテルですね」

 と、カズさんは一気に言って、[松風]を一口飲んだ。

「ああ、爽やかですね。それと、俺の単車の名前が松風なので。まあ、これは戦国時代の傾奇者、前田慶次の馬に因んだんですが、単車で駈ける爽快感も表したカクテルです」

「三城は、この通り子供の頃から変わり者で、社会人になってからもフラフラして心配していたんですけど、今はちゃんと自分の店も持って落着いてくれたんで、やっと安心できました」

 カズさんの父親みたいな人だな。でも、こうやって心配してくれる友達がいるということは有り難いことだ。ひとりになった今、そのことが身に沁みて分かる。

 高砂さんは[松風]を飲み干すと去っていった。優しい雰囲気と笑顔が印象的だった。─父親。家庭を守るとは、どういうことなのだろうか。親とは家族とは何なのだろうか…。

 扉が開く。赤いジャンパーを着た背の高い男が入って来た。

「おお、チャリ、いらっしゃい。久し振りやなあ。先刻まで高砂がおったんぞ」

「そうか。[トラブルフィッシュ]おくれ」

 男は高砂が居た席の隣の席に座った。切れ長の目の下の白い頬が朱に染まっている。外は寒そうだ。

 〈流れ星シェイク〉

 [雪の妖精]と同じグラス。白色の底から瑠璃色がふわあっと湧き上がっている。爽やかな色合いのカクテル。

「きれいだ。これもカズさんのオリジナルカクテルなんですか?」

「そうです。米米クラブの歌からのイメージで創りました。二十年以上前のものです。米米クラブはご存知ですか?[浪漫飛行]が有名だと思いますが」

「ああ、その歌は知っています。もしかして[浪漫飛行]のカクテルもあるんですか?」

「あります。俺のオリジナルカクテルの第二号です」

 [浪漫飛行]を註文した。薄く雲が掛かった青空に浮かぶ黄色い飛行船をイメージしたというカクテルはレモンカルピスソーダのような味で甘酸っぱく飲み心地がよかった。

「今夜は組合の飲み会で出て来た。で、ついでだから寄った」

 男はぶっきらぼうにそう言った。

「彼は俺の友人でチャリ。本名は竹原なんですけど、子供の頃、自転車ばかり乗り回していたんで、この渾名がついたそうです。以前、ガラス職人だったので、この店の硝子は全てチャリが入れてくれたんですよ」

 僕は振り返り窓を見た。細かいカットの入った硝子が灯を照り返してキラキラと輝いている。

「オレは家業なんて継ぐ気はなかった。レーサーになるつもりだった。でも、長男でね。仕方なく継ぐことにして、大手のガラス屋に就職した。そりゃあ、仕事には誇りを持っていたし、やりがいもあった。でも、夢と現実の葛藤はあるもんさ。そんな気持ちを紛らわすように、昔はよくカズのとこに飲みに来てた」

 竹原は呟くようにそう言った。

「俺は好きな職業(しごと)を、やりたいことをやっています。有り難いことです」

「カズにはその代わり、継ぐ家もなけりゃ、家族もいない。どっちがいいかなんて分かりゃしない。でも正直、あの頃は自由なカズが羨ましかった。他人のことはよく見えるもんさ」

 人はそれぞれ境遇が違う。それをどう受け入れるか、ということだろう。僕の境遇、って何だろう?そんなこと考えてもみなかった。

現在(いま)は満足しとるんやろう?」

「勿論。忙しいけどな」

「現在は何をなさっているんですか?」

「単車屋さ。継ごうとした矢先に家業が潰れちまってね。まあ、人生、何があるやら分からねえ。毎日、好きな単車をいじれるのは楽しいけど、燃料電池化で忙しくってな」

「松風も調子がええわい。排気音が無いのが寂しいけど」

「音が出る装置もあるんぞ」

「ええわい。わざわざそんなん付けいでも」

「長いだ乗っとるよなあ。何年やったっけ?」

「今年で二十七年か。あいつには、ずうーっと一緒に旅をした愛着があるけんなあ。俺はあいつに一生乗るけん」

「今回、色々直したけん、まだまだ走れらい」

 好きな職業か…。みゆきや朝美とは違い、僕はどんな職業に就くのかなんて考えていなかった。大学を卒業したら適当なところに就職して、というくらい。そう適当。この言葉も『いい加減』と同じく『どうでもいい』の意味で用いられることが多い言葉だが本来は『ほどよく』といった意味なのだろう。僕の適当は『とりあえず一定の水準までやっておけばいい』という消極的な意味でのテキトーだろう。カタカナのテキトーがピッタリだ。テキトーな人生。今までだって落ちこぼれないようにテキトーにやってきた。何の為に?母さんを心配させない為にだ。では僕自身、何かやりたいことがあるのだろうか。こんな何もかもが確立されて権力と金を持った奴等が得する社会、資本主義とはよく名付けたものだ『資本を持っている奴等が得する主義』社会。こんな社会で資本も権力も持っていない僕に何がやれるというのだろうか、どんな夢が描けるというのだろうか…。

