9・半月のクルヴェット
半月に照らされたコキヤージュの都で、白い建物の屋根を走る人影があった。
平たい屋根から丸みを帯びた青い屋根へ、人影は跳び移る。
「……ひゃー」
体勢を崩して、コライユは青い屋根につかまった。
危険な状況だったのに、ほころぶ口元を抑えられない。
心臓はドキドキしているけれど、それが体調不良にはつながらなかった。
コライユは月の女神の加護を受けているのだ。
昼間の神殿でブーの身元が証明されたので、今夜は能力のお試しに来た。
体は軽く、手足も自在に動く。どんなに飛び跳ねても、喉が鳴り出すこともない。
普通の元気な少女のように、いや、普通の少女よりはるかに優れた身体能力が与えられていた。
平屋なら、軽く地面を蹴るだけで屋根に飛び乗れる。
一階の屋根から二階の屋根へ、隣の家へも飛び移れた。
(鳥になったみたい。あ、でも……)
力を与えてくれたブーは、夢の中でしか飛べない。
コライユと月の女神をつなぐことはできるのに、元聖女の小鳥に加護はないのだ。
(伝説に出てくる聖女さまのお力には、傷を癒すというのもあったけれど)
小鳥の片足も治すことができたらいいのに。
家に戻ったら試してみようと思いつつ、コライユはコキヤージュの都を見下ろした。
背後には月光を浴びた王宮と神殿、眼前には波立つ海。
船乗り相手の酒場で賑わう、港に面した大通り。店から漏れる明かりが道の石畳を照らす。
どこからか旋律や歌声が聞こえてきた。
十年前の聖女祭を思い出して、なんだか胸がいっぱいになる。
あふれてきた涙を手の甲で拭った。今夜は我慢せずに泣いても喉は鳴り出さない。
「けど……」
風に吹かれながら、ひとりごちる。
「明日になったら、やっぱり反動がありそうな気がするわ」
月の女神の聖なる力だからこそ、使った代償は必要だろう。
悪に由来する力なら、他者に代償を押しつけてしまうかもしれないが。
(問題は、その反動がどれくらいかよね)
ブーの依頼を引き受けるかどうかは、反動の大きさ次第だ。
反動が大きすぎたら、引き受けても果たせない。
なにしろ彼女の願いは、聖騎士たちすべてを叩きのめすことだ。
コライユは、月光を受けて光を返す波を見つめた。
聖騎士の剣にはめ込まれた宝石で輝く、十字の光が重なる。
──私たちの封印は、完全なものではなかったのです。
夢の中でブー、最後の聖女エグ・マリンは言った。
不完全な封印は、百年の歳月の末に解けかかっている。
蠢き始めた怪物が邪気で聖騎士たちを呪っているという。
一番顕著なのはジョーヌ家だ。
当主の妻は跡取りを産んでしばらくすると眠りに就く。そして、二度と目覚めない。
数代前から始まったこの『呪い』は、同じ聖騎士にも秘密にされていた。
当然だ。聖女の封印が不完全だと知られたら、クルール中が恐怖に怯える。
聖騎士が何度倒しても、怪物は海神の力で蘇る。封印できるのは聖女だけだ。
(フェールの調査で裏づけは取れたけど)
寝台で過ごすことの多いコライユは、戦闘訓練なんてしたことがない。
日々鍛錬を重ねる聖騎士たちを叩きのめすなんて、どうすればできるのか。
彼らを倒して絶望させなければ、怪物の封印を解いてかけ直すことはできない。
「ま、いいか」
考えても仕方のないことは、極力考えないのがコライユの流儀だ。
今の状態で解決策がないのなら、べつのところから引っ張ってくる必要がある。
ひとつのことに囚われたままでは、ものごとは進まない。
体調を崩して寝込んでいるときに学んだことだ。動けないときに無理をしたら悪化する。
「それに……」
コライユは眼下の港を見回した。
こうして動き回れるのは、今夜が最初で最後かもしれない。
だったら、これまでずっと夢見てもできなかったことをしてみよう。
石畳の道に飛び降りる。
夜の闇に溶けていた黒猫が驚いて、にゃっと叫んで路地に飛び込んだ。
ごめんねと微笑んで、波止場に並ぶ船を見回す。
「うちの船は警備が厳しいから無理よね。どこかに警備の緩い船はないかしら」
コライユは船に乗りたかった。
幼いころ碇を降ろした船に乗ったときは、揺れによって吐き、日射病で熱を出して寝込んだ。
以来、港に来ることはあっても船に乗ったことはない。
両親もフェールも許してくれないのだ。
(本当は帆を膨らませる風も感じてみたいけれど)
そこまで望むのはワガママだと、コライユはわかっている。
(人さまの船を勝手に動かすわけにはいかないものね)