 ぽんっと僕の肩を叩いて竹原さんは帰って行った。他の客達も竹原さんに続くように店を出て行った。

「好きな職業ができるっていいですね」

「そうですね。仕事をしている時間というのは一日の殆どを占めていますからね。大きく言えば、一生をどう生きるか、ということになってくると思います。俺はこの職業に就けて有り難いな、とつくづく思いますね」

「でも、皆が皆、好きな職業に就けるわけじゃないでしょう?」

「うーん、どうですかね。俺は能天気ですから、皆、好きな職に就けばいいと思いますけど。俺は、バーテンダーは最高の職業だと思っていますが、皆がそう思っているわけじゃないでしょうし、職業は必要とされるからあるんであって、必要とされるからには、そこに必ずやりがいがあるんじゃないんですかね。暴論ですが、皆に好きな職を選ばせたら、案外バランスよく治まるんじゃないですかね」

 やりがい。やりがいって何だ?仕事は金を稼ぐ為にするものじゃないのか。だいたい、何で仕事なんてしなければならないのだろう。仕事なんてせずに遊んで暮せたら、それがいいに決まっている…。

 僕はそんな事を考えながら周りを見回した。客は誰も居なくなっていた。一時半。そろそろ閉店の時間か…。

「カズさん、締めに相応しいカクテルってありますか?」

「言葉遊びですが、XYZ。もう後はない。これでお仕舞い。転じて究極、という意味だといわれているカクテルがあります」

「それ、ください」

 今夜最後の流れ星。

 白色のショートカクテル。バランスの取れた甘酸っぱさがいい。量といい、味といい、締めにピッタリだ。XYZでお仕舞いか。洒落たことを思いつくもんだな。

「でも、本来は、XYZ、『何でしょう?』という意味だそうです。数学の問題なんかでXを求めよとかあるでしょう。内容を明かさずにカクテルを出してお客さんに内容を当ててもらう、そんな遊び心で付けられた名前だったんでしょう。長い年月の中で本来の意味が忘れられ変わってゆく、新しい意味づけがなされてゆく、どの分野にもあることなのでしょうが、面白いことですね」

「何でしょう?か。そういえば、昨日、城山で勝山さんというお爺さんに会ったんです」

「勝山さんに会われたんですか。面白い方でしょう」

「知っているんですか?」

「先週、いらっしゃいました。奥さんのみどりさんと」

「みどりさんて、あのドイツ人の?」

「そうです。結婚を機に改名したそうです。勝山さんが名付けたそうですが、

『勝山みどりなんて出来過ぎじゃのう』

と、仰っていました。みどりさんの瞳の色から名付けたそうです。みどりさんはこの国の文化に興味を持っていて留学していた時に勝山さんと出会われたそうです。語学も堪能でこの国の言葉は勿論、英、仏、伊、西、露、中など十カ国以上の言葉が喋れる才媛ですよ」

「へええ、それで通訳していたのか。でも、何でこの街に留学したんですかね」

「みどりさんの出身地がこの街の姉妹都市で交換留学生としていらっしゃったんですよ」

「何というか、縁ですねえ」

「勝山さんにこの国の歴史を学ぶうちに尊敬から愛情が芽生えたそうで、勝山さん曰く、

『夫婦というより師弟だ』

そうです。年齢差、国際結婚…、みどりさんも、色々、大変だったそうですが、今では勝山さんの娘さん達やお孫さん達とも仲が良くて、お孫さんの一人はドイツに留学していてみどりさんの家族や友達のお世話になっているそうです」

「娘さん達てことは…」

「早くに亡くなった前の奥さんとの間に娘さんが二人います。ですから娘さんより若い奥さんなんですよ、みどりさんは」

「そんな夫婦の形もあるんですね」

「勝山さんはこの国の歴史のみならず世界の歴史にも通じていますから、例えば鎌倉時代の同時期にヨーロッパではこうだった、とか中国はああだった、といように同時代の世界の社会体制や経済、宗教、文化、風俗などを分かりやすく説明してくれるんです。先週も、『やっと応仁の乱まで来たわい』って、