思いながら、忍び込めそうな船を物色した。
異国の果実が流行して景気がいいせいか、どの船もちゃんと見張りを置いている。
「むー……」
唸ったコライユの鼻に、艶やかな香りが忍び込んできた。
「……あれ?」
振り向くと、狭い路地の中に彼がいた。
ジョーヌ家の聖騎士アンブル。倉庫で会ったときと同じ、女性の格好をしている。
長髪のカツラをつけた上で、薄布を頭からかぶっていた。
向こうはこちらに気づいていない。気づいたとしてもコライユだとはわからないはずだ。
コライユは、ダイダイ水売りの少年に買ってこさせた船乗りの格好をしている。
薄紅の髪も結って、頭に巻いた布に押し込んでいた。
「はい、今夜はこれでおしまい。僕は大事な用事があるんだ」
中腰の姿勢で、コライユが驚かせた黒猫を撫でていた彼が立ち上がる。
コライユは建物の影に隠れた。
足音が遠ざかっていく。
船を見て、建物越しに足音の方向を見て、コライユは地面を蹴った。
(わたしが聖騎士さまたちをぶちのめせなくても、情報を集めておけばブーが助かるわよね)
元聖女に恩を売っておけば、商売の役に立つかもしれない。
近くの建物の屋根に飛び乗ると、銀の月光に溶けていた白猫が、にゃっと叫んで飛び降りた。
表通りから一歩入った路地には明かりがない。
細い道は暗く、静かで闇に包まれている。
どの家や店も眠りについているか、窓のよろい戸を閉じているかで真っ暗だ。
半月の輝きを頼りにして、コライユはアンブルの背中を追った。
ときどき振り向く彼は、追跡者が頭上にいるとは気づいていない。
いくつか角を曲がって汚れた通りに出る。
(裏通りの……良くない地域ね)
来たことはないけれど情報は持っていた。
通りを一本入るだけで、好景気に沸く都は闇に沈む。
そこからまた、路地に入る。
女装した聖騎士は突き当りにある、薄汚れた酒場に入っていった。
この辺りは治安が悪い。建物の陰に潜んでいるのは酔っ払いを獲物にする強盗か。
コライユは頭の布を外し、結っていた髪をほどいた。
後ろの髪を前に落として顔を隠してから、もう一度布を巻く。
細い髪なので、案外視界は開けている。
「いいわ。一度くらい酒場も覗いてみたかったもの」
船に乗るのを諦めて、コライユは来た屋根を引き返した。
離れてから地面に降りて酒場へ戻り、扉を開ける。饐えた匂いが体を包んだ。
酒と食べ物、酔っ払いの嘔吐、汚れた建物の匂いが混じり合っている。
戸口の横の卓で、絵札賭博が開催されていた。勝った負けたと騒々しい。
アンブルはそこに座り、絵札を手にして微笑んでいる。
「……お客さん」
足音もなく近寄ってきた給仕が、低い声で言う。
筋肉の盛り上がった四角い体の持ち主だ。用心棒も兼ねているのだろう。
「どなたのご紹介ですか?」
クルールでは賭博は禁じられていない。港に面した表通りの酒場でも行なわれている。しかしこの店には、盗品を売買しているとか殺人を請け負っているとかの、良からぬ噂も流れていた。
コライユは作り声で答える。
「この店の客全部」
「はあ?」
コメカミに血管を浮かび上がらせて威嚇してくる給仕に向けて、親指に載せた金貨を人指し指で弾く。
それからコライユは両手を広げて、店内を見回した。
「今夜は俺の驕りだ。好きなだけ飲み食いしな」
歓声が上がる。
コライユは早速追加注文を始めた酔っ払いたちに尋ねた。
「俺の名は……クルヴェット。クルヴェットはあんたたちのなんだ?」
酔っ払いたちが声を揃える。
「クルヴェットは俺らのダチ!」
「ってこった。文句はねぇだろ?」
「金貨一枚じゃ足りません。うちは高級な店なんでね」
コライユは口笛を吹いた。
「イカすねぇ。んじゃ追加だ。お前は運がいい。俺はダイダイでぼろ儲けして気分がいいんだ。そうじゃなきゃ、ここが高級な店だなんて冗談にゃ笑ってやんねぇぞ」
多少銀貨も混ぜて、金貨の固まりを給仕に渡す。
さらりと口にした『ダイダイ』という言葉に反応したのはふたりだけだ。
ほかの人間は、ディアモンと同じようにアマダイダイと混同しているに違いない。
奥の店主が頷いて、給仕はコライユを客として認めた。
「悪かったな、にいちゃん。確かにここは高級な店だ。こんな淑女さまがいらっしゃる」
反応したふたりのうちのひとり、女装したアンブルの隣の席に無理矢理腰かける。
彼の逆側の椅子には、反応したもうひとりの男が座っていた。