みどりさんに室町時代のことを説明していました。みどりさんは西洋文化の視点で質問を投げかけますから、勝山さんにはそれが新鮮で面白いのでしょう。

『儂ら夫婦にとっては学問がSEXじゃ。お互いが学び合うことが交歓なんじゃ』

と、仰っていました。昼は城山でこの街の歴史を説明して、夕方は[お城下]にある寺子屋[松風舎(しょうふうしゃ)]で歴史の授業をしています。授業といっても今時のことですから生徒達が各自のテーマに沿ってパソコン等で研究する手助けをしたり、違う視点を提示したりして論文を書かせて、その論文をもとに皆で討論する、という形式です。独学は偏向しがちですが皆で討論することによって見方、考え方に幅ができるわけです。

『儂の学問はみどりや娘、孫達、生徒達が受け継いでくれるから安心じゃ。いつ逝ってもええんじゃが、生きられるだけ生きようと思う。生涯、学習したいのう』

とも嬉しそうに仰っていましたよ」

「学問か…。そうそう、それでですね、勝山さんから〝和〟について考えてみなさい、と言われたんです。でも、よく分からなくて」

「『道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず』ですね。これは老子の言葉ですが、他人(ひと)に自分の会得したことを伝えるのは難しいものです。その人が自分自身で考えて会得してもらうしかないのでしょう。大戸さんは、まだ?考える?ということに慣れてないように感じたから勝山さんは考える〝きっかけ〟、考えるヒントを与えてくれたんだと思います」

「考えるヒント…」

 確かに、カズさんや勝山さんに出会ってから物事や言葉の由来や意味を考えるようになった気がする。

「俺は勝山さんみたいに悟れていないので、余計なことかもしれませんが、俺が思う〝和〟についてならお話しできますが」

「是非、お願いします」

「俺は〝和〟を音楽のバンドやオーケストラ、そしてカクテルに(なぞら)えて捉えています。バンドにはギター、ドラム、ベース…等様々な楽器が集まり楽曲を演奏します。一つ一つの楽器に個性があり、単独でも演奏できます。個性ある楽器が集まり独自の能力を発揮することによって単独では奏でられない豊かなハーモニーが表現できます。能力を発揮といってもドラムを力任せに打ち鳴らしたり、ギターが旋律を無視して暴走したりしたのではハーモニーは生まれません。オーケストラでは単独の演奏には向かない楽器や、あるパートだけにしか出番のない楽器もあります。でもその楽器がないと豊かなハーモニーを表現することはできません。

 カクテルは数種の個性ある材料を調合してつくります。このXYZもラム、コアントロー、レモン、という異なった個性を持つ材料でつくります。ラムはアルコール度数が高く淡白な味、というのが長所であり短所でもあります。アルコール度数が高い、の長所はキックが効いている、短所はキツさを感じる。淡白な味、の長所はあっさりしている、短所は味気ない、素っ気ない。コアントローも甘いというのが長所であり短所でもある。レモンも酸っぱいというのが長所短所です。長所短所ある個性を持った材料を調合することによって、材料同士が長所を引き立て、短所を補い、単体では表現できない一つの調和の取れた豊かな味わい、味のハーモニーを生みだすことができます。XYZは白色ですが色彩についても同じことがいえるでしょう。

 これは人間社会に通じることだと思います。沢山の楽器が集まった楽団がそれぞれの個性、能力を発揮することによって豊かなハーモニーを奏でるように、異なった個性を持つ材料を調合して、お互いの長所を引き立て、短所を補って一つの調和の取れた美味しいカクテルがつくれるように、沢山の人が集まった集団がそれぞれの個性、能力を発揮して、長所を引き立て、短所を補って豊かな調和の取れた社会をつくる、これが〝和〟だと俺は思っています。個性は千差万別、多種多様です。より多くの個性を取り入れて、それを発揮させられる、活かせられる、長所を引き立て合い短所を補い合える体制をつくることができれば、より豊かな社会、大いなる〝和〟の社会が実現できるでしょう」

「………」

 カズさんの言っていることは分かる。分かるのだが何と応えていいのか分からない。僕は絶句してしまった。大いなる和、大和(やまと)か…。

「まあ、これは俺の意見ですからね。あくまで参考にしてください。勝山さんが、

『自分で考えてみなさい』

と、仰っていたのは、答らしきものを知ると思考が固定してしまう、考えることを止めてしまうのを危惧したからだと思います。それに大切なのは勝山さんや俺の意見を知ることじゃなくて、大戸さん自身が考え続け、工夫し続けて?和?を会得することですからね。

 俺は、調和とは、固着固定せず変化し続ける、考え続け工夫し続けることなんじゃないかなあ、とも思っています。だって、そうでしょう?大袈裟に云えば、宇宙は刻々と変化していて、我々も世界も変化し続けている。変化を止めて固定してしまったら、即興もアレンジもオリジナルカクテルも生まれてこない。固定化された社会なんて面白くもなんともないんじゃあないでしょうか。

 安定、調和、と、云うと固定された感じがしがちですが、独楽や自転車、やじろべえのように回転し動き揺らぐことで安定することもあるかと思います。勿論、独楽もやじろべえも足場がしっかりしていないと立ちません。これは心理学でいうところの、

『自我とその支え』―まあ、この〝支え〟は価値観、物語、幻想と云ってもいいと思いますが、その関係に似ていると思います。問題は、軸足、車輪の接点、足場に何を持ってくるかです。親子関係なのか地域社会なのか主義思想なのか科学哲学宗教なのか国なのか世界なのか宇宙なのか…。俺は〝存在〟を足場にすれば楽かなあと思っています。大きなモノを足場にしていると心地好いですよ。

と、ゆーことで、今日はこの辺までにしておきましょう。だいたい、俺は話し出すと長いですから」

「あっ、すみません、閉店時間過ぎちゃいましたね」

「それは構いません。二時までというのは一応の目安ですからね。と、ゆーか、大戸さん、ラーメン食べに行きませんか?」

「えっ、あ、いいですね、行きましょう!」

 カズさんはカウンターの上をさっと片付けると、ネクタイを緩め、黒革のハーフコートを羽織り、店の灯を落とした。カウンターの内から出て来たカズさんは急に大きくなったように感じた。カウンター内の床は低くしてあるのだろう。

 外へ出る。空気が冷たい、が、心地いい。

 カズさんは並ぶと僕と同じくらいの背丈だった。

 ラーメン屋はすぐ近くの通りにあった。

 赤提灯に赤暖簾。暖簾には[味酒]とある。

「あじさけ、か。美味しそうな名前ですね」

「大戸さん、これは、みさけ、と読むんですよ」

 カズさんはそう言って暖簾を上げ、戸を開けた。

「いらっしゃい!」

 威勢のいい声が響く。白髪混じりの角刈りの頭に白い捩じり鉢巻、藍色の作務衣を纏ったがっしりとした体格の店主。顔も角いが体も角い。『角さん』といった感じだ。

 一枚板だろうか、分厚いカウンターのみの、屋台を屋根と壁で覆ったようなつくりの店だ。

「大将、今晩は」

「一矢君、お疲れさん!」

 註文はラーメン二つに壜ビール。カズさんは僕のグラスにビールを注ぐと自分のグラスにもさっさとビールを注いでしまった。

「カズさん、手酌はチョンボですよ」

「大戸さんは、武志みたいなことを言う」

「乾杯!」

 ふたり共、一気に飲み干した。冷たいビールが喉を潤す。僕はすかさずカズさんのグラスを満たした。カズさんも注ぎ返してくれる。

 湯気を立ててラーメンがやって来た。あつあつの汁を啜り、麺を手繰る。魚の出汁がきいた醤油味のスープ、しこつるの細麺。

「美味いや」

「ありがとうっ!」

 大将が、にっかり、という感じで笑う。

「かーくん、いらっしゃい」

 と、カズさんに声を掛けながら厨房の奥から女の人が出て来た。結い髪のややふっくらとした優しげな顔立ち。白い肌と小柄な体に茜色の着物と白い割烹着がよく似合っている。

「おー、お三津。寝よったんか?」

「う〜ん。ちょっと、うとうとしよった」

「お三津は大将の奥さんで、俺の幼なじみです。小学校の六年間、ずっと一緒のクラスだったんですよ」

「大戸です。はじめまして」

「三津です。いらっしゃい」

 お三津さんの笑顔。八重歯の可愛い、少女がそのまま大人になったような愛らしい女性(ひと)だ。

「じゃ、武志さんとも?」

「武志君が転校したけん、クラスで一緒やったんは短かったけど、武志君のことはよう覚えとる。目立つ子やったもんねえ」

「カズさんはどうだったんですか?武志さんは変わっていたって…」

「変な子やったんよう。今も変やけど。休み時間になると教壇に立って[ジュリー]を歌いよった。目立ちたがりでサルみたいに騒がしい子やった」

「ジュリー、って何ですか?」

「ええっ、沢田研二を知らんのお?」

「お三津、大戸さんは二十歳なんやけん」

「ほうか、…それなら知らんか」

 カズさんは大将とお三津さんにビールを振舞うと、

『東京から来ている友達だ』

と、僕のことを紹介してくれた。

「お三津、おでんくれ。じゃこ天とスジと大根、あと適当に二つずつ。あと温燗も」

 カズさんはラーメンの器を返しながら註文した。ラーメンは汁まできれいに平らげられていた。僕も負けじとラーメンを啜り込んだ。

「二十歳かあ、いいなあ。あたしはすっかり、おばさんになっちゃった」

 お三津さんはそう言いながら、徳利を傾け僕の猪口に酌をしてくれた。日本酒を飲むなんて初めてかもしれない。僕はおそるおそる猪口に口をつけた。ん?結構イケるかも。

「多分、初めて飲んだんですけど、日本酒って美味しいんですね」

「そうでしょう。俺も若い頃は敬遠していたんですけど、この歳頃になって、やっと旨く呑めるようになってきました」

「カズさんは五十一歳なんですよね」

「そうです。今年で五十二歳ですよ」

「失礼なんですが、初めて会った時、もっと若いのかと思いました」

「まあ、苦労知らずで、のほほんとしてるからでしょうね」

「本当よねえ。髪はだいぶん薄くなったけど、かーくんは齢をとらん。羨ましいわあ」

「お三津こそ、そう変わってないやん」

「そうですよ、若く見えますよ」

「あら、ふたりして上手いこと言っちゃって。これ、サービスね」

 お三津さんはそう言って、菜箸で蛸を摘まむと器に入れた。おでんにはたっぷりと芥子味噌が添えられている。僕はこの芥子味噌が好物だった。母さんのおでんには必ず芥子味噌が添えられていた。蛸に芥子味噌をつけて頬張る。

「うまい!」

「ありがとうっ」

 お三津さんが軽く首を傾けて微笑む。

「ここは、ラーメンは大将、おでんはお三津、と持ち場が決まっているんです」

「そうそう、大将はあたしが口を出すと、すぐ怒るんだから」

「それは三津も一緒やろうが」

「こうやって言っていますが、お互いにちゃんと意見を取り入れている。だからラーメンもおでんも美味しいし、お客さんにも長く愛され続けているんです」

「そう言われると身も蓋も無いなあ」

 大将が頭を掻きながら笑った。

 夫婦分業か。カズさんの〝和〟の説明にも通じることだ。集団の最小単位はふたりということか。一対一の関係に、すでに〝和〟があるんだな。

「どれくらいなさっているんですか?」

「今年で二十二年。あたしが三十歳の時からやけん」

「凄いや。僕が一歳の頃からあるんですねえ」

「うちの息子も今年で二十歳。この店も息子も大将とふたりで育てたって感じかなあ」

「よう頑張ったもんなあ。お三津は偉いわ」

「あたしなんか全然。大将のお陰やけん」

「Koolは何年ですか?」

「移転はしましたが、今年の八月八日で六年です。母の古希の誕生日に開店したんですよ」

「Koolの由来って何なんですか?」

「心の師匠との関係が深いんですが、これは話せば長くなるので。まっ、爽やかでありたい、と。俺はそそっかしいし、すぐムキになるところがあって、とてもクールという柄じゃないんですけど。云わば、願望ですね、クールになりたいという。それにKは俺のイニシャルですし。大戸さん、煙草吸ってもいいですか?」

「どうぞ」

 カズさんは懐からKOOLを出すと、ジッポで火を点けた。沢山の擦り傷がある使い込まれた銀色のジッポ。

「カズさん、煙草吸うんですね」

「ええ。仕事中は吸いませんけどね。大戸さん、如何ですか?」

「いただきます」

 KOOLを一本摘まみ取った。カズさんがジッポの火を差し出してくれる。メンソールか…。煙草を吸うのは久し振りだった。母さんはヴァージニアスリムを吸っていた。時折、僕も御相伴に預かったが自分で買ってまで吸おうとは思わなかった。

「煙草を、KOOLを吸い出したのは、自分の店の名前をKoolと決めて随分経ってからでした。三十歳からかな。旅をしている時にスペインのバルセロナで友達ができたんです。名前はアンヘル、天使のANGEL(エンジェル)と綴ってそう発音します。そのアンヘルがすすめてくれたのがきっかけでした。当時、結構、向こうじゃ煙草は高価だったんですが、それを惜しげもなくすすめてくれたのが嬉しくて。アンヘルは根元まで吸うんですよ、こう愛しそうに。アンヘルの煙草はKOOLじゃなかったんですが、どうせ吸うなら将来の自分の店と同じ名前のがいいや、と思って。まあ、験担ぎみたいなものです」

 カズさんは目を細めながらKOOLを吸った。

「KOOL、てどんな意味なんですかね」

「COOLのもじりなんでしょうけどね。オランダの食堂でメニューの中にKoolの文字を見つけたんです。それで店の人に意味を訊くと、キャベツのことでした。だからオランダ人が見たら、

『おい、バー・キャベツがあるぜ』

と、言われちゃうわけです」

「キャベツか。何かちょっと間抜けですね」

「そう。ちょっとねえ。一応、KOOLの公式見解によると、

[Keep Only One Love]、一途な愛、の頭文字を取ったそうです」

「一途な愛…」

「KOOLを一途に愛してください、と、いうことなんでしょう」

「成程。御愛顧ください的な感じですね」

「でも、こんな解釈もあるそうです。

[Kiss Only One Lady]の頭文字を取ったって。これは高砂が教えてくれました。これらの方がキャベツよりずっとマシですよね。

唯ひとりの女性…恋人に捧げる接吻(くちづけ)。この言葉を聞いた時、思いました。カクテルも〝くちづける〟ものだなあ、と。

唯ひとりの、一途に愛する女性(ひと)へ捧げるキスのように愛情を込めて大切に一杯のカクテルを作ってゆこうと思いました」

 キス。ふっと友子の口唇が思い浮かんだ。…桜色の口唇。どうして、こう友子のことばかり考えてしまうんだろう。カズさんのものなのに…。

 僕は酒をぐっと呷った。

 大将が一升瓶から皿に載せたコップへ酒をなみなみと注いで僕達に出してくれた。

「これは、わしの奢りです。はるばる東京から来てくれたんやけん、地元の旨い酒をたっぷり飲んでいって」

 どんっと置かれた一升瓶。和紙の貼紙には[伊豫の媛]とあり、大きく純米と記されてあった。

「大将、ありがとうございます」

 僕は素直に大将の好意をいただいた。ほのかに甘みのある後口がすっきりとした旨い酒だ。遠慮や恐縮なんていらないんだ。そっちの方が失礼になる。好意は感謝して気持よく戴く、それが一番の礼儀なんだろう。

「うまい、です」

 僕の言葉に大将とお三津さんは微笑み頷いた。

「やっぱり、大戸さんは福の神だ」

 それから僕とカズさんは大将とお三津さんと共に、楽しく、したたかに飲んだ。そして客が入り出したのを潮にコップの酒を飲み干し、席を立った。

「俺が誘いましたから」

 と、勘定はカズさんが支払ってくれた。

 お三津さんと大将の笑顔に見送られて外へ出る。火照った頬に冷たい夜風が気持いい。

「カズさん、御馳走様でした」

「デ・ナーダ」

「なんですかあ、そりゃあ」

「これは、スペイン語で、〝何でもない、どういたしまして〟という意味の言葉れすよ。スペインで、『グラシアス』と、お礼を言うと、『デ・ナーダ』と、言葉が返ってくる。何でもないことなんれすが嬉しかったれすね」

 真っ赤な顔をして滑舌が怪しくなったカズさんと並んで、ふらふらとコリドー広場まで戻ってきた。ライトアップされた噴水がまるでステージのように輝いている。

「ふふふふふっ…」

「どうしたんれすか?大戸さん」

「カズさん、先刻のジュリー、歌って下さいよう」

「嫌れすよ、そんな」

「折角、ステージもあるんですから。後学の為にも、是非聴かせて下さい」

「うーん。じゃあ、ちょっとだけれすよ」

 ひらり、と、カズさんが噴水の縁へ跳び上がる。

 カズさんの[酒場でDABADA]が夜の街に響き渡った。

 ワンマンショーで。





































この度、こちらのサイトにて「いつか見た夕焼け」を掲載させて戴きました。

文字数の関係で三部に分けて掲載しております。

ご不自由をお掛けいたしまして申し訳ございません。

